花のワルサ。.... 佐久間學

(13/10/30-13/11/17)

Blog Version


11月17日

BRITTEN
War Requiem
Anna Netrebko(Sop), Ian Bostridge(Ten)
Thomas Hanpson(Bar)
Antonio Pappano/
Orchestra, Coro e Voci Bianche dell'Accademia Nazionale
di Santa Cecilia
WARNER/6 15448 2


今年の「戦争レクイエム」ラッシュはすごかったですね。新しく録音されたのが1月のマクリーシュ盤、3月のヤンソンス盤、そして6月にはこのパッパーノ盤ですよ。こんなレアな曲が1年に3度も録音されるなんて、まさに前代未聞です。しかも、同じ6月にはラトルとベルリン・フィルのライブがあり、その映像もネットで「有料配信」されていますから、実際には「年間4度」ということになりますね。いや、そもそもこのラッシュは2009年から続いていて、その年と翌年の小澤盤、2010年にはもう一つズヴェーデン盤、そして2011年のノセダ盤、2012年のネルソンスの映像ときて、今年に雪崩れ込んだのでした。
これだけの大編成の曲ですから、マクリーシュ盤を除いてはすべて実際のコンサートを録音したものでした。ですから、録音としてはかなり出来、不出来が現れてきます。特に、声楽陣とオーケストラとのバランスでは、なかなか理想的なものにはお目にかかれません。今回のパッパーノ盤も、そもそも音には期待できない旧EMIによる録音ですから、特に合唱に関してはかなり悲惨な結果に終わっています。この曲から、質感あふれる合唱のサウンドを期待している人には、お勧めできません。特に、児童合唱の扱いがかなりひどくて、ぜひ聴こえてほしいところがことごとく目立たなくなっています。
しかし、そんな録音は覚悟の上で、ぜひとも購入したいと思えるだけの魅力がこのアルバムにはありました。それは、アンナ・ネトレプコがソリストとして参加していたことです。最近集中的にこの曲のいろいろな演奏を聴いてみて痛切に感じたのが、このソプラノ・パートにふさわしい人材の不足です。どれを聴いても、何かスケールが小さくて満足できなかったのですよ。そう、それは、1963年のDECCAによる初録音の時のソプラノ、ヴィシネフスカヤのインパクトがあまりに強すぎるゆえの不満だったのです。しかし、同じロシアのネトレプコであれば、そんな不満も解消してくれるかもしれませんからね。
確かに、彼女はとても素晴らしい声を聴かせてくれました。しかし、やはりヴィシネフスカヤに比べると、依然として小粒であるという印象は免れません。いや、デビュー当時のネトレプコはこんな声ではなかったはずです。間違いなく、もっと強靭な高音を誇っていたという記憶があります。しかし、このCDで聴かれる彼女の声は、その強靭だった音域で何か逃げてしまっているように思えてなりません。とても残念です。
その分、他のソリストはとても素直に聴けました。これも、たくさん聴いてきた中で感じてきたことですが、この男声パートは、あまりテンションが高くない方が、今の時代には受け入れやすいのではないか、という気がしています。そういう点では、このボストリッジとハンプソンというコンビは理想的です。オーウェンの詩を冷静に、しかも美しく伝えるすべが、今ほど求められている時はないのではないでしょうか。そして、それを支えるアンサンブルのパートが、ここでは極上の演奏でそんな思いを心地よく伝えてくれています。このアンサンブルにこれほどの魅力を感じたのは、ほとんど初めてのような気がします。
いや、本体のオーケストラも、金管のバランスなどはひどいものですが、逆にそれがあまりシリアスにならない、どちらかと言えば「明るい」レクイエムを作り上げることにつながっています。これは、パッパーノがパッパーっとした性格だったからなのでしょうか。「Offertorium」の途中、「Sed signifer santus Michael」という部分で、いきなり「俺はジャイアン」と聴こえたような気がするのは、決して偶然ではありません。
これで、もうこの作品とは縁が切れるな、と思っていたら、なんと1962年の初演の模様がCD化されてしまいました。これも近いうちに。

CD Artwork ©Warner Music UK Ltd.

11月15日

嶋護の一枚
The BEST Sounding CD
嶋護著
株式会社ステレオサウンド刊(
SS選書)
ISBN978-4-88073-316-6

時系列として辿れば、嶋護(しまもり)さんの文章を読んで最初に衝撃を与えられたのは、ESOTERIC「指環」のSACDに付いてきた分厚い解説書ででした。「リング、そのデッカサウンド」というエッセイからは、今まで漠然と存在していたものが、鋭い切り口で突然実体をもって目の前に現れたのです。何しろ、その解説書ときたら、嶋さんと同じ名前の渡辺護(こちらは「まもる」)氏の、1965年に上梓された著作(↓)をそのまま、ライトモチーフの譜例の版下まできれいにコピー&ペイストしただけという雑な「楽曲解説」をはじめとして、すでに公になった文章をかき集めただけというお粗末なものでしたから、そこで唯一の描き下ろしであった嶋さんの文章のすごさは、おのずと際立っていたのでした。

