『ウィラーガヤ』って、どんな小説?

マーティン・ウィクラマシンハの心理小説『ウィラーガヤ』って、いったい何なの?
シンハラ語質問箱 Sinhala QA38

2005---- 2015-Aug-15 2017-Apr-27 2019-Mar-03



 シンハラの人は誰もが「難しい小説だ」と言うのですが、マーティン・ウィクラマシンハの『ウィラーガヤ』はどんな小説ですか?

 

アラウィンダの愛と孤独

「ウィラーガヤ」表紙
「ウィラーガヤ」表紙
 「アラウィンダは孤独に翻弄された。父の死、母との別離、姉のメーナカーが乗り込んできて実家を我が物とするような事件が次々と起こり、彼の孤独は増した。そして、自分の世界へ閉じこもっていくようになった」

 作者マーティン・ウィクラマシンハは小説『ウィラーガヤ」に加えた「アラウィンダと仏教文化」という後書き(著者は「参考」と記した)でそう語り始めます。

 アラウィンダはこの小説の主人公。明晰な、繊細なこころを持った青年です。父の後を継いでウェーダ伝統医になることを期待されていたのですが、彼はその道を選ばず、真鍮から金を作り出すというインド的な化学・錬金術に没頭して日々を過ごしていました。
 しかし、父の死とともに彼の平穏な人生が激変します。純粋な彼は姉のメーナカが彼に振り向ける財産相続の要求や、彼の恋人のサロージニ―にいとこのシリダーサが目を付けてもそれに諍おうとしません。流れに流されるまま、姉に家を奪われ追い出され、サロージニーへ抱いた初恋も捨ててしまいます。自ら望むかのように孤独を選び取って、彼は自分だけの平穏な生活を選び、周囲の人々と疎遠になって行きました。

  実家を追い出されたアラウィンダは仕事に就き村に一軒家を借り、家政婦のグナワティを雇って暮らしました。
 グナワティにはバティという娘がいました。アラウィンダの孤独がグナワティとその娘バティの登場で癒されてゆきます。そして、サロージニーへ抱いた恋心がバティーへの恋心となって再び沸きあがります。激しいパッションに動かされてアラウィンダの心は再び揺れ動きます。
 アラウィンダは迷います。しかし、悟りのようにして”ある信念”を迷いの中から掴み出します。その信念に従って彼はバティーを彼女の愛する青年と結婚させ、ダウリ―(結納金)を用立ててやり、二人に生活の資金まで贈って援助します。

 信念に生きたがために彼は再び孤独と閉塞を囲い込みます。悪性の貧血に襲われ病に伏します。そして、アラウィンダは死の現実と直面する。
 病に伏すアラウィンダを知ってバティが死の淵にある彼を懸命に救い出そうとします。バティはアラウィンダを死の淵から呼び戻せるのか…
 

『ウィラーガヤ』の時代背景

 マーティン・ウィクラマシンハの小説『ウィラーガヤ』が発表されたのは1956年。スリランカの文芸批評家たちは主人公アラウィンダを精神分裂病、ノイローゼ、現実逃避、敗北主義に犯されていると評しました。読者からも難しい小説だと敬遠されながら、それでも長い年月を重ねるうちに版を重ねました。
 そうした世間の批評が小説の真意からかけ離れて行くことに業を煮やして、批評家への反論をマーティンがマスコミへ送ったのが1965年。その反論は「アラウィンダと仏教文化」と題され、版を重ねる小説の末尾に「参考」と注意書きされて加えられています。
 マーティン・ウィクラマシンハは「アラウィンダと仏教文化」の中でこう語っています。

