ばかな騎士。.... 佐久間學

(15/7/16-15/8/4)

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8月4日

SONGS
Sugar Babe
SONY/SRJL 1090-1(LP)

ポップス系のアーティストが「デビュー」という場合には、それはクラシックみたいに最初にコンサートを開いた時ではなく、レコード、あるいはCDが発売された時のことを指します。「ポップス」という言葉自体が、「大衆的」という意味を含んだものであるように、この世界ではアーティストは多くの大衆を相手にその演奏を聴いてもらうという前提で活動していますから、それを可能にするメディア(つまり、レコードやCD)が大衆に入手可能になった時点を「デビュー」と定義しているのです。
山下達郎が最初に自分が参加したバンドのレコードを発売したのは、1975年4月25日のことでした。その日から数えて今年は40年目、達郎は「デビュー40周年」を迎えたアーティストとして、今でも最前線で活躍しているのです。
そんな記念の年ですから、その彼のデビューアルバムの再発売が企画されるのは当然のことです。オリジナルはもちろんLPでしたが、それ以後CD化され、さらに何度もリマスタリングの手が加えられて、この「SONGS」というアルバムは、日本のアーティストでは非常に稀なことですが、終始オリジナルのアートワーク、コンテンツで発売され続けていたのです。今回は、そんなリイシューもこれが最後になるであろうという意味も込めて、CDでは「アルティメット・エディション」ということでなんとリマスター盤の他に、新たにマスターテープ(16チャンネル)からミキシングを行った「リミックス盤」も加わった2枚組のアルバムが発売されました。これには、ライブ・テイクなどの音源が15曲もボーナス・トラックとして収められています。
そして、同時に発売されたのが、このLPです。ジャケットはオリジナルを忠実に復刻したものですが、音源はオリジナルのアナログテープではなく、デジタル・リマスターが施されたものが使われています。さらに、カッティングも、余裕をもって外周を使えるようにあえて2枚組にしています。当然、コンテンツはオリジナルの11曲だけで、ボーナス・トラックはありません。これは、生産限定盤で、ネットでしか購入できません。発売日もCDと同じ8月5日でした。
なぜCDよりも高価でボーナス・トラックも入っていないLPを買ったのかは、もちろんこちらの方が格段に音が良いからです。これは、今まで何枚かの達郎のアルバムをCDとLPとを聴き比べて分かっていたことです。今回も、2012年のベスト盤の中に2曲同じものが収録されていたので比較してみましたが、その差は歴然としていました。特に際立っていたのが、ストリングスなどが入っている「雨は手のひらにいっぱい」です。これは、プロデューサーの大瀧詠一の意向で、フィル・スペクター風の「ウォール・オブ・サウンド」を目指したアレンジになっていますが、そのキモのカスタネットの音と、それの残響が、CDではとてもちゃちに聴こえてしまいます。もちろん、ストリングスの肌触りはLPでなければ再現できないものです。
もちろん、今ではLP並の音が再生できるデジタル・メディアも存在します。しかし、達郎はそういうものにはあまり積極的ではないように見えます。先日もラジオで、「将来のハイレゾ化を見据えて」ということで、今回のリミックス用のマスターは「ハイレゾ」でトランスファーしたそうですが、そのフォーマットが「24bit/48kHz」というのですからね。それを「CDを超えたハイエンドのスペック」と言っているのですから、そもそもハイレゾ自体にもあまり興味はなさそうですね。
このアルバムは、大瀧詠一が「笛吹銅次」という名前でエンジニアリングにも携わっています。これは、「金次」、「銀次」という業界人にちなんだ「芸名」なのですが、その元ネタはもちろん「笛吹童子」ですね。ところが、このオリジナルLPの裏面のクレジットがその「童子」になっているのはどうじて?あるいは、これは、大瀧さんならではのジョークだったのでしょうか。

LP Artwork © The Niagara Enterprises


8月2日

GRIEG, EVJU
Piano Concertos
Cars Petersson(Pf)
Kerry Stratton/
Prague Radio Symphony Orchestra
GRAND PIANO/GP689


