更新2008/08/28/ホームページ
日本語のリズムと強弱アクセント
―表現よみ理論ノート その4
渡辺知明
1 日本語のリズム
日本語のアクセントというと一般的には「高低アクセント」とされている。テレビやラジオのアナウンスやナレーションは、もっぱら高低アクセントで音声化される。カルチャーの話し方教室などでも同じである。しかし、わたしは表現よみの実践を通じて「強弱アクセント」の必要性を感じるようになった。
わたしの関心を知って知人が貸してくれたのが、湯山清著『国語リズムの研究』(注1)であった。「序言」に研究の目的が書かれている。(漢字表記は易しくした)
「国語の強弱リズムを闡明し、その原理・法則を探求し、これを組織体系化しようと意図したのが本研究の目的である。
周知のごとく、国語の強弱リズムについては、国語研究史上においてだいたい否定されている。わが音声学においてさえ、国語リズムの研究は抛擲されてきたと言ってよい有様である。」
今から六十年前、昭和一九年の著書である。当時すでに日本語の音声学の研究において強弱リズムが否定されていたという。今でも、アクセントの強弱やリズムが軽視されている傾向に変わりはない。
そもそも、リズムとはどういうものか、辞書を見れば、「音の長短や強弱の組み合わせが一定の間隔で交互に繰り返されること。律動」(注2)と書かれている。
つまり、リズムは二つの要素から成るのだ。一つは、音の長短、もう一つは強弱である。言語でいうなら、どちらも強弱アクセントに関係がある。だが、アクセントの高低やイントネーションはリズムとは関係ない。にもかかわらず、音声言語の要素といったら、そちらが幅をきかせているのである。
現代でも日本語の音声化を問題にするとき、強弱リズムはほとんど問題にならない。俳句や短歌でリズムを問題にしても、それは音律数だけである。五七五や五七五七七で区切りはするが強弱は気にしない。詩でもリズムが語られるが、強弱は問題にならない。まして、散文でリズムが問題になることはほとんどないのである。
日本語の音声についてリズムの考えがない点は、今でも変わっていない。それは強弱アクセントが問題にならないことと関連している。
そこで、あらためて日本語の音声について根本から問題を立てる必要がある。
第一、そもそも日本語にはリズムがあるのかないのか。
第二、リズムがあるとすれば、それは長短によるものか、強弱によるものか。
第三、日本語のリズムには、どのような法則があるのか。
以上の三点を明確にすることが、現代の日本語の音声表現を研究する基本となるだろう。
2 日本語の音とリズム
日本語の音(オン)の単位とは何だろうか。また、何を単位としてリズムを分析したらよいのだろうか。湯山氏は、日本語のリズムを考えるときの基本をこう述べている。
「すべて言語リズムは音節観念を基礎とする。」そして、日本語の場合には「仮名文字一文字を一音節」とするべきだという。
湯山氏は、当時の言語研究について、西洋の音(オン)の単位を取り入れたことが誤りだと批判する。日本語の音節は、西欧の言語の音節とは違う。西欧では母音を単位にしている。たとえば、英語の a と strength とは、どちらも同じ一音節である。しかし、日本語で発音すると、一音節の「ア」と六音節の「ストレングス」になる。それで、日本語の仮名表記を一音節とするわけである。
また、英語の一音節 strength には、強弱のアクセントが含まれている。だが、日本語では仮名文字で表記された一音節ごとに強弱いずれかになる。だから、湯山氏は、こう言うのである。
「仮名文字は、音質文字(引用注=高低と長短を示す意味)であるとともに実にこのリズム単位を表すものである。仮名一字一音節という考えは間違いであって、仮名一字一リズム単位である。」
