『ウィラーガヤ』と
E・フロムの「生きること」

60年振りの再評価  QA109


2017-May-5


『ウィラーガヤ』60年振りの再評価

 1956年の初版発行以来版を重ねている『ウィラーガヤ』。60年を経た昨年、スリランカで再評価の兆しが起こった。
「ウィラーガヤ」表紙
「ウィラーガヤ」表紙
 国を挙げての祭りのようになった。首相官邸のテンプル・ツリーでは「ウィラーガヤ」60周年記念パーティを催すほどの力の入れようだ。詩人・劇作家のスナンダ・マヘンドラSunanda Mahendraはデイリー・ニュースに「ウィラーガヤ・再認識」Relocating Viragaya / 2016-11-30という記事を寄せている。また、同紙にはレイク・ハウス編集者のサチトラ・マヘンドラSachitra Mahendraによる「蓮の導く道」Way shown by the lotus: 60th anniversary of Viragaya 2016-12-29も掲載された。デイリー・ミラーは「ウィラーガヤ・1956年の忘れられた古典」という特集を組み、K・K・S・ペレーラが寄稿している。

 発刊60周年記念でマスコミを賑わせた『ウィラーガヤ』だったが、ディリーニューズ、ディリー・ミラーの両者とも『ウィラーガヤ』発刊当時のままのやや否定的な作品へのまなざしが見られる。著者がこの作品に込めたテーマをスルーした60年前の評価と変わりがなかったのだ。
 例えば、ディリーミラー/Viragaya: The Forgotten Classic of 1956/はこんな論調だ。

 1956年にはシンハラ芸術文化に大きな成果を生んだ三つの作品「マナメ」「レーカーワ」『ウィラーガヤ』が作られた。舞台劇「マナメ」はエディリウィーラ・サラッチャンドラが脚本を作り、映画「レーカーワ」はジェームス・レスター・ピーリスが撮り、『ウィラーガヤ』はマーティン・ウィクラマシンハが書き上げた。サラッチャンドラとピーリスは商業的に大きな成果を上げ人々に持てはやされた。しかし、ウィクラマシンハは押しも押されもしない文学の天才なのに、『ウィラーガヤ』はほとんど批評家の評判を得られなかった。

 この「ウィラーガヤ」への論評は60年前の「私が知る私の人格があり、他人がそれぞれに知る私の人格があり、それらのすべてが私の人格の真実だ」というウィリアム・ジェームズWilliam Jamesの多重人格論をアラウィンダへの精神分析に当てはめて作品を断じた批評家たちの風潮と変わりがない。
 アラウィンダとは『ウィラーガヤ』の主人公の名だ。アラウィンダの死後、彼が書き残した日記を友人が目にしてその日記に語られるアラウィンダの心象世界を再現するという構成で物語は展開する。
 同級生サロージニとの恋。その破綻。住み込みの家政婦の幼い娘バティへの思慕と彼女が長じるにつれて湧き上がるアラウィンダの恋愛感情。彼の心の動きを奇妙な展開の中にアラウィンダは日記に記した。物語はアラウィンダの恋心を中心に展開するが、姉のメーナカとの財産をめぐるいざこざや錬金術に没頭する彼の様子が並行し、彼を取り巻く世界として描かれる。
 シンハラ伝統文化とその西洋化。スリランカ稲作農村へのアメリカ商業経済の流入と社会の変容。スリランカ社会の動きを踏まえていないとこの小説の面白さは伝わってこない。作品に対する日本での適切な評価はない。
 日記に記されたアラウィンダの心理を友人がたどるという筋立ては殊更に物語の背景をぼやけさせている。錬金術に明け暮れる主人公という設定など、日本では雲をつかむ法螺話にしか受け取れないから、その設定を心理描写のアナロジーと見立てても、日本人読者の獲得は期待できそうにない。

なぜ読み継がれるのか

 日本での評価は薄いのだが、この小説がスリランカで版を重ねている。なぜスリランカで読み継がれ、そればかりか、英語訳本1985とフランス語訳本2000を生み、60年後にテンプル・ツリーで盛大な喝采を受ける。なぜか。なぜ読み継がれるのか。
 それは『ウィラーガヤ』が常に現代的なテーマを抱いていて、読者に生きる道の核心を問うからだ。
 コロンボのテンプル・ツリーの大はしゃぎと、先にあげたシンハラ2大紙の評価とは別の角度から「ウィラーガヤ」を評するエッセイがある。ウィリアム・ジェームスの多重人格論を踏まえ、それを超える論評だ。フロイト派の精神分析医シリ・ガルヘーナゲーが「ウィラーガヤ」を2011年にこう論じている。


