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筑紫倭国伝

女王国



 邪馬台国を構成するのは、対馬(つしま)国・一支(いき)国・末盧(まつろ)国・伊都(いと)国・奴(な)国・不弥(ふみ)国と「其の余の旁国(ぼうこく)」として記述された二十国である。


 この後に奴国が、「此(こ)れ女王の境界の尽くる所なり」と再出している。『後漢書』にも、奴国が「倭国の極南界なり」の記述があって、狗奴国から南は邪馬台国には属さない。狗奴国は現在の熊本県とほぼ重なり、投馬国は宮崎県と鹿児島県だと考えれば概ね間違いない。


 邪馬台国は、現在の佐賀県・福岡県・大分県を大枠範囲とし、「女王国」は女王の所在所のことで、本来の「国」ではない。


 不弥国(豊国)の霊場で南にそびえる英彦山の山岳都市を、「魏志倭人伝」は「女王国」と記し、『日本書紀』や『古事記』は、ここを高天原(たかまがはら)として描いたに相違ない。


ひこさんまち ひこさんまち

 標高650m付近の英彦山中腹に「英彦山三千坊」と言われた山岳都市を形成したが、明治政府の修験道禁止令などによりさびれ、現在は、みやげ物店などが残る以外は石垣や参道だけをとどめている。
 福岡県田川郡添田町英彦山


 この山岳都市の始まりは、ここが縄文時代を通じて山岳信仰のメッカであり、やがて弥生期の高地性集落となって、女王は、「日の巫女」として、ここから英彦山山頂に登り、「鬼道(きどう)に事(つか)へ能(よ)く衆を惑はし」邪馬台国を統治した。


 女王「卑弥呼」の鬼道は、アニミズム的自然崇拝と太陽信仰が中国渡来の道教と結びついたものである。後にこれが仏教と習合し、やがて役行者によって「修験道」に体系づけられた。


 「魏志倭人伝」は女王国と女王のようすを、「王と為りてより以来、見る者あること少なり。婢千人を以って自ら侍せしめ、唯だ男子一人ありて飲食に給し、辞を伝えて出入す。居処の宮室・楼観、城柵厳しく設け、常に人ありて兵を持して守衛す。」と記している。


 また、「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国、これを畏(おそ)れ憚(はばか)る」と書く。この「一大率」は女王の軍隊であり、女王国の警護、女王の意思伝達、各国の偵察などを、山の峰々を歩き実行した。これが後には「山伏」と言われ、修験のルーツになった。


英彦山峰入り道 英彦山峰入り道

 伊都国王が女王「卑弥呼」の警護に「一大卒」を山に入れた。宝満山は伊都国の東にあり、古くから霊峰として崇めらた。「宝満山と英彦山の間の入峰道は697年に役行者が開いたと伝え、役行者は701年に再来し、宗像の孔大寺山を胎蔵界とする三部習合之峯を開いたとも伝える」
(画:宝満山弘有の会HP)より


 中世以降の英彦山は、出羽の羽黒山、熊野の大峰山と共に、日本三大修験の霊山として栄え、広く九州全域の信仰を集めていた。最盛期には三千の衆徒と八百の坊舎(僧侶や修験者の住家)があり、英彦山中腹に巨大な山岳都市を形成した。


 英彦山伝承では天照大神(あまてらすおおみかみ)の子の天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)が天降った神体山であるとする。したがって古くは「日子山」と書いたが、822年に嵯峨天皇の詔(みことのり)により「彦山」とし、1734年の霊元法皇の銅鳥居(かねのとりい)御宸筆の「英彦山」によって、以後は「ひこさん」を「英彦山」と書くようになった。


銅鳥居(かねのとりい) 銅鳥居(かねのとりい)

 1637年、肥前藩主鍋島勝茂に寄進されたもので、鳥居の額は1734年に霊元法皇より御下賜されたもの。高さ6.9mの青銅製の大鳥居である。ここから奉幣殿までの約1kmは石畳の表参道で「桜の馬場」と呼ばれる。
 福岡県田川郡添田町英彦山


 英彦山は三峰からなり北岳の天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)、中岳に伊奘冉(いざなみ)・南岳は伊奘諾(いざなぎ)をそれぞれの峰の御神体とする。


 通常は主祭神の天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)が中央の中岳に奉られるはずだが、中岳には女神「伊奘冉(いざなみ)」が奉られている。これは英彦山に天子降臨伝説以外の伝説が存在したことを意味する。


 伊奘冉(いざなみ)は火の神「軻遇突智(かぐつち)」を生んだ為に死に、卑弥呼は狗奴国(火の国)との戦争終結のために死んだ。伊奘冉(いざなみ)の死は、ここで死んだ「卑弥呼」をモデルにしたのである。


 女王「卑弥呼」の時代からおよそ500年後の、日本の正史『日本書紀』の編纂にあたり、中国や朝鮮の歴史書も参考にしたことは明らかで、その編者は、邪馬台国の女王「卑弥呼」が魏の明帝から「親魏倭王」の金印を贈られたことも当然知っていた。しかし、大和王家の「万世一系」を書き綴りたい『日本書紀』としては、そのまま女王「卑弥呼」の存在は書けなかった。代わりに登場させたのが「神功皇后」である。


 「記紀」は、邪馬台国の女王「卑弥呼」の事跡を、形を変えながら「神功皇后」の事跡に、あるいは「伊奘冉(いざなみ)」や「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の伝説に置き換えていった。


 『古事記』によれば天孫降臨の地は、「筑紫の日向(ひむか)の高千穂の霊(く)じふる峰」だとして、「此地(ここ)は韓国(からくに)に向ひ笠紗(かささ)の御前(みさき)にま来通りて朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照(ひで)る国なり」としている。「日向(ひむか)」は東の意味であり、「高千穂」は高い山の連なり、「霊(く)じふる」は雲間から射す光線のようすの事で、韓国に向い、朝日にも夕日にも照らされる高い所の集落(国)は英彦山以外には考えられない。


くしふる峯 くしふる峯

 冬、日本海側特有の雲の多い日が続くようになると、不思議と英彦山上空の雲間から射す太陽光線を目にするようになる。おそらく地形の影響であろうが、この風景を前に、古代人は神の降臨を信じた。写真中央の山が英彦山。


 「笠紗(かささ)の御前(みさき)」を『日本書紀』は、ここを「頓丘(ひたを)から国覓(くにま)ぎ行去(とほ)りて笠狭碕(かささのみさき)に到る」としている。これは「日田から国東(くにざき)半島を通って、佐田岬に到る」と書いていると解釈する。九州から佐田岬・四国を見れば傘の形に見え、国東(くにざき)を国の東と書く意味も分かる。


 瀬戸内海は古代から、九州(筑紫)と近畿(大和)を結ぶ大動脈であり、笠狭碕(かささのみさき)は、その海の道標として、重要な位置にあった。それゆえに「記紀」もその位置を記したのである。


 『日本書紀』は天孫降臨の地を、「日向の襲(そ)の高千穂の添山峯(そほりのやまのたけ)」であるとも記している。添(そほり)はソウル、すなわち韓国語で「都」を意味する。英彦山の所在地「添田(そえだ)」とは偶然の一致ではない。


 鎌倉時代初期にできた英彦山の古文書『彦山流記』によれば、英彦山の開山は継体天皇25年(西暦531年)に、中国北魏の僧「善正」が英彦山に入山したことに始まるとしているが、英彦山の修験のルーツは、このはるか以前、邪馬台国の時代にさかのぼる。