被団協新聞

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「被団協」新聞2014年 2月号(421号)

2014年2月号 主な内容
1面 ふたたび被爆者をつくらない決意を世界に!
現行法改正運動 各地で活発な動き
2面 被爆二世が実態調査や健診の充実求め要請行動/神奈川・長崎
「福島を忘れない」 反原発集会に8千人/愛媛
受け継ぐということ ―― 生きぬく力未来へつなぐ(下)
秘密保護法反対声明/日本被団協
非核水夫の海上通信114
3面 手記 ―― 被爆70年へ 生き抜いて(7)
「はだしのゲン」声明 教育現場での自由閲覧を守れ
ビキニ事件と広島・長崎
制定30年 ―― 「原爆被害者の基本要求」とは
4面 相談のまど 原爆症認定・新基準 甲状腺機能低下症の認定は
被爆者手帳取得の証人さがし

ふたたび被爆者をつくらない決意を世界に!
現行法改正運動 各地で活発な動き

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雪の北秋田市
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東京の学習会
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「獅子の巻」
秋田/過半数の議会で意見書
 秋田県被団協では「現行法改正」を求める陳情で、昨年9月議会では2町村の採択にとどまっていましたが、12月議会では11市町村議会で採択になり、県内25議会の過半数に達しました。
 私たちの運動が参考になればと思い、教訓を述べさせていただきます。
 (1)「法改正」内容での採択は難しい、高齢化して動けないなど消極的になりがちですが、これまでの活動に自信をもち、各議会に陳情書を郵送でもよいので届けます。
 (2)陳情書には意見書の見本とその提出先(衆議院、参議院、厚生労働省等)を明示したものを同封します。見本などは日本被団協にあります。
 (3)「請願」は紹介議員が必要で手間がかかるので「陳情」がやりやすいと思います。
 行動すれば必ず成果が出ます。議会に陳情すると、採択・不採択(継続審議)にかかわらず地域住民を代表する議員に私たちの国家補償の要求が明らかになり、この要求に対する態度・姿勢が問われることになります。
 同時にこの運動に反核団体組織にも協力を呼びかけることも大切と思っています。陳情請願はどの団体・個人でもできます。「改正」運動を大きく前進させましょう。(佐藤力美)
 県内採択議会=秋田市 北秋田市 にかほ市 潟上市 仙北市 五城目町 井川町 八郎潟町 小坂町 藤里町 大潟村 上小阿仁村 東成瀬村

東京/学習会・団体要請
 東友会は、12月に「国の償い実現運動」の学習会を開き、1月16日の協議会理事会を契機に、都レベルの団体要請行動を開始。1月中だけで、生協、医療関係、労組、市民団体20団体を訪問しました。
 33人が参加した学習会では、大岩孝平代表理事が、「なぜ、いま、被爆者援護法の改正をもとめるのか」について講演。戦後手厚い補償を受け、累計で50兆円もの支給を受けた軍人・軍属と、長らく放置されてきた被爆者とは生命の重みが違うのかとの問いかけから、現行法の改正要求について講演しました。
 1月の協議会理事会で、請願署名を中心に、運動を広げること、団体にも要請することを家島昌志事務局長が提案。ノーモア・ヒバクシャ東京訴訟が重要な局面を迎えることから、裁判勝利に向けた署名運動への協力も同時におこなうことも確認しました。
 このために東友会は、団体への支援の進め方をくわしく書いた「要請行動獅子の巻」を作成。要請には、東友会役員と訴訟の弁護団も参加しています。


