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山門と松ぼっくり。.... 渋谷塔一

(03/11/7-03/11/22)


11月22日

CHOPIN
4 Scherzi
Irina Mejoueva(Pf)
若林工房/WAKA4101
デビュー当時は、とかく風貌のみが取り沙汰された「美人ピアニスト」、メジューエワ。そんな彼女が1997年に発売されたデビュー・アルバムから5年の月日を経て、ここまで変わるとは誰が予想したでしょうか。
まだ来日直後、実際に彼女の演奏に接したことがあります。まさに「お人形さんのような」細くて頼りない風情。しかし、彼女の紡ぎだす音は想像に反して、かなり力強いものでした。そして日本の男性と結婚(オシュートメとの確執)し、拠点を日本に決めてから彼女のライフワークであるメトネルの作品紹介に尽力したり、また、学習者のためにも大変役立つ「ピアノピース」のCDをリリースしたりと精力的に活動しているのは周知の事実ですね。それなのに、私の中の「注目ピアニスト」のリストから彼女の名前がすっぽり抜け落ちていたのは、全く不徳の致す限りでした。ま、普段、「メトネルを聴くよりソラブジを聴こう」なんて言っているせいですけど。
そんな私、11月号のレコ芸で彼女のスケルツォを絶賛されている文章を目にしたのです。「これは聴いてみたい(ショパンだからな)」と思いましたが、なんでも、これは通常のルートでは入手できないとのこと。わざわざ取り寄せるのも・・・と二の足を踏んでいたところ、行き着けのCD屋さんで「メジューエワ入荷しました」との張り紙!お店でも掛かってましたが、確かに耳に残る演奏です。早速入手して、しみじみ聴いてみましたよ。
第一印象は「何とアグレッシヴな演奏!」でした。もとより、このスケルツォはショパンの作品の中でも激しさではピカイチ。例えば第3番などは、オクターブの連打の連続。ショパン自身が演奏した際、友人が「最後まで弾ききれるのか?」と心配したほどのスタミナの必要な曲なのです。メジューエワの演奏では、最初に置かれた第2番から、思い切りの良いリズム感に驚かされます。「ちょっと作為的すぎるかな?」と思わないわけでもありませんが、こういうアプローチも面白いものです。以前、「カッコいい」と感激したポゴレリッチの解釈にも通じるところもあり、とにかく激しい部分はひたすら激しく、叙情的なところは優しく。そして全体は心地良い推進力に満ちています。第3番は一気に駆け抜けます。ここだけ聴いているとまるでオトコの演奏です。そして、第1番の激しい主題と美しい中間部の対比の見事さに息を飲み、第4番の鮮やかな和音の連なりに目を見張るのです。確かに、彼女の伝えたいことがひしひしと伝わる良い演奏でした。最後に置かれた夜想曲で、興奮した気持ちを鎮めよ。との心憎い配慮もステキです。
とは言え、私が一番気にいったのは、3番と1番の間に一息入れるかのように挟まれた「即興曲第1番」。この愛らしい曲に込められた豊かな歌心の素晴らしさ!恐ろしく贅沢な4分33秒(ジョン・ケージではありません!)・・・・でした。

