KhasyaReport Khasyabooks mini 2024-Feb-17
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KhasyaBook miniブルボン小劇場の ヒュースケン6 khasyaReport 2024-Feb-20 Tap me 登場人物 久助 物語を進行する中心人物。病弱な母を援けるために生まれ故郷のオランダからアメリカへ行き職を求めた。同じ宗派のハリスと教会で出会い日本行きを誘われた。5か国語を使いこなす。別名ヒュースケンとも。 治平 浅草橋墨田川近くに店を持つ版元。ベストセラーをもくろんで続簡に実話物の執筆を依頼したことからヌイ殿とも知り合う。久助とは古道具屋で知り合った。歌舞伎錦絵、草双紙、読切、何でもありの出版通。 カン 若い漢文学者。羽州柏倉陣屋代官ヨシチロウのノンフィクションを記したことからそれが治平の眼にとまり、幕末にブームとなった惣五郎事件の新たな書下ろしを依頼されている。桜藩士。 ヌイ殿 桜藩城代。藩主文明公が外国通で将軍から日本に押し寄せる西欧諸国との通商条約の折衝を任されている。ヌイ殿はその藩主を支えている。久助とは和田倉門桜藩上屋敷で初めて出会った。縫殿重久とも。
登場人物 久助 物語を進行する中心人物。病弱な母を援けるために生まれ故郷のオランダからアメリカへ行き職を求めた。同じ宗派のハリスと教会で出会い日本行きを誘われた。5か国語を使いこなす。別名ヒュースケンとも。 治平 浅草橋墨田川近くに店を持つ版元。ベストセラーをもくろんで続簡に実話物の執筆を依頼したことからヌイ殿とも知り合う。久助とは古道具屋で知り合った。歌舞伎錦絵、草双紙、読切、何でもありの出版通。 カン 若い漢文学者。羽州柏倉陣屋代官ヨシチロウのノンフィクションを記したことからそれが治平の眼にとまり、幕末にブームとなった惣五郎事件の新たな書下ろしを依頼されている。桜藩士。 ヌイ殿 桜藩城代。藩主文明公が外国通で将軍から日本に押し寄せる西欧諸国との通商条約の折衝を任されている。ヌイ殿はその藩主を支えている。久助とは和田倉門桜藩上屋敷で初めて出会った。縫殿重久とも。
ヒュースケンは日米通商条約交渉を終えた1857年6月17日、「やったね、思うつぼ。大成功!」と日記に記した。ハリスは同日の記録に淡々と日本側担当者への率直極まりない懣を表して交渉経過を書き留めた。これはハリスの記録だ。
Wednesday, June 17, 1857. To-day we signed the Conyention, having been some nine days in settling the wording of the articles, which, by the way, is a work of much difficulty, as the Dutch of the Japanese interpreters is that of the ship captains and traders, used some two hundred and fifty years ago. They have not been taught a single new word in the interim, so they are quite ignorant of all the terms used in treaties, conventions, etc., etc. This, joined to their excessive jealousy and fear of being cheated, makes it exessively difficult to manage such a matter as the present one. They even wanted the words in the Dutch version to stand in the exact order they stood in the Japanese! Owing to the difference of grammatical structure, this would have rendered it perfect gibberish. 1867 年 6 月 17 日水曜日。今日、我々は条文の文言を決めるのに約 9 日間を費やして仮調印書に署名した。さて、これは非常に困難な仕事だった。日本人通訳の用いるオランダ語は約250年前のオランダ船長や商人のものだったからだ。彼らは新語を一つも知らない。条約や会議などで使用されるすべての用語についてまったく無知だった。この無知が、彼らに過度の嫉妬と私に騙されるのではないかという恐怖を生み、今回の条約締結協議を非常に困難にした。彼らは、オランダ語版の単語を日本語とまったく同じ順序で並べたいとも考えていた。文法構造の違いがあるのだからそれでは完全に意味不明になってしまう。
