被団協新聞

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「被団協」新聞2014年 5月号(424号)

2014年5月号 主な内容
1面 原爆症認定訴訟 “控訴取り下げよ”原告が抗議
ヒロシマ・ナガサキの継承 “「届く」ということに希望”
2面 街頭行動、団体訪問など各地で
土田弥生さんに聞く 核兵器をめぐる世界の動き
非核水夫の海上通信117
3面 手記 ―― 被爆70年へ 生きぬいて(8)
制定30年 ―― 「原爆被害者の基本要求」とは
4面 相談のまど 原爆症認定・新基準/心筋梗塞での再申請は
こんなこと、聞いてもいいですか…? 受け継ぐための質問部屋
投稿 核と人類は共存できない

原爆症認定訴訟 “控訴取り下げよ”原告が抗議

 原爆症認定申請の却下取り消しを厚労省に求めた大阪、熊本の両地裁判決について、厚労省は3月28日、大阪地裁勝訴原告4人中1人について、4月9日には熊本地裁勝訴原告5人中3人について控訴しました。ノーモア・ヒバクシャ訴訟全国原告団と同弁護団連絡会などは4月10日、田村憲久厚労相あて、国の非人道的控訴に抗議し、控訴取り下げるよう求め申し入れました。
 申し入れ書は、国は、「原爆症認定集団訴訟の終結に関する基本方針に係る確認書」(2009年8月6日)に調印し、「今後、訴訟の場で争う必要のないよう」に定期協議の場で解決すると約束しながら、これを誠実に実行しないと指摘。国の控訴は、こうして訴訟を強いられた被爆者にさらなる苦痛を与えるものであり、「確認書」の趣旨に真っ向から反すると抗議しています。国が行なうべきは、被爆者を苦しめる控訴ではなく、司法判断に合致するよう認定制度を原爆被害の実態に合致するよう抜本的に改めることだとのべ、直ちに控訴を取り下げるよう強く求めています。
 申し入れには山本英典原告団長、弁護団のほか、田中煕巳日本被団協事務局長、東友会代表らが参加しました。

新基準超えた判決 5人勝訴の熊本

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 原爆症認定申請却下の取り消しを求めて被爆者8人が提訴していた裁判で、熊本地方裁判所は3月28日、5人の原告について厚労省の却下処分を取り消すよう判決をいいわたしました。
 勝訴した5人の原告はいずれも症例、被爆距離とも昨年12月16日に厚労省が改定した「新しい審査の基準」に該当していません。判決は、原告が長崎の爆心地から約2キロ〜約3・8キロで被爆したことについて「いずれも健康に影響を及ぼすような相当程度の線量の原爆放射線を被曝したと認めるのが相当」としており、厚労省の基準改定が実態に沿っていないことを示しました。


院内集会に160人 ノーモア・ヒバクシャ訴訟

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 4月1日衆議院議員会館で、原爆症認定制度の抜本改正を求め院内集会が開かれました。被爆者、弁護士、支援者が全国から集まり、国会議員、マスコミも含め160人が参加しました。
 山本英典ノーモア・ヒバクシャ訴訟原告団長の主催者あいさつのあと、日本被団協の田中熙巳事務局長が共催者としてあいさつ。認定制度の抜本改正を訴えました。
 会場には、自民、公明、民主、共産、社民、維新の各党から12人の国会議員が駆けつけました。



ヒロシマ・ナガサキの継承 “「届く」ということに希望”

『被爆者調査を読む』学習会 被爆証言を高校生が絵に

 ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会は3月29日、『被爆者調査を読む』学習会を東京・豊島区のエポック10で開きました。昨年3月慶応義塾大学出版会刊行の『被爆者調査を読む‐ヒロシマ・ナガサキの継承‐』(浜日出夫・有末賢・竹村英樹編)から2つの章を選び執筆者が報告。研究者、被爆者、学生、ジャーナリストなど32人が参加しました。

