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筑紫倭国伝

末廬国



 名護屋浦に入港した郡使一行の総勢は、おそらく最低でも船3隻、人員120名を下ることはないと思うが、その内、水夫と兵士の半数はこの地に留まって、船の警護と維持管理にあたり、残りの約三分の一が、倭国滞在中の逗留地になる伊都国を目指して陸行を開始することになる。伊都国は「郡使(ぐんし)の往来常に駐(とど)まる所なり」と記されている。


名護屋浦 名護屋浦

 写真中央の橋は名護屋大橋、その奥に加部島が見える。左岸の山上に名護屋城跡がある。邪馬台国の時代から、この入り江が天然の良港として使われた。
 佐賀県唐津市名護屋


 郡使(ぐんし)の長期間の逗留施設は、後には筑紫館(つくしのむろつみ)あるいは鴻臚館(こうろかん)と呼ばれるようになる。直接この施設に船を付けることが出来れば、陸路を行くより楽ではあるが、博多湾岸あるいは唐津湾岸もそうであるが、そのほとんどは浅い砂地が続いており、船を陸付けすることは座礁の危険があり難しかった。交易品などの多くの荷物は、後に天候を見計らい小舟に積み替えて、逗留施設に荷揚げされたに違いない。


虹の松原 虹の松原

 唐津城天守閣から見た虹の松原。左が唐津湾、右が松浦川、中央手前の山が鏡山。鏡山周辺には古墳や遺跡が散在しており、弥生後期の末廬国の中心地であった。
 佐賀県唐津市東城内


 名護屋浦を出発した郡使一行は陸路を東南方向に進み、「山海に浜(そ)ひて居る。草木茂盛(もせい)し、行くに前人を見ず」と記した草木の中を歩き、ようやく海岸に出ると、漁をする倭人の姿が目についた。「好んで魚鰒(ぎょふく)を捕へ、水深浅と無く、皆沈没して之(これ)を取る」と記している。


 唐津市の菜畑遺跡は日本最古の稲作遺跡として有名であるが、郡使一行はこの辺を通過し、松浦川に行き当たる。松浦川は大土井(唐津競艇場)付近で現地の倭人の小舟で渡り、末廬国の聖地である鏡山の裾野に到達する。名護屋浦からここまでが約24kmであり、この辺で一泊することになる。勿論、野宿ではない。この鏡山周辺には横田下古墳や島田塚古墳など多くの遺跡が散在しており、弥生時代後期の末廬国の中心地はこの辺にあったと思われ、有力豪族の館があり、そこが宿泊地となった。


鏡山神社 鏡山神社

 鏡山山頂にある鏡山神社は神功皇后が朝鮮半島出兵のおり、この山に登り戦勝祈願をしたとされる。鏡山は末廬国の聖地であり中心地であった。領巾振山(ひれふりやま)とも云い佐用姫伝説 も伝わる。
 佐賀県唐津市鏡


 翌朝、郡使一行は玉島川を渡り、海沿いの山の縁を張り付くように歩いて、二丈町吉井から二丈町深江に到着する。これが末廬国と伊都国の国境越えであり、名護屋浦を出発してここまでが、ほぼ40kmである。「東南陸行五百里」は、この伊都国の入口までの距離を示している。


邪馬台国道程図


 海岸沿いに押し迫っていた山は、深江を過ぎると南に後退し、眼前には糸島平野が広がる。視界の先には伊都国の聖地、高祖山が見え、この山に向かって一行は先を急いだ。