イントネーションは一般に語句の高低と理解されています。しかし、わたしは、地声による
軽い声と
重い声での語句の読み分けであると考えています。高低を付けなくても、軽いか重いかの変化にイントネーションはあるのです。文における実体的な意味をもつ部分を「重い声」で、関係的な意味をもつ部分を「軽い声」でよみます。これが読みわけの原則です。
(参照(10)声の4種類)
たとえば、下記のような例です。上線(緑)が軽い声、下線が重い声です。
(参照:色分けによる記号づけ「吾輩は猫である」)
青い 空 白い 雲 ゆっくり 歩く とても 美しい
この原則だけで文の意味がはっきりします。文の係り受けの関係が声によって表現されるからです。ひと色の声ではうまくいきません。文というものは、ただ文字が並んでいるだけではなく、それぞれの語句同士に関係があります。文字を音声に置き換えるだけでは意味は表現されません。
それは意味の伝達構造に関わるのです。主部・述部とを例に挙げましょう。「ナニガ」として前提として語られる主部よりも、「ドウダ」と述べられる述部の方が情報的な意味が強いのです。ですから、主部は軽い声、述部は重い声でよむことになります。
子どもへの読み聞かせのときには逆の読み方がよくあります。次のように修飾語が重なると、最後の語句を軽い声で読みがちです。しかも、強さがないので意味も軽くなります。先行の修飾語が重くて、「カバン」が軽くなるのです。つまり、受ける語句を軽くすることで人に「聞かせよう」という意志が表現されます。それが聞き手には「聞かされる」という印象を感じさせます。
赤い 大きな カバンが ある。
次のようによめば自然です。「赤い」も「大きな」も軽い声でよみますが、「赤い」よりも「大きな」をより強めにします。これは音声化の一般原則です。「繰り返されるコトバは次第に強く読む」というものです。そして、修飾を受けとめる語句「カバン」を重い声にするのです。
赤い 大きな カバンが ある。
地声はベースになる声です。そのうち軽い声はリラックスした声です。また、文の先が予想できないときには、とりあえが軽くよんでおきます。そうして、文の意味がつかめて納得がいったときに声は重くなります。この変化は、読み手が文の意味をつかんでいるという証明になります。
一般の朗読理論では、プロミネンスはほとんどとりあげられていません。しかし、音声表現にとってもっとも重要なものです。表現の本質は強さと力にあります。表現の強さは文脈における語句の強調にあります。プロミネンスのないよみは表現ではないといってもいいでしょう。プロミネンスとはただ声を大きくするだけのものではありません。強さが必要です。それはよみ手が語句の意味をとらえることから生まれます。作品の内容をとらえないと空しく響く声になります。
プロミネンスの表現を支えるのは腹式の発声です。沈み込みによる下腹と腰の周囲の緊張を保つ発声です。一般の朗読ではすべての語句を均質の発声でよみがちです。ある部分を強くよんでもそれほど変化が感じられません。表現よみでは、声の質の変化を重要な表現方法と考えます。プロミネンスについても、次の二つの区別ができます。
(1)重い声のプロミネンス、
(2)軽い声のプロミネンス、との二つです。重い声とは「ダッ」という発声で手元に落とす声、軽い声とは「マッ」という発声で正面に飛ばす声です。(参照・
5(10)声の4種類)。
(1)は強く響く声のプロミネンスです。沈み込みをすると、重い声が強い調子で響きます。それに対して、(2)は、耳には強く響かない声のプロミネンスです。無声化した裏声のように聞こえます。ところが、その軽い声が強く感じられるのです。オモテに出る声は軽く聞こえるのですが、腹ではしっかり支えられています。
たとえば、次のような文をよむ場合、「背の高い」は(2)のプロミネンスをつけて「男」はプロミネンスしない重い声でよめば自然になります。
○ わたしが 見たのは
背の高い 男 だった。
ところが、テレビのナレーションでは、どの語句も均一の地声で読まれます。プロミネンスも(1)の方法しかありません。しかも、修飾語をプロミネンスせずに被修飾語をプロミネンスします。上の例の場合、「背の高い」よりも「男」を強くするので不自然になります。そのために文脈のつながりの意味がちがってしまいます。
一般的なよみ方の注意として「修飾語を強くしない」といわれますが、それは機械的に(1)となることへの注意です。修飾語は本来プロミネンスされる語句です。よみ分けの原則は、
実体語(名詞、述部の動詞・形容詞など)と
関係語(副詞、指示語、接続語など)とのよみ分けです。実体語には(1)のプロミネンス、関係語には(2)のプロミネンスをつけます。(2)のプロミネンスは「思いは重く、声は軽く」という表現することに適しています。
文学作品は思想の表現です。作品の文章は文脈となってつながっていますから、それぞれの文にはプロミネンスされるべき部分があります。ただし、書き出しで全体状況を説明する文や、単に事実を中立的に述べるような文にはプロミネンスはありません。
文のどこをプロミネンスするかという原則は、情報をどのように伝えるのかという
伝達構造に関係しています。
伝達とは、「何かについて」(
テーマと呼ぶ)、「どうである」(
レーマと呼ぶ)かを伝えるものです。「何かについて」とは、とくに珍しいものではなく、すでに知られています。いわば、伝達の前提となることです。たとえば、「山田君は今年で25歳だ」と話すとき、「山田君」は相手も知っているわけですから、重要なのは「25歳」なのです。
それで、情報の伝達においてはテーマよりもレーマに重点があります。よみにおいても、テーマ部分よりも、レーマ部分が強調さます。レーマが強調されることで意味が伝わるのです。一般的に文のよみにおいても文末が強くなるのはそのためです。その部分の声は、後で述べる
重い声になります。
文を成り立たせる論理構造では、
主部と
述部とはなくてはならないものです。そして、文の意味が成り立つためには、「オ、ニ、ト、ヘ、ヨリ、カラ」などの助詞の付く語句が必要です。これらの要素は省略される場合があります。省略されても意味が分かるからです。
しかし、書き手があえて加えた語句があります。そこにはプロミネンスが必要です。あってもなくてもいい部分ですから、外して読んでも意味は通じます。しかし、文の表現効果は落ちます。書き手はそれを表現したくて書き入れたものです。だからこそプロミネンスが必要なのです。
プロミネンスは、文脈によって変わります。とくに前文との関係でかけ方がちがってきます。それが的確にとらえられてよまれるなら、作品の意味内容が立体的に浮かび上がってくるのです。
たとえば、「それは背の高い男だった。」という文があるとします。では、どこにプロミネンスをかけるべきでしょうか。
じつは、単独ではプロミネンスは考えられません。前にある文がAである場合と、Bである場合ではかけかたがちがうのです。
A ひとりの 男が 立っていた。
B 暗がりに 人の 姿が 見えた。
C それは 背の高い 男 だった。
A→Cならば「背の高い」がプロミネンスです。つまり、「ひとりの男が立っていた。それは
背の高い男であった。」となります。Aが語られることで、「立っていた」のが「男」であることはわかっています。その先で問題になるのは、「男」がどんなものであるかということです。
また、B→Cならば「男」になります。「暗がりに人の姿が見えた。それは背の高い
男であった。」となります。「見えた」のは「人の姿」なのですから、次にはその人が「男なのか、女なのか」ということtが問題になるのです。その場合、B「人の」は高音プロミネンスで軽くよみ、「姿が」は地声にもどしてよみます。高音と地声との釣り合いが大切です。
※「テーマ・レーマ展開」は下川浩『現代日本語構文法』(1993/三省堂)参照。
日本語の強弱アクセントは2種類になります。
腹アクセントと
ノドアクセントです。腹アクセントとは、上体の沈み込みによって腰と下腹とがふくらんで固定されたときの発声です。そして、ノドアクセントとは、腹アクセントに入る前に上体がやや伸び上がった上体です。身体の状態とアクセントの表現との関係は「ノドでかまえてからハラで決める」というものです。
