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筑紫倭国伝

奴国



 「筑紫次郎」の異名を持つ筑後川は九州第一の川であり、阿蘇山・九重連峰に発し、有明海に注ぐ。流域は九州最大の筑紫平野が形成され、弥生時代、ここは奴国と呼ばれた。


筑紫平野 筑紫平野

 筑後川の沖積平野で面積約1200k㎡、福岡・佐賀両県にまたがる。写真は耳納山脈西端の高良山より見た筑紫平野。高良山は奴国の聖地である。
 福岡県久留米市高良内


 奴国は伊都国の東南百里(約8km程)にあって、戸数二万余戸の、邪馬台国中最大の国である。南は邪馬台国に属さない狗奴国に接し、長い間戦争状態に措かれている。


 「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ)と素より和せず。倭の載斯烏越(さしうえつ)等を遣して郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政(さいそうえんしちょうせい)等を遣し、因て詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米(なしめ)に拝仮せしめ、檄を為(つく)りて之を告喩す。卑弥呼以て死す」と「魏志倭人伝」は卑弥呼の最期を記している。


 狗奴国との戦争を終わらせるために魏から派遣された張政(ちょうせい)は、難升米(なしめ)に「卑弥呼を殺すよう」諭したと読める。戦争終結のために卑弥呼は死んだ。


奴国地図 奴国地図

 奴国は伊都国の東南にあり、その南には狗奴国があって、邪馬台国と交戦状態にあった。女王卑弥呼は、この狗奴国との戦争が原因で没した。
 狗奴国は現在の熊本県地方を勢力範囲にし、有明海の制海権を有していた。


 この後、「更に男王を立てしも、国中服せず。更々(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女(そうじょ)壹与(いよ)年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる」とあり、狗奴国との戦争は、卑弥呼の死で終わったが、その後の男王(難升米か)に邪馬台国の国々は服せず、しばらく争乱は続いた。


 邪馬台国の総戸数七万余戸の内、三分の一以上の二万余戸が奴国に集中していた訳であるから、狗奴国との戦争が終わると、必然的に政治権力は伊都国から奴国に移ることになった。このことは「邪馬台国連合」の崩壊に繋がり、統一国家「倭国筑紫王朝」の誕生するところとなった。西暦300年頃のことであろう。


吉野ヶ里遺跡 吉野ヶ里遺跡

 弥生時代の前・中・後期全般を通じて変化・拡大していった継続的な集落跡であり、その規模は弥生時代の環濠集落として全国最大であり、国の特別史跡にも指定されている。
 佐賀県神崎市吉野ヶ里


 奴国の一角で、脊振山系(せふりさんけい)の山麓に「吉野ヶ里遺跡」があって、稲作農耕の開始から古代都市が形成される過程をつぶさにとらえる事のできる極めて学術的価値の高い遺跡であるが、その戦時色の濃さはひときは目を引く。巨大な物見櫓や幾重にもめぐらした環濠跡。そして、地下に埋葬されたおびただしい数の甕棺墓の中には、頭部のないものや矢を打ち込まれたものなど戦死者と考えられる人骨が多数存在する。


 吉野ヶ里遺跡がもつ、こうした戦時色の濃さは狗奴国戦争と決して無関係ではない。筑紫平野一帯には、「吉野ヶ里」のように戦時色の強い古代都市が数多く点在し、それらが奴国を形成したと考える。


御原郡役所跡 御原郡役所跡

 小郡官衙遺跡は、7世紀末から8世紀の間に存在した御原郡の郡衙と推定されているが、一郡衙にしては規模が異常に大き過ぎる。
 福岡県小郡市大保


 後に倭国筑紫王朝の太保府の地になった小郡官衙遺跡は、筑後国御原郡の郡役所跡と推定されているが、そうだとしても、それは8世紀以降のことである。郡役所以前は「倭国筑紫王朝」の太保府の地であり、それを更にさかのぼれば狗奴国との戦争に兵員や物資を供給する後方基地であった。それでなければ、あれほど大規模の掘立柱式建物群が、何の歴史もなくあの場所に存在するはずはない。


高良大社 高良大社

 筑後国一宮高良大社は西暦400年の創建といわれるが、奥宮は「高良廟」・「御神廟」とも称し武内宿称の葬所と伝えられ、高良山信仰の原点ともいうべき聖地である。
 福岡県久留米市高良内


 小郡官衙遺跡から南へ12kmほど行くと、耳納山脈西端の高良山に行き当たる。ここが狗奴国戦争の時は邪馬台国の最前線であった。山頂に立つと筑紫平野全体が眼下に広がる。やがて倭国筑紫王朝の王となる人物も、この山の山頂から狗奴国との戦況を見守っていたに違いない。