中には、身内。.... 佐久間學

(10/9/13-10/1)

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10月1日

NAXOS Navigator
ナクソス攻略ブック
学研パブリッシング刊
ISBN978-4-05-404613-9


お馴染み、NAXOSという個性的なレーベルが、再来年で創業25周年を迎えるそうですね。それを記念して、こんな本が出版されました。B5127ページ、写真や図版もたくさん使われて、1500円(税抜き)という価格相応の外観を持っています。
ところが、じっくりと読み進んでいくと、次第に頭の中は疑問符(?)だらけになってきましたよ。最初にあるのは、創業者のインタビュー、なんだか「会社案内」みたいなパンフレットによく載っているもののようには思えませんか?そして、それに続くのは、今扱っている「商品」の案内です。まずはお馴染みのCD。膨大なレパートリーの中から「これは」と思われるようなものが紹介されています。これって、普通は「カタログ」とか呼ばれているものではないですか?そのあとには、おそらくこの会社が今最も力を入れているであろう、ネットでの音楽ライブラリーの紹介と使い方。これも、言ってみれば「取扱説明書」のようなものではないでしょうか?
そう、浮かんできたさまざまな「?」が行き着いた先は、「これは、お金を出して買うようなものではないのではないか?」という結論だったのです。まさにこれは、宣伝用に無料で配布されるチラシやパンフレットと寸分違わないものなのですよ。それをお金を出して買わせようとするなんて、いったいこの出版社(というよりは、それを出させたこのレコード会社)は、何を考えているのでしょう。まさに、勘違いの極みです。
確かに、最初のCD紹介のコーナーはていねいに作られています。あるいは、全編この調子でもっと分量が多くなっていれば、かろうじて「書籍」としての体面は保てるかな、というぐらいの、ただのパンフにしておくにはもったいない、読み物としての価値が認められるものです。下着としての価値も(それは「パンツ」)。そんな中で、このレーベルがかつて一つの「目玉」にしていたものの、最近はもう放棄してしまったかに見える日本人作曲家のシリーズが、もうしばらくすると再開される、というニュースは嬉しいものでした。
ただ、その他の、この本の大多数を占めるコーナーは、もっぱらそのようなパッケージ商品としてのCDではなく、デジタル・コンテンツとしての商品の案内に終始しているのが、ちょっと不安を抱かされるところです。ここで声高に叫ばれているのが、「もうCDの時代は終わった」という、ヒステリックなまでのお題目です。このような「パンフレット」にはよく登場する、各界で活躍している著名人によるコメントも、まるで口裏を合わせたようにそんな「新しい音楽の聴き方」を推奨しまくっていましたね。今のIT社会、棚いっぱいのCDを抱えるのはもはや時代遅れ、これからは、好きな時にどんな曲でもあらゆる場所で聴くことこそが最先端のトレンドだ、とね。
そう、この本を通じて、この会社が推奨しているのは、まさに音楽の「使い捨て」ではありませんか。「物」としてCDを手元に置いてこそ、良いものでも悪いものでもきちんと向き合えるのでは、と考えるクラシック・ファンは、決して「時代遅れ」ではありません。
そもそも、このNML(ナクソス・ミュージック・ライブラリー)というサービスは、まともなクラシック・ファンにとっては欠点だらけの代物です。なにしろ、「ツァラトゥストラ」のように、連続して演奏される曲の間にトラックの切れ目があったりすると、その部分で演奏が止まってしまうのですからね。音質だって128kbpsではCDには到底及びません。これは、単にサンプルとしての用途しか望めないもの、とても鑑賞に耐えうるものではありません。作曲者の表記もデタラメだらけですし。
もしこの会社が、本気でNMLCDの代わりを務めることが出来ると考えているのだとしたら、そんなところが作るCDなどは決して買いたくはなくなってしまいます。この本は、まさに自分自身の首を絞めようとしているこのレコード会社の愚かさをさらけ出したもののように見えます。

Book Artwork © Gakken Publishing Co., Ltd.

9月29日

CIMAROSA
Requiem
Adriana Kucerova(Sop), Terezia Kruzliakova(Alt)
L'udovit Ludha(Ten), Gustav Belacek(Bas)
Kirk Trevor/
Lucnika Chorus, Capella Instropolitana
NAXOS/8.572371