わたしが実践しているアクセントの訓練は次のようなものです。「んー」は、奥歯をかみしめるようにしっかり口を結んでノドの奥で発声します。緑字がノドアクセント、赤字が腹アクセントです。アタマの音は沈み込む場合と、伸び上がる場合と二た通りの練習をします。
(
んー)
んっ……腹アクセントの基本発声
(
んー)
めっ……「梅」
こ(
んー)
めっ……「小梅」
いー
えーもん……「伊右衛門」
こん
め□
こん
め□
こん
め……連続練習「こ」「め」で沈み「ん」で伸び上がる。□は息つぎ、口を結んで鼻呼吸。
文のよみ方の原則は、重い声でよむ部分と軽い声でよむべき部分とのよみわけです。文の
基本成分である
主部と
述部は重い声で、さらに述部はいちばん重くなります。日本語の「文末決定性」です。それに対して、
必要成文としての
客文素(〜を)、
補文素(〜に、〜と、〜へ、〜で、〜より、〜から)などは、軽くよまれます。プロミネンスをかけるときにも、軽く強くよまれます。
軽く聞こえる声といっても、(1)基本となる軽い声、(2)プロミネンスとしての軽い声、との二つがあるのです。(1)は文の要素として意味を限定する強さがあります。それに対して、(2)では、文脈によって語句の意味が強まるのでプロミネンスされるのです。品詞でいうなら
形容詞、修辞でいうなら
比喩(〜ように、〜ような)などは原則として軽い声でよむべき部分です。
下記の例は、緑色の部分が軽くして強くよむべき部分です。一般にプロミネンスされる語句は、省略しても文の基本的な意味が成立するので、うっかりするとムシされてしまいます。それであえてプロミネンスされるのですが、ほかの語句とのちがいを際だたせるために、軽く強い声のプロミネンスを使うのです。
お父さんの蟹は、
遠めがねのような両方の眼を
あらん限り延ばして、
よくよく見てからいいました。(【参考音声】
宮沢賢治「やまなし」)
強めアクセントは、それぞれの語句に規則的に表れてよみのリズムをつくります。そのほか、
止めアクセントがあります。文の区切りと文末においてしっかり息を止めます。このときアクセントがかかるのです。これができないとひ弱なよみになります。
(NHKアナウンサー榊寿之さんはこの表現に注目しています。
【関連記事】伝達アクセントと表現アクセント)
止めアクセントにおいては、沈み込みの姿勢で瞬間に息を止めます。そのとき、息のうち3割くらいを声にするだけで、残りの息を完全に吐き切ります。それから、しっかり口を結んで伸び上がり、腰と下腹の周辺の筋肉ゆるめると、一瞬にして鼻から息が入ります。この時間がよみにおける間(マ)となります。
わたしが実行している止めアクセントの訓練には次のようなものがあります。(1)(2)が止めアクセント、(3)(4)(5)が強めアクセントです。赤字の音(オン)にアクセントがあります。緑の音(オン)はノドアクセントです。
(1)そう
なんだ……「なん」のノドアクセントで沈み込みの準備をします。
(2)そう
だった……「た」は無声音で息のみの音(オン)です。
(3)そう
します……一般のよみではアクセントが「す」に行きます。
(4)そう
なんです……一般のよみではアクセントが「す」に行きます。
(5)そうす
ると……「と」にアクセントをつけずに「る」をノドアクセントにします。
(6)
こん
め□
こん
め□
こん
め……連続練習「こ」「め」で沈み「ん」で伸び上がる。□は息つぎ、口を結んで鼻呼吸。
鼻濁音も強めるアクセントの音(オン)です。軽く弱い音(オン)ではありません。強い表現なのでガ行音が耳に強く当たるを避けるために息を鼻に抜いた発音をするのです。しかし、高低アクセントではウラ声になって同時に声を弱くする危険があります。表現としての語句の意味も弱まります。それを避けるためには、鼻濁音は必ず腹アクセントで表現するようにします。
わたしは次のような訓練を実践しています。頭につける「んー」は演歌でいう「タメ」と同じ力の入れ方です。「津軽海峡……」を「つがる……」と出るのではなく、「(んっ)つがるかいきょう……」と歌うのです。「が」は鼻濁音です。「と」はウラ声です。「と」には腹アクセントをかけるので強いウラ声になります。(1)(3)の訓練は、ノドアクセントから腹アクセントへの転換です。(2)は「が」を腹アクセントで発声します。そして、(4)「彼は」が続くときには、上体が伸びあがりながら発音されます。
(1)(んー)
が
(2)(んー)
が、彼は
(3)(んー)
と
(4)(んー)
と、彼は
強めアクセントと止めアクセントとは次のような表現になります。
(5)そうし
まし
た――「ま」が強めるアクセント、「た」が止めるアクセントです。
表現の本質は強弱にあります。声の表現は身体のリズムをともなうものですから、よみにおいて強めるアクセントと止めるアクセントとがどれだけ発揮されているかで、よみ手の表現力も判断することができます。
一般の朗読では、文学作品の構造を「地の文」と「会話」に分けてよんでいます。会話は舞台のセリフのように張り切ってよんで、地の文はナレーションというよみかたがよくあります。しかし、小説や物語の文章は台本ではありません。むしろ地の文にこそ作品の表現の本質があります。表現よみでは、文章の表現にふさわしいよみ分けをしています。小説や物語の文章は、「語り手」が自らのコトバで語りながら、登場人物のコトバを引用するかたちをとります。作品の語り口は、作者によってちがいますし、同じ作者でも、作品ごとに変わります。そのちがいをよみ分けることも表現よみの課題です。
「語り手」を決定する要素としては、次のようなものがあります。――「だれに向かって語るのか(自分か他人か)、語る方向は内か外か、事実をそのまま語るか脚色するか(事実かフィクションか)、自分をさらすか演技をするか、心情は明るいか暗いか、だれのために語るのか(自分か他人か)」。
また、その聞き手についても、「一人か多数か、特定か不特定か、多いか少ないか、聞き手の年齢(おとなか子どもか)」などから考えて、いくつかのパターンに区分できます。現在、わたしが考える「語り手」のタイプは、次の10種類になります。パターンは作家によって決まるものではありません。純文学の作家の場合には、作品ごとに文体とともに「語り手」のパターンが変わるのがふつうです。
小説の文体には下記のような「語り口」のパターンがある。わたし独自の分類である。「語り手」の態度と聞き手の設定によって、1から10へと段階的な差がつけられる。
分類の規準になる点は2つある。一つは、語り手が外の人に向かっているか、自らの内面に向かっているかという意識の方向である。もう一つ、それに対して、どのような聞き手が想定されているか、聞き手がいるのかいないのか、聞き手は一人なのか数人なのか、それ以上なのかという問題である。この二つによって語り手の態度はほぼ定まる。
ただし「この作品は○番だ」という風に単純に一つの語り口になるとは限らない。○番と○番の中間、あるいは、○番と○番との合成というようにとらえられる。また、作品の部分ごとに「語り口」の変わる作品もある。10の「語り口」は次のように二つずつまとめられる。参考のために、それぞれの語り口の作品例もあげておく。
1 日記風 と 2 回想風……独白口調
3 手紙風 と 4 告白風……語り口調
5 昔話風 と 6 童話風……物語口調
7 講談風 と 8 落語風……演芸口調
9 芝居風 と 10演劇風……演技口調
1 日記風―1と2は、どちらも自分のための行為である。日記はだれかに読ませようというわけではなく、回想には人に聞かせようとする意識はない。もっぱら自らのために書きつづり、考えるのである。1は日記の形式として書かれることが多い。
【参考音声】クローディアスの日記(志賀直哉)、
徒然草「序段」(兼好法師)、
枕草子(春はあけぼの)
