更新2002.4.10 「ことば・言葉・コトバ」

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文章の「読み」と「朗読」
―齋藤孝「声に出して読む理想の国語教科書」批判―
渡辺 知明

はじめに 1.文学作品をどう読むか 2.国語科教育と教科書
3.朗読というもの 4.文章の読みかた おわりに


はじめに

 『文藝春秋』(2002年2月号)に齋藤孝氏の論文「声に出して読む理想の国語教科書」が掲載されました。わたしは興味と期待を持って読みました。ベストセラー『声に出して読みたい日本語』の著者が、朗読や文章の「読み」についてどう考えているのか知りたかったからです。
 わたしも二十年以上「表現よみ」という名称で文学作品の実践的な研究をつづけてきました。ここ数年、俳優やアナウンサーをはじめとして一般の学習者による発表会も目立つようになりました。さらに、詩人や作家の間でも、表現としての「朗読」への関心が高まっています。齋藤氏の本のベストセラー現象は、そんな時代を背景にしたものです。わたしは齋藤氏の本をきっかけに、日本に「朗読」の文化が定着することを期待しています。また、齋藤氏には「朗読」の理論と実践のリーダーとなってほしいとも思っています。
 しかし、残念ながら、わたしの期待を満たしてくれる論文ではありませんでした。ざっと一読しただけで放っておきました。するとある日、国語教育に関わる知人から、齋藤氏の論文についてどう考えるのか、ぜひ聞かせてほしいと問いかけられました。
 わたしはあらためてじっくり読み直してみました。そして、根本的な批評をする必要があると思いました。齋藤氏の論文はただ単に理想の教科書を示すだけではなく、文章の読み方や授業の方法についての提案ともなっています。ベストセラーの著者である齋藤氏の発言として影響力は大きいでしょう。これこそすばらしい方法だとして学校教育に取り入れる先生もいるかもしれません。とくに気になるのは、次の三つの点です。
 第一に、「朗読」を取り入れた授業が、「読み」の根本的な考えのないゲームのように見えます。第二に、「朗読」の基礎となる理論がないまま、通俗的な朗読の実践にとどまっています。第三に、文学作品と文章との関係についての考えが不十分です。
 たしかに一つのアイデアとして授業方法が提示されていますが、新しさは古いものを基礎にしたうえでの新しさです。新しいと思われるものが意外に古いものの繰り返しということもありがちです。「読み」の方法について、これまで国語科教育の歴史のなかで提案されたさまざまな理論が生かされねばならないでしょう。
 わたしはとくに「朗読」の将来が気になります。齋藤氏のベストセラーによって、多くの人々に音声のコトバへの関心が高まっています。さらに文化として定着させるためには、「朗読」というものを考える次の段階が必要だと思います。それは、ただ声を出して読む段階から、よりよい読みの探求への発展です。その点からも、齋藤氏の「朗読」の理論について検討する価値があると思います。
 齋藤氏の論文について次の四つの点が問題になります。

 ・文学作品をどう読むか
 ・国語科教育と教科書
 ・朗読というもの
 ・文章をどう読むか

 以下、これらの点について齋藤氏の考えを検討しながら、朗読と国語科教育がどうあるべきかを述べることにします。

はじめへ
 1 文学作品をどう読むか

 齋藤氏が示した「理想の教科書」の「目次」は次の通りです。小学校三年生から六年生に読ませるものと想定されています。

●理想の国語教科書 目次(小学校中高学年以上)
夏目漱石「夢十夜」の第一夜
森鴎外「杯」
菊地寛「勝負事」
志賀直哉「清兵衛と瓢箪」
小林秀雄「人形」
太宰治「走れメロス」
坂口安吾「風と光と二十の私と」
野口英世の母・シカの手紙
藤原てい「流れる星は生きている」
新美南吉「疣(いぼ)」
棟方志功「板極道(ばんごくどう)」
幸田文「なた」
シェイクスピア「マクベス」
トルストイ「人にはどれだけの土地が必要か」
ギリシア・ローマ神話
モーツァルトの手紙
ゴッホの手紙
蒲松齢「聊斎志異」
ゲーテ「ファウスト」
ロマン・ロラン「ベートーヴェンの生涯」
レオナルドダヴィンチの手記
パスカル「パンセ」
ラッセル「幸福論」
G・マルケス「百年の孤独」

