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「被団協」新聞2014年 6月号(425号)

2014年6月号 主な内容
1面 核兵器国は核廃絶の約束果たせ
マーシャル諸島国際法廷に9核保有国を提訴
国家賠償確定 岡山地裁
2面 活発に意見交換 東京被爆二世の会が総会
一人一人が活動の担い手に
非核水夫の海上通信118
3面 12歳の感性に感動
平和サークルが被爆証言録(石川)
全市長村での原爆展開催を目指し奮とう(福島)
制定30年 ―― 「原爆被害者の基本要求」とは
4面 相談のまど 原爆症認定/手帳に記載されている被爆状況と実際の被爆事実が違うときは
連絡ください

核兵器国は核廃絶の約束果たせ

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NGOセッションで発言する山田さん(中央)
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(右から)モレー準備委議長とケイン上級代表、
日本からの代表団
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被爆証言をきくニューヨーク市立大学の学生たち
NPT再検討会議第3回準備委 山田代表理事が訴え
 4月28日〜5月9日、ニューヨークの国連本部で開かれた2015年NPT再検討会議第3回準備委員会に、日本被団協から田中煕巳事務局長と児玉三智子事務局次長、山田玲子代表理事が参加しました。
 会議2日目の29日、NGOセッションが開かれ、冒頭に被爆者を代表して山田代表理事が議長団席から発言しました。11歳のとき広島で被爆した悲惨な体験を話し、すべての国が「核兵器のない世界の平和と安全を達成する」との2010年合意を実行し、特に核兵器国が「核兵器の完全廃絶を実現する」との明確な約束を果たすよう訴えました。
発言が終わると政府代表席から感謝を込めた大きな拍手が送られました。
 同分科会では広島、長崎両市長が被爆地を代表し、核兵器のすみやかな廃絶を訴えました。
 児玉次長は、会議関連の軍縮教育に関する討論会やピースアクション・マンハッタン主催の集会などで証言し、原爆被害は世代をこえ69年経つ今日も続き、被爆者を苦しめていることを明らかにしました。
 ニューヨーク市立大学ラガーディア・コミュニティー校では1時間にわたる授業の一環として田中、児玉両氏が100人近い学生に被爆体験を証言。学生から「被爆者はアメリカを憎んでいないか」「アメリカに賠償を要求したか」「被爆者は原発のことをどう考えているか」との質問が出されるなど熱心な質疑応答が続きました。
 前回、日本被団協代表団をサポートしてもらったニューヨーク在住日系市民サポーター代表の景山恭子さんら代表世話人に、来年のサポートを要請、「ニューヨーク事務局のつもりで頑張ります」と喜んで受けてもらいました。
 田中、児玉両氏は、日本原水協代表とともに核保有国や非同盟諸国の9カ国の国連代表部を訪問し核兵器廃絶への努力を要請しました。

2015年国連での原爆展開催申し入れ
 田中、児玉両氏は、5月2日、国連本部でアンゲラ・ケイン軍縮担当上級代表に会い、2015年NPT再検討会議期間中に日本被団協主催の原爆展が国連本部で開催できるように支援を要請しました。同日、ニューヨーク在住のデザイナー成田恵理子さんとともに国連事務局の展示委員会責任者レナータ・モルテオさんらと原爆展の内容について協議しました。
 核兵器による反人間的被害を柱にした展示内容の提案が好意的に受け止められました。

