2017年7月7日、国連は1945年10月発足以来72年目にして初めて核兵器のない世界を目指す核兵器禁止条約を採択しました。
呼応するように、10月6日、核兵器廃絶を訴え続けてきたICAN(International Canpaign to Abolish Nuclear Wepons 核兵器廃絶国際キャンペーン:101カ国468団体)にノーベル平和賞授賞が発表されました。
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それから2カ月、核保有大国の5カ国はノーベル平和賞授賞式への大使欠席を表明しました。核兵器禁止条約の交渉会議欠席と軌を一にしました。
核保有国は、なぜ、核兵器のない世界におびえるのか?
無差別大量殺戮のうえ、被害は広がり、生き残った人々の命を奪い続ける。これを反人間、非人道と言わずしてなんという。
地球から核兵器をなくしましょう。
全世界の人々は核兵器におびえることなく生きることを望んでいます。核保有国が無差別殺戮兵器に固執しても私たちは核兵器のない世界を求めます。
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「あきらめるな!(がれきを)押し続けろ!動き続けろ!光が見えるだろう?そこに向かってはって行け」。広島で被爆し建物の下敷きになったサーロー節子さん。耳にした言葉に従い這い出て一命をとりとめました。
「核の恐怖の闇夜からお互いを救い出しましょう。どのような障害に直面しようとも、私たちは動き続け、前に進み続け、この光を分かち合い続けます。この光は、この一つの尊い世界が生き続けるための私たちの情熱であり、誓いなのです」(受賞スピーチから)
![]() ノーベル平和賞受賞スピーチをするICANの ベアトリス・フィン事務局長(左)と カナダ在住の被爆者サーロー節子さん(右) |
![]() アンデルセン平和賞委員会委員長、サーローさん、フィンさん |
![]() ノーベル平和賞授賞式(2017.12.10ノルウェー・オスロ) <この記事の写真=Yahoo!ニュース個人 鐙麻樹(Asaki abumi)> |
オスロでの田中代表委員(左)と藤森事務局次長(中央)
ノーベル平和賞授賞式は12月10日午後1時からノルウェーの首都オスロの市庁舎の大きな会場で開かれました。
ICANにノーベル平和賞を授賞する理由を述べたノーベル委員会委員長のペトリ・レイス∥アンデルセンさん。淡々と落ち着いた声で、語りつづけました。核兵器禁止条約ができあがる経過、促進に力を注いだICANの努力。語りの節々で、会場から強い共感の拍手が湧きました。
ICAN事務局長ベアトリス・フィンさん。未来に向かう道について「私は本日、核戦争の恐ろしさを証言することを自らの人生の目的としてきたサーロー節子さんと共に、この壇上に立っていることを光栄に感じています。彼女ら被爆者たちは、この核兵器の物語の始まりを経験しました。私たち皆に課せられた課題は、被爆者がこの物語の終わりも、その目で見ることができるようにすることです。被爆者は、自らの悲痛な過去を何度も思い出してきました。それによって私たちがよりよい未来を作り出すことができるようにするためにです」。何度も大きな拍手が起きました。
最後に登壇した13歳広島で被爆したサーロー節子さん。命を落とすかもしれなかった事態を乗り越え、核兵器廃絶を訴え続けてきました。
「私たち被爆者は、苦しみと、生き残るための、そして灰の中から生き返るための真の闘いを通じて、この世に終わりをもたらす核兵器について世界に警告しなければならないと信じてきました。繰り返し、私たちは証言してきました」
3人の女性の言葉は、不動の力で核兵器のない世界を作り出す確信を伝えています。
(発言者の和訳文は朝日新聞から)
13歳の時、長崎の爆心地から3・2キロ余りの自宅で被爆しました。
原爆は何の予告もなく爆発。突然真っ白な光に包まれ、私は気を失いました。爆風で飛んできた硝子戸の下敷きになったこと全く記憶にありません。