2 回想風―回想の原理は、想定した相手との対話による思考である。自らの過去を思い出すように書かれる。エッセイのような書き方であるから読者に語りかける形式になる。
【参考音声】
思い出(太宰治)、母の死と新しい母(志賀直哉)、
こころ「上・先生と私」(夏目漱石)、
方丈記(鴨長明)
3 手紙風―手紙と告白との相手はひとりである。文学で取り扱うのは特定の相手に宛てた手紙である。相手への信頼感が前提となって書かれるので、内面的な深さのある内容を語ることになる。
【参考音声】
Kの昇天(梶井基次郎)、
こころ「下・先生と遺書」(夏目漱石)、
移民通信(小熊秀雄)
4 告白風―告白においてはさらに信頼感が強い。日本の私小説の多くが「告白」のモチーフを持っている。ただし、告白の代表例とされる田山花袋「蒲団」などに、この語り口が表現されているかどうか、それはあらためて確認する必要がある。
【参考音声】
范の犯罪(志賀直哉)
5 昔話風―5と6はどちらも「物語」としての体裁をとるものである。中心となるのはできごとの時間的な展開である。聞き手を意識した「語り」である。1から4までの聞き手は一人以下であったが、ここでは数人の聞き手が存在する。だが、多くても十人以内である。5と6とのちがいは物語の内容である。5の方がおとな向け、6の方が子ども向けと区別する。一般読者によく読まれている時代物の小説は5に分類される。
【参考音声】太宰治「ロマネスク」(
仙術太郎、
喧嘩次郎兵衛(前)、
喧嘩次郎兵衛(後))、「
瘤取り」、「魚服記」など。
6 童話風―子どもに向けて語るつもりで書かれた作品である。宮沢賢治の童話の多くはそれである。また、舞台の上で聞き手に語るという想定のものが多い。わたしは以前に賢治の作品を表現よみしたとき読みにくく感じた。作品にふさわしい調子でよめない。それは表現よみの原点である「聞き手ゼロ」の態度をとったからだ。賢治の作品は「聞き手」に聞かせる語り口だった。
【参考音声】
オツベルと象(宮沢賢治)、
セロ弾きのゴーシュ(宮沢賢治)
7 講談風―7と8は舞台で「芸」として語られるものである。聞き手も多くなる。数十人から百人単位だ。もとは寺院による仏教説話の「説経節」を源泉とするものである。浄瑠璃・義太夫などもこの流れである。
日本の小説の語り口は、講談系と落語系の二つの傾向に分類できる。近代文学には、講談の語り口を受け継いでいる小説は多い。講談系の代表は森鴎外である。後に書かれた時代物の小説などは、いわば森鴎外の時代物を軽くしていった「語り口」である。
【参考音声】
貧の意地(太宰治「新釈諸国噺」より)、
最後の一句(森鴎外)
8 落語風―日本の小説の語り口には残念ながら落語系の語り口は少ない。だが、決定版ともいえる「吾輩は猫である」はすばらしい。落語の「語り口」がみごとに生きている作品である。安定した状況の太宰治の作品には、日本では珍しい落語風の「語り口」がある。
【参考音声】
そこつ長屋(落語)、
吾輩は猫である(夏目漱石)、
畜犬談(太宰治)、
眉山(太宰治)
9 芝居風―9と10は、演技的な語り口を備えた作品である。9は歌舞伎や浄瑠璃の傾向を受け継いだ比較的古い形の語り口である。作家でも、伝統芸能の教養を積んだ作家によって書かれたものが多い。太宰治の「新釈諸国噺」のシリーズには、若いころにならった義太夫の「語り口」が生きている。
【参考音声】
藪の中(芥川龍之介)、
赤い太鼓(後半)(太宰治「新釈諸国噺」より)、泉鏡花、久保田万太郎
10 演劇風―新しい形の演劇は「新劇」とされているが、舞台での語り口はまだまだ完成されたものではない。戯曲のセリフまわしでは「語り口」は表現できない。戯曲はセリフとト書きで成り立っている。セリフは俳優によって表現が工夫されるもので、語り口はセリフそのものにあるというより俳優の表現である。そして、ト書きは舞台における指示であるから小説のような語り口はない。だから、舞台での新しい語り口を表現するためには、むしろ小説をよんで表現する訓練によって可能性が開かれるだろう。
【参考音声】
駆込み訴え(太宰治)、ひとりドラマ・リーディング=
かもめ(堀江新二訳/チェーホフ)、ドラマ・リーディング=
マクベス(シェイクスピア)

「語り口」は作品の文体に表現されたものです。それに対して、「朗読」の場合、さまざまなよみ方がなされています。それは作品の文体とは関わりなく、いわばよみ手のクセやパターン化された読み調子となってあらわれます
【参考記事】「朗読批評講座」(追記2008/08/24)
朗読は文章をよみますが、表現よみでは作品をよみます。作品の文章の構造を生かしたよみ方です。表現よみの原理は文学作品のうちで、小説あるいは物語を基本として考えられています。小説の文章の構造は次のようになっています。
┌(1)語り手のコトバ
小説の文章構造=(作者)→(書き手)→語り手 ┤
└(2)人物のコトバ
「作者」とは、作品を書いた人そのものです。いわば、着流しでそのあたりをイヌの散歩でもさせている作家です。その人が創作過程にあるとき「書き手」となります。ただし、「書き手」が直接、作品を書くのではありません。直接に書いたら
随筆や
エッセイになります。
詩、俳句、短歌なども直接に書かれたジャンルです。それに対して、小説や物語では「書き手」は「語り手」を設定して作品を書きます。「語り手」は「語り手のコトバ」を基盤として語ります。そして、「人物のコトバ」を引用するかたちで作品全体をまとめています。
小説のかたちは、落語を連想するとわかりやすいでしょう。落語家(作者)は高座に上がる(書き手)と落語(作品)をはじめます。まくらでは(書き手)ですが、本題に入ると話し手(語り手)となって語ります。そこにさまざまな人物の会話(人物のコトバ)を取り入れますが、わたしたちの目の前にいるのは「語り手」としての落語家です。人物が登場しても人物を演じているわけではありません。
【関連記事】表現よみと落語(一般用横書き)
作品の「語り手」の設定にしたがって作品の分類ができます。たとえば、中学校の教科書の作品でいうならば、中1のヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)「少年の日の思い出」、中2の
太宰治「走れメロス」、中3の魯迅(竹内好訳)「故郷」の三作品では下記のような文体のちがいがあります。
「少年の日の思い出」の文章は翻訳です。翻訳文学の文体はほとんど訳者の文体です。この作品にも、翻訳者である高橋健二の「語り口」がよく出ています。語り手の構造は二重です。まず、第一の語り手「わたし」が登場して、客である「友人」を紹介します。そして、途中から「友人」が第二の語り手となって「ぼく」の過去を告白的に語ります。つまり、作者ヘッセが「わたし」という語り手を通じて、「友人」の語る思い出を紹介する作品です。ヘッセのモチーフは「ぼく」の意識と重なるものです。冒頭で語りのための舞台が設定されているので、しんみりと語るようすまでが伝わります。
※E.サピアは、文学の言語の層を二つに分けて、言語の潜在的な層の内容は翻訳できるが、上の層で展開される文学表現は翻訳不可能だという(『言語』1998/岩波文庫384頁/安藤貞雄訳)。翻訳は上の層をドイツ語のヘルマン・ヘッセから、日本語の高橋健二のものになっている。
「走れメロス」は、遠い古代のできごとを講談調で語る文体です。文末で繰り返される「のだ」は語り手による強調です。太宰は、全体を講談調の大衆小説にはしてしまわずに、自らの文学的なモチーフを生かしています。とくに困難に出会って立ち直るまでのメロスの内言には熱が入っています。この作品の魅力と感動はこの部分にあります。メロスの心の内のコトバを声に表現して、その思いを共有する必要があります。(【参考音声】
「走れメロス」)
「故郷」も翻訳文学ですが、竹内好がみごとな日本語の「語り口」に表現しています。語り手の「わたし(ほとんど魯迅)」が自らの体験を語るかたちの作品です。語り手は、自ら経験したできごとを、帰郷から出発まで主人公である「わたし」の行動につきそって報告するレポーターのような役割を果たしています。