このレーベルのジャケットは、なんだか意味不明のものが多いような気がしますが、これは全くの例外、このアルバムの作曲家の似顔絵という、意表をつくものでした。手前の髭の人は誰でも知っているノルウェーの大作曲家エドヴァルト・グリーグ、その後ろは、おそらく誰も知らないヘルゲ・エヴユという、やはりノルウェーの作曲家です。グリーグは1843年生まれですが、このエヴユさんはそのほぼ100年後、1942年に生まれています。
実は、このアルバムでは、もう一人の作曲家が登場しています。それは、1882年にオーストラリアに生まれたピアニスト/作曲家のパーシー・グレインジャーです。グレインジャーとグリーグとは1906年にロンドンで会った時からすっかり「いい友達」になり、グリーグの指揮、グレインジャーのピアノで、グリーグのピアノ協奏曲を引っさげてコンサート・ツアーを行う計画を立てたのだそうです。しかし、翌年にはグリーグは没してしまい、それは実現されませんでした。ただ、そこで残されたのが、グレインジャーが校訂を行ったピアノ協奏曲の楽譜です。そこには、若いころに作った出世作であるこの作品に、晩年のグリーグがその時点での思いを込めたものになっていたと言われています。
日本語の「帯」には、「オーケストレーションやリズム処理など、至る所に斬新さが感じ取れる」とあったので、スコアを見ながら聴いてみたのですが、特段そのようなところはありませんでした。もしかしたら、見逃したのかもしれませんが、全体的な印象でも特に「斬新」とは思えませんでしたし。ただ、演奏自体は非常にキビキビした、余分な情感を廃したようなものだったので、そのような指示が楽譜に加えられていたのかもしれません。確かに、カデンツァなどでは、演奏家に任せてちょっとだれてしまうようなところがきっちりとしたリズムで書き直されているのでは、と思われるようなところがあったような気はします。
それだけではない、2つ目のサプライズが、このアルバムには込められています。お待たせしました。やっとさっきのエヴユさんの登場です。グリーグは、生前に2つ目のピアノ協奏曲の構想を練っていたそうで、そのためのスケッチの断片や、大まかな楽章構成などを書いたものが残されています。それに関しては、こちらをご覧ください。そこで取り上げた、1996年にリリースされたCDでは、最後のトラックにこの「断片」が収録されていました。それと全く同じものが、今回のCDにも収められていますが、エヴユさんは、この断片を元に、きちんとしたフルサイズのピアノ協奏曲を作ってしまったのだそうです。その「ヘルゲ・エヴユ作曲:グリーグの断片によるピアノ協奏曲ロ短調」という作品は、ですから幻の「グリーグ作曲:ピアノ協奏曲第2番ロ短調」を、グリーグが残したわずかな断片から、その全体像を修復したものなのかもしれません。なんだか興奮しますね。
しかし、実際に聴いてみると、これはやはり「グリーグ作曲」と明示しなかったのがまさに正解だった、と言わざるを得ないようながっかりさせられるものでした。この曲は全部で5つの楽章で出来ていて、モデラート・トランクィロ−スケルツォ−アダージョと来た後にカデンツァが第4楽章とされ、そのあとにフィナーレが置かれるという構成です。しかし、さっきのグリーグ自身のスケッチは、このカデンツァのなかにそのまんまの形で「断片的」に出てくるだけで、他の部分でそのテーマが展開されているという形跡は見られません。かろうじて、カデンツァの最後を飾る3番目の断片のタランテラ風のリズムがフィナーレに受け継がれている、というだけのようですね。それだけでは、ちょっと足らんてら
ですから、これは「グリーグ」という名前を外しさえすれば、なんかとても盛り上がる作品として愛されることもあるのではないでしょうか。エンディングなどはチャイコフスキーそっくりですし。

CD Artwork © HNH International Ltd,


7月31日

VERDI
Macbeth
Giuseppe Altomare(Macbeth)
Giorgio Giuseppini(Banco)
Dmitra Theodossiou(Lady Macbeth)
Dario Di Vietri(Macduff)
Dario Argento(Dir)
Giuseppe Sabbatini/
Schola Cantorum San Gregorio Magno
Orchestra Filarmonica del Piemonte
DYNAMIC/57689(BD)