各地での取り組み 会報・ニュースから
 全国各地で国の償い実現・現行法改正運動への取り組みが行なわれています。各県被爆者の会の会報やニュースで、積極的に取り上げています。
 [埼玉]「しらさぎ会便り」で、12月末までの国会請願署名の到達状況が紹介され、「引き続き怒りをこめて、国の償いを求め署名を」と呼びかけています。
 [千葉]「友愛会ニュース」で、各市の会・支援団体ごとの署名集約数を載せています。
 [神奈川]「被爆者ニュース」で日本被団協結成宣言の言葉を引用して署名を呼びかけ、用紙と返信用封筒を同封しています。
 [愛知]「愛友会ニュース」の会長あいさつで「一日でも早い被爆者援護法の改正をめざして全力で(1)1千万署名(2)全議員からの賛同署名(3)全自治体から国への意見書を年内に達成できるよう、年初めからがんばりましょう」と訴えています。
 [熊本]「被団協熊本県版」で、署名の支部・支援団体ごとの到達数を載せ、用紙と返信用封筒を同封しています。

被爆二世が実態調査や健診の充実求め要請行動/神奈川・長崎

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神奈川
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長崎
 【神奈川】神奈川県原爆被災者の会と二世支部は12月20日、神奈川県庁を訪ね、被爆二世対策に関する要請行動を行ないました。要請内容は、1被爆者に準じた援護施策の実施 2がん検診の追加 3二世三世の実態調査の実施 4諸施策の積極的な周知・広報 5県との協議の場を設けてほしい、の5項目です。
 県からは「県の単独予算で11疾病の医療費補助を行なっている。検診回数の増は国にお願いするしかない、がん検診は機会を見て国に働きかけたい、実態調査は方法も含め関係方面と共同して進めたい、把握している二世には積極的な広報を行なう、協議の場は県としてもお願いしたい」とのコメントがありました。
 1月に入って保健予防課河鍋課長から「被爆者の諸手続きを二世が行っていると聞き、次の検診のお知らせ送付時に介護施策のお知らせの同封を考えている」との連絡がありました。
 【長崎】長崎原爆被災者協議会は「長崎被災協・被爆二世の会・長崎」とともに12月20日、長崎県と長崎市に対し、被爆二世の実態調査や被爆二世手帳の交付、健康診断の充実などを求める要望書を提出しました。
 被災協の山田拓民事務局長は「被爆地の行政として他県に先駆けて二世施策を実施するべきだ。行政、被爆者団体、二世の会が一緒になって国を動かそう」と述べ、二世の会は「県市一緒にしっかりした実態調査を。実態こそが科学的知見であり世界に訴えるものになる」などと要望。佐藤直子会長は「核兵器廃絶運動、70周年の取り組みなど行政に協力したい。今後も二世の要望を続けていく」と述べました。
 長崎市は「まず実態調査が必要と考え国に要望している。今年度は二世健診の中に有料だが、肺がん、大腸がん検診を入れ、他県からも注目されている」などと述べました。長崎県は「八者協で二世施策の要望を国へ訴えていきたい。実態調査は放射線影響研究所が行なっている。二世手帳は国が行なうべきで、県行政には限界がある」と述べました。

「福島を忘れない」 反原発集会に8千人/愛媛

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ON NUKESえひめ(写真=愛媛民報社)

 12月1日、愛媛県松山市堀の内公園で「NO NUKES えひめ」という反原発集会が開催されました。地元はもとより四国3県をはじめ中国、九州など全国から8千人が参加し「福島を忘れない、伊方原発の再稼働反対」の声をあげました。
 集会は「伊方原発をとめる会」が主催し、午前10時から作家、ジャーナリスト、写真家、元東電技術者、宇宙飛行士、衆参の国会議員、伊方訴訟の原告などの多彩な顔ぶれのスピーチとともにミュージシャンの演奏を交えながら、午後2時半のデモ出発まで繰り広げられました。またそこでは、食を楽しめる20の食べ物店と14の物販店、紙芝居テナントも出店し、家族連れで参加できる工夫もしていました。
 4時間を超える集会は途中の激しい雨にもかかわらず参加者が欠けることもなく、集会決議を採択の後に南北二つのコースに分かれてデモを行ない、市民に原発反対を訴えました。この集会は四国内ではかつてなく大規模となったため、マスコミにも大きく報道されました。