文学作品のよみにおいては、よみ手が語り手の声と同化するのが基本です。語り手の声は作品ごとに具体的です。それぞれの作品における語り手の語り口をとらえて、それにふさわしい声で表現することによって文学は理解されます。そのようなよみによって、わたしたちは作品の世界に接近できるのです。
よみ手の思いや心情と声がぴったり一体化しているのが「
近い声」です。いわば「
素(す)の声」です。これが表現の理想です。それに対して、よみ手の声が白々しく聞こえたり、気取っているように聞こえるのが「
遠い声」です。駅やデパートなどで耳にするアナウンス、テレビCMのナレーションの多くがこれです。また、外国映画の吹き替えのセリフも「遠い声」です。友近さんのキャサリンのおもしろさは吹き替えの表現の批評なのです。
文学作品のよみでは「語り手」を表現することが基本です。文章をよむのではなく、よみ手が、作品の「語り手」と重なる必要があります。「
はいる→なりきる→のりうつる(大久保忠利)」です。この原則のうえで、声を遠くしたり、近くしたりすることが表現になるのです。作品の文章の各部分は「
語り手のコトバ」と「
人物のコトバ」に分けられます。語り手のコトバは人物のコトバよりも遠くよまれます。また、人物の会話でも、自らに向けた近いもの(独り言ないし内言)と、相手に向けたもの(対話)と、さらにその中間というように距離の取り方が変わります。
主人公に対する「語り手」の立場でも、声の距離感が変わります。たとえば、「メロスは」「エーミールは」と三人称を語るときには声は遠くなります。それに対して、「わたしは」「ぼくは」と表現するときには声は近くなります。作品を語る距離は、この原理に応じて設定されるのです。また、同じ「私は」と言うときでも、視線を手元に落とすと近い声になり、目の前の相手に視線を向けると遠くなります。つまり、
自分に意識を集中した声が近い声、
相手に意識を向けた声が遠い声なのです。表現は「
聞き手ゼロ」です。聞き手を意識せずに自分の世界を創造すると同時に、その世界は閉鎖されているわけではなく、外部との交流にさらされているのです。
内田義彦は視線の方向による思索のちがいについて次のように述べています。うつむいた声が「近い声」、天井を向くと「遠い声」です。これが声の表現にも反映するのです。
(太字は引用者)
「
うつむいているとある土俵の中に思考が集中していく、
天井を向くと土俵が外れる。執着していた土俵が外れて新しい土俵ができる。今まで古い土俵にこだわっていたために土俵に入りきれず、あまりに具体的な姿のままゴロゴロしていた事物が、その場をうるという形で収まる土俵がふっと出てくる。あるいはまた、新しい土俵の設定とともに、忘れていたことが忘却の彼方から浮かび出てくる。それが天井を向いた姿勢の効用だ。」
(【参考文献】内田義彦『生きること学ぶこと』藤原書店28ページ)
さらに、二つの姿勢のちがいが文章の読み取りのちがいにもなってくるのです。文学作品の多くは「下を向いた姿勢」で書かれています。(太字は引用者)
「たとえば文章を読む場合でも、この本のこの箇所は、
上向きの姿勢で発想された文章なのか、
下を向いた姿勢で書かれた文章なのであるかということを、思考のリズムとして、
自分の肉体感覚を通じて理解しないと、そのことばの意味するところを全体との関連において理解することも不可能だし、自分の考えを追求してゆく場合にも、この二つの姿勢を意識的に使い分けないとだめだ。考える場合の思考のリズムを自覚することができないで、どうして他人の思考のそれを理解しうるか。優れた本を精読し終わった場合、あちこちに立ち止まりながら読んだにもかかわらず、読後感がさわやかで渋滞を感ぜず、あたかも一気に読了した感を持ち得るのは、土俵を設定したり外した裏の操作の連続が、自分の思考のリズムに一致する、正確に言えば自分の思考のリズムが著者のそれによって正しくかつ自然に律せられる、からである。」
(同29ページ)
声の距離感覚を訓練するためには、「私は」「彼は」という呼び名を、ゆっくりと意識して発声してみることです。「私は」のときにはややうつむいて手元に声を落とします。「彼は」のときには真正面を向いて聞き手に声を届かせるようにします。実際に声も変わりますし、「彼は、私は」「私は、彼は」と交互に発声してみると、距離感覚のちがいも感じられます。また、「これ、それ、あれ」と三つの指示語でも距離の変化が表現できます。対象物の距離をイメージしながら、手元からしだいに遠くに声を送るようにするのです。その声の変化と自分の意識変化が感じられるようになります。
【参考音声】さまざまな朗読パターンの実験「蜘蛛の糸」、【参考文献】ジャック・デリダ(林好雄訳)『声と現象』2003ちくま学芸文庫
一般に詩は「朗読」されます。というのは、単語の一つ一つ、文の一つ一つに、言語そのもののリズムや音楽的な響きがあるからです。フランスの思想家・アランよると詩の文体の特徴は、そのリズムにあります。しかし、ただ単に音声のみを聞かせるわけではありません。詩の意味を表現しなければなりません。
詩は叙情詩と叙事詩に分かれます。叙情詩では作者が直接に思いを表現する場合が多いのですが、叙事詩では「語り手」がストーリーを語ります。その分、より小説の表現に近いわけです。つまり、詩といっても「語り手」の存在感の強いものとそうでないものに分けられるわけです。
じつは、散文の小説でも詩に近いコトバの響きを生かした作家もいるのです。たとえば、古くは
樋口一葉や
幸田露伴の文語体には、詩としての響きがあります。
国木田独歩や
室生犀星の小説は、もと詩人というだけに、詩のリズムを生かした文体です。また、
梶井基次郎の作品の多くは、散文と詩との中間です。
【関連音声】山之口貘詩集、中野重治詩集、小熊秀雄詩集、にごりえ(樋口一葉)、五重塔(幸田露伴)、檸檬(梶井基次郎)、ブレヒト公演
詩のよみ方にはいくつかのポイントがあります。一つは、散文よりも三割くらい感情を高めてよむこと、それによって詩の文体のリズムが生きて来ます。二つは、叙情詩では天に向かってよむ場合があること、教会における聖書の朗読のような響きです。三つは、単語の強弱アクセントを生かしてリズミカルによむことです。
詩の記号づけのコツとしては、詩を「文」としてよむことです。一行ごとに区切られたものとせずに、主部・述部の組み立てをとらえます。そのためには、一行ごとの文末を「。(句点)」「、(読点)」「ツナギ」の三つの記号で区別し、「文」としての構造をとらえてよみます。
【参考音声】永訣の朝(宮沢賢治)、聴きくらべ「永訣の朝」
作品の最初のよみから表現よみで始めましょう。いきなり作品全体を通読するのではなく、まず題名をしっかり声に出して繰り返しよみます。それから、本文を書きだしから四、五行くらいずつ区切ってよんでいきます。ふつうの授業では、指名された代表者が音読をしますが、それでは聞き手がおもしろくありません。漢字の読みくらいを確認したら、それぞれに表現よみをさせます。ただし、自分の声を聞いて理解できるくらいの大きさの声にします。まわりの人の声がジャマになるときは、耳のうしろに手のひらをあてるか、耳に指を入れてふさぐと、自分の声だけがよく聞こえます。また、最初のよみの段階から、テキストに次のような記号づけをさせます。小声でブツブツとよみながら、句読点のないところを区切ったり、読点の要不要を確かめることによって文が理解できます。あとで、その記号を手がかりに音声表現することもできますが、よみのテンポによって間(マ)のとり方は変わります。文を区切りながらも意味のつながりを失わないよみが大切です。
【記号づけ実例】記号づけ「蟹工船」(冒頭)、記号づけ総論、HTML形式での記号づけの方法、憲法前文の印しつけ
※ 記号づけの実例―三島由紀夫「仮面の告白」の冒頭、森鴎外「雁」12章
よみの切れ目は句読点よりも多くなります。句読点だけにたよっていてはよめません。また、句読点がよみ方と一致しないこともありますから、独自の文の切り方が必要です。そのための記号づけを以下に示します。句読点はすでに切れ目を示しているので記号はつけません。....