その次に出会ったのが、「クラシック名録音106究極ガイド」でした。ここで嶋さんが列挙しているプロデューサーやエンジニアの固有名詞には圧倒され、いつかはそのかなたの人名に親しめるだけのスキルを身に着けたいものだ、と思い知らされたものでした。もう一つ悔しかったのは、いくら嶋さんの言葉によって紡がれたそれらの名録音を実際に体験しようにも、それらのLPはもはや入手することは殆どかなわないものばかりだったことです。
そんなもどかしさを解消してくれるようなものが、実はだいぶ前に出ていたことに気づいたのは、菅野沖彦のXRCDを取り上げた時でした。その時にたまたま書店で目にして比較サンプルとして購入した「菅野レコーディングバイブル」という嶋さんの書籍に同梱されていたSACDこそは、それまでの嶋さんの文章を「音」として体験できるものだったのです。そこで試みられていた、「録音時に回っていたセッションマスターを録音時に使われていたマシンと同じ機種で再生し、『フラット』にDSDにトランスファーする」という手法から生まれたSACDから出てきた音は、衝撃以外の何物でもありませんでした。正直、今までほとんど神格化の対象だった杉本XRCDが、これほど色あせて聴こえたことはありません。
したがって、この、今まで10年にわたって雑誌に連載されてきた文章を集めた新刊では、その時以上の衝撃はすでに約束されていました。なによりも、ここで取り上げられているアイテムのほとんどは今でも流通しているCDSACDですから、その気になれば入手して嶋さんの体験を追うことだって可能なはずです(いや、すでに何枚か保有しているのを知って、本当にうれしくなりました)。
個々のアイテムとその周辺の検証はもちろんとても魅力的なエピソードばかりですが、その底に流れる「グルンドテーマ」も、すぐに見つかります。それは、マスタリングにかける嶋さんの思い。多少煩雑な記述の中からは、マスターを選び、的確なマスタリングを行うという作業がいかに重要なものであるかが思い知らされることでしょう。
すでに、いくつかの固有名詞はボキャブラリーに加わっていたとはいえ、ここで怒涛のように押し寄せる新たなそれは、やはり達すべき頂の高さを喚起されるものばかりです。そんな中で、ピーター・マッグラスという名前は、間違いなく新たに仲間になってくれるはずです。その接点は、彼が使っていた「KFM6」というマイク。

これは、知り合いのKさんというエンジニアの方が、こちらで使っているのを見て初めて知ったマイクです。それで録音されたというマーラーの1番は、本書の2010年の時点では「入手には根気が求められる」CDでしたが、なんと2011年にはリイシューされていたではありませんか。それを知ったからには、注文しないという選択肢はあり得ません。
嶋さんの、ちょっとマニアックな文体には、いつも圧倒されます。フィラデルフィア管弦楽団の弦楽器セクションを、軽く「フィリー・ストリングス」と呼べるボーダーレスな感覚の持ち主は、知る限り「音楽評論家」には皆無です。

Book Artwork © Stereo Sound Publishing, Inc.

11月13日

MAHLER
Das Lied von der Erde
Sarah Connolly(MS)
Toby Spence(Ten)
Yannick Nézet-Séguin/
London Philharmonic Orchestra
LPO/LPO-0073


このオーケストラのレーベル恒例、★探しは、最近どんどん難易度が下がっているのではないでしょうか。こんな、一目見ただけですぐ分かってしまうようなパズルなんて、面白くもなんともありません。ここでは、もちろん折り鶴の羽根の模様に隠されていますよね。いや、こんなのは「隠す」なんてことには全くなっていないミエミエの処理、こんなに空白が多くては誰でもわかってしまいます。もっと模様の中にさりげなく潜めるような工夫をしないことには。

