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深江から伊都国に入った郡使一行は、高祖山の麓に広がる怡土平野に達する。末廬国の鏡山の麓を出発して、ここまでが約30kmであり、この辺が2日目の宿泊地で、弥生時代の大集落遺跡の三雲・井原遺跡群がある。伊都国には代々「王」がいたと「魏志倭人伝」には記述されるが、ここがその「王国」発祥の地で、日本列島の国家形成の出発点となった場所である。
伊都国は邪馬壹国の母体となった国であり、糸島地方だけを伊都国とするには狭すぎる。その地勢から見ても、博多湾岸一帯を伊都国と考える方が自然である。志賀島で発見された金印「漢委奴国王」は、伊都国王に、授けられたものである。
縄文晩期(約2600年前頃)に、末廬国の菜畑(遺跡)ではすでに水稲作が始まっていて、弥生時代に入ると、水稲作は日本列島全域に伝播し、人々は平地に住み集落をつくった。
そして弥生時代も中期(紀元前100年頃)に入ると稲作技術は進歩し、人口も着実に増加していくが、人口増加は新たな耕作地を必要とし、土地をめぐる紛争も各地で発生するようになっていた。
そうした頃、紀元前108年に朝鮮半島では、漢の武帝が衛氏朝鮮(えいしちょうせん)を滅ぼし朝鮮四郡を設置するが、この動乱で発生した多くの難民の一部は、海を渡り、日本列島に定住の場を求めやって来た。
高祖山の麓に広がる怡土平野の長(おさ)は、こうして増えつづける人口に対処するため、やがて高祖山の南の日向峠を越えて福岡平野に入り、紀元(西暦0年)頃には博多湾岸一帯を統治する「委奴国王」となった。
怡土平野から見た高祖山、中腹に高祖神社がある。写真右側の谷部が日向峠で、越えれば福岡市早良区である。平原遺跡から出土した銅鏡(内行花文鏡)は、直径46.5cmで最大である。
福岡県前原市井原
紀元57年、漢の光武帝が倭に金印を贈ったことが『後漢書』に書いてあり、この金印には、「漢委奴国王」と刻印され、1784年に志賀島で発見された。普通「かんのわのなのこくおう」と読むと、教科書には書いてあるが、「かんのいとこくおう」と読む方が自然であり正しいのだと思う。
江戸時代後半の1784年この地、志賀島「叶の崎」で、地元の農民の甚兵衛が農作業中に発見して、黒田藩に届け出た。
出土地は現在、金印公園として整備されている。
福岡県福岡市東区志賀島
光武帝は、漢王朝を再興して後漢を建てたが、やがて政治は乱れ各地で民衆叛乱が頻発するようになる。184年に黄巾の乱が起こると後漢王朝は統治機能を失い、魏・呉・蜀の三国鼎立の動乱の時代に入った。220年、魏の曹丕に献帝は禅譲して後漢は滅びた。
後漢王朝の混乱は、倭国にも飛び火して国中が大いに乱れた。これが『後漢書』東夷伝に記された「倭国大乱」である。増え続ける難民移住者の為に「委奴国王」の更なる勢力拡大は、周辺諸国との抗争を引き起こした。やがて委奴国王は不弥国との和平工作により、「豊国」の巫女(皇女)の「卑弥呼」を共立し、連合国家「邪馬台国」を誕生させることになった。
238年に遼東太守の公孫氏(こうそんし)が、魏の司馬懿(しばい)に滅ぼされ、帯方郡が魏の直轄地になると、邪馬台国の女王「卑弥呼」は、朝貢使の難升米(なしめ)を派遣した。
景初三年(239年)に魏の明帝も、倭国の女王「卑弥呼」に「親魏倭王」の金印を贈り、破格の扱いをしている。
「女王国より以北には、特に一大率(いちだいそつ)を置き、諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都国に治し、国中に於いて刺史(しし)の如き有り」と「魏志倭人伝」は記す。
邪馬台国の政治的支配は伊都国王によって行われ、女王「卑弥呼」は、不弥国(豊国)の祭祀場で霊峰として崇められた英彦山を在地とし、邪馬台国の宗教的支配を行った。「鬼道(きどう)に事(つか)へ、能(よ)く衆を惑はす」と記されている。
この「鬼道」は、縄文時代一万数千年という時間の中で育まれたアニミズム的自然崇拝の太陽信仰が、弥生時代になり大陸から持ち込まれた「道教」の神仙思想の影響を受けて「鬼道」と呼ばれた。
やがてずっと後の時代になって、この「鬼道」は、役行者によって「修験道」として体系化され、一大率(いちだいそつ)は山伏(修験者)と云われるようになる。
伊都国は邪馬台国連合の宗主国なのだが、居数は「千余戸」と記され、隣接する奴国の「二万余戸」比べると明らかに少なく、他の国からみても遜色がある。『魏志倭人伝』の底本なのではと云われている『魏略』よれば、伊都国は「万余戸」とあり、これが正しいのだと思う。
平家滅亡と共に壇ノ浦に没した安徳天皇の行宮が置かれたことから安徳台というが、日本書紀は、ここを「迹驚岡(とどろきのおか)」と記している。弥生時代中期の大型住居を含む100棟以上の住居跡が見つかっている。
福岡県筑紫郡那珂川町安徳
さて、三日目の朝を、高祖山の西、怡土平野で向かえた郡使一行は、ほどなく日向峠を越え、福岡平野に入り、倭国滞在中の宿舎(後の筑紫館または鴻臚館)に到着する。ここが「魏志倭人伝」のいう「郡使の往来に常に駐まる所」である。今朝からの行程は約20km、名護屋浦を出発して約75km、すなわち末廬国上陸後、一千里を三日間で陸行した。
邪馬台国(女王国)への残り一千里(約75km)も、陸行で最低三日の行程であるが、途中の待機日を含むと千里の陸行は、五日間が一般的な行程なのである。したがって、郡使が女王国に至るには末廬国上陸後の二千里陸行の十日と、末廬国上陸前の約三十日と合わせて合計四十日が、魏志倭人伝の「水行十日陸行一月」、帯方郡から一万二千里の記事である。