モーツァルトと同時代のオペラ作曲家ドメニコ・チマローザが、サンクト・ペテルブルクでエカテリーナ女帝に仕えていた時期の1787年に作った「レクイエム」です。あと4年もすると、モーツァルトが同じテキストで曲を作りかけることになりますね。このレーベルならではの珍しい曲ですが、なんでも1968年に録音されたヴィットリオ・ネグリのレコードによって、初めてこの曲の存在が世に知られるようになったのだそうですね。あ、もちろん正規の録音、モグリではありません。
全体の長さは50分ちょっと、モーツァルトのものと同じぐらいでしょうか。ただ、テキストには、普段はカットされることの多い、「Graduale」と「Tractus」が、「Kyrie」のあとに置かれています。そして、そのあとには型どおり「Dies irae」で始まり「Lacrimosa」で終わる「Sequentia」が来るのですが、普通は何曲かに分けられるこの長大なテキストの区切り方が、モーツァルトとはかなり異なっています。というか、こちらで「Judex ergo」とか「Inter oves」などというタイトルの曲が出てくると、そんな言葉があったのか不安になってくるのですが、それは単にモーツァルトが1曲分として選んだテキストの途中から、こちらは始まっている、というだけのことなのでした。逆に、モーツァルトが曲の頭に持ってきた「Confutatis」などは、こちらでは曲の途中になっているので、タイトルとしてはなくなっています。
編成はソリスト4人に合唱とオーケストラというものですが、オーケストラに入っている管楽器はホルンだけのようですね。ですから、全体は弦楽器だけのモノクロームな音色に支配されています。
ここで演奏しているのは、イギリス出身の指揮者トレヴァーを除いては、すべてスロヴァキアのミュージシャンたちです。オーケストラのスキルは決して高いものではありませんし、合唱もかなりもっさりとした肌触りですので、聴いていて心を奪われるということは殆どないのですが、それには目をつぶって虚心に作品と向き合うことにしましょうか。
Introit」は、大げさな身振りではない淡々とした曲調で始まります。ただ、それは最後まで続くのではなく、途中でアップテンポになって少し明るくなります。そんな風に、ごく短い時間で曲想が変わっていくのが、どうやらこの曲の特徴のようです。「Kyrie」になると、後半にはフーガが現れますが、それはあまり厳格なものではなく、あくまでシンプルな装いの中でのことです。
先ほどの「Sequentia」は、全部で10曲に分かれています。1曲ごとに合唱とソロとが交互に現れるという構成が基本になっています。割と淡泊な合唱の間に、ドラマティックなソロが入る、といった趣でしょうか。そのソロは、いずれもキャッチーなもの、メロディ・メーカーとしてのチマローザの面目躍如といったところです。最初に出てくるソプラノのソロ「Tuba mirun」を歌っているクチェロヴァーは、とても伸びのある魅力的な声で、それまでのちょっともたつき気味だった音楽を見事に華やかなものに変えてくれます。それ以後も、彼女が歌うところでは音楽全体が引き締まって聞こえます。
他のソリストでは、この部分の最後の方、「Preces meae」で初めて登場するテノールのルダの、朗々たる歌声に圧倒されてしまいます。あまりにもハイテンションのため、それがこの曲にふさわしいかは疑問ですが。
ところで、その少し前、「Recordare」でアルトのクルチュリアコヴァーが歌い始めると、それがなにかと非常によく似たものであることに気づくことでしょう。それは、モーツァルトの作品の「Benedictus」。もちろんその部分はジュスマイヤーによって補作されていますから、もし「パクリ」だとしても、それはモーツァルトが咎められるものではありません。
こんなユルいオケと合唱に、ハイテンションすぎるソリストというアンバランスな布陣ではなく、もっと全体が緊張感にあふれた演奏できちんと聴いてみたいものだ、と切に願いたくなるようなCDでした。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

9月27日

MOZART
Die Zauberflöte
Daniel Behle(Tamino), Marlis Petersen(Pamina)
Daniel Schmutzhard(Papageno), Sunhae Im(Papagena)
Anna-Kristiina Kaappola(Königin der Nacht), Marcos Fink(Sarastro)
René Jacobs/
RIAS Kammerchor, Akademie für Alte Musik Berlin
HARMONIA MUNDI/HMC 902068/70