原則として、句点、文頭の主語や文頭の接続語のあと、地の文から会話に入る前、会話と会話のあいだなどです。口を閉じると同時に、鼻から一気に息を吸うところです。それまでよんだ内容をイメージにまとめるとともに、次をよむために意識を集中させます。
読点では区切ってよみます。ほかに、文法的なまとまりを示す区切り、文の意味をはっきりさせる区切り、音声表現の効果をあげる区切りなどがあります。口は閉じずに開けたままで、次の語句のよみにそなえます。間(マ)でも区切りでも、そのあとの語句の意味が強く聞こえるので、あえて強く読む必要はありません。
読点がついていてもつなげてよんだ方がいいときに、読点の前後を弧線でつなげるかたちでつけます。また、行末の語句がつぎの行にまたがったり、行末をつぎの行頭へとつなげてよむ印しにも使います。会話を受ける閉じカギと会話を受ける「と」をつなげるときには、 」 をまたいでつけます。
語句のあとを区切るのではなく、意識を集中させて意味をつなげます。(1)ある語句が次の語句を飛びこえてつながる場合、(2)長い修体(連体修飾部)がまとまって名詞につながる場合と、二た通りあります。文字と文字との間の右わきにVの印しをつけます。区切りや間(マ)とちがって、ネバるようなよみ方になります。
この記号づけは文学作品の語りの構造をとらえるためのものです。語り手のコトバの中から人物のコトバを探り出すことによって立体的なよみをすることが可能になります。
記号づけの実際の作業においては、切れ目の記号づけよりも、こちらが先行します。カッコのはじまりが間(マ)や区切りの代わりになりますから、「 や ( をつけたところには、さらに / や / をつける必要はありません。
「 」や――などで表示された会話ですから記号はつけません。ただし、声に出された会話と、声には出なかった会話は区別すべきです。また、会話は人物のコトバをそのまま書いたわけではありません。語り手が自分の評価を加えて引用したものです。そこには、好ましいか好ましくないか、賛成か反対か、うれしいかうれしくないか、といった評価のニュアンスがあります。「語り手」の思いから切りはなされたセリフにしてはいけません。地の文をナレーション風にして、会話を舞台でのセリフのように演じる「朗読」がありますが、それでは「語り」としてまとまった小説の世界をこわすことになります。
地の文において、「 」や――をつけずに語り手が人物のコトバを引用する場合です。そこには、「 」の記号づけをします。日本語には、主語や時制に関する話法のルールがないので、引用と考えるとおかしな語句が混じる場合もありますが、その人物の立場に立った声で表現します。ただし、そこを独立した人物の声にしたら、小説の「語り」の世界が壊れてしまいます。あくまで「語り手」の語りに引用された会話なのです。語り手は、「わたしは……こと、などを話した。」という語りのワクにはさんで、「わたし」のコトバを紹介しています。「 」をつけた部分は人物の立場に意識を切り替えてよみます。たとえば「故郷」には、次のような典型的な間接話法があります。
「だが、とうとう引っ越しの話になった。わたしは、「あちらの家はもう借りてある」こと、「家具も少しは買った」こと、「あとは家にある道具類をみんな売り払って、その金で買い足せばよい」こと、などを話した。」
語り手のコトバのなかに、まったく独立した文として人物のコトバをはさみこむことがあります。その多くは、人物の内言の表現です。そこは、( )の記号でくくります。ふつうは一文の単位で取り入れられますが、ときには、複数の文になったり、さらに段落単位で展開されることもあります。次の「走れメロス」の部分は、( )をつけたところがメロスの心の声で、それ以外は語り手のコトバです。「メロスは跳ね起き、(南無三、寝過ごしたか、いや、まだまだだいじょうぶ。これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。今日はぜひとも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑ってはりつけの台に上ってやる。)メロスは、ゆうゆうと身支度をはじめた。」
これは音声表現のメリハリをつけるうえで決定的に重要です。語り手が特定の語句に強調の意味をこめたところです。わたしは〈 〉をつけて「アクセント」とよんでいます。ふつうのアクセントは、単語レベルでの音(オン)の上げ下げのことですが、これは語り手の考えにもとづく意味の強調のことです。たとえば、「故郷」の冒頭にこんな文があります。〈 〉は引用者のものです。
「もともと故郷はこんなふうなのだ――進歩もないかわり、わたしが感じるような〈寂寥〉もありはしない。」
〈寂寥〉のアクセントは、その前に書かれた「覚えず〈寂寥の感〉が胸にこみあげた。」を受けています。同じことばを繰り返すことによって、〈寂寥〉にはアクセントが生じます。よみの技法としては、その語句の前に間(マ)をとったり、ゆっくり正確に発音したり、低めの声にしてメリハリをつけます。
作品の文章そのものにもアクセントやプロミネンスがあります。ある語句はアクセントのつけ方で意味が変わります。また、文中の語句をプロミネンスすることで文脈が形成されています。さらに、よみ手が自分で内容を理解するための強調点や、聞き手を意識して強調する場合もあります。
一般に日本語は
高低アクセントであると言われますが、じつは、日本語はむしろ
強弱アクセントだといえるものですし、強アクセントによる
リズムもあります。これについては、わたしの論文
「日本語のリズムと強弱アクセント」、
「折口信夫『言語情調論』をよむ」をご覧ください。
アクセントは単語レベルの強調です。高低アクセントでは、単語のうちのどの音が高くなるかを問題にします。『アクセント辞典』では、横書きのテキストの場合に、高い音から下がるところを逆さのL字のバーで表示しています。平板の場合には、その単語の脇に傍線を引いています。
わたしは強アクセントのある位置に、音(オン)の脇に傍点(・)を打っています。これならば、縦書きでも横書きでも簡単につけられます。ある語句の音声アクセントを正確につけるだけで、文の意味がはっきりすることがあります。また、アクセントは単語に機械的に固定されてはいませんから、アクセントを移動させて語句の意味を強調することもできます。
(【関連】アクセントポイントの提唱)
たとえば、中島敦「山月記」には、次のような部分があります。「しなかった」はふつう、「な」にアクセントがあります。しかし、それでは妙に明るくなります。この部分は主人公・李徴の独白ですから、わたしはあえて平板アクセントでよみます。それによって李徴の沈んだ思いが表現できるのです。
「
己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしな
かった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしな
かった。」
(太字が強アクセント)
プロミネンスすべきところです。ほとんどすべての文にプロミネンスはありますが、書きだしや状況説明のような文では、全体として平らによむことがあります。方法としては、(1)地声で強くよむ、(2)高い声で弱くよむ、という二つがありますが、今のところ記号では区別していません。(1)を二重傍線、(2)を波線、にしたらいいかと考えています。
※ 記号づけの実例―
三島由紀夫「仮面の告白」の冒頭
人に聞かせられる表現よみをするためには、基礎となる発声や発音の練習が必要になります。朗読について書かれた本には、さまざまな方法が書かれていますが、わたしが実行しているいくつかの練習方法を上げておきます。どれも短時間でできますから授業の合間に取り入れられます。
(推薦図書坂田午二郎 『やさしい発音発語指導』(1973日本特殊教育協会))
*
よみの発表ではマイクを使う場合と使わない場合があります。どちらの場合も、腹式による発声(複式「呼吸」ではない)は基本ですが、よみ手の作品表現は「ナマの声」でこそ的確に実現されます。【参考】ナマの朗読とマイクの朗読、グールドの楽器と「朗読」の直接性
わたしの最近の発声法は以前と変わっています。△印はとくにちがうものです。今では訓練の中心は強い声を出すためと考えています。というのは、次のような声質の考えに立つからです。特徴的なのは、(4)と(5)を重視することです。
◎声質の5要素
(1)大小、(2)高低、(3)長短(強さとの関係)、(4)軽重(イントネーション)、(5)強弱(表現の本質)