 教科書の「目次」というよりは、教科書に収録すべき作品のリストです。だれが見ても、これが小学校の教科書なのかと驚くことでしょう。とくに、「夢十夜」「マクベス」「聊斎志異」「ファウスト」「百年の孤独」などは、おとなでも読むのに躊躇する作品です。齋藤氏はどんなつもりで、これらの作品を選択したのでしょうか。
 齋藤氏は現行の教科書にはきびしい意見を持っています。「目を疑うほど」レベルが低くて、「すごみ」のある文章がほとんどないというのです。
 「子どもがそれぞれの学年においてほぼ完全に理解しうる内容のものが選択されている。しかも、漢字や言葉遣いを教えるという役割をも担わされているために、取り上げられる文章の質は勢い、易しいものとなっている。」
 齋藤氏は教科書というものをどう考えているのでしょうか。学校という共同の場で「それぞれの学年においてほぼ完全に理解しうる内容」のものにするのは当然のことです。ところが、おとなでさえ読むのに躊躇するものを読ませようとするのです。子どもたちの読解力の低下が叫ばれているとき、わざわざ難しい文章を読ませる必要があるでしょうか。かえって生徒たちを読むことから遠ざけることになるでしょう。
 また、齋藤氏は現行の小学校四年生の教科書なら、「平均的な四年生でも、一、二時間ほどで全文を読み上げることができる」と言い、「しかも、そのおよその内容を把握することができる。その一つ一つの文章について、五〜七回の授業時間を実際にはかけている」が、それでは「子どもが退屈してしまう」と言うのです。
 ここに齋藤氏の「朗読」と「読み」についての基本的な考えが見られます。つまり、声を出して読みあげることが「読み」であり、「およその内容を把握」できればいいというのです。ですから、小学生に夏目漱石の「夢十夜」を読ませるときにも、「朗読には十分もかからない」、「しかも一度読めば小学三年生でも筋はわかる」と言えるのです。つまり、筋がわかれば、それで読めたということになるのでしょう。
 また、齋藤氏は、子どもに過重とも思える文章を読ませることの意義を「下げ止まり」という比喩で説明しています。小学生でも「密度のレベル」「絶対値」の高い文章を読ませれば、「総量が多い分だけ受け取るものも多い」といいます。しかし、文章を読むという知的行為は物理的な現象とはちがいます。人間と人間とが文章を媒介にして思想や感情をやりとりするものです。文章の読み手は人間です。しかも、教科書の読み手は、成長途上にある小学生なのです。おとなでさえ理解するのが難しい文章を目の前に突きつけられたら、子どもたちはおびえてしまうでしょう。たとえ授業で強制的に読ませることができても、心のなかでは退屈しているか、実際に途中で投げ出してしまうでしょう。
 たしかに声に出して読むことによって集中力を高めることはできます。むずかしい文章でも文字さえ読めれば、とにかく読み通すことはできます。しかし、それが「読み」なのでしょうか。齋藤氏の主張する「声に出して読む」という「朗読」の本質はこのあたりにあります。つまり、文章を「読む」ことの本質を抜きにしたまま、意味が分かろうと分かるまいと、とにかく声にすることのようです。
 ですから、むずかしい作品を読んだときに、子どもたちにできるのは、かろうじて作品の筋を読みとるか、直感でテーマと思われる部分を拾い出すくらいのものです。そんな「読み」は、単に文章から情報を拾い出すだけのことです。それはかたちを変えた詰め込み教育です。しかもずいぶん荒っぽいやりかたなのです。
 本来の「読み」は、読み手が一方的に情報を受け取るものではありません。文章のかたちに表現された書き手の思想を、読み手は文章を手がかりにして自らの内部に形成していくものです。そして、書き手の思想を自らの思想と対決させて評価することにもなります。声に出して読むことも、文字の情報を声の情報に置き換えるという単純なものではありません。生き生きした声で読むためには、読み手が文章の内容を理解しつつ、作品の細部から全体へとイメージを形成しなければなりません。ところが残念ながら、齋藤氏の理論や実践には、このような「読み」の理解が欠けているのです。
 ※ 渡辺知明の文学作品の構造理解については、『表現よみとは何か』(1995/明治図書)を参照。