11月21日

BEETHOVEN
Variations
野平一郎(Pf)
LIVE NOTES/WWCC-7460
最近書店で、とてつもなく分厚い本を見かけませんか?表紙には、おどろおどろしい妖怪の絵が書いてあったりして、一瞬手に取るのは躊躇われてしまうようなアレです。著者は京極夏彦。実は私はかなり前からのファンでして、新刊が出るたびに購入はするのですが、何しろ本自体が重い!私のように、通勤時間=読書タイムという人にとっては、持って歩くだけで肩がこるという厄介な代物です。その上内容も入り組んでいます。至るところに伏線が張り巡らされ、とてもとても一度読んだだけでは完全に謎が解けると言うわけではありません。そんなものだから、読まない人は全く素通りしてしまうし、はまった人はとことんはまる・・・罪作りな書物です。
さて、今回の野平さんのベートーヴェンもそんな1枚です。ソナタ全曲録音の締めくくりとして企画されたアルバムですが、何と、「ディアベリ」と「エロイカ」の2つの変奏曲が1枚に収録されているのですよ。まさに1000ページの本を完読するのと同じくらいのヴォリュームがあるではないですか。その上、ベートーヴェンの変奏曲と言ったら、「とにかくしつこい」事でも有名です。全部聴き通せるのか正直不安でした。しかし、今までのソナタの素晴らしさが頭をよぎり、「やはりこれはしっかり聴いてみよう」と意を決して(大げさだな)CDプレーヤーにセットしました。
でも、まだ弱気な私。まず、大曲の真ん中に置かれている「小品イ短調」から聴いてみました。これはほんの3分程度の小さな曲でして、メロディも耳になじんだもの。いわゆる「エリーゼのために」っていう、男性下着をテーマにした曲ですね(それは「ブリーフのために」)。その何とも流麗でオシャレなこと。さすがベートーヴェンを知り尽くした人の演奏です。全く気負いなくさらっと弾いているようですが底に漲る緊張感。耳をひきつけて離しません。そのまま「エロイカの主題による変奏曲」を聴いてみる事にしましょう。
この曲は、本来最初に提示されるはずのテーマ(これは有名な第3番の交響曲の終楽章と同じメロディです。で、「エロイカ」)の前に、その骨組みのような音形が置かれています。ま、いわば準備体操のようなものでしょうか。野平さんの演奏は、すでにここから聴き応えありです。最初の単音の部分、あたりを伺うようなひそやかさ。そして少しずつ音が積み重なって行く部分の見事さ。で、ようやく出てくるテーマに繋がる部分での息を飲むような鮮やかさ。ここだけで、紙面を使い切ってしまいそうなくらいの豊かな世界です。本来の部分の変奏曲、まさに鍵盤の端から端まで縦横無尽に駆け巡る音の洪水。最後のフーガまで一気に聴きましたが、まるで重厚な建築物を目にした時の言葉にならないような驚き。これは全く初めての体験でした。
それから「ディアベリ」も聴きましたが、こちらも今までのこの曲に対して抱いていた私なりのイメージ(退屈、しつこい・・・)が、ことごとく覆された素晴らしい演奏でした。やはり手に取ってみないと始まらないんです。どんなものでも。

