更新2002/10/29「ことば・言葉・コトバ」




あるよみ手ヘの手紙 ――表現よみと朗読

渡辺知明

 先日はご丁寧なお手紙をありがとうございました。表現よみについてのお考え、会についてのご意見、ありがたく読ませていただきました。わたしの本についても熱心に読んでくださったことを知ってうれしく思いましたが、残念ながらいくつかの点について勘ちがいをされているようです。いくらかでも誤解を解こうと思いまして、こんなお手紙を差し上げることにいたしました。
 わたしは表現よみコンテストの審査員を引きうけたために、プロとしての仕事をしながら熱心に音声表現を探求する方と知り合えたことを本当にうれしく思っています。今回のコンテストも、だれが入賞してもおかしくないくらい、どの出演者も日本で一級のよみ手でした。
 そんな話を前おきにして、終了後の懇談会では、審査結果について出演者の方がたと話し合うことができました。わたしは、表現よみの理論における朗読の考え方、テキストとしての文学作品の考え方などを説明いたしました。あなたが出席されなかったのが残念です。
 あなたのお手紙で、わたしが何よりも同感したことばがあります。「表現できないのなら理解不足」というのが表現者の見解である――です。表現よみでも、その点は同じです。わたしは拙著『表現よみとは何か』(1995/明治図書)で、一貫して作品の「理解」の重要性を主張しています。
 わたしは、これまでの朗読に大きな不満を感じています。朗読者が聞き手への「伝達」を意識しすぎるために、自ら作品を「理解」する面が抜け落ちている気がします。それで、テキストの表現である文学作品の文章の構造までさかのぼって、朗読の表現の基礎を論じたわけです。
 朗読についての研究は、日本ではほとんど未開拓といってよいでしょう。わたしたちの目ざすものは、よりよいよみの「表現」です。その点では、あなたのおっしゃる音声表現の目的と百八十度ちがうというものではありません。何よりも「表現よみ」というコトバ自体が、あなたと共通する目標を示していることと思います。
 また、あなたは入賞するようならプロとしては失格だったというような言い方をされていますが、そんなことはありません。表現よみで要求するよみができるということは、一般的なナレーションばかりではなく、文学作品について深い内容を表現できるという証明です。今回の結果にめげずに、文学作品のよみへの挑戦という意味で次回も応募していただきたいと思っております。
 現在、日本では、朗読のコンテストというと、表現よみコンテスト以外では、お菓子の会社ユーハイムが主催する「ゲーテの詩 朗読コンテスト」が一九九八年で第十七回を迎えています。そのほかには定期的なコンテストは見当たりません。わたしは、いつか表現よみコンテストを、「わたしはあの会に出演した」と出演者が誇りにできるような催しにしたいと思っております。
 さて、もう少し、あなた自身のよみと表現よみとの関係に関してお話ししましょう。あなたのよみから思いついたのは、よみにおける表現は何を基準に行われるべきかということでした。表現よみは、文学作品というテキストを演ずるのではなく、「よむ」ものです。そもそも文学作品の文章は台本として書かれているわけではありません。
 あなたのよみを聞いたとき、わたしは文学作品を台本にした演技だと感じました。伝わってくるのは、あなたがよみ手を演ずる姿でした。いわゆる「地の文」と登場人物の会話と、それぞれが別々の調子でよまれたので、作品の全体的なまとまりが感じられませんでした。いわば、音声表現のヴァリエーションのカタログのような印象です。わたしが『日本のコトバ』17号で書いた朗読の分類でいうならば、ラジオドラマ風の朗読に入るものでした。
 わたしたちの表現よみでは、黙読されることを想定して書かれた文学作品を、あえて音声で表現しています。黙読のために書かれた作品をよむことは特別のことです。しかし、文学作品の文体は、そもそも書き手である作家自身の声の表現でもあると考えております。日本でも多くの作家が自ら書いた作品を人前で朗読することは珍しいことではありません。