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竹村英樹准教授
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小倉康嗣准教授
調査の継承を考える
 報告1は、慶応義塾大学の竹村英樹准教授が「中鉢正美『被爆者生活史調査』の継承について考える-なにをどのように継承するか」をテーマに報告。当時慶應義塾大学教授の中鉢正美氏(1920〜2013)の被爆者調査資料を読み解きながら調査・分析の過程を詳細に紹介し、「(継承センター基本構想に書かれているように)証言は読み込み、分析されて、初めてその意味を捉えることができる。被爆者調査、研究も同じだと思った」と語りました。
切実感をもった継承
 報告2は、立教大学の小倉康嗣准教授が「継承すべき人びとの表現活動とその変遷-社会科学者による被爆者調査と高校生が描く原爆の絵」をテーマに報告。被爆者である祖母と母に手を引かれ5歳の時に広島の原爆資料館に行き、ショックで眠れぬ日が続いたという自らの体験から、非被爆者が切実感をもって継承するうえで、精神的な苦しさを肯定的に捉えてよいのではと語りました。
 非体験者が、切実感をともなった自分の問題として、いかに受け止めていけるのか。その一例として、広島基町高校の創造表現コースにおける高校生が描く原爆の絵の実践例を紹介しました。被爆者の体験とライフヒストリーを半年かけて聞いた高校生が、その一場面を絵に描く活動です。
 高校生は、苦しみ、悩みながら「描く」という行為をとおして「体験しているような気持ち」になり「自分のなかで受け止められた」という感覚が生まれ「そのまま伝えることだけが継承じゃない。証言者の方の思いと、自分たちの思いを重ねていったら、その重さがどんどんどんどん増していくと思う」と語っています。被爆者は「すごいこと継承しとるんですよね、悩んで悩んで悩んで描くわけですから。私の人生いうのを、かなり話していますからね。ただ絵ができたいうだけじゃなくって、この子たちにはしっかり伝えたなあという気はあります」と語っています。

継承への希望
 参加した被爆者からは「原子雲の下で起きたことを知るには、被爆者の証言や描いた絵を見るに尽きると考えているが、描く人がいなくなると思っていた。こうして描いてもらえば継承できると希望をもった」「被爆体験を話してきたが、話す3日前くらいから落ち込む。何のために、どこに目的があって話しているのか、心の中に継承というのがストンと入ってこない。批判的なモヤモヤが強かったが、今日はそれでもかなりわかり、今日でだいぶ変わった」などの発言がありました。
 最後に、慶應義塾大学の浜日出夫教授が次のようにしめくくりました。
 「我々の書くものはたいていどこにも届かず消えていく。40年、50年前の研究者たちの残した仕事を我々が拾い上げ、読み直したことで、またどこかに届くのか、期待していなかったが、この学習会でやっぱり届くんだ、届いたんだと実感をもつことができた。継承とは「届く」ということなのだろう。狙ったところでなくても、石が跳ねて行ってどこかに届く。思わぬ人が拾い上げてくれるという希望をもった」

街頭行動、団体訪問など各地で

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鹿児島・さよなら原発集会
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千葉・映画会での原爆展
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埼玉・浦和駅頭署名行動