モーツァルトのオペラを、独自の切り口で演奏してくれていたヤーコブスが、ついにジンクシュピールの傑作「魔笛」をリリースしました。ウィリアム・ケントリッジの演出による2009年7月のエクサン・プロヴァンスでの上演のメンバーが、同じ年の11月にベルリンのテルデックス・スタジオに集結して入念に録音を行ったものが、このCDです。
ヤーコブスのオペラの場合はいつものことですが、製作スタッフはあくまでセッション録音でなければなしえないようなものを作り出そうとしているように思えます。ヤーコブス自身もライナーで述べていますが、このCDは「ジンクシュピール Singspiel」=「歌芝居」であると同時に、「ヘアシュピール Hörspiel」、つまり、ラジオドラマのような「聴く芝居」としての位置づけで制作されているということです。ミュージカルではありませんよ(それは「ヘアスプレー」)。そのために、CDの場合は大幅にカットされることの多い「セリフ」の部分を、完全にしゃべらせて、より完全な「劇」を伝えようとしています。これはうれしいことですね。
さらに、耳で聴いただけでも情景がより伝わるような、たとえば効果音を挿入するといったようなことを、かなり大胆に行っています。まあ、「夜の女王」が登場する時に雷鳴を聴かせる、などというのはよく使われますが、ここではもっと踏み込んで、鳥の鳴き声とか風の音などで、ていねいに情景描写を行っています。一番ウケたのは、タミーノとパパゲーノが閉じ込められている「牢獄」のSE。いったいなんだと思います?それは、「雨漏り」のように、水のしずくが「ピッチャン」と滴り落ちる音。これだけで、うす暗く汚い場所が見事に描写されていますよね。
それだけの周到な「舞台」を与えられて、ヤーコブスは実に伸び伸びと躍動感あふれる音楽を繰り広げています。各所でフィーチャーされているフォルテピアノの即興演奏のように、それは、時にはモーツァルトの書いた楽譜以外の要素を持ち込むことによる、かなり自由な発想から生まれるものに違いありません。それは、厳格な「原典」を志向するような人にとっては、もしかしたら許しがたいほどの演奏なのかもしれませんが、例えばアバドのように重箱の隅をほじくるようなことをしてもなんの効果も上がっていないものなどよりはよっぽど価値のあるもののように思えます。もちろん、アーノンクールのような、誰にも賛同されない恣意的な演奏とは全く次元の違うものであることは明白です。
ここでヤーコブスが曲の最後で頻繁に見せている記譜上の拍に全くとらわれていないケレン味たっぷりのくずし方などは、まさにこの作品の依頼主、シカネーダー一座がおそらくアドリブで見せたであろう、観客の「受け」をねらった仕草に、精神的にかなり近いものであると感じられるのは、なぜでしょう。そう、ヤーコブスがここで行ったことは、楽譜上の「原典」ではなく、まさに精神的な「原典」を再現することではなかったのでしょうか。
有名無名にかかわらず、これ以上は望めないほどの歌手が集まったしっかりした演奏だからこそ、そんなコンセプトが生きてきます。加えて、合唱の素晴らしいこと。これこそは、ステージでは絶対に実現できない完璧なものです。そんなソリストと合唱、そしてヤーコブスのアイディアが見事に結実したサプライズが、最後の合唱です。まさに大詰め、堂々たる4拍子が、エンディング・モードの2拍子に変わって属七の和音でフェルマータした後、「die Schönheit」という歌詞で始まる部分で楽譜上はイン・テンポの所をヤーコブスは思いっきりテンポを下げます。その合唱が同じことを2回繰り返すと思いきや、その2回目にはなんとソリストが歌っていたのですよ。こんな心憎いことをやられたら、誰だって参ってしまいませんか?

CD Artwork © Harmonia Mundi s.a.

9月25日

Fritz Wunderlich Live on Stage
Rieger, Karajan, Böhm, Prêtre,
Kempe, Wallberg, Krips/
Münchner Philharmoniker, Orchester der Wiener Staatsoper,
Wiener Symphoniker, Bayerische Staatsorchester
DG/00289 477 9109


1930年生まれのテノール、フリッツ・ヴンダーリッヒは、もし生きていれば今年で80歳になっていたということで、こんな記念CDが発売されました。彼の場合、1966年に36歳の若さで亡くなってしまいましたからもはや生まれたときにはすでにこの世にはいなかった、というファンの人も多いことでしょう。個人的には、最初に自分で買ったオペラのLPが、1964年録音のDGの「魔笛」でしたから、かろうじてリアルタイムで聴けた、という感じです。ほんと、このベーム盤で聴くことの出来るヴンダーリッヒのタミーノは、まさに絶品です。
1962年から1966年の亡くなる直前までの間の実際のオペラの舞台が収録された放送音源を集めたというのが、このCDです。1曲を除いてモノラル録音、当然のことながら、音質的にはとても満足のいくものではありませんが、なんと言っても大半が今回初登場の音源である、というあたりがそそられます。ファンにとっては音なんかどうでもいいんですよね。
ですから、DGの録音セッションからほんの1ヶ月後にミュンヘンで行われた公演での「魔笛」の録音があまりにひどく、肝心のヴンダーリッヒも、レコードでは絶対にあり得ない、コントロールのきかない上ずった音程に終始しているとしても、そんなことは笑って許せる寛容さが、すでにこれを聴こうという人には備わっているに違いありません(「もう聴かんよう」なんて言わない、と)。なにも、ベスト・コンディションばかりを求めずとも、こんな「失敗作」までも含めて愛するというのが、真のファンというものなのですよ。それにしても、ここで指揮をしているフリッツ・リーガーの統率力のなさには、恐れ入るしかありません。
次の「ドン・ジョヴァンニ」は、カラヤンが指揮をしたウィーン・シュターツオーパーのライブです。リーガーほどではないにしても、やはりオケはかなりひどい有様です。1963年と言えば、そろそろカラヤンの任期も終わる頃、緊張感もなくなっていたのでしょうか。それにしても、ステージでのドン・オッターヴィオは、なんと力強い声を聴かせてくれていることでしょう。あまり多くないヴンダーリッヒ体験の中では、彼の声はあくまで滑らかで甘い、という印象だったのですが、聴衆を前にすると全く別の一面を表していたのですね。彼の新しい魅力を発見です。
その次は「セヴィリアの理髪師」、ジャケットの写真が、彼のアルマヴィーヴァ伯爵ですね。これもウィーンですが、指揮がなんとカール・ベームではありませんか。ベームのロッシーニとはなんと珍しい。もっと珍しいのは、これがドイツ語で歌われていることです。モーツァルトはちゃんとイタリア語だったのに、1966年の時点でもこんなことをやっていたのですね。思いがけないことに、ここでのベームの指揮がとても素晴らしいのですよ。オケは見事にコントロールされていて、ロッシーニならではの軽さまできちんと出しています。まさに「職人」的な彼のスキルは、この時代では見事に発揮されていたのですね。ヴンダーリッヒは、というと、コロラトゥーラが散々というかわいらしさを見せていますし。
その後には、リヒャルト・シュトラウスのオペラが続きます。あいにくヴンダーリッヒのシュトラウスは今まで聴いたことがなかったのですが、これも本当に素晴らしいものでした。彼は一応「リリコ」という呼ばれ方をされているようですが、こうして聴いてみるともっと力強いドラマティックな面も存分に持っていたことが分かります。なんでも、デビューがヴィントガッセンの代役でのタミーノだったのだとか。夭折していなければ、そのヴィントガッセンのレパートリーであったワーグナーまでも手がけていたかもしれないと思えるような瞬間が、このCDでは何度もありました。なんとも、残念なことです。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

