スト、起こす気?.... 佐久間學

(11/5/9-11/5/27)

Blog Version


5月27日

BEETHOVEN
Symphonies nos 3 & 4
Herbert von Karajan/
Berliner Philharmoniker
DG/UCGG-9012(single layer SACD)


カラヤンの指揮するベートーヴェンなどというベタなアイテムは、ここでは今までに「田園」があっただけです。でも、それはあくまでもゴールウェイの演奏を聴きたいがためのものでしたから、カラヤンなんかどうでもよかったのでしたし。
とか言ってマニアを気取っていますが、音楽を聴き始めたころはなにしろレコードといったらカラヤンという評判でしたから、1962年に録音されたDGでの最初のベートーヴェンの交響曲全集を持っていました。でも、再生装置はかなりの安物でしたから、出てきた音は、それなりの勢いはあるものの、なにか薄っぺらに感じられたものです。
今回、日本のユニバーサルの注目企画、シングル・レイヤーSACDのシリーズとして、その全集の中から「3番」と「4番」という、ハイブリッドSACDではあり得ないようなカップリングのアルバムが登場しました。なんせ、トータルの演奏時間は8137秒ですから、普通のCDの限界をはるかに超えています。これだけでもお買い得感は満載ですね。
聴こえてきた音は、すごすぎました。昔聴いていた安っぽいオーディオ環境を差し引いても、当時のDGの録音技術は、ここまですごいものだったとは。弦楽器の音はあくまで伸びやか、そしてその艶やかなこと。まるで熟した果実のようなみずみずしさがありました。フォルテシモではまるでシャワーのように、音の粒が部屋中に飛び散っています。そして、ピアニシモになると、これはもうSACDでなければ絶対に味わえない、絶妙の肌触りです。コントラバスのエネルギーもものすごいものですね。
さらに、木管楽器がそんな分厚い弦楽器に決して埋もれることなく、しっかりと存在感を主張しているのも、驚異的です。フルートはおそらくツェラーでしょうが、彼の音はまさに立体的に、まるで手を伸ばせば届いてしまうほどのきっちりとした音像を届けてくれています。普通はまず隠れて聴こえて来ない低音も、しっかりと存在が確認できるという、恐るべき精度です。
そんな、とてつもない情報量を持った再生音ですから、LPでは気づかないほどの編集の時のテープのつなぎ目なども、いとも簡単に分かってしまいます。「3番」の第2楽章でオーボエ・ソロがテーマを吹きだす直前などは、どんな人でもテープが貼り合わされていることに気づくことでしょう。この編集を行ったギュンター・ヘルマンスは、まさか半世紀後にこれほどの解像度を持ったアマチュア用の再生ツールが出てくることなどは、予想もしていなかったことでしょうね。
ところが、「4番」になると、なんだか音がずいぶんおとなしくなってしまいましたよ。弦の艶やかさが全くなくなってしまったのです。木管にしてもなんだか一歩後ろに下がってしまい、音像も平板になっています。同じツェラーなのでしょうが、フルートは明らかに芯のない音に変わっています。これは一体どうしたことか、と聴き続けていると、3楽章に入ったとたん、そこにはさっきの「3番」での音が戻っていたのです。つまり、この曲の前半と後半では、全く別の音で録音されているのですね。
そのわけは、すぐ分かりました。このジャケットには、録音された日は「196211月」としか記載されていないのですが、詳細なディスコグラフィーのデータを見ると、「3番」は「1962111115日」、「4番」は「1962年3月14日、11月9日」に録音が行われていたことが分かります。つまり、「4番」の場合は、セッションが半年の間を空けて2回あったのですね。おそらく、前半は3月、後半は11月に録音されたのでしょう。その間には、当然マイクの場所も変わるでしょうしね。
こんなことは、SACDだから分かるのでしょう。いっそ、残りも同じスペックで出してもらって、聴き比べてみたいものです。2チャンネルステレオだったら109分まで収録できるのがSACDですから、あと3枚で全集が完成してしまいますし。

SACD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

5月25日

Kuniko Plays Reich
加藤訓子(Per)
LINN/CKD 385(hybrid SACD)