イタリア北東部、ピエモンテ州のノヴァーラ市にある歴史あるオペラハウス、テアトル・コッチャで2013年に上演されたヴェルディの「マクベス」のライブ映像です。このオペラの原作はもちろんシェイクスピアによる英語の戯曲です。同じシェイクスピアの作品のオペラ化でも、「オセロ」はきちんとイタリア語読みに「オテロ」と呼ばれているのに、こちらは英語読みの「マクベス」が定着しているのはなぜでしょう。実際に、歌っている人たちはみんな「マクベット」と発音しているというのに。
魔女の予言を真に受けて、自らの野望のために先王を殺害して国王と王妃の地位を獲得したマクベス夫妻、しかし、妻は良心の呵責から狂死、夫も先王の家臣に首をはねられてしまうという、これはなんともやりきれないお話です。いや、ちょっと先走りました。確かに、マクベスは最後には殺されますが、別に「首をはねられる」というわけではありません。それは、ここで演出を担当した、ホラー映画の世界ではとても有名な映画監督、ダリオ・アルジェントのアイディアだったのです。反乱兵たちに囲まれ、椅子に座らわされたマクベスの首を切り落とし、その生首を高々と差し上げる、マクベスに追放された貴族のマクダフ、首のなくなったマクベスの肩口からは、まるで噴水のように血が噴き出すという、なんともグロテスクなシーンは、完全にB級ホラー映画の手法を取り入れたものです(ほら、よくあるでしょ?)。この「全身から血が噴き出す」という陳腐な演出は、同僚のバンコーが殺された時にすでに使われているので、なんの新鮮味もないのですがね。
第1幕と第3幕に登場する「魔女」も、今まで見た映像ではそれぞれにアイディアが凝らされているものでした。ここでこの映画監督がとったのは、「3人の全裸の女性」を登場させるというやり方でした。幕開けにいきなりこんなものが出てくるのですから、インパクトから言ったらこれはかなりのものがあります。しかし、BDのボーナストラックでのインタビューでこの件について語っている時の映画監督の目には、ただのエロジジイのいやらしさしかありませんでしたよ。これは、その程度の底の浅い演出です。しかも、「全裸」と言いながらしっかり前貼りがあるのですからね。何より腹が立つのは、カーテンコールで彼女らが出てきた時には、みんなワンピースを羽織っていたということです(え?)。
もう一つ、彼が誇らしげに自画自賛していたのが、マクベス夫妻の愛の深さを描くために設けたという第2幕のセックス・シーンです。妻が夫の上に馬乗りになり、腰を使うと夫は白目をむいて悶えるという、ここでもエロオヤジ度全開の意味のない演出です。そもそも、時代を現代に置き換えたのは戦争の悲惨さを伝えたかったからなんですって。そんなもん、このエロの猛攻の中では、どこかにすっ飛んでしまっています。
そもそも、この監督は舞台での演出というものにはそれほどのスキルがないようで、合唱などはいったい何をしたらいいのかわからずにうろうろしているだけ、バンコーの亡霊が出てくるシーンなどは、まるで学芸会でしたね。極めつけは、その合唱団の歌のあまりのヘタさ。そしてオーケストラも、最初のチューニングでとんでもない集団であることが分かってしまい、もうはらはらのしっぱなし、大詰めのフーガの部分などは完全に崩壊していましたね。サッバティーニって、いつの間に指揮者に転向していたのでしょう。譜面台をあんなに立てて指揮をする指揮者なんて、初めて見ました。
それでも、ソリストたちがきちんと自分の仕事をしていれば何とかなるというのが、オペラの面白いところです。テオドッシュウもアルトマーレも、とても楽しめました。
あ、ちゃんと日本語字幕も付いてます。でも、それを選択するときには「日本人」というところを選ばなければいけません。

BD Artwork © Dynamic Srl


7月29日

Jewels of Ave Maria
田村麻子(Sop)
福本茉莉(Org)
NAXOS/NYCC-27290


「アヴェ・マリア」というタイトルの曲ばっかりを集めた、ユニークなCDです。そして、編成が、ソプラノ・ソロとオルガンという、とてもユニークなものです。歌っているのはニューヨーク在住、世界中のオペラハウスで活躍されている田村さん、そこに、やはり世界中でご活躍、このレーベルからもソロアルバムをリリースしている福本さんのオルガンが加わります。
これは、今まで誰も聴いたことがなかったようなレアな「アヴェ・マリア」が含まれている、というとても意義深いアルバムではあるのですが、第一義的にはオーディオ的な側面を押し出したものであることは、ブックレットに高名なオーディオ評論家、麻倉怜士氏のエッセイが掲載されていることでも分かります。そこでは、録音フォーマットが5.6MHzのDSDであると述べられています(これは、本来なら録音クレジットで掲載されるべきデータなのでしょうが、そこにはフォーマットはおろか、こういうものを目指しているCDであれば必須のマイクロフォンなどの録音機材に関する記載は全くありません)。これは、SACDで採用されている規格の倍のサンプリング周波数ですから、ほぼハイエンドのハイレゾ録音であることが分かります。
もちろん、それをきちんと味わうためには、このCDではなく、配信サイトで入手できるハイレゾ・データを聴かなければいけません。そのあたりの誘導の役割を果たすのも、この麻倉氏の文章なのでしょうが、その部分の書き方がかなりいい加減なのには、ちょっと「?」です。配信サイトでは、オリジナルの5.6MHzのDSDと、24bit/192kHzのPCMのデータが入手できるのに、「DSD2.8MHzファイル」などと書いてありますし、もっと分からないのが「CD用の48kHz/24bitのPCM」という、オーディオ評論家とは思えないような荒っぽい言い方です。
とりあえず、参考のために24/192のデータを1曲分だけ(ビゼー)購入して、このCDの同じトラックと比較してみましたが、その差は歴然としています。ここではアルバムの趣旨に従ったのでしょう、ホールに備え付けの大オルガンを、あえてストップを少なくしてまるでポジティーフ・オルガンのようなコンパクトな音色で聴かせようとしています。そのあたりの繊細さがCDでは全く伝わってこないのですね。ソプラノ・ソロも、高音がCDでは何とも押しつけがましく聴こえてきます。ハイレゾ・データではそのあたりがソリストの個性としてとても美しく感じられたものを。とは言っても、CDで最後のトラックのピアソラを聴くと、そのエンディングでソプラノのビブラートとオルガンとが共振して、なんともおぞましい響き(はっきり言って録音ミス)が聴こえてきます。そんなところまではいくらハイレゾでも世話を見切れないのかもしれませんね。
そのピアソラをはじめとして、まだ世の中にはこんなに美しい「アヴェ・マリア」があったのだ、と気づかされたのは、間違いなくこのアルバムの恩恵です。あの有名なオルガニスト、マリ=クレール・アランの兄である、やはりオルガニストで作曲家であったジャン・アランの作品などは、オルガンの響きとも見事にマッチしたモーダルなテイストがとても新鮮に感じられます。アルバムの冒頭を飾るミハウ・ロレンツという人の作品も、初めて聴きましたがとても美しいものでした。ただ、この人のファーストネームの欧文表記は、「Michal」ではなく「Michał」となるのでしょうね。
そんなレアなものではなく、世の中には「4大アヴェ・マリア」などというものがあることも、さっきの麻倉氏の文章から知ることも出来ました。でも、バッハ/グノー、シューベルトは分かりますが、残りのカッチーニとマスカーニというのは、どうなのでしょう。「カッチーニ」がジュリオ・カッチーニの作品でないことは周知の事実ですし、「マスカーニ」は言ってみれば「替え歌」ですからね。

