国を挙げての祭りのようになった。首相官邸のテンプル・ツリーでは「ウィラーガヤ」60周年記念パーティを催すほどの力の入れようだ。詩人・劇作家のスナンダ・マヘンドラSunanda Mahendraはデイリー・ニュースに「ウィラーガヤ・再認識」Relocating Viragaya / 2016-11-30という記事を寄せている。また、同紙にはレイク・ハウス編集者のサチトラ・マヘンドラSachitra Mahendraによる「蓮の導く道」Way shown by the lotus: 60th anniversary of Viragaya 2016-12-29も掲載された。デイリー・ミラーは「ウィラーガヤ・1956年の忘れられた古典」という特集を組み、K・K・S・ペレーラが寄稿している。
発刊60周年記念でマスコミを賑わせた『ウィラーガヤ』だったが、ディリーニューズ、ディリー・ミラーの両者とも『ウィラーガヤ』発刊当時のままのやや否定的な作品へのまなざしが見られる。著者がこの作品に込めたテーマをスルーした60年前の評価と変わりがなかったのだ。
例えば、ディリーミラー/Viragaya: The Forgotten Classic of 1956/はこんな論調だ。
サンディ・オブザーバーに精神分析医・評論家のシリ・ガルヘーナゲーDr Siri Galhenageが「アラウィンダを再分析する」Revisiting Aravinda Jayasena in Wickramasinghe's Viragay / 20-Mar-2011 Sunday Observerを表した。
心理小説の『ウィラーガヤ』をフロイト流に精神分析する手法はこの本の発刊当時の1956年から好まれて新聞書評に用いられていた。
精神分析の結果、アラウィンダは多重人格者であると烙印を押された。小説そのものが未消化であるとも評された。マーティン・ウィクラマシンハの熱狂的な読者もこの小説の真意を見失った。それは主人公アラウィンダに対する、あるいは小説そのものに対する曲解となって世に出回った。
シリ・ガルヘーナゲーによる2011年の『ウィラーガヤ』再分析も、以前と同様にフロイト派流の解析法を踏んでいる。しかし、彼はこれまでの評とは違う新たな視点を見出していた。
それは彼が英語版『ウィラーガヤ』The road of the Lotusのペーパーバック裏表紙に載せられていたhavingとbeingという単語に焦点を当てたことに始まる。
habingとbeingを並べても心理学とかかわりがなければ何の事だかピンと来ない。でも、ここにdoingを加えてみればトレンドに敏感な方なら昨今流行りのメンタル・セラピーに思い当たるだろう。
“in Viragaya we see this dimension projected into creative literary art, in the conflict between having and being in the lived experience of human beings in a village in Sri Lanka”
『ウィラーガヤ』は何を表すのか。以前QA18でウィラーガヤをそのまま「非ウィ・欲望ラーガヤ」と語の成り立ちのままに分けて、つまり、「無欲」のことと読み解いた。
このタイトルはなかなか難解なのだ。英訳本の『ウィラーガヤ』は副題がThe Way of the Lotus(蓮の道)となっている。フランス語訳の『ウィラーガヤ』に副題としてつけられたのはle Non-Attachementで、それは「無着(むじゃく)」、「無執(むしゅう)」を表している。これは何ものにもとらわれないということだ。
フランス語のほうが英語・米語より難しそうって、それはしょうがない。フランス語は哲学するから。
フランス語本の副題はシンハラ語のウィラーガヤの意味するものを明瞭に伝えている。英訳本のThe Way of the Lotus(蓮の道)は明快だけどアナロジーが過ぎる。『ウィラーガヤ』には日本語訳本2002も出ているがこちらはウィラーガヤの元の題を外して『蓮の道』とだけタイトルされている。英語訳本からとった副題の直訳で、これは「ウィラーガヤ」ではない。
こうした転換はたびたび起こる。こんな例もある。ディズニーのアニメ「フローズンFrozen」が日本に上陸したら「アナ雪」に変わってしまい、このディズニー・アニメの本来のテーマがひっくり返しになってしまった。注
注
少し前にメガ・ヒットした「アナ雪」の挿入歌に繰り返される《レリゴーLet it go》のコアなフレーズが「ありのままに」と訳されて歌われた。でも、「ありのままに」はLet it goではない。《レリゴーLet it go》が「ありのままに」では変じゃない? 《レリゴーLet it go》は「さあ、行くわよ」、「やっちゃえ、やっちゃえ」「それ行けどんどん」だよ、という指摘がささやかれている。部屋に閉じこもって女王気取りとなったエルサが不気味に微笑んで指先から魔力を出してすべてを凍らせる。これが「ありのまま」だなんて。
