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筑紫倭国伝

水行陸行



 邪馬台国(女王国)へは、帯方郡(ソウル付近)を出発地とし、一万二千余里を水行十日、陸行一月の合計四十日間の行程となった。


 帯方郡から七千余里は海岸線に沿って航行し、狗邪韓国(釜山付近)から千余里で對馬国(対馬)、千余里で一大国(壱岐)、また千余里で末廬国(松浦郡)に到着する。


魏志倭人伝の道程 魏志倭人伝の道程

倭人在帯方東南大海之中(中略) 従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千余里、始度一海、千余里至對馬国。(中略)
又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国、(中略)
又渡一海、千余里至末廬国、
(中略)
東南陸行五百里、到伊都国、
(中略)
東南至奴国百里、(中略)
東行至不弥国百里、(中略)
南至投馬国、水行二十日、
(中略)
南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日、陸行一月。(中略)
自郡至女王国萬二千余里。
(以下略)


 ここまでが合計一万里で水行十日の船旅であるが、出発から十日めに到着した訳ではない。当時は目視航行であり、目標とする島や岬が見えなければ出航することは出来なかった。当然に夜間の航行などは有り得ないし、風が強く波の高い日も出航は見合わせざるを得なかった。また、航海中の食糧はそのつど現地調達していくために、必ず陸行(陸地滞在)が伴った。


 水行十日一万里の船旅は、そうした待機日を含む陸行が、二十日は必要であって合計約30日が、当時の平均的な所要日数であった。したがって帯方郡を出発して末廬国に到着するには、約一月を要した。


 末廬国から、残りの二千里を約十日間で陸行し女王国に至るのであるが、二千里という距離は、對馬国と一大国の距離千里の二倍、つまり対馬・壱岐間約80kmの二倍で約160kmということになる。


 問題は陸行の出発地、すなわち水行の終点である入航地は、末廬国のどこなのかということになる。


水行の到達地


 「魏志倭人伝」の文中に「草木茂盛、行不見前人」という記述があり、季節は夏である。これは当然のことであって、つまり当時の船で冬の玄海灘は渡るには危険が大きかった。そこで帰路は翌年の春を待つことになり、滞在期間の長期化は避けられなかった。その間、船を安全な港に係留しておく必要があった。


 豊臣秀吉が朝鮮半島出兵のため、松浦半島の北端に名護屋城を築くが、ここは単に壱岐に最も近いと云うだけではない。長期戦になる兵員輸送用の船舶係留地としての名護屋浦の地形は絶好の場所であった。


松浦半島 松浦半島

 松浦半島の北端にある名護屋浦は周囲を山に囲まれ、前面を加部島で守られた天然の良港である。
 今から420年ほど前(文禄・慶長の役)、豊臣秀吉は、徳川家康などの全国の戦国武将の多くをこの地に結集した。


 邪馬台国の時代も、この地は大陸交易の玄関口であり、国際港として、あるいは軍港として大いに栄えたであろうと想像する。帯方郡から水行一万里の旅の終着点、そして女王国への陸行二千里の旅の出発点は、ここ名護屋浦である。