 -- 西洋世界の文化ではこうしたアラウィンダの性格を精神分裂病や現実逃避などと理解するのでしょうが、私の小説はそうした戦後のアメリカ的な解釈で理解できるものではなく、また、するべきでもないものです。
 西洋と東洋という二つの異文化が世界にはあります。スリランカでの小説批評は西洋の、それもアメリカナイズされた精神分析の手法に飲み込まれています。そのことに危惧を覚えます。そうした傾向へ注意を喚起する警笛をこの小説は鳴らしているのです。この小説はスリランカの村の暮らしの一こまを描いたものです。その風土に宿る私たちの昔からの精神を描いたものです。私たちシンハラの暮らしなのです。シンハラ人とシンハラ仏教の世界をあるがままに見詰めなおそうではありませんか。

 マーティン・ウィクラマシンハは「アラウィンダと仏教文化」の中でいくつかの小説の事例、ウパニシャッドとシンハラ文化のつながりを例に引きながらそう訴え掛けます。

 マーティン・ウィクラマシンハのその指摘は第2次大戦後、スリランカが急速に自国文化に目覚めた事と関係します。
 大戦後、イギリスの植民地だったセイロンがスリランカに名を戻しました。英語が支配していた国土をシンハラ語の島に戻していく民族自立の流れが生まれました。それは、当時の知識人たちが守ろうとした西洋志向と西洋的な思考形式をスリランカに風土として培われてきた世界へ回帰する流れの一環でした。
 「この小説はこれまでの私の小説とは違います」とマーティン・ウィクラマシンハは「アラウィンダと仏教文化」の中で語っています。スリランカという文明、その風土をアラウィンダとその周囲の人々に映し出す。スリランカの文化をはぐくむ。その物語が『ウィラーガヤ』なのです。


ウィラーガヤという信念

 アラウィンダが悟った”信念”とは何でしょう。それはこの小説の原題『ウィラーガヤ』に重なります。
 ウィラーガヤとは何を意味するのか。この小説のタイトル「ウィラーガヤ」は小説の中で何度も繰り返して現れる言葉です。
 例えば、つぎの一文は内省するアラウィンダが最後に悟った”信念”が何であったのか、それを知る上で明快な回答を与えてくれます。

ඈ නිසා මා තුළ හටගත්තේ රාගයක්,ආලයක්,නොව ආසාවට එක් වුණු අද්භූත හැණ්ගීමකි.විරාග රාගයකි.
        විරාගය / පිට 129 / 17වන මුද්‍රණය / මාර්ටින් වික්‍රමසිංහ

彼女によって私の中に生じたのは熱情でも愛情でもなく、それらの欲求を一つに帰する不思議な思い。無欲という欲望だった。KhasyaReport訳

 「欲望(熱情)」はラーガヤආලය。「欲求」はアーサーワආසාව。ラーガヤරාගය「熱情」の頭に打消し辞のウィවිを置くとウィラーガヤවිරාගය 「非・熱情→無欲」。これが、原題『ウィラーガヤ』の意味です。
 葛藤を続けるアラウィンダは「無欲という欲望 විරාග රාගය 」にたどり着きます。これはアラウィンダに自身を投影して思索を続けた作者マーティン・ウィクラマシンハの思いなのあるのです。
 相反するふたつの概念を止揚する思考。ウィ・ラーガヤ=非欲望විරාගයでさえラーガヤ=欲望රාගයであるというスーパー・ナチュラルな思考。                             

 『ウィラーガヤ』は『蓮の道』(野口忠司訳・南船北馬舎刊/2002)として邦訳されました。しかし、「蓮の道」は「ウィラーガヤ」ではありません。『蓮の道』という邦訳は英訳本のタイトル The way of the lotus ( Ashley Halpe 訳)をそのまま日本語に訳したもののようですが、蓮の花がウィラーガヤ(無欲)をどれほど喚起できるものか。
 シンハラ語原文の小説ではスリランカのシンハラ仏教、それも村の文化の中に生きるシンハラ仏教の言葉がアラウィンダの独白を借りて随所に現れます。まるでトリック・スターのようにして現れアラウィンダを悩ませる姉のメーナカー。彼女とアラウィンダの会話シーンではマヒンダ長老とティッサ王の「マンゴー問答」を椰子の木を借りて戯画的に試みたりもします。そうした仕掛けを小説の随所に見せてくれる機知こそはマーティン・ウィクラマシンハの醍醐味。

 主人公アラウィンダは生きるよすがを心の中につかもうとしている。そして、内観する。それをつかみさえすれば彼は平穏な人生を手にすることができる。それは何?