9月23日

WHITACRE
Choral Music
Leslie De'Ath(Pf)
Carol Bauman(Perc)
Noel Edison/
Elora Festival Singers
NAXOS/8.559677


こちらは、アメリカの、というよりは国際的に超売れっ子の合唱作曲家(と言いきっていいのでしょうか)エリック・ウィテカーの作品集です。以前、レイトン指揮のポリフォニーによる演奏をご紹介したことがありますが、今回のラインナップは11曲中8曲がその時のものと同じ無伴奏の作品で占められています。そうなると、それぞれの演奏を比較してしまうことになるのは当然の成り行きです。
それにしても、このエローラ・フェステヴァル・シンガーズというカナダの合唱団と、前に聴いたポリフォニーというイギリスの合唱団では、同じ曲であってもなんという肌触りの違いなのでしょう。そもそも、合唱団の音楽の作り方の方向性が、その元になる声の出し方からしてまるで違っています。あちらはなによりも力強い充実した響きが身上で、そこに指揮者の趣味が加わってとてつもないハイテンションの音楽を作り上げているのですが、こちらはもう少しリラックスした、繊細さを重視したものになっています。音色を左右するソプラノパートでは見事にノン・ビブラートが貫かれていて、大人の合唱団なのにまるで少年のようなイノセンスを醸し出しているのが、その最大の要因なのでしょう。それでいて、要所の盛り上げ方は充分にドラマティックなのですから、目を見張ります。
そんな合唱団でウィテカーの曲を聴いていると、この作曲家の技法そのものすら、全く別の属性を持っていることに気づかされます。今まではほとんどクラスターと思えるほどの、「和音」というには余りにも音が密集し過ぎていると思っていたものは、実はもう少しそれぞれの構成音に意味のあるきっちりした「和音」である、というようなことですね。したがって、以前は厚ぼったく塗りたくった油絵のように思えていたものが、まるでパステルカラーの水彩画のように見えてくるようなことも体験されてしまいます。ジャケットにも水彩画が使われていますし。まあ、これが「インタープリテーション」というものの面白さなのでしょうね。
実際、「Her sacred spirit soars」という曲では、レイトンが5分で演奏していたものを、エディソンでは6分半もかかっています。こうなると、もう全く別の曲のように思えてしまいますね。「Water Night」という曲などは、あまりにあっさりしすぎるため、完璧に「ヒーリング」と化してしまっていますし。
レイトン盤と重なっていない3曲は、無伴奏ではなくピアノや打楽器が加わったものです。そこで見られるのはなんとも独創的なピアノ伴奏のスタイルです。「伴奏」というような従属的なものではなく、新たなパートとして合唱に絡みついてくるのですね。これも、彼ならではの「ポリフォニー」の形なのでしょう。いや、それは、あるいは「ミニマル」と言うべきものなのかもしれませんね。
打楽器が加わった「Leonrdo Dreams of His Flying Machine」という曲は、まるでモンテヴェルディあたりのマドリガルを模倣したような印象を与えられます。実際、歌詞の中にはイタリア語の部分もあり、それは完璧にルネサンスの世界です。ところが、途中でそれまでの三和音から次第にテンション・コードが混ざってきて、ついにはクラスターとなると、それを境に打楽器がなんとラテン・リズムを叩き始めます。そんな変わり身の速さに即座に反応して、機敏に音楽を進めていけるフットワークの軽さも、この合唱団の持ち味なのでしょう。
このCDによって、一つの団体の演奏だけを聴いていたのでは分からなかった、この作曲家の多様性を、発見させてもらったような思いです。そういえば、この中で最も長大な「When David Heard」でも、言葉に対する感覚がまるで異なっていることをまざまざと見せつけてくれていましたね「もっと聴かせてちょうだい」と言いたくなるような、すてきなCDでした。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