リズムの原則とは、「われわれは、コトバを発音するとき、強音と弱音とを必ず交互に発するものである。」という単純なものである。湯山氏は、イェスペルセンのことばを引用して、韻文はもちろん散文においても、その特徴が「日常会話におけると同様に、比較的強い音節と弱い音節とが交互に入れ替わる点にある」と述べている。
そして、湯山氏は音楽の楽譜を手がかりに言語のリズムを解こうとする。だが、音楽と言語のちがいは警戒しなければならない。湯山氏は仮名一文字を音符と考える。音符は、音の高低と長短とを表している。そこに強弱リズムがつけられるわけだ。音楽ならば、拍子によって、どこの音が強くなるかは定まる。たとえば、二拍子と三拍子では頭の音が強くなり、四拍子では一拍目と三拍目が強くなる。
なるほど、これでうまく説明がつくような気がする。しかし、音楽と言語とは根本的なちがいがある。音楽の音符では、高低、長短、強弱がすべてである。ところが、言語は単なる音の並びではない。仮名で表された音声の並びではないのだ。文字の音を声の音に変えただけでは、言語は機能しないのである。
湯山氏が、仮名文字で表される日本語の音の単位に注目したのはいい。しかし、言語は音符の並びとは違った秩序を持つのである。音がつながれば単語を形成する。そして、単語は文を形成する。文となった言語は、仮名一文字の単位で並べられた音の連なりではない。単語としての音のまとまりもあれば、文としての音のまとまりもある。そこにどのようにリズムが生じるかが問題なのである。
3 文の区切りとリズムの成立
湯山氏が日本語の強弱リズムに目を向けさせてくれたことはありがたい。だが、単語や語句のリズムの解明にとどまっていて、文のもつ強弱リズムはとらえそこなっているようである。
次の例文の解説からは、湯山氏の国語リズム論の全体がうかがわれる。
○ ねえさんと二人で金魚を買いに行きました。
リズムを意識して読むと、この文はどのように区切られ、どのようによまれるだろうか。湯山氏の読み方は次のようになる。
A ねえさんと/二人で/金魚を/買いに/行きました。
湯山氏は「誰が読んでも」この区切りになるというのである。はたしてそうだろうか。ほかにもいろいろな区切り方が可能である。
また、いちばん前へ「お」をつけて「おねえさん」とすると、区切りが次のように二つに変わるという。
B おねえさんと二人で/金魚を買いに行きました。
これまた、「二息ですらすらと読んでしまう」と、当然の読み方であるかのように述べている。
どうやら、湯山氏のリズム論には二つのレベルがある。第一は、仮名一文字単位での強弱の組み合わせ、第二に、一文を読むときの区切りのリズムである。この二つの総合で「国語リズム」を考えているようだ。Aのよみ方には、第一の考え方が強く出ている。一音ごとの強弱アクセントは次のようになる。(傍点は強アクセントの音、空白はリズムの空き。以下同様)
A ねえさんと□/ふたりで/きんぎょを/かいに□/行きました□。
これなら、強弱のリズムをつけてよむことができる。Bにも同じ考えでアクセントをつけてみる。
B おねえさんと□ふたりで/きんぎょを買いに□行きました□。
だが、これでは「二息ですらすら読んでしまう」というわけにはいかない。Aとちがう区切りであることはわかるが、納得が行かないのである。頭に強アクセントが来ないときの原理があるのだろうか。
ほかの例をさがしてみると、一文字ごとの強弱リズムの典型的なものがある。
(一)たかだよ たかだよ たかだよ(鷹だよ鷹だよ鷹だよ)
(二)とびだ□とびだ□とびだ(鳶だ鳶だ鳶だ)
だが、こんな単語の繰り返しの文は珍しい。しかも、声に出して読んでみればわかるが、まるで子どもが一文字ずつ読み上げる調子になってしまう。
俳句についても、一音ずつの強弱リズムを当てはめている。すべての音(オン)が強弱いずれかになるという考えである。強音がつづく場合には一音ごとに空白が入るという。
た□か□ひ□と□つ(鷹一つ)
みつけてうれし□(見つけて嬉し)