主人公アラウィンダを再分析

 サンディ・オブザーバーに精神分析医・評論家のシリ・ガルヘーナゲーDr Siri Galhenageが「アラウィンダを再分析する」Revisiting Aravinda Jayasena in Wickramasinghe's Viragay / 20-Mar-2011 Sunday Observerを表した。
 心理小説の『ウィラーガヤ』をフロイト流に精神分析する手法はこの本の発刊当時の1956年から好まれて新聞書評に用いられていた。
 精神分析の結果、アラウィンダは多重人格者であると烙印を押された。小説そのものが未消化であるとも評された。マーティン・ウィクラマシンハの熱狂的な読者もこの小説の真意を見失った。それは主人公アラウィンダに対する、あるいは小説そのものに対する曲解となって世に出回った。
 シリ・ガルヘーナゲーによる2011年の『ウィラーガヤ』再分析も、以前と同様にフロイト派流の解析法を踏んでいる。しかし、彼はこれまでの評とは違う新たな視点を見出していた。

 それは彼が英語版『ウィラーガヤ』The road of the Lotusのペーパーバック裏表紙に載せられていたhavingとbeingという単語に焦点を当てたことに始まる。
 habingとbeingを並べても心理学とかかわりがなければ何の事だかピンと来ない。でも、ここにdoingを加えてみればトレンドに敏感な方なら昨今流行りのメンタル・セラピーに思い当たるだろう。


メンタル・セラピーのhaving being doing

 自閉という精神疾患を負った患者がいる。セラピストはその患者に三つの段階を踏んでカウンセリングし、患者のこころの開放を試みる。
 まず、当人の日常をほめる。当人の「あるがまま」の状態を否定せず、「あるがまま」を「いいね」と認める。認められることで患者が自身に自信を持ったら次に行動を促す。何かをやろうというエネルギーを吐き出させる。行動は自身に何かをもたらすという結果を生み、患者は自分以外のところにある何か、外在するものを「獲得」する。
 メンタル・セラピーの方法論を「あるがまま」being、「エネルギー」doing、「獲得」havingの三つの要素でとらえると、beingとhavingは、ほぼ英語版『ウィラーガヤ』のカバー裏表紙に宣伝用に用いられた書評に出てくるbeingとhavingに重なる。サンディ・オブザーバーでシリ・ガルヘーナゲーはこう指摘する。

  “in Viragaya we see this dimension projected into creative literary art, in the conflict between having and being in the lived experience of human beings in a village in Sri Lanka”

スリランカの村における人間の生きた体験において繰り広げられるhavingとbeingの葛藤を、我々は『ウィラーガヤ』に於いてクリエィティ-ブな文学作品として読むことができる。


 『ウィラーガヤ』のテーマをbeingとhavingの葛藤としてシリ・ガルヘーナゲーは取り上げた。「あるがまま」と「獲得すること」の相剋。このテーマはマーティン・ウィクラマシンハが常々作品に取り上げているもので、分かりにくいとされるこの小説のタイトル『ウィラーガヤ』が示す意味もおのずから浮かび上がってくる。


ありのままに

 『ウィラーガヤ』は何を表すのか。以前QA18でウィラーガヤをそのまま「非ウィ・欲望ラーガヤ」と語の成り立ちのままに分けて、つまり、「無欲」のことと読み解いた。
 このタイトルはなかなか難解なのだ。英訳本の『ウィラーガヤ』は副題がThe Way of the Lotus(蓮の道)となっている。フランス語訳の『ウィラーガヤ』に副題としてつけられたのはle Non-Attachementで、それは「無着(むじゃく)」、「無執(むしゅう)」を表している。これは何ものにもとらわれないということだ。
 フランス語のほうが英語・米語より難しそうって、それはしょうがない。フランス語は哲学するから。
 フランス語本の副題はシンハラ語のウィラーガヤの意味するものを明瞭に伝えている。英訳本のThe Way of the Lotus(蓮の道)は明快だけどアナロジーが過ぎる。『ウィラーガヤ』には日本語訳本2002も出ているがこちらはウィラーガヤの元の題を外して『蓮の道』とだけタイトルされている。英語訳本からとった副題の直訳で、これは「ウィラーガヤ」ではない。
 こうした転換はたびたび起こる。こんな例もある。ディズニーのアニメ「フローズンFrozen」が日本に上陸したら「アナ雪」に変わってしまい、このディズニー・アニメの本来のテーマがひっくり返しになってしまった。