広島と長崎に投下した原爆は2つの街を一瞬のうちに壊滅し、数十万人の命を奪い、数十万の人々を傷つけ、放射線障害で一生苦しめ続けています。核兵器は残忍な悪魔の道具です。
核兵器の非人道性について2013年3月オスロで開かれた「核兵器の非人道性に関する国際会議」以来、メキシコ、オーストリアの会議で、核兵器は、廃絶すべき絶対悪の兵器であることを明らかにしました。これまで核兵器の非人道に着目した国際的軍縮議論はほとんどされてきませんでした。
被爆者は連合国占領下の7年間、被害を語ることを禁じられました。1954年米国のビキニ水爆実験被害を受け、放射能の恐ろしさを知った日本の原水爆禁止運動に励まされ、56年に全国から被爆者が集まり日本被団協を結成。結成宣言で「自らを救うとともに、自らの体験を通して人類の危機を救う」と決意を表明しました。
被爆者は証言を通して、核兵器の速やかな廃絶を世界に訴えてきました。80年代ヨーロッパが核戦争の危機に直面し、多くの被爆者が呼ばれ証言しました。ソ連の崩壊で危機は去りましたが核の危機はなくなっていません。
日本被団協は二つの運動に取り組んできました。一つは戦争の結果生じた原爆被害への国の責任補償。もう一つは核兵器の速やかな廃絶です。
健康と生活への施策はそれなりに充実させてきました。核兵器廃絶では、米国の傘に依存する日本政府の対応が障害となっていますが、国連での原爆展や会議に代表を送り、被爆について証言し、訴え続けてきました。
07年ICANが発足、核兵器の非人道性に的を絞り、核兵器禁止条約の制定を求める国際的運動が拡がりました。日本ではピースボートや共同代表の川崎氏がICANを通して、多くの被爆者を世界の広範囲な国々、都市へ送り出し証言活動を展開しました。日本被団協はICANと連帯し原爆被害の非人道的な実相を世界に広めることで運動に大きく貢献してきました。
16年国連総会の決議にもとづき核兵器禁止条約交渉会議を開き、7月7日122カ国の賛同で核兵器禁止条約を採択しました。これらの会議にICANは大きな役割を果たしました。
日本被団協は昨年4月サーロー節子さんやメキシコの山下さん、韓国やブラジル、北米原爆被害者の会会長の連名で「核兵器を禁止し廃絶する条約を結ぶことをすべての国に求めます」との訴えを世界に発し、数億の「ヒバクシャ国際署名」に取り組んでいます。
ノルウェー・ノーベル委員会は核兵器禁止条約採択に大きく貢献したICANに平和賞授与を決定しました。原爆被害者だけでなく核実験など全ての核被害者の後押しが運動の力を生み出したとしています。平和賞はICANとともに運動してきた核兵器被害者全てに与えるものとして歓迎します。
核保有国と同盟国は、国の安全保障を理由に核兵器禁止や廃絶に反対しています。国の政策を変えるのは国民です。高齢化した被爆者はやがていなくなります。若い世代が、被爆者の心と魂を引き継がれることを希望します。
日本被団協、原爆症認定集団訴訟原告団、同弁護団と厚生労働大臣との第6回定期協議が12月4日、厚労省省議室で開かれました。被爆者など約70人が傍聴席を埋めました(写真)。
加藤勝信大臣は冒頭の発言で、日本被団協が、ノーベル平和賞を授賞する核兵器廃絶国際キャンペーンの活動に貢献し授賞式に代表2人が出席すると伺っているとし、「皆さん方の真摯な取り組みに改めて敬意を表したい」のべました。
田中熙巳代表委員は、集団訴訟終結にあたって原爆症について裁判で争わないで済むように定期協議の開催を確認したが、いまだに裁判が続いており、実りある協議を期待するとのべました。7月に国連で核兵器禁止条約が採択されたが、日本政府が条約に反対し署名も批准もしないとしていることを大変残念とのべ、健康と命に係わる行政の長である厚労大臣がこの条約を真摯に受け止め、政府の方針転換への尽力を求めました。
協議では、大岩孝平代表理事、久保山栄典埼玉県原爆被害者協議会副会長が、それぞれ自らの被爆の凄惨な体験をのべ、日本政府が核兵器廃絶の先頭に立つことと、裁判で争う必要のない制度の構築を求めました。
