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 1  昭和四十年春。日差しの柔らかな日だった。高村浩は運転席に座っていた。右側は穏やかな丘陵、左側は田圃が続いていた。信号よし、と指さし確認をしてから時計を見た。次の駅まであと一分。時刻表通りだった。  ここからレールは緩やかにカーブしてゆく。いつもと一緒だ。高村はかすかに微笑を浮かべた。しかし次の瞬間、彼は急ブレーキをかけた。電車は車輪をきしませながら速度を落として止まった。 「どうしました」  ドアを開けて車掌が入ってきた。ざわざわした雰囲気が伝わってきた。  高村は無言でレールを見つめていた。 「高村さん」 「レールが変だったんだ」  車掌は身を乗り出して前方を見つめた。車掌の吉田は入社して三年目だった。高村より一回り近く若かったが、よく気が利く男だった。 「異常は特に見あたりませんが、何か落ちてでもいたんですか?」 「いや、そうじゃないが」 「とにかく私は、車内放送を入れて、それから駅に連絡します」  高村は額に浮かんだ冷たい汗をハンカチで拭き取った。眼鏡を外し、もう一度かけ直した。レールは春の光を受けて輝いていた。何の異常もなかった。 「川島駅で待機してくれるそうです。お客様にケガはありません」 「そうか。すまなかった」  吉田は頭を下げて出て行った。高村は運転を再開したが、不安は消えなかった。  あれはいったい何だったのだろう。緩やかにカーブしながらまっすぐに伸びていたレールが、急に八の字に曲がって見えたのだ。  ここ二、三日ずっと目が充血していたのは確かだった。痛みもあった。朝起きると目やにが一杯だった。妻は心配したが、高村は特に医者に行くこともなく市販の目薬を差し、そのうちに直るだろうぐらいに思っていた。  やがて川島駅に着き、そこからは終点まで何の異常も感じずに行き着くことができた。高村は乗客がすべて降りるのを確かめると、車内点検をしながら自分の方に向かって歩いてくる吉田を待った。 「夕方からの勤務は変わってもらうよ。ちょっと医者に行ってくる」 「そういえば、目が真っ赤ですよ、高村さん」  回送の表示をして鍵を閉めたあと、高村は駅長室にそのまま向かった。またあのことが起こったら、そして万が一事故にでもなったら、そう思うと不安でならなかった。  高村は着替えをすませると、駅から歩いて十分ほどのところにある眼科に向かった。何年か前、ものもらいになったときに行ったことがあった。公園の外れに古びた小さなビルがあり、そこの二階だった。  受付で症状を話し、しばらくの間椅子に座って待っていた。雑誌を手に取り、読むともなく眺めていたが、目が痛くて結局やめにした。  名前を呼ばれ視力や眼圧を計った後、診察室に入った。医者は高村の目を見ると、何も言わずに何種類かの薬を目に差し、あふれた薬をガーゼで拭き取った後、部屋の灯りを消した。看護婦が彼の前に検査機器をスライドさせ、器具の上にあごをのせて額をつけるように言った。医者はいろんな方角から光を照らしながら検査した。高村は闇の中に自分の目の血管が浮かび上がるのを見た。やがて看護婦があごを器具から離すように言い、検査機器を元の位置に戻した。部屋の灯りがついた。 「目が炎症を起こしていますが、かなりひどい状態です」 「結膜炎ですか」  医者は目の見本を机の上から取って高村の方に差し出すようにした。 「これが虹彩といって茶目の部分です。それから、ここがぶどう膜。このあたりが炎症を起こしています。ステロイドで抑えることはできますが」  医者はそこで言葉をくぎり、高村に口を開けるように言った。 「口の中が痛くないですか?」 「ああ、口内炎です。時々なるんですよ。でも、そのうちに直っていきますから」 「それとこの肘のところですが。赤くなっている」  高村は医者が何を言おうとしているのか分からなかった。早く目薬を出して解放してくれと言いたかった。 「とりあえず目薬を出しておきますが、市立病院への紹介状を書きますから、明日にでもそこで診察を受けて下さい」 「どういうことですか?」 「あそこには専門の先生が見えますから」 「そんなに悪いんですか」 「私が見た限りでは、ベーチェット病の疑いがあります」 「ベーチェット病。聞いたことないですね」 「自分の持っている免疫力が自分を敵と間違えて攻撃する病気の一種です」  そう言われても高村にはよく分からなかった。ぼんやりしたまま診察室を出て、受付で薬と紹介状をもらいお金を払った。  高村は帰りにバスを選んだ。電車に乗れば同僚と顔を合わすだろうし、声をかけられたくはなかった。バスの一番後ろに座り、混乱した頭を何とか整理しようとした。どこかでバスが止まり、ドアが開き、また閉まる。その時の音が自分の吐息のように聞こえた。  医者はベーチェット病の疑いがあると言った。膠原病の一種と考えられていて、原因不明の難病だということだった。高村は胸のポケットに入っている紹介状を見てみたくなった。しかしまさか日本語で書いてあるとも思えなかった。  バスは田園地帯を走った。レールが曲がって見えた近くを通ったとき、恐怖で全身がふるえた。  もうこの仕事はできなくなる。入社して十五年、営業、事務、乗車業務と部門を変わったが、今の仕事が一番好きだった。自分の生まれ育った田園風景の中を走るのは、想像していた以上に心楽しいものだった。  季節の移り変わりを景色の色で感じた。山奥の終着駅では野鳥のさえずりを聞くことができた。朝、夕は混雑するが、昼の間は乗客も少なかった。大きな事故も、客同士のトラブルも起こらなかった。  一昨年、男の子が生まれた。結婚して五年目にしてようやく授かった。その前の年にも妻は妊娠したが死産だった。それだけに喜びも大きかった。  家に帰って、妻にどう説明すればいいだろうか。高村がそんな事を考えている間に、バスは自宅近くの停留所に着いた。  翌日、高村は休みを取り、紹介された市立病院に行った。ロビーには長いすが三十以上並んでいたが、人がぎっしりと座り、受付のアナウンスを待っていた。世の中にはこんなにもたくさんの病人がいるのかと思うと同時に、自分もその仲間に入ったことを苦々しく感じた。  昨夜、妻には本当のことは言えなかった。ただ目が痛いから医者に行ったことと、精密検査を受けた方がいいと言われたことだけを話した。胸のポケットに入っている封筒の中身が胸をちくりと刺したが、高村は怖くて言い出せなかった。息子はもう寝ていたので、寝顔だけをそっと見て、味も分からない食事をした。  高村は自分の名前が呼ばれているのに気づいて受付に行った。若い女性が透明なファイルに入ったカルテを渡してくれ、診察を受ける場所を教えてくれた。  眼科は一階の一番奥にあった。そこでも順番待ちの列が長く続いていた。悪夢でも見ているかのようだった。次はあっちへ、今度はまた別のところへと回され、自分の順番が来る前に目が覚めてしまうような気がした。高村はたとえ悪夢でもいいから今の状態が夢であってくれることを祈った。  しかしそれは夢ではなかった。医者から告げられたことは、自分がベーチェット病であること、症状は良くなったり悪くなったりを繰り返しながら進行していくこと、視力を失う可能性があること、特定疾病として治療費の免除があることなどだった。原因は不明で、治療も対処法しかないと言うことだった。  高村は診察室を出た。地に足が着いてないような感覚だった。仕事もできなくなる、妻や子の顔も見られなくなる、田舎の美しい風景も漆黒の闇に変わってしまう。  生活費はどうしたらいいのか。今までごく当たり前に過ごしていた生活が白紙になる。そこにどのような絵を描けばいいのか。高村は、線一本さえ引くことのできない自分を感じた。  2 「恵子さんにはもう言ったのか」  兄の信雄は助手席にいる高村に言った。 「いや、まだなんだ。どう言い出したらいいか分からなくて」 「黙ってちゃだめだろ。早く知らせなきゃ」 「動揺すると思うんだ。子供もまだ小さいし。悪い影響を与えそうな気がしてさ」 「とにかく今の状態を説明しないと、恵子さんだって不安だと思うぞ」  高村は兄の車の中でため息をついた。  バスで帰るつもりだった。停留所で並んでいた時、ふと兄の顔が浮かんだ。  一人で帰るのが怖かった。一人で抱え込むにはあまりにも重い事実だった。病院に戻り、公衆電話から兄に電話をした。水道工事の仕事を自宅でやっている兄は、たまたま家にいた。弱々しい声で話す高村に、兄は何度も聞き返した。 「悪いことばかり考えるな。とにかく恵子さんに話をすることだ。お前は小さい頃からそうだった。何でも嫌なことは後回しにして、どうしようもなくなってから俺に頼ってくる」 「わかったよ」  高村はやり場のない苦しみをぶつけるように叫んだ。兄はむっとした顔でハンドルを握りなおした。 「この病気になるのは、十万人に一人だそうだ。俺が何でその一人に選ばれたのか不思議でしょうがないよ。兄貴は病気一つしたことないのにな」 「今のところはな。