愛知県豊橋市生まれ、桐朋学園を卒業後ロッテルダム音楽院でも学び、現在は世界中で活躍されている打楽器奏者、加藤訓子さんが、「1人で」ライヒの作品に挑戦したアルバムです。彼女とライヒとのつながりは、10年ほど前、ベルギーでICTUSというアンサンブルに参加していた頃からのものだそうで、今回のアルバムもライヒ自身からの多くのサジェスチョンに助けられて完成したということです。
ブックレットでは、マリンバを演奏する彼女のタンクトップ姿を見ることが出来ますが、マレットを振り上げたその腕は筋肉隆々、なんともマッチョな印象を与えられるものでした。ライヒが彼女に初めて会った時の印象が「パワフル!」だったそうですが、確かに頷けます。
最初の曲は、1987年にパット・メセニーによって初演された、「エレクトリック・カウンターポイント」です。1982年の「ヴァーモント・カウンターポイント」(これも、今回のアルバムに収録されています)に始まった、特定の楽器を想定しての「カウンターポイント(対位法)」シリーズの第3作目で、本来はエレクトリック・ギターのために作られたものです。これを加藤さんは、スティールパンとビブラフォンとマリンバで演奏しています。「スティールパン」というのは大泥棒ではなく(それは「怪盗ルパン」)、「スティール・ドラム」とも呼ばれるトリニダード・トバゴ出身の民族楽器のことです。そもそもは、要らなくなったドラム缶を切ったものに凹凸をつけ、叩く場所によって異なる音程を出すようにしたプリミティブな楽器でしたが、現在では最初から大きな鍋(パン)のような形に成形された、様々の大きさのものが作られていて、民族音楽に限らず、このような「現代音楽」のシーンでも使われるようになっています。
3つの部分から成るこの曲では、最初の部分でこのスティールパンがソリスティックに扱われています。ラテン楽器特有のおおらかな明るさが、果たしてライヒのストイックな音楽の中で浮いてはこないのかという危惧は、実際に演奏を聴くと杞憂に終わりました。そんなキャラクターが、逆に、ともすれば無表情になりがちなライヒの作品に、「表情」を与えているのですね。したがって、第2部ではビブラフォン、第3部ではマリンバと「普通の」鍵盤打楽器がイニシアティブをとるようになると、なんだか物足りない気持ちになってしまうかも知れません。
次の曲は、「シックス・マリンバ・カウンターポイント」。これも、元々は「シックス・ピアノズ」というタイトルの6台のピアノのための1973年の作品を、1986年に6台のマリンバで演奏するように改訂した「シックス・マリンバ」を、今回のレコーディングのためにソロ・マリンバと、残りのパートのマリンバが録音されているテープ(実際は、デジタル・メディアでしょうが)で演奏するために、加藤さん自身が編曲したバージョンです。ライヒ自身が、このバージョンに対して「カウンターポイント」シリーズへの仲間として命名してくれたそうです。オリジナルには見られない非常に豊かな「表情」が加わっているのは、全て1人で演奏しているからでしょうか。
そして、最後は1982年に作られた元祖「カウンターポイント」、フルート、ピッコロ、アルトフルートのための「ヴァーモント・カウンターポイント」を、ビブラフォンで演奏したバージョンです。元々の3つの楽器は、同じフルート属でも全くキャラクターが異なっています。そのあたりをビブラフォンに置き換えた時の配慮が、結果的にやはり豊かな表情を産んでいるのが聴きものでしょう。
192kHz/24bitというハイレゾで録音されていますが、この前のパニアグアのアナログほどのすごさが感じられないのは、スタジオでの多重録音のせいなのでしょうか。人工的なリバーブでは得られない自然な空気感があったなら、より暖かい肌触りを感じられたことでしょう。

SACD Artwork © Linn Records

5月23日

La Spagna
A Tune through Three Centuries
Gregorio Paniagua/
Atrivm Mvsicae de Madrid
BIS/SACD-1963(hybrid SACD)