 
 少し前にメガ・ヒットした「アナ雪」の挿入歌に繰り返される《レリゴーLet it go》のコアなフレーズが「ありのままに」と訳されて歌われた。でも、「ありのままに」はLet it goではない。《レリゴーLet it go》が「ありのままに」では変じゃない?
 《レリゴーLet it go》は「さあ、行くわよ」、「やっちゃえ、やっちゃえ」「それ行けどんどん」だよ、という指摘がささやかれている。部屋に閉じこもって女王気取りとなったエルサが不気味に微笑んで指先から魔力を出してすべてを凍らせる。これが「ありのまま」だなんて。
 「ありのままに」ならgoingではなくbeingだ。Let it go ではなくてLet it beだ。でも、《レリビーLet it be》とエルサが歌ったならやわらかさが出てきてしまう。凍り付いた子供の心を夏の太陽で溶かして「さあ、行くわよ!」と声を張り上げて軟弱な病を跳ね飛ばす「アナ雪」のスタンスにならない。
 

 「アナ雪Frozen」はLet it goの「行け!行け!」でエルサの凍り付いた心を溶かして解放された世界を取り戻した。
 『ウィラーガヤ』はbeingの世界にある。「ありのままにbeing」と語り掛けてアラウィンダの心を解放する。「私たちが古くから守り続けた村の暮らしに息づく穏やかな暮らしを守り続けよう。アメリカナイズはやめよう」とマーチン・ウィクラマシンハは『ウィラーガヤ』を誤読した批評家たちに声を張り上げてアジらなければならなかった。

シンハラ人は論争を好む 実存と選択

 シンハラ人はやたらと論争を好む。
 そうだよ、やっぱりなあ、と吐息をもらして私は思うことがある。仏教哲学と西洋哲学を混在させて思考しながら、相手を論破することに至上の喜びを見出す性癖をシンハラ人は持っているということだ。
 彼らにはインド的な思考様式がもともと備わっている。そこに輪をかけて彼らのテーラワーダ仏教はやたらに哲学論争を仕掛けるタイプの理性派だ。どうしても論争好きの結果が生じる。
 『ウィラーガヤ』はちょっと見、なんてことのない恋物語。悲恋の物語が美しいと涙ぐむ読者もいるし、世間の汚泥の底から生まれた花穂が清楚な白い蓮となって水面に咲く文学と感嘆する読者もいる。多重人格のぐじゅぐじゅしたアラウィンダが日記にアレやコレや恋の顛末を未練たらしく書き残しただけの失恋ストーリだと突き放す識者もいる。
 英訳『ウィラーガヤ』にはThe Way of the Lotus(蓮の道)というサブが付いている。映画化された「ヴィラーガヤ」は薄いオブラートに包まれた清楚な心の世界をスクリーンに映している。ユーチューブに映画化された『ウィラーガヤ』のテーマ曲がアップされている。その和やかを聴いてほしい。

Viragaya music/Sarath Fernando
 これがシンハラのメロディだ。独特の甘さをにおわせるマイナーなメロディ。シンハラの人々の心の底に流れる情感を音の感性が伝えている。たっぷりと悲しみに浸れ。


悲恋物語はサラッチャンドラにゆだねておけ

 虚ろで抑圧された悲恋ストーリーに浸る。『ウィラーガヤ』を日本の私小説タイプの恋愛物語と捉える向きにはこのテーマ音楽の未練がぴったりと似合う。でも、先に指摘したように、この小説をそうとだけ読み取られるのをマーティン・ウィクラマシンハは嫌い、批判した。
 「悲恋物語はサラッチャンドラにゆだねておけ」。マーティン・ウィクラマシンハは彼と同時代の小説家エディリウィーラ・サラッチャンドラ මහාචාර්‍ය එදිරිවීර සරච්චන්ද්‍ර を「日本の通俗セックス小説の模倣屋」とこき下ろしている。
 彼は『ウィラーガヤ』をそれまでの自身の小説とはスタイルを転じた作品としているが恋愛心理小説とは言っていない。
 シンハラという生き方、シンハラ仏教徒教という信念。シンハラの村という集団のあり方を問うのがこの小説だとウィクラマシンハは宣言している。
 このウィクラマシンハの宣言はシリ・ガルヘーナゲーをして、ウィクラマシンハが『ウィラーガヤ』で描きたかったのは「being」ではないか、と言わせている。
 ビーイングbeing? それは何のことだろうか。