だが、先のことは誰にも分からん」 「兄貴に愚痴を言ってもしょうがないけど」 「今お前にできることは、恵子さんや会社の人事にきちっと話をすることだ」 「クビになるかもな」 「だったらうちで働けばいい」 「兄貴の会社で何をするんだ」 「まあ、肉体労働だな。その代わり肩書きは専務にしてやる」  高村は笑った。ここ二、三日で久しぶりのことだった。  小さい頃はよくけんかをし、お互い別々の道に進んだが、最後に高村が頼ったのは兄だった。自分がいかに兄を信頼しているかという証拠だなと高村は思った。 「さあ、家に着いたぞ」 「兄さんも一緒にいてくれないか」 「情けない奴だな」  そう言いながらも兄は、車を降りると高村と一緒に玄関に向かった。 「あら、お兄さんに乗せてきてもらったの?」  恵子は高村と兄とを見比べながら言った。 「すみません。あがって休んでください。仕事は大丈夫なんですか」 「今日はあいにく、開店休業でね」  兄はそう言ってたたきにあがった。高村も続いて靴を脱いだ。  恵子はお茶を持ってきて二人の前に置いた。 「修は寝てるのか」 「ええ。向こうの部屋で。ここのところよく寝ますわ。春になると子供も眠くなるんでしょうか」 「実はね、恵子さん」  切り出したのは兄だった。高村は話の穂を次いだ。すべて話し終えると、恵子は唇を引き締めるような表情をした。 「今すぐというわけじゃないが、目が見えなくなる可能性がある。そうなると仕事がなくなる」  高村がそう言うと、恵子は首をかしげるようにした。 「私が働くわ。それに、目が見えなくてもできる仕事は一杯あるじゃない」 「そうはいってもすぐには収入に結びつかない。お前に貧しい思いをさせなきゃならん。修にもだ」 「大丈夫よ、なんとかなるわ」  恵子は高村の目をじっと見つめた。 「恵子さんの勝ちだな」  兄はそう言って席を立った。 「ゆっくりしていって下さい、お兄さん」 「いや、もうそろそろおいとまするよ。じゃあな、浩」  高村は恵子が泣き崩れるものだと思っていた。 「あなた、お兄さんをお見送りして」 「ああ」  気の抜けたように立ち上がり、高村は車まで兄を送った。 「いい嫁さんもらったな」と兄は言った。  家に戻ると、妻は部屋の隅の方でシャツにアイロンをかけていた。高村は黙って彼女の手先を見ていた。ジュッと言う音がした。シャツに水滴がいくつも落ちていった。恵子は濡れたところを何度もアイロンでなぞった。高村は側に行って彼女の肩を抱いた。 「危ないからあっちに行ってて」  そう言って彼女は高村の手を離した。瞳にはあふれんばかりの涙があった。  高村は立ち上がって窓から外を見た。灰色の雲がいくつか浮かんでいた。山の端は黄色く染まっていた。 「会社に電話するよ」 「そうね」  恵子はシャツを持って寝室へ行った。  高村は戸を開けて、ベビーベッドで寝ている息子の顔を見た。今、この顔を目に焼き付けておかなくては、と一瞬思った。  しかし息子にとってそれは迷惑なことではないだろうか。毎日、いや毎年彼は成長してゆくのだ。その時その時の彼を感じてやることのほうが大切なのではないか。声や匂い、足音、身体の動きから来る風の流れ、そう言うものを感じてやることが、父親としての努めではないか。そう思うと、今がすべてではなくなり、心が少し軽くなったようだった。  高村は会社に電話をした。上司に病気のことを話すと、とにかく明日事務所に来るようにと言われた。  妻と会社に話をしたことで、高村は胸のつかえが取れた。これから病気と闘っていくんだという気持ちも出てきた。しかし、どうやって闘えばいいんだ。自分の免疫力で自分を壊していく病気なんて聞いたこともなかった。家族や知人にそんな病気になった者はいなかった。  同病相憐れむという言葉があるが、同じ病気の人に出会うことさえできない。悩みや苦しみを分かち合おうにもその相手がいない。特効薬もない。原因が不明だから対症療法しかない。ない、ない、ない。  高村は窓辺に行ってカーテンを閉め、居間の灯りをつけた。夕暮れを見たくなかった。これから闇へと向かってゆく風景が自分に似ているようで怖かった。  台所から野菜を刻む音が聞こえてきた。時計を見ると六時を過ぎていた。部屋の隅にはアイロンが置かれたままになっていた。妻の涙を蒸発させた熱はもう残ってはいないのだと思った。 3  事務所はひっそりとしていた。ときおり電話が鳴ったり、旅行会社の営業マンが訪ねてきたりしたが、それ以外は、人が働いているとは思えないような静かさだった。時間はゆっくりと流れ、分刻みの正確さは要求されなかった。  高村は机をあてがわれ、書類を眺めて一日を過ごした。  初めて症状が出てから一ヶ月が経っていた。上司から広報部へ行くように勧められた。受け皿があっただけ幸運だった。しかし、もし失明したら、退職するしかないという覚悟もしておかなくてはいかなかった。  目の炎症は、ここ二週間程は落ち着いていたが、胸が圧迫されるような感じがあり、胃腸の具合が悪かった。医者は薬の副作用だといっていたが、高村はそう安気に考えることはできなかった。  休日には市立の図書館まで足を運び、ベーチェット病に関する本をむさぼるように読んだ。しかし、そこには彼の知りたい事は書かれていなかった。失明後、生計を立てていけるのか、それが一番の不安だった。  妻は友人の紹介で働き始め、修の面倒を見るために兄の家から祖母がやってきた。もともと祖父と仲の良くなかった祖母は、本家から通ってくるのではなく、高村の家で寝泊まりするようになった。妻は最初のうち午前中だけの勤務だったが、仕事先から勧められて、夕方近くまで働くようになった。  妻としては姑と一緒に暮らすのは本意ではなかっただろうが、暗い表情をすることもなく週五日働きに出ていた。修は元々祖母になついていたので、毎日祖母が家にいるのが嬉しいようだった。    仕事にも慣れた頃、人事部長から呼びだしがあった。高村が上の階にある部長に部屋に入ってゆくと、部長は椅子から立ち上がり、応接用のソファに座るように勧めた。高村は、笑顔で表面を繕った部長を見ながら、ついに来たかと思った。以前から鉄道部門を売却する話があり、それに伴って人員削減をするという噂があった。 「体調はどうだね」  恰幅のいい人事部長は、親身のこもった言い方をした。 「今のところ落ち着いています」 「そうか。それはよかった」  いつまで笑っているんだ。高村は冷ややかに部長の笑顔を眺めた。 「実はね、うちの会社は鉄道部門を売却することになったんだ。まあ、以前から噂にのぼっていたから知っていたとは思うがね」 「そうですか」 「うむ。それで、まあ本部も削減しなきゃならない」 「やめろと言うことですか?」  高村はのどを詰まらせながらいった。 「とんでもない。君は優秀な人材だ」  その言葉が本心でないことは確かだった。 「部長。早く本題に入ってください」 「私としてはうちに残って欲しい。他の役員もそう言っている」 「向こうへ行けということですか」 「あちらさんが望んでいるんだ。一部上場の会社だよ、君。そんな仏頂面をするもんじゃない。鉄道だけじゃなく、不動産や百貨店もやってみえる」 「私の病気のことは知らせてあるんですか」 「今日は君の気持ちを確かめたかったんだ。行ってもらえるね」  高村が黙っていると、部長は立ち上がり、机の引き出しから封筒を取り出し彼の目の前に置いた。 「これは、あちらさんのパンフレットだ。新入社員向けだが参考になると思うよ」 「待ってください。私はまだ返事をしていません」 「君だけじゃないんだ。役員の中にも降格して向こうに行く人がいるんだ。まして」「病気の人間は当然だということですか」 「そんなふうにとらないでもらいたいな。クビにならないだけでもましだと思えないかね」 「今の言葉はよく覚えておきますよ」 「訴訟でも起こすかね」  部長の顔がゆがんだ。本心が見えたと高村は思った。老獪(ろうかい)といわれる人物だ。自分だけは損をしないように根回しをしているに違いない、と高村は思った。  高村は封筒の中身を見もせずに差し戻して立ち上がった。 「安心してください。私は誰も訴えたりしませんよ。ただね」 「何だね」 「私の病気は一万人に一人の確率でしかかからないんです」 「だから」 「うちの従業員は何人ですか」 「三千人だよ」 「だったら、私の気持ちを理解できる人は一人もいないですね」  そう言って、高村は背を向け部屋を出て行った。  新しい職場で一通りの研修を終えると、高村は駅前の百貨店に配属された。仕事の内容は入荷してくる荷物のチェックや整理が中心だった。きらびやかな百貨店の裏側は、打ちっ放しのコンクリートと、ひび割れて水漏れのする灰色の壁に囲まれていた。給料は半分に減った。  同僚の中にもこちら側に来た者はいるが、ほとんどが鉄道部門で働いていた。あの春の日、レールが曲がって見えた時に、車掌をしていた吉田が高村を訪ねてきた。彼もこちらに移ったうちの一人だったが、気配りの良さと明るい性格で新しい職場にもすぐになじんだようだった。