国の償い実現求める春のいっせい行動
 日本被団協の「国の償い実現、春3月いっせい行動」(前号既報)が、3月〜4月にかけ各地で取り組まれました。
 【鹿児島】3月中に3つの団体を訪問し、署名等への協力を依頼しました。初めて訪問した団体もありましたが、署名はタイミングを見て下部組織に依頼をかける、理事会に諮る、イベント会場に署名用紙をおけると思う、などの返事をいただきました。16日のさよなら原発かごしまパレードに、被爆者と二世7人が参加しました。25〜27日には国会議員地元事務所を訪問し、要請しました。電話等で依頼を重ねていきます。(大山正一)
 【埼玉】4月6日正午から1時間、JR浦和駅西口で「原爆被害への国の償いを今すぐに!」と署名を呼びかけ、署名93筆、チラシ139枚を手渡しました。この行動には、被爆者12人、生協連2人、原水協1人、婦民クラブ1人、被爆体験聞き書き実行委員会2人の計18人が参加。横断幕を掲げ、「ふたたび被爆者をつくるな」「核兵器を廃絶せよ」「国家補償にもとづく被爆者援護を」とあわせ、現政権の「戦争する国」への危険性を訴えました。(原明範)
 【千葉】映画「アオギリにたくして」上映会と原爆パネル展を3月26日開催しました。パネルは上映前に見て頂くようロビーに配置しました。被爆者、支援団体(千葉労連、千葉全教、生協、うたごえ、京成電鉄労組、千葉民医連、新婦人など)と個人支援者の協力で350人を超える人が集まり、会場はいっぱいで、席を追加するほどでした。映画終了後、「感動した」「泣きっぱなしでした」とスタッフに声をかけ、改めてパネルを丁寧に見入る人たちの姿がありました。会場カンパ10600円と現行法改正署名45筆、核兵器全面禁止署名39筆が寄せられました。



土田弥生さんに聞く 核兵器をめぐる世界の動き

 2015年核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議を来年に控え、国際分野で活躍されている土田弥生さん(日本原水協事務局次長)に核兵器廃絶をめぐる世界の動きについて聞きました。

Photo シンポジウム「2015年NPTへ被爆国日本の役割」(4月7日東京)で発言する土田弥生さん


大いに励まされる情勢
―― 現在の世界の動きをどうみていますか。
土田 来年のNPT再検討会議に向けて、昨年来からの国際政治の動きに私は大いに励まされています。
 一つは、非同盟運動諸国を中心とする国々のリーダーシップで国連でハイレベル会合が開かれ、昨年秋の国連総会では、核兵器を禁止し廃棄する条約の交渉開始を求める決議が反対28、賛成137の圧倒的多数で決議されたことです。
 もう一つ、私も傍聴した「核兵器の人道的影響に関するメキシコ会議」が、核兵器廃絶に向けた具体的な時間枠、適切な協議の場、実質的な枠組みを明確にした外交プロセスを開始するよう呼びかけたことです。胸がわくわくしました。

役割問われる日本政府
―― 日本政府はどのような態度ですか。
土田 日本政府は昨年国連総会で、「いかなる状況の下でも核兵器の不使用」をうたった「核兵器の人道的影響に関する共同声明」に賛同しました。前進面ともいえますが、4月に被爆地広島で開いたNPDI(軍縮・不拡散イニシアチブ)外相会合で、岸田外務大臣がまとめた「広島宣言」は、核兵器禁止条約締結を求めるのではなく「実践的かつ段階的なアプローチ」という従来の主張のままでした。
 会議に先立って開かれたNGO日本連絡会と外務省との意見交換会で、2010年再検討会議の「核兵器のない世界の平和と安全を達成する」との合意を実現するため、被爆国として核兵器禁止条約の交渉開始に尽力することを求めたのにたいし、外務省側は「NPTの合意は重要であるが、禁止条約にまでコミットしていない」「核兵器の非人道性と核兵器禁止のリンクに疑問がある」と背を向けた回答でした。
 今年1月、岸田外相は長崎大学での講演で、核保有国に対し核兵器使用については、「個別的・集団的自衛権に基づく極限の状況に限る」と宣言せよとのべ、核兵器使用容認発言として批判を浴びました。NPDI外相会合もその立場で進められたということです。被爆国にあるまじき態度だと思います。

憲法生かし話し合いで
―― 被爆国でありながらなぜ核兵器禁止条約締結を求めないのでしょう。
土田 岸田外相の言葉を借りれば、「日本の軍縮努力は日米同盟下での拡大抑止の信頼性とつりあったものである必要がある」という、核抑止力の擁護・依存が根底にあります。
 全面禁止に進まない理由として、「日本をとりまくきびしい安全保障環境」を挙げています。この問題について私は、日本には憲法、非核三原則があり、それを生かせば日本は解決する能力があると思います。政府は北朝鮮と外交チャンネルがないといいますが、その気になれば、最近の拉致問題にみられるように話し合いは再開できました。最近のシリア、イランの問題を見ても、話し合いでしか解決できないことは明らかです。

