更新2008/08/28ホームページ
折口信夫(おりぐち・しのぶ)といえば門外漢のわたしでも知っている日本有数の国文学者である。評論では折口信夫、短歌の創作ではペンネームの釈超空である。その人の卒業論文がおそらく初めて本になったのである。
この本を書店で目にしたとき、わたしは「言語」と「情調」の文字にひかれた。表現よみの理論の参考になると思ったのである。折口の出発点がこんなところにあるというのは意外だった。また、巻末の広告『折口信夫全集』全三十七巻別巻四巻の大仕事に、どのように生かされたのかも気になる。しかし、そこまで深入りすることはできない。
折口の関心はすでに中学時代から短歌に向かっていた。この論文の最大の関心も、短歌をどうよむかという点にあったようだ。字づらを「読む」ことではなく、内容を「よむ」ことである。言語論の基礎からはじまって、具体的な短歌のよみについて細かく検討している。
文字に書きとめられた短歌には、五七五七七の音で思い浮かんだ内容が、そのまま表現されるのか。また、文字で書かれた短歌の心まで深くよむにはどうしたらよいのか。そんな動機がありそうだ。そうして行き着いたのが「情調」であり、その表現手段として音声を研究することになったのであろう。
この論文が書かれたのは、明治四十三年(一九一〇)、折口信夫は二十三歳、九十年以上も前のことである。当時、どれほどの言語理論や音声理論があったのかわからないが、現在ほどは進んでいなかったにちがいない。だから、折口の使うさまざまな概念は現代とはちがう独特のものである。しかし、そのコトバで把握された折口の観念は、現代のわれわれにも理解できる。それどころか、現代の概念からは抜け落ちている重要な問題を読み取ることができるのである。
※折口信夫著『言語情調論』(2004年9月25日初版/中央公論新社)は文語文なので引用の表記を読みやすく改めたところもある。〈 〉は引用文に引用者が付け加えたもの、〔 〕内は引用者のコメントである。
論文の冒頭、言語についての定義では、まず言語が音であることが強調されている。
「言語は、声音形式の媒介による人類の観念表出運動の一方面である。」(9ページ)
そして、言語のはたらきは「声音の輻射作用によって、観念界に仮象をうつし出す」ことだという。つまり、言語が声として発せられることで、人々の観念に、現実それ自体とはちがう世界、つまり「仮象」を描き出すのである。そのとき観念を仲介する役割を果たすのが声の言語である。観念は、声の言語から生まれる「表象」によって伝わってゆくのである。
それでは、観念と表象とはどのような関係があるのか。たとえば、「いぬ」という語を聞いても、目で見るような「写像」は浮かばない。抽象的な「観念」しかとらえられない。また、「くるし(苦しい)」「うれし(嬉しい)」という感情を表わす語からも、実際の感情が湧くのではない。その語の「背景的事実」を「経験から来る実感の聨合〔連合〕」によって浮き上がらせるのである。それを折口は「類化作用」と呼ぶ。現在の用語でいうなら、想像力あるいは連想力だろう。
言語は人々にモノ・コトを表象させる力を持っている。だが、それはごく一般的なものである。言語は「はなして」と「ききて」とのあいだに「予約」された「符号」であるから、それぞれの人の実感から離れがちである。また、言語の発信者と受信者の表象には差があるから観念にもズレが出てしまう。
「言語表象と個人の主観的な具象的観念との間に距離がある」(16ページ)
だが、短歌で重要なのは表現者の実感である。どうしたら「読み手」がその実感に接近できるか。折口が関心を持つのは、文や語句の抽象的なイメージと「読み手」の持つ具体的なイメージとの距離ないしは差をどのように縮めるかということである。
それを乗り越える可能性をもつものとして「声音」が重視されるのである。声音は個人的なものだから「直覚性」がある。しかも、言語であるから「普遍性」も備えている。だから言語に、より直接的な表象を「付与」することができるのである。もし、言語に声音がなければ、具体的なイメージの表現も伝達も不可能になる。