高村は五時に勤務が終わるので、吉田を夕食に誘った。 「みんな高村さんのこと心配していますよ」  そう吉田は言った。しかし高村は、彼らが心配しているとは思わなかった。仕事帰りに電車に乗っていると同僚と顔を合わすこともあったが、彼らは会釈だけして去るだけだった。誰もが自分のことで精一杯で、落ちていった人間に気を遣う余裕などないのだった。  酒が飲めない高村は、肴をつつきながら吉田の気遣いを嬉しく思った。 「今、僕は大阪線に乗ってるんです。近いうちに特急の運転をさせてもらえそうなんです」 「それはよかったな」  吉田はグラスに残ったビールを一気に飲み干した。 「ノンストップ特急っていうんです。憧れてましたから」 「うまくやってるようじゃないか」  吉田はにっこりと微笑み、口についた泡をハンカチで拭いた。  そうか。あの時のあんたより出世したよって言いに来たんだな、と高村は思った。吉田に邪意がないことは分かっていた。しかし高村は今後は昔の同僚に会うのはやめようと思った。今の仕事に専念し、働けるだけ働こう。そして、いざというときのための準備をしておこう。昔の感情になど浸っている暇はない。時間はどんどん過ぎ去っている。病気の方も、一時良くなっていた目の炎症がぶり返してきつつあった。 「どうかしたんですか」  箸を止めてあらぬところを見ていた高村の顔をのぞき込むようにして吉田は言った。 「いや、なんでもない。それより君の運転する特急に乗ってみたいな」 「やだなあ。高村さんに乗られると、なんだかチェックされている気がして緊張しますよ」 「仕事に緊張はつきものだよ」  自嘲するように高村は言った。立ち上がってトイレに行くふりをして会計を済ませると、吉田の肩に手を置いた。 「今日は俺のおごりだ。君の昇進祝いさ」 「すみません、そんなつもりじゃなかったんですけど」 「まだ酒が残ってるじゃないか。ゆっくりしていくといい。僕はもう帰るよ」  吉田は怪訝そうな目で彼を見上げた。 「朝から子供が熱を出しててね、今電話したらまだ下がらないようなんだ。悪いね、せっかく来てくれたのに」 「お送りしましょうか」  立ち上がろうとする吉田の肩を高村は押さえつけた。 「いや、大丈夫だ。それから、こっちの会社に来た連中に言って置いてくれないか。高村は元気そうだったと。少しも落ち込んでいなかったとね」  高村はまとわりついてくる吉田の声を無視して外に出た。追いかけてこなかったなと思った。空を見上げるとどんよりと曇っているのか星さえ見えなかった。最も周りのネオンサインが明るすぎるからなのかもしれなかった。 4  高村は縁側に座っていた。夕日が山の端に沈みかけていた。茜色の光が雲を染めていた。  母親がお茶を入れて持ってきた。 「母さん、面倒かけるね」 「何言ってるんだよ。私は好きでやってるんだから」 「父さんが寂しがってないかな」 「さあね。そんなことより、お茶が冷めるよ」  高村は頷いてお茶をすすった。お茶にお袋の味というものがあるとは思えなかったが、何故か子供の頃に戻ったように感じた。 「私はずっとここにいてもいいんだよ。恵子さんはどう思ってるかわからないけど、朝から晩まで仕事して、家事もこなして、修の面倒もみてなんて無理だよ。せめて、お前が退院してくるまでは、恵子さんの手助けをしたいんだよ」 「入院してもよくなるかどうか」 「よくなるよ。よくなってもらわなくちゃ困るよ」  母親は立ち上がって台所に盆を置きに行った。  高村は医師から入院を勧められていた。病状が思った以上に早く進み、仕事をしながらの通院や投薬では効果が出なくなってきたのだった。  会社に相談すると、あっさりOKがでた。ただし休職期間は三ヶ月しかなかった。中途入社扱いだからというのがその理由だった。それを過ぎると退職になるということだった。つまり俺をやめさせたいんだな、と彼は思った。  妻は朝早くから働きに出て、夜遅くに帰ってくる。勤め先からは正社員にならないかと誘われているらしかった。しかし、さすがに彼女は疲れが顔に出ていた。家事は義理の母親がやってくれるのに任せていたが、修の世話だけは自分でやらなければという思いがあるのだろう。仕事の日でも、昼休みには、修の様子を見るために戻ってきた。そして、休日はべったりと一緒にいた。  高村はそんな彼女の様子を見ると、妻にとって義理の母は他人と同様なのだとつくづく感じるのだった。 「目が見えなくなったら盲学校へ行くことになる。そこで、点字や、鍼、灸を勉強するらしい」 「そんな心配しなくても大丈夫だよ。よくなるって言ってるじゃないか」 「いや、そういうことも考えておかなきゃいけないんだ」  話をしているうちに日が沈んでしまった。  縁側の庭に、妻の自転車が置いてある。前に子供乗せを付け、後ろには買い物を入れるかごが付いている。スーパーに買い物に行ったりするのだが、坂道を上るときは、自分は降りて、自転車を引いてくるらしい。修を前に、買い物を後ろに乗せた自転車を、額に汗を流しながら押して歩く彼女の姿を想像すると、不思議なことに、その彼女の顔には笑顔が浮かんでいるのだった。楽しくてしようがない、そんな感じなのだった。 「ただいま」  玄関の扉が開いた。高村が立ってゆくと、恵子は修を抱いたまま三和土で待っていた。子供は母親の胸の中でぐっすりと眠っていた。掲げるようにして差し出された修を高村は抱き寄せ、その温もりを感じた。 「友達に送ってもらったの」  そう言いながら彼女は靴を脱いだ。仕事用に買ったワンピースを着ている。 「どうだった?」 「うん、なんとかなりそう」  その瞳には輝きというよりも安堵があった。  保育園に行ってくるといって出て行ったのは、昼食の後だった。恵子としては、修をいつまでも義母に甘えさせていてはいけないと思ったのだろう。仕事の日は保育園に預かってもらうことにしたのだった。修にとってもその方がいいだろうと高村は思った。  保育園が受け入れてくれるかどうか彼女自身も心配していたが、最近はそういう相談も多く、家庭の事情を鑑みて対応してくれたということだった。  高村の母親は、そんなことにお金を使わなくてもと言ったが、妻は耳を傾けなかった。それには一つ理由があった。母親が肝臓を患っていることだった。いくら孫がかわいいからと言っても、体がついていかない時もある。この家に来てからも、一度倒れて二、三日寝込んだことがあった。  高村は視力が落ちていてはっきりとわからないが、妻には母の目が黄色くなっているのがわかるらしかった。黄疸が出ているのだった。病院で薬をもらってはいるが、もし過労で倒れられたりしたら、と妻は心配していた。 「きっと、いい友達ができるわ」  普段着に着替えてきて恵子は言った。 「けんかしなきゃいいがな」 「あら、けんかぐらいしなきゃダメよ。男の子なんだから。一人っ子はけんか慣れしてないから弱いのよ」  そう言ってから妻は急に口をつぐんだ。本当はもう一人子供がほしかった。次は女の子がいいなと二人で話していた頃が懐かしかった。 「さあ、夕飯の支度でもするかね」  母親が立ち上がって台所へ消えた。その後に妻が続いた。  高村は修を抱えたまま縁側まで行った。彼は眠っている子供の顔をじっくりと見た。鼻が高いところは妻に似ている。目元は自分にそっくりだ。  お前を俺と同じ病気にはさせないからな。高村は小声でささやいた。そして、この子の顔を今のうちに目に焼き付けておかなければと思った。やがては成人し、結婚もするだろう息子が、どのように成長してゆくのか、それを見られないのは残念だった。何とか輪郭だけでもいいからうっすらと見えるだけの視力が残ってくれないものだろうか。そう思いながら息子の顔を両手で触った。子供はくすぐったかったのか目を覚まし、彼の膝から逃げていった。  高村は立ち上がり網戸を閉めた。夜が近づいていた。  彼は目を閉じてゆっくりと歩いてみた。方向が全くわからない。すねにテーブルの角が当たり、居間の真ん中にいるのだとわかった。しかし自分がどちらを向いているのかわからない。左に進んでみた。何かに頭をぶつけた。冷たい汗が額に浮かんだ。  闇に包まれるというのはこういうことなのかと、高村はあらためて不安を感じた。息苦しくなり、彼はそのまま座り込んだ。身体の回りに漆黒の壁が立ちはだかり、閉じこめられているような気分だった。 「何をしてるの」  妻の声でわれに返り、彼は目を開けた。 「子供みたいなことして、ものを壊さないでちょうだい」 「少し練習してたんだ」 「練習だなんて……。そのことが起こってからでいいじゃない」  彼女は高村の隣に座り込んで、背中をさすり手を握った。息苦しさが次第に和らいでいった。それがわかったのか、彼女は高村の肩を軽くたたくと、立ち上がって台所の方へ戻った。  そのこと、は身近に迫っている。時間がない。今できることは何だろう。彼は考えた。入院するまであと三日間ある。旧友を訪ねて回ろうかとも思ったが、同情の視線を受けるのは嫌だった。  