世論と行動がカギ
―― 政府の態度を変えさせられるでしょうか。
土田 国民の世論と行動だと思います。日本政府が「核兵器不使用」をうたう共同声明に署名したのも世論の力でした。そして「核兵器全面禁止のためのアピール」署名をひろげることは、安倍政権の危険な暴走をくい止める力になりますし、「核兵器なくせ」の圧倒的声を国連に届け被爆70年が「生きているうちに核兵器廃絶を」との被爆者の願い実現を展望できる年にしましょう。

手記 ―― 被爆70年へ 生きぬいて(8)

悔いて人生終わりにしたくない
平末 豊(ひらすえ・ゆたか)さん 83歳〈広島被爆 当時14歳 岡山市在住〉

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2010年5月、ニューヨークの国連本部ロビー原爆展会場で証言する平末さん

 昭和19年11月1日、広島県北の三良坂町で国民学校高等科2年だった私は勤労学徒としての鉄道への動員命令を受け、広島に向かいました。広島管理部に中国地方各県から80人が動員され、駅構内の清掃や草取り、引き込み線や機関車避難壕を作る作業の毎日でした。
 翌年3月、14歳の私は母校の卒業式にも帰れず卒業証書もなく形式的には卒業となり、4月1日から鉄道省職員となりました。広島駅操車場の構内作業に従事。極秘とされた軍用列車の運行時刻等を憲兵隊監視のもと毎朝口頭で伝達され、聞き洩らせば殴られ蹴られる毎日でした。

 * * *

 8月6日、広島本駅の点呼場で作業の指示を受けているときに被爆。突然の爆発音とともに太陽が破裂したように周囲が黄色になり熱風が襲い、建物が吹き飛びました。一瞬の出来事にホームに停車中の列車内の乗客もパニック状態。救援活動の指示が出ましたが、死亡、重傷、軽傷の見分けもつかず、生存者を車内から安全な場所に誘導するのが精一杯でした。
 翌日から本格的な救援活動を行ないました。負傷者を救護所まで運ぶのですが、そこで死亡するとトラックに山積みにされ、川端に掘られた穴に山のように積まれ、重油をかけて焼かれるのでした。休養せよと言われ久しぶりに寮に帰った日が終戦の日でした。
 その翌日から仕事に戻りましたが体調すぐれず、9月に入ると高熱が続き、休養届を出して実家で療養しました。頭髪は抜け熱も下がらず、医師の診察を受けても原因不明で病名なし。2カ月半を過ぎた頃から熱も下がり始め、髪も少しずつ生えてきました。
 3カ月の休養後職場復帰するも構内作業は無理と言われ、旅客業務につきました。最初の下深川駅では被爆者の駅長に支えられましたが、駅長が替わると理解がなく、10年間で7カ所に異動。「原爆症」「おうちゃく者」と呼ばれることに耐え続けました。

 * * *

 24歳の時、岡山県玉野市の宇野駅に赴任。岡山鉄道管理局管内には、救援活動で原爆投下直後の広島に入市した職員が多くいました。
 1966年に国鉄労働組合被爆者対策協議会ができました。72年10月13日、同協議会事務長の瀬戸高行氏を岡山に迎え、岡山での国労被爆者対策協議会を結成。私は事務局長に選出されました。
結成後は休日を使って被爆者手帳取得の指導に東奔西走。自分の結婚や子どもの結婚に障害となるのでは、と手帳取得に抵抗を示す人に、私の体験を話しながら説得を重ね、被爆職員の約85%が手帳を取得しました。
 72年7月には、国鉄被爆者の代表としてオーストラリア、ニュージーランドに派遣されました。南太平洋で核実験がくり返し行なわれていた時期でもあり、集まった人たちから強烈な質問攻めにあいました。