いらこざき□(伊良古崎)
指定どおりに強弱をつけて読むと、これもまた小学生のような読みになってしまう。俳句ならばまだ許せるが、一般の文の読み方としてはおかしなものだ。ほかのどの例でも、声に出してみると、指定の強弱リズムに合わせるのはむずかしい。読みにくいし、不自然なのである。
とくにおかしいのは、単語を「剛の言葉」と「柔の言葉」との二つに分ける考え方である。まず、音(オン)を強音と弱音とに分けて、強音ばかりからなる言葉を「剛の言葉」、弱音ばかりからなる言葉を「柔の言葉」としている。
次のような二種類のコトバとして対照される。
(剛の言葉)―― ひがし(東) みなみ(南) はる(春) なつ(夏) やま(山)
(柔の言葉)―― にし(西) きた(北)あき(秋)ふゆ(冬)かわ(川)
(剛の言葉)― おや(親) ちち(父) おとこ(男) あに(兄) あね(姉)
(柔の言葉)― こども(子供) はは(母) おんな(女) おとと(弟) いもと(妹)
多分にことばの意味に影響された主観的な対比である。どの語句をとっても、強くも弱くも発音はできる。わたしなら「剛」を「柔」にでも、「柔」を「剛」にでも読める。語句の意味から解釈して「剛」と「柔」を決めたとしか思えない。
4 強弱リズムと発音速度
湯山氏は、次のようにリズム研究の二つの課題をあげている。(丸数字は引用者が付けた)
「リズムの基礎知識を把握するにあたっては、@発音速度の遅速を聴き分ける力と、A音の強弱を感知する能力を養うこと」
A「音の強弱」は、これまで見たような読み方の強弱リズムの発見である。@「発音速度の遅速」とは、わたしが最初にあげた例文のBのよみ方に関係ある。
発音速度のちがいについては次の例がある。@の二つの人名よりもAの二つの人名の方が発音が遅くなるというのだ。だが、わたしには速くも遅くも読めるきがする。
@チャーチル
スターリン
Aムッソリーニ
ルーズベルト
どうして、あることばより別のコトバが速くなるのか、原理らしいものは書かれていない。「誰でもそう読む」という感のようなものを前提にしているのである。
わたしは強弱アクセントに関する二つの原理で説明ができる気がする。その一つは、言語のリズムは二拍か三拍が基本であるという原理である。詩人の吉田一穂が論文「メカニズム」
(注3)で示した考えである。わたしはこの考えを支持している。
つまり、五七調や七五調も、二拍と三拍のリズムに分解できるのだ。五七調なら、「○○・○○○(五)、○○○・○○・○○(七)」あるいは「○○○・○○(五)、○○○・○○・○○(七)」と分かれる。そして、それぞれの二拍、三拍に強拍がある。ふつうは頭に強拍が来るが、逆のこともある。全体の音(オン)の並びとしたら強弱が交互になる。その組み合わせによってさまざまなリズムの変化が生まれるわけである。
七五調では次のような基本的なパターンになる。
A ○○○/○○/○○(七=三・二・二)
○○/○○○(五=二・三)
B ○○○○/○○○(七=二・二・三)
○○○/○○(五=三・二)
ほかにもさまざまなパターンが考えられる。七の音節は、三・四(二・二)か、四(二・二)三しかない。そして、四の音節は必ず二・二になり、三・一に分かれることはない。五の音節は、二・三か、三・二に分かれる。ただし、基本の区切れを取らないときには、このリズムはくずれる。さらに、強アクセントの位置の変化を加えるとヴァリエーションはさらに増える。
俳句の例では、松尾芭蕉の句「古池や蛙飛び込む水の音」は次のように分析できる。(傍点は強アクセントを示す。高アクセントではない点に注意)
「ふるいけや(二・三)/かわずとびこむ(三・二・二)/みずのおと(三・二)」
また、二拍の節と三拍の節は、原則として同じ速度では読まれない。リズムをそろえるためには、二拍の節より三拍の節の読み方を速くしなければならない。三拍の節は二拍の節に対して音楽の三連符のように早くなる。決して、一文字ずつ同じ速度でよまれるのではない。