しかし、この「大地の歌」のジャケットで「折り紙」を使ったのは、なぜなのでしょう。この千代紙の模様にしても、それを折って鶴を作る技法にしても、それは日本固有のものなのではないでしょうかねえ。「大地の歌」のテキストの元になったものは中国の漢詩ですが、いくら日本では漢字を使っていると言っても、それは全く日本とは無関係なものなのに。最近では、日本の領土を執拗に監視しているような国と一緒にしてほしくはありません。
そんな「勘違い」は、もしかしたら、今や若手の指揮者の中では飛びぬけた活躍をしているネゼ=セガンが、首席客演指揮者を務めるロンドン・フィルとともに作り上げたこの「大地の歌」から、確かに異国の風情ではあるもののそれは決して「中国」だけに由来したものではないという不思議なテイストを引き出していたから、生まれたものなのかもしれません。たとえば、3曲目の「Von der Jugend」のような、いかにも中国風の五音階のメロディでも、それがしっかりマーラー自身の交響曲第1番あたりに登場するメロディとの近似性が感じられる、といった作り方ですね。正直、この曲があの「さすらう若人の歌」の中の「Ging heut' morgens ubers Feld」と似ているなあ、なんて思えたのは初めてのことでした。
そんな、この作品が「歌曲集」ではなく、しっかりマーラーの「交響曲」の一つとしてのつながりを持っていると思えたのには、ソリストたちの選択も大きな意味を持っていたのではないでしょうか。テノールのトビー・スペンスは、出だしの「Das Trinklied vom Jammer der Erde」から、堂々とした張りのある声を聴かせてくれています。これこそが「交響曲」にふさわしい声だ、と思えるのは、以前ケント盤で歌っていたフォークトのあまりの薄っぺらな歌い方に、負の意味での強烈な印象を持ってしまったからなのでしょう。いまにして思えば、あの甲高い声は、それこそ中国の京劇あたりで使われる発声そのものだったのではないでしょうかね。それはそれで、この作品の「中国由来」の「軽さ」を真っ向から音にしたものとしての存在価値があるのかもしれませんが、今回はまさにその対極、「交響曲」としてのどっしりとした「重さ」を知らしめてくれるものでした。
そして、メゾのサラ・コノリーが、その「重さ」を決定的なものにしてくれました。彼女の声は、まるで囁くようなものから力強いものまで自由自在にコントロールされていて、そのどれにも強烈な存在感が込められています。圧巻は、やはり最後の「Der Abschied」でしょう。イントロで聴こえるオーボエの歌心、彼女の声に絡み付くフルート・ソロなど、完璧に泣かされる要素も満載です。
いや、この二つの楽器に限りません。この楽章の、ソロが歌っていない長大な間奏でのそれぞれの楽器のとても自発性に満ちた演奏はどうでしょう。そんなプレイヤー同士のインタープレイから、ここでは見事なドラマが描き出されています。もちろん、それは指揮者のネゼ=セガンの的確な指示のもとに実現したものに違いありません。ほのかに、今までの交響曲の断片が聴こえてくるのに気づかされるにつけ、この指揮者のマーラーの全体像をとらえる眼の確かさを思わずにはいられません。

CD Artwork © London Philharmonic Orchestra Ltd

11月11日

BRITTEN
War Requiem
S. Gritton(Sop), J. M. Ainsley(Ten), C. Maltman(Bar)
Paul McCreesh/
Wroclaw Philharmonic Choir, Gabrieli Young Singers Scheme
Trebles of the Choir of New College Oxford
Gabrieli Consort & Players
SIGNUM/SIGCD 340


「戦争レクイエム」のレビューは続きます。今回は、2013年の1月から3月にかけて録音されたマクリーシュ盤です。とは言っても、3か月間ずっと録音を続けていたわけではなく、メインは1月5日から9日までのワトフォード・コロシアムでのセッション、それ以外の2月のバーミンガム・タウン・ホールと、3月のセント・ミシェル&オール・エンジェルズ教会でのセッションは、オルガンを使う部分の録音だったのでしょう。
マクリーシュが、ポーランドの音楽祭「ヴラストラヴィア・カンタンス」とのコラボレーションで推進してきた、大編成のオラトリオの録音シリーズも、今回でベルリオーズの「レクイエム」、メンデルスゾーンの「エリア」に続いての第3弾となりました。しかし、今までのようにオーケストラを通常のサイズから拡大して演奏することはなく、ブリテンのスコアに忠実なほぼ「16型」の、ごく普通のオーケストラが使われています。もちろん、この曲ではそれ以外にももう一つのアンサンブルが加わりますから、少しは大人数にはなりますが、まあそれは前2作のような常軌を逸したものではありません。合唱にしても、200人まではいかない、この曲にとってはごく普通のサイズです。
録音も、ベルリオーズでの教会内でのライブというとても難しいものを経験してからというもの、しっかりと音楽的なものを作りたいと思ったのでしょう、メンデルスゾーンではライブ直後に別のところで丁寧にセッション録音を行っていました。そして今回は、実際の演奏自体は2008年に行われていたものを、その時のメンバーを再集結させて改めて「ブリテン・イヤー」に合わせての録音となりました。
そんな、周到な準備と、以前よりは「常識的」な編成ということで、おそらくエンジニアにとっても納得のいく仕事が出来たのでしょう、これはとても素晴らしい音に仕上がっています。マクリーシュの場合、DG時代から一貫してニール・ハッチンソンという人がバランス・エンジニアを務めてきているようですね。この人はかつてはDECCAのエンジニアでした。今回のセッションの写真を見てみると、しっかり、そのDECCAの伝統である「デッカ・ツリー」を使っていることが分かります。

ということは、この曲が最初に作曲者の指揮によって録音された時と全く同じやり方で録音されている、ということですね。

その時の写真がこれです。「ツリー」の3本のマイク(スリー)のほかに、その外側にさらに2本の「アウトリッガス」を付け加えたのは、その時のエンジニア、ケネス・ウィルキンソンでした。今回のマクリーシュのセッションでも、指揮者の頭上の「ツリー」の脇に、「アウトリッガス」のかたわれを見つけることが出来ますね。ブリテン自身のセッションは1963年の1月3日から10日まで、それから正確に半世紀後に、全く同じマイクアレンジで録音が行われたというのは、何かの因縁なのでしょうか。
そんな素晴らしい録音にも助けられて、今回の、特に合唱は、時として言葉を失うほどの美しさを聴かせてくれています。正直、今までDECCAの録音で合唱からインパクトを受けたという記憶は殆どなかったので、これは新鮮な驚きです。メンバーはおそらく若い人が多いのでしょう、特に女声の無垢な声は心に響きます。さらに、「Sanctus」のように、オーケストラのものすごい音響にも全く負けずにそのままで合唱が聴こえてくるのも驚異的です。この前のヤンソンスの時には、この部分で明らかにフェーダーで合唱のレベルを上げていましたからね。
これで、ソプラノ・ソロにもう少し力があったなら、間違いなく何度も繰り返し聴きたいアルバムになっていたことでしょう。もちろん、ノーマルCD以上のスペックで聴ければ、それに越したことはありません。