 アラウィンダが心の旅に出て辿り着いたのは「ウィラーガ・ラーガヤ」。
 アラウィンダの信念、決意を表す場面のシンハラ原文を、翻訳では、

 「彼女が原因で私の心に芽生えたものは、燃えあがるような激しい感情や愛慕の情ではなく、彼女に対する漠然とした恋心が絡んだロマンチックな感情だった。「情欲に欠けた情愛」
       (『蓮の道』、1刷・172ページ)

と訳しています。「ウィラーガ・ラーガヤ」を「情欲に欠けた情愛」と訳しています。ポーノっぽい。おそらくこの訳文の元となっているのは、

the feeling that she had aroused in me was nothing like a real passion, or love: it was rather a romantically vague fondness for her-a passionless passion”
英語版『ウィラーガヤ』 The Way of The Lotus / Ashley Halpe

 というアシュレイ・ハラペの英訳『ウィラーガヤ』だと思われます。ハラペの英語訳はシンハラ原文を西洋文化に乗せて意訳したものです。ハラペ英語訳のromanticallyが「ロマンチック」の和訳に現れますが何か不思議です。

 小説が発表された当時、『ウィラーガヤ』はスリランカで社会的な論争を起こしました。そのことはこの文の冒頭で触れました。その論争では主人公のアラウィンダが統語失調症だとされ、マーティンが仕掛けたこの小説のテーマがかき消されそうになりました。
 「統語失調症のアラウィンダ」が日記に書き記した独白を追って進行するこの小説はそれまでの彼の小説とは違う。難解だと読者は受け取りました。
 マーティン・ウィクラマシンハはそうした反応に応えて、増版された『ウィラーガヤ』の末尾に「アラウィンダと仏教文化」という一文を加えて、念を押すようにこう言っています。

ඒ ප්‍රේමය දෙදෙනාගේ හදින් ඒ අවස්ථාවෙහි නැගුණු විරාග - රාගයකි.
/අරවින්ද හා බෞද්ධ සංස්කෘතිය / විරාගය /පිට 205 / 17 වන මුඩ්‍රණය / මාර්ටින් වික්‍රමසිංහ

 その慈愛が、サロージニとバティの心に、その時に湧き上がった―それは無欲という欲望 (KhasyaReport訳)

  「その時」とはアラウィンダの最後が迫り来るときです。サロージニもバティも死期間近のアラウィンダを見守り看病に尽くしました。そして、彼が最後の時を迎えた時、二人には彼へのひたすらな愛が沸きあがります。マーティンはその愛をプレーマ(慈愛)と呼んでいます。ラーガヤ(passion/激情)ではない。アーラヤ(愛情)でもない。プレーマ(慈悲を求める心)を「無欲と言う欲望(ウィラーガ・ラーガヤ)」という「難解な」表現に置き換えています。

自分の物差しが時代をはかる

 「無欲という欲望(ウィラーガ・ラーガヤ)」は新たな、特別な心の働き。でも、マーティン・ウィクラマシンハはそれがシンハラ伝統社会の村にはそもそもあるもので、アラウィンダと彼を守る二人の女性によみがえったに過ぎないと言っています。
 無欲をも欲望であるとする。これは日本仏教の諦念ではないし、禅のスタンスでもない。
 熱帯スリランカのジャングルの中に静かに息づく村の暮らし。そこに息づく人の心の在り方。
 「ウィラーガ・ラーガヤ(無欲という欲望)」がマーティン・ウィクラマシンハの創り出した新語であったにしても、それはシンハラ人が長い歴史の中で仏教を介して得た生活のスタイルそのもの。ダンマパダが産んだ「生きる証」だったのです。