「パニアグア」というのは、営みの衰えを隠すクスリ(それは「バイアグラ」)ではなく、ちょっと前の「古楽」シーンではかなり有名だった人の名前です。もちろん、彼は今まで誰も聴いたことのないような古い時代の曲の楽譜(というか、場合によってはタブラチュア)を探し出してきて、それを実際に「音」にして演奏するという、学術的な意味での「古楽」のリーダー的な存在ではありました。もっとも、それこそ「ギリシャ時代の音楽」などいったいどんなものだったのかなんてことは誰も知らないわけですから、もう「やったもん勝ち」とばかりに、ほとんど「でっち上げ」と変わらないことを堂々とやっていた、と言えなくもありませんが。ただ、その結果、聴いていて楽しいものが出来上がったのであれば、誰もそんなことをいちいち突っ込んだりはしないものです。物珍しさも手伝って、彼のアルバムはよく売れたはずです。
さらに、もう一つの面で、彼のアルバムは注目されました。それは、あまたのオーディオ・ファンをうならせるほど、録音が素晴らしかったのです。さる高名なオーディオ評論家(物故者)が絶賛したことによって、これらのアルバム(まだLPの時代です)はオーディオ・チェックになくてはならないアイテムとなったのです。有名なものは、HARMONIA MUNDIからりリースされた、先ほどの「ギリシャ音楽」などの一連のアルバムです。これらは最近になって、「XRCD」としてリイシューされましたから、その音のすごさを実際に体験された方もいらっしゃることでしょう。
実は、パニアグアはHMだけではなく、BISでもアルバムを作っていました。それが、今回新装なったこのSACDです。1980年に、BISの総裁フォン・バールが自らプロデュースと録音を手がけたもので、2枚組のLPでした。これも、オーディオ的には非常に高い評価を受けたものです。程なくしてCD化もされましたが、とても2枚分は収まらないので、8曲はカットされ、7140秒という当時のスタンダードな収録時間でのCD化でした。
そして、今回のSACD化です。ハイブリッド盤だけを考えると気づかないことですが、SACDレイヤーの収録時間は、CDレイヤーよりはるかに長くなっています。しかも、2チャンネルのステレオ信号だけでマルチチャンネルの信号が入っていなければ、それはさらに長くなります。ですから、今回は1枚のSACDLP2枚分、8722秒が、まるまる収まってしまったのです。さらに、CDレイヤーも、技術の進歩の賜物でしょうか、たった1曲カットしただけの、なんと8226秒という長時間収録が可能になっていたのですね。これって、もしかしたら世界記録?
このアルバムは、「ラ・スパーニャ」という古くから伝わる旋律を素材にした曲を、3世紀のスパンで探し出して並べたものです。有名無名の作曲家の作品、いや、中には「作曲者不詳」のものだってあります。レスピーギが作った「リュートのための古代舞曲とアリア」の中に出てくる「シチリアーナ」という有名な曲も、これと同じ流れをくむものなのでしょう。トラックにして48、それらが様々な「古楽器」によるアンサンブルによって演奏されています。もちろん、それはパニアグアならではの派手なレアリゼーションで、とてもいきいきしたものに仕上がっています。特に打楽器の、ほとんど切れかかったグルーヴが素晴らしいですね。一番気に入ったのは、最後の最後、CDレイヤーからはカットされた「Spaniol Kochesberger」という曲です。銅鑼やグロッケン、さらにはハーディー・ガーディーまで動員しての「中国風」スパニオル(意味不明)には、世間の憂さを忘れさせてくれるたくましさがありました。
録音は文句なし、アナログが最後に到達したものすごい音です。それは、到底CDのスペックには収まりきらないことは、同じトラックをSACDレイヤーとCDレイヤーとで比較してみれば、一目瞭然です。

SACD Artwork © BIS Records AB

5月21日

KEISER
Markus-Passion
Bernhard Hirtreiter(Ev)
Hartmut Elbert(Jes)
Christian Brembeck/
Parthenia Vocal, Parthenia Baroque
CHRISTOPHORUS/CHR 77323


ご存じのように、バッハが1731年に作ったとされる「マルコ受難曲BWV247」の楽譜は現在ではまること(丸ごと)失われてしまっていて、そのテキストしか残ってはいません。ただ、アリアなどは他の教会カンタータから流用されたものであることは分かっているので、今ではなんとかそれらしいものに修復されて実際に聴くことは出来るようになっています。しかし、レシタティーヴォは全くのオリジナルのはずですから、それを「修復」するためには、次のいずれかの方法に頼る必要があります。
  1. 無いものはどうしようもないので、そのままテキスト(つまり、聖書の福音書)を朗読する(シュライアー盤ヴィレンス盤)。
  2. 「バッハならこうするだろう」と想像して、自分で作る、というか、でっちあげる(コープマン盤)。
  3. 同じ時代に作られた他の「マルコ受難曲」から流用する。

サイモン・ヘイズという人がとったのが、「3.」の選択肢でした。そこで彼が「流用した」とされるのが、このラインハルト・カイザーが作った「マルコ」なのです。
カイザーという人は1674年生まれ、11歳になった1685年(バッハの生年!)にライプツィヒの聖トマス教会付属学校に入学します。後に彼はオペラ作曲家として100曲以上のオペラを作り、ハンブルクのオペラハウスの指揮者を長年にわたって務めることになるのですが、晩年はハンブルク大聖堂のカントールとして、もっぱら宗教音楽を作り続けたということです。「マルコ」は1717年頃に作られました。
この曲に1993年に録音されたものがあるということで網を張っていたら、つい最近リイシューになったので、さっそく入手してみました。期せずして「ヘイズ版」の録音(Roy Goodman/EU Baroque Orchestra)も再発されましたし。
BRILLIANT/94146
そんな、単なる「元ネタ」探しだけのために入手したCDでしたが、これがとても素晴らしい曲だったのには、正直驚いてしまいました。全体は2部に分かれていて、バッハまでの時代によく作られた「オラトリオ風受難曲」という様式にのっとったものなのですが、演奏時間は1時間、2時間や3時間は平気でかかってしまうバッハの受難曲に比べればずいぶんコンパクトな仕上がりです。その秘密は、アリアのコンパクトさ、最も長いものでも3分しかかかりませんから、特にアリアだといって身構えて聴く必要はなく、全体の流れの中でさりげなく味わえる、という趣です。
何よりも特徴的なのは、曲全体を覆っているイタリア的な明るさです。冒頭の合唱からして、軽やかなヴァイオリンに乗ったいとも開放的なテイストが印象的、重苦しさとは無縁な世界が広がっています。コラールも、かっちりと歌い上げるのではなく、細かい音符を使ったオブリガートの上に軽く合唱が乗っているというある意味スマートな扱いですし、極め付きはアリアのキャッチーさです。ペテロの否認のあとに歌われるテノールのアリアが、その代表、ペテロの切ない気持ちをストレートに、言い換えれば「ロマンティック」に歌い上げています。この1曲を聴くだけでも、この作品に出会えて良かった、と思えるほどのアリアです。作られたのはバッハより前(バッハがこの受難曲を実際にライプツィヒで演奏したことは確実なのだそうです)なのに、音楽的にははるかに「新しく」聴こえるのはなぜでしょう。
肝心の聞き比べの結果ですが、そもそも、この曲はバッハが目指したものとはかなりの隔たり(良い意味で)がありますから、そのまま「流用」することはできなかったのでしょう。確かにエヴァンゲリストのレシタティーヴォは全く同じものでしたが、群衆の叫びを合唱で表現しているところは大半は別物です。「バラバ」のくだりで「十字架にかけろ!」と叫んで間髪を入れずコラールを歌い出すというような軽いフットワーク(ある意味オペラティックな扱い)は、明らかにバッハとは無縁の世界です。