E・フロムのto beの世界へ

 シリ・ガルヘーナゲーは『ウィラーガヤ』をhavingとbeingをテーマに置いた小説だと言った。
 英語版『ウィラーガヤ』(サブタイトルThe road of the Lotus)の裏カバーに歯科医であり詩人でもあるグナダーサ・アマラセーカラDr. Gunadasa Amarasekeraが短い評を寄せている。その評にE・フロムが1976年に著した「To have or to be?」(邦訳『生きるということ』)を引用していたことを呼び起こされたのだという。エーリッヒ・フロムの「To have or to be?」を『ウィラーガヤ』に照射して社会学的な―社会心理学的な-出来事としてのこの作品を再評価したのだ。
 アラウィンダが自閉し、逃避し、そして、非欲望という精神状態に導かれていったのはなぜか。
 アラウィンダのこころが清らかであると読者に察せられたのはなぜか。
 言い換えれば、なぜシンハラ仏教世界は自閉し、逃避し、無欲を目指し、それをどのように清らかな世界へと昇華していくのか。

 それらの「悟り」に至る一連の道筋をE・フロム流の社会心理学から、いや、少々幸福願望の宗教めいた感もある経済哲学の側から捉えると、何がどのように見えるのか。

60年前には思いもよらなかったこと

 シリ・ガルヘーナゲーはE・フロムのto have(having)とto be(being)を用いて『ウィラーガヤ』を読み込んだ。フロイトの精神分析で読み込む『ウィラーガヤ』からフロムの社会心理学で解く『ウィラーガヤ』への展開は、すでに60年前に指摘されていたこととは言え、思いもよらないことだった。危機に寄り添って自己を捨てるアジア的な(スリランカ的)危機解決の手法ではなく、危機に寄り添いながらも自己を生かす姿がそこには描かれていた。
 
 それは、たとえばこんな思考へも展開する。E・フロムは1980年代のアメリカ社会を危機の時代と捉えていた。アメリカが選んだ商業資本社会は市民に四つの「大いなる約束」をした。自然を支配する。モノに囲まれ豊かになる。みんなが幸福になる。個人は自由と平等を得る。
 アメリカ社会の「大いなる約束」は果たされたか。E・フロムは「果たされなかった」と次のように指摘している。

 
「自然の支配」は人と自然の調和というメシア的理想を捨て去った。
「モノが豊かになる」ことは達成されたがそれは福利・幸福・快楽への道ではなかった。「みんなが幸福になる」理想は「豊かさが偏在する」ために達成できなかった。
「個人の自由と平等」は政治・産業、それらが支配するマスコミによって操作される代物に成り下がった。

 アメリカ社会は「大いなる約束」を失った。約束が果たされなかったことで危機を生じた。そうした危機の状況にあるなら、それらを解決する方法はどこにあるのか。
E・フロムのつぎの提言は極めてラジカルだ。

 政府・産業・マスコミによる「洗脳」をやめろ。
 富の偏在を埋め合わせよ。
 年間保障収入を導入せよ。
 女性を解放せよ。

 これらのほか四つの提言を「To Have or to Be?(生きるということ)」にE・フロムは掲げた。
 E・フロムの「To Have or to Be?(生きるということ)」もM・ウィクラマシンハの「ウィラーガ・ラーガヤ」も社会のあり方の理想を求めた結果に生まれた言葉だ。迫りくる危機の時代を察して、声を上げたが、彼らの言葉にまっすぐに応える人々はアメリカにもスリランカにもいなかった。

 日本は今、おそらく危機の時代に突入して--プラザ合意以降、リーマンショックにいたる危機が、今なお!--いるのだけど、E・フロムやM・ウィクラマシンハが吹いた警笛を同じように鳴らす人々はいるのだけれど、危機の時代に長く浸っていて、その笛はディストピア小説という暗黒の将来を描く流行にかき消されてしまったかのよう。

 『ウィラーガヤ』は米国の商業経済--愛と資本主義--が流れ込むことでスリランカ農村社会の人々が体験する「生きること」と「富の獲得」の相剋を描いた。それが米国現代社会の病を1970年代に説いたE・フロムの提言と重なる。そして、これはこのまま、私たちが今ここに引きずってしまった私たちの「戦争を心待ちする時代」につながる。
 昨年、60周年を迎えた『ウィラーガヤ』というスリランカ文学。ちょっと手ごわくて、何の悟りもないままに海に流れ落ちる私たちの明日をアラウィンダの死が予言している。


【参考】「ウィラーガヤ」ってどんな小説? マーティン・ウィクラマシンハの心理小説『ウィラーガヤ』って、いったい何なの?QA38


VIragaya (Sinhala edition) / Martin Wicramasinghe 1956
VIragaya (English edition) / Ashley Halpe(Translator) 1985
To be or to have / Erich Fromm / 1976
Viragaya paperback 2000 french edition

“I saw myself in spirit as a hero battling the flood, staunchly resisting convention. When the opportunity came to plunge in and show what I could do, my strength just melted away and emotion overcame my judgment”
Ashley Halpe Daily Mirror Sri Lanka 2016-10-31

The Superior Being follows the way of the Lotus’ Abidharma