 マーティン・ウィクラマシンハは『ウィラーガヤ』を締めくくる3行に難解な文を残しました。かれが読者に語りかけたのは、

生きる基準となる「ものさし」は時代で変わる。
力強く生きるためには…

ということば。物語の結末でマーティンは読者にシンハラ仏教の揺るがない知恵を伝えようとしました。
 アラウィンダの遺言ともとれる最後の3行は作者マーティン・ウィクラマシンハ自身の独白でもあるのです。

   最後の3行は特別なことではないけれど、見失いがちなこと。唐突なようだけど、最後の3行から浜崎あゆみの歌を思い出しました。こんな歌詞があります。

 現実は裏切るもので、判断さえ誤るからね、
 そこにある価値はその目でちゃんと確かめてね、
 ジ・ブ・ン・の~ もォのォさァしィ、でぇ~

 浜崎あゆみが満点のライヴで叫んで歌う evolution の一節。
 「自分の物差しで」ってフレーズ、マーティンが「ウィラーガヤ」のラストで小説の語り手に託して訴える「物差しなんて時代時代で目盛りが違うんだ」という言葉と重なります。

 岡崎京子の異才が生んだ「ヘルタースケルター」が映画化されたとき「ジ・ブ・ン・の~ もォのォさァしィ、でぇ~」は映画の主題歌として歌われました。
 バブルの船底に穴が開いて日本丸が沈みかけたままの10年も経ってから作られた映画だけど、その「ヘルタースケルター」に登場する全身整形の美女りりこは日本そのもの。
 「ヘルタースケルター」が主人公りりこに託して描くのは物が溢れて豊かさを謳歌するけど何か怪しくなった日本。整形美女に身を変えて富と栄光を抱えることになったりりこだけど自力で自分を支えられない。その末路、アメリカの場末の見世物小屋で朽ちた体をさらしライトを浴びて生きる。将来のディストピアを見透かすような「ヘルタースケルター」。バブルはじけたあの頃から今に至っても尚、日本は墜落しかかったままで「しっちゃか・めっちゃか」。
 「ウィラーガヤ」の時代背景は「しっちゃか・めっちゃか」な独立ほやほやの1950年代の貧困にあえぐスリランカ。それはアメリカが強烈にまぶしかった頃。マーティン・ウィクラマシンハが「ウィラーガヤ」に託したのはまぶしいアメリカの閃光にうたれたシンハラの年若い者たちにシンハラ的な生き方を知らせることだった。
 難解な最後の3行にすべてをこめる心理小説の体裁じゃなくて、映画化された「ウィラーガヤThe way of the lotus」のように悲恋の涙物語で流せば若い読者の受けはよかったか、とも思うけど、それは違うな。

   「ジ・ブ・ン・の~ もォのォさァしィ、でぇ~」のフレーズ、現代でこそ身に染む。ああ、ウソ寒い。

 1956年に初版を出版した『ウィラーガヤ』は2000年に17刷になりました。マーティン・ウィクラマシンハが西洋志向のエリート主義文芸評論家を見事に、あからさまに扱き下ろした小説評論(原文・シンハラ語)をアイランド紙が英訳して紙面に再録2003-06-29されています。西洋かぶれを廃し、シンハラの村を愛せよ。村の人々を愛せよ。彼はそう訴えました。『ウィラーガヤ』に現れるシンハライズムは多分に、挑発的に、シンハラ仏教に醸成された「やわらかな村の暮らし」を守るために、西洋化にひた走るシンハラ現代社会の精神を批判したのです。

シンハラ語版『ウィラーガヤ』Simasahitha poudgalika samagama。 18/3 Kirimandala Mavatha ,Thavala , Rajagiriya Sri Lanka。グナセーナ書店などで入手可能。映画版の英語タイトルがThe way of the lotusとなっているが、これはAshley Halpeの英語訳タイトルからとったもの。日本語版(野口忠司訳)の題名も英語版に倣って「蓮の道」となっている。

『ウィラーガヤ』とE・フロムの「生きること」60年振りの再評価QA109