もう一つ、発声にかかわる4要素について、下記のうち、(1)(2)を重視しています。
◎発声の4要素
(1)息(呼吸でなく息)、(2)ノド(声帯の力)、(3)舌(ノドの切れと滑舌)、(4)口(形でなく容積)
それで下記のような発声法からさらに進みました。少しずつ書き直しますのでしばらくお待ちください。
呼吸は自然のものです。しかし、声は自然のものではありません。ヒトが思想や感情を表現するために息を利用して作りあげたものです。声は呼吸とともに漏れるものではなく、意識的な息のコントロールによって出すものです。
(福島英氏は「ブレス・ヴォイス・トレーニング」(息による声のトレーニング?)と称している)
呼吸とは「呼」から「吸」への自然な動作です。それに対して、声を出すには、意識的に息を吐かねばなりません。声の訓練は息を吐く訓練です。完全に息を吐きつくせば息は自然に入ってくるので息を吸う訓練は不要です。
わたしが実行する息の吐き方の訓練は次の三つです。息の出口に抵抗をあたえて腹の底から発声します。
(1)シーッ……「静かにしろ」のシーッの息づかい
(2)ブーッ……ロウソクの火を瞬間に吹き消す息づかい
(3)ハーッ……冷たい掌をゆっくりと温める息づかい
腹式呼吸と
腹式発声とは区別しましょう。腹式呼吸は呼吸の訓練になっても、発声の役には立ちません。腹式呼吸では、息を吐くときに下腹がヘコみますが、腹式発声では、逆に下腹がふくらんで固定された状態です。
(中村明一氏は「密息」と呼ぶ。『「密息」で身体が変わる』)。
上の3通りの吐き方すべてで下腹の筋肉の緊張は維持されます。そのためには、次に述べる「
沈み込みの体勢」をとる必要があります。
【腰かけた姿勢】
よむときの姿勢は腰かける場合と立つ場合があります。腹式発声の練習には、まず、発声の基本となる腰かけた姿勢をお勧めします。
バランスチェアという椅子をご存知でしょうか。腰かけると背筋が伸びて、
このような姿勢になる椅子です。これがもっとも腹式発声に適した姿勢です。ふつうの椅子でもこの姿勢をとることができます。
ポイントはいくつかあります。1つは、腰板の3分の1くらいに浅く腰かけること、2つは、両足を手前に引きよせて踵を上げること、3つは、両の手のひらを合わせて胸もとに引き付けることです。そうして、踵から頭の中心に向かってカラダを貫いて垂直に伸びる一本の軸を想定します。これをわたしはよみの基本姿勢と呼んでいます。
次に、この姿勢から
沈み込みの体勢をとります。上体全体を垂直に3cm、沈み込ませるのです。背中を丸めないように、椅子の座板にお尻を押しつけるようにしてあくまで垂直に沈みます。それと同時に、下腹を膨らませてきついズボンのベルトをちぎるようなつもりで力を入れます。この力の入れ方は、中村明一さんの
「密息」でいう「
骨盤が前へせり出す」とか、声楽家・
森麻季さんが「
腹筋と背筋でポンプのように息を押し出す。下腹だけでなく腰まで広がり膨らむ」
(NHKTV「トップランナー」での発言)と話した状態に通じます。
そして、この状態を維持しながら発声をします。まずは前項の「シーッ、プーッ、ハーッ」を発声してみましょう。下腹が膨らんだ体勢を維持できれば腹式発声になっています。それに対して、腹式呼吸をするときには、下腹はヘコんでいます。
【立った姿勢】
立つ姿勢は腰かけたときの応用です。中心問題は下腹と腰の周辺の緊張をいかに作るかということです。いくつかのポイントをあげましょう。
上体の姿勢は腰かけたときと同じです。背筋がすっと伸びた状態で、ヘソの後ろにやや緊張があり、下腹がせり出すような体勢です。両足は肩幅くらいに開き、足先は逆のハの字のかたちで、半身の構えをとります。そのとき、重心は両足のつま先に置きます。イメージとしては、踵が3ミリくらい浮き上がっている感じです。ずっと踵を浮かしたまま床につけないように心がけます。そして、両膝はほんの少し曲げておき、発声をするたびに揺れる上体を、膝がクッションにして受け止める動きをとります。
とくに、アクセントとプロミネンスの発声においては、両膝を曲げて上体を沈み込ませます。そのとき、下腹と腰まわりは、太く膨らんだような緊張があります。これは腰かけたときと同様の緊張です。ただし、腰かけたときよりも、やや背中が丸まって屈みこむような姿勢になります。(たとえば、表現よみオーの会の
こんな姿勢です)
鼻から一息吸いながら、軽く口を結びます。それから、奥歯を噛みしめるつもりでしっかり唇を合わせます。そして、「ンー、ンー」と発音するつもりで鼻から声を出します。すると声帯が振動して唇や奥歯がびりびりするのが感じられます。無理なく声帯を振動させられます。全部の息が出つくすまで20秒くらいは安定した声が出るように訓練します。
声帯の振動は、声帯周辺筋に力を入れると、より強い声になります。その三段階は次のようなものです。
(1)ウー……鼻のあたりで共鳴している声
(2)ムー……口のあたりで共鳴している声
(3)ドゥー……ノドよりも下で共鳴している声
また、声帯を振動させながら、意識的に声に強弱をつけてみます。「ンー」よりもしっかり口を横に引き締めて、オートバイの排気音のようなつもりで「ムー、ムー、ムー」と発声します。鼻から強く声を出すような「フッ、フッ、フッ」という練習もしてみます。そのような練習によって、鼻音、半鼻音、喉音(こうおん=鼻にかからない口からの声)のちがいが自覚できるようになります。
じっさいのよみ声は、舞台で叫んだり、歌ったりすることとはちがいます。おどし式発声法はよみ声の瞬発力をつける訓練ですが、こちらは持久力をつける訓練です。(1)の練習では、一気に口を開けると一瞬に息が出ました。こんどは、くちびるを細くストローをくわえるように開けて、「ウー」と軽く声を出しながら吐き出します。苦しくても絶対に鼻から息をもらしてはいけません。かならず口からだけ出すのがコツです。息が切れるまで、二十秒くらいは声がつづくように訓練します。
安定した声でよみつづけるためには息つぎをうまくする必要があります。間(マ)を取るときには、口を閉じた瞬間に、ひと息で鼻から息を吸い込みます。ストロー式の発声をしながら、息つぎを繰り返します。このときの空気の量がポイントです。少ししか吸わないと、息が足りなくなって、よみがつづきません。大きな声を出すときには、より多く吸っておく必要がありますが、多く吸いすぎても息苦しくなります。
口のかたちで発声や発音が決まるわけではありません。腹話術のいっこく堂の例があるように、重要なのはむしろ、ノドの力とノドの切れによる発音です。とはいうものの、口腔内の共鳴は音声表現にとって効果的です。外からみた口のかたちではなく、口の中にどのような
空間、つまりどのようなかたちで
容積を確保するのかが重要です。
(参考=口の形の図。坂田午二郎著『やさしい発音・発語指導』1973日本特殊教育協会)
母音について、口の中のイメージは次のようになります。どの場合でも、口の周辺の筋肉には力を入れて口のかたちをしつかり固定します。口がゆるんでいると声もゆるみます。
(ア)口のなかにリンゴを含むイメージ。河童が開いた口ではなく口先は丸まる。
(オ)口のなかにピンポン球を含んでいるイメージ。(ア)を小さくしたイメージ。
(ウ)口のなかに細巻きの寿司を加えているイメージ。口先はひょっとこのようになる。
(イ)口のなかでホオズキをつぶしたようなイメージ。意地悪の「イーッ」の口先。
(エ)口のなかに小さいマッチ箱を横長に含んでいるイメージ。口先も横長の長方形。
ここで口の動きの訓練を紹介します。口の体操といって、次のようなものがあります。口を動かす筋肉を運動させるのが目的です。日常よりも3割くらい大きく開けて正確に動かすつもりで発音します。
a アオ、アオ、アオ……(オア、オア、オア……)
b オエ、オエ、オエ……(エオ、エオ、エオ……)
c イエ、イエ、イエ……(エイ、エイ、エイ……)
d ウイア、ウイア、ウイア……
アやエの発声のときにノドが締まって力の入る人がいます。その場合、いくつか矯正の方法があります。一つは、「アオ」を「ハホ」と発音するようなつもりにすると、ノドが開きます。また、口を常に「ア」のかたちに開き、舌先を少し持ち上げるようにすると、ノドが締まりません。