CD Artwork © Signum Records

11月9日

PENDERECKI
Piano Concerto"Resurrection"
Florian Uhlig(Pf)
Lukasz Borowics/
Polish Radio Symphony Orchestra
HÄNSSLER/CD 98.018


2002年に作られ、2007年に改訂されたペンデレツキのピアノ協奏曲「復活」の、3枚目のCDが出てしまいました。現代作曲家の作品は、まず1枚CDが出ればいい方ですから、これはちょっとすごいことなのではないでしょうか。確かに、この作品はとても「現代曲」とは思えないようなキャッチーなところがありますから、もしかしたら本気でコンサート・ピアニストのレパートリーになったりするかもしれませんね。もはや、作曲家の自己満足だけで成立している「現代音楽」の時代は終わってしまったのでしょう。それよりも、手っ取り早くお客さんを楽しませるものを作ることの喜びに、作曲家は気が付いてしまったのかもしれません。要は、「どこかで聴いたことがある」という感覚が、その「楽しみ」には不可欠なものなのですよ。
このピアノ協奏曲は、そのあたりのツボを見事に押さえています。まるで曲目あてクイズのように次から次へと聴きなれた音楽が登場しますから、それの元ネタを考えるだけでも「楽しい」ひと時を過ごすことが出来ることでしょう。それも、聴きこむにしたがってその元ネタがよりたくさん発見できるようになるのですから、たまりません。実際、最初に聴いたときにはラフマニノフとチャイコフスキーぐらいしか思い浮かばなかったものが、今度の新しいCDを聴くころには、サン・サーンスやベートーヴェンさらにはバルトークまでいたことにしっかり気づくようになっていましたからね。
今回の演奏者は、ピアノがフローリアン・ウーリヒ、オーケストラはウカシュ・ボロヴィツ指揮のポーランド放送交響楽団です。このオーケストラは、この曲の初稿を最初に作曲家自身の指揮で録音した時のオーケストラと似た名前ですが、あちらは「カトヴィツェ国立ポーランド放送交響楽団」、こちらはワルシャワの団体で全くの別物です。もう一つ、改訂稿の初演を録音したのはアントニ・ヴィット指揮のワルシャワ・フィルで、オケと指揮者に関してはすべてポーランド製となっています。ただ、コンサートで初演を行ったのはサヴァリッシュ指揮のフィラデルフィア管弦楽団ですから、そもそもインターナショナルなスタートだったのでしょう。
初稿も改訂稿も、初録音はバリー・ダグラスでした。彼の演奏は、オーケストラともどもひたすらドラマティックに曲を盛り上げるというものでした。特に、改訂稿の録音では、はっきり言ってミエミエのオーバーアクション満載のこの曲を、とことんなりきって演じることによって、あほらしさを強調しているのではないか、と思えるほどでした。指揮者のヴィットにはそういうところもありますからね。
しかし、今回のウーリヒには、かなり真摯に、作曲家を信じてこの曲の良さをきちんと伝えたい、というようなごくまっとうな姿勢が感じられます。最後に2回出てくる、例の「1812年」というか、「サン・サーンスの3番」に酷似した部分などは、そこへ持っていくまでのピアノのソロできっちりと盛り上げる手順を踏んで、それが決して唐突なものではないことをしっかりと知らしめようとしています。おかげで、この大袈裟なクライマックスには、ただのパクリではないもっと深い意味もあるのでは、などと考えたくもなってしまいます。そう思えたのは、この中から、日本人にとっては最も聴くことの多い、場合によっては強制的に歌わされたりするほど有名なあの曲のメロディが浮かんできたからです。
改訂稿では、最後に、かなり前の方に出てきた、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番の第2楽章そっくりの部分が再び登場します。ここを、ウーリヒはとことん繊細に弾いているのですね。それが、その直後に暴力的な楽想で無残に断ち切られる場面とのコントラストになっています。これは一つの可能性。しかし、ダグラスのようにもっとノーテンキに演奏した方が、この作品の「本質」にはより迫れるのではないでしょうか。

CD Artwork © hänssler CLASSIC

11月7日

SCHULHOFF, KRENEK, D'INDY
Concerti Grossi
Maria Prinz(Pf), Karl-Heinz Schütz(Fl)
Christoph Koncz(Vn), Robert Nagy(Vc)
Neville Marriner/
Academy of St Martin in the Fields
CHANDOS/CHAN 10791