CD Artwork © Naxos Japan Inc.


7月27日

SIBELIUS
Lemminkäinen Legends, Pohjola's Daughter
Hannu Lintu/
Finnish Radio Symphony Orchestra
ONDINE/ODE 1262-5(hybrid SACD)


2013年にサカリ・オラモのあとを継いでフィンランド放送交響楽団の首席指揮者に就任したハンヌ・リントゥは、このフィンランドのレーベルからはリゲティ、べリオ、メシアンといった、いわば中央ヨーロッパの「現代音楽作曲家」のアルバムを作ってきました。それぞれに今までになかったような新鮮な味わいを体験させてくれたリントゥは、満を持して、というか、記念年にちなんでというか、やっと自国の作曲家、シベリウスのアルバムを作ってくれました。しかし、そこは今までの流れを裏切らない、何とも渋〜い選曲ですね。「レンミンカイネン」と「ポホヨラの娘」ですから。逆に「フィンランディア」なんかを持ってこられても、怒ってしまうでしょうけど
今までのアルバム同様、これはライブ録音ではなく録音のためのセッションで作られたものです。その会場は、彼らのホームグラウンドである、ヘルシンキに2011年にオープンしたばかりの「ミュージック・センター」というところです。ここは、ヘルシンキのもう一つのオーケストラ、ヘルシンキ・フィルのホームグラウンドでもあるばかりではなく、なんとシベリウス・アカデミーという音楽大学まで同居(一部ですが)しているという、まさにフィンランドの音楽文化の中心地です。オーケストラの録音やコンサートが行われるのは座席数1704のコンサートホールですが、その写真を見ると、あちこちに見慣れた部分があることが分かります。
そう、これは世界中でコンサートホールの音響設計を手掛けてきている豊田泰久さんの手になるものです。日本のホールでは、ミューザ川崎のシンフォニーホールとそっくりですね。
ただ、このミュージック・センターの場合は、全体がガラス窓で覆われていて、本番の時こそはカーテンで覆われたりしますが、リハーサルの模様などは自由に外から見学できるようになっているのだそうです。そういう発想のホールは、おそらく日本にはまだないのかもしれませんね。
シベリウスが北欧叙事詩「カレヴァラ」をモティーフにして1896年に発表した、4つの部分からなる「レンミンカイネン」は、その時点ではここで演奏されているものとはかなり姿が異なっていました。それから何度も改訂が加えられ(演奏曲順も変わります)、最終的に現在の形になったのは、1954年にブライトコプフから出版された時でした。最後の「レンミンカイネンの帰郷」などでは、長さがほぼ半分になっているそうです。
最近さる音楽雑誌で見たのですが、このオーケストラの弦楽器奏者は、全てフィンランド人で占められているのだそうですね。それこそ、「シベリスス・アカデミー」の出身者などが中心になっていて、奏法なども近いものがあるのでしょう。SACDではほかの楽器があまりに立っているので時として弦楽器がうずもれて聴こえることもあるのですが、ここではそんなことは全くなく、強靭な主張がストレートに伝わってきます。実は、外国人の中で最も多いのが4人の日本人(フルート、トランペット、打楽器×2)なのだそうです。フルートの小山さんは、この録音に参加していたのかどうかは分かりませんが、時折聴こえてくるソロは、音色も渋く、あくまでオーケストラ全体の中の1楽器というスタンスのように感じられます。このオーケストラの弦楽器のパワーに圧倒されていたのか、他の人が吹いていたのでしょう。
リントゥの指揮は、シベリウスの巧みな自然描写を前面に出して、物語に推進力を与える、といったようなものだったのかもしれません。卓越した録音によって、それは的確に聴き手の耳に届くはずです。
もう1曲の「ポホヨラの娘」の日本語表記は、このSACDの帯でもそうですが、いまだに「ポヒョラの娘」というカレイの仲間(それはオヒョウ)みたいな言い方が横行しているのは残念です。「ポッヒョラの娘」と促音が入ればまだ許せますが。