11月19日

Let It Be...Naked
The Beatles
APPLE/595713 2
ベートーヴェンやブルックナーの楽譜など、最近は、作曲家が作った本来の姿を蘇らせようとする「原典版」の出版が盛んに行われています。様々な事情によって誤植や改竄といった手垢が付いてしまった楽譜を、作曲家の当初の意図に近いものに作り直すという作業は、クラシック界ではもはや通常の作業として定着しています。このアルバムは、ジャンルこそ違いますがまさにそれとよく似たコンセプトのもとに生まれたものと言えるでしょう。
Let It Be」という、1970年にリリースされたビートルズの最後のオリジナルアルバムは、それまでの全てのアルバムのプロデュースを手がけてきたジョージ・マーティンではなく、フィル・スペクターというかっこいい名前の人(それはスペクタクル、今は殺人犯として、保釈中ですが)が「リ・プロデュース」したというクレジットが、もとのLPには掲載されています。このあたりの事情については、いくらでも(特に、今回のリリースに合わせて、山ほどのコメントが出揃いました)資料があるので、そちらを参照して頂くとして、要は、最後に完パケを作る段階でスペクターが少し手を入れたということです。これが、長い間ビートルズ・ファンや当のビートルズのメンバー(○ッカートニーさん)には不満として残っていたのです。そんな「スペクターが改竄する前のものを聴いてみたい」という声に答えたのかどうかは分かりませんが、今回、もとの8チャンネルのマスターテープ(なんか、メーカーの資料風ですが)まで遡ってミックスをやり直したものが、この「...Naked」ということになるのです。
曲については、30年以上に渡って愛聴されてきたものばかりですから、何も言うことはありません。もちろん、今回のリニューアルに当たって、若干の差し替えと順序の変更があります。さらに、全く別のテイクが使われているものも。最も気にかかるのは、スペクターの趣味が最大限に反映されている「The Long and Winding Road」でしょう。確かに、あの鬱陶しいストリングスやコーラスは見事になくなって、ポールの幾分稚拙なピアノのフレーズが心にしみます。この形、実は公式別テイク盤「アンソロジー」でも聴けたのですが、今回のものは未発表のテイクとか、その点も貴重です。「Let It Be」も、今までのものとは別のテイク、映画の中で使われていたもので、普段聴き慣れないジョージのソロにはびっくりさせられます。
しかし、それ以外の曲では、そんな大騒ぎをするほどの特別のものではないという印象は拭えません。考えてみれば、スペクターが実際に作業を行ったのはほんの1週間程度に過ぎなかったわけですから、全ての曲に手を入れることなど出来るはずはありません。それよりも、マスタリングをやり直したことによる音のクオリティの向上に涙する、というのが、相応の楽しみ方ではないでしょうか。それにつけても、国内盤や輸入盤でもインターナショナル仕様では、コピーコントロールが施されているために、その成果がはっきり伝わらないのでは、という不安は残ります。もちろん、私はまともなCDであるUK盤を買いました。

11月18日

FAURÉ
Requiem
Yan Pascal Tortelier/
Cyty of Birmingham Symphony Chorus
BBC Philharmonic
CHANDOS/CHAN 10113
フォーレのレクイエムの最新録音です。そのほかに、「ラシーヌ雅歌」のフル・オーケストラと混声合唱のためのバージョン(もちろん、これはオリジナルの形ではありません。誰かが編曲したらしーぬ)、「ヴィーナスの誕生」という一種のオラトリオ、そしてアド・リブの合唱が入った「パヴァーヌ」が収録されています。「合唱が入ったフォーレの作品」というところにこだわったのでしょうね。
その合唱は、お馴染みバーミンガム市交響楽団に附属した合唱団。BBCフィルハーモニックの本拠地のマンチェスターまでわざわざやってきて(といっても、距離にして100kmほどですが)共演しています。録音を聴く限り、かなりの大人数のようです。いささか精度的には問題がありますが、前半に入っている「ヴィーナスの誕生」ではその大編成の合唱の魅力が遺憾なく発揮されています。これは私は初めて聴いた曲ですが、フォーレと聞いて思い浮かべる幾分くすんだ印象とは全く異なる、派手な、もっと言えばまるで映画音楽のようなスペクタクルな側面をふんだんに持った音楽です。トルトゥリエの指揮が、その内容をさらに助長したメリハリの利いたものですから、その爽快感はなかなかのもの。同時に、レクイエムがこんなアプローチだったらちょっと困るぞ、という危惧の念も、心をよぎります。
そのレクイエムの冒頭で、「レ」の音のユニゾンが、まるでベートーヴェンのように思い切りアタックを込められて明るく鳴り響いた瞬間、嫌な予感は現実のものとなりました。最近では第2稿の室内楽版が演奏される機会も増えてきて、この曲が本来持っていたはずの内向的な側面がかなり理解されるようになってきました。もちろん、このフル・オーケストラ版が、出版社の思惑ででっち上げられた、作曲者には何の関わりもない編曲であることも、多くの人の知るところとなっています。そんな中で、このような脳天気な演奏を喜々として行っている人が、まだいたというのは、少なからぬ驚きです。もっとも、あくまでコンサートホールで、オーケストラと合唱が織りなす壮大でカラフルな響きを、体全体で味わいたいという人たちにとっては、このようなある意味明確な主張を持った派手な演奏は、歓迎されてしかるべきものなのかも知れません。しかし、そこで聴かれるものは、ガブリエル・フォーレが「ほんの個人的な目的」のために作った「レクイエム」という作品とは、似て非なるものであることは、知っておいた方がよいでしょう。
一つ救いがあるとすれば、「Pie Jesu」でのソプラノ・ソロを担当しているリビー・クラブツリーでしょうか。「シックスティーン」とか「タリス・スコラーズ」、「ポリフォニー」などに参加して、これらの団体の無垢な音色を担ってきた彼女の声は、まさにこの曲にふさわしいものとして心地よく響いています。もっとも、それだからこそ、この演奏の全体の文脈の中では、違和感のあるものとして浮いてしまっているのかも知れませんが。