はじめへ
 2 国語科教育と教科書

 それでは、なぜ齋藤氏は、おとなでも難しい文章を「理想の教科書」として選んだのでしょうか。わたしも教科書の作品をただ単に子どもたちの現状のレベルに合わせてやさしくして行くだけではいけないと思います。教育によって子どもを成長させることを前提にしなければなりません。努力すれば読みこなせるくらいの内容にするべきです。しかし、齋藤氏のあげたリストには賛成できません。小学生に、どうして「夢十夜」や「マクベス」や「ファウスト」を読ませるのでしょうか。
 齋藤氏は自分の好みで作品の選択をしているのではないかという気がします。国語科教育とは何か、教科書をどう編成するのかといった配慮が感じられないのです。齋藤氏はリストの作品を選んだ理由として四つを上げています。第一の基準として「すごみ」、第二に「あこがれ」、第三に「生の美意識=倫理」、第四に「筋があってわかりやすくかつ深い味わいがある」ということです。
 はじめの三つは哲学的な色合いのある主観的なものです。「すごみ」「あこがれ」といった心情を教科書の教材選択の基準にするのはおかしなものです。基準はやはり国語科教育とは何か、その目的は何なのかという根本から考えられねばなりません。
 齋藤氏は国語科教育の本質についてどう考えているのでしょうか。わたしが齋藤氏の文章から読んだ限りでは、実用的なコミュニケーションの能力の養成にとどまっているようです。
 わたしの考える国語科教育の本質とは、日本語を母国語とする子どもたちの言語能力の養成を中心として、日本語の知識や教養へと広げられるものです。つまり、「読み・書き」「話し・聞き」といった言語行為の基礎的能力を通じて、自ら自立して学べるための能力の養成です。いろいろな科目がある中で、言語能力に関わる教育に責任を持つのが国語科教育なのです。それは実用的なコミュニケーション能力にとどまりません。「読み」においても、ただ単に情報を取り入れるだけではなく、文章を理解し、解釈するとともに、その内容を評価し、批評できるような能力の養成を目ざすべきです。
 ですから、このような能力の養成のためには、教科書の作品選択も、筋を読みとるような文章ばかりではいけません。現行の教科書では、「読み」の能力を高めるために、二つの分野の文章を区別しています。論文や解説文などの「説明文」と、詩や物語などの「文学文」の二つです。齋藤氏のリストはもっぱら「文学文」の分野の作品ですから、「教科書」というよりも、文学教育のための副読本といえます。しかも、齋藤氏の朗読の考えには、「文学文」の特殊な表現方法についても意識されていません。ですから、どんな文章でも、同じように「朗読」するものと考えられているようです。