CD Artwork © MusiContact GmbH

5月19日

貧困社会から生まれた”奇跡の指揮者”
グスターヴォ・ドゥダメルとベネズエラの挑戦
山田真一著
ヤマハミュージックメディア刊
ISBN978-4-636-86424-3

毎年元旦に行われるウィーン・フィルの「ニューイヤー・コンサート」は、その映像が世界中に生中継され、もちろん日本でもリアルタイムで見ることができるという、まさにクラシック界を代表する大イベントですね。そこに登場する指揮者は、したがって世界中からクラシック・ファンに限らず注目を浴びることになります。小澤征爾が指揮をした時などは、ほとんどパニック状態、CDは空前の売り上げを記録しましたね。
ウィーン・フィルのライバル、ベルリン・フィルも、負けじとその前日の大晦日には「ジルヴェスター・コンサート」で盛り上がります。こちらは最近は生中継というわけにはいかないようで、「ニューイヤー」に比べたらやや地味な露出ですが、やはり全世界から注目されていることに変わりはありません。ただ、指揮者に関しては、毎年ラトルに決まっているような感じだったので新鮮味はないな、と思っていたら、なんと今回指揮台に登ったのはグスターヴォ・ドゥダメルだったではありませんか。これは、毎年ベルリン・フィルの芸術監督の役目だったはず、確かに彼はイエテボリとLAという2つのオケのシェフというポストは獲得していましたが、さらにベルリン・フィルの次期芸術監督か、と思わせられるほどのこの扱いには、ちょっと驚いてしまいました。
この本では、今やベルリン・フィルからもそれほどの格別な待遇で迎えられるようになってしまったドゥダメルについて、ほとんど彼の「追っかけ」と化している著者によって、プロの指揮者としてのデビューから今日までの彼の動向が、事細かに語られています。その中で、実際に彼のリハーサルなどにも立ち会っているという著者のドゥダメルの評価は、うなずかされることばかりです。特に、彼には、海千山千のオーケストラのプレーヤーを納得させるだけのオーラが、確かに存在していることを知ることによって、決して、ただのアイドルではない、間違いなく大指揮者に成りうるだけの才能を持ち合わせていることを確認です。
それにしても、彼を産んだベネズエラという国と、そこでおこなわれている「システマ」という音楽教育システムに関する著者の指摘には、考えさせられることだらけです。そもそも、最初にドゥダメルに出会ったCDに掲載されていたコメントによって、この教育システムはあくまですさんだ子供たちを救うための更正プログラムであって、プロの音楽家を育てるものではない、という印象を植え付けられてしまっていたものですから、そこから「シモン・ボリバル」のような素晴らしいオーケストラや、ドゥダメルのような指揮者が出てきたのが、不思議でしょうがなかったのですよ。著者は、その件について「誤解や曲解」だと言い切っています。そして、このシステムの真の姿、音楽家を目指す子供たちが、小さい頃からしっかりしたレッスンを受け、その結果が「シモン・ボリバル」なのだ、と熱く語っています。ある意味、この部分が、この著書で最も重要な訴えなのではなかったのでしょうか。なにしろ、彼らが来日した時の記者会見では、マスコミ関係者は一様にそんな「誤解」をもっていたそうですからね。「たいやきくん」とのつながりとかね(それは「シモン・マサト」)。
後半では、ドゥダメルのことからは離れて、もっぱらこのシステムの別の成果が語られています。例えば、史上最年少でベルリン・フィルへの入団を果たしたコントラバス奏者エディクソン・ルイースのことなども、そのような「真の姿」を知ったからこそ、納得が出来るものとなるのです。それにしても、世界的な音楽家を産み出すのと同時に、しっかり音楽を通しての「更正」活動も行っているというのですから、このシステムの裾野の広さには、驚かされることばかりです。

