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決着(1-5)に戻る

それから後は廊下で誰ともすれ違わなかった。用心棒たちの射殺も気づかれなかった様だ。カリーナは或る部屋の前で止まり、鍵束を取り出してドアを開けた。
室内は無人で、大きなジェラルミン製と思われる箱が一杯並んでいた。カリーナはドアを閉めると、一つの箱まで俺を導いた。その箱は長さ二メートル強、縦七十センチ位の大きさだった。カリーナは箱を開けた。鍵は掛かっていなかった。
「ハマオ、この中に入って」
「入ってどうするんだ?」
「この箱は、臓器を貨物船まで運ぶ箱よ。あなたには悪いけど、この箱の中で一日我慢して。貨物船に運びこまれたら、私が頃合いを見計らって開けるわ」
「ふざけるな。俺をミイラにするつもりか?」
「本気よ」カリーナはそう言って、懐からレーザーメスを取り出し、箱の目立たない箇所に三つ穴を開けた。そして箱の中の冷凍装置のコードをやはりレーザーメスで焼き切った。
「これであなたは窒息もしないし、冷凍になる事も無いわ」
「簡単に言ってくれるよ、全く」
俺は白衣を脱ぎカリーナに渡し渋々中に入った。
「このアローガン、持って行って」
「俺は銃は必要としない」
「何故?あなたのためよ」
「電子トンファーがある」
カリーナは暫く戸惑っていたが、諦めた。
「わかったわ。あなたの哲学については今度ゆっくり聞きましょう」
カリーナはニッコリ笑って、俺の頬にキスをした。その笑顔はまるで女神の様でとても愛らしく、先程五人の人間の命を奪ったカリーナとは別人の様に思えた。
「気を付けて。じゃ、貨物船の中で会いましょう」
カリーナが箱を閉め鍵を掛けたため、俺の視界は真っ暗になった。そしてカリーナが部屋を出てドアに鍵を掛ける音が聞こえたのを最後に、俺は漆黒の闇と静寂にすっぽり包まれた。
箱の中は、俺の一八一センチ、七十三キロの体では寝返りを打つのがせいぜいの狭さだった。最初、窮屈さを感じていた俺も、いつしか眠りに落ちて行った。

何時間眠ったのだろう。部屋に人の入って来る足音で目が覚めた。
カリーナが銃で開けた穴から明かりが差し込んでいる。朝になったのだろうか?
どこかの女が箱を一つ一つチェックしていく声が聞こえ、男たちが一つ一つ箱を運んでいく様子が窺えた。
俺は自分が箱の中に入っている事がバレた時のために、電子トンファーをいつでも出せる様に右手で強く握った。しかし俺の心配を余所に、俺の入っている箱は男たちによって持ち上げられ、部屋から廊下へ、そして病院を出て車に積まれた。
車は全ての箱が積まれると発進した。案の定、大渋滞に捕まった。
このHamatownで車で移動しようというのが間違いなのだ。
俺は昨日の昼からまる一日何も食べていない事に気が付いた。空腹で腹が鳴った。
しかし俺は耐える事に慣れていた。自分でも珍しいと思うが、目的のためには空腹や体を不自由な場に陥らせる事に対して、逆に喜びを感じる部分のある人間だった。
俺は冬の雪山で狩猟に出た時の事を思い出した。あの時も凍える様な寒さの中で、チョコレート一箱だけで二日間獲物を待った。あの時の獲物は巨大なへらじかだった。
今度の獲物は、長年の宿敵・黄心揚だ。あいつと出会って三年、俺は奴を出し抜き、奴も俺を出し抜く関係が続いた。決着の時が来る事を俺は予感していた。
数時間に及ぶ大渋滞を抜け、車は港に着いた様だった。
汐の匂いがした。俺の入っている箱はまた男たちに持ち上げられ、何処かに置かれた。そこから今度はあまり揺れる事無く機械の様な物によって船内に運ばれた様だった。