この前のブレイクPENTATONE)とほとんど同じ時期に、同じ会場で録音されたマリナーとASMFの新譜です。ブレイクの時は全て世界初録音でしたが、こちらでも1曲は初録音、そんな珍しい曲の録音をほとんど90歳になろうかという指揮者が集中的に行ったのですから、これはまさに奇跡に近いものです。
ここではシュルホフ、クルシェネク、ダンディという、いずれも前世紀の前半に活躍した3人の作曲家の複数の独奏者のための協奏曲が録音されています。全ての曲でピアノとフルートが参加、クルシェネク(これが初録音)にはヴァイオリン、ダンディにはチェロが加わります。その4人の中で最も若いのは、まだ20代のウィーン・フィルのセカンド・ヴァイオリンの首席奏者コンツでしょうが、その次に若いのがやはりウィーン・フィルの首席奏者シュッツでしょう。
インスブルック生まれのカール=ハインツ・シュッツは、フィリップ・ベルノルドやオーレル・ニコレに師事、2つほどのコンクールで1位を取った後、2000年から2004年まではシュトゥットガルト・フィル、2005年から2011年まではウィーン交響楽団の首席奏者を務め、その後にウィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーとなります。同時にウィーン・フィルのメンバーにもなるのですが、まだ「新入団員」扱いのようですね。この辺の事情は複雑なようですが、歌劇場管弦楽団では首席奏者でも、ウィーン・フィルではまだ「仮団員」なのでしょうか。いずれにしても、これでシュルツと、そしてフォーグルマイヤーが抜けてしまった穴はアウアーとこのシュッツによってシュッと埋められたことになりますね(実は、「シュッツ」と聞いて、最初は「シュルツ」だと思ってしまいました。退団直後に亡くなってしまったヴォルフガング・シュルツの息子のマティアス・シュルツも、歌劇場管弦楽団のメンバーだったはずなので、てっきり彼が昇格したのかと)。
そんな、おそらくこれからのウィーン・フィルの「顔」となるはずのシュッツの演奏を、ちょっと初めて聴くにはマニアックすぎるレパートリーで味わってみることにしましょうか。まずは、シュルホフの「Concerto doppio」、イタリア語で「二重協奏曲」です。一応ピアノとフルートがソロ楽器になっていますが、ほとんどフルート協奏曲のように聴こえてしまうほどピアノのパートは目立ちません。そんな中で、シュッツの音はとてものびやかに響きます。決して派手ではありませんが、もっと深いところから味がしみ出してくるような、とても落ち着いた音色、しかし、細かい音符が続く技巧的なところではとてもなめらかに聴かせてくれています。これは、かなりウィーン・フィルとは相性の良いフルートのような気がしますが、どうでしょうか。例えば、前任者のシュルツあたりは、このオーケストラの中ではあまりに個性が強すぎて時には異質に感じられるときもありましたが、シュッツの場合はそんな心配は全くないのではないでしょうか。穏やかな中にも、強い主張を込める、といった感じです。特に、このようなちょっと煮え切らない作風の曲の中でも、しっかり納得のいくような表現を行っているところには、かなりの音楽性を感じます。
クルシェネクの「コンチェルティーノ」の場合は、ヴァイオリン・ソロの比重が高くなっています。シュルホフに輪をかけて意味不明の音の羅列、今までずっと録音されなかったことが納得できる作品ですが、やはりそこからもフルートは確かな「歌」を聴かせてくれています。
ダンディの「協奏曲」は、この中では最も共感が持てるパッションのある作品。すべての楽器が伸びやかに楽しんでいるようです。この作曲家のファースト・ネームは普通はフランス語読みで「ヴァンサン」なのでしょうが、最近ではこの帯のような呼び方もされるのでしょうか。


CD Artwork © Chandos Records Ltd

11月5日

GLASS, RUTTER, FRANÇAIX
Harpsichord Concertos
Christopher D. Lewis(Cem)
John McMurtery(Fl)
Kevin Mallon/
West Side Chamber Orchestra
NAXOS/8.573146


確か草稿では「チェンバロ…ドイツ語、ハープシコード…英語、クラブサン…フランス語/どの言葉でも、どの時代でも、全て同じ楽器です」だったはずの帯コピーが、実際に製品に付けられたものはこんな風になっていました。