11月16日

MOZART,SALIERI
Requiem
Andreas Kröper/
Italian Chamber Choir
Concertino Notturno Praha
MILAN VLCEK/SY 0008-2 131
録音されたのが95年の11月、リリースが96年ですから、決して「新譜」ではないのですが、いつものCD店では堂々と新譜コーナーに並べてありましたので、迷わずゲットです。しかも、家へ帰って良くみてみると、何とカップリングがサリエリのレクイエムではありませんか。映画「アマデウス」でその学生服姿が(それは「ツメエリ」)一躍有名になったモーツァルトのライバル、アントニオ・サリエリのレクイエムなどという珍しいもの(確か、CDは1種類しか出てなかったはず)が聴けるなんて、買っておいてほんとに良かった。
そのサリエリの作品、「ピッコロ・レクイエム」というだけあって、それぞれの曲は2〜3分しかありませんから、全曲(テキストはモーツァルトのものと同じ)演奏しても30分もかからないで終わってしまうという、短いものです。バス独唱の深刻なメロディーで始まる「Requiem」は、しかし、チャーミングな間奏に彩られて、なかなか楽しめます。ここで、ジャケットのトラックナンバーにミス。次のトラックはこの楽章の後半(+Kyrie)になっています。その次のトラックが、「Dies Irae」と「Tuba Mirum」、これを別のトラックと表示したジャケットが、やはり誤りです。音楽の方も、このあたりになってくると、サリエリの無能さが明らかになってきます。「Dies Irae」で執拗に繰り返される三連符のパターンや、「Tuba Mirum」の単純なアルペジオは、あまりにも芸がなさ過ぎます。「Recordare」あたりの、流れるようにロマンティックなメロディーは聴きものには違いありませんが、何かどこかで聴いたことがあるような気になるのは、なぜでしょう。「Lacrimosa」は、モーツァルトあたりとは全く異なる強烈な楽想、やはり、決まったリズムパターンが鬱陶しく耳障りです。ティンパニのロールに乗って雄大に歌われる「Sanctus」は、ドラマティック過ぎるのが気になります。「Benedictus」も型どおりの優雅な造り。これら2曲に続く「Hosanna」は、シンプルなスケールが印象的。クラリネットのオブリガートが美しい「Agnus Dei」のあとには「Lux aeterna」が続き、「Requiem」の歌詞の部分では冒頭と同じものが繰り返されます。
と、細かい印象を書いてくると、このサリエリの曲はいかにもつまらないもののような感じを与えてしまいますが、おそらく、もう少し注意を払って演奏すれば、ここで欠点と見えたものもかなり目立たなくはなるはずなのです。サリエリも、こんな演奏で自分の曲を評価されてしまうのでは、さぞ無念なことでしょう。
そう、これはまさにひどい演奏。それがどれほどのものであるかは、聴き慣れたモーツァルトの作品を聴けばよく分かります。訓練されていない合唱、低水準のソリスト(ソプラノは完璧に「音痴」です)、そして、なによりもお粗末なのは、まるで歌手のブリン・ターフェルのような風貌の指揮者、クレッパーの場当たり的な、一貫性の見えない表現です。まるで運動会の行進のような「Requiem」冒頭の低音の刻みには、誰しも失笑を禁じ得ないことでしょう。