船内に入ってからも機械の様な物で船の底の方へ運ばれていった。そして或る場所に運ばれるともう男たちは去っていった。俺はまた漆黒の闇と静寂の中に包まれた。
それから一~二時間経っただろうか。ボオーッと汽笛の大きな音がした。どうやら俺の入った箱の積まれた貨物船は出航した様だった。十一月の船内は冷えた。
汽笛の音がして二~三時間経った頃だろうか。何者かが俺の箱に足音を近づけた。俺はまた電子トンファーを握り直した。
「ハマオ。私、カリーナよ」
そう言って箱の蓋は開けられた。十数時間ぶりに箱が開けられ、俺は暫く船内の明かりに目がくらくらした。
「今、何時だ?」俺は訊ねた。
「午後〇時十四分」カリーナが答えた。
カリーナは看護婦の服ではなく、地味なブルゾンとズボンに身を包み黒い眼鏡も外していて、ただの船員の様に見えた。俺は箱から出て立ち上がった。腰が少しフラフラした。
「さて、これからどうするんだ?」俺はカリーナに訊ねた。
「今この船はもう太平洋上よ。さっきシグナルを送ったから、海自の軍艦が駆けつけてくれるはず。それまでに、黄の場所をつきとめ、できれば逮捕するのが私たちの役目よ」
海自とは海上自衛隊の略だが、二〇一五年の憲法改正で、交戦権を持った実質的な海軍だ。
「黄は何処にいると思う?本当にこの船にいるのか?」
「この船にいるのは間違い無い。この情報を得るために私の同僚が一人命を落としたのよ。ハマオと二人で居場所を知ってる船員をとっつかまえて聞き出すしかないわね」
目も光に慣れて来たし、腰のフラつきも無くなって来た。俺はカリーナの差し出したミネラルウォーターと固形のカロリー食品を二分でたいらげた。
二人は臓器の入った箱のある部屋から、注意深く外へ出た。カリーナの話ではここは船の一番下の方だと言う事だった。

船の廊下を注意深く歩いた。カリーナは小型のアローガンを、俺は電子トンファーをいつでも取り出せる様にしていた。
間もなくペチャクチャ喋る二人組の船員が通りかかった。俺が左の船員の喉に電子トンファーを突きつけ、右の船員にカリーナがアローガンを突きつけた。
「声をたてるんじゃないよ。黄は何処に居るか答えな。さもないと……」
カリーナが美しい顔から迫力のある声で問い正した。俺も電子トンファーを持っていない方の左手で襟を圧迫させて脅した。
「し、知らねえ。黄って誰だ?」カリーナにアローガンを突きつけられた船員が震えながら言った。
「お、俺も知らねえ」俺に電子トンファーを突きつけられた船員が呻いた。
「じゃ、死んでもらうよ」カリーナが目を細めて言った。
その時廊下の突き当たりの階段から、五人の船員が降りてきた。船員たちは俺たちに気づいた。
「おい!何をしている?!」
五人の船員たちは一斉に腰から銃を抜き出した。
俺はやむを得ず、尋問していた二人を電子トンファーで失神させた。カリーナはアローガンで一気に三人を倒した。残りの二人が拳銃を撃った弾丸に対して失神させた二人の船員の身体を、俺とカリーナが防弾替わりに楯にして、押しながら進んだ。
俺は二人に向かって失神した船員を投げつけ、獲物を襲う豹の様に飛び、電子トンファーで銃を持つ二人を失神させた。しかし、船員たちの発射した銃の音が船内に響いてしまった。
俺とカリーナは階段を昇って行った。そこには銃の音を聞きつけ急行してきた三人の銃を持った男たちが居た。カリーナはアローガンで二人を倒し、俺は電子トンファーで一人を倒した。
「どうする?」俺はカリーナに訊ねた。