もしかしたら、こんなブログで、「チェンバロがどの時代でも全く同じだったなんて、全くのデタラメ。特に20世紀の音楽では、その時代にしかなかった特別な楽器『モダンチェンバロ』のために作られた曲がいくらでもあった」と指摘されていたのを見て直したのかもしれませんね。でも、「ラター」というこの代理店の公式表記に逆らってまで、「ラッター」と表記してくれた点らったーら、褒めてあげてもいいかも。
ここで使われている楽器は、1994年に作られたフレンチ・スタイルのヒストリカルチェンバロのコピーです。本当は、フランセのようにモダンチェンバロしかなかった時代(1959年)に作られた曲では、ヒストリカルで演奏するのはちょっと問題があるのでしょうが、今では「モダンチェンバロ」という、言ってみれば「古楽器」はクセナキスのような特別な作曲家の作品以外ではまず使われることはなくなっているようです。もちろん、ラッター(1979年)やグラス(2002年)の作品の場合は、もはや「モダン」は姿を消していましたから、この楽器で演奏するのは当然のことです。
ラッターの作品のタイトルは「Suite Antique」、なんでも、バッハの「ブランデンブルク協奏曲」を演奏するコンサートのために委嘱されたそうで、バッハに対するオマージュを込めるという意味で、「バッハの時代のスタイル」で作ったものなのだそうです。その「スタイル」というのは、この曲集で用いられている複数の楽器のための協奏曲。そこで、ラッターはフルートとチェンバロをソロ楽器に選びました。ただ、チェンバロはほとんど「通奏低音」のような使われ方で、実質的にはフルート協奏曲といった感じです。しかし、彼がこだわった「バッハ」はそこまで、曲調はいつものラッターの親しみやすい「スタイル」で通されています。
確かに「組曲」という名の通り、気楽な小品が並んだ作品、最初の「前奏曲」は、いきなりフルートがラフマニノフっぽいメロディを奏でて、ラッターの世界へ引きずり込んでくれます。続く「オスティナート」は、とてもリズミカルな曲。3+3+2+2+2というヘミオレのリズムは、あのバーンスタインの名作「ウェストサイド・ストーリー」の中の「アメリカ」と全く同じノリの良い曲調ですから、とてもバッハにはついていけないでしょう。4曲目の「ワルツ」は、完璧なジャズ・ワルツ、フルートはしっかりアドリブ・ソロ(もちろん、記譜してあるのでしょうが)まで披露してくれますよ。ただ、そんなぶっ飛んだ曲の中にチェンバロが加わっているだけで、なぜか上品なたたずまいが生まれてくるのが不思議です。フルートのジョン・マクマーテリーも、節度のある演奏を貫いていますし。
グラスの場合は、きちんと急−緩−急の3つの楽章から成る「協奏曲」です。しかし、そのような対比はあるものの、楽章の中はまるで金太郎飴のように、どこを切っても殆ど同じ音楽だというのが、それこそチェンバロの優雅な響きとあいまって眠気を誘います。
フランセあたりだと、軽妙さの中にも真摯さが漂います。この3曲の中では最も豊かな音楽が感じられるのではないでしょうか。だからこそ、おそらく作曲家はもう少し芯のある音をチェンバロに求めていたのではないか、という思いも募ります。
ここで演奏している「ウェストサイド室内管弦楽団」というのは、10年ほど前に作られたアメリカの新しい団体で、このアルバムが最初のCDとなります。そこでライナーで「Naxosから最初の録音がリリース出来たのが誇りです」と述べているのですが、そんな時代になっていたんですね。知りませんでした。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.

11月3日

BACH
Matthäus-Passion
Werner Güra(Ev), Johannes Weisser(Jes)
Sunhae Im(Sop), Bernarda Fink(Alt)
Topi Lehtipuu(Ten), Konstantin Wolff(Bas)
René Jakobs/
RIAS Kammerchor, Akademie für Alte Musik Berlin
HARMONIA MUNDI/HMC 802156.8(hybrid SACD)