そういえば新婚旅行以来、妻と旅行に行ってなかった。鉄道の勤務は不規則で、まとまった休みも取れなかった。母親に留守番を頼んで妻と二人で旅行に行こう。そう考えると、高村の不安はどこかに吹き飛んだ。  彼はチラシの裏側にボールペンで計画を書いてみた。三つほど案を作ったところで、台所の方へ行った。紙を見せると妻は、濡れた手を布巾で拭き改めて紙を手に取った。 「三番目がいいわね。有給休暇も余ってるし、課長に頼んで休みをもらうわ。それと、電車の時間は調べといてね」 「乗り換え案内なら俺にまかせてくれ」  台所に笑い声が響き渡った。高村の足に修がしがみついてきた。 5  高村の計画は実現しなかった。  出発日の前日、彼は激しい頭痛と高熱に襲われて、病院に運ばれた。彼は妻が手を握っていてくれたことしか覚えていなかった。気がついたときには、病院のベッドの上だった。側に誰かがうずくまっているように見えて手を伸ばしてみると、妻の上着だった。彼女の抜け殻だけが残っているような気がした。 「高村さん、目が覚めましたか」  白衣を着た医師と看護師が部屋に入ってきた。 「奥さんは別の部屋で休んでおられます」 「妻に何かあったんですか」 「いや、お疲れになっただけです」  看護師が点滴を取り替えた。そのとき彼は、自分が右目に眼帯をしていることに気づいた。 「高い熱が出たのは初めてですか?」 「ええ。何が原因なんですか」 「この病気は、いろんなところに症状が出るんです。幸い脳には異常は見られませんでしたが」 「この眼帯は何ですか」  高村は自分でもおかしな質問をしていると思ったが、それ以外に言葉が出てこなかった。 「緊急で、右目の手術をしました」 「というと」 「今は何ともいえませんが」  医師は途中で言葉を句切り、カルテらしきものに何か書き込んで看護師に渡した。 「若干視力は残る可能性があります。希望を持ってください」  そういって医師は微笑んだ。  希望か……と高村は自嘲気味につぶやいた。目が見えなくなるだけで、命に別状はありません。そう言われたような気がした。生きていればいいという問題じゃない、そう言い返したかった。  医師たちが去っていくと、高村は目を閉じた。穏やかで楽しい休日を過ごすはずだった。それを自分がぶちこわした。家族の楽しみを奪ってしまった。後悔の気持ちと悔しさで胸がいっぱいになった。彼は目を閉じて両手を握りしめた。そうすることで、気持ちを少しでも落ち着かせようとした。しかし、余計に力が入るだけで、むしろ気持ちは高ぶっていった。  人が入ってくる気配がした。高村は妻だと思って目を開けたが、そうではなかった。 「こんにちは」  背の高い初老の男がそう言って、しばらく彼を見つめていた。パジャマ姿で無精ひげを生やしていた。柔らかい表情で、静かに見つめられているうちに、高村は興奮がゆっくりと静まっていくのを感じた。 「青木といいます。ああ、そのままで」  男は起き上がろうとする高村を手で制した。 「安静にしている方がいいですよ。でも落ち着いたら散歩でもなすったらいい」  青木は彼の枕元まで来た。杖をついて歩くのでコツコツという音が響いた。 「私もあなたと同じ病気なんです」  青木は、私もあなたと同じ大学でしたとでも言うような口調で言った。 「高村といいます。よろしくお願いします」  青木は高村の右手の上に左手を乗せた。がっしりとした骨太の手だった。 「これでも昔は漁師をしていたんです。散歩をすると潮の香りがして、元気だった頃を思い出します」 「ここは長いんですか」 「もう三ヶ月ほどになります。左目はほとんど見えません。右目の視野も半分ぐらいになっています。でも、よく散歩に行くんですよ。先生も勧めてくれます。時々、気に入った看護師さんを連れ出したりして、婦長に怒られてます」  青木はペロリと舌を出してから笑った。その笑みに誘われるように高村の頬がゆるんだ。 「私は話が好きでしてね。お疲れだったらそう言って下さい」 「いえ、かまいませんよ。それより椅子にでも座って下さい。立ったままだと疲れるでしょう」 「じゃあ、遠慮なく」  青木は椅子を引き寄せて座った。 「この病気になって、もう五年になります」  青木はそう語り始めた。発病から、病院探し、治療方法など。高村にも参考になることが多かった。 「この病気は、世界中のどこにでもある病気じゃないそうですね」 「風土病ってことですか?」  高村も病気に関する医学書を読んだりしたが、治療方法のことにばかり目が向いて、青木の言うようなことには関心を持ってなかった。 「シルクロードってあるでしょう」 「ええ、商人が絹を運んだっていう道ですよね」 「そう、そのシルクロード沿いにある地域にしか患者はいないそうなんです。不思議なものですな。DNAの一部が特殊な形になっているらしいんですよ」 「でも遺伝はしないって聞いてますが」  高村は修の顔を思い浮かべながら言った。 「ええ、私の家族や親戚にもこの病気になったものはいません」 「私たちは運が悪かったと言うことでしょうか」 「そう後ろ向きに考えるのはやめましょう。目が見えなくなると、他の器官が優れてくるらしいですから。その分得したと思えばいいんですよ」  青木はそこまで言うと立ち上がった。 「またお話しさせて下さい。今日はありがとうございました」  青木は自分のベッドの方へと歩いていった。 「カーテンを閉めてもいいですか」  青木はついたて越しに言った。西日がまぶしいのだろうと高村は思った。 「どうぞ」 「散歩したあとは、食事が出るまで眠ることにしてるんです」  青木は遮光カーテンを半分ほど締めた。高村のベッドから見ると部屋全体の半分は夕日に染められ、もう半分は日没の後のように薄暗くなった。  入り口の扉は半分ほど開いたままになっていた。そこに人影が見えた。恵子だった。妻は少しふらつきながら高村のベッド近くまで来た。 「心配かけたね。それに旅行も行けなかった」 「そんなことより、体調はどうなの?」 「寝たきりだったからか、腰が痛いよ。お前の方は大丈夫か」 「少し疲れがたまっていただけ。もう大丈夫よ」  妻は椅子に腰掛けて、コートを手に取り膝の上にのせた。 「隣の人が眠ってる」 「ああ、青木さんね」 「話したのか?」 「あなたが眠ってる間に」  かすかに青木のいびきが聞こえてきた。 「元気な人だ。うらやましいよ」 「でも、ここまで来る間に、きっとあなたのように苦しんだはずだわ」 「そうだな。身体の具合が悪いと気分はふさぐし、ましてや、直る見込みのない病気だと思うと、誰彼となく怒りをぶちまけたくなる。あの人にもきっと、そんな時期があったに違いない」 「あなたは今、どうなの?」 「この部屋のようなものだな。明るさ半分、暗さ半分」  妻は少し寒くなったのか、コートに袖を通した。 「そろそろ夕食の時間じゃないか。家の方はいいのか?」 「お母さんが見ててくれるわ」 「修が寂しがってるだろう。ママの匂いって言うのはやっぱり違うからな」 「あなたもそう? 私よりママの方がいい?」 「俺は大人だから。好きな人と一緒にいるほうがいいさ」 「無理しちゃって。でも、今のは点数高いわよ」  彼女は彼の手を取って指を絡ませた。高村は恋人時代の頃を思い出した。あの頃は、彼女を家に送って自宅に帰ってからも、彼女の手の感触がいつまでも忘れられなかった。 「明日から仕事だろ? 今日は早く寝ないとな」  彼女は高村の頬に自分の額をこすりつけた。高村は右手で彼女の背中をそっとなでた。  廊下の方で、配膳の準備をする音が聞こえてきた。青木のいびきはよりいっそうひどくなっていた。 6  消灯になってから何時間も寝付けず、少し眠ったかと思うと目が覚めた。まだ夜明け前だった。そして朝の光がカーテンの隙間から差し込むまで一睡もできなかった。そんな日が一週間も続いた。高村は様子を見に来る妻に当たり散らすようになった。わがままな子供のようだと自分でわかっていても、気持ちを抑えられなかった。そんな高村を妻は悲しげな目で見た。  ある日、青木が高村を散歩に誘った。梅雨の中休みで、青空が広がり、病院の中庭には紫陽花が一面に咲いていた。 「ちょっと海を見に行きませんか」  青木はそう言って、立ち入り禁止と書いてある扉を開けて、細い道へ入っていった。高村は黙って彼の後に続いた。  防風林がどこまでも続いているように思われたが、しばらく進むと波の音が聞こえてきて、海が近いことがわかった。心の砂浜に、澄みきった海水が押し寄せては引いてゆくような気がした。こもっている不安や怒りを洗い流してくれるようにさえ思えた。 「ほら、あそこに見えるでしょう」  青木が指さした方を見ると、木々の間から水平線が見えた。二人は近くのベンチに腰を下ろした。 「こうやって見てると、海ってのは穏やかなものです」 「漁の時は大変だったでしょう」 「まあ。仕事ですからね。荒れた海ほど怖いものはなかったです。でも、明け方に一仕事終えて帰ってくるときには、煙草を吹かしながら、オレンジ色の光に見とれていたものですよ」  青木はその時を思い出すかのように、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。