第2幕 ヒュースケンの素顔 第1場 ロンドン=中国商業新聞のヒュースケン記事 久助 ヌイ 治平 久助 ハリス公使が日本側と結んだ通商条約で西洋五か国の商人は日本の絹糸を誰はばかることなく西洋へ持ち出せる。ロンドンとその近郊の縫製業がますます盛んになる。リヨンの絹織物も活況を呈する。生糸を織り生地にしてミシンを踏み衣服を作るのは近郊から町にやって来る貧しい人々だ。 ヌイ 私なら家業からして監督官になっているな。 久助 ワーグナーの歌劇「さまよえるオランダ人」に神の罰で地上と地獄の間をさまよい続けるオランダ人船長の幽霊船が出てくる。喜望峰の港に幽霊船が現れて寄港する商船を震え上がらせるんだ。経済バブルのヨーロッパ。パリ、十九世紀後半。パリにあこがれパリに潰された青年たち、女たち、子供たち。産業革命で潤う欧州は貧しい人々の地獄の街だ。セイロンのゴールに寄港して乗り継ぎの船を待つ日々に「私たちの地獄を日本へ持ち込んでいいものか」と自問したのはそのときです。自由な貿易は日本を救済するのだろうか。それとも貧しさを踏み越えようとする人々を地獄へ落とし込むか。
ヌイ いや、そこが君らの文明の泣き所。貿易も植民地も地獄を開く。 ヨシチロウ 私は安政五年の開港に備えて柏倉陣屋の農家に茶の栽培を勧めて回った。田畑の周りに茶木を植えて茶摘みをする。アメリカに輸出すれば農家には願ってもない現金収入になる。 ヌイ 我城主の文明公はハリスに内々進められて茶の輸出を藩の産業策とした。八重洲に茶ノ木神社を建てて、私は城代として江戸に寄れば茶木の育つよう願を掛けに行った。 久助 ハリス公使は武力を毛嫌いしていた。文明公は蘭癖と言われるほどのオランダびいきだから私にはよかったが、思うに任せないことがあるとすぐに大砲を江戸城に向けると喚き散らす他の公使たちには閉口していた。 治平 あんたも幕府の外国掛に向かって、戦艦を向けるよ、なんて怒鳴ったとか聞いたけど。 久助 あれはいつまでたってもこちらからの問いかけに返事を返してこないから、つい。 治平 ね。そうなんだよ。久助さんは奥方が日本人だから日本の空気も読めるだろうけど。みんながみんな、ハリス公使のように我慢強いわけでもないし。いつ何時でも、えびすさんたちが腹立てれば江戸湾の黒船から大砲の弾丸が雨あられと飛んでくる。
ヌイ それが怖かったのかなあ。水戸や薩摩が裏で動いたともっぱらだけど、ローニンのテロが後を絶たない。 久助 西洋文明国の民よ、白い肌の人々よ、あなたたちはセイロンの人々を野蛮人と呼び、彼らにどれだけ多くの紛れのない蛮行を行ったことか。アジア人を野蛮人と呼ぶのは西洋人が犯し、これからも犯そうとする卑劣なアジアでの盗賊行為を隠すための言い逃れだ。1856年3月6日、ゴールにて。 ヌイ 君が日記にそう書いたの? 久助 ゴールは暑かった。雨季の前で乾いていた。オランダの砦が白く、硬く、海にせり出していた。 治平 ヴィクトル・ユーゴーがバトラー大尉に宛てた手紙で久助君と同じことを言っている---君らが中国人の国に行った略奪の蛮行は君らが野蛮人と蔑む中国人以上に野蛮なことだ。ありがとうバトラー君、君のおかげでそのことが鮮明になった---ユーゴーはそう書いた。 久助 ユーゴ―のバトラー大尉への手紙はヒュースケンがセイロンのゴールで西洋の蛮行を嘆いた四年後に書かれた。エゲレスとフランスが手を組んで北京の円明園を襲って財宝を盗み取った、あの野蛮を糾弾した。 治平 1860年の10月6日。忌まわしい。スコットランドのジェームス・ブルース。エルギン卿の仕業。英仏が清に仕掛けた二度目のアヘン戦争だ。