Book Artwork © Yamaha Music Media Corporation

5月17日

A Song without Words
The Legacy of Paul Taffanel
Kenneth Smith(Fl)
Paul Rhodes(Pf)
DIVINE ART/dda 21371


この前ランパルの「フルートとハープのための協奏曲」を聴いていたら、無性にケネス・スミスがシノポリをバックに同じ曲を演奏しているあの爽やかなCDを聴きたくなりました。しかし、いくら探してみても見つかりません。もしかして持っていなかったのかも。いや、このCD昔のリストでも紹介していますから、そんなはずはありません。買ってなかったものを取り上げるなんて、いまだかつてなかったことですからね。きっと誰かに貸して、それが返ってこないだけのことなのでしょう。
そのモーツァルトでももちろん共演していたフィルハーモニア管弦楽団の首席フルート奏者を30年近く務めていたスミスですが、このたびついに定年を迎えたようで、サイトを見てみるともはやこのオーケストラのメンバー表に彼の名前はありません。ゴールウェイが在籍していた頃のベルリン・フィルのように、フルーティストの魅力だけでどんなものでも聴きたくなるほどの気持ちにさせられたオーケストラは、これでなくなってしまいました。
それほどまでに、ほとんど無条件で酔いしれることのできるスミスの演奏は、ソロアルバムでも聴くことは出来ます。ただ、最近DIVINE ARTから出ていたものは、かなり以前に録音されたものがほとんどだったので、ちょっと物足りないところがあったのですが、そこに、なんと2008年から2009年にかけて録音されたアルバムが登場しました。しかも、3枚組で。これは、なににも代えがたい贈り物です。
その、総勢21人の作曲家によるフルート独奏曲が集められた、トータルで4時間近くにもなろうという膨大なアンソロジーは、サブタイトルに「ポール・タファネルの遺産」とあるように、この偉大な作曲家/フルーティスト/教育者が、自らのリサイタルで取り上げた作品や、彼のために委嘱された作品などのオンパレードです(ちなみに、メインタイトルはタファネルの編曲によるメンデルスゾーンの「無言歌」のことです)。そこには、かなりの数が、これが初めて録音されたものであるというコメントはあるものの、それはどの曲がそうなのかといったような些細なことまでは踏み込まない慎ましさを持ったものでした。
聴き慣れた曲、例えばライネッケの「ウンディーヌ」やフォーレの「ファンタジー」、あるいはドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」などは、いかにもスミスらしい節度にあふれた、それでいて他のフルーティストからは味わえない「隠し味」を秘めたものでした。何よりも、その澄みきった音色は、とことん魅力的です。
そして、アルバムの大半を占める全く初体験の作品との出会いです。クレマンス・ド・グランヴァルとかシャルル・ルフェーブルとか、そもそも名前すら聴いたこともない作曲家の作品は、まさにこの時代のこの分野に、まだまだ知らない名作の沃野が広がっていることを教えてくれています。「カルメン幻想曲」1曲だけで有名になってしまい、他の作品は全く顧みられることのないフランソワ・ボルヌにも、こんなチャーミングな曲があったなんて。ヴァレーズの「デンシティ21.5」を献呈されたことでのみ知られているフルーティストのジョルジュ・バレールは、実は作曲家でもあったんですね。
そんな、すべての作品が慈しみをもって味わえたのは、間違いなくここでスミスが演奏してくれたおかげでしょう。彼が曲に込めた愛情がそのまま聴き手に伝わるという卓越した音楽性を備えていたからこそ、一歩間違えばフルート仲間にしか通用しない退屈なリサイタル・ピースとしか受け取られかねない(誰とは言いませんが、つい最近そんなCDを聴いたばかりです)これらの曲たちが、確かな「音楽」としての豊穣を見せてくれたのです。
写真を見ると、スミスは相棒のピアニスト、ポール・ローズともども、すっかり「おじいさん」になってしまいましたが、まだまだその味わいは衰えてはいません。

CD Artwork © Divine Art Record Company


5月15日

MOZART
Concerto pour Flûte & Harpe, Concerto pour Clarinette
Jean-Pierre Rampal(Fl)
Lily Laskine(Hp)
Jacques Lancelot(Cl)
Jean-François Paillard/
Orchestre de Chambre Jean-François Paillard
ESOTERIC/ESSW-90052(hybrid SACD)