高村も勧められたが断った。 「婦長には内緒ですよ」  青木は携帯用の灰皿を取り出した。 「高村さんはどんな仕事をなさってたんですか」 「鉄道会社にいました。営業なんかもやりましたが、電車の運転が一番楽しかったですね」 「それはうらやましいですな。私の甥っ子が鉄道ファンでしてね。駅舎や汽車の写真を撮ったり、自分の家の一間にミニチュアを作って小さな電車を走らせてますよ。あいつに言ったら、高村さんにサインをもらってくれって言われるかもしれませんよ」 「いやあ、電車の運転なんて特別な免許がいる訳じゃないですから」 「そうなんですか」 「船を操る方がずっと難しいですよ」 「でも、そう言う点じゃあ、私たちは二人とも何かを運転していたってことですね」  青木は煙草を消して灰皿の中にしまった。 「私もこの病気になって、漁に出られなくなってからは、随分気落ちしました。気分が腐るって言うんですかね、周りの人に当たり散らして、迷惑もかけましたよ」  高村は、青木が最近の高村の言動のことを言っているような気がした。 「ここへ入院すると同時に、妻は子供を連れて家を出て行きました。離婚届が送られてきましてね、後は私が印鑑を押せばいいだけの状態になっていました。まるで保険の契約書みたいで、現実感がなかったですね。結局、私は印鑑を押して送り返してやりましたよ。その時は、そう言う気分でしたな」  高村は自分の妻が息子を連れて出て行く姿を思い浮かべた。彼女にとってはその方がいいのかもしれないとも思った。 「でも、今じゃ後悔してますよ。一言謝って引き留めていたら変わっていたかもしれないってね」  海からの風が木々の葉を揺らした。波がきらきらと輝いていた。二人はしばらくの間無言だった。 「実は私、来週退院するんですよ」 「そうですか。それはおめでとうございます」 「まあ、病気が治った訳じゃないですけどね。ある程度落ち着いたって言うか、安定期に入ったようで、まあ、これ以上は悪くならないだろうっていうのが先生の見立てです」 「じゃあ視力は残ったってことですね」 「ええ」  青木の横顔にぎこちない笑みが浮かんでいた。これ以上先のことは聞かないでくれと言っているかのように。 「戻りましょうか」  青木は灰皿をポケットに入れて立ち上がった。高村は立ち去る前にもう一度海の方を見た。  久しぶりに歩いたせいか、戻ってくると高村は眠くなってきた。ベッドに入るといつの間にか眠っていた。気がつくと夕食の準備が始まっていた。  今日は来なかったなと高村は思った。毎日仕事と子育てに追われて妻はきっと疲れているんだろう。見舞いに来ても、いらいらした自分に怒りをぶつけられてはストレスがたまるばかりだ。来たくない気持ちもわかった。  夕食後、高村は担当の医師に、不安で眠れないことを訴え、精神安定剤と睡眠薬を処方してもらった。飲んでみると少しは気分が落ち着くように思えた。  翌週、高村は退院する青木に付き添っていった。出口付近には看護師が何人か待っていた。婦長から大きな花束を贈られ青木は顔を赤くしていた。タクシーが滑り込んできて青木はそれに乗った。 「高村さん、また連絡しますよ。せっかくご縁ができたんだし、あなたとは馬が合いそうだ」 「よろしくお願いします」  高村は頭を下げた。看護師たちが動き出そうとする車に近寄ってきて、皆それぞれ青木に言葉をかけた。涙ぐんでいる者もいた。やがて青木を乗せたタクシーは病院を出ていった。  青木は視覚障害者の施設で点字や針灸を習うと言っていた。マッサージ師の資格を取り、自宅で開業したいとも言っていた。  高村は青木の節くれ立った手を思い出した。その指先で指圧をする青木の姿を想像した。商売として成り立つのかどうか、それだけで生活してゆけるのかどうか、高村はそんな心配をした。海を見ながら微笑んでいた青木の、もう片方の横顔に潜んでいたであろう表情が今見えたような気がした。 「部屋へ戻りましょう」  看護師の一人にそう言われ高村はわれに返った。 「もう少しここにいたいんです」 「あまり遅くならないようにね」  彼女はそう言って去った。  青木は人気者だった。誰彼となく声をかけては笑わせ、若い看護師からは恋愛相談まで受けていたようだった。高村も青木に声をかけられたことで鬱屈した気持ちから抜け出せた。その彼がいなくなってみると、周りの風景さえもの悲しく思えてきた。側に誰もいないという寂しさを痛感した。 「高村さん、電話ですよ」  婦長が近づいてきて彼に言った。 「すみません、すぐいきます」  けわしい表情で彼を見ていた婦長は、駆け出そうとした彼を止めて、手を握り背中に手を当ててくれた。 「あわてなくていいのよ。ゆっくりね」 「ええ」  妻は今日も来なかった。もしかしたら……そんな不安がよぎった。  ナースステーションで受話器を取った。高村は聞こえてくる言葉をおそれた。自分からは声が出せなかった。 「もしもし、あなた?」  妻の声だった。息が上がっていた。別の不安を彼は感じた。 「もしもし、聞こえてるの?」 「ああ、すまん。ちょっと走ったものだから」 「落ち着いて聞いて。お母さんが倒れて病院に運ばれたの。今、私とお兄さんで付き添ってるんだけど」 「大丈夫なのか」 「ここ二、三日調子が悪かったの。病院に行きましょうっていっても、行きたくないって言われるから、私、仕事休んでたの」  そうか、それでこっちにこれなかったのかと、高村は倒れた母親のことより自分のことを考えていた。 「あなた、今出てもいいか先生に聞いてみて。病院に来てほしいの。お母さんあなたの名前をさっきから呼んでるの」 「ああ、わかったちょっと待っててくれ」 「何かあったの? 大丈夫?」 「いやなんでもない。青木さんが今日退院したんだ。それで話し相手がいなくなってぼんやりしてたんだ」  高村は主治医に連絡を取ってもらった。OKが出たことを妻に伝え、タクシーを呼んでもらった。  母親が自分を呼んでいると妻は言った。単なるうわごとならいいがと車の中でも落ち着いていられなかった。 7  高村を乗せたタクシーは入院病棟の玄関先に止まった。高村は料金を払うのにも手が震え、小銭を落としそうになった。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせてタクシーを降り、杖をつきながら中へ入ってゆこうとした。普段、病院とその周りしか歩いていないため、段差につまづき倒れそうになった。近くにいた男性が支えてくれたから良かったものの、一歩間違えれば頭に怪我をしていたかもしれなかった。その人は高村に肩を貸してくれ、エレベーターの前まで連れて行ってくれた。 「何階ですか?」 「五階です。助かりました。ありがとうございました」 「じゃあ、気をつけて」  男性は高村の身体をそっと押し出すようにした。高村はエレベーターのボタンを押してから振り返ったが、その時にはもう彼の姿はなかった。  いい人がいるものだと思いつつ、後ろのポケットに何気なく手をやると、財布がなくなっていることに気づいた。あの野郎、そう声に出したが後を追っても無駄なことはわかっていた。怒りと悲しみが同時に襲ってきた。  エレベーターの扉が開き、重い身体を引きずるようにして高村は乗り込んだ。五階まで上っていく時間が長く感じられた。  ようやく着いたと思ったら、まだ四階だった。乗り込んできた若い夫婦が怪訝そうな顔をして高村を見た。悪いことが何もかも一度に押し寄せてくる。高村は憎しみにとらわれた。エレベーターの壁を思いきり殴ってみたかった。乗り合わせた夫婦は恐怖の叫びを上げるか、あるいは哀れみを持って見つめるか。高村は試してみたかった。しかし拳を握ったところで扉が開き、目の前に妻が立っているのを見た瞬間、彼は理性を取り戻した。 「あなた、大丈夫? 冷や汗かしら」  そう言いながらハンカチで額をぬぐってくれた。 「財布をすられたよ。大して入っちゃいないが、病人だと思ってつけ込まれたんだ」 「スリが多いのよ。だから、下で待っていようと思ったんだけど、間に合わなかったのね。身体は大丈夫?」  高村はこくりと頷き、あらためて妻の顔を見た。視野が欠けてきていた。いつの間にこれほど悪くなったのだろうと思うほどだった。 「お母さん、今は落ち着いているわ。さあ、行きましょ」  妻の肩につかまって高村は歩いた。病室にたどり着くまで高村は妻の話に相づちを打つのがやっとだった。やがて訪れる全盲の恐怖に彼はとらわれていた。  大部屋の病室の窓際で、母親は目を閉じていた。腕には点滴の管をつけていたが、表情は柔らかだった。兄が立ち上がって高村の肩を抱いた。 「幸い、病状は落ち着いているようだが、しばらく入院しなきゃならん。手術は無理だと医者は言っていた」  高村は次々と襲ってくる不幸に歯ぎしりしたい気分だった。 「おまえの方はどうだ」 「俺は大丈夫だよ、兄さん。もう退院してもいいくらいだ」 「ほんとなの?」  