「言語の声音形式を離るべからざることはいうまでもないが、この手段の輻射的なることは到底さけられるものではないので、もし強いて避けようと〔する?〕ならば、表情あるいは以心伝心の精神作用によらねばならぬ。」(16ページ)
そして、言語が仮象性の限界を脱して、リアリティーつまり実感を持つための三つの力のはたらきを取り上げる。
(イ)類化作用
(ロ)表号作用
(ハ)音覚情調
「類化作用」とはすでに見た。「表号(或いは標号)作用」とは、いわゆる理論言語のはたらきである。理論的な抽象語などは表象〔イメージ〕がなくても理解できる。そうして、この三つの中でとくに重視されるのが「音覚情調」つまり言語の音そのものから生じる感覚である。これが「言語情調」の基礎となるわけである。
「言語情調」とは、音声言語のはたらきの二つの面の一つである。世間の人は言語について「主体の意思を伝うるものである」というが、もう一つの面として「感情」がある。
「人間は活物であるから感情がある。意志の表出をすると共に、感情の表現もまた一つの要求である。」(44ページ)
そして、言語が表現する二つの面として、より具体的に「意志の伝達の面」と「感情の表現の面」との二つを取り上げている。
「意志の表現事象の報告とともに、その事象の感納量をも表現する必要がある。」(45ページ)
「表現事象の報告」というのは、「ナニ」を言っているかという文の「情報」であり、「事象の感納量」というのはどれだけ「主体〔人間〕の内界を動かしたか」、つまり感動させたかということである。そして、その感動の背景にあるものを「言語情調」と呼ぶのである。
「もし言語が意味だけを述べてこの音覚情調を有するものでないとすれば、人は〈はなして〉の意志を知ることはできても感情を感受することはおぼつかない。言語文章の意味はわかっても、内容の全部を納得することはできぬのである。」(18ページ)
つまり、言語の持つはたらきの二面性――意志と感情がともなってこそ全体となるのである。これは同じ言語であっても、文字のコトバよりも声のコトバにおいて、より明確に表現されることである。
「言語情調」の基礎となるのは「音覚情調」である。それは次のように定義される。
「音覚情調の根底をなすものは、単音の音質である。」(19ページ)
折口は「単音」にさえ音覚情調があるという。それが、さらに「各音団〔単語〕、句、文等に(中略)情調を融合せしめる努力が付随してくるから、一つの文についてはその文特有の集合感覚情調が存する」(20ページ)
つまり、一つ一つの音韻にさえ「情調」があるのだから、音韻の組み合わせである「各音団〔単語〕」「句」「文」にも生ずるのは当然である。「はなして」が表現したコトバは、ただ意味を伝えるだけではなく、そこから生じる「集合感覚情調」が「ききて」に喚起されるのである。
「言語情調はもともと〈ききて〉の意識界にあることで、〈はなして〉の側に起った直接情調が、言語形式を通じて〈ききて〉の側に再生したものである。」(45ページ)
そして、「はなして」と「ききて」とを仲介し、媒介するのが、まさに「声音形式」の言語なのである。
それでは言語情調は、どのような要素によって成立するのか。現代の音声理論では、「情調」などという要素はほとんど登場しない。一般の朗読理論では「聞き手」に文学作品のイメージを喚起させるという観点が弱い。だから、言語を「情調」との関係で検討する折口の理論は、今でも音声表現にとって新鮮なのである
言語情調の要素は次の六つである。それぞれの内容を確認すれば「情調」の意義がわかる。というのも、すべての概念が「言語情調」の側面から把握されているからである。
(1)音質、(2)音量、(3)音調〔アクセント〕、(4)音脚〔リズム〕、(5)音の休止〔間〕、(6)音位
「言語情調」の基本は「音覚情調」である。これについては、次のような比喩的な言い方をしている。
「音覚情調はすなわち、あるものの色彩またはにおいというが適当である。」(58ページ)
「音覚情調」は単語のレベルから言語の全体にまで及ぼされて次のようにはたらくことになる。
「言語においてその概念を構成している観念の一部たる形式観念〔抽象的なイメージ〕は、聴覚より来る観念情調を伴うものであるから、それがさらに内容を形づくっている他の観念に情調を発射することは疑うべからざる事実で、ただ短音の複合であるばかりを差異とする。」(59ページ)