SACD Artwork © Ondine Oy


7月25日

SCRIABIN
Symphony No.1, The Poem of Ecstasy
Svetlana Shilova(Sop), Mikhail Gubsky(Ten)
Vladislav Lavrik(Tp), Norbert Gembacka(Org)
Mikhail Pletnev/
Chamber Choir of the Moscow Conservatory
Russian National Orchestra
PENTATONE/PTC 5186 514(hybrid SACD)


スクリャービンという作曲家には、一時期ピアノ・ソナタを通じてかなり親密だった頃がありました。特に後期のものは、「白ミサ」とか「黒ミサ」などといったタイトルが付けられた、何かドロドロしたものが込められているような雰囲気を持っていて、とても魅力的に感じられたものです。その辺をあまり強調しないで、サラッと演奏していたルース・ラレードの録音が、愛聴盤でした。
彼の代表作と言えば、なんと言っても「法悦の詩」でしょう。一応これは「交響曲第4番」ということにはなっていますが、それはのちの人が付けたもので、この後の「プロメテ」(交響曲第5番)と同様、作曲家自身は「交響曲」とは呼んでいなかったようですね。まあ、別に呼び名などはどうでもいいことなのでしょうが、クラシックの世界では「交響曲」という呼び名はある種のステータスとみなされるようですから、作曲家、あるいは出版社などはなんとしてもこの名前を付けて、その作品に「箔」をつけたいと考えるのでしょう。あのS氏がかたくなに「交響曲」を世に出したいと願っていたのが、その端的な実例です。ペンデレツキが、ただの「歌曲集」に過ぎないものに「交響曲第8番」という名前を付けたのも、同じような願望の帰結でしょう(マーラーも似たようなことをやっていましたが、彼は番号を付けることはしませんでした)。
1872年に生まれ、14歳でモスクワ音楽院に入学し、ピアノと作曲を学んだスクリャービンは、当初はピアノのための作品を作り続けますが、1900年に初めて作った本格的なオーケストラのための作品が「交響曲第1番」です。これを聴くのは初めてですが、曲全体にみなぎる伸び伸びとした抒情性にはとても惹かれます。形式的には、古典的な4楽章の交響曲を踏襲した上で、最初と最後にさらに1小節ずつ追加するという形になっています。この、いわば「額縁」にあたる部分がとても爽やかな雰囲気にあふれています。最初の楽章などは、まるで「自然のアルバム」のBGMに使われてもおかしくないほどの、自然の描写の音型が頻繁に現れる美しいものです。
そして、最後の楽章には、なんと「声楽」が加わります。しかし、これはベートーヴェンの「第9」のような押しつけがましいものではなく、基本的にさっきの第1楽章のテイストを引き継いだ曲調の中で、ひたすらこの世に調和をもたらした神を賛美する言葉が、ソプラノとテノールの対話のような形で歌い交わされます。そして、最後に合唱が「高貴な芸術」をほめたたえる、というシナリオですね。
その間の楽章も、とても分かりやすい表現に終始しています。短調で始まるドラマティックな第2楽章、息の長いテーマでやはり自然の描写に余念のない第3楽章、型通りのかわいらしいスケルツォの第4楽章、そしてまるで映画音楽のような壮大さを持った第5楽章です。
ですから、それからほんの8年後に完成した「法悦の詩」をこの曲に続けて聴くと、その落差に驚かされることになります。まあ、そんな多面性があるからこそ、逆にその中にとても強い主張を感じることが出来るのでしょう。つまり、定訳であるこの曲のタイトルの中の「法悦」という言葉を、そんなお上品なものではなく、「絶頂感」と言い換えることで、それは難なく腑に落ちることになるのです。
プレトニョフは、しかし、そんな下世話な好奇心をあざ笑うかのように、極めて冷静に「音楽としての絶頂感」を築きあげているように思えます。それでもなおかつ下半身がムズムズするような感覚が体内に生じたとしたら、それはあまりにもリアルな音像を再生することを可能にしたPolyhymniaのレコーディング・スタッフのおかげなのでしょう。ほんと、このトランペットのリアルさときたら、まさに「絶倫」ものです。そのまま「蜜林」まで突き進んで行ってください。

SACD Artwork © Pentatone Music B.V.


7月23日

STRAUSS/Sinfonia Domestica
ELLINGTON/A Tone Parallel to Harlem
Kristjan Jãrvi/
MDR Leipzig Radio Symphony Orchestra
NAÏVE/V 5404