11月13日

MOZART
Requiem(Version for String Quartet)
Kuijken Kwartet
CHALLENGE/CC72121(hybridSACD)
有名なモーツァルトの「レクイエム」を、弦楽四重奏で演奏したものが収録されたCDです。歌詞の付いた声楽曲をただの器楽曲に直したものに何の意味があると思うかも知れませんが、そのような曲は結構あるものです。そんなものとしては、ハイドンの「十字架上の7つの言葉」がよく知られています。ただ、この場合、正確には弦楽四重奏(その前に、オーケストラ曲がありました)が作られた方が先、それに歌詞を当てはめて声楽の入ったヴァージョンが作られたという、いわば「メロ先」状態ではありますが。
モーツァルトの場合は、もちろん、モーツァルトと、そしてジュスマイヤーが作った声楽曲が最初の形。それを、のちにペーター・リヒテンタールという、イタリアのミラノで活躍していたアマチュアの作曲家がインスト・ヴァージョンに仕立てたものです。
こんな珍しい曲は、このクイケンたちの録音が最初だと思ったら、実は97年にSTRADIVARIUSというイタリアのレーベルに「アグライア四重奏団」という団体が録音していました。そのCDは、カップリングに、やはりリヒテンタールが編曲をした、弦楽四重奏とピアノという編成の協奏曲第20番(ニ短調)が入っていました。この演奏は、「とりあえず音にしてみました」程度のもの、ピアノ協奏曲の方もソロの出来がひどいソロ悪品(粗悪品)でした。
今回の、ジギスヴァルトとヴィーラントというクイケン兄弟が中心になった四重奏団の演奏は、もっときちんと音楽に立ち向かっているものです。曲の冒頭、ヴィーラントのチェロで低音の重々しい歩みが始まった瞬間に、そのことがはっきり分かることでしょう。彼らは、この凝縮された編成の中から、オリジナルの持つメッセージと全く変わらないものを導き出していたのです。これは、ジギスヴァルト自身が、「ラ・プティット・バンド」を率いて、元の形(但しバイヤー版ですが)を演奏していたことと無関係ではないはずです。
従って、ジギスヴァルトたちは、リヒテンタールが、弦楽四重奏で演奏しやすいように、敢えて原曲から省略して編曲した部分でも、原曲の持ち味を取り戻すために再び音符を補うことも厭いませんでした。例えば、「Domine Jesu Christe」の後半「Quam olim Abrahae」で、リヒテンタールは合唱のパートしか演奏させていません。それはアグライア盤で聴くことが出来ますが、何とも間が抜けたものになってしまっています。しかし、ジギスヴァルトはそこにきちんとオーケストラのバスパートを「復元」しています。両者を聴き比べると、演奏の精度とも相まってその優劣は明らか、クイケンは、単に愛好家の間のサロンで演奏される程度の陳腐な編曲から、見事に元の曲の世界を取り戻したのです。