受け継ぐということ ―― 生きぬく力未来へつなぐ(下)

青木栄さん(52) 熊本県被団協
 私は熊本で、被爆体験や被爆者運動を継承していくための仲間づくりに取り組んでいます。同じ被爆二世という立場にある人たちが、自分自身を見つめ直し、親の被爆体験を見つめ直し、互いに語り合うことでつながっていきたいと思っています。それは、私が父とのかかわりを通して学んだことです。
 テレビ番組を通して、被爆二世の写真家・吉田敬三さんを知りました。全国の被爆二世を撮影し、全国各地で写真展を開きたいと思っておられる方でした。父との出会い直しを経験していたので即座に写真を撮影して欲しいと吉田さんに連絡しました。写真は、私の父(遺影)、2009年度高校生平和大使として核兵器廃絶の署名に取り組んだ娘・道子と三世代で撮ってもらいました。撮影場所は、娘の母校で、私の現勤務校である熊本県立湧心館高校定時制の教室です。父親の生き方から多くのことを学んだ私や娘の姿を通して、命のつながりや人と人のきずなを感じてもらえたらと思います。
 一昨年夏に東京で写真展「被爆2世108人の肖像」が開かれ、2週間で約3千5百人の来場があったそうです。福島原発事故後、東京に避難された方も来られ「写真展に来て本当によかった。ありがとうございます。安心しました。だってこれは私たちの未来ですものね」と涙ながらに感謝を述べられたそうです。一方で偏見や差別と思われるような意見も少なからず聞かされ、被爆の実相が正しく伝わっていないことを実感したと吉田さんは語っています。
 原爆投下から69年、高齢化した被爆者の方に残された時間は少なくなっています。被爆された多くの方の思いを未来へつなぐ活動をなんとしてもやりたい。一番身近で被爆した親を見てきた私たち被爆二世こそがその任をまずは主体的に担っていかなければと思っています。被爆者の方から直接話を聞く時間は刻一刻と少なくなっています。ぜひ、貴重な体験を私たちに聞かせてください。
 「ヒロシマとナガサキほど子どもたちの心を打つものはないと私は確信しています。ヒロシマとナガサキには平和問題だけでなく、人間の生き方の事例があり、いかに生きるか、その指針を与てくれます」
 ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会の江口保さんの言葉です。
 被爆者の方たちの話には、今を生きる子どもたちを励まし、どんなに辛く苦しくとも生き抜いていくエネルギーを与える力強いメッセージが込められています。ぜひ今こそわが子に、そして未来を担う子どもたちに、自らの体験を語ってください。それは、被爆者を親に持った私たちの誇りにもつながっていくと確信しています。(おわり)

秘密保護法反対声明/日本被団協

 特定秘密保護法が12月6日参議院で強行採決、成立しました。日本被団協は前日の5日、「特定秘密保護法の制定に反対する」声明を発表しました。要旨を紹介します。

* * *

 原爆被爆者は、1945年8月に投下された原爆によって殺され、傷つけられたうえに、「核の秘密」の壁によって原爆傷害の治療もなされず、命に関わる痛苦を長期にわたって強いられた。その体験のうえから、秘密保護法の制定を絶対に許すことはできない。
 日本政府は原爆と知りながら戦争遂行の障害になるとして「原子爆弾」と報ずることを禁止し、被害も「相当の被害」「比較的僅少」と発表して事実を隠ぺいした。
 日本に進駐してきた米軍は、原爆被害の事実を世界に知らせないため、プレスコードを発令して報道統制をおこなった。ジュノー博士が、全世界からの救援募金運動、資材調達の組織を赤十字国際委員会に要請した電報さえ、マッカーサー司令部は打電を禁止、一切の救援行動を妨害した。
 原爆による被害の事実が日本国民に公開されたのは、52年夏であった。
 54年3月のビキニ水爆実験で死の灰を浴びた漁船員は、スパイ容疑で取り締まりを受けた。日米政府は医療も補償もせず、多くの漁船員が放射線障害で死んでいった。
 72年、沖縄が日本に返還されたとき「核付き返還」といわれたが、核兵器の所在は厳重な秘密のベールに包まれ、その所在を確かめようとした報道関係者が取り締まりを受けた。その後「核の持ち込み」はまったく検証がなされないまま、今日に至っている。
 今日、原子力発電の事故が相次いでいるが、その被害の実態も公開されていない。秘密保護法で、いっそう隠蔽されることは明白である。
 国家の秘密が生み出す恐ろしさを体験してきた被爆者として、秘密保護法の制定に絶対に反対であることを声明する。