つまり、単音については「音覚情調」が生ずるのであり、それが複合されたものが「言語情調」である。それは語句や文の単位でとらえられる。単音と文とにおける「言語情調」の違いは、次のように区別される。(要素につけた数字は引用者)
「一単音の場合にも、@音質、A音量の関係がある。言語〔語句ないし文〕となるときは、そのうえに更にB音調、C音脚などの影響の大なることを認めねばならぬ。文章となった場合には、以上五つ〔四つ?〕の要素のほかにD音の休止ということがある。」(59ページ)
そうして、この五つの要素が、「相まって盛んに音覚情調を発射して内容を匂わせる」のである。(あとでもう一つ、六つめの補助的な要素として「E音位」が登場する)
一般に音質の基本は「強弱」「高低」「長短」の三つである。折口は「音の性質」として、「発音機関調節の位置によって数多の異なる音に分かたれた音の数と音質の数と等しい」(63ページ)という。その例として、五十音図のそれぞれの音をあげている。しかし、これは、音の種類であって、質を述べたわけではない。
折口は「言語情調」を句や文の単位で考えているから、単独の「音」それぞれの生み出す情調については消極的である。
「もちろんこれらの音がそれぞれ異なる情調を人に与えるものとは考えがたい。しかし大体においては母音や調節機関の差によって、存外多くの差異を感納することができるはずである。」(64ページ)
それでも、折口は「各音よりある思想を抽出」することの可能性も少しは認めている。たとえば次のように言う。
「〈あ〉の音は、のどかなこと、広濶なこと、壮大なこと等をあらわす。 K音T音は佶倔〔?〕な情調をあらわすに適当である」(65ページ)
だが、やはり、一つ一つの音よりも、句や文で表現される「情調」に重点を置いているのである。
音は空気の振動である。ある種のエネルギーであるから、さまざまな要素の性質が変われば音のエネルギーも変化することになる。その大小が「音量」である。ただし、自然の音については「大小」といえるが、人間の発する声については、「強弱」という方がよいだろう。大小は客観的であるが、強弱には心理的なニュアンスがある。折口はその点にもちゃんと触れている。
「音量の大小によって音波の振幅に大小を生ずる。この大小によって聴覚の刺戟に強弱ができる。」(66ページ)
音そのものと「ききて」にとって感じられる音とはちがうのである。情調に関係あるのは「ききて」にとっての音である。「音量」は「単音」のレベルから始まり、さらに文全体に及んで情調を表現する。
「同一音質の話であっても、声を励まして言うのと静かに言うのとでは、情調の多大な相違がある。」(67ページ)
つまり、音は「大小(強弱)」「高低」「長短」の組み合わせによって総合的に決まるのである。原則としては、大きくて短い音が強く感じられるし、小さくても高い音は強く感じられる。要するに、音を構成する総合的なエネルギーの量によるのである。
折口は、男の声と女の声の音域のちがいが生み出す情調のちがいも述べている。しかも、聞き手の側からではなく表現者の立場から述べているようだ。
「男子の声は一般に強く女子の声は弱い。したがってその音量を使用することに慣れているため、その音覚情調によって影響せられて、性格の上に多大の相違をきたす。」(67ページ)
男女の声のちがいも音のエネルギーと関係する。高い声の振動数が多いのは、軽くてエネルギーが少ないからである。また、低い声の振動数が少ないのは、重くてエネルギーが多いからである。
「音調」とは、現代のコトバでは「アクセント」のことである。これについて、折口は、おやっと思うことを書いている。
「従来、音調は音の高低によって起こるものと考えられている。しかし、これは音の長短によるものと言い換えねばならぬ。これは単語にもあり、文にもある。」(68ページ)
現在でもアクセントというと、音の高低であるといわれている。わたしはこの考えに近ごろ疑問を持つようになった。だが、折口は九十年前にアクセントは「高低」ではなく「長短」だと言っていたのだ。