9月21日

New Century Flute Concertos
Raffaele Trevisani(Fl)
Piet Koornhof(Vn)
Roberto Duarte, Constantine Orbelian/
Moscow Chamber Orchestra
DELOS/DE 3399


「ゴールウェイの弟子」というキャッチフレーズで活躍しているイタリアのフルーティスト、ラファエレ・トレヴィザーニは、「現代」の作曲家に新しい作品を委嘱するという献身的な活動を続けています。ピアノやヴァイオリンに比べたら決して数が多いわけではないフルートのレパートリーの裾野を広げるとても貴重な行いなのではないでしょうか。そんな中から、今世紀に入ってから作られた協奏曲を4曲収録したCDがリリースされました。もちろん、すべてトレヴィザーニによって初演が行われたもので、このCDが「世界初録音」となるものばかりです。
彼は、これまでにも多くの協奏曲を録音してきましたが、その時にバックを務めていたのがモスクワ室内管弦楽団です。今回も、彼らと一緒に録音するためにソリストはロシアへ向かいました。録音会場は有名なモスクワ音楽院大ホールです。ただ、録音スタッフまでは同行していないため、エンジニアなどは現地調達、ですから、同じレーベルでもこの間のバッハとはずいぶん音が違います。よく言えば「渋い」サウンドというところでしょうか。
ここで新作を提供した4人の作曲家は、初めて聞く名前ばかりです。したがって、その日本語表記も、一応こちらにあることはあるのですが、実はこれはいい加減なことにかけては定評のあるサイトなのでとても鵜呑みには出来ません(もっと言えば、ここの音源で長い曲を聴こうとすると、間でトラックが分かれているときにはそこで音が止まってしまうという粗悪サイトです)。間違った読み方をネットで広めてしまうという恥ずかしい真似だけはしたくないので、欧文表記で。
まず、南アフリカに1957年に生まれたHendrik Hofmeyrの、「ヴァイオリンとフルートのための二重協奏曲」です。ヴァイオリンはバッハの時にも共演していたコーンホフです。この4つの中では最も古典的な様相を持った曲で、そこはかとなくプーランクあたりの匂いが感じられる、技巧的な作品です。1楽章には日本風の音階なども登場して楽しませてくれます。二人のソリストのつかず離れずの掛け合いが魅力的、ただ、あまり練習する時間がなかったのでしょうか、最後の楽章の早い三連符のパッセージなどはいかにも雑な仕上がりです。
次は、1968年生まれのイタリア人、Alberto Collaの「フルートと弦楽合奏のための『ロマンツァのように』」という、単一楽章の曲です。まるで雅楽のような高周波のクラスターに乗って登場するフルート・ソロが、息の長い輝かしいフレーズを延々と聴かせてくれます。ただ、バックの弦楽器が、いかにもロシアっぽい泥臭さで迫るため、「癒し」を通り越してなにかとても重苦しい、逆に病気になってしまいそうな音楽になっています。最後のあたりでソロのカデンツァが入りますが、いかにもバッハを模倣したような鈍くささ、どこまで行っても軽やかさとは無縁の曲です。
その次も、やはりイタリア人、1959年生まれのCarlo Galanteの作品。「フルートと弦楽合奏のための『アリエルの嘆き』」というタイトルは、シェークスピアの「テンペスト」からとられたものだそうです。これは、あたかも出来の悪いペルトといった趣の曲ですね。やはりバックの弦楽器の鈍さが、その退屈さに拍車をかけています。
と、はっきり言ってつまらない曲ばかり続いてげんなりしかけたところで、最後はブラジルのErnani Aguiarという1950年生まれの人が作った「ピッコロと弦楽合奏のためのコンチェルティーノ」です。これは、もうラテンリズム満載の、キャッチーで楽しい曲です。3つあるうちの最後の楽章は「ショーロ」と題されていて、まさに踊り出したくなるほど、せっかくだから、花に水をかけましょう(それは「ジョーロ」)。ただ、トレヴィザーニはピッコロがヘタ。音程は悪いし指はまわらないし、せっかくの軽やかなラテンがこれでは台無しです。

CD Artwork © Delos Productions, Inc.