はじめへ
 3 朗読というもの

 齋藤氏の編集した『声に出して読みたい日本語』は、いわば「朗読」のための教材集です。さまざまな文章が収録されていますが、どのような「朗読」を期待しているのでしょうか。「朗読」の方法について齋藤氏には具体的な考えはないようです。「私の考えでは、国語は体育だ」というのと同じく、「朗読」も体育と同じ体力的なトレーニングと考えられています。とにかく文字に書かれた文章をしっかり声に出して読めばいいという主張です。
 とはいっても、「朗読」も教育しなければ能力は育ちません。何のための朗読なのか、その目標を定めた上で、よりよい方向に朗読の能力を高めるのが教育です。ところが、齋藤氏にはよりよい朗読という理想はないようです。というより、「朗読」は単に文字を声に置きかえるだけの技術とされているようです。しかし、わたしにとっては「朗読」とは、言語表現能力を高めるものであって、理論的にも実践的にも研究する価値のあるものです。
 齋藤氏は、国語の授業で「朗読」を次のような具合にとりあげます。リストにあげた作品も実際にこのようにして子どもたちに読ませています。
 「やり方の基本は、教師(親)が朗読し、子どもは文章を目で追いながら、それを聴く。朗読後に子どもが文中に線を引き、それを発表するというやり方だ。」
 わたしが意外だったのは、子ども自身が朗読をしないということです。読むのは教師か親で、子どもは聴くだけです。「朗読」の教育はただ聴くだけでなく、子どもたち自身が読むことに意義があります。それは文章の理解に通じるからです。
 しかし、齋藤氏は子どもが朗読することが内容の理解に通じるとは考えていません。まったく受け身のかたちの授業です。たしかに「聴く」という行為が入っただけ、子どもたちの集中力は高まるでしょう。しかし、その作品がおとなでも理解がむずかしい作品だったら、その集中力にも限界があります。ただ聞かせるのでは、以前から行われている黙読によって内容を読みとる授業と基本的には同じことです。
 また、教師や親による「朗読」は、文章の内容を表現するものではありません。  「朗読は取り立てて上手である必要はない。役者のように抑揚をつけてやる必要もなく、はっきりした声できちんと読めばいい。テキストははじめから「総ルビ」にしておくので、朗読する側も苦労はいらない。間の開け方などにこだわることなく、淡々と朗読すればよい。ただし文章自体に迫力があるので、読む側も精神のテンションを上げて読むことは求められる。」
 ここには、「朗読」についての通俗的な注意しかありません。文字が読めればそれでいいという考えもあります。しかし、それも仕方ないことかも知れません。日本には表現としての「朗読」の理論はほとんどないからです。とくに終わりの「精神のテンション」についての指摘は気になります。すぐれた文章には文章自体の迫力があることは確かです。しかし、問題はその迫力が「朗読」によってどう表現されるかという点です。
 齋藤氏は「読む側も精神のテンションを上げて読む」といいます。これに対して、わたしは「文章自体」が備えている表現に読み手の「精神のテンション」を上げる力があると考えます。つまり、読み手が「迫力」のある文章を「朗読」するとき、文章を理解しつつ、作品の内容と意識でふれあうなら、そこに声による表現が生まれるのです。読み手の精神のテンションは、文章を理解した結果、自然に上がります。それがメリハリのある声の表現になるのです。わざとらしい抑揚をつける必要はありません。文章の表現に準じた表現であるなら、聞き手も違和感なく感動的に聞くことができます。
 それに対して、あらかじめ「この文章は迫力があるから、こんな調子で読もう」と決めてかかると、原文の文章をゆがめて表現する危険があります。というのは、作品の文章全体に一律に「迫力」があるわけではないからです。文を単位としたレベルでは、どの文を際立たせて、どの文を押さえるかという違いがあります。また、一つの文をよむときでも、どの語句の意味を強めるべきか、どの語句で声の調子を変えるかと区別できます。
 齋藤氏の「朗読」の目的は、単に文字を音声化することのようです。文字を音声化することで聞き手に伝わるのは、おもに情報としての内容です。しかし、「朗読」には、文字の情報として伝えることのできないものを表現する力があります。それはまさに「行間を読む」と言われるものです。文章の書き手には複雑な思いがあります。文章には十分に表現できずに文字から抜け落ちてしまうものもあります。しかし、読み手は書き手の複雑な思いをとらえて表現することができるのです。
 文章は文字による直接の表現の向こうにある書き手の思いまで表現しています。文章の意味は字づらだけではとらえられません。とくに「文学文」では、文字の向こうにある思いを読みとらねばなりません。文章に込められた書き手の思いは、読み手の思いとして受けとめられます。「朗読」においては、双方の出合いが表現されます。それは情報伝達を越えた表現としてのよみです。それが、わたしの考える「表現よみ」なのです。
 ※ 渡辺知明の「朗読」指導論については、「表現よみ指導法入門」を参照。