「何処かに身を隠さなくちゃ」
二人は辺りを見渡し、手頃な部屋に入ろうとした。
しかし遅かった。二人の居る廊下の前と後ろには、それぞれ十人位ずつのマシンガンを持った黒いスーツの男たちが身構えていた。
「くそっ」歯ぎしりして俺とカリーナは背中合わせに黒いスーツの男たちに向かい合った。
その時船内のスピーカーから聞き覚えのある声が響いた。
「ハマオ、そこまでだ。おとなしく降参しろ」
「黄か!!」俺は叫んだ。
「おまえらの動きはモニターされている。諦めて俺の部屋に来い。一緒に食事にしよう」
「食事だと!ふざけやがって」
しかし、俺とカリーナが総勢二十人のマシンガンを持った黒いスーツの男たちを相手にするのは自殺行為に等しかった。
「ハマオ、ここは言う通りにしよう」カリーナが小声で俺の耳元に囁いた。
「海自が来るまでの時間稼ぎになるわ」そう言ってカリーナは、アローガンを捨て両手を挙げた。
俺も仕方なく観念して電子トンファーを置いて両手を挙げた。黒服の男たちはアローガンとトンファーを奪い、素早く俺とカリーナのボディ・チェックをした。そしてマシンガンの銃口を二人の背中に突きつけて、階段を昇るように促した。
俺たちは黙って黒服たちの誘導するままに船の階段を昇り続けた。一番上の階に来てドアの前に立たされた。
「ボス、連れて来ました」
黒服の一人が言った。
「よし、入れ」
室内に入ると、そこは貨物船の一室と言うより、豪華客船のフロアの様であった。豪奢な長い食卓の一番向こうに黄心揚が座っていた。黄はいつもの白いスーツに痩身を包み、髪をオールバックにして、笑っていた。相変わらずのハリウッドの映画俳優になれる様なハンサムなルックスだった。
「二人とも、座れ」
俺とカリーナは長い食卓の黄と反対側の真向かいに並んで座った。黒服の男たちは半分の十人程が部屋に入り、長い食卓をぐるりと囲む様にマシンガンを構えて立っていた。食卓には給仕たちによって、オードブルが運ばれた。
「ハマオ、何を飲む?そちらのお嬢さんは……カリーナだったな」
「マシンガンを向けられたまま食事が出来るか」
「そうだったな。おい、おまえら銃口を下げろ」
黒服の十人程の男たちは、マシンガンの銃口を下げた。
「俺はワイルドターキーをダブルで」
俺は言った。
「私はシェリー酒」
カリーナも言った。
給仕たちは黄に白ワインを、俺にワイルドターキー、カリーナにシェリー酒を運んだ。
「バラバラの食前酒だが、乾杯といこう」
黄はグラスを一度上げると優雅にワインを嗜んだ。俺とカリーナも杯を口にした。
「カリーナは政府の情報部員。この前のカルト教団事件では世話になったな。まだ左肩に傷痕が残っているよ。あんたも腹を撃たれても死ななかった様だな。今度は広東クリニックに潜り込むなんて全く呆れた度胸だ」
黄はオードブルを口に運びながら言った。
「そんな事より、私たちに食事の招待なんてどういう事?」カリーナが聞いた。
「まあ、話を急ぐな。ゆっくり食事しながら話そうじゃないか」
オードブルに続いて巨大な海老と蟹が運ばれてきた。Hamatownではこんなでかい海老など、ほとんど口に出来なくなっていた。
「ハマオ。お前の今回の任務は何だ」
黄はナイフとフォークで器用に海老の肉を口に運びながら言った。
「俺の探偵事務所に依頼があった。ムニ・サムファンというカンボジア系の中年の母親が広東クリニックに肝臓を売ったが、手付金以外の二万ドルが未払いだ。それを取り立てるのが俺の任務だ」
「相変わらず、しょぼい仕事をしてるな。しかしそれだけじゃ、この貨物船に来る理由にはならんだろう?」