11月10日

BACH
Concertos
Murray Perahia(Pf)
Jaime Martin(Fl)
Kenneth Sillito(Vn)
Academy of St.Martin in the Fields
SONY/SK 87326
(輸入盤)
ソニーミュージック
/SICC 139(国内盤)
各方面で絶賛されているペライアのバッハ、今回はトリプル・コンチェルトが2曲と、ソロで「イタリア協奏曲」というカップリングです。ピアノ1台ならともかく、ヴァイオリンやフルートといった他の楽器が入った協奏曲でチェンバロではなくピアノを演奏するというのは、さすがに最近ではめっきり少なくなっています。オリジナル楽器とは言わないまでも、チェンバロとピアノとでは音量や音の特性があまりに異なっていますから、バッハのこのような曲でピアノを弾くのは、かなり勇気のいる時代になってしまっているのです。
しかし、ここでペライアのピアノを聴いていると、チェンバロとはまた違った魅力が現れてくることに気が付かないわけにはいきません。その最も顕著な例が、ブランデンブルク協奏曲の例の大カデンツァです。この曲、ご存じのように独奏楽器はヴァイオリン、フルートとクラヴィーア(鍵盤楽器)の3つですが、実質的にはクラヴィーアがほとんど主導権を握っています。ちょっと痒いですが(それはクラミジア)。従って、このカデンツもまさにクラヴィーア奏者の腕の見せ所、テクニックの限りを尽くした華麗なソロが用意されています。ところが、チェンバロで演奏しているのを聴くと決まって感じるのは、「楽器がかわいそう」ということです。息もつかせぬ細かい音符のパッセージや、分厚い和音の強打など、おそらくチェンバロの限界をも超えようとするバッハの試みは、この繊細な楽器にはいささか荷が重すぎると感じてしまうことがまま見られるのです。ペライアのこの部分の演奏、いかにも余裕たっぷり、チェンバロではあれほど「苦労しているな」と感じられるものが、いとも自然で滑らかな表現として聴くことが出来ます。もしかしたらバッハは、チェンバロの向こうに見えていたさらに表現の幅の大きな楽器のためにこの曲を作ったのではないか、ペライアのピアノからは、そんな気にさせられる何かが伝わってきます。
もちろん、そのように感じられるのは、ペライアの澄み切ったタッチと、卓越したバランス感覚のお陰なのでしょう。フルートのハイメ・マーティンとヴァイオリンのケネス・シリートも、この曲ではあくまでもピアノを立てて見事にアンサンブルの一部としての役割を果たしています。それだけではなく、第2楽章では、この3人が一緒になって紡ぎ出す歌の美しいこと。
「イタリア協奏曲」では、ペライアの余裕のある音楽が心地よく響いてきます。最近の若い世代の音楽家に見られる、まるで器械体操のような精密さで演奏しようとする風潮には完全に背を向けて、ひたすらバッハが音符の間に込めた「歌」を聴かせようという態度、これは、ピアノやチェンバロといった楽器の問題を超えた、一人の演奏家の真心として、聴き手には届くことでしょう。