手記 ―― 被爆70年へ 生き抜いて(7)

子どもたちに幸せに生きてほしい
森 律子(もり・りつこ)さん 74歳〈広島被爆 当時6歳 福岡市在住〉

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 あの日からもうすぐ70年、6歳だったあの日からこの年になるまで、よく生きてきました。祖母、父、母、姉、兄、みな被爆し、今ではこの世にいません。

* * *

 20歳のとき、結婚してくれと言われ「私、結婚はできない理由がある」と、思いきって言いました。「実は被爆をしていて結婚は無理と思っている」と。「あまり詳しくは私自身もわからないけど、結構近い距離で被爆していて…」と話す私に夫は「そんなこと関係ない。あんたがどんな状況でも俺は結婚する」と言ってくれ、23歳で結婚しました。

* * *

 第1子(長男)が生まれた後、育児と生活難からくる不安から、精神科にかかることもありました。子どもも病気ばかりで医者に日参していました。子どもをおんぶして病院に行き、待ち時間を合わせると3時間、帰ったらすぐに手でおむつ洗い、という日々。給料袋はすぐ底をつき、生活費を母に借りに行く…。
 この子が病気するのも私のせいか、と悩みながらも、子どもが大きくなってくれるのが楽しみで日々を過ごしました。やっと1年生に入学する頃は小柄ながらも立派に育ちホッとしていると、入学をしてすぐの4月28日に学校から「お腹が痛いと、校医のところに連れてきている」との連絡。とるものもとりあえず走りました。待合室に、えびのように丸まって汗びっしょりになっている長男がいました。医師から「腎臓が腫れているようだ、痛みどめを打ったが、総合病院に紹介状を書くからすぐ行くように」と言われ、入院し、夏休みぐらいまで静養しました。今は元気で立派に社会人になっていますが、当時はこれも私の被爆のせいかと、ずいぶん悩みました。

* * *

 卵巣のう腫になったときは、これで私もおしまいかと思ったのですが、幸いにも生きのびてきました。定期健診の度に「精密検査を要する」と通知がきます。そして昨年がんが見つかり10月に手術をしました。原爆症認定申請を出しています。
 夫が「美人薄命かと思ったけど、子ども3人も生んで、74歳まで生きて大きな顔をして」と笑います。結婚して50年余、金婚式を迎えることができました。幸せな人生であったと思います。子どもたちも幸せな人生を送ってもらわなくては、私が頑張ったのが無になるような気がします。
 美人薄命も、もう少し生きたいです。せめて90歳まで。厚かましいと笑われますか?

「はだしのゲン」声明 教育現場での自由閲覧を守れ

 原爆被害を描いたマンガ『はだしのゲン』を教育現場から撤去せよとの動きが各地で起きていることに対し、日本被団協は1月8日、「すべての教育現場、図書館において、『はだしのゲン』の自由閲覧を求める」声明を発表しました。
 また、「撤去せよ」との陳情が出されていた東京都教育委員会に対し東友会と連名で、従来通り自由閲覧できるよう尽力を希望する旨の要望書を提出。翌9日に同教育委員会の審議で、自由閲覧は守られました。