バッハの「マタイ受難曲」では、楽譜に「Chorus primus」と「Chorus secundus」という風に表記されているように、合唱とオーケストラがそれぞれ2つずつ用意されています。ですから、現在コンサートホールで演奏する時には、下手には「第1コーラス」、上手には「第2コーラス」のような並び方をしているはずです。
しかし、今回指揮者としては初めて「マタイ」を録音したヤーコブスは、そのような慣例的な配置には疑問を投げかけています。彼によれば、2つのコーラスはそれぞれ別々の役割を担っていて、第1コーラスは「プリンツィパル」、第2コーラスは「リモート」と位置づけられています。人数も、「プリンツィパル」は「リモート」の倍近く、さらに「リモート」は距離的にもかなり離れた場所で演奏するという設定です。確かに、この曲が演奏されたライプツィヒの聖トマス教会には、オルガンが設置された聖歌隊用のバルコニーが複数ありますから、各々に別々の「コーラス」を配置した可能性はあるでしょう。
それよりも、ヤーコブスの場合は、音楽やテキストのあり方から、この作品がそのような音場を求めているのだ、という結論に達したようですね。そして、それを録音で実現させるために、ヤーコブスは「プリンツィパル」を正面、「リモート」を背面に配置しました。この模様は同梱のDVDによってはっきり見ることが出来ますが、指揮者は前と後ろにそれぞれ譜面台を置いて指揮をしていましたね。SACDの場合は、それをマルチチャンネルによってフロントとリアにリアルに定位出来るのでしょうが、それを2チャンネルでもはっきり感じられるように、そのリアの音自体にしっかり「リモート感」を持たせています(というより、このSACDには、今まであった「MULTI CHANNEL」のロゴがどこを探してもありません)。
この音場設定は、目を見張るほどの効果を上げています。最初と最後の大きな合唱では、「リモート」の「Wen?」といった合いの手や「Ruhe sanfte, sanfte ruh」という掛け合いが、見事に立体的に聴こえてくることによって、そのように割り振ったバッハの意志までもがしっかり伝わってきます。これは、アリア自体を「リモート」に演奏させた場合にも言えることで、ソリストの歌う歌詞自体はすこしモヤモヤとなっていますが、それによってそのアリアの持つ「客観性」のような視点が、きちんと耳から聴き取れることになるのですね。
しかし、そんな「仕掛け」自体は、実はそれほど重要ではなかったことが、この演奏を聴くうちに分かってきます。ヤーコブスの作りだす音楽は、たとえばモーツァルトのオペラでも見られたような、オーケストラや合唱の全てのパートにしっかりと命が吹き込まれているものでした。第1曲目のイントロなどは、次々に入ってくる声部が、それぞれに生き生きと自分の存在を主張してきます。しかし、それが重なった時にも、全体のベクトルは確かに一つの方向を向いているのですね。
ちょっと耳慣れない措置としては、通奏低音でリュートをかなり強調させて音を拾っています。それが伏線だったのかもしれませんが、57番のバスのアリアでは、現行版ではヴィオラ・ダ・ガンバで演奏されるオブリガートが、初期稿でのリュートに置き換えられています(BTでガンバ版が入ってます)。ここでリュートを演奏しているのは日本人の野入志津子さん、素晴らしいアリアを披露しているソプラノのイム・スンヘともども、東洋人が大活躍です。
録音は、2012年の8月から9月に長い時間をかけて、ベルリンのテルデックス・スタジオで行われています。DVDを見ると、編成によって細切れにテイクが設定されているようですが、最後にそれを編集した時には、曲間の隙間がほとんどなくなって、全体がとても緊密な流れになっています。そんな編集スタッフの耳の良さまでもが反映されて、ちょっと今までのものとは格の違う「マタイ」の録音が出来上がりました。

SACD Artwork © harmonia mundi s.a.

11月1日

SCHUMANN
Sinfonie Nr.3




Ferdinand Leitner/
Berliner Philharmoniker
DVOŘÁK
Symphonie Nr.9



Otto Gerdes/
Berliner Philharmoniker
音楽之友社/RGMC-0001
毎月「レコード芸術」という雑誌を購読しています。掲載されている記事はとことん役に立たないものばかりですが、「資料」としては確実に何年かあとには使うことがあるはずですからね。
その11月号を買おうと本屋さんに行ったら、お会計の時に「1850円です」と言われてちょっとびっくりしてしまいました。いつもは確か1350円ぐらいだったはずですから、いつの間にか値上げされていたのかな、と。そんな値段になってしまったら、ちょっと「資料」にしては高すぎるので、もう潮時かな、とかね。しかし、これはあくまでも「特別定価」であったことがすぐにわかりました。11月号ではベルリン・フィルの特集をしているのですが、それに関連して今までCD化されていなかったベルリン・フィルの珍しい録音のCDが「付録」として付いているのですね。しかも、DGの。つまり、「大メーカーのCD」が「たった」500円で付いてきたということになります。ちょっと前なら「これは安い!」と喜ぶところなのでしょうが、今はDGでさえボックスだと1枚200円ぐらいで買えてしまうという時代ですから、これは微妙です。
このCDには、2枚のLPがまるまる入っていました。フェルディナント・ライトナーが指揮をしたシューマンの「ライン」と、オットー・ゲルデス指揮の「新世界」です。なぜか、どちらの指揮者も実際に生で聴いたことがある、というのが懐かしさを誘います。
まず、ライトナーは19741010日に、バイエルン州立歌劇場の引っ越し公演で「フィガロ」を聴きました。なんともおっとりとした、緊張感の全くないモーツァルトで、途中で猛烈に眠くなったことしか覚えていません。「ライン」は1953年の録音で、もちろんモノラルです。しかし、これはそんな「生」の印象とは全く違ったとてもきびきびした演奏にちょっと驚いてしまいました。というか、何か即物的でてきぱきと事を運ぶやり方は、この時代の演奏様式の反映なのでしょう。録音もなかなか立派なもので、これなら一人の指揮者のある時期の記録としての価値は十分にあるものです。
問題はオットー・ゲルデス。夫は下痢です。この人を実際に聴いたのは1973年の1120日の東京都響の特別公演、ご存知のように、この人はDGのプロデューサーだった人、1970年に退社し、この頃は本格的に指揮活動を行っていて、ついに日本にまでやってきたという時期でした。会場が中野サンプラザというとんでもないところだったので、そもそも期待はできませんでしたが、そのあまりにだらしのない指揮に腹を立てて、途中で帰ってきたコンサートでした。
この「新世界」は、1964年の10月に録音されたものです。まだDGの社員でしたから当然プロデューサー業の合間のセッションなのでしょうが、同じ年の3月にはカラヤンとベルリン・フィルで、全く同じ曲の録音を彼自身がプロデュースしているのですね。これはいったいどういうことなのでしょう。一つ考えられるのは、発売された時のレーベルが「DG」ではなく「HELIODOR」という廉価盤専門のレーベルですから、カラヤンのような「正規品」には手が届かないようなユーザー向けの「安物」を作ったのではないか、ということです。
確かに、これはセッション録音にしては、かなり雑な仕上がりになっています。まず、普通は録り直すはずの「ガタン」というようなハデな演奏ノイズがそのままになっていますし、オケのアンサンブルが、とてもベルリン・フィルとは思えないユルさなんですね。木管のアインザッツやピッチは合ってないし、弦と管はズレまくっています。
これはまさに「やっつけ仕事」の産物。「今回初めてCD化」と言ってますが、CD化されなかったのにはそれだけの理由があったのですよ。そんなクズを、雑誌の定価に組み込んで強制的に買わせるという商法は、ほとんど犯罪です。この出版社はそこまで堕ちてしまったのでしょうか。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