「カリーナに、お前を逮捕する様に頼まれた」
俺も海老を口に運びながら言った。
「それでお前は幾らもらえる予定なんだ?」
「ムニ・サムファンからは七百ドル。カリーナからは五十万ドルだ。」
黄はナイフとフォークを一瞬止め、それから笑いだした。
「安いもんだな。俺を捕まえる値段が五十万ドルとは」
「これから俺たちをどうするつもりだ」
「話を急ぐなと言っただろう。ハマオ、お前は今年何歳になった」
「三十一だ」
「俺は三十二になった」
黄はそう言って蟹に取りかかった。
「お前も国籍不明の孤児なんだろう。俺も香港で生まれたが、国籍不明のみなしごだよ。俺たちは似てる所があるんだ」
「悪い冗談だ」
「俺は物心つかない頃から京劇の一座に売られてな。小さい頃から、それは厳しく演技の稽古をやらされたもんだ。やらされたのは役者だけじゃ無い。スリ、かっぱらい、金の取り立て……。悪い事は全てやらされたよ」
「泣かせる生い立ちだな」俺は鼻を鳴らして言った。
「だが十六の時にチャンスが来た。まだ小僧の俺が、ふとしたきっかけでスネーク・ヘッドの大物の命を救ったんだ。人生万事塞翁が馬と言うだろう。あれは本当だ。俺はその大物に取り立てられ、劇団から抜け出す事が出来た。初めは使いっ走りだったが俺は必死に成り上がろうと努力した。気が付くと二十五でスネークヘッドの幹部に成っていた。それから二十九になって日本地区のボスに成り、Hamatownにやって来て……ハマオ、お前と知り合ったな」
「天下の大悪党がHamatownにやって来たわけだ」
「俺は大悪党でも一向に構わん。なあ、ハマオ。今の世の中、香港でもHamatownでも政治家や役人を信用出来るか?まっとうな商売をして報われる奴がどれだけいる?俺は麻薬を欲しがっている奴に麻薬を供給し、臓器の欲しい奴に政府の規制とは違ったやり方で供給してるだけだ。そこらの企業よりよっぽど正直なビジネスだよ」
「盗人にも三分の理、と言いたい訳か」
「お前はそのカンボジア人の母親のためにこうして命を張って、七百ドルもらって何になるんだ。そんな額じゃ、まともに食っていく事すら難しいだろう?」
「何が言いたいんだ?黄」
黄はデザートを食べ終え、シガレット・ケースから葉巻を一本取り出して火をつけた。そして大きく煙を吐き出し、言った。
「どうだ、ハマオ。俺の右腕にならんか?」
俺は一瞬呆気にとられて何も言えなかった。
「今、なんて言った?」
「俺の右腕になれと言ったんだよ。スネークヘッドの大幹部だ。年収は五百万ドルは下らん。お前が腕の立つ人間だという事は、この三年間骨身に染みて感じさせられた。俺はお前の実力を認めてるんだよ」
俺は大笑いした。
「こいつはものすごくおかしいジョークだぜ」
だが黄の鋭い眼は俺をしっかり見つめ、少しも笑わなかった。
「俺は本気だ、ハマオ。お前は金のためなら何でもするのが信条なんだろ?だったらこんなおもちゃで泡銭稼ぎをするのを止めて俺の所に来い」
黄はそう言って、部下から預かった俺の電子トンファーをもて遊んだ。
「お前は一つ間違ってるぞ、黄」
「何だ」黄は聞き返した。
「俺は確かに金のためなら何でもするが、それは俺のポリシーの許す範囲内でだ。黄。おまえらのやってる事は、俺のポリシーから外れている」
黄は暫く黙っていた。
「呆れたよ、ハマオ。お前がこの腐り切った世の中で、そんなくだらん正義感にしがみついているとはな」
「正義感うんぬんじゃ無い」
「じゃ、何だ」
俺と黄はしばし睨み合った。
「俺はお前みたいなくそったれが気に入らないんだよ。このオマンコ野郎!!」