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[声明要旨]私たち被爆者は『はだしのゲン』を教育現場から撤去する要請が文部科学大臣や、一部の議会や教育委員会に対して行われていることに、大変驚いています。関係者の皆さんが不当な圧力に屈せず、すべての教育現場で自由に閲覧できるよう尽力くださることを望みます。
 日本被団協は1956年の結成以来今日まで、原爆が人間に何をもたらしたか、あの日の地獄、今日までつづく苦悩を語ってきました。同じ体験を誰にも味わわせないためです。すべての人が、原爆について学び、考え、核戦争を起こさず、核兵器を無くすことに努めて欲しいからです。
 『はだしのゲン』は原爆の実相を伝える作品です。20カ国語で翻訳出版され、高く評価されています。日本被団協は国連図書館に寄贈し感謝されました。日本政府も2007年、NPT再検討会議準備委員会で英語版30冊を配布しました。
 『はだしのゲン』を教育現場から締め出すことは、子どもの持つ「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由」(児童の権利に関する条約13条)の権利、憲法が保障する「表現の自由」の権利に対する重大な侵害です。
 すべての教育現場、図書館において、自由に『はだしのゲン』が閲覧できるよう、教育関係者のご尽力を求めます。

ビキニ事件と広島・長崎

第五福竜丸被災60年の迎えて 山村茂雄
 1954年3月1日ビキニ環礁で行なわれたアメリカの水爆実験によって焼津の漁船第五福竜丸と23人の乗組員が「死の灰」を浴び、無線長久保山愛吉さんが死亡してから60年になります。
 第五福竜丸が焼津に帰港したのは3月14日。16日付読売新聞朝刊は「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」のスクープ記事を掲げました。
 第五福竜丸が積んできたマグロから放射能が検出され地中に埋められました。その後帰港した漁船の魚からも放射能が検出され廃棄されました。放射能雨が日本列島に降るようになりました。「原爆マグロ」と「死の灰」の恐怖、生活不安が高まりました。こんな事があっていいのか…国民の怒りが噴出しました。
 原水爆実験禁止を求める署名運動が時を同じくして各地で取り組まれていきます。「いのちと幸せを守ろう」が合言葉でした。1年半で3238万余を結集する国民署名運動の展開でした。
 第五福竜丸の被災は広島・長崎につづく三たびの原爆被害と受け取られました。2年前の対日講和条約によって占領軍の言論統制が解かれ、被爆の実態が公開された被爆写真や文集などで知ることができるようになってもいました。
 その認識が被爆者の生活に及ぶまでにはいたりませんでしたが、アメリカが隠しつづけ、日本政府が放置してきた広島・長崎の「隠された真実」に近づき、理解を深めることになります。署名運動参加者の多くは、第五福竜丸の被災をきっかけにして、被爆の悲惨、惨禍に耐えてきた被爆者の悲しみと怒りを、それぞれが経験した戦争体験の思いにも重ねた、署名運動がすすみます。
 いち早く100万署名を達成した広島の提案を受け、原水爆禁止世界大会が55年8月に広島で開かれました。被爆者の訴えが感動をよびました。大会は、被爆者の実相を広く世界に知らせ、その救済が原水爆禁止運動の基礎と指摘し、「原水爆が禁止されてこそ、真に被爆者を救うことができます」と述べたのでした。

制定30年 ――「原爆被害者の基本要求」とは

 日本被団協が「原爆被害者の基本要求-ふたたび被爆者をつくらないために」をつくったのは1984年11月。今年で30年。来年はヒロシマ・ナガサキ70年。日本被団協がこの年までに実現させようと進めている「原爆被害への国家補償」について「基本要求」に沿って考えてみましょう。(資料=日本被団協パンフ『原爆被害者の基本要求』『ふたたび被爆者をつく らない決意を世界に!』)