 * * *

 86年に国鉄を退職してからは、地元の被爆者活動にも加わりました。岡山市原爆被爆者会では毎年8月6日に岡山市原爆死没者供養塔で慰霊祭を行なっています。夏休み中の中高生の応援を受けて天満屋地下アートスペースで1週間の「原爆平和展」を開催してきました。会場の都合で現在は岡山シティーミュージアムで「原爆と人間」展を行なっています。役員が被爆者相談に対応し、語り部の要請にも応えています。
 岡山市原爆被爆者会会長として、会員を信頼し頑張っていきたいと思いますが、複数の病気で病院通いの日々で不安も感じています。
 「悔いて人生終わりにしたくない」-これが、14歳で被爆し、生地獄とさまざまな体験をした私の信条です。

制定30年 ―― 「原爆被害者の基本要求」とは

(4)全国的な熱い討論で
 基本懇答申の翌1981年、日本被団協は市民団体と協力して、基本懇に反撃する「原爆の非人道性を裁く国民法廷」運動を地域、学園などで全国的に展開しました。原爆展、被爆体験を語る会なども活発に開かれました。
 また、日本被団協は「原爆死没者・遺族調査」「被爆者要求調査」を実施して、原爆被害、被爆者の現状把握に努力しました。
 こうした運動を土台に、基本懇答申を乗り越える新しい要求文書をつくるための委員会を設置しました。
 相談所講習会などで「被爆者の要求は何か」を真剣に議論。『被団協』新聞では松谷みよ子、中野好夫氏ら学者・文化人も発言しました。
 討論に参加した被爆者は文書も含めて少なくとも数百人、出された意見は200項目を超えました。
 こうして84年11月18日、全国代表者会議で「原爆被害者の基本要求」を決定しました。文章修正は採択直前まで続きました。被爆者の知恵を結集して練り上げられたのです。

相談のまど 原爆症認定・新基準/心筋梗塞での再申請は

 【問】私は心筋梗塞で原爆症の認定申請をしましたが、昨年1月に却下されました。
 被爆したのは長崎の稲佐国民学校で、被爆者健康手帳は1・8キロになっています。異議申し立てはしないで諦めていました。ところが今回、審査の基準が変わって、2キロまで認定されることになったと聞きました。
一度却下されても、再申請できるでしょうか。

 * * *

 【答】昨年12月に原爆症認定の基準である「新しい審査の方針」が改定されました。
 改定前の「方針」では、被爆地点について、がんや心筋梗塞、甲状腺機能低下症などは、爆心地から約3・5キロ以内であれば積極的に認定するとされていました。ただし、非がん疾患である心筋梗塞、甲状腺機能低下症、慢性肝炎・肝硬変は「放射線起因性が認められる」場合とされ、実際認定されるのは、心筋梗塞では1・5キロ以内で被爆した場合など、厳しいものでした。
 今回の改定で、前述の非がん疾患について「放射線起因性が認められる」という文言がなくなり、その代わりに「爆心地点が爆心地から約2キロ以内である者」と「翌日までに爆心地から約1キロ以内に入市した者」とされました。あなたは再申請できますので、是非してください。

 * * *

 なお、これまでに慢性肝炎などで申請を却下されて、今回の改定で該当するようになったと思われる人は、あきらめずに是非再申請しましょう。
 白内障については「爆心地から約1・5キロ以内の者」が積極的に認定されるとなっています。(加齢性白内障を除く)
 「新しい審査の方針」は改定されましたが、依然として原爆症認定をめぐる裁判で認められているものとの乖離(かいり)が大きいと言えます。今後も認定制度の改善のために運動を進めながら現在活用できる制度は積極的に活用しましょう。