「組織中〔文中〕の一部分が長くなるためにその全体の調和状態を変えたときに生ずるので、これが音覚情調〔声によって起こる共感〕の原因をなすとともに情調によって音調が影響されることがある。」(68ページ)
音声表現においては、単語のアクセントも、語句のプロミネンスも、文中のイントネーションも、「強さ」という同質の原理で考えることができる。それが音声表現におけるいわゆるメリハリの原理になる。つまり、ある部分を「強く」することで、「聞き手」に「情調」を喚起させることができるのである。さらに折口が述べる重要な点は、「聞き手」に「情調」が湧きおこるだけではなく、「読み手」の「情調」の高まりによってアクセントも変わるということである。
また、折口は日本語における「音調」の原則についての説もいくつか紹介している。「音調分岐点は第二綴りの音にある」とか「第三音にある」という説である。ここには、日本語の「強さアクセント」を研究するためのヒントがあるように思われる。
また、アクセントが移動することによる情調の変化についても述べられている。(傍点はアクセントの位置である)
「うし〔憂し〕」という場合と、うきよ〔憂き世〕とを比べてみると、うきよには音調が変わっているだけに、〈憂〉という観念は薄められて」いるので、「浮世と書いても」よいだろう(70ページ)。
言語はただ単に情報を伝えるものではなく、思想の表現手段である。それならば、なおさらアクセントは重要である。今では常識になっている「高さアクセント」の考えは改めて検討されねばならない。
わたしたちは言語を文字で考えがちである。しかし、文字の言語の表記が声の言語と必ずしも一致するわけではない。この項目は文字のコトバと声のコトバとの関係を改めて考えさせるものである。
「音脚とは、数音時〔いくつかの音の時間〕の集合が、小休止によって、ほかの集合と分かたれた区域をいう。」(71ページ)
折口は前にも「音調〔アクセント〕)」とは「高低」ではなくて「長短」であると断言した。ここでさらに、「強弱」であるという考えをも、イギリスやドイツの詩を例にして否定する。
「英吉利独逸の詩は、音調でもって音の長短(これを強弱と修辞学者等の考えているのが誤りであることは、前に述べた)を標準にして音脚を定めている」(71ページ)
このあとで折口があげる日本語の例はすべて古文や和歌である。たとえば、「高山」は、「たか・やま」と二音ずつ読まれるのが普通である。一音ずつ「た・か・や・ま」と読まれることはない。また、「雪な降りそね」も、もとの意味の区切りは「ゆき・なふり・そね」と思われるが、のちに「ゆきな・ふり・そね」となったと言う。
わたしは俳句を例にして考えてみよう。
「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」は、子どもでもない限り、「しず・か・さ・や・いわ・に・し・み・い・る・せみ・の・こえ」とはよまないだろう。もう少しまとめて「しずかさ・や・いわに・しみ・いる・せみの・こえ」と読んでも、いかにも本を読んでいるようである。そして、助詞が名詞につくこと、俳句の韻律が五七五であることに気がつけば、「しずかさや・いわにしみいる・せみのこえ」と、三つのブロックで読める。
つまり、私たちは文字を一音ごとに声にしているのではない。これは俳句や短歌ばかりではなく、いわゆる散文にもある。
私たちは声で直接にコトバを操作するのではなく、文字に書かれたコトバを声にする機会が多いので、文字と声とが一致すると考えている。だが、声のコトバはいくつかの音のまとまりとして発せられるのである。書かれた文字を読んでいるように読んでしまうのは「音脚」をとらえていないからである。
音の中には必ずつながる音がある。その長くなる音には「音調〔アクセント〕」がつくことになる。つまり、次のような音である。「促音」つまり小さな「っ」で表記される音、「撥音」つまり「ん」で表記される音、「長音」つまり「う」ないし「ー」で表記される音の三つである。
音のつながりには原理がある。たとえば「促音」は「前の声音の付属」であり「後に来る音の準備のために、調音機関において未だ本音を出さざるに先立って形づくられる音」(74ページ)である。