レーベルの枠を超えて、素晴らしいSACDを提供し続けているエソテリックが、ついにERATOの音源に挑戦してくれました。1953年にミシェル・ガルサンをプロデューサーに迎えて創設され、LP時代にはマニアックなレパートリーと優秀な録音でひときわ輝いていたこの由緒あるレーベルが、マスターテープそのものの音で味わえることの意義は、計り知れないほど大きなものです。なんと言っても、レーベル自体は、後にRCAWARNERとたらいまわしにされた末に、現在は消滅してしまっているのですからね。
今回、世界で初めてSACD化されたERATOのアルバムは、ランパル、ラスキーヌ、ランスロという往年の名演奏家によるモーツァルトの協奏曲集です。録音されたのは1963年ですが、実は、これと全く同じ曲目で、同じ演奏家による録音というものが、1958年にもすでにステレオで行われていました。そして、なぜかそのLPのライナーノーツのコピーがここには同梱されています。確かに、この企画には今までもオリジナルのジャケットのコピーが添付されてはいましたが、こんな風に「旧録音」のものが付いてくるというのは初めてのことなのではないでしょうか。ちょっと意味が分かりません。しかも、これはカセットテープの品番が入っていたり、ロゴマークやオケの名前が新しかったりという、1970年代のリイシュー盤のジャケット、ますます意味不明です。
実は、たまたま「フルートとハープ」だけは別のカップリングのLPが手元にあったので聴いてみたのですが(演奏者が、「ジャン・マリー・ルクレール室内管弦楽団」と正しく表記されています)、それはそんなステレオの黎明期のものとは思えないほどの完成された録音でした。しかし、演奏家やエンジニアにたった5年後にもかかわらず再録音しようと思わせたのは、やはりその頃のまさに日進月歩の録音技術の進歩だったのでしょう。確かにこの「新録音」では、独奏楽器も、そしてオーケストラの中の楽器も、それぞれがくっきりと浮かび上がって聴こえてくるようになっています。ランパルのフルートも、すでに70歳を超えていたラスキーヌのハープも、旧録音とは全く違った生々しさで、迫ってきているのです。もっとも、演奏自体は、旧録音の若々しさの方がより好ましく感じられますが。ほんと、これを聴き比べると、たった5年でランパルの芸風はガラリと変わってしまっていることにも気づかされます。
ジャック・ランスロがソロを吹いたクラリネット協奏曲は、実は今回初めて聴きました。この演奏には、これまでに、例えば今回新たにライナーを寄稿している諸石幸生さんのように「紛れもないフランスの色、センス、エスプリ」が堪能できるといったような賛辞が与えられていたものです。しかし、聴こえてきたクラリネットの音には、ちょっと失望させられてしまいました。なんとも薄っぺらな音色なのですね。クラリネットって、もっと深い味わいのある楽器ではなかったでしょうか。しかも、この演奏にはいたるところでビブラートがかかっています。いや、最初はマスターテープの回転ムラなのでは、と思ってしまったぐらい、それは不愉快なビブラートでした。しかし、いやしくもあの杉本さんがマスタリングを行っているのですから、そんな音源を使うわけはありません。それは、よく聴いてみると、いわゆる「縮緬ビブラート」、略して「チリビブ」という、声楽やフルートの世界では忌み嫌われている奏法なのですね。女性にも嫌われますし(それは「チビデブ」)。そんなものを「フランスのエスプリ」などと言われても・・・。
おそらく、LP時代にはプレーヤーの回転ムラであまりよくわからなかった欠点が、SACDによって明らかになってしまった、という、悲しい現実なのかもしれません。「良すぎる音」というのも、ちょっと考えものです。

SACD Artwork © Esoteric Company

5月13日

L'Amour et la Mort
Organ Works by Widor・Saint-Saëns・Bizet・Fauré
Iveta Apkalna(Org)
OEHMS/OC 678(hybrid SACD)