11月9日

MOZART
Flute Concertos
Patrick Gallois(Fl)
Fabrice Pierre(Hp)
Swedish Chamber Orchestra
NAXOS/8.557011
11月末発売予定)
ガロワが親しい友人に、「このアルバムは、きっと評論家からは袋だたきに遭うに違いない」と語っていたという、モーツァルトのフルートのための協奏曲を全て収めた新録音です。その言葉の通り、最初から最後まで挑戦的な仕掛けに満ち満ちた、ということは、思い切り聞き応えのある仕上がりになっています。
まず、ガロワがモーツァルトに対して取ったスタンスは、「バロック」という概念です。ですから、オーケストラには通奏低音としてのチェンバロが加わっています。使っている楽器はモダン楽器ですが、この時代の音楽にオリジナル楽器のアプローチを試みるのはもはや常識、前作のエマニュエル・バッハで見せた、あたかもフラウト・トラヴェルソであるかのような(モダン)フルートの音色は、ここでも健在です。また、楽譜の解釈でも、たびたび問題になる前打音については、アーノンクールあたりが多用して、さも最近の主流であるかのようになってしまっている、ほとんど装飾音のように短めに演奏するスタイルには敢えて背を向け、思い切り長めの音符(前打音の方が、本体よりも長くなる)として扱うという、実は少し前に世界中で流行ったやり方にこだわる潔さが印象的です。
それだけではなく、ガロワは「バロック」時代の演奏がそうであったように、演奏者の自由なアイディアをとことん取り込むことに、ほとんど命をかけているように見えます。ニ長調の協奏曲(第2番)、ソロが入ってレの音で伸ばしている時、突然音楽はヴィヴァルディになって、「ごしきひわ」の様な鳥の声の模倣に変わります。そんなショッキングなレアリゼーションは数知れず、いちいち驚いていてはとても体が持ちません。これはもう、ガロワの術中にはまって自由奔放な装飾や独特の歌いまわしを徹底的に楽しむことにした方が、どれほどポジティブな事でしょう。そうは言っても、第3楽章のアインガンク(「愛人バンク」ではありません。カデンツァほど長くはない、ちょっとしたフィル・インのこと)あたりになってくると、あまりのことにもはや吹き出すことを抑える力はなくなってしまいます。何しろ、「ラ・ファ#・ソ・ミ」という、この楽章のテーマが、まるで行き所がなくなってさまよっているような滑稽さで現れるのですから。ガロワのちょっと不気味な笑顔が目に浮かぶよう、これはすごすぎます。こんな些細な悪戯に目くじらを立てるか、その楽しさを積極的に味わうかによって、聴き手の音楽体験のキャパシティが測られることになるのでしょう。
ここでガロワは、オーケストラの指揮も行っています。実は、彼が本格的に指揮活動を始めてから、もうすでに10年以上経っていたのですね。今では、フィンランドのさるオーケストラの音楽監督にも就任していて、来年末には、このオーケストラを率いて日本全国を回るツアーが予定されています。まもなく「指揮者」ガロワに実際に接することが出来るでしょう。この情報は確実なもの、決して某人気マンガの映画化のようなガセネタではありませんから、ご安心を。

11月8月

CHOPIN
Piano Concertos
Ewa Kupiec(Pf)
Stanislaw Skrowaczewski
Rundfunk-Sinfonieorchester Saarbrücken
OEHMS/OC 326(輸入盤
2004年2月発売予定)
BMG
ファンハウス/BVCO-38021(国内盤)
秋の音楽界シーズンもたけなわ。たくさんの演奏家たちが、この極東の国に素晴らしい音を運んでくれます。そんな中の一人、スクロヴァチェフスキの新譜を1枚。ショパンのピアノ協奏曲です。「全ての協奏曲の中で最もオケパートのつまらない曲」として有名なショパンの2曲の協奏曲なのですが、意外なことにスクロヴァはこの曲の録音は初めてではありません。61年にルービンシュタインと1番、67年にはワイセンベルクと、1、2番を含む協奏的作品全集をリリースしているのです。作曲家としての顔も持つスクロヴァのこと、不完全なオーケストレーションに対して、却って独特の見解を持っているのかもしれません。
今回のソロは、ポーランドの若き女性ピアニスト、エヴァ・クピークです。ちょっとそそられる名前ですね(チクービ?・・・おやぢっ!)。とは言え、どうしても興味はスクロヴァ指揮のザールブリュッケンの音に向いてしまいます。もちろん彼女の演奏は一定水準をクリアしています。ところどころで、妙に耳につく「やけに強調されたスタカート」にも目を細めて笑えるだけの余裕がありますよ。
とにかく、とても面白い演奏でした。第1番の冒頭から、しっかり実のつまったオケの音に耳を奪われます。大抵の指揮者は、ここを「音があればいいだろう」的な怠惰な演奏をするんですよ。下手したら、短縮したりもしますからね。しかし、スクロヴァは違います。あくまでも一つの作品として、きっちり、まるでブルックナーを演奏するかのように、丁寧に音を並べて行きます。もちろんピアノが入ってきてからもその姿勢は全く変わりません。だから、ピアノよりもオケを聴いてしまうのですね。そして、驚いたことにスコアの改竄はほとんどありません。たまに「あれっ?」と思う部分もありますが、あくまでも常識の範囲内。この程度の音の足し方なら全く違和感がありません。
第2番も同じやり方。あくまでも丁寧な前奏、ピアノが入ってきても負けない音。そしてよく歌う緩徐楽章、安心して聴いていました。そして、最終楽章になりました。同じところを果てしなく回り続けるような、もどかしいピアノのメロディ。その後に続くオケの間奏は、今度は果てしなく階段を降り続けるかのような下降音形が3回繰り返されるのですがここでスクロヴァは、その3回目に驚くような音の付け足しを行っていたのです。あまりにも目の覚めるような音の乱舞。1本の階段だと思っていたら実は二重に絡まる螺旋階段だった・・・そんな驚きがありました。
実はこの部分は、先のワイセンベルク盤(↓)でも同じことをしていたのですね。やっぱりスクロヴァチェフスキは只者ではなかったというわけです。