つまり、次にくる音が「本音〔ほんおん〕」であって、そこに付属する音なのである。
「促音」「撥音」「長音」は、どれも前の音と組み合わされた「長い音」である。これらの音を発声するときのからだは緊張状態になる。強く息を吐くと同時に体が硬直して停止している。声帯の周辺の筋肉にも力が入っている。その体の状態が意味としてのアクセントを表現するのである。
「音の休止」とは、今のコトバでいうなら「間」である。間は「音脚」と深い関係がある。
「若干の声音の連続が拍子〔リズム〕の影響を受けていくつかの Measure(小節)に分かたれる」(83ページ)
「拍子」とは和歌の韻律のことだろう。和歌をよむときに五七五七七のリズムを無視することはできない。句ごとに間が生まれて拍子をつくる。しかし、リズムだけでよむことはできない。
「言語は音楽と違って単に形式ばかりでは考えられぬ。必ず心理的にも拍子〔リズム〕が存している様である。この形式的拍子と心理的拍子との関係によって音脚意識ができる」(83ページ)
ここでは、和歌の韻律や音楽的なリズムに解消されない言語の本質が述べられている。言語の「音脚」は機械的なリズムで決まるものではない。文の内容が理解されて、それが心理的なリズムを生み出すのである。
「音脚が通常の語(文)にもあるごとく、音の休止点もあるべきで、決して詩の独占すべき訣のものではない。」(83ページ)
折口は休止について、「大休止」「小休止」との二つを区分している。
「Measure〔小節〕を言語のうえに移したときには、これを小休止と言い、これの複合を大休止という。」(83ページ)
折口の考えている大休止と小休止とは、後にあげられた例を見れば、もっぱら短歌を読むためのものである。「大休止」といっても、文と文のつながりまで考えられているわけではない。
最後に補助的に取り上げられた要素が「音位」である。これは次のように定義される。
「ある音質が前後の音質その他の条件によって多少変質せられることをいう」(90ページ)
音と音との関係が発音を制約するということであろう。次のような例で説明されている。
「〈か〉というても、〈さ〉を後に伴う〈か〉とは違うし、〈さ〉を伴う〈か〉も、〈ひかさ〉と〈ひ〉に先だたれる時にはまた違うてくる。」(91ページ)
つまり、「かさ(傘)」というときの「か」と「ひかさ(日傘)」というときの「か」では、発音が微妙に変わるというのである。
この考えも、声と文字とが常に一致する、という安易な常識をくつがえすものである。文字で示された音を誰でも同じように発音するとは限らない。それぞれの人の一回ごとの発音にも微妙な差がある。そのような音が同一の音として聞き取られるのは、発音の基準となる音韻が想定されているからである。
ここ数年続いた「朗読ブーム」も、ブームの例にもれず、ますます軽く浅い方向へすすんでいる。理論などはまるで問題にならない。もともと「朗読」の理論は、音声学にたよった貧しいものであった。力点を置いて研究されてきたアクセント論でさえ、表現よみの目ざす文学作品の音声表現のためには力不足である。
そんなとき、日本有数の国文学者の若き日の力作に出会えたのは幸いであった。九十年以上も前の論文であるが、音声表現を根本から問いなおす新鮮さにあふれている。いかにして作品をよむかという情熱や、文学と言語の関係を根本からとらえようとする熱意が感じられる。
ここには現代の理論からは失われてしまったユニークな視点がいくつも見られる。たとえば、アクセントについては、高低でも強弱でもなく、長さによる力であるととらえる。また、言語を字づらではなく、音声の組み合わせとして「音脚」という概念で考える。
折口は「言語情調」を構成する六つの要素のすべてを音声言語の根本からとらえようとしている。音声表現にとって重要ないわゆる「メリハリ」も、これらの要素から解明できるであろう。
今回、要点をノートとしてまとめたものの、何気なくページを開くと、どこからでも興味をひかれる記述を見つけることができる。まだ完全によみきったという気持ちがしない。今後も、この論文を開いては、音声表現の原則について考えてみたい。(了)
日本コトバの会編『日本のコトバ23号』(2004/12)所収