黄の表情が一瞬こわばり、そして冷酷な顔に変わった。
「だったら、お前には死んでもらうしか無いな」
俺とカリーナをぐるりと囲んだ黒服の男たちが一斉にマシンガンの銃口を上げた。その時だった。ものすごい轟音と共に貨物船が激しく揺れ、部屋の半分がムチャクチャに吹き飛ばされた。その直後カリーナは眼にも止まらぬ速さで、衝撃でぶっ倒れた一人の黒服のマシンガンを奪い取り、十人程の黒服と給仕たちを撃ち殺した。
「黄!動くと殺すよ!」
カリーナは倒れている黄に向かって叫んだ。黄は倒れた長い食卓の下からようやく立ち上がって、両手を挙げた。俺もフラフラしながら立ち上がった。
カリーナは黄に歩み寄ると銃口を喉元に突きつけた。俺は窓から外を眺めた。青い海原の数千メートル離れた位置に、海自の駆逐艦とおぼしき艦影を認めた。
「海自の駆逐艦だ。黄、お前もついにお縄だな」俺は言った。
「ハマオ、そこのトンファーで黄を叩いて」
俺が床に落ちた黒光りする電子トンファーを取り上げ様とした時だった。駆逐艦の第二撃がこちらの貨物船に再びものすごい衝撃を与えた。
俺とカリーナと黄はひっくり返った。天井のシャンデリアが落ちてカリーナに直撃した。黄は素早く電子トンファーを取り上げ、カリーナの首筋と俺の肩を打った。俺は電子トンファー独特の電気ショックで、急激に体の力を失った。カリーナは完全に気を失った様だ。
「どうやら、形勢逆転だな。ハマオ」
黄は小さく笑うと、インターフォンに向かって叫んだ。
「海自の駆逐艦だ。こっちも携帯ミサイルで応戦しろ!!」
やがて、貨物船からミサイルの発射音らしき音が何発となく響いた。俺の意識は半分ぼんやりとしていた。しかし黄がトンファーの使い方を良く知らなかったために急所は外れており、失神するには至らなかった。
ただ体が脱力して動けない。その後、黄はインターフォンで何事かを激しく指示しながら、部屋のドアを開けようとした。しかし砲撃のせいで、鉄製のドアは壊された挙げ句の果てに固く閉じられ、全く開こうとしなかった。
黄はマシンガンの弾丸の雨をドアに降らせたが、全く無駄の様だった。やがて黄はインターフォンの前に戻ると再び指示を出した。
「艦尾に隠してあるヘリを飛ばせ。俺は船のてっぺんに出るから、俺を拾い上げろ」
また、ヘリで逃げる気か。そうはさせるか、と思うが体が動かない。そして駆逐艦の第三撃が再び貨物船を激しく揺らした。その拍子で俺は水平に体を飛ばされ、床に倒れた食卓に激しく体をぶつけた。
逆療法なのだろうか。衝撃で俺の体に力が少しずつ戻って来た。第三撃でひっくり返った黄は、立ち上がり窓から外へ体を出し鉄梯子を伝って船上に出ようとしていた。
今度こそは、あいつを逃がさない。その強烈な執念が俺の肉体のパワーを蘇らせた。俺はフラつきながらも立ち上がり、黄の後を追った。

俺は窓から外へ出て鉄梯子につかまった。強い十一月の風が俺の体を大きく揺らした。
しかし必死の力で鉄梯子を一段一段昇って行った。駆逐艦の砲撃と貨物船から発せられるミサイルの発射音のものすごい轟音の中、俺は船のてっぺんに立った。
船のてっぺんには砲撃による貨物船の炎上した黒煙がゆらゆら舞い上がっていた。また貨物船は、駆逐艦の砲撃を避けるためジグザグに猛スピードで進んでいた。その度に船は激しく揺れた。
黒煙の中、黄は立っていた。既に船の真上に飛び立ったヘリの救命用ホイスト装置のサバイバー・スリングがなかなか黄の所にしっかりと届かない様だった。
「黄、待て!俺との決着をつけろ!!」
