猿の配転。.... 佐久間學

(06/11/2-06/11/25)

Blog Version


11月25日

HANDEL
Giulio Cesare
Dietrich Fischer-Dieskau(Bar), Tatiana Troyanos(Sop)
Julia Hamari(Alt), Peter Schreier(Ten)
Karl Richter/
Münchner Bach-Chor
Münchner Bach-Orchester
DG/00289 477 5647


1969年に録音された「ジューリオ・チェーザレ」が、初めてCD化されてリリースとなりました。4枚組ですが3000円ちょっとと、かなりお求めやすい価格です(天ザル2枚分)。
なんでも昨今は「バロック・オペラ」というものが大流行だとか、その様な隆盛を支えているのは、当時の演奏習慣を現代に蘇らせる地道な努力と、作品の中に潜む普遍的な心情を、時代が変わっても共感を得られるものに置き換えるという柔軟なアイディアなのではないでしょうか。この作品でのその一つの成果が、先日ご紹介したグラインドボーンでのクリスティの演奏でした。そこにはまさに、当時の聴衆を夢中にさせたヒットメーカー、ハンデルの姿が生き生きと投影されていました。
今回のリヒターの演奏は40年近くも前の録音、当時はそのヘンデルのオペラが現在とは全く異なる思想によって支配されていたはずです。それは、言ってみれば学校の音楽室に飾られていた「大作曲家」の肖像画のようなもの、「音楽の母」と呼ばれ、「父」の大バッハとともに揺るぎない権威の象徴として扱われていたヘンデル像を産み出した思想です。そこから導き出される音楽は、いかにその中に生命の息吹が込められていようとも、表現にあたっては決して格調の高さを失わないだけの節度が求められてくるのです。
まず序曲を聴いてみましょう。ゆっくりした部分と速い部分を持つ典型的なフランス風序曲、その最初の部分での付点音符の扱いだけで、その違いが体験できることになります。短い音符をより短くして次の音に引っかけるというのが、現在では誰でもやっていること、そこからは、いかにも粋な軽やかさが生まれます。しかし、リヒターの時代にはリズムは「楽譜通り」に演奏することが当然と考えられていましたから、今聴くと恐ろしく鈍重なものに感じられてしまいます。同じ思想は、ダ・カーポ・アリアでの最初の部分の反復で、自由な装飾を施すことも許しません(というか、そもそもそういう発想がなかったはず)から、歌手のイマジネーションの発露を心ゆくまで味わうという今のオペラハウスでの楽しみは、全く得られないことになってしまいます。
そもそもカストラートが歌っていたチェーザレを、フィッシャー・ディースカウが演じているというあたりに、決定的な時代の壁を感じずにはいられません。何ともくそ真面目なこのバリトンにかかると、第2幕で変装したクレオパトラへの思いを歌う甘いアリア「Se in fiorito ameno prato」が、とことん嘘くさく聞こえるから不思議です。オブリガートのヴァイオリン・ソロも、何とも融通の利かない四角四面の演奏に終始していますし。
クレオパトラも、グラインドボーンでのデ・ニースを知ってしまった今となっては、トロヤノスがいかに第3幕で有名な「Piangerò la sorte mia」を情感たっぷりにしっとりと歌ってくれたところで、その次の「Da tempeste il legno infranto」での浮き立つような軽やかさが全く伝わってこないことに、不満を抱くしかなくなってしまうのです。
その点、セストのシュライアーと、コルネリアのハマリは、そんな時代様式を超えたところで、真の芸術家としての力を示してくれています。第1幕の最後に歌われるこの2人のデュエット「Son nata a lagrimar」は感動的です。グラインドボーンではカットされていた第2幕の最後のセストの力強いアリアも、素晴らしいものでした。
この演奏からは、今の「バロック・オペラ」ブームとは全くかけ離れた世界を感じてしまい、そのあまりの落差に愕然とさせられずにはいられません。同時に、今から40年後にもこのブームがそのままの形で継続しているという保証は何もないということも、痛切に感じられてしまうのです。

11月22日

LOVE
The Beatles
APPLE/381598 2
(ヨーロッパ盤)
APPLE/379808 2
(US盤)
東芝
EMI/TOCP-70200(国内盤)