発言要旨(4月29日ニューヨーク)
核兵器廃絶の約束守れ 山田玲子

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 1945年8月6日、私は11歳の時に、爆心地から2・5キロの校庭で被爆しました。
 雲一つない青空をアメリカの爆撃機B29がUターンしているのを見た瞬間閃光が走り、一瞬何も見えなくなりました。防空壕に向かって走る私の背中に、熱い爆風が吹きつけ地面に転がりました。何が起きたかと皆で一塊りになっていると急に雨が降ってきてびしょ濡れになりました。
 間もなく学校も町の道路も、燃える中心地から逃げてくる人々が続き、歩くこともできない状態になりました。衣服も皮膚もボロボロに焼かれ、顔も定かでない人や怪我で血みどろの人など、言葉で表すことができないほど酷いようすでした。
 わが家は、両親と4人姉妹の6人家族でした。母と、軍需工場の動員が休日だった16歳の2番目の姉、学徒動員の作業を病気で休んでいた13歳の3番目の姉は家にいて助かりました。
 爆心地から1キロの校舎内で被爆した父は、全身にガラス破片を浴び、血みどろで2人の兵隊に支えられて帰ってきました。爆心地から2キロで被爆した長女は、爆風で吹き飛ばされ、首や背中に火傷を負って2日目の夕方帰ってきました。
 父にも姉にも薬はありません。母は近所からキュウリをもらい薄切りにし、姉の背中に貼り冷やしましたが、上半身裸の姉は痛い痛いと泣くばかりでした。
 父の体からは、何年たってもガラス破片が皮膚を破って出てきました。20年後、肺がんと白血病で亡くなりました。
 私の町に逃げてきた人たちは、息絶え小学校の校庭で燃やされました。2300人余の数の記録が残っているだけで助けもなく、家族にも会えず、名前すら確かめられず無念の死でした。
 生き残ることができた被爆者は、その人たちの無残な死を忘れることができません。被爆者として受けてきた差別や原爆被害による後遺症の苦しみを乗り越え“ふたたび被爆者をつくらせてはならない”と、核兵器廃絶の運動を半世紀を超えて続けています。
 すべての国が「核兵器のない世界の平和と安全を達成する」との2010年NPT合意を実行し、特に核兵器国が「核兵器の完全廃絶を実現する」との明確な約束を果たすよう求めます。被爆者が生きているうちに核兵器が廃絶されることが、すべての被爆者の心からの願いです。

2015年NPT再検討会議 第3回準備委員会/核の非人道性議論が力に
 ニューヨークの国連本部で開かれた2015年核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議第3回準備委員会は、来年の本会議への「勧告」や本会議議長をきめることはできませんでした。一方、発言者の多くが核兵器の非人道性に触れ、昨年と今年開かれたオスロ(ノルウェー)、ナジャリット(メキシコ)での「核兵器の人道上の影響に関する会議」の議論が世界の共通理解としてひろがっていることを示しました。非核兵器国から核兵器廃絶への取り組み強化を求める発言が相次ぎました。

核兵器禁止を早く
 新アジェンダ連合を代表したアイルランド代表は、核兵器のない世界を達成し維持するために明確な基準と時間枠と検証システムをもった法的枠組みを今こそ真剣に検討すべきと強調しました。
 非同盟諸国を代表して発言したインドネシア代表は、核保有国が核兵器廃絶の取り組みを進めていないと指摘し、昨年の国連総会で採択した、包括的な核兵器禁止条約の早期締結を求める決議の全面実施を訴えました。「NPTに危機があるなら核保有国の軍縮が進んでいないことに主な原因がある」(ブラジル)との意見も出ました。
 2010年合意で2012年中に開くことになっていた中東非核・非大量破壊兵器地帯設置の会議が開かれていないことについての発言が注目されました。

あきらめず非核地帯を
 ラテンアメリカ・カリブ地域の核兵器禁止に関する条約機構の事務局長は、当初、条約が成立する見通しは立たなかったが条約実現によって中南米における信頼醸成と安定が進むことにもなったとのべ、困難打開の可能性を示唆しました。
 一国非核地帯を宣言し国連総会でも承認されたモンゴル代表は、非核地帯の設立が地域の核不拡散・軍縮に効果的な手段であることが実証されたとして、中東や北東アジア非核地帯の確立に必要な措置をと訴えました。

核兵器保有国も
 核兵器の人道上の影響に関する議論に否定的だった米国代表はマーシャル諸島、広島を訪れた体験をもとに「核兵器の人間への影響を記憶にとどめることは必須である」と発言、英国代表も「人道上の結果を強調する最近の動きは核軍縮の速度に対する失望感から生まれている。われわれはその失望感を共有する」とのべ注目されました。

マーシャル諸島国際法廷に9核保有国を提訴

Photo マーシャル諸島共和国のトニー・デブルム外務大臣(左)。第五福竜丸乗組員の大石又七さん(右)。マーシャルにて(3月3日)