もう一つの原理は、強弱リズムとアクセントとの関係である。国文学者・折口信夫のアクセントの考えである。折口氏は、日本語アクセントは高低でもなく、強弱でもなく、長くなる音節にあるという。つまり、長音、撥音、促音、拗音など、二つの音(オン)が結びついた音(オン)にアクセントがつくというのである。
(注4)
以上、二つの原則に従うと、前にあげた人名の読み方はこうなる。わたしには@とAとの速度の決定的なちがいは分からない。
@チャー/チル(二・二)――二拍の先強めの繰り返し
スター/リン(三・二)――三拍の二拍目を強めて後ろは 二拍となる
Aムッソ/リーニ(二・二)――二拍子の後ろ強め
ルーズ/ベルト(三・三)――三拍子の中強め
二拍子、三拍子とも、人間の歩みのリズムであるとともに労働のリズムでもある。二拍子は快適なリズムである。それに対して、三拍子は遊びのあるゆったりしたリズムである。コトバのリズムも音楽と同じにテンポを持つのだろう。ちなみに、ジャズの有名な曲である「テイクファイブ」は五拍子であるが、三拍子と二拍子とに分かれる。
湯山氏の述べる読み方の速い遅いは心理的な感覚にもとづくものだろう。つまり、人は読み始めで二拍子をとるか三拍子をとるか判断するのだ。読み出しの一節が二拍子ならば、次の区切れにも二拍子を期待するので速くなる。ところが、三拍子で始まったときには、次の節でも同じ三拍子のリズムを繰り返そうとする。それでテンポが遅くなる。二組の人名の読み方の差もそのあたりにありそうだ。
5「音脚」あるいは「気力」
湯山氏は、日本語の強弱リズムを基本にして、日本語の音声言語の研究をした。その考えの基本は、仮名文字で表記される一音節をリズムの単位として、強弱もしくは弱強による二拍子のリズムをとらえることである。
だが、一文字を一音節として読んでいる限り、小学生のようなたどたどしい読み方から脱することはできない。次の課題として、文の強弱リズムをどうとらえるかという問題がある。しかし、それについては十分に解き明かされていない。もしかして、湯山氏は、学校で生徒が教科書を読むことに限定して研究したのかもしれない。
ここでは、湯山氏の解説する強弱リズムを越えた文の読み方について考えてみよう。次の例文を一音ごとの強弱で読むと、次のようなリズムになる。
ヒノ マルノ ハタ(日の丸の旗)
バンザイ(バンザイ)
バンザイ(バンザイ)
湯山氏は、どんな場合でも、この強弱のリズムで読ませようとする。たとえば、次の例でも一音ごとのリズムによる読み方が示されている。
にほ んの はた だ (日本の旗だ)
指示するとおりに読むとぎこちなくなる。わたしならば、次の三通りの読み方ができる。いくつかの音節をまとめてリズムをつけるのである。音楽でいうならスラーをかけた感じである。例文は仮名四文字と三文字の音節であるが、三拍でも二拍でも一拍でもよめるのである。
○ ニ/ホン/ノ(三拍) ハ/タ/ダ(三拍)
○ ニホン/ノ (二拍) ハタ/ダ (二拍)
○ ニホンノ (一拍) ハタダ (一拍)
このように音節をまとめた読み方を障害児の発声・発音の指導では「気力」
(注5)と呼んでいる。ひと息にまとめて発音する音(オン)の組み合わせのことである。また、折口氏も同様のまとまりを「音脚」と呼んでいる。
つまり、一口に日本語のリズムといっても、原則としてのリズムはあるが、音節をいくつかまとめてリズムをつけることが可能なのである。わたしはこれを暫定的に「フレージング」と呼んでいる。フレーズの取り方によって強弱のリズムはかなり自由につけられる。
つまり、散文のよみでは読み手が積極的にリズムを付けられるのである。読み手は文の係り受けを明確にするための間(マ)をとる。だがそれは受け身の読み方である。強アクセントの位置はフレージングとの関係で変わりうる。読み手は音節をまとめて自由に強アクセントをつけられる。それによって特定の文の要素が強調される。それが表現である。どこまでフレージングの自由が許されるかは、原文の文構造によるのである。