久助 ユーゴーはそれを糾弾した。 ヌイ 彼は日本では武力を使わなかったが。 久助 不思議だよね。あの海賊まがいのジェームスブルース・エルギン卿でさえ、日本はすばらしい国だと私に言った。ほかのアジアと違うと感嘆した。 治平 ここにフランクレスリーの新聞があるんだけど、君の死亡記事が載ってるよ。 久助 何年の? 治平 1861年6月1日付だ。この38頁だけど、久助君、君の肖像が載っていてね、君の葬儀行進にハリス公使が参加しなかったのは彼の私事に依るなんて書いている。 久助 公司は夜に出かけるな、って私に何度も忠告してたから。 治平 ハリス公使に嫌われた? 久助 かも。 治平 でもねえ、わざわざ行進欠席はハリス公司の個人的な理由だなんて、なんて新聞が書く? 久助 ニューヨークの「絵入新聞」だもの。 治平 江戸の瓦版みたいなものってことかい? 仮名書が聞いたら怒るぞ。それに君の肖像はたいそうな色男に仕上がってる。パリの凱旋門で称賛を受けようとする兵士のように神々しい。
久助 どれどれ。 ヌイ ほう、ほう。 治平 ロンドン-チャイナ通信の記事だけど。ヒュースケン暗殺に抗議して江戸を離れる4か国公使らの行動をアメリカ公使ハリスは拒絶した。ロンドン-チャイナ通信はそれを「ハリスの私情による行為」と記した。 久助 ハリスはヒュースケンの葬儀行進に加わらなかった。オイレンブルグの日本での三年間を記録した日本遠征回想記には、その時の様子を描いたイラストが寄せられている。友人のハイネが描いた。 治平 おつるさんが葬列の脇にいるだろう? 久助の棺に寄り添って。幕府と通商交渉をしているプロシアの軍隊が楽隊を並べ、各国は国旗を掲げ、盛大な送別式だった。そこにおつるさんがいる。帯をだらりと垂らしてね。 ヌイ おつるさんの意地だろう。帯の結びで表した花街の女の意地さ。 治平 葬列の後ろから江戸の町人が腰をかがめて覗き込むようにおつるさんの後姿を見ているね。浮世の興味はぶしつけであざといものさ。 ヌイ おつるさんを花街の妾と見下げた。だからおつるさんは逆にそれを見せつけてやったのさ。
久助 男と女の関係は平等でも自由でもない。フランスでもオランダでも女性は社会から置き去りにされている。でも、おつるさんは私と同じだ。平等な関係だ。 カン ロンドン-チャイナ通信のヒュースケン君は粋だ。 ヌイ 浮いた噂がいくつも流れてくるわけだ。へぇ、ロンドン-チャイナ通信注か。
注ロンドン-チャイナ通信 ロンドンで発行されていたアジアとヨーロッパを結ぶ貿易の専門誌。余談だがヒュースケンの記事が載った年の下半期からカレー粉とマリガトーニィを扱う貿易商社の広告が掲載されている。マリガトーニィはタミルのスープでカレーの原型。勤王佐幕だと島国で右往左往していた日本はまだカレーすら知らない。明治に入ってすぐ 仮名垣魯文がカレー料理を紹介する英国料理本を和訳して出したが、そこにマリガトーニィは載っていない。幕末期のロンドン-チャイナ通信からマリガトーニィの流行と衰退を知ることができる。
久助 私はこんなことも言った---いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ、この進歩はほんとうに進歩なのか? 西洋の文明はほんとうにお前のための文明なのか? この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。(一同、黙して久助の言葉に聞き入る) 久助 この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私に!おお、神よ、日本の、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々は彼らが生んだ取り返しのつかない悪徳をもちこもうとしている。1957年12月7日の日記
ヌイ そこまで言うか、久助殿。 治平 西洋人の重大な悪徳。アジアの富と平和の略奪。そこを糾弾するとは。まさにヴィクトル・ユーゴーだね、君は。 ヌイ その日本大好きの君が何で攘夷のテロリス徒に狙われたんだ? 君の思想の根底にあるのは攘夷そのものだ。イムタからはむしろ教祖とあがめられていいのだが。その君がイムタらに狙われた! 治平 西洋の悪徳を持ち込んだのは君自身ということだ。 久助 私たち二人は大君の前に胸を張って進み出た。大君の廷臣はだれ一人私たちを引き下ろさなかった。私たちの非礼に対して刃を振りかざして襲い掛かる者はない。旧態に身動きしない日本を変えるのは私たちだ。そう信じた。神が使命を実行する私たちを守った。 ヌイ いや、黒船に積まれた大砲だ、君らを守ったのは。イムタのように血に飢えた野良犬は江戸城にもいる。しかし、なぜだろう?なぜ君は狙われた? 治平 仮名書が書いた「えびすのうわさ」のような下世話だけど、久助さん、あんた女のことで恨みを買うようなことはなかったかい? 久助 ええ?まさか下田にいたときに女風呂を覗いたこととか? 治平 ほかには?