宮原哲朗全国弁護団連絡会事務局長が、「被爆者問題に関する統一要求書」の内容を説明。加藤大臣は各項目にわたって回答し、その中で原爆症認定制度の在り方に関する検討会で見直した「新しい審査の方針」に基づき認定審査を行っていると述べました。また行政認定は全体を見ながら判断し、裁判は、個別の事情に基づき判断するとして、両者の考え方、視点の違いを強調しました。
意見交換の中で被団協側が出した被爆二世検診や医療特別手当の健康状況届けなどへの要望については、調査して検討すると回答しました。
12月6日、ノーモア・ヒバクシャ訴訟全国原告団・弁護団は、11月28日の広島地裁判決(12人全員敗訴)を受けた厚生労働省への要請行動を行ないました。この行動には広島から原告と弁護団・支援者12人が上京。長崎、東京、神奈川、千葉の被爆者と被爆二世、原告、弁護団、支援者67人が2時間、厚労省前に座りこみました。
広島と長崎からの参加者と日本被団協の木戸季市事務局長、全国原告団の山本英典団長などは、弁護団とともに厚労省内に入り、清水彰被爆者援護対策室室長補佐らに要請。日本被団協と首相が交わした「確認書」に明記された「厚生労働大臣・被団協・原告団・弁護団は、定期協議の場を設け、今後、訴訟の場で争う必要のないよう、(中略)解決を図る」にそった制度の改善を求めました。しかし、厚労省側は、従来通りの「聞き置く」「上司に伝える」の回答をくり返しました。
厚労省前では寒風の中で一人ひとりがマイクを持ち「生活習慣や高齢を理由に全員を敗訴させたことは許せない」など広島判決への抗議や被爆体験、平和への願いを訴えました。(村田未知子)
11月21~22日、四国ブロック相談事業講習会が香川県高松市で開催され、24人が参加しました。
初日は、藤森俊希日本被団協事務局次長と原玲子中央相談所相談員(写真)から「『核兵器禁止条約』とその後」「被爆者と介護保険」の二つの講義がありました。
藤森さんの講義は、核兵器禁止条約採択に至った国際世論の流れと被爆者が果たした役割について分かり易く解説。ヒバクシャ国際署名の大量の積み上げで、日本政府の姿勢を転換させようと呼びかけました。
原さんは、諸手当などの被爆者援護制度の活用を訴えるとともに、とりわけ介護手当については制度の存在自体をもっと広く知らせる重要性を強調しました。また、近年相談件数が増加している認知症や介護保険制度について、個別の事例をあげながら説明しました。
二日目は、松浦秀人代表理事が「ある原爆乙女の生涯」と題して、永住ビザを得たカナダでたった一人被爆体験を語り続けた女性の一生を紹介しました。その後、各県の活動の報告と経験交流を行ない、参加者は「次年度の道後温泉での再会」を誓って閉会しました。 (松浦秀人)
11月26~27日、宮崎市で第40回九州ブロック被爆者相談事業講習会が、被爆者、被爆二世、支援団体、行政機関より117人が参加し開催されました。
初日は、被爆二世でもある巴病院の巴寛院長が、被爆者にとってますます重要となる介護保険制度について講演。続いて中央相談所の原委員が、被爆者援護施策の活用のほか、日本被団協が認定制度の抜本的改正を求めた2012年の「提言」の実現を求める活動がとても重要であると話されました。また介護保険の利用にあたっての注意点を具体的に話され、最後に認知症について、家族や周りの人の注意点をお話しいただきました。
懇親会では、地元に伝わる「ひょっとこ踊り」に全員がそのおかしさに泣き笑いし、至福のひと時を過ごしました。懇親会の後、二世交流会を行ない、原さんに、被爆二世の健康問題と運動について話していただきました。参加者から各県の施策の違いや要望等が出され、今後の運動の指針になったと思います。
二日目は、日本被団協木戸事務局長が「これからの被団協運動について」と題し、日本被団協の財政を含む現状をつまびらかにするとともに、核兵器のない世界を実現する課題、国家補償を実現する課題、原爆症認定問題を解決する課題など、被爆者が高齢化する中にあって今なお多くの課題があることを訴えられ、まだまだ一緒に頑張っていこうと力を込めて話されました。
各県の活動報告では、国際署名の活動報告が最も多く聞かれました。 (大山正一)
千葉県原爆被爆者友愛会は11月15日、「第39回友愛会研修会」を千葉市で開きました。従来の1泊研修を日帰りに替えて2回目の開催です。
