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投馬国は「ツマコク」と読んだようで、宮崎県西都市の中心部に「妻」という地名の場所がある。ここには都萬(つま)神社があって、天孫「邇邇芸尊(ににぎのみこと)」の妻の木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀る。このあまりにも語呂合せ的な神社由緒は、後世の創作であろう。
こうした創作の背景には、宮崎県高千穂や鹿児島県霧島を天孫降臨の地に比定したい、明治政府(薩摩藩)の『記紀』解釈があった為だが、『記紀』等は、南九州は「まつろわぬ民」の熊襲の国であるとして、幾度も熊襲征伐を重ねた事を記している。「天皇家」の本貫地が南九州であるのなら、あれほど多くの征伐記事は不自然であろう。
都萬(つま)神社
天孫「邇邇芸尊(ににぎのみこと)」の后(妻)の木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀る。木花咲耶姫は、大山津見神(大山祇命)の娘で、姉に磐長姫(いわながひめ)がいる。
宮崎県西都市妻
『魏志倭人伝』は、「南至投馬國水行二十日」と記しているが、これは明らかに誤記で、「投馬国は不弥国の南にあって陸行二十日」と解するのが正しい。
陸行は五日で千余里(約75kmほど)の行程なので、二十日で四千里(約300kmほど)となり、不弥国(飯塚市)から投馬国(西都市)までの陸上距離とほぼ一致する。投馬国へは通常は舟で行くので、これが誤記の原因と思われる。水行なら四日の行程である。
西都原古墳群都萬
3世紀前半~7世紀前半にかけての築造と推定され日本最大級の古墳群である。約300基の多種類の古墳があり、国指定特別史跡。そのほとんどは未発掘で自然の状態で保存されている。近辺には他に茶臼原古墳群・新田原古墳群などもある。
宮崎県西都市三宅
宮崎県西都市には、日本で最大級の規模を誇る西都原古墳群や、近辺には他に茶臼原古墳群・新田原古墳群などが残っている。ここ以外に投馬国の位置は考えられない。
『魏志倭人伝』では投馬国は、邪馬台国を構成する一国のように読めるが、これは明らかに編者「陳寿」の誤認か、あるいは説明不足である。投馬国は、戸数5万余戸を擁する大国で、邪馬台国と同じように多くの国々で構成された連合国家であった。そして邪馬台国と投馬国は友好関係にあったようだ。
九州島内には、この二つの大国とは別に、邪馬台国と敵対する狗奴国があるが戸数の記載がない。狗奴国の勢力範囲は現在の熊本県とほぼ重なり、他の二国との面積比較から見て、戸数3万戸程度だと想定される。対峙した邪馬台国の奴国の戸数は2万余戸である。九州島はこの時期、三国時代であり、女王卑弥呼は遠交近攻策を執っていた。

邪馬台国を構成する国々の総戸数は7万余戸である。対馬国【千余戸】、一支国【三千許家】、末盧国【四千余戸】、伊都国【(万)余戸】、奴国【二万余戸】、不弥国【千余家】の計3万9千余戸と「其の余の旁国(ぼうこく)」二十国の、計3万1千余戸で合計7万余戸である。
そうすると弥生時代後期の九州の総戸数は約15万戸ということになる。『魏志倭人伝』に「屋室有り、父母兄弟、臥息(がそく)処(ところ)を異にす」の記載があるので、一世帯5人で2建物(竪穴住居か)を保有するとすれば、1建物当たり2.5人で、九州の人口37万5千人と計算できる。
弥生時代末の日本列島の人口は、約60万人程だと考えれているらしい。そうすると、九州だけで人口37万5千人は少し多いような気もするが、弥生時代は、そうとう数の渡来人の流入があったと考えられ、人口の九州偏在は十分考えられる。あながち有り得ない数字でもない。