妻の顔が輝いた。高村は引きつった笑みを浮かべながら頷いた。そして母親の側に座って、その寝顔をじっくりと見た。しばらく見ないうちに随分頬がやつれていた。ゆっくりと上下する胸が、生きている証に思えた。高村は母親の手を握った。かすかに握り返す感触があった。不安や怒りそして憎しみ、そんな暗い心に一筋の光が差した。 「つきそいは俺と女房でやるから、おまえは心配するな。恵子さんも修の面倒を見ないといけないしな」 「すみませんお義兄さん。私もできるだけ来られるようにしますから」 「いやいいんだ。ここは俺たちに任せてくれ」 「修はどうしたんだ。一人で家にいるのか」  高村は急に息子のことが心配になってきた。いままでそのことに気が回らなかった自分に腹が立った。 「お隣に預かってもらってるの」  隣、と聞いて高村は身震いした。彼が病気になり、それが難病であることがいつのまにか知れると、それまで挨拶もしなかった隣家の嫁が頻繁に彼の家を訪ねるようになった。そして自分が信じている宗教をしきりに勧めるのだった。高村が相手にしないと、彼女は妻に向かって説教のようなものをした。妻は適当にあしらっていたが、側で聞いていると腹が立つほどしつこく、高村は彼女が来るとトイレに閉じこもることにした。すると彼女はトイレの扉のところにまで来て、信心を勧めた。 「あんな家においてちゃいけない。すぐ迎えに行くぞ」  怒気を含んだ声で高村が言うと、妻は「心配ないわ」と繰り返して言うばかりだった。 「修が洗脳でもされたらどうするんだ」 「そんなことする人じゃないわ。それにお姑さんも一緒なんだから」 「お前まであの女の味方か。それとももうあの女につけ込まれてしまったのか」 「大きな声を出さないで。ここは病院なのよ。他の人に迷惑だわ」 「とにかく今すぐ家に帰るんだ。兄さん悪いけど、母さんのこと頼む。隣の連中は変な宗教に凝ってて、俺たちを入信させようとしてるんだ。このままじゃ、修が危ない」 「おう、俺に任せておけ。しかし、お前病院に戻らなくていいのか」 「今夜は自宅に泊まってくるって言って、許可もらったんだ。さあ、恵子行くぞ」  高村は立ち上がって、病室を出ようとした。しかしベッドの脇に脚をぶつけて叫び声を上げた。 「あなた、ほんとに大丈夫なの? 何だかおかしいわ」 「おかしくなんかない。もう直ったんだ」  ふらつきながらも高村は妻の手を取り、引っ張ったが彼女は動こうとしなかった。 「もういい、俺一人で行ってくる」  彼は妻の手を離し、あちこちにぶつかりながら病室を出た。視界が針の穴ほどに小さくなっていた。彼女が追ってきて、廊下で彼を捕まえた。 「あなた、見えてるの?」  高村は振り返って妻を見た。いや、見ようとした。しかし、灰色の雲がわき上がるように押し寄せてきて小さな光の穴をふさいだ。涙が頬を伝うのがわかった。  妻がそっとその涙をぬぐってくれた。 「ごめん。頭が混乱していたんだ。迷惑をかけた」 「もう、見えないのね」 「ああ、すっかり見えない」  わっと言って、彼女は彼の胸に顔を埋めた。背中をさすっても彼女のふるえは止まらなかった。 「どうかされましたか」  ナースらしい人の声が聞こえた。どこかとても遠いところから聞こえてくるようだった。  高村は雲の上に浮かんでいた。視力を失うとはこういうことなのかとあらためて思った。かき分けてもかき分けても雲はとぎれない。もう光が差すことはないのだった。 「病院に戻るよ」 「私も一緒に行くわ」  彼は妻の肩につかまった。今までは軽くさわっているだけだったが、これからはしっかりと握っていなくてはいけなかった。 「足元に気をつけてね。ゆっくりとよ」 8  高村は失明後、一週間で退院した。医者の言葉によれば「もう病気は固まった」ということらしかった。直ることはないが、これ以上ひどくはならないだろうということだった。「これからは、あなたの手や耳が目の代わりになります」と医者は言った。  高村は全寮制の盲学校に入り、自分より二回りも年の離れた生徒に混じって、点字や杖の使い方、あんま、マッサージなどを学んだ。  ステッキを使って、障害物との間の距離を測りながら歩き、耳をすますことで何かが近づいてきたり遠ざかってゆくのを感じた。ただの凹凸でしかなかった点も、やがては文字として認識できるようになった。指先は微妙なツボをとらえることができるようになり、腕や肩に筋肉がついてきた。  不思議なものだと高村は思った。何かを無くせば、それを補うように別の力が湧いてくる。やがて高村は、目が見えないことをそれほど不自由に感じなくなっていた。  盲学校を卒業して、自宅に「あんま・マッサージ」の看板を掲げるまでの間に、祖母は亡くなり、息子は小学生になった。  青木が訪ねてきたのは、仕事を始めて一週間ほどたった頃だった。仕事といってもほとんど客はなく、一日中本を読んでいることもあった。妻の収入だけでは生活していけない、本当に仕事が軌道に乗るのだろうかと不安に感じていた頃でもあった。 「随分元気そうですな」  青木にはわずかだが視力が残っていて、顔を高村に近づけながら言った。 「入院されている時より、ずっと身体も丈夫そうになられましたね」 「まあ、体調はいいですけどね。仕事が………」 「しばらくすれば常連のお客さんもつきますよ。私も最初は厳しかった。でも今は、そこそこ稼いでますよ。まあ、自分が食べていける程度ですけどね」 「不安なんですよ。そのうちにツボを忘れてしまうんじゃないかって」  高村は正直に言った。青木にだけは本当の気持ちが言えた。鬱屈した気持ちで毎日を過ごしていた彼にとって、青木は清水の流れる小川のような存在だった。 「高村さん。もしよかったらボランティアをしませんか」  青木のその言葉は高村の心に素直に入ってはこなかった。ボランティアというのは助ける人の事じゃないか。障害のある自分が人を助けるなんてできるわけがないじゃないか。彼はそう思った。 「私はね。週一回、老人ホームでマッサージのボランティアをやってるんです。皆さん喜んでくれますよ。肩が軽くなったとか、腰が伸ばせるようになったとか言ってくれるんです。でも私一人で一日にできる人数はしれてます。あなたも一緒に来てくれたら、もっとたくさんの人の身体を治してあげられると思うんですが」 「私にできるでしょうか」 「できますとも。高村さんも、苦しみながらいくつもハードルを乗り越えてこられたんですよ。そんな人には心がある。心は伝わりますよ。あなたのその指先や腕から」  高村は久しぶりに身震いするような感動を覚えた。  早速その夜、妻に相談をすると大賛成してくれた。そして翌週から、彼は青木とともに老人ホームに出かけるようになった。  最初は黙々とマッサージをしていた高村だが、次第にうち解けて世間話もするようになり、自分の心が開かれてゆくのを感じた。誰もが喜んでくれた。帰り際に握手を求めてくる人もいた。週一回のボランティアが高村は楽しみになってきた。ただ、行き帰りのタクシー代を施設が払ってくれることが気にかかっていた。そのことを青木に言うと。 「いいじゃないですか高村さん。それより、もっともっと皆さんに喜んでもらえるようにしようじゃありませんか」  そう言って励まされた。どこまでも前向きで明るい人だと高村は思った。自分は小さな事にこだわりすぎる。お客が増えないのもそう言うことが原因かもしれない。もう少し融通のきいた人間にならなければ。高村は身体に力がみなぎってくるのを感じた。  ボランティアを始めて三ヶ月ほどたった頃から徐々に客が増え始めた。マッサージの技術も上がったのを感じた。客が客を呼び、夕食をとっている暇のない日もあった。妻は喜ぶよりもむしろ高村の体調を心配した。 「夜は六時までとか、水曜日と土曜日は休みだとか決めておいたらどうかしら」 「いや、でもせっかく来てくれるんだから。それに自営業ていうのは、休みなんてあってないようなものじゃないか」 「お金のことなら心配いらないわ。何とか三人食べていけるし」 「でも、修の学費のこともあるだろ。これから高校や大学にも行かなきゃならないし」  そこでふっと妻が黙り込んだ。 「どうかしたのか」 「修のことなんだけど。どうも学校で嫌なことがあったみたいなの」 「どうしたんだ」 「先生が親の職業のアンケートをしたみたいなの。修ったら、マッサージは何業ですかって先生に聞いたらしいの。そしたらみんなに笑われたんだって」 「馬鹿にされたのか」 「悪い気持ちはないんだと思うけど、マッサージって言う職業が珍しいからかもしれないわね」 「普通のサラリーマンじゃなきゃいけないってことか。自営業の子だっているじゃないか」  そこまで言って高村は、最近、修と話をあまりしていないことに気づいた。夜遅くまで客が話し込んでいく日もあったし、家族三人で夕食をする日が珍しいくらいになっていた。  以前は、庭先でよく修を肩に乗せてやったものだった。妻は危ないからやめるように言ったが、修は喜んでいた。