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 (1)基本懇と「基本要求」
 日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)は1956年8月に結成した初めから「原水爆禁止」と合わせて「原爆被害への国家補償」を要求してきました。
 1970年代、反核運動の世界的な高揚の中で被爆者運動へ支持が広がりました。これに対して国は厚生大臣の私的諮問機関、原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)を設置して80年12月、「被爆者対策の基本理念」を示す答申を提出しました。
 この答申は「戦争被害は国民がひとしく受忍(がまん)しなければならない」として、原爆被害を含めて戦争被害に対する国家補償を頭ごなしに拒否したのです。
 日本被団協は「受忍」論にきびしく抗議し、多彩な活動と全国的討論を経て84年11月、「原爆被害者の基本要求」を発表しました。
 「基本要求」は、「受忍」論の打破こそが国家補償実現への大前提であり、日本を「ふたたび被爆者をつくらない」国にする道であることを示したのです。

相談のまど 原爆症認定・新基準 甲状腺機能低下症の認定は

 【問】原爆症認定の基準が変わったということですが、どのように変わったのでしょうか。
 私は甲状腺機能低下症で治療を受けています。長崎の3キロで被爆しました。3・5キロであれば認定されると聞いて、申請しようと思うのですが。

 * * *

 【答】昨年12月16日に改定された「新しい審査の方針」は、従来「放射線起因性が認められる」と表示されていた、心筋梗塞、甲状腺機能低下症、慢性肝炎・肝硬変について、この表示を削除し、その上で、各疾病について(1)被爆地点が爆心地から約2キロ以内である者。(2)原爆投下より翌日(24時)までに爆心地から約1キロ以内に入市した者を認定するとしました。
 また、放射線白内障については、被爆地点が爆心地から約1・5キロ以内である者としました。
 08年の新基準がつくられてから、甲状腺機能低下症、心筋梗塞などについて、当時示されていた基準どおり3・5キロ以内であれば認定されると思って申請をした人たちが、次々と却下されました。今、その人たちが却下処分取り消しを求めて提訴しています。
 今回の新基準は、非がん疾患は3・5キロではなく2キロ以内、1・5キロ以内での被爆が、「放射線起因性が認められる疾病」であるとしたのです。
 しかし裁判の判決は、2キロ以遠の人が勝訴しています。裁判と国の行政認定の乖離(かいり)をなくすために、3年かけて議論された原爆症認定制度検討会でしたが、今回の改定では乖離は解消されません。
 3月には大阪、熊本地裁で却下処分取り消し訴訟の判決が予定されています。これらの結果を見ることも必要です。
 今回の改定であきらめずに原爆症認定の申請は是非行なってください。

被爆者手帳取得の証人さがし

 多木 和子さん 昭和6年10月生まれ、広島市出身。
 多木さんは当時、広島市西白島町に母ツネさんと2人で暮らし、三篠国民学校高等科2年生でした。2人の姉は結婚し旧満州に行っていました。
 8月6日の原爆投下時は、学徒動員で、楠町の宗徳中学近くの田村工場で飛行機の発動機の部品づくりに従事していました。建物の下敷きになって気を失い、気がつくと腰を打ち頭と足に傷を負っていました。同級生の内藤須磨子さんと手をつないで逃げ、途中の救護所で手当てをうけ、新庄町の民家で水と下駄を貰い一夜を明かしました。7日朝、自宅に向かう途中、三篠付近で別れた内藤さんのその後の安否はわかりません。
 白島の自宅付近は一面焼け野原でした。隣家の満井さんに出会って母の消息を知り、牛田の不動院へ。そこで背中と両足片手の背面を火傷した母を見つけることができました。8日、母に言われ自宅跡に行って釜と茶碗を拾い不動院に戻ると、母は軍のトラックで運ばれた後で、市内福屋などの救護所を探し回りましたが会えず、20日頃、「似島で15日に死亡した」と知らされました。30日に呉市の叔父が迎えに来て広島を去りました。
 長くは生きられないと思い、被爆したことを話したくなかったため、手帳をとりませんでした。1994年8月に母の遺骨と遺品が手元に戻ったことを機に申請しましたが、却下。昨年再度申請しましたが、証人2人を求められ、行き詰まっています。
 連絡先=篠原博之(本人の甥)下関市垢田町5-18-1 FAX083-252-4533