俺は立ち上がり叫んだ。
黄は俺にようやく気づき、向き直った。
「しぶとい奴だ。こうなりゃ、ヘリに乗るのはお前を片づけてからだ」
黄はそう言うと、右横構えのブルース・リー・スタイルの姿勢をとった。
「お前はマーシャル・アーツの指導員らしいが、俺もガキの頃からカンフーをやっていてな」
黄はそう言って右の黒い革靴の端に手を触れると、革靴の爪先から飛び出しナイフを突き出させた。
黄はナイフの突き出た靴で、俺にものすごく速い右横蹴りを中段に放った。俺はバックステップでかわした。しかしナイフの分だけ間合いが長く、ナイフの刃先は俺の腹の皮を引き裂いた。
続いて黄の素早い横蹴りは下段、上段、中段にめまぐるしく放たれた。俺は避けようとしたが、ナイフの刃先が俺の身体中を傷だらけにした。続いて奴の右かかと落としが俺の頭に降りかかって来た。
俺はすかさず左前蹴りで合わせようとしたが、僅かに間に合わず、頭をブロックした左腕の前腕部を大きく刃先が切り裂いた。稲妻の様な痛みが俺の体に走り抜けた。しかし痛がってる暇は無かった。黄の続いて出した右変則回し蹴りが俺の左の頭部めがけて飛んで来た。
俺はまたもや傷ついた左前腕で、黄の刃を受けた。今度の痛みはもっとひどかった。左腕の筋を切ったらしい。俺は激痛に大きく叫び声を上げた。左腕はダラリと垂れ下がり、もはや使い物にならなかった。
絶体絶命であった。左腕が使い物にならなくなった以上、奴の変幻自在のナイフのついた右の蹴りをかわすのは無理のようだった。黄がその端正なマスクを冷酷な無表情に変えた。俺にはその顔が死刑執行人の様に映った。
「これで終わりだ。ハマオ」
黄は右かかと落としを打つべく、右足を空高く上げた。俺は一か八かの賭に出た。思い切って間合いを詰め、体を一回転させると右下段後ろ回し蹴りを黄の軸足である左足に渾身の力で放った。
俺の一か八かの賭は吉と出た。俺の右下段後ろ回し蹴りが、黄の右かかと落としより〇コンマ何秒か早く、黄の軸足である左足の膝にヒットした。
黄は痛みで大きな叫び声を上げてあおむけに倒れた。俺は素早く奴の右足のナイフを、自分の靴のかかとで根元から折り、続いて黄の上に馬乗りの態勢をとった。俺は使える右の拳でマウントパンチを何発も、速射砲の様に黄の顔にお見舞いした。黄の整った顔面はたちまち血で染められ、お岩さんの様に腫れ上がり出した。
「てめえのために、苦しんだ人間の報いを受けろ!」
俺は叫んで、続けて何発ものマウントパンチを黄の顔面に叩き込んだ。黄の鼻っ柱は折れ、前歯も何発か折れた。黄は両手で顔面をガードした。
俺はすると奴の左の脇腹を何発も殴った。肋骨の折れる音がした。黄は痛みで絶叫し本能的に左脇腹を左手でガードした。するとすかさず俺はガードの空いた顔面にパンチを叩き込んだ。バーリ・テュードのセオリーだった。奴がパンチに我慢しきれずにうつむけになった所を、チョーク・スリーパーで絞め落とす……。
そう思っていた時に俺の後頭部に重い衝撃が走った。ヘリのサバイバー・スリングが俺の頭に落とされたのだった。俺の意識は再びぼんやりとしてきた。俺は黄の体の上から転げ落ち、あおむけに倒れた。もう起き上がれなかった。黒煙の中で、黒煙のすすと流した血で真っ白なスーツを汚しまくった黄が幽鬼の様に立ち上がった。
「最後に勝つのは、この俺様だ」
黄はそう言って右のかかとを思いっきり俺の顔面に叩き下ろした。俺の前歯の何本かが折れ、血がとめどなく流れた。黄はそしてサバイバー・スリングに体を預け、空中のヘリに引っ張り上げられていく。もう追う力は、俺には無かった。