他の父親のようにキャッチボールをしたり、ドライブに連れて行ったりすることはできなかった。だから、父親でしかできないことを修にしてやりたかった。それが庭先での肩車だった。修は自分の身体を支えている父親の存在を強く感じていたことだろう。 「お前の言うとおりにするよ。これからは家族三人の時間を大事にしよう。修だってもっと大きくなれば、自然に俺たちから離れていくだろう。だから、今は一緒にいなきゃな」 「ありがとう」 「いや、お前が言ってくれなかったら、俺はずっとこのままだっただろう。自分のことしか考えていなかったんだ」  妻はそっと高村の肩を抱いて頬をすり寄せた。  本日は閉店いたしました。高村はそうつぶやいて妻の身体を引き寄せた。  翌日、高村は施術時間と休日を決めた。妻に頼んで、なじみの客には連絡をし、玄関には案内の紙を貼った。  それから一週間、一ヶ月と経ったが、思ったほど客は減らなかった。土曜日の午前中は青木と老人ホームへボランティアとして行き、午後はゆっくりと過ごした。日曜日は修と遊ぶ日と決めていた。車の免許を取った妻と三人でドライブに行くこともあった。妻とまだ結婚する前によく訪れたヨットハーバーに行った時は、始めて手をつないだことを思い出したりした。  しかしそのうちに、修の方があまり近づいてこなくなった。親と一緒に過ごすよりも友達と遊んでいる方が楽しいらしく、高村は少しがっかりした。 「修の方が親離れしたのよ。でも、そのほうがいいかもね」 「まあ、いつまでも甘えん坊のままで、引きこもりなんかになられても困るしな」 「男の子は外で思いきり遊んだ方がいいのよ。そのうちガールフレンドなんか連れてくるかもね」  高村の寂しそうな表情を読み取ったのか妻はそんなことを言った。 「ガールフレンドか。あいつ好きな子でもいるのかな」 「そりゃいるでしょ。私には目星がついてるのよ」 「誰だ、隣の遙子ちゃんか」 「男って鈍いわね。この間、修が風邪引いて休んだとき、ノート届けてくれた女の子がいたでしょ」 「そうだったかな」 「結構可愛くて活発そうな女の子だったわ。その子のこと聞いたら、修ったら真っ赤になったのよ」 「そうか、あいつもそんな年頃か」  高村は知らないうちに成長している息子のことを思った。声変わりも間近いかもしれないなと独り言のように言った。妻はただくすくすと笑っているだけだった。  ある日、久しぶりに、修のほうから高村に話しかけてきた。治療が終わって客が帰った後、居間でお茶を飲んでいるところだった。 「お父さん、どうして目が見えなくなったの?」  突然そう言われて、高村は湯飲みを持ったまま、しばらく答えられなかった。 「ベーチェット病って言う病気なんだ」 「もう直ったの?」 「ああ、どうしてそんなこと聞くんだ?」 「その病気って移るの?」 「移りはしないさ。お前にも母さんにも」  高村は、湯飲みをテーブルにおいて点字本を手元に引き寄せた。 「じゃなくて、遺伝とかさ」 「この病気は遺伝はしないんだ。その証拠に、叔父さんも、お祖父さんも、親戚の誰もなってないじゃないか」  本を開いて、続きを指先で読み始めた。そうでもしないと落ち着かなかった。本当なら、息子を膝の上にでも乗せてやるべきだったかもしれない。 「それならいいけど」 「誰かに言われたのか」 「別に。ただ聞いてみたかっただけ」 「お前が心配することはないんだ。この病気はお父さんだけで終わりだ。もう誰もならないさ」  思わず力が入って息子を叱るような口調になっていた。高村は病気になり始めた頃の何ともしがたい怒りがよみがえってくるのを感じた。そんな父親の表情を黙ってみていたのか、修は口をつぐんだままだった。それから、友達のところへ行くと言って出かけていった。  高村はふと不安になった。ベーチェット病になる人は、遺伝子のある部分に異常がみられるということを、まだ病気にかかりはじめた頃に読んだことがあった。自分の遠い親戚に、ベーチェット病にかかった人がいるかどうかはわからなかった。ましてや何世代も前の先祖が仮になっていたとしても、その頃はまだ病名さえわからなかっただろう。  統計によると、この病気は、自分がなったから子供もなるという確率は非常に少ないようだった。  だが、高村は重苦しい気分から抜け出せなかった。せっかく日差しが戻った家庭にまた別の影が忍び寄ってくる気がした。そんなことはない、だいじょうぶだ。彼は何度も自分にそう言い聞かせたが不安が去ることはなかった。   9  高村は居間に座って雨の音を聞いていた。ひさしを叩く激しい音がやんだかと思うと、今度は庭に雨水がしみ入っていく音が聞こえた。  今日は老人ホームに行く日だった。しかし昨晩、青木から「都合が悪くなって行けなくなった。高村さんも一人では心細いだろうから取りやめにしたいがどうだろうか」という電話があった。高村も一人で行くのは不安だったので、青木の言うとおりにした。「連絡は私の方からしておきますから」と青木は忙しそうな口調で言って、電話を切った。  ボランティアに行く日は休みにしていたので、少し手持ちぶさただった。妻も息子も出かけていた。妻が作っておいた昼食を食べると眠くなってきた。このごろは、昼寝をする癖がつき、客が玄関のチャイムを鳴らす音で目が覚めるということもしばしばだった。  疲れているのだろうかとも思ったが、それほど身体を動かしてはいない。ただ寝付きが悪いのは事実だった。修も自分と同じ病気になりはしないだろうかという不安が常につきまとっていた。夜、布団の中に入ると目がさえて、そのことばかり考えるのだった。  いつ起きるかわからないこと、それも、ほとんどあり得ないことなのに、何故それほど彼の心をがっしりとつかんで離さないのか。それはただ単に嫌な予感という言葉で表現できることではなかった。  高村は青木と話したかった。青木ならきっとこう言うだろう。「そんなこと心配してどうするんですか。外れくじは私たちが引いたんだから、後は当たりしか残ってませんよ」と。  高村はおもむろに立ち上がり、電話の受話器を上げた。そして、短縮番号の三番目のボタンを押した。高村の家の電話機には三つだけ番号を登録することができた。一番目が恵子の会社。二番目が兄の家。そして三番目が青木の自宅兼治療所だった。しかし受話器の向こうから流れてきたのは感情のない女性の声だった。 「この電話はお客様の都合により現在使われておりません……」  高村は受話器を置いた。青木の身に何かあったのだろうか。昨夜の青木の話し方にはいつもにない焦りのような調子があった。  居間に戻りあぐらをかいて座り、考えをまとめようとしていると、車が家の前で止まる音がした。青木かもしれない。そう思って玄関まで歩いていった。 「高村さんお見えですか」  聞き慣れない声だった。高村は鍵を外した。ドアが開いて冷たい風が入ってきた。 「県警のものですが」  野太い声だった。 「目が見えないんですが」  高村は、男が身分証を見せているのを感じてそう言った。 「中に入れていただいてもよろしいでしょうか」 「え、ええ、どうぞ」  高村は後ろに後ずさった。 「青木浩三をご存じですね」 「ええ、知ってます」 「一緒に老人ホームにボランティアに行かれてましたね」 「はい。今日もその日なんですけれど、昨夜青木さんから電話があって、今日は中止になったんです。青木さんに何かあったんでしょうか」 「今青木がどこにいるかご存じですか」 「いえ、知りません。さっき電話しましたがつながらなかったんです」 「そうですか。もし、青木から連絡があったりしたら、電話していただきたいんですが……。ご家族の方は」 「今出かけてます。もう帰ると思いますが」 「それでは、この名刺に書いてある番号に電話して下さい」  男はそっと高村の手のひらに名刺をおいた。 「失礼します」  警官は去った。高村は玄関の鍵をかけることも忘れてその場に立ちすくんでいた。  昨夜、青木から電話があったのは十時頃だった。いつもの落ち着いた調子の声に何の変化も感じられなかった。あわてている様子も、追い込まれている感じもなかった。いったい彼に何があったのだろうか。高村は、落ち着かない気持ちのまま座り込んだ。  今は何も言えない、と警察は言った。青木が何か事件に巻き込まれたことは確かだった。高村はボランティアに行っている養老院へ電話をした。 「私、高村と申しますが、院長さんはお見えですか」 「高村さんですか。私、受付の八木です。高村さんのところにも警察の人が来ましたか?」  八木という女性は、いつも高村と青木が行くと、明るい声で出迎えてくれる女性だった。 「ええ、少し心配になったので、電話してみたんですが」 「青木さんは、ここの金庫からお金を持っていったんです」 「そんな馬鹿な。あの人の視力で、金庫を開けるなんてとても無理ですよ」 「それが、そうじゃなかったんです。青木さん、片目は、はっきりと見えるんです」 「どうしてあなたにわかるんですか」 「私、一ヶ月くらい前に、青木さんが院長の部屋を物色しているのを見たんです。