はじめへ
 4 文章の読み方

 齋藤氏の方法を作品を読み深めるという点から検討してみましょう。齋藤氏は「朗読」を聞かせてから、子どもたちに線を引かせる方法をとっています。
 「朗読を聴いた後に、三色のボールペンで、大事な箇所に線を引くように指示をする。」
 わたしは「聴いた後に」引かせることに、まず疑問を感じます。テキストを見ながら朗読を聞くとき、子どもたちはどのような聞き方をするでしょうか。もし、あとで線を引くことを知っているなら、「大事な箇所」に線を引くつもりで聞くでしょう。せっかく朗読で音声言語を聞かせているのに、文字を見てしまったら、耳よりも目に注意が行ってしまいます。音声の表現から単に文字の表現を拾うだけになります。わたしはむしろテキストを見ないで聞かせるべきだと思います。そして、朗読のあとで初めてテキストを見せて「大事な箇所」に線を引かせるべきです。
 しかし、問題はもっと大きなところにあります。線を引くことによる授業のすすめ方がいいのかどうかです。線の引き方は次のようになります。
 「青が『まあ大事』で、赤が『すごく大事』、緑が『自分がおもしろいと思ったところ』というように色分けする。」
 この単純な基準の立て方には賛成です。大まかな基準を立てて意識を集中するのはいいことです。あまりに細かい基準を立てると、基準そのものが学習の目的になってしまうからです。目的は文章の「読み」であり、文章の内容の「読み」です。線を引くことが目的ではありません。
 引いた線の発表については次のような原則があります。まず子どもに聞くのは緑の線です。
 「発表の際、その文章に対する解釈や、なぜそこに引いたのかという理由は基本的に聞かない。どこに引いたのかだけ聞くようにする。」
 この原則には頭から反対する人がいるかもしれません。しかし、わたしは条件つきでこの原則の有効性を認めます。文章の「読み」においては内容のすべてが論理的に明確になるとは限りません。文章とは、常に不明確な部分を含みつつ、理解され、解釈されるものです。線を引くことは理解の出発点にすぎませんから、その理由を求めることにはムリがあります。
 ただし、わたしがこの原則を支持するのは、線を引いた部分について理解を深めるための道が開いている場合です。たとえば、子どもたち同士で話し合って意見交換ができるか、あるいは、線を引いた部分を自分の「朗読」で表現するような場合です。
 ところが、齋藤氏の授業には、このような段階はありません。あるのは賛同の拍手ばかりです。
 「そして、誰かが発表した箇所と同じ箇所に線を引いていた者は、色に関係なく拍手をするようにする。」
 さらに、赤い線も発表させます。「何人か発表していくうちに、本当に大切なところに線を引いた子が出てくる」と、教師が「みんなここに赤線を引いておこう」と指摘します。そして、最後に教師が「この文章の中心テーマは……だ」と確認をするのです。
 ここでは「テーマ」のとらえ方の浅さが気になります。子どもたちが線を引いた「大事な箇所」が、そのまま「テーマ」とされています。「テーマ」も「筋」と同じように文章から取り出すものとされています。これでは「読み」は単なる情報の収集になってしまいます。「テーマ」は文中に文のかたちで客観的にあるものではありません。読み手が文章と対決的に向き合って読みすすむなかで成立します。しかも、文章の向こうには書き手がいますから、文章という舞台で、読み手が書き手と対決するのです。「テーマ」は読み手と書き手との合意点に成立します。ところが、齋藤氏の「読み」には、こんな考えはありません。「テーマ」ははじめから文中に文のかたちであるものと考えられています。
 「テーマの説明は、朗読前に簡単に行ってもいい。抜粋の場合もあるので、前後の関係や、およそ作者はどのような人で、何がテーマの文章であるかを説明してもまったく差し支えない。解釈も基本的には教師側が行うことになる。」
 齋藤氏の授業は、まったく教師が一方的にすすめるものです。「テーマ」はわかりきったものとして文章の中に書かれていて、クイズの答えのように求めるものとされます。あらかじめ答えを知っている教師が、生徒に伝えるような授業です。
 齋藤氏は、このように教師の「朗読」を聞いて「テーマ」を拾い出す授業について大きな自信を持っています。
 「ここまでのプロセスで、文章のポイントの六、七割は押さえることができる。」
 そして、この方法によって「名文を多読することの意義を強調」するのです。
 「このやり方で行うと、学校の授業の一時間分(四十五分程度)で一つか二つの文章を読むことができる。」
 しかし、これまで見てきたとおり、齋藤氏の「読み」の授業は貧しいものです。せいぜい作品の筋がわかるか、みんなが一致する「大事な箇所」を発見するくらいのものです。それだから、小学生でも「夢十夜」や「マクベス」が読めるのです。もちろん、「名文を多読すること」を第一の目標としているのでしょうが、わざわざ学校の授業の方法に取り入れるような方法ではありません。
 これまで、国語教育における「読み」について、さまざまな理論と実践の研究がされてきました。それらの成果について、齋藤氏も全く知らないわけではないでしょう。いずれかを参考にすると、より豊かな授業の形態が工夫できることと思います。わたし自身が親しんでいる方法としてお薦めできるのは、児童言語研究会(創立昭和26年)の提唱する「一読総合法」です。
 * 渡辺知明の提唱する「印つけよみ」実例。原理の説明については、『コトバ学習事典』(1988/再版1990/一光社)を参照。「一読総合法」についての解説は、児童言語研究会による解説(一光社のページ)、あるいは、「こども・ことば・教育(佐賀児言研)」を参照。