お父さんにもお兄さんにも似ないで頭髪がふさふさのクリスティアン・ヤルヴィは、現在はライプツィヒ放送交響楽団の音楽監督ですが、そのポストでもかなりユニークな企画を敢行しているようですね。このレーベルからは、「クリスティアン・ヤルヴィ・サウンド・プロジェクト」というタイトルのアルバムをすでに2枚リリースしていて、これがその第3弾となるのだそうです。ここでは「Parallel Tones」というキーワードで、リヒャルト・シュトラウスとデューク・エリントンという、全くジャンルの異なる作曲家の間の「類似性」を、「音」として味わっていただこう、というコンセプトで迫ります。
かたやドイツの後期ロマン派の重鎮、かたやビッグ・バンド・ジャズの巨人、この二人の間には何のつながりもないような気がしますが、それは「サックス」という楽器でつながっているのだ、というのがヤルヴィの見解です。1903年に完成したシュトラウスの「家庭交響曲」は、1904年に作曲者自身の指揮により、ニューヨークのカーネギー・ホールで初演されました。シュトラウスは、この曲の中に「アメリカの音」の象徴として4本のサックス(ソプラノ、アルト、テナー、バリトン)をオーケストラの編成の中に加えていたというのですね。とは言っても、これらのサックス群はソロ的な部分があるわけではなく、あくまでトゥッティの時にほかの管楽器と一緒に使われているだけなので、これは単にドイツではなかなか見つからないサックス奏者も、アメリカだったら使えるだろう、という発想だったのではないか、と思うのですが、どうでしょうか?
それから半世紀経った1950年に、デューク・エリントンは、NBC交響楽団の指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニからオーケストラ曲の委嘱を受けます。それに応えて作ったのが、この「A Tone Parallel to Harlem(ハーレム組曲)」です。これもヤルヴィによればシュトラウスつながり、エリントンは、シュトラウスのような交響詩を作ってみたい、という野望を持っていたのだそうです。あちらは「上流階級」、こちらは「底辺の階級」の、それぞれの生活を描いたものなのでしょう。もちろん、彼にシンフォニー・オーケストラのスコアを書くスキルはありませんから、オリジナルはビッグ・バンドのスコア、それに、彼の右腕のオーケストレーター、ルーサー・ヘンダーソンがオーケストレーションを施しています。ただ、トスカニーニはそれを演奏することはなく、結局エリントン自身のビッグ・バンド版による録音が、最初に音となって聴衆に達するものとなりました。オーケストラ版が初演されたのは1955年のことです。これは、何人かの指揮者が録音を行っていて、ラトルとバーミンガム市響との1999年の録音を取り上げたこともありました。
この2曲を同じコンサートで演奏したというのであれば、ヤルヴィのコンセプトもはっきりするのでしょうが、どうやら全く別の時期に行われたそれぞれの曲を含むコンサートのライブ録音(しっかり拍手が入っています)を、アルバムとしてカップリングした、というあたりが、なんか中途半端なような気がします。それよりも問題なのは、「家庭交響曲」での編集ミスです。それは、トラック4のタイムコード05:16付近。そこで誰が聴いても分かるような「音飛び」が起こります。正確には、それから22秒前に戻るという「音戻り」なんですけどね。楽譜だと、練習番号「64」の8小節目の頭から、3小節目の頭に戻って、そのまま演奏が続く、という状態です。つまり、ここではその5小節分がまるまる繰り返されているのです。原因として、マスタリング・エンジニアが酔っぱらっていたことが考えられます(それは「仮定交響曲」)。さらに、つまらないことですが、録音のクレジットでもマイクアレンジに関してのミスプリントがあります(誤:outtrigger → 正:outrigger)。これだけのことで、このレーベルに対する信用は地に堕ちます。