「被爆者の介護について」を日本被団協中央相談所相談員・原玲子氏に、「被爆者に寄り添った医療」を友愛会結成当時から被爆者健診に携わってこられた幕張診療所所長の医師・花井透氏にお願いしました。
被爆者の高齢化で介護、医療への関心が高く、県内から45人が参加。介護の具体的な事例に沿った原氏の明快な解説、友愛会結成までの関わりから被爆者医療の昨今、核兵器廃絶問題に至る奥行きのある花井氏の話に耳を傾けていました。
参加者へのアンケートで、両氏の話、その合間に上映した「日本被団協60年の歩み」が高い評価を得たことを確認できました。(吉宗通泰)
香川県原爆被害者の会観音寺支部は11月23日支部総会を開き、新支部長に被爆二世の大村千恵子さんを選出しました。大村さんは、日本被団協の全国被爆二世実態調査や全国二世交流会を機に決意されたものです。 (野本賢)
川崎哲さん
直野章子さん
木戸季市さん
12月2日午後、ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会が、東京・四谷の主婦会館プラザエフで、「“核兵器なくせ”にノーベル平和賞 世界を動かした被爆者の声と若い力をさらに」と題するパネルディスカッションを開催し、参加者約90人を集めました。これは、12月10日のICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)ノーベル平和賞受賞式を控えて、被爆者たちの長年の訴え・運動を、若い世代と協働しながらさらに発展させ、世界に発信していこうと企画されたものです。
岩佐幹三・代表理事が開会挨拶に立ち、「『ふたたび被爆者をつくるな』と訴え続けてきた被爆者運動の歩みをどう継承し、核兵器のない世界を実現していくか、大いに意見交換を」と呼びかけました。続いて3人のパネリストから以下のような基調発言を行ないました。
今回のICANノーベル平和賞受賞は、核兵器の禁止・廃絶を求めるすべての人たちに与えられたものだと思います。広島・長崎の被爆者が「核兵器なくせ」の運動を切り拓き、世界のより若い世代がこれに続きました。
今年7月に採択された核兵器禁止条約は、核兵器の非人道性をきびしく訴え続けてきた被爆者の運動がその土台を築き、その上に、世界の反核平和運動と人権・人道思想の流れが力を合わせて条文をつくりました。
ピースボートでは2008年から、被爆者とともに船旅を通じて世界各地に被爆証言を届ける「おりづるプロジェクト」を実施しています。その一つのポイントは、被爆証言とあわせて訪れた世界各地の戦争被害を学ぶこと。もう一つ、被爆者の証言を各地で政治やメディアにつなぎ、影響力を広げていきました。核兵器禁止条約の前文に「hibakusha」という言葉が取り入れられた背景にも、そういった積み重ねがあったと感じます。
日本から発信する国際平和活動は、いま二つの課題を抱えていると思います。一つは、日本の政府が核兵器禁止条約に背を向け続けていること。政策転換を促すより力強い取り組みが求められます。もう一つは、日本が第二次世界大戦で多くの国々に与えた戦争被害について「きちんと反省していない」という批判が今後とも高まりつつあることです。
こうした「壁」を乗り越えるためにも、日本から発信しながら、世界各地でともに何かをつくる国際平和活動をいかに展開していけるかが、これからの課題だと考えています。
核兵器禁止条約採択、ICANノーベル平和賞受賞は、「あなたを被爆者にしたくない」「世界の誰にも私たちと同じような目にあわせてはならない」と訴え続けてきた被爆者の声が、国際社会を動かした結果だと思います。
核兵器廃絶のために被爆者が語るのは当然だという気持ちがありはしないでしょうか。被爆者が自らの体験を語るのは、どれほど苦しいことか。被爆者はしばしば自らの体験を「地獄」と言いますが、それは私たちの想像をはるかに越えた状況でした。
被爆者は、地獄からこの世に生還した後も、あるとき突如として地獄の記憶に襲われます。私が話を聞いたある被爆者は、弟を探して広島を歩き回り、全身火傷でマネキン人形のような人々を見ました。デパートでマネキンを見るたびに、あの地獄に引き戻されます。