6「五重塔」のフレージング
世に名文といわれる文章を見ると、文の内容とリズムの取り方とがじつに見事に対応しているものである。それだけ書き手が文章の内容と表現に気を配っているわけである。小説の神様と呼ばれた志賀直哉は、まさに「リズム」
(注6)と題した文章で、すぐれた文章の性格を語っている。
さて、そんな文章の一例として、「五重塔」の一部をとりあげよう。/で区切られたひとつながりを一単位として、同じ時間で読むと、ゆったりとしたリズムが生じる。音韻数の多いフレーズはテンポが早くなり、少ないフレーズはゆったりとテンポが遅くなる。その結果、よみの緩急が生じる。それによって原文の「語り口」を効果的に表現できるのである。
「今しも台所にては/下婢が器物洗ふ音ばかりして/家内静かに、/他には人ある様子もなく、/何心なく/いたづらに/黒文字を舌端に嬲り躍らせなどしてゐし女、/ぷつりとそれを噛み切って/ぷいと吹き飛ばし、……」
「五重塔」一
たとえば「家内静かに」は七音であるが、ほかの長いフレーズと対応する意味の重さがある。前の「下婢が器物洗ふ音ばかりして」は、いわば述部を引き出す役目を果たしている。あとに登場する述部を迎えるための経過部分である。だから、このフレーズは音数は多くても速く読まれることになる。
まとめ
以上、見てきたところで、わたしが最初にあげた問題に答えることができる。
第一に、日本語には強弱のリズムがある。高低アクセントやイントネーションばかりでなく、一音ごとの強弱アクセントやフレーズごとの強アクセントがある。
第二に、日本語のリズムは仮名文字で表記される一音ごとの強弱ばかりではない。それだけでは小学生のような読みになる。いくつかの音節をまとめて読むことによって、音の長短によるリズムがつけられる。しかも、音をまとめることで強アクセントの位置を変えることが読み手の表現として許されるのである。
第三に、フレージングの基本となる最小単位のまとまりは、二音と三音の組み合わせである。さらに大きなまとまりをつくることによって、文の意味を明確に示すことができるし、文章のリズムも浮かび上がるのである。
最後に、今後に残された問題を箇条書き的に並べておくことにする。これまでの高低アクセント理論による単語のアクセントが、フレージングによってどのように変化するか。高低アクセント理論のイントネーションがどこまで強弱アクセントの強弱で置き換えられるか。さらに、強弱アクセントが浄瑠璃や義太夫などの発声法でどう表現できるのか。放送の世界で研究されてきた高低アクセントによってどこまで文学作品の表現が可能なのか。文学作品の音声表現において強弱アクセントを有効にするための発声法とはどのようなものか。
以上が、わたしの今後の研究課題である。
【引用注】
(1)湯山清『国語リズムの研究』1944/国語文化研究所
(2)三省堂『新明解国語辞典・第四版』
(3)吉田一穂『定本・吉田一穂全集U』1982/小沢書店
(4)折口信夫『言語情調論』2004/中央公論新社
(5)坂田午二郎『やさしい発音・発語指導』1973/日本特殊教育協会)
(6)志賀直哉(高橋英夫編)『志賀直哉随筆集』1995/岩波書店
【参考論文】
(1)「「よみ」を考える三冊の本―表現よみ理論ノート・その1」『日本のコトバ14号』1995・12/日本コトバの会
(2)「表現よみと落語―表現よみ理論ノート・その2」『日本のコトバ17号』1998・12/日本コトバの会
(3)「折口信夫『言語情調論』をよむ―表現よみ理論ノート・その3」『日本のコトバ23号』2004・12/日本コトバの会
日本コトバの会編『日本のコトバ24号』(2005/12)所収