舌の動きは発音にとって重要なものです。「口がまわらない」といいますが、口ではなく舌が動かないのです。よみはじめにするべきトレーニングは、「レロ、レロ、レロ……」の練習です。舌を内側に丸めて上あごで押さえるようにしてから、はじき出すように「レ」、「ロ」と正確に、交互に、ゆっくり発音します。舌の状態を確認できたら、二倍の速さ、四倍の速さにして練習します。また、じっさいのよみに有効なのは、TとKとの組み合わせでスキャットのように舌を動かす訓練です。tuku では舌が前後に動きます。teke では、さらに微妙な上下の舌の動きも加わっています。taka では、より大きな上下の動きです。この動きは「レロ、レロ」よりも、実際のよみに近いものです。これらを組み合わせて、いろいろ練習してください。
tuku tuku tuku taka tuku taka teke
teke teke tuku teke tuku teke taka
taka taka teke tuku teke taka tuku
滑舌の訓練として早口ことばの練習がありますが、それよりもはるかに能率的な訓練です。わたしの経験上、この訓練によって早口ことばにも上達します。たとえば、「生麦、ナマ米、生卵」「赤パジャマ、黄パジャマ、茶パジャマ」「竹垣に竹立てかけた」を発音するときの舌の動きは、この練習と同様の動きなのです。
五十音を組み合わせた発音練習はいろいろありますが、母音はすべての音(オン)の基礎ですから十分に練習する必要があります。母音の基礎になる声は、口や舌で調整をしないままにノドの奥から出る声です。これは、音声言語医学の米山文明さんが実践的に紹介している声です。これはアーだか、ウーだか、エーだか区別できない声です。
※ 米山氏の紹介した実践は次のようなものです。この内容は米山文明『美しい声で日本語を話す』の172ページでも紹介されています。
「受講者たちは第一段階では発声を離れて呼吸法を中心に学び、ある程度会得した段階から少しずつ声を作るところに進む。この発声に入る段階で、呼息の流れに乗はせて各自勝手に声を添えるように指示する。言葉ではなく、単一母音(各自勝手の母音、あいまい母音でよい)、音の高さ、強さ、持続、音質とも個人の自由である。この場合「声を出す」ということをとくに意識させないように、母音も明確な構音ではなく、「ウ」でもなく、「ア」でもないようなあいまいな声(動物のうなり声のような感じの音)を乗せながら呼気を送り続ける。/このようにして発せられた声の集合音はふしぎなことに、何とも言えないような溶け合った音になるのである。」(米山文明『声と日本人』1998平凡社)
これができたら、つぎに口のかたちを作って「イ、エ、ア、オ、ウ」と発音してみます。一音ごとに、口先からノドの奥へと飲み込んでいくような音に変わります。
はじめはゆっくり正確な発音でよみます。ノドを締めたような苦しい声ではなく練習します。それから、スタッカートのように区切って、「イッ、エッ、アッ、オッ、ウッ」と力を入れてよみます。また、スラーをかけたように息つぎをせずに「
イー、エー、アー、オー、ウー」とつづける練習もします。
※ 母音の発声練習の順序の意味については、米山文明『美しい声で日本語を話す』2007平凡社新書65ページを参照。
表現よみにおいては、声の変化が重要です。微妙な表現においては、ウラとオモテの声が瞬時に入れ替わることはよくあります。ところが、アナウンサーの中にもオモテ声もウラ声も意識せずに発声している人がいます。自分のオモテ声とウラ声を意識して表現することによって声の表現になります。これはオモテの声とウラの声を交互にくりかえす練習です。オモテの声は「マッ」、ウラの声は「アッ(ハッとアッの中間の声)」を「マッ、ハッ、マッ、ハッ」とウラとオモテにに返しながら繰り返します。一回ごとにしっかり意識すれば、十回くらいの繰り返しで十分です。
ほかにも音声表現の基礎として身につけたいことがいくつかあります。発声では、しっかりした声から微妙な声まで出し分けられる能力、その場に応じた声の大きさ、強さの調整ができる能力です。発音では、口をはっきり開けて、正確な発音で、歯切れよく、はっきりした物言いのできる能力です。アクセントやイントネーションのちがいを聞き分けられる能力、アクセント記号がよめて書けるようにすると聞き取りの能力も高まります。
一般の朗読では、ひと声の色で全文が読まれています。だから、声は安定していますが、表現される世界が単調です。どこまで行っても文章を読んでいるという印象があります。多くの人たちが「語るように読みたい」ということをよく言います。その一つの手がかりが声の質の変化にあります。
声の変化というと、大小、高低、長短などがあげられます。しかし、問題はそういうレベルではありません。声そのものの種類の変化なのです。じつは、日常生活において、わたしたちはさまざまな声を使い分けているのです。ところが、朗読となると、なんとまあふしぎなことにひと色しか使わないということになってしまうのです。
わたしは声の4種類を下記のように区分しています。これを使い分けることによって作品の表現はずいぶん豊かになります。そして、まさしく「語る」ようによめるのです。
A 地声
a
軽い声―「マッ」(正面に投げる声)、人に伝える、現代発声、係るコトバ、関係語
b
重い声―「ダッ」(手元に落とす声)、自分で納得、伝統発声、受けるコトバ、実体語
B ウラ声(ノドの奥の響き)
a
イヌの声―「ホー」、正面を向きで口をとがらせた声、こもる
b
カラスの声―「アー」、上向きでノドを開いた声、外に響く
まず、大きく
A 地声と
B ウラ声に分けられます。
A 地声は、声の基本です。しかし、アナウンサーでさえまともな地声の発声のできない人は大ぜいいます。しかも、高低アクセントの宿命として、高アクセントの音(オン)は裏がえり気味になります。女性アナウンサーで全部がウラ声という人もいます。地声というと低くて重い声と思われがちですが、必ずしもそうではありません。軽くても地声は地声です。まずは地声での2種類のよみ分けをすることで表現に幅が出せます。
B ウラ声は、声帯の振動を押さえたささやきのような声です。ノドに力がなく、聞いていて頼りなく感ずる声です。しかし、腹式で発声するときには強さのあるウラ声が出ます。それは表現にも使える声です。下腹と腰の張りで調整された息によって、口先ではなくノドの奥から響く声です。胸からの発声では揺れる声になりますが、腹から出るときには安定して強力になります。
一般の朗読では、重い地声ばかりでよんでいます。とくに舞台朗読ではそうです。プロミネンスも、声の種類を変えずに、大小で片づけています。ウラ声ばかりでよむ朗読もありますが、それは問題外です。
地声はベースになる声です。軽い声はリラックスした声です。また、文の先が予想できないときには、とりあえず軽くよむものです。そして、納得がいくときには声は重くなります。この変化が、読み手の理解を証明する声の変化です。
では、ウラ声はどう使うのか? 地声にはそれぞれプロミネンスがあります。
軽い声のプロミネンス(記号づけは波線)、
重い声のプロミネンス(記号づけは二重線)の2種類です。軽い声のプロミネンスのときには、ウラ声になることもあります。古今亭志ん生さんの落語などはその好例です。また、義太夫では「
強い裏声」という言い方をします
(米山文明『美しい声で日本語を話す』2007平凡社97ページ)。会話のあとの「と」では、ウラ声によるプロミネンスを使うのが普通です。(赤文字がプロミネンス)
「また九月に」/と先生がいった。(こころ/夏目漱石)
ただし、くれぐれも注意したいのは、声の種類のちがいは音声での現象面を述べたものです。声の種類が変わるときにはよみ手の感情をともなっています。表現のために声を選ぶというよりも、むしろ、「そんな声が出てしまったから、そんな感情がわき上がってきた」という方が表現よみの理想にかなっているのです。
表現よみをはじめると、よむ力が高まるだけでなく、声のコトバを聞く力も高められます。知らず知らずのうちに、人の声の表現を意識して注意深く聞くようになります。そのうちに、心のこもった表現が分かるようになります。
よみを評価するポイントは、第一に、耳で聞いて、文章の内容が理解しやすく聞こえるかどうか、第二に、作品の場面がイメージとして浮かぶかという点です。音声表現の評価の基本は音声面と内容面の二つです。音声面では、声の大小、発音、アクセント、イントネーション、間のとり方など、内容面では、語り手の声の調子、人物の声のよみ方、文体の調子、人物の声の調子、会話の心理表現などです。音声面の方がとらえやすいのですが、かならず文章の表現と切りはなさずに、文章の内容と声の表現とが合っているかどうかを見ます。
(
【関連】文章の「読み」と「朗読」―齋藤孝「声に出して読む理想の国語教科書」批判)