 南太平洋のマーシャル諸島共和国は4月24日、オランダ・ハーグの国際司法裁判所に対し、核兵器不拡散条約(NPT)が定めた「核軍縮義務」を怠っているのは国際法に違反しているとして、核兵器保有9カ国を提訴しました。
 被告9カ国は、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国のNPT締約5カ国と非締約国のインド、パキスタン、イスラエル、NPT脱退を表明している北朝鮮です。米国についてサンフランシスコの連邦地方裁判所にも提訴しました。
 本来なら「世界で唯一の戦争被爆国」である日本政府が果たすべき役割ですが、1946年から1958年にかけての12年間に67回もの米国の原水爆実験の被害を受け、1954年3月1日のビキニ環礁での水爆実験では多数の被害者を出した同国が核保有国を提訴したことは大きな意義を持っています。
 提訴について同国は、NPT第6条は、核軍備競争の「早期の」停止と核軍縮について、諸国が「誠意をもって」交渉するよう求めており、核保有5カ国はNPT締約国でありながら一貫して自らの義務を無視し、他の核保有国も慣習国際法のもとでは核軍縮条項に拘束されるとしています。
 国際司法裁判所は、国連の機構で、加盟国が提訴できますが、被告国が裁判を受け入れる強制的管轄権を受諾しなければ裁判になりません。イギリス、インド、パキスタンは提訴国が強制的管轄権を受諾していれば受諾するとしています。マーシャル諸島共和国は、他6カ国も管轄権を受け入れ自国の立場を説明するよう求めています。

国家賠償確定 岡山地裁

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 岡山地方裁判所で4月23日、厚生労働大臣の義務違反を認め国に対して30万円の支払いを命ずる判決がありました。原爆症認定申請に際し、原告被爆者が添付していた入市証明書を、最初の申請時と異議申立時の2度にわたって見落としていたもの。国は控訴せず、現在行なわれている厚労省の医療分科会での審査が不適切であると示すものとなりました。

大阪2人勝訴 認定却下取り消し
 原爆症認定却下の取り消しを求め大阪地裁に提訴していた裁判で5月9日、原告2人(故人)全員勝訴の判決がありました。申請疾病は、1人は心筋梗塞、1人は腎臓がんとその手術後発症した慢性腎不全です。判決は認定新基準について「地理的範囲及び線量評価の両方において過小評価となっている疑いがある」と指摘しました。





活発に意見交換 東京被爆二世の会が総会

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 4月19日、おりづるの子(東京被爆二世の会)が、昨年4月の結成から1年を経て、会員24人が参加し、初めての定期総会を開催しました。
 2013年度活動報告、2014年度活動方針などについて参加者全員で審議し、質疑応答の時間帯は、二世として今後どのような活動をしていくべきか、活発な意見交換の場になりました。
 その後、日本被団協事務局次長の藤森俊希さんによる記念講演が行なわれました。約40分の講演は、前半部が藤森さんご自身の被爆体験、後半部が核兵器をめぐる世界の動きを中心とする内容でした。
 最後に、参加者全員による簡単な自己紹介を行ない、会として今後どのような活動を行なうべきか、一人一人が何をするべきか、また何を考えるべきか、確認し合う有意義な時間となりました。(吉田みちお)

一人一人が活動の担い手に

ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会 第2回総会

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 NPO法人ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会第2回通常総会が5月17日、東京・四ツ谷のプラザエフで52人が参加して開かれました。
 岩佐幹三代表理事が、「議論を重ね『継承センター基本構想』ができた。この多方面にわたる活動の担い手は会員の皆さん一人一人である。力を発揮していただきたい」とあいさつしました。
 2013年度事業報告の中で、原爆の反人間性を告発する映像作品の第1弾(未完成版)が上映され(写真)、完成への期待が高まりました。
 会の活動について、文学作品や医療関係の資料収集、「基本構想」への意見の取り扱い、資金集めと会員拡大など、活発に討論されました。

12歳の感性に感動

松江市原爆被害者協会 会長 小林敏雄

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演技する子どもたち
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参観者
 島根県の松江市立秋鹿(あいか)小学校では、10年余り前から6年生の修学旅行で広島に行く前に、地元の被爆者加藤花子さんの話を聞いています。子どもたちからはその度に感想文が届けられ交流を続けてきました。
 昨年は、11月に行なわれた学習発表会で「広島から平和を考える」と題した劇と歌が6年生により上演され、全校生徒と父母など多くの人に平和の大切さを訴えました。
 劇は、子どもたちが修学旅行と前後の学習で学んだことを基に「4つの本当にあった話をとおして平和について考えたことを伝えたい」と、加藤さんの話、焦げた弁当箱、しんちゃんの三輪車、禎子の小さな折鶴をテーマに構成されていました。
 参観した私たち被爆者は、その演技に胸を打たれ、12歳の子どもたちの発想と創造に感激し、大変勇気づけられました。同校の平和教育が末長く続けられることを心より願っています。







平和サークルが被爆証言録(石川)