このところ、やたらOEHMSレーベルが続きますが、別にこの代理店とはなんの利害関係もないので、これは単に興味のあるCDがたまたまこのレーベルだったというだけのことです。もちろん、しっかりお金を出して買ってます。なんたってSACDで聴くオルガンは、音が伸びやかで低音もたっぷりとしていますから、つい手が伸びてしまいます。
しかし、同じオルガン物でも、これは前回のバッハとはあらゆる意味で対照的なアルバムです。まずはジャケット。あちらは決まったパターンの地味なデザインでしたが、こちらはもろアーティストを前面に押し出した華やかさです。これは、ラトヴィア出身の美しすぎるオルガニスト、イヴェタ・アプカルナだからこそ出来ること、アルブレヒトの場合はこんな風にアップで迫ってこられたら、ちょっと引いてしまいますね。ちなみに、彼女は日本茶は好きなのでしょうか(それは「イゲタ」・・・地域限定ネタです)。そして、前回のドイツ音楽から、今回は打って変わって色彩的なフランスの作曲家の作品のオンパレード、5割り増しの軽やかさで楽しませてくれることでしょう。
今回登場する楽器は、2004年にエッセンのフィルハーモニーが新築された時に、一緒に作られたかなり大きなオルガンです。3層の客席から成るシューボックスタイプの音の良さそうなホール(音響設計は豊田さんでしょうか)、そのステージ後方にそびえるクーン・オルガンは、なんともモダンなファサードを誇っています。この楽器の最大の特徴は、「Schwellwerk」という、クレッシェンドやディミヌエンドがかけられるオルガンを備えているということでしょう。これは、ストップを増減させて段階的にダイナミックスを変えるのではなく、ファサードを覆っている窓を開閉して、連続的に音量を変えるという機能が付いているオルガンです。
それをめいっぱい使って演奏しているのが、このアルバム中唯一のオリジナルのオルガン作品、有名なヴィドールの「トッカータ」です。それこそ電子オルガンでボリュームを操作しているのではないかと思えるほどの見事なディミヌエンドが聴こえてきた時には、鳥肌が立つほどゾクゾクしてしまいました。
その他の曲は、全て本来はオーケストラのための作品をオルガンに編曲したものです。中でもちょっと驚くのが、ビゼーの「アルルの女」の第1組曲と第2組曲を全曲オルガンで演奏しているという、とてつもないアイディアです。元々、色彩的な管楽器が活躍する曲ですが、それを、このオルガンの豊富なストップを駆使して、見事に原曲に近いもの、場合によっては、原曲よりもさらにカラフルな仕上がりを楽しめるものに仕上がっています。「第1」の「アダージェット」などは、とびきりのピアニシモの美しさが魅力です。この曲に限らず、アプカルナはオルガンから「力」よりは「繊細さ」を導き出そうとしているように思えます。次の「カリヨン」なども、いかにも鄙びた、まるでストリート・オルガンのような音色で和ませられます。
ただ、「第2」になると、表現として、オルガンがオーケストラには及ばないところが見られてきます。「パストラーレ」の冒頭の堂々としたフレーズが、そんな一例、オルガンは真の意味のレガートがとても苦手なことが分かってしまいます。弦楽器や管楽器ではなんなくできる「音を滑らかにつなぐ」という表現は、音の変わり目で別のパイプに替わってしまうオルガンではかなり難しいのでしょう。ですから、フルート・ソロで有名な「メヌエット」も、オリジナルの流れるような旋律線がブツブツ切れてしまって、まるでおもちゃの楽器のように聴こえてしまいます。
でも、そんな不都合もあまり気にならないのは、やはり彼女のたぐいまれな美貌のせいなのでしょう。

SACD Artwork © OehmsClassics Musikproduktion GmbH

5月11日

BACH
Clavier-Übung Part II
Hansjörg Albrecht(Org)
OEHMS/OC 634(hybrid SACD)


このレーベル、代理店が替わって日本語の「帯」が付くようになったのはいいのですが、今回の「クラヴィーア練習曲集第2巻」である「イタリア協奏曲」と「フランス風序曲」をメインとしたアルバムのタイトルを、「オルガンで聴く様々な作品集」などと、オリジナルとは似ても似つかない「邦題」にしてしまったのには、笑えます。いやぁ、それにしても間抜けなタイトルですね。そもそも「様々な作品」などと言われてしまったら、どんな曲が入っているのか全く分かりませんよね。そのアルバムの中身を一言で表すのが「帯」の命、制作者の使命なのに、こんな投げやりな仕事でギャラが稼げるなんて。
アルブレヒトの一連の趣向を凝らしたオルガンアルバム、バッハに関しては今までに「ゴルトベルク変奏曲」「ドイツ・オルガン・ミサ」がリリースされていましたが、これらは前にも述べたようにそれぞれ「クラヴィーア練習曲集」の「第4巻」と「第3巻」として出版されたものです。そして、今回は「第2巻」である協奏曲と序曲、ですから、彼はこれまでこの曲集を逆順に手がけてきたことになります。おそらく、もう少しすれば「第1集」である「パルティータ」も、発表してくれることでしょう。つまり、このアルバムにはその前後のものとの関係がしっかり意味づけされているはずなのに、代理店がでっち上げたタイトルからは、それが全く伝わってこないのですね。困ったものです。
この2つの曲は、「クラヴィーア」、つまり鍵盤楽器のために作られたものですから、オルガンで演奏されてもなんの問題もありません。とりあえず譜面は「手鍵盤」だけですが、そこからバス声部を抜き出してペダルで演奏すれば、そのままオルガン曲になるのですからね。例えば「イタリア協奏曲」の第2楽章などは、まさにペダルによる「バス」、左手の鍵盤による「オスティナート」、そして右手の鍵盤による「ソロ」と、はっきり役割が決まっていますから、チェンバロよりはオルガンの方がより「協奏曲」らしく聴こえるはずです。アルブレヒトは、ソロ・パートにちょっと刺激的なリード管を使って、まるでヴァイオリンか管楽器のような味を出しています。これは、音が持続しているオルガンならではのメリットですね。両端の楽章だって、トゥッティとソロの対比は、鍵盤を変えて即座に別の音色に出来ますから、より立体的な表現が可能になってきます(これは、チェンバロでも可能ですが)。実質的には「組曲」である「序曲」も、適切なストップによって演奏されれば、それぞれの舞曲のキャラクターがより際立って味わえるはずです。ここでも、「サラバンド」と「ブーレ」が続けて演奏されると、それは全く別の楽器なのではないか、という驚きが待っていることでしょう。
これだけでは、今のCD1枚分としては少し足らないので、「様々な作品」の登場です。ここでは大曲、無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番からの「シャコンヌ」が、アルノー・ラントマンのオルガン用編曲によって演奏されています。もともとは海産物(それは「シオコンブ」)ではなく、ソロ・ヴァイオリンのための作品ですが、オーケストラによってすら演奏されるほどの壮大な曲想ですから、これもオルガンにはうってつけです。編曲のせいなのか、アルブレヒトのストップに対するセンスのせいなのかは分かりませんが、ここでのバスを強調したフル・オルガンの迫力にはすさまじいものがあります。これはある意味オーケストラ版を超えた色彩感とダイナミック・レンジをもった、とてつもない演奏です。
そして、これに呼応して、同じ、変奏曲つながりでアルバムの最後には、唯一オリジナルのオルガン曲である「パッサカリアとフーガハ短調」が入っています。これも、「シャコンヌ」と同じコンセプトで演奏されていますから、聴き慣れた「パッサカリア」とは全然違った華麗な仕上がりです。