音声として響きのよいナレーションのようなよみ方よりも、心のこもった人間の声で語っている表現にこそ価値があります。また、会話の表現もうっかりすると、アニメのセリフや外国映画の吹き替えのようなリアリティのないものになりがちです。あくまでも現実的な生活の感じられるリアルな表現を目ざしましょう。
【関連】あるよみ手への手紙、「朗読批評講座」
授業でとりあげる作品のはじめから終わりまで、すべてを表現よみをする必要はありません。クライマックスにあたる部分だけとりあげてクラス全体で話し合いながら読み合うこともできます。また、作品を部分ごとに割り当てて準備をさせ、リレーよみで表現よみして授業をすすめることも可能です。
今、日本全国で「
朝の読書」というものがさかんになっています。子どもたちひとりひとりが独自のペースで読書ができるのはとてもいいことです。しかし、残念ながらこの読書運動もまだ黙読することを常識として実践されているようです。せっかくの読書なのですから、文章の理解をより深められる表現よみを取りいれたいものです。
やりかたは簡単です。よみ手自身に分かるような声を出しながらよめばいいのです。授業で代表としてよむときのような大きな声は不要です。自分にだけ分かればいいのです。声そのものに気を使う必要がありませんから、もっぱら文章の理解と解釈に集中することができます。 しかも、黙読の理解がいったんは自分の声で表現されるわけですから、よみ手はその声を聞きなおして理解や解釈の内容を確認しながらよむことができます。
「クラスの全員が声を出したら自分の声も聞こえないのではないか?」という心配があるかもしれません。それに対しては、まず、先生が生徒に、自分で聞こえるだけの小声でいいことを伝えます。これは人に聞かせる大きな声と自分だけに聞こえる小さな声の訓練にもなるわけです。そして、周囲の声を気にせずによむための工夫としては次の二つがあります。
(1)耳のうしろに手のひらを当てて囲むようにすること
(2)耳に指を入れたりしてふさぐこと
(1)では、自分の声がよく耳に入るようになります。(2)は、外の音を遮断することで自分の内部から声を聞けるようになります。
表現よみは、黙読による理解を声の表現によってフィードバックするのに最適な方法です。これからは、「朝の読書」といったら、教室から子どもたちの声が聞こえてくるにぎやかなものになってほしいと思います。
学校での授業の参考のために、わたしが実行している共同学習の手順を紹介します。五、六行ずつよんでは話し合いをして作品の理解をすすめて行くグループ学習の方法です。
a 始まりのあいさつ―「みなさん、こんにちは。司会の○○(名前)です。では、これから○○(作家名)の『○○』(作品名)の表現よみの勉強を始めます。きょうは、第○章○段落、テキストの○ページ○行目からです」
b 下よみと記号づけ―「最初におのおのが下よみをしてください。○行目から○行目までです。必ず声を出して記号をつけながら読んでください。○分間(二、三回よむのに必要な時間)時間を取ります」
c よみ方の指定―「では、○○さんから順によんでください。よみはじめる前に、a区切りの必要なところと、bカッコをつけるべきところ。cよみの工夫をするところを言ってください」
d 感想・意見・話し合い―ひととおりよみ終えたところで、「では、今の作品のよみから自分がa分かったこと(理解したこと)、b感じた(感想)ことを、a作品の内容、b作品の表現方法、c表現よみの仕方に分けて発言してください」。話し合いをしながら、自分のつけた記号づけを検討したり、人のよみを聞いて修正したものなど発表します。また、人によって記号のつけ方がちがうときには、その解釈について話し合うこともあります。
e よみなおし―話し合いに区切りがついてから、「では、第二回目のよみに入ります。今の話し合いを生かしてよんでください。では、こんどは○○さんから順によんでください」
f くりかえし―ここからdとeのくりかえしです。最低三回はくりかえしてよみましょう。しだいに最初の緊張がとけて、理解の深まりとともに、それぞれの人のよみも向上します。
g まとめよみ―その日によんだところを最後にひとりずつリレーよみをして終了です。作品が長い場合には、全部を読まなくても、作品の冒頭から数ページを、共同研究しておけば、あとは自力でよみとおすことができます。また、長編小説は表現よみしたい部分を取り出して表現よみして、その他の部分は作品の要求する声を感じながら黙読でよみとおせばよいでしょう。
表現よみの授業の発展として、さまざまな発表会の形式が考えられます。一人ひとりが好きな作品をとりあげて表現よみ発表会を開くのもよいでしょう。一人三分くらいでも人に聞かせられるよみをするには、それなりの研究と訓練が必要です。
また、複数の人たちによる群読はよく知られていますが、小説や物語を朗読劇に構成して演ずるのも楽しいものです。ナレーションを数人で分担したり、登場人物の会話を責任を持ってよむことで、語り手のコトバや人物のコトバのよみ方のとりたて練習にもなります。
さらに、戯曲を分担してよんだり、丸ごと一人でよむような方法も可能です。わたしは、ひとりドラマ・リーディングと呼んでいます。
【参考音声】ドラマ・リーディング
ハムレット(シェイクスピア)、
マクベス(シェイクスピア)、ひとりよみ
かもめ(堀江新二訳/チェーホフ)
「いいよみとはどのようなものですか」と聞かれることがあります。一般の音声表現では、発声、発音、などの基礎的なことがいわれていますが、さらに表現よみでは次のような三つのポイントがあげられます。以下の基準は、特別な知識や訓練がなくても、だれでもが直観的に感じられることです。
楽しい時間というものは短く感じられます。いいよみも聞いていると気持ちよくて、よみが終わったときに、おや、もう終わってしまったのか、もっと聞きたいという気になります。それとは反対に、退屈して時計を見ると意外なほど時間が経っていないようなよみはよくないよみです。
きれいによんでいるのに声ばかりが聞こえるよみがあります。作品の内容ではなく、文字を声にしているのです。作品の内容やよみ手の理解や解釈が直接に伝わるようなよみがいいのです。また、作品のすじが伝わるだけではなく、場面場面のイメージが浮かぶよみがいいよみです。「おや、こんな場面があるのか」と、ハッとするようなイメージが鮮やかに浮かびます。それがたくさんあるのがいいよみです。
志賀直哉が、いい作品を読んだときには自分も刺激されて作品を書きたくなるということを書いています。それとおなじように、いいよみを聞くと、作品の魅力にとりつかれて、自分でもその作品をよんでみたくなります。
表現よみの訓練には限りがありません。各自の能力と訓練によって作品のよみ方を可能な限り高めることができます。表現よみに上達すると、人に聞かせても十分に鑑賞にたえる音声表現になります。表現よみは、 最終的には「芸術よみ」といえる段階にまで発展する可能性を秘めています。
参考文献として、(1)
大久保忠利の著作、(2)渡辺知明の著作、そして、(3)
オーラル・インタープリテーションの文献をあげておきます。
表現よみの提唱者である大久保忠利の理論と実践については次の三著を参照。
・『国語教育本質論』(1973/春秋社)
・『国語教育・構造と授業』(1975/あゆみ出版)
・『人間教師の文学教育』(1977/一光社)。
※学校教育の分野での表現よみの歴史については、荒木茂氏の「
表現よみ教育の歴史」を参照(第二部ではわたしの見解が紹介されている)。
・
『朗読の教科書』(2012パンローリング社)発声、発音などの基礎を押さえて表現よみまでの道を示した。
・『
Web表現よみ入門』(2003このサイト)―最新の理論と実践、練習方法まで書いている(リンクが豊富)
・『
表現よみのすすめ』(私家版4分冊/2006/送料共2000円で頒布)
・『
表現よみとは何か―朗読で楽しむ文学の世界』(1995/明治図書)
(絶版、復刊投票! アマゾンで買えます)
・『
コトバ学習事典』(日本コトバの会編/初版1988/2刷1990/一光社)
・『
日本のコトバ』(1994-2006/日本コトバの会)13号-25号掲載の諸論文を参照
アメリカで行われている
オーラル・インタープリテーション(口頭解釈)の理論を研究して、日本で実践しているのは、
・近江誠『
オーラル・インタープリテーション入門』(1984/大修館書店)である。
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