CD Artwork © NAÏVE


7月21日

PÄRT
Tintinnabuli
Peter Phillips/
The Thallis Scholars
GIMELL/CDGIM 049


アルヴォ・ペルトほど、分かりやすい作曲家人生を送っている人も珍しいのではないでしょうか。1935年にエストニアに生まれ、型通りの「現代作曲家」の道を歩むかに見えたペルトは、1968年をもってそれまでのすべての作品を封印して表立った作曲活動をスッパリやめてしまいます。当時の西洋音楽のあらゆる技法を試してきたそれまでの彼の路線が完全に行き詰っていたのは、その年に作られた「クレド」という、大オーケストラに合唱とピアノ・ソロが入った作品を聴けばよくわかります。確かにそれは、まさに行き場を失ったどうしようもない「駄作」だったのです。
それから8年間に及ぶ「ひきこもり」生活を送った後に再び音楽シーンに現れた時には、彼は全く新しい作曲技法を身に付けていました。彼が1976年に発表したピアノ曲「für Alina」は、以前とは全く異なる、彼自身が中世、ルネサンスの音楽に触発されて「発明」した新たな様式に基づくものだったのです。それが、このCDのタイトルとして大々的に示されている「ティンティナブリ」という作曲様式です。それは、三和音とシンプルなスケールを組み合わせただけのものですが、そのサウンドはまるで鐘の音のように聴こえることから、ラテン語で「鐘」を表す「ティンティナブリ」と名付けられていました。それ以後、ペルトはすべての作品をこの「ティンティナブリ様式」で作曲、まさにヒーリング系ミニマリストとして一世を風靡することになるのです。
このジャケットは、すべて大文字でその単語がデザインされているというユニークなものです。ただ、「TINTIN」と「NABULI」の間で改行してしまったために、それをローマ字読みで認識できる日本のファンにとっては、格好のツッコミの対象になってしまいました。参考のために付け加えれば、「なぶる」という動詞には、「もてあそぶようにいじる」という意味があります。
タリス・スコラーズと言えば、ハイボールではなく(それは「トリス」)なんといってもルネサンスの合唱曲というイメージがあります。それがペルトの作品を取り上げたというところに、ピーター・フィリップスの思いを感じることができるでしょう。今まではあくまで比喩として「ルネサンスを現代に甦らせた作曲家」と言われてきたペルトに対して、彼はリアルにペルトを「ルネサンス」の作曲家と同列にとらえ、その時代の音楽へのスタンスと同じアプローチを試みたのです。そして、それは見事にペルトの本質を言い当てたものとなりました。
例えば、同じイギリスの合唱団で、前回取り上げた「ポリフォニー」も、最近ペルトを演奏したアルバムをリリースしていましたが、その中で今回のタリス・スコラーズのアルバムの中でも演奏されている「The Woman with the Alabaster Box」と「Tribute to Caesar」の2曲をそれぞれ比較してみると、そのアプローチがいかに異なっているかがとてもはっきりしてきます。いずれも「マタイ福音書」を英訳したテキストが用いられていて、かなり物語性の高い部分、例えば「The Woman〜」などはロイド・ウェッバーのミュージカルでも印象的なシーンでした。それが、「ポリフォニー」の演奏では、そんなシーンが眼前に広がってくるような生々しさが感じられるのに、「タリス」ではもっとクールな、言葉にはそれほど意味を感じられず、音楽そのものしか聴こえてこないような演奏なのです。言葉に頼らなくても、「ティンティナブリ」の特徴である、三和音の中でスケールを歌っている時に必然的に生じるテンション・コードの緊張感だけで、見事にテキストの「精神」を表現しているのですね。
メンバーの名前を見てみると、ソプラノのパートに2人、両方の団体に参加している人が見つかりました。しかし、他のパートではそのような「掛け持ち」は全くありません。ピーター・フィリップスも、スティーヴン・レイトンも、まさに手塩にかけて自分の信念を実現させる合唱団を作り上げていたのですね。

CD Artwork © Gimell Records


7月19日

Choral Works of American Composers
Stephen Layton/
Polyphony
HYPERION/CDA67929


前回に続いてやはりアルバムタイトルがあえて付けられていないCDですが、実体は「アメリカの作曲家の合唱作品集」みたいなものです。でも、このレーベルの代理店、「東京エムプラス」は、そんなありきたりのものでは物足りなかったのでしょう、「アメリカン・ポリフォニー」というかっこいいタイトルを「帯」に印刷してくれました。
まあ、ここで演奏している合唱団の名前にひっかけただけの安直なタイトルなのかもしれませんが、普通に考えるとこれは「アメリカ人が作ったポリフォニー」という風にとらえられてしまいます。誰でも知っていることですが、「ポリフォニー」というのは、多くの声部がそれぞれに独立した時間軸を持って進行する音楽の形態のことです。ルネサンスのあたりに隆盛を極め、バッハの時代ごろまでもそのような音楽は作られていましたが、その先の時代ではもっぱらすべての声部が同じ時間軸で進行する「ホモフォニー」という形態の音楽が主流になっていきます。19世紀あたりから、ヨーロッパ音楽の模倣という形で始まったアメリカのクラシック音楽も、ですから基本的に「ホモフォニー」的なものであったはずです。そこで「アメリカン・ポリフォニー」などという言い方をされてしまうと、そんなアメリカ音楽の中にも「ポリフォニー」的な作品があって、それらを集めたものがこのアルバムなのでは、と思ってしまいませんか?
もちろん、ここで聴くことのできるア・カペラの合唱作品は、特段「ポリフォニー」を感じさせられるものではありませんでした。単に「東京エムプラス」の担当者が音楽のことをよく知っていなかったか、商品を実際に聴いていなかったというだけの話だったのです(東京モノシラズ)。CDを購入した聴き手が最初に指針とする「帯原稿」でこんないい加減なことをやっているのは、非常に困ったものです。
スティーヴン・レイトンが1986年に作った「ポリフォニー」は、もちろんパレストリーナなどのポリフォニー音楽だってレパートリーにしていたのでしょうが、最近のアルバムでは積極的に、合唱関係者以外にはそれほど知られてはいない作曲家の作品を取り上げています。今回は20世紀の前半に活躍した4人のアメリカ人作曲家、ランドール・トンプソン、アーロン・コープランド、サミュエル・バーバー、そしてレナード・バーンスタインの作品が集められています。いずれも、この時代のヨーロッパに吹き荒れたアヴァン・ギャルドの波からは遠く離れた穏健な作風を持った作曲家ばかりです。
そんな中で、最も穏健なのが、今回初めて耳にしたトンプソンです。1940年に、当時のボストン交響楽団の音楽監督だったクーセヴィツキーからの、「何か景気のいい合唱によるファンファーレ」ということで委嘱を受けて作った「Alleluia」という作品がアルバムの最初を飾っていますが、それがこの合唱団らしからぬ、全く力の抜けた虚しい響きで始まったのには、ちょっと驚いてしまいました。結局、この合唱団の「売り」であるハイテンションの歌い方は、ここでは全く聴くことはできなかったのです。タイトルの言葉だけを延々と続けるその音楽が、この合唱団をしてもほとんど「沈黙」せざるを得ないものに仕上がったのは、作曲家がクーセヴィツキーの望みに背いて、その時に知ったパリがナチス・ドイツに占領されたニュースによって「ゆっくりとした、悲しい平和」を目指した音楽を作る衝動に駆られたからなのです。これは名曲です。
最後にもう1曲、同じ作曲家の「Fare Well」という作品が、同じような静謐さを伝えてくれていますが、その他の作曲家の曲でのいつもながらの元気のよすぎる歌い方には、ちょっと閉口します。有名なバーバーの「Agnus Dei」は、もっと内面的に表現されるべき作品でしょう。そのせいでしょうか、バーンスタインの「Missa brevis」は、ラテン打楽器を多用したただのランチキ騒ぎにしか聴こえません。