久助 茶屋に出入りしていた娘に声を掛けたとか? 治平 善福寺の娘に手を出して娘が尼寺へ身を寄せたと手塚オサムシ先生は書いている。今東光管主はイムタの同僚から同じ理由で君は恨みを買ったと物語るし--- 久助 えええ? 何のことだ? 治平 後世のヒュースケン通があることないこと、いろいろ言うんだよね。エッセイとか論文とかで。何も言わずにあなたの墓を訪ねたのは永井荷風先生だけかな。あなたの墓のそばに梅の花が壱輪咲いている、なぁんてしゃれてね。いや、まだ咲いてなかったか? 久助 「太陽の文明を運び、夜空の星に進歩の光をともしてあなたはこの国に人間が厳かで美しく生きる権利をもたらした」 治平 モリエールの古典主義のような詩だ。 久助 荷風先生は私の墓の前でそう呟いていた。 治平 そうかい。あんたを同じタイプの男と感じてたんだな。荷風さんはリヨンで毎晩浮名を流していたようだし。江戸へ帰っても浅草に毎夕通って大黒屋のとんかつを食べてからロック座の楽屋へ入り浸りだったから。嬉しそうで穏やかな平和だよ、踊り子さんたちに囲まれて。【続く】
「フランク・レスリーのイラスト新聞」は19世紀後半から70年ほどニューヨークで発行されていた総合紙。絵入新聞なのだが、この号ではヒュースケンのイラスト以外はペンタッチが荒い。ヒュースケンの画像はないとされているがそれは日本内のこと。かれの細密な肖像は彼のやわらかな人柄を彷彿させる。ヒュースケン暗殺は暗殺者テロリストの愚かな野望とは裏腹の結果をもたらした。ニューヨーク、ベルリン、ロンドンでは日本という”半分野蛮”な国を貶めるだけの効果を、日本を襲って構わないという彼らの野望の発揮を促してしまった。
ヒュースケンの暗殺とその後の経過を貿易経済紙記者の視点で記事にしている。ハリス・アメリカ公使への言及が容赦ない。ロンドンを拠点とする貿易商たちが日本での経済活動に多大な興味を抱いていたことが手に取るようにわかる。ヒュースケン殺害という野蛮が貿易商たちを震え上がらせたことと、それとは何のかかわりもなく交易資本主義は強国の海軍に守られながら彼らが資本勢力を伸ばし、膨らませていることが紙面に浮き上がる。インド・セイロンに関して言えば、この1861年、マリガトーニィ・スープがカレー粉と共にロンドンのメーカーの同紙への広告で盛大に売りに出されたこともカレーから生まれたKhasyaReportとしては指摘しておきたい。
江戸に居住する西欧五か国の公使たちはヒュースケン暗殺を重大な国際事件として、一致して日本政府に対しする抗議を示した。五か国がヒュースケンの棺を担ぐこのイラストはプロシア公使オイレンブルクの日本遠征記に掲載された。どういうものか、日本で紹介されるこの葬儀行進のイラストの右端は切り落とされるものがあって、二人の江戸っ子の姿が消されている。だらりの帯を垂らして棺とともに歩くのはヒュースケンの”愛妻”つるさん。その帯に江戸っ子二人の下世話が覗き込んで注目する。花街結びの帯がゆるりと下がるのは女性蔑視へのおつるさんの静かな反逆か。人間としてのプライドか。これを描いたのはプロシア使節団に同行したハイネだ。
参考 The London and China Telegraph /Japan Herald,and Journal of The Eastaern Archipelago. London Satueday,April 13, 1861 VolⅢ No.58 Frank Leslie's Illustrated Newspaper New York June 1,1861 No.289-Vol.XIL p38 Japanese Gimin : Peasant Martyrs in Popular Memory / Ann Wathall 1986 https://www.jstor.org/stable/1864377 Remembering Sogoro Visualizing Tokugawa Japan "archatype of the peasant martyr"preview → https://books.google.co.jp/books/about/Peasant_ Uprisings_in_Japan.html?id=mXiwI_oZfyoC&redir_esc=y / Ann Walthall 佐倉義民伝 著者編輯人不詳 鶴声社 明治19年7月 https://dl.ndl.go.jp/pid/881059/1/1 与七郎之行状 続簡 柏倉門伝村誌 渋谷愚翁 著 柏倉門伝青年団 大正15年 https://dl.ndl.go.jp/pid/921350/1/1 ゑひすのうわさ五 作者著作年等不明とされるが仮名垣魯文の作か KhasyaBook mini アーカイブ/ヒュースケン ブルボン小劇場のヒュースケン2 ブルボン小劇場のヒュースケン1 ヒュースケン、夜半に「女学者」を読む 1858年1月2日、午前1時、ヒュースケンはモリエールの喜劇「女学者」Les Femmes Savantesをベッドで…… ヒュースケンの予見 1856年1月28日、蒸気船聖ジャシント号は米国を出港…… タウンゼント・ハリス、コロンボでハルワを食す ハリスの1856年1月1日1日の日誌にこうある…… ヒュースケンが、ゴールで記したこと ヘンリー・ヒュースケンは日本へ向かう途中、セイロンのゴールで……