はじめへ
おわりに

 齋藤氏の「朗読」と「読み」の実践は、さまざまな問題点を含んだものです。「朗読」についても、「読み」についても理論はなく、通俗的な考えかたに終わっています。おそらく、専門である身体論に裏付けされた実践の部分は有意義なものなのでしょう。しかし「朗読」も「読み」も「体育」ではなく、やはり国語科の分野として教育されるべきです。
 齋藤氏が「朗読」に関する本の著者であるために、今後も国語教育についても期待されることが多くなることでしょう。しかし、残念ながら齋藤氏の示した「理想の国語教科書」は国語科教育のためにふさわしいものではありません。また、「朗読」の方法についても特別な提言はありませんし、文章の「読み」の方法も、子どもたちの読解力や思考力を育てるものとは言えません。
 わたしは齋藤氏のベストセラー本によって今、日本に「朗読ブーム」が起こる可能性があると思います。齋藤氏の本は、文章とはただ黙って読むものばかりではないという考えを広めました。そして、より多くの人たちに、声を出して本を読む楽しさや喜びを広げつづけています。
 わたしは「朗読」を一時のブームに終わらせずに、文化として定着させるためには次の段階が必要だと考えています。それは「朗読」と「読み」とを結びつけた新しい朗読理論です。日本の文化には、講談、落語といった「語り芸」の伝統があります。これまで「朗読」はもっぱら音声理論の面から研究されてきましたが、新しい理論は「語り」の発展として成立した小説に代表される文学作品の音声表現の研究です。つまり、文学作品に織り込まれた語りの構造を音声表現としてよみがえらせるための理論です。
 わたしはこれまで二十年以上、「表現よみ」の研究と実践を続けてきました。表現よみの理論は、齋藤氏の「朗読」の研究と実践を次の段階へすすめるための参考になることと思っています。この小論が、今後の齋藤氏の研究の発展のために、いくらかの刺激になればありがたいと思います。(終)

はじめへ

【参考】渡辺知明の表現よみ論文『日本のコトバ』(日本コトバの会編)に掲載されたもの――「よみ」を考える三冊の本―表現よみ理論ノート(14号/1995)、表現よみ理論の成立と発展―作品批評のよみを目ざして(15号/1996)、表現よみと落語(17号/1998)、《講演》文学作品の朗読法(18号/1999)、表現よみの学び方(19号/2000)、表現よみと朗読の未来(20号/2001)。「あるよみ手への手紙」『あゆみ55号』(1999/日本コトバの会)