そうした被爆者たちが、互いに体験を語り合い、自らの記憶と向き合いながら、自分たちの手で原爆被害の本質を明らかにし、「国が行った戦争の被害は国民みんな等しくがまんせよ」という日本政府の戦争被害受忍論とたたかい、国の戦争責任を追及してきました。
「核兵器なくせ」のメッセージを被爆者だけに頼れない日が近づいています。しかし、被爆者がたたかいながら獲得してきた「ふたたび被爆者をつくるな」という思想を、自分の信念として主体的に受け継ぐことは私たちにもできます。それは「核時代の当事者」である私たちの生存にかかわる問題なのですから。
5歳7カ月のとき長崎で被爆しました。爆心から南2キロ、浦上川西岸、三菱電機稲佐工場があった旭町の路上で母と一緒にでした。
終戦直後に三姉が鹿児島に嫁いだ長姉に出した手紙が残っています。「お母さんの顔は火傷でふくれあがって」翌日に避難しようと北へ向かうと「道には死体がゴロゴロ。見るまいとしても、あまりに多い」など、当時の凄惨な状況が記されています。
高校のころある方から、「広島・長崎以外の地では被爆者と言ってはいけない」と言われました。隠す気持ちはないけれど、進んで話すこともありませんでした。しかし私は小さな記憶ですが、はっきりした部分もあります。「被爆の記憶のある最後の世代として、いつか何かをやらなければならない日が来るだろう」とも、ずっと思っていました。
1991年の岐阜県原爆被害者の会再建が「そのとき」でした。「被爆者になる」歩みを踏み出し、事務局長を引き受けました。2006年に日本被団協代表理事、08年事務局次長、17年事務局長となりました。被爆者運動の歩みを学び、被爆体験を語る多くの「先輩」被爆者たちに教えられながら、私は「被爆者になって」きました。
原爆被害から11年後の1956年に全国から集って日本被団協を結成した被爆者たちは、「自らを救うとともに、……人類の危機を救おうという決意」(世界への挨拶)を高らかに宣言しました。私が「被爆者になる」歩みは、「被爆者としての生き方を見出す」歩みだったと、いまあらためて思います。
休憩を挟んで後半は、会場の参加者からの発言を交えての質疑、討論となりました。
「各国の指導者は今こそ被爆者の声を聞くべき」
「今も禁止条約に署名も交渉参加もしない日本政府の姿勢をどうやって変えさせるか」
― 核兵器禁止条約も、日本政府が背を向けていることも、まだまだ知らない人が多い。伝える、知らせることから。(川崎)
「被爆者の何が“世界を動かした”と思うか」
― 被爆者は、そこにいる、生きているだけで原爆と対峙している。できれば語りたくないことを語る、その姿ではないか。(直野)
「核兵器禁止条約が進展している今こそ、原爆被害への国家補償の重要性を追究するべき」
「戦争を知らない若い世代はこういった話題の大切さをどうやって伝えればよいか」
― 一若い人たちのほうから、被爆者の証言、被爆者との対話などを、新たな発想、さまざまな工夫で求めて欲しい。(木戸)
「地元や関係している団体で禁止条約、今回のノーベル平和賞のことをみんなに伝えたい、みなさんで知らせてほしい」等々。
予定時間を超えて討論は続き、気づきや手ごたえの多い集まりだったという感想が、多くの参加者から聞かれました。(まとめ・ 𠮷田みちお)
日本被団協の運動史【略年表】日本被団協の国際活動を参照
横山照子さん
小佐々八郎さん
「条約」が採択された時、1955年第1回世界大会の広島で初めて被爆者の訴えをした平木美佐子・辻幸江さん、第2回大会の渡辺千恵子さんら青年乙女の会の皆の顔が浮かび、胸が詰まった。厳しい状況のなかで立ちあがってくれた仲間たち。そして、小佐々八郎さん。亡き仲間たちの活動が実を結びました。
1974年11月、国連に「核兵器完全禁止国際協定の締結を要請する」日本原水協の代表団に、長崎被災協会長の小佐々さんが派遣された。大勢の被爆者たちと期待を込めて長崎駅で見送った。改札口を出る時、そばにいた私に小佐々さんは、「もしかしたら、アメリカに足を着けないかもしれない。これが最初の一歩で始まりだから、後はあんたたちで繋いで行ってくれよ」と言われた言葉が衝撃すぎて、あの時の情景は忘れられず蘇ってくる。この言葉は、いつも私の活動の心棒になっています。