11月7日

A Tribute to Simon & Garfunkel
Die Singphoniker
OEHMS/OC 321
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCO-38030(国内盤)
ドイツの6人組の男声コーラスグループ「ジングフォニカー」は、最近同じレーベルからバイエルンのルートヴィヒ一世の詩に曲を付けた作品をリリースしたばかり、現代曲や、コアなレパートリーが多いと思っていたら、いきなり「サイモン&ガーファンクル」などというものを出してきたのには、いささか驚いてしまいました。
ご存じのように、サイモン&ガーファンクルというのは、64年にデビューしたアメリカのフォーク・デュオです。「サウンド・オブ・サイレンス」(トニー谷が歌うと、「サウンド・オブ・サイザンス」)や、「明日に架ける橋」などの大ヒット曲を数多く生み出しましたが、それぞれの指向性の違いから70年には解散してしまいます。81年に、ニューヨークのセントラルパークで「再結成コンサート」みたいなものをやったあと、ワールドツアーを行いますが、その後はやはり2人別々の活動に戻ってしまいます。それが、このたび(2003年秋)再々結成、現在は北米ツアーの真っ最中というのですから、もうこうなると腐れ縁なのでしょうか。ジングフォニカーが彼らの曲を手がけたというのも、この再々結成に何か関係があるのでしょうか。
このアルバムに収められているのは、サイモン&ガーファンクルの、まさにベストヒット集です。とは言っても、中には解散後にそれぞれがリリースしたソロアルバムの中の曲も含まれているのが、侮れません。ただ、ポール・サイモンの場合はソロになっても、グループ時代と同じ自作で勝負していますから、そのテイストは変わりませんが、アート・ガーファンクルの場合は、ソロアルバムとは言っても曲自体は他人の曲のカバーがほとんどですから、その点にちょっと異質な面が認められることでしょう。
と、予備知識を仕込んだところで、この演奏を聴いてみましょうか。ジングフォニカーというグループ、例えばアメリカのシャンティクリアや、イギリスのスウィングル・シンガーズのような、卓越したテクニックや驚くほどのハーモニー感で人を驚かせるというものではありません。しかも、このような曲を演奏する時にもっとも必要とされるリズム感にも難があるという、どちらかと言えば「ゆるい」団体なのです。その代わり、言ってみればドイツの人たちの中に脈々と受け継がれているコーラスを楽しむ精神といったものに関しては、おそらく決して他にはひけを取らないことでしょう。
編曲を担当しているマティアス・ケラーもその辺は承知していると見えて、ほとんどがオリジナルの、2人だけでハモれるような単純な形を踏襲しています。もちろん、それだけではあんまりですから、多少手の込んだアレンジもありますが、それは基本的にアマチュアの合唱団あたりでもすぐコピーできそうなもの。そう、演奏の稚拙さの割に、聴いていて何か安らぐ気持ちになれるのは、このアルバムが、その「これだったら俺たちでも歌えるじゃん」と思えるような、ある種の包容力に支配されているからに他ならないのです。

おとといのおやぢに会える、か。


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