SACD Artwork © OehmsClassics Musikproduktion GmbH

5月9日

オーケストラ大国アメリカ
山田真一著
集英社刊(集英社新書0589)
ISBN978-4-08-720589-3

先日の大震災の影響で、「地震大国」という言葉があちこちから聞こえてきます。「地震が多い国」という意味なのでしょうが、こういう時に「大国」という言葉を使うのはちょっと変なのではないか、という素朴な疑問がわいてはきませんか?つまり今回取り上げる本のタイトルとなっている「オーケストラ大国」に使われている「大国」とは、微妙に意味が違っているような気がするのですよ。この本は、「ヨーロッパなどに比べて、アメリカという国はクラシック音楽では後進国だと思われているかもしれないが、決してヨーロッパには引けを取らないオーケストラがたくさんある国なのだ」ということを、歴史をさかのぼって詳細に述べているものなのですから、そこで使われている「大国」は、「レベルの高いオーケストラをたくさん抱える、文化的に優れた国」というニュアンスを持っているはずです。間違っても、「オーケストラがあまりに多いので、そこに暮らす住人は騒音によって非常な迷惑を被っている国」というネガティブな意味ではないはずですね。つまり、「大国」という言葉には、「他の国に比べて優れたものを持つ国」という、ポジティブな意味が込められているのではないでしょうか。「軍事大国」などというのも、「軍事」をポジティブなものと考える人たちは実際に存在することを前提とした、理にかなった言い方です。
ですから、「地震大国」と言った場合には、「地震」が、「他の国よりも優れている」国ということになってしまいます。これでは、まるで出来の悪いブラック・ジョークではありませんか。じょーく考えてほしいものです。
そんなことには関係なく、この本ではまず「ニューヨーク・フィルとウィーン・フィルは、同じ年に生まれた」という書き出しで、アメリカのオーケストラには伝統がないという偏見を取り除こうとしています。さらに、シカゴ交響楽団を例にとって、技術的にはヨーロッパのオーケストラを早い段階で追い越していたことも語られます。もちろん、ストコフスキーがフィラデルフィア管弦楽団で行った、楽器の配置の改革が、瞬く間に世界標準の並び方になってしまった事実に言及することも忘れてはいません。それらは、言ってみれば「伝統」に縛られることのなかった新世界がもたらした、一つの「発展」を、まざまざと見せつけるものだったのでしょう。
そして、ここで最も興味深く読めたのが、まさに新興国アメリカならではの録音産業とオーケストラとの関係です。なんと言っても、アメリカにはビクター(つまりRCA、後にはBMG)とコロムビア(つまりCBS、後にはSONY)という、ともにLPレコードや「ステレオ」の時代を牽引していた2つの大きなレーベルがありました。これらのレーベルとアメリカのオーケストラとのコラボレーションに関する記述は、まさにレコード産業の一つの黄金時代を見る思いです。コロムビアにはニューヨーク・フィル、クリーヴランド管、そしてフィラデルフィア管(後にビクターに移籍)、ビクターにはシカゴ響、ボストン響と、当時の名だたるオーケストラは、すべからくこの2大レーベルから膨大な録音ソフトを出し続けていたのですね。
その後、次第にEMIDECCAといったヨーロッパのレーベルもアメリカに進出し、その勢力分布も大きく変わることになるのですが、ここで述べられているのはそこまでです。その後の大レーベルのクラシック、特にオーケストラの録音に対する消極的な姿勢へのシフトは、ここでは決して語られることはありません。もはや、自主レーベル以外には活路を見いだすことは出来なくなってしまったアメリカのオーケストラ(いや、その辺の事情は他の国でも変わりません)、タイトルに「オーケストラ大国」と銘打った以上、著者はそのようなネガティブな姿は、取り上げることは出来なかったのでしょうね。

Book Artwork © Shueisha Inc.

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17