核兵器廃絶を求めてのアメリカへの入国がいかに難しかったのか、国連への道に相当な覚悟で臨まれていたのだと、思い知らされました。
小佐々さんは長崎被災協、日本被団協の結成に尽力、長く代表を務められました。あの日長男が原爆死、二女も大火傷、自らは足を負傷し動けない身体で、燃え盛る市街を見つめながら「日本の将来のこと」を思い巡らしていたといいます。
今、日本政府が核兵器禁止条約に署名しようとしません。小佐々さん、みんな、もう少し私たちの背中を押し続けてください。
原玲子さん
高木藤江さん(ヒバクシャパンフより)
核兵器禁止条約が国連で採択されたのを、私は代々木病院でお会いした被爆者の皆さんに一番に報告したい。名を残す事もなく被爆者組織作りと運動に頑張っていた被爆者…若い相談員だった私に「生きること」を教えてくれた人たちです。
1982年、被団協が海外に被爆の実相を伝えるために6カ国語で作成した「ヒバクシャパンフ」に紹介されている高木藤江さん。8歳の時広島・福島町の隣保館で被爆しました。学校での体育は見学。病弱な子ども時代を過ごし20歳で結婚。2人の娘を授かったがその頃から原爆は彼女の体をむしばみはじめ2人の子どもを置いて離婚。食べるために再婚するも再び離婚せざるをえなかった…高木さんが私の前に現れたのはそんなときでした。77シンポの医学調査で彼女には「硬皮症」をはじめ23の疾病があると報告されています。将来への不安、残してきた娘への思いからお酒に溺れることもあり、他の病院の職員から「どうしようもない人」との烙印をおされることも。高木さんは「私だって被爆にさえあわなかったら人並みに幸せになったのに。原爆がにくい」。その思いから「ヒバクシャパンフ」への掲載に同意してくれたのでしょう。刷り上がったパンフを病棟の看護師に「私が載っている」とうれしそうにみせてまわっていた姿を忘れることができません。その後まもなく「心腫瘍」のため45歳で亡くなりました。地を這うような生活の中から発せられた彼女の言葉は、今も私の肩に乗っていて、弱気になりそうなとき、私の背中を押してくれるのです。
高木さん、あなたの「被爆にさえあわなかったら」ということばがやっと「核兵器禁止条約」に実を結び、一歩を歩みだしましたよ。
千葉県ヒバクシャ国際署名推進連絡会は、12月9日、平和のつどいを千葉市内で開催、約90人が参加しました。
明治大学法学部講師の山田寿則氏の講演で核兵器禁止条約について学習し、県連絡会参加団体の活動交流、被爆体験の朗読(写真)や合唱、ノーベル平和賞授賞式出席のためオスロを訪れている日本被団協の藤森俊希事務局次長からの声のメッセージもありました。
最後に、日本政府に禁止条約への署名・批准を求め「子どもたちに希望が持てる平和な世界を手渡しましょう」と呼びかけるアピールを発表しました。(千葉)
【問】有料ホームに夫婦で入居しています。入居時に多額の一時金を支払い、ほかに毎月12万円の支払いをしています。
このたび90歳を超えた夫が介護保険の要介護認定を受け介護サービスを受けるにあたって、毎月の支払いの上に介護利用料を支払うことになり、経済的に負担になっています。被爆者関係でこの利用料を助成してくれる施策があるでしょうか。
* * *
【答】介護付き有料老人ホームの場合、介護保険では「特定施設入居者生活介護」としてサービスを受けることができ、その利用料の1割又は2割(所得による)を自己負担します。
特定施設入居者生活介護の場合、介護保険の福祉系サービスに対する被爆者健康手帳による助成の対象になっておらず、また、被爆者の介護手当からも外されています。
したがってあなたの場合、被爆者施策での助成を受けるのは難しいと思います。
有料老人ホームでも、介護スタッフが常駐していない「住宅型」の場合は、外部の事業者と契約して介護保険サービスを受けるため、福祉系サービスの助成も受けられますし、介護手当の対象にもなります。