「ありのままに」ならgoingではなくbeingだ。Let it go ではなくてLet it beだ。でも、《レリビーLet it be》とエルサが歌ったならやわらかさが出てきてしまう。凍り付いた子供の心を夏の太陽で溶かして「さあ、行くわよ!」と声を張り上げて軟弱な病を跳ね飛ばす「アナ雪」のスタンスにならない。
「アナ雪Frozen」はLet it goの「行け!行け!」でエルサの凍り付いた心を溶かして解放された世界を取り戻した。
『ウィラーガヤ』はbeingの世界にある。「ありのままにbeing」と語り掛けてアラウィンダの心を解放する。「私たちが古くから守り続けた村の暮らしに息づく穏やかな暮らしを守り続けよう。アメリカナイズはやめよう」とマーチン・ウィクラマシンハは『ウィラーガヤ』を誤読した批評家たちに声を張り上げてアジらなければならなかった。
シンハラ人は論争を好む 実存と選択
シンハラ人はやたらと論争を好む。
そうだよ、やっぱりなあ、と吐息をもらして私は思うことがある。仏教哲学と西洋哲学を混在させて思考しながら、相手を論破することに至上の喜びを見出す性癖をシンハラ人は持っているということだ。
彼らにはインド的な思考様式がもともと備わっている。そこに輪をかけて彼らのテーラワーダ仏教はやたらに哲学論争を仕掛けるタイプの理性派だ。どうしても論争好きの結果が生じる。
『ウィラーガヤ』はちょっと見、なんてことのない恋物語。悲恋の物語が美しいと涙ぐむ読者もいるし、世間の汚泥の底から生まれた花穂が清楚な白い蓮となって水面に咲く文学と感嘆する読者もいる。多重人格のぐじゅぐじゅしたアラウィンダが日記にアレやコレや恋の顛末を未練たらしく書き残しただけの失恋ストーリだと突き放す識者もいる。
英訳『ウィラーガヤ』にはThe Way of the Lotus(蓮の道)というサブが付いている。映画化された「ヴィラーガヤ」は薄いオブラートに包まれた清楚な心の世界をスクリーンに映している。ユーチューブに映画化された『ウィラーガヤ』のテーマ曲がアップされている。その和やかを聴いてほしい。
シリ・ガルヘーナゲーは『ウィラーガヤ』をhavingとbeingをテーマに置いた小説だと言った。
英語版『ウィラーガヤ』(サブタイトルThe road of the Lotus)の裏カバーに歯科医であり詩人でもあるグナダーサ・アマラセーカラDr. Gunadasa Amarasekeraが短い評を寄せている。その評にE・フロムが1976年に著した「To have or to be?」(邦訳『生きるということ』)を引用していたことを呼び起こされたのだという。エーリッヒ・フロムの「To have or to be?」を『ウィラーガヤ』に照射して社会学的な―社会心理学的な-出来事としてのこの作品を再評価したのだ。
アラウィンダが自閉し、逃避し、そして、非欲望という精神状態に導かれていったのはなぜか。
アラウィンダのこころが清らかであると読者に察せられたのはなぜか。
言い換えれば、なぜシンハラ仏教世界は自閉し、逃避し、無欲を目指し、それをどのように清らかな世界へと昇華していくのか。
これらのほか四つの提言を「To Have or to Be?(生きるということ)」にE・フロムは掲げた。
E・フロムの「To Have or to Be?(生きるということ)」もM・ウィクラマシンハの「ウィラーガ・ラーガヤ」も社会のあり方の理想を求めた結果に生まれた言葉だ。迫りくる危機の時代を察して、声を上げたが、彼らの言葉にまっすぐに応える人々はアメリカにもスリランカにもいなかった。
VIragaya (Sinhala edition) / Martin Wicramasinghe 1956
VIragaya (English edition) / Ashley Halpe(Translator) 1985
To be or to have / Erich Fromm / 1976
Viragaya paperback 2000 french edition
“I saw myself in spirit as a hero battling the flood, staunchly resisting
convention. When the opportunity came to plunge in and show what I could
do, my strength just melted away and emotion overcame my judgment”
Ashley Halpe Daily Mirror Sri Lanka 2016-10-31
The Superior Being follows the way of the Lotus’ Abidharma