10月30日

TCHAIKOVSKY, ELLINGTON/STRAYHORN
Nutcracker Suites
Steven Richman/
Harmonie Ensemble/New York
HARMONIA MUNDI/HMU 907493


以前、こちらでグローフェが作ったガーシュインのオリジナル・スコアを演奏していたスティーヴン・リッチマンという人は、そのようなジャズのオリジナル・スコアを発掘して現代に蘇えらせるという仕事に情熱を傾けているのでしょうね。今回は、なんとチャイコフスキーの「くるみ割り人形」を、デューク・エリントンのビッグ・バンドがジャズに編曲して1960年に録音したものを、実際のスコアを使って2010年に録音しています。さらに、同じ曲のチャイコフスキー・バージョン(というか、原曲)を、クラシックのオーケストラをリッチマンが指揮をして録音したものがカップリングされています。これは、同じ指揮者がクラシックとジャズの「くるみ割り人形」を同じアルバムに世界で初めて収録したものなのだそうです。確かに、そんなことをやる指揮者はなかなかいないでしょうね。
ジャズ版では、編曲者としてデューク・エリントンともう一人ビリー・ストレイホーンという名前がクレジットされています。このストレイホーンという人は、エリントン・バンドのテーマ曲である「Take the "A" Train」を作った人で、エリントンの「片腕」というか、ほとんど「影武者」としてバンドのために編曲などを行っていたそうです。
このジャズ版、チャイコフスキーの作品71aとして知られる8曲から成る組曲を、全てジャズに編曲したものです。なぜか全部で9曲になっているのは、オリジナルの「小さな序曲」を、「Overture」と「Entr'acte」として、全く異なる編曲プランで2度使っているからです。真ん中にこの「Entr'acte」を置くことで、組曲として収まりの良い形にしたのでしょう。さらに、「Overture」以外は、原曲とは異なる順番になっています。
タイトルも、ジャズっぽいちょっとひねったものに変わっています。2曲目の「Toot Toot Tootie Toot」は、例のフルート3本のソリで聴かせる「葦笛の踊り」ですが、いきなりクラリネットで冗談のような音列が登場して、驚かせてくれます。オリジナルのハーモニーを逆手にとって、軽妙に迫ります。2曲目の「Peanut Brittle Brigade」というのは、「小さな行進曲」のこと、引用しているのは前半だけで、後半の細かい音符が続くところは使われていません。まさに正調スウィングで、あの秋吉バンドのルー・タバキンのパワフルなテナー・ソロが聴けます。
3曲目の「Sugar Rum Cherry」は、想像通り「金平糖の踊り」でした。チェレスタ・ソロが、とても甘いサックスのアンサンブルで再現されています。フレーズの頭だけを執拗に繰り返すというエンディングがおしゃれ。
Entr'acte」を挟んで、6曲目の「The Volga Vouty」は、「トレパーク」ですね。忙しいロシアの踊りが、軽妙なスウィングに変わります。7曲目の「Chinoiserie」は、そのまんま「中国の踊り」、これは、意識的に中国風のコードを取り入れたかなり高度なアレンジが光ります。エンディングがとんでもない音で終わっているのも、そういう流れだったのでしょう。
そして、オリジナルでは最後を飾る「花のワルツ」が、ここでは「Dance of the Floreadores」となって8曲目に来ています。もちろん、3拍子の「ワルツ」ではなく、4拍子になっています。最後の9曲目は「Arabesque Cookie」で、もちろん原曲は「アラビアの踊り」です。「アラビア」というよりはちょっと悩ましい「ラテン」、あの「タブー」みたいなテイストで迫ります。途中で出てくるソプラノ・サックスとバス・クラリネットの不思議なポリコード感がたまりません。
と、単にクラシックをそのままアレンジしたのではない、とても手の込んだアレンジには脱帽です。ところが、一緒に入っている原曲が、寄せ集めのメンバーによるかなり少ない人数によるもので、聴いていてとてもつまらないもの、はっきり言ってジャズ版には到底及ばないレベルの低さでした。「花のワルツ」のハープのカデンツァが、後半でかなり手を加えられているのには、一体どういう意味があるのでしょう。

CD Artwork © harmonia mundi usa

おとといのおやぢに会える、か。


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