9月19日

CHIHARA
Canticum Sacrum
伊東恵司/
なにわコラリアーズ
GIOVANNI/GVCS 11010

日本を代表する男声合唱団、なにわコラリアーズが歌っている千原英喜の作品集です。千原さんといえば最近の合唱界の、まさに「売れっ子」ですね。2、3年前に公開された「うた魂」という高校の合唱団員を主人公にした映画は、「ブラス」に比べたらいまいちマイナーな感はぬぐえない「合唱団」の劣勢を跳ね返そうという気概に満ちた映画でしたが、そこでちょっと気になっていたのが、千原さんの曲でした。映画の中で、「本物」の合唱団を使って歌わせているシーンがあったのですが、そこでさる高校の男声合唱団が歌っていたのが、千原さんの「リグ・ヴェーダ」という曲だったのです。正直、日本人の合唱作品というのは、なにか頭でっかちで面白みに欠けるところがありますが、この曲には、なにか根源的なところで迫ってくるインパクトがあったのです。それはチマチマした合唱曲を聴き慣れた耳にはとても新鮮に感じられました。これだったら、外国の作品とも肩を並べられるのでは、とさえ思ったものです。
1957年生まれの千原さんは、東京芸大であの間宮芳生の教えを受けています。その間宮の「コンポジション」に見られるような、日本民謡を素材として新しい世界を構築するという方法論を取りながら、そこにさらにエンタテインメントとしての要素を盛り込んでいるあたりが、この世代の作曲家の「性」なのでしょうか、そこには、間宮とはまた一味違う確かな完成度を感じることが出来ます。
このCDには、なにわコラリアーズが最近の定期演奏会で取り上げてきた千原さんの作品の中から、「カンティクム・サクルム」第1集と第2集、そして、もともとは混声合唱として作られた「おらしょ」が収録されています。実は、「カンティクム〜」第1集は、2004年にこの合唱団の委嘱によって作られたものなのですが、ここではボーナス・トラックとして、その初演の録音も聴くことが出来ます。ちなみにこのときのタイトルは「カンティクム・サクルム・ニッポニクム」、ラテン語で「日本風聖歌」とでもいうような意味なのでしょうが、まるで動植物に付けられる「学名」のようですね。出版に際しては「ニッポニクム」が「日本憎む」に通じるということで(ウソです)削除され、いくつかの改訂が加えられました。ですから、ここでは「初稿」と「改訂稿」の双方を比較することが出来ます。
この曲は、「Dixit Dominus」とか「Magnificat」といった、お馴染みの詩篇や福音書からのテキストを用いたキリスト教の「聖歌」という体裁をとっていますが、聴いていくうちに次第に日本民謡風の音楽に変わっていく、という痛快な作られ方をしています。ラテン語の歌詞による日本民謡、これはとても不思議な世界、そこには宗教も民族も超越した一つのエンタテインメントが広がっていました。
「第2集」もその仕組みは同じ、テキストに「Ave Maria」などの聖母を讃えるものが使われているのが特徴です。ここでは打楽器が加わり、まるで盆踊りのような、原初のリズムが強調されています。
「おらしょ」は、もちろん隠れキリシタンの間で脈々と歌い継がれてきた、まさに「日本風聖歌」です。最初に現れるのはいとも美しいプレーン・チャント、その間に、「おらしょ」をモチーフにした悲哀に満ちた音楽が繰り広げられたあと、最後に同じチャントが再現されるころには、この巧みな千原ワールドに涙していることでしょう。
思うに、日本の合唱団の特色として自慢できるのは、「繊細さ」なのではないでしょうか。全体の音色を支配するトップ・テナーの声が、とても「繊細」なのですね。トルミスなどの場合はそれがなんとも女々しく感じられてしまいますが、ここではそれが良い方に作用しています。ただ、「第2集」の2曲目のようなホモフォニックな音楽の場合、トップ・テナーだけが異質に聞こえてしまうあたりが、ちょっと馴染めないところです。

CD Artwork © ARLMIC Company, Limited

9月17日

STRAUSS
Also Sprach Zarathustra
Herbert von Karajan/
Vienna Philharmonic Orchestra
DECCA/UCGD-9003(single layer SACD)


ユニバーサルのとことん音質にこだわったと言われるSACDは、各方面で絶賛されていたようですね。確かに、エソテリックなどと比べても遜色のない程度の仕上がりにはなっているのではないでしょうか。ただ、そのエソテリックよりもはるかに高い価格設定、というのが、ちょっと気になってしまいます。その金額の差に見合うだけのものがあるか、というと、必ずしもそうとは思えないものですから。特に、本体の出しにくいこと。
その、シングルレイヤーSACDシリーズの第2弾としてリリースされたのが、カラヤンとウィーン・フィルの「ツァラトゥストラ」です。これは、このコンビが初めてDECCAに録音したという記念すべきレコードです。そのセッションが始まったのが1959年3月9日、それは、その時のプロデューサーであったジョン・カルショーの回想記「Putting the Record Straight」で述べられている日付ですから、たぶん間違いはないのでしょう(他のディスコグラフィーなどでは、別の日付になっています)。この回想記は山崎浩太郎による「レコードはまっすぐに」という乱暴なタイトルの(それは「レコードはマッスルに」)日本語版が出ていますので、ぜひ読んでみて下さい。LPとして発売されたときには、この曲1曲だけしか入っていないという当時としては仕方のない処遇でした。曲の途中でレコードを裏返す、という、今では信じられないような「儀式」が必要だったのでした。
もちろん、いかにSACDといえども、「ツァラ」1曲だけで4500円などと言ったら、いくらなんでもひどい話ですから、今回はもう少し後のセッションで録音されていた「ティル」と「7つのヴェール」、そして「ドン・ファン」がカップリングされています。これらの曲のオリジナルのリリース形態は、「ドン・ファン」はチャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」とのカップリング、「ティル」と「ヴェール」は「死と変容」とのカップリングのLPでした。ちなみに、今回のジャケットにはその最後のシュトラウス集のLPのものが使われています。決して「ツァラ」がメインではないのだぞ、というユニバーサルの意志のあらわれなのでしょうか。
実は、今回のSACDと全く同じカップリング(曲順も)で2000年に出ていたのが、こちら(466 388-2)です。