私がいることに気がつくと、迷い込んでしまったとか言ってごまかしていましたけど」 「で、盗まれたのはいつです?」 「昨日です。青木さんが突然見えて、明日は来られないから代わりに来ましたと言って。院長が留守をする日だって事を知っていたんでしょうね」 「それで院長さんは」 「今、警察に行っています。それと高村さん、青木さんからお金を受け取ってみえましたか?」  高村は、一瞬自分が疑われたのかと思った。 「とんでもない。私はボランティアとして伺っていたんですから」 「やっぱりそうですか。青木さんには毎月謝礼をお渡ししていたんです。高村さんの分も含めてですけど」  高村は急速に心が萎えてゆくのを感じた。膝が震えて立っていることもできないくらいだった。 「そんなことをする人とは思えない」 「私もです。でも青木さんは、事業を拡大しすぎて借金に追われていたみたいなんです」  それからは何を話したのかも覚えていなかった。妻が帰ってきて、肩を揺さぶり、自分の名を呼ぶまでの間、高村は電話台の前でうずくまっていた。  高村は縁側に座っていた。時折、前の道路を車が通りすぎるだけの静かな日だった。日差しが柔らかく身体を包んでいた。  初めて発作があったのもこんな暖かい春の日だった。あれから七年経った。その間に青木に出会ったことで自分がどれだけ救われたことか。高村はまだ目が見えていた頃に見た青木の笑顔を思い出した。  何かの間違いであって欲しかった。もしかしたら誰かが青木に罪をかぶせたのかもしれない。幾度となく彼はそう考えた。しかし事実はそうではなかった。一ヶ月の逃亡の末、青木は逮捕された。  人間にはいろんな面があるものだと高村は思った。それが様々な人との関わりの中で表れる。残念なことだが事実を認めないわけにはいかなかった。  やがて学校帰りの子供達の声が聞こえてきた。高村は立ち上がって中庭の方へ歩いていった。修が走り寄ってきて、がっしりと高村の身体に組み付いた。 「父さん、相撲やろうよ」 「よし、着替えてこい」 「いいよ、このままで」  修はぐいぐいと押してきた。高村は修の腰のベルトをつかんで持ち上げようとした。しかし重すぎてできなかった。いつからこんなに重くなったのか、それとも身体に力がついたのか。ふと気がゆるんだその隙に修に投げられていた。中庭に仰向けに転がった。 「父さん、大丈夫?」  顔の側で修の声がした。声が変わりかけていた。高村は思わずうれしくなり笑い声を上げた。 「痛くない?」 「ああ、痛くない。でも起こしてくれ」  修は高村の肩を後ろから支えて起こしてくれた。 「何やってるの二人して」  自転車のブレーキ音がした。妻が帰ってきた。 「馬鹿ね。ケガでもしたらどうするの」  妻は高村の背中の砂を払い落としながら言った。  修は黙ったままでいた。怒られると思っているのだろう、身動きしないのがわかった。 「二人とも子供みたい」 「いや、二人とも立派な大人だ」  高村は宣言するようにそう言った。 「さあ手を洗ってきて。おみやげにシュークリームもらったのよ」 「やったあ」  修はそう言って、家の中に駆け込んでいった。 「恵子」 「なに?」 「修が声変わりしたのわかるか」 「そう? でもあなたの耳は少しの違いでも聞き分けられるから……修が、声変わりか。何だかうれしいような寂しいような感じ」  高村は嬉しかった。ここまで来られたことが自分たち家族だけの力ではないと思った。暗く沈み落ち込んでいる高村の心に光を投げかけてくれたのはいつも青木だった。彼に感謝する気持ちはかわりなかった。青木は結果として高村に立ち直るきっかけを与えてくれたのだ。 10  建物の中に入ると、かび臭い匂いが漂っていた。付き添ってくれた係員が「ここでお待ち下さい」と言って、高村を椅子に座らせると、足音を響かせて遠ざかっていった。  冷え冷えとした中で静かな時間が流れていった。やがてドアの開く音がして、二人分の足音が聞こえた。自分の前に一人の人間が座るのを感じた。 「高村さん、青木です」  その声はかすれていて、今にも消えてしまいそうだった。 「ご迷惑をおかけしました」 「青木さん」 「申し訳ないことをしました」 「違うんです。私は一言お礼を言いたくて来たんです」  高村はガラス窓の向こうで青木が笑ったように感じた。 「おかしいですか?」 「いえ、そんな……。罪を犯した私にお礼だなんて、とんでもないと思っただけです」  高村は膝の上に乗せている拳を握りしめた。 「病院で自分を見失いそうになっていた時、あなたに海辺の方へ連れて行ってもらいました。青木さん、私はあなたが乗り越えてこられた苦しみを知ったことで、一つの危機を逃れることができたんです」  青木は黙っていた。高村は彼が話し出すのを待たずに言った。 「退院してからも随分励ましてもらいました。ホームのボランティアに誘っていただいたおかげで、未熟だった自分の技術に自信が持てるようになったんです。私は青木さんにここまで導いてもらったんです」 「高村さん。私はあなたを利用していたんですよ。謝礼も自分一人の懐に入れて……。そんなことを言っていただく資格なんかありません」  青木は涙声で言った。 「私は、事業を拡大しすぎたんです。借金がふくらんで、どうにもならなくなって、ホームのお金に手を出してしまったんです。これは事実です。私は、ここで罪を償います。そして時間がかかっても必ずお金を返します。高村さんの手に渡るべきだったお金も……」 「お金のことはどうでもいいんです。もう忘れてください。私は、そんなことを言うためにここへ来たんじゃありません」  青木はしゃくり上げるようにして泣いていた。高村はそれが収まるまで少し待っていた。 「青木さんは私に光を与えてくださったんです。そのことだけはどうか心にとどめ置いてください」  二人の間に沈黙の時間が流れた。 「それは……。それは違いますよ」  きっぱりとした口調で青木は言った。そして椅子から立ち上がった。 「あなたに光を与えているのは、あなたの奥さんであり、息子さんですよ」  高村は胸をえぐられるように感じた。妻の顔が浮かび、足にまとわりつく息子の温もりを感じた。 「いいご家族をお持ちだ。特に奥さんはご苦労されたと思います。でも明るいお方だ。いつお会いしても、目に輝きのあるお方だ。私のごくわずかしか見えない視力でも奥さんの放っている光はまぶしいくらいですよ」  扉の閉まる音がした。かび臭い風が高村の頬をなでた。 「行きましょう」  係員が高村の肩を叩いた。 「迎えの方がみえています」  高村は立ち上がり、係員の肩につかまり歩いていった。ひんやりとした廊下には二人の靴音だけが響いた。  外に出ると暖かい空気に包まれた。 「お話しできた?」  妻が彼の腕をとった。 「あの人は悪い人じゃない」 「そうね。随分助けていただいたものね」  妻は車のドアを開けて、高村を助手席に座らせた。彼は手探りでシートベルトを引き、バックルに差し込んだ。一ヶ月前に妻は車の免許を取り、中古の軽自動車を買ったのだった。車が動き出した。 「兄貴の様子はどうだった」 「元気そうだったけど、無理にそうしてるって感じもしたわ」  そうだろうな、と高村は思った。兄は腎臓を病んで、週に三回透析に通っていた。今まで大きな病気をしたことがなかっただけに、兄は精神的に参っているはずだった。  高村は窓を少し開けて風を入れた。 「家に着くまでまだ一時間くらいかかるわ。途中のサービスエリアで休憩するからね」 「ああ、帰り道なんだけど、四日市のインターで降りて、湯の山街道を走ってくれないか」 「いいけど、どうして?」 「線路を見たいんだ」  その一言で妻はわかったらしかった。高村が初めて発作を起こした所。そこは彼にとって苦しみの始まった場所であり、そこから徐々に光を奪われ、闇の中に落ちて行ったのだった。そこを通ってみたくなったのは、今日が初めてだった。今まではずっと避けていた。 「今でも変わってないかな」 「そうね、少しお店なんかも増えたけど、道の両側は田んぼがまだ残ってるわ。電車は赤い車両に変わってね。仕事の帰りに時々出会うことがあるわ」 「今までそんな話しなかったじゃないか」 「あなたが聞きたくないだろうと思って……」 「もういいんだ。今では懐かしい場所だ」  妻はラジオのスイッチを入れた。FMから流れてくるのはクラシックだった。妻はクラシックはあまり好きな方ではなかった。それでもチャンネルを変えようとしない理由が高村にはわかった。 「お前には感謝している。頭を下げても下げきれないくらいだ」 「頭なんか下げなくていいの」 「怒ってるのか?」 「怒ってるわ」  それから彼女は、ようやく好きなポップスチャンネルに変えた。澄んだ声のバラードが聞こえてきた。高村は背もたれに身体を預けた。ラジオから聞こえてくる音楽がここちよく、次第に眠くなってきた。隣で妻が曲を口ずさんでいるのを聴きながら、高村は短い眠りに落ちた。 (了)

(了)

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