CD Artwork © Hyperion Records Limited


7月16日

Munich Opera Horns
Antonia Schreiber(Hp)
Kent Nagano/
Audi Jugendchorakademie(by MartinSteidler)
Munich Opera Horns
FARAO/B 108084


どこを探してもアルバム・タイトルらしいものが見つからないので、とりあえずメイン・アーティストと思われる「ミュンヘン・オペラ・ホルンズ」をタイトル代わりにしておきました。ジャケットにはそのほかに指揮者と合唱団、そして作曲家の名前が6通りほど印刷されていますが、そこが一番先に書いてありましたから。しかし、ブックレットの最初のページやインレイの表記では、「アウディ・ユーゲントコールアカデミー」が一番上にあるので、それがメインなのかな、とも思えてきます。その違いは結構重要、このCDはホルン・アンサンブルのアルバムなのか、合唱団のアルバムなのか、という違いですからね。
でも、代理店の「キングインターナショナル」のインフォには、「2つのオペラ作品を合唱と10本のホルン用に編曲し」とはっきり書いてありますから、これは間違いなく合唱団のアルバムなのでしょう。きっとオペラの中の曲を、それこそクリトゥス・ゴットヴァルトのように編曲して、合唱と、そしてホルン(「10本」というのがすごい!)を加えて演奏しているのでしょう。それはとても興味がありますね。
ところが、前半のブラームス、シューマン、シューベルト、そしてストラヴィンスキーの、それぞれ2本から4本のホルン(ブラームスではハープも)が加わった「合唱曲」を楽しんだ後に、まずワーグナーの「聖金曜日の奇跡」が始まると、確かに「10本」のホルンによる勇壮な音楽は聴こえてきますが、どこまで行っても編成はそれだけ、最後まで合唱が出てくることはありませんでした。さっきの「キングインターナショナルのインフォ」は、全くのデタラメだったのですよ。まあ無理もないと言えば言えないこともありません。なんせ、担当者がこういうインフォを作る時には資料だけ読まされて音も聴かずに書かなければいけないというようなケースはざらですから、ついいい加減なことを書いてしまうことだってあり得ますからね。
とは言っても、結果的にはこれは明らかな「誤報」、そしてCDを買ってしまった人にとってはそれは紛れもない「欠陥商品」なのですから、販売店としてはこの事実が明らかになった時点では何らかのアクションを取るべきだったはずです。それがまっとうな商売というものではないでしょうか。まあ、この業界はまっとうではないと言ってしまえばそれまでですが。
もちろん、これは別にこのCDを制作した人の責任ではありません。これはこれで、なかなか興味深いものではあります。ケント・ナガノは2013年までバイエルン州立歌劇場(つまりミュンヘン・オペラ)の音楽総監督を務め、現在は今を時めくキリル・ペトレンコがそのポストにあります。ですから、これはその前に録音されたものです。このオペラハウスのオーケストラの9人のホルン奏者にもう一人のゲストを迎えて、フランツ・カネフツキーによって10人のホルンのために編曲されたワーグナーとシュトラウスが最後に収録されています。「聖金曜日の奇跡」をホルンだけで演奏するのはちょっと苦しい気がしますが、「ばらの騎士」では、なかなか気のきいた編曲が楽しめます。なんたって、この長いオペラの最初と最後だけはきっちり押さえているのですからね。はっきり言って無駄なリリシズム全開の、第1幕の「テノール歌手」のアリアまでしっかり入っていますよ。
前半の合唱曲は、ブラームスの「4つの歌」と、ストラヴィンスキーの「4つのロシア農民の歌」は女声だけ、シューマンの「狩りの歌」とシューベルトの「森の夜の歌」は男声だけという編成です。名前の通り、同じバイエルン州の大企業、メセナにも積極的な自動車メーカー「アウディ」が作った合唱団の女声はいかにも「若い」人たちの初々しさが感じられますが、男声はベースがなんとも情けなくて、がっかりさせられます。もっとユルい曲の方が、この男声には合うで

CD Artwork © FARAO classics


さきおとといのおやぢに会える、か。



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