負けた。心底悔しさがこみ上げてきて、俺の頬に涙が滲んだ。しかしその直後に、駆逐艦から発射された十五センチ砲弾が、空中のヘリに命中して木っ端みじんに爆発した。一瞬の出来事だった。黒煙が消えると、ヘリもサバイバー・スリングにつかまった黄の姿も跡形も無く消滅していた。やったぞ!俺はまだ涙の残る顔を、笑顔に変えた。そして俺の意識は急速に消えて行った……。

10

あれから四週間が経った。
黄の乗っていた貨物船は駆逐艦によってだ捕され、貨物船の乗員が全員逮捕された。もっとも乗員の半分は砲撃によって既に死んでいたが。
黄は死体のかけらすら確認されなかった。これによって、二十世紀の終わりから長い間Hamatownに君臨してきた犯罪組織スネーク・ヘッド日本支部は消滅した。
貨物船からは十億ドル相当の紙幣と金塊が押収された。カリーナは失神しただけで軽傷だった。
俺は鼻骨骨折と左腕の深い切り傷と筋の切断と後頭部の打撲と折られた前歯三本および全身のナイフによる切り傷で、Hamatown新市街の警察病院に入院させられた。カルト教団事件の後、カリーナが入院していた所だ。
もちろん、広東クリニックを初めとするHamatown七箇所のスネークヘッド傘下の医院が摘発された。
陳少平院長を含む相当の関係者が逮捕・起訴された。俺は入院中に、政府から五十万ドルの報酬を得た。また結果的に二万ドルを取り返す事になったムニ・サムファン婦人から七百ドルが支払われた。
そして俺とカリーナとムニ・サムファンは警察病院の眼科の手術室の前に居た。
長い緊迫した空気が手術室前の廊下に流れた。俺は既にガラムを十本以上吸って待っていた。
やがて手術室の〃手術中〃の赤いランプが消えた。手術室のドアが開かれた。四十代の日本人の男の医師がニッコリとした笑顔で出てきた。
「お母さん、おめでとうございました。角膜移植は無事に成功しました」
医師が喜ばしげに告げた。
「アニタ!!」
ムニ・サムファンは手術室に駆けて行った。俺とカリーナも続いた。
「アニタ!!」
ムニはベッドに横たわっている我が娘に抱きついた。
「お母さん、ありがとう」
アニタは素晴らしい天使の様な笑顔をほころばせた。
「娘さんの右目はまだぼんやりとしていますが、徐々にはっきり見える様になりますよ」
医師が優しくそう付け加えた。
母娘の感激の抱擁は暫く続いた。
「おじさん」アニタは俺に顔を向けて言った。
「二つの眼で見ると、おじさん思ったよりかっこいい顔してるね」
「こら。俺はおじさんじゃ無く、まだお兄さんだ」
俺はそう言ってアニタの顔を撫でた。アニタは再びニッコリ笑って白い歯を見せた。俺とカリーナは手術室を後にした。
「ハッピーエンドだな」
俺は言った。
「まだ終わってないわ」
カリーナが言った。
「えっ?」
「あなたが決して銃を持たない哲学について、今夜じっくり私のマンションで話を聞かせて頂戴」
カリーナが若く美しい女の甘えた声でそう言い、俺の体に自分の体をぴたりと寄せた。俺は小さく笑ってカリーナの肩を右手で抱いた。
三年に及ぶ黄心揚との決着はついた。俺は暫く体を休めて、またHamatownのしがない探偵稼業に戻るだろう。そしてこれから俺とカリーナの物語も始まっていく様だ。
俺は病院の窓から外を眺めた。もうすっかり木々が見事に紅葉している。もうじき厳しい冬がやって来るな、と思いつつカリーナと寄り添いながら歩いて行った。

(了)

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