こんなこと、聞いてもいいですか…? 受け継ぐための質問部屋

国の償いと「ノーモア・ヒバクシャ」
 原爆被害に対しての国の償いが実現すると、どうして「ふたたび被爆者をつくらない」ことにつながるのですか。(東京・団体職員・45歳)

読者からの回答

◆核も戦争もない世界に 長野・広島被爆・70歳
 アメリカによる広島・長崎への原爆投下は、人類史上なかった核戦争の被害をもたらしました。無差別・非人道的で国際法に違反することは、原爆裁判で明らかになりました。(1963年12月東京地裁判決)
 原爆被害について被爆者が国に償いを求めるのは、原爆被害が「遡れば戦争という国の行為によってもたらされたもの」だからです。(78年3月最高裁判決)
 現在の被爆者対策の法律「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」を制定するとき、被爆者は国家補償を明記するよう求めました。政府は、法律に国家補償の表現を用いると戦争責任を認めることになるとして拒否しました。(94年12月井出正一厚生大臣の答弁)
 戦争のもとで、国民が生命・身体・財産の犠牲を受けてもすべての国民は「ひとしく受忍(じゅにん=がまん)しなければならない」という考えがもとになっています。(80年12月「基本懇」意見)
 戦争や核兵器の投下で国民がどんな犠牲を受けてもがまんせよという考えを被爆者は絶対に認めることはできません。
 「戦争被害はがまんせよ」の考えをあらため、国の内外に多大な犠牲と被害をもたらした戦争責任を認め、原爆被害・戦争被害を国が償い、唯一の核戦争被害国として戦争も核兵器もない世界をめざす先頭に立つことを被爆者は求めています。

 * * *

お答え待っています

諸外国の国家補償について
 市民の戦争被害に対して、諸外国では、国家補償はどうしているのですか。
(東京・出版業・55歳)

 * * *

 ★回答を下記「質問部屋」係宛てに郵便、FAXでお寄せください。電話でも受け付けます。
〒105-0012 東京都港区芝大門1-3-5
ゲイブルビル9階 日本被団協「質問部屋」係
FAX 03-3431-2113
TEL 03-3438-1897
 ★被爆体験の継承に関する質問もお待ちしています。
 ★次回は7月号に掲載する予定です。

投稿 核と人類は共存できない

瀬戸高行(広島)
 日本被団協結成時の代表委員の一人であり広島県被団協理事長であった故森瀧市郎先生は、「真っすぐ」な人格者でした。核実験抗議の座り込みでも凛とした人でした。いつも「人類は生きねばならぬ」と言われ、生き残った者の役目として「核と人類は共存できない」と説く信念の人でした。
 今、私は「核絶対否定」の森瀧市郎先生を偲びながら、危険極まりない原発に反対の思いを強くしています。
 政府と電力会社が結託して建設した原発は全国で54基にもなり、「安全神話」がつくられ宣伝されましたが、それは東日本大震災で崩壊し、目に見えない恐ろしい放射能汚染の危機は止むことなく、フクシマは今なお震災中と言わざるを得ない実態です。原発の稼働によって生み出されたプルトニウムは現在、長崎原爆に換算して5500発分にもなるといわれ、軍事利用に転用の危険性が心配です。政府は脱原発を求める世論を無視し、原発をあくまでも利用する方針を鮮明にしています。非核三原則は完全に骨抜きで、被爆地ヒロシマ出身の岸田外相が核兵器使用を容認する発言をしましたが、被爆地ヒロシマは絶対に受け入れることはできません。
 また安倍総理は、原発の危険性を知りながら、トップセールスと称して原発を外国に売りつけていますが、許せません。
 更に憲法9条を改正することも集団的自衛権の解釈改憲も許すことはできません。今こそ森瀧市郎先生が叫び続けられた「核と人類は共存できない」「核絶対否定」の反核理念と、広島市平和公園慰霊碑の碑文「過ちは、繰り返しませぬから」を思い知り、被爆国日本が先頭に立って世界の核兵器廃絶、脱原発、平和に向かって前進することを希求します。