 よみにおいてはよみ手の個性が大きく影響します。しかし、よみ手の個性を超えて、作品そのものの世界が聞き手の心に浮かぶことが表現よみの目標とするものです。わたしが『日本のコトバ』17号で、桂米朝『落語と私』(1986/文春文庫)を引いて、「演者が消える」と書いたのも、そのような文学作品の音声表現の特徴を述べたものです。
 作品を表現するといっても、人前でよむときには、目の前の聞き手を意識せざるを得ません。問題となるのは、作品の理解と演出との比率です。わたしは演出の基礎に作品の正確な理解をすえることが、表現よみの本質であると考えています。
 さまざまな場で聞き手を前に行われた実際のよみについては、「これは朗読」と「これは表現よみ」という具合に一線を引いて区別できるものでありません。わたしは、すぐれた「よみ」というものは、朗読の道から進んだ人でも、表現よみの道から進んだ人でも、最終的には一致するものと考えています。
 そこで、もう一つ重要な点についてお話しする必要があります。あなたは「聞き手ゼロ」に注目されて、これが表現よみの特徴であると強調されています。「聞き手ゼロ」とは、大久保忠利が、伝達を意識したために演出に傾きがちだった朗読を批判する手がかりとして主張したものです。理論上でいったん聞き手をはずすことで、あらためて「よみ」が作品の表現であり、作品の内容を表現するのだということが明確になります。あなたのお手紙に書かれた「理解」の重要性とは、まさに作品の理解なのだと思います。わたしがテキストの重要性を発見する道すじについては、『表現よみとは何か』の第三部「表現よみ理論の歴史」で書きました。
 ところが、残念ながら「理解」を重視した朗読の「表現」は、わたしの知る限りでは、まだまだ少数です。ほとんどの朗読が、テキストの内容からずいぶん離れた感じです。文学作品なのに、まるでニュースの朗読やナレーションのような調子でよんでいたり、文章の調子と関係ない主観的な演出をされたよみが目立ちます。文学作品は文体を持っています。作家により、作品により、よみ方が変わるのが当然であるのに、鋳型にはめるようなよみが大勢を占めています。
 ただし、作品の「理解」がただちによみの「表現」につながるかというと、そう単純ではありません。あくまで読み手の能力と個性に応じての理解と表現です。文学作品のテキストとよみ手の表現が、どこまで的確に対応しているのか、一般論で論ずるのではなく、作家ごとに、あるいは作品の一つひとつの表現よみの実践で確かめてゆかねばなりません。また、文学作品の内容に応じたよみの表現と演出も研究する必要があります。
 今、わたしたちの会に欠けているのは、表現よみ理論の実践者です。「これが表現よみである」と堂々と言えるようなよみとよみ手です。これまで表現よみは、もっぱら理論として提唱されてきました。その実践を具体化する人材がいませんでした。そのような人を育てることが表現よみコンテストの一つの目的でもあります。あなたのように基礎的な能力を備えた方がたが、表現よみの考えを理解してくださって、文学作品のより高度なよみを実践してくださることを願っております。
 わたし自身、これまでは表現よみの「理論家」を自称していましたが、ここ二、三年は、表現よみの実践にも力を入れて、機会あるごとに表現よみの発表をするようにしております。少数の実践研究者グループを組織して、高度なよみをめざした研究をするつもりです。発表会も計画しておりますので、そのときにはぜひお聞きいただきたいと思っております。
 以上、たいへん長くなりましたが、あなたのお手紙に刺激されて、わたしがいま表現よみについて考えていることを正直にお話しいたしました。少しでも、あなたの誤解がとけて、表現よみに対する理解がすすむようでしたら幸いです。
 では、あなたの今後のご活躍とご健康をお祈りして、ここで筆を置くことにいたします。(『あゆみ55号』1999/日本コトバの会)