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 石川県の平和サークル「むぎわらぼうし」が、被爆者証言録『広島のピカ-たみちゃん4歳の記憶、そして被爆者運動へ』を発行しました。昨年4月に開いた同サークルの第330回例会での、西本多美子さん(石川県原爆被災者友の会事務局長)の講演をテープ起こしし、編集。表紙などのイラストは会員の絵本画家かるべめぐみさんによるものです。「若い人たちが企画し多くの人がかかわってくれた。継承の運動としてとても良かった」と西本さん。巻末の製作スタッフには14人が名を連ねています。
 頒価500円の一部は友の会の2015年NPT再検討会議派遣費に充てられます。






全市長村での原爆展開催を目指し奮とう(福島)

 福島県原爆被害者協議会は、県原水協と協力して、県内全市町村での「原爆と人間」展開催をと準備を進めています。
 5月31日〜6月1日には、西会津町で実施。このほか会津6町(下郷、会津美里、金山、磐梯、会津坂下、南会津)と白河市、矢吹町に開催を要請しました。5月末現在、磐梯町での開催が決まり、矢吹町が開催の方向で検討中、白河市では毎年生協が取り組んでいるのでそれを支援する旨の回答を得ています。
 県内被爆者は高齢化、多疾病化、死没等で全市町村をカバーできませんが、できる者が出かけて証言等をするよう考えています。

制定30年 ―― 「原爆被害者の基本要求」とは

(5)被爆者の志を表現
 「基本要求」を制定した代表者会議(1984・11・18)はアピールを発表して「『基本要求』に基づく国民運動を」と訴えました。
 代表者会議に参加者した被爆者からは「基本要求は全被爆者の希求です」「この歴史的な討議に参加できたことを誇りに思います」という声があがりました。
 専門家からも多くの共感の声が寄せられました。
 「事理を尽くした当然の要求で政府がこれを拒否するなら、それは到底、日本国民の政府ということはできません」(小川政亮・金沢大学教授)「原爆にうたれた民衆が、その死と生の意味を追求するなかで形成し得た思想の自らなる表出です」(石田忠・明治大学教授)
 作家・大江健三郎さんはこうたたえています。――「殺された被爆者の代わりに力を尽くして、次の世代につなぐ、生き残った被爆者の志と構想を、あますところなく表現されていると思います」(以上『被団協』85年1月号)

相談のまど
原爆症認定/手帳に記載されている被爆状況と実際の被爆事実が違うときは

 【問】私は最近肺がんと診断されたので、原爆症の認定申請をしたいと思っています。
 私の被爆状況は、被爆者健康手帳には、宇品の4キロにある船舶練習場となっています。当日から市内の中心部に入って救援作業に当たりましたが、そのことは手帳には書かれていません。このために「新しい審査の方針」の基準に該当しないことになります。
 どうしたらよいでしょうか?

* * *


 【答】2008年に「新しい審査の方針」によって認定審査が行なわれるようになったときから、原爆症「認定申請書」の様式が変わりました(様式第五号)。「被爆時の状況(入市の状況を含む)」の欄が設けられ、その注意書きには、被爆後に入市した場合には、入市日、経路、その後の行動等を記載すること。被爆者健康手帳の記載を参考に記載し、その写しを添付することとされています。
 実際の審査では、被爆者健康手帳の記載が重視されているようです。したがって、原爆症の認定申請書に入市の事実を記載するだけでは認められません。都道府県知事に被爆者健康手帳の記載事項の修正を申請して、入市の事実を記載してもらう必要があります。そのためには、入市の事実を証明する第三者の証明が必要になることがあります。
 なお、記載事項の変更申請は、認定申請と一緒にできます。

連絡ください

 的場定男さん(大正15年3月生まれ)は入市被爆で、手帳には「東千田町」と記載されていますが、爆心地付近に入ったことを証明してくれる人をさがしています。
 当時、山口県上関町室津に駐屯していた、特設船舶工兵第52連隊材料廠に所属。8月6日夕刻命令を受け、深夜に三中隊で出発。7日朝宇品に上陸し、西海岸の倉庫群の一つに宿泊して14日まで軍務につきました。
 9日朝、士官(多分見習士官で「田中」と記憶している)と一緒に出発し、おびただしい遺体を荼毘に付している西練兵場を通りました。付近のテントの前に山積みの蜜柑の缶詰を持ち帰るよう指示され、紙屋町を通って宿舎まで持ち帰りました。
 この9日のことを証明してくれる人をさがしています。「田中」さん、宿舎で蜜柑の缶詰を食べた方など、心当たりのある方はご連絡ください。
 連絡先(的場定男)=福岡県嘉麻市鴨生55Tel0948-42-1410