さらに、2008年には、カラヤンがDECCAに残したすべての録音のボックスが出ましたが(478 0155)もちろん、この中にも今回の曲はすべて入っています。

そこで、その3者の間で、音を比較するというのが、何よりの楽しみとなるわけです。大いに期待した2008年盤が、なんとも平板な音だったのにちょっと失望したことがあるものですから、SACDには期待が高まります。ところが、「ツァラ」の有名な冒頭部分は、ほとんど変わらないのですね。2000年盤では、ヒスノイズが極端に少なくなっているのでノイズ・フィルターのようなものがかかっているのが分かるくらい、2008年盤で気になった、ファンファーレを吹くトランペットの薄っぺらな音が、そのまんま聞こえてきたのには、がっかりしてしまいました。ただ、そんな喧噪が終わって、ヴァイオリン1本、ヴィオラ2本、チェロ3本というアンサンブルが甘美に歌う部分になると、これははっきり別物であることが分かります。こういう繊細な所でこそ、SACDの本領が発揮できるのですね。
広く知られているように、この音源はキューブリックの「2001年宇宙の旅」の中で使われたものです。ただ、長いことサントラ盤に入っていたベーム盤が、映画でも使われていたと(当然ですが)信じられていた時代がありました。そのあたりの細かい事情はこちらにまとめてありますが、先ほどのカルショーの回想記の日本語版が出たことによって、もはやこのカラヤン盤であることは間違いのない事実として受け入れられるようになったのです。それでも、未だにベーム盤だと信じてこんでいる人がいるのが気の毒でなりません。

SACD Artwork © Decca Music Group Limited

9月15日

MAHLER
Symphonie No.2
Anne Schwanewilms(Sop)
Lioba Braun(Alt)
Jonathan Nott/
Chor der Bamberger Symphoniker
Bamberger Symphoniker
TUDOR/7158(hybrid SACD)


ノットとバンベルク交響楽団とのマーラー・ツィクルスは、5番に始まって1番、4番、9番の順にリリースされ、今回の2番が第5弾となります。一山超えた、というところでしょうか。4番で声楽が入っていましたが、合唱が入るのはこれが初めてのことですね。歌っているのは、このオーケストラとの日常的な共演団体、創設以来ロルフ・ベックが指揮をしているバンベルク交響楽団合唱団です。ソリストは、2007年のザクセン州立歌劇場の引っ越し公演で来日、素晴らしいマリー・テレーズを歌ってくれたシュヴァンネヴィルムスのソプラノと、1994年にバイロイトでブランゲーネを歌ったというベテラン、ブラウンのアルトです。
いつもながらの、時折ハッとさせられるようなフレーズを気づかされてくれるノットの指揮は、ここでも絶好調でした。起伏に富んだ第1楽章などは、迫力たっぷりの攻撃的な部分と、夢見るようにソフトな部分とでは、まるで別のオーケストラが演奏しているのでは、と思われるほどの、徹底したキャラクターの変化を演じ分けています。その落差の大きさはまさにショッキング、そのたびに聴くものはこの先の音楽の行方を確かめるために、改めて集中力をチャージするという作業を強いられることになります。これほど刺激的なのに楽しい体験はなかなかあるものではありません。いつの間にか「聴かせ上手」のノットの手の内に、まんまと乗せられてしまっているということになっています。
第4楽章になってアルト・ソロが登場すると、その音楽の雄弁さはさらにワンランク上がります。「O Röschen rot!」という歌い出しのなんと決然としていることでしょう。ブラウンは、その勢いをさらにドラマティックなものへとテンションを上げていきます。その歌い方は、おそらくここでは求められているはずの「リート」ではなく、完全に「オペラ」の世界、確かにそこには、まるで「物語」のようなストーリーを感じさせる情景が広がっていました。
最後の楽章こそは、「ドラマ」そのものとなります。入れ替わり立ち替わりオーケストラに登場するテーマたちは、ノットによってそれぞれに個性的なキャラクターを与えられて、活躍を始めます。その中には、やがて合唱やソリストによって歌われるテーマも含まれていますが、それはまさにそのための「露払い」といった趣でしょうか。
そして、フルートとピッコロ(すごくうまい!)の長大な掛け合いに導かれて、ア・カペラの合唱の登場です。この合唱も、なかなか充実した響きで魅了してくれます。きっちり「マス」としての役割に徹した安定感が、確かな存在感を誇っています。シュヴァンネヴィルムスの凛とした声も素敵ですね。ここからの15分間は、まさにこれでもかと押し寄せるクライマックスの応酬、そこでのノットのなんとも言えない微妙な「間」によって、決して自分を忘れてはいない、しかしそれだからこそなしうる極上のエクスタシーを存分に味わおうではありませんか。プリウスで初乗り650円(それは「エコタクシー」)。
それを助けるのが、SACDのスペックのとてつもないダイナミック・レンジです。まさに「生」そっくりと感じられるほどにどこまで行っても全く破綻のないクレッシェンドが自宅で味わえるのですから、すごいものです。こんなすごい録音なのですから、このチームによる「8番」はどれほどのものを聴かせてくれるのか、今からとても楽しみです。
試しに、手元にあった1983年に録音された16ビットPCMによるマゼールとウィーン・フィルのCDを聴いてみたら、クライマックスではことごとくフェーダーが操作されているのが分かってしまいました。弦楽器の粒立ちも、まるでおもちゃの楽器を聴いているよう、今にして思えば、この当時のデジタル録音なんて、とてもアナログ録音に太刀打ちできるものではなかったのですね。

SACD Artwork © Tudor Recording AG

9月13日

ぼくが出会った素晴らしきミュージシャンたち
岩田由記夫著
ウェイツ刊
ISBN978-4-901391-01-6

なぜか、仙台の民放FM局で土曜の夜の9時から放送している「ロック & ポップス A to Z」という番組を、毎週聴いています。「エー・トゥー・ゼット」ではなく、しっかり「エイ・トゥー・ズィー」と正しく発音しながら番組のタイトルを読みあげているのは、構成やDJをすべて手掛けている岩田由記夫さんという音楽ライターでした。「禁じられたゼットォォ〜ッ」が通じる世代の方のようですね。
しかし、その番組は、およそ民放らしからぬコアなものであることを、何回か聴いていると気づかされます。内容はタイトルそのまんま、ロックやポップスのアーティストを、アルファベット順に紹介していく、というものです。なんせ、今週は「ダイアー・ストレイツ」でしたが、その前の週は「ディオンヌ・ワーウィック」ですからね。ジャンルも年代もすっかり飛び越えて、ひたすら「A to Z」で貫き通すというシュールなスタンスは、とても潔いものです。その中での岩田さんのコメントは最小限に抑えられ、1時間の番組の中では曲(もちろんフルバージョン)だけが淡々と流れています。
そして、驚いたことに、その番組にはまったくCMが入りません。スポンサーがいないのですね。広告収入で成り立っている民放ラジオでこんなことは信じられませんよ。タイアップが付いているわけでもなく、これで「商売」が成り立つのかと、心配してしまうほどです。
そういう、超カルトな番組の最初に、音楽には全く関係のない岩田さんのコメントが入ることがあります。社会情勢とか、そんなものに対する彼のある種の見解、でしょうか。それが、なんとも不思議なテイストを持っているのですね。微妙に視点をずらしているように見えて、話している内容は大したことがない、という、はっきり言って「幼い」語り口なのですよ。構成している番組とのこの落差は、いったいなんなのでしょう。
そのうち、岩田さんが最近本を出したことを彼の口から聴くことが出来ました。ほぼ1年前に刊行されたものですが、なかなか魅力のあるコンテンツだったので、ライターとしての岩田さんの仕事ぶりを見るのもいいかな、と、買ってみたのがこの本です。
ここで取り上げられているのは、日本の、それこそ「ロック & ポップス」の黎明期にそのシーンを支えて人たちです。日本の場合、その一部は「フォーク」ともカテゴライズされていましたね。1965年にデビューした沢田研二から、1981年にデビューした中森明菜まで、その15人の「ミュージシャン」たちは、30年から40年以上経った現在でも、しっかりその存在が認められている、という人たちばかりです。それぞれ、程度の差こそあれ、岩田さんと何らかの接点のある人で、実際のインタビューを通しての人柄などが語られ、それをまとめて読むことによって、そのような人たちがなぜ今日まで確固たる音楽活動を続けられたか、ということが理解できるような構成になっています。
そして、そこから著者は、もはやそのような「ミュージシャン」は出てくるのがきわめて難しくなってしまった今の音楽シーンのあり方を嘆く、という、なんとも陳腐な結論を導き出すことになるのです。ここで語られているのが、ほとんどが芸能週刊誌的なゴシップにとどまっている、というのが、そんな底の浅いものになってしまった最大の要因なのでしょう。たとえば、竹内まりやの結婚についての詳細な「事実」は、こんなに大々的に語る意味など全くないように感じられますし、ひいてはそれが結婚相手の山下達郎のコーナーで見られるあからさまな「嫌味」につながっているのですから、不快そのものです。おそらく、このあたりが、ラジオで「幼い」と感じられた著者の資質の表れだったのでしょうね。
まあ、中には中島みゆきのように、「知ってためになる」情報もあるにはありましたがね。

Book Artwork © Wayts

おとといのおやぢに会える、か。


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