ビートルズの「新譜」です。もちろん、あの伝説的なロックグループのメンバーのうちの半数はすでに他界していますから、いくら高いお金をかけたとしても新たにセッションを組んでレコーディングを行うなどということは不可能です。これは、そのグループのプロデューサーであったジョージ・マーティン(まだご存命です)と、その息子ジャイルズ・マーティンが、「もし、4人が今集まったらこんな演奏をするんじゃないか」という想定で、マスターテープを再構成して作り上げたものなのです。そもそもは、「シルク・ドゥ・ソレイユ」のショーのサントラとして依頼されたプロジェクトだったものですが、もちろんそんなおいしい話をレコード会社がほおっておくわけはありませんから、こんな形で全世界同時発売という「新譜」が誕生してしまいました。
これは通常のCDですが、同時にサラウンドチャンネルが収録されたDVDオーディオも同梱されたパッケージも発売になっています。普通の感覚ではハイブリッドSACDにすれば良いのでは、と思うのでしょうが、なぜかこのメーカーはCCCD(おぼえてます?)には非常に熱心に取り組んだというのに、SACDについては全く消極的な態度をとり続けているものですから、こんな形にせざるを得なかったのでしょう。
1999年にリリースされたYellow Submarine Songtrackを聴いたときには、デジタル・プロセシングによって修復されたその生々しい音に驚かされたものでした。マスターテープが持っていた以上のクオリティを、この技術では獲得できることを、その時知ったのです。今回もその技術は惜しげもなく使われており、今まで聴き慣れた、ちょっと古めかしい音が、まるで録音されたばかりのようなみずみずしいものに蘇って耳に届きます。小鳥のさえずりの中から聞こえてきたア・カペラの「Because」が、そんなサプライズの始まり、それから7853秒の間、私たちは絶対に40年近く前に録音されたものとは思えないほどの芳醇なビートルズのサウンドを楽しむことになるのです。
続いて「A Hard Day's Night」の頭のコードのあとにいきなり聞こえて来たのが、「Abbey Road」の中で「The End」のイントロとしてリンゴが演奏しているドラムソロです。それがそのまま「Get Back」につながってしまうという、見事な編集、そんな具合にいろいろな曲、場合によってはそのパーツ(トラック)までも自由に入れ替えたものが披露されます。ポールのアコギのソロが、「Blackbird」のイントロだと思って聴いていたら、ヴォーカルが入った時にはいつの間にか「Yesterday」になっていたとか、楽しみは尽きません。圧巻は「Strawberry Fields Forever」、後半に出てくるは出てくるは、色んな曲からの「パーツ」が。「In My Life」に挿入されているジョージ・マーティン自身のピアノソロなどはすぐ分かりますが、これの出所が全部分かった人はかなりのマニアでしょうね。
このプロジェクト、始まったのは5年前で、当時は存命だったジョージ・ハリスンと「シルク」との間のディスカッションが発端だとか。そのせいか、この中にはジョージのヒット曲が網羅されているのが嬉しいところです。中でも、「While My Guitar Gently Weeps」は、ジョージのヴォーカルだけを残して、全く新たに録音された流れるようなストリングスのオケが入るというアレンジになっています。オリジナルは結構タイトなリズムに支配されていたものが、こんな形になると全く別の魅力が感じられます。いや、これこそがジョージが本来作りたかった世界ではなかったかと思えるほど、そのオケに乗った彼の声は心に染みるものです。告白すれば、これを聴いて涙があふれてくるのをこらえることが出来ませんでした。
その様な、いろいろ手を加えられている部分もありますが、殆どオリジナルを忠実なまま、ただ音だけが見違えるように新鮮になったものにこそ、最大の魅力を感じられるのはなぜでしょう。ここで嫌と言うほど知らされることになった「プロ・ツールズ」によるデジタル・プロセシングの威力、これを駆使して、ビートルズの全てのオリジナルアルバムが蘇る日こそが、このプロジェクトの本当の到達点なのではないでしょうか。

11月21日

MAHLER
Symphony No.5
Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.165


例によって、輸入盤でありながらしっかりライナーに日本語も含まれるというノリントンのマーラー・ツィクルスです。ハンバーガーには欠かせません(それは「ピクルス」)。今回の「5番」の目玉は、「半世紀以上も失われていたアダージェットの響きが復活」というのですから、これは何をおいても第4楽章をまず聴いてみなければいけないでしょう。この楽章、演奏時間を見ると8分54秒、普通の演奏ではまず10分前後というのが標準値でしょうし、中にはハイティンクの13分台などというのもありますから、ノリントンの場合はまず思い切りあっさり、淡々と演奏していることが、これだけでも良く分かります。正直、このノンビブラートの弦楽器でコテコテに歌いまくるのは不可能、これは当然の結果でしょう。しかし、実際に聴いてみると、予想したほどの空虚な感じを受けることはなかったのは、正直意外でした。もしかしたら、肝心の盛り上がったところでは結構ビブラートが聞こえてきたのが、その原因だったのかも知れません。やはり、本当に必要なところではビブラートをかけるのが演奏家の生理、さすがのノリントンも、それを止めることは出来なかったのでしょうか。その結果、本当のノンビブラートの部分との格差が強調されて、相対的に相応の充足感を与えられたということなのでしょう。
しかし、そうは言ってみても、やはり今まで聴いてきた「アダージェット」との違いは大きなものがあります。クライマックス以外の殆どの部分で、全ての弦楽器がビブラートを取って全く同じピッチで演奏すると、まるで1本の楽器のように聞こえてきます。それが集まって、あたかも弦楽四重奏のような響きが、ここでは生まれています。それは確かに「ピュア」なものには違いありませんが、弦楽器4本のサウンドを得るためになぜ60人もの弦楽器奏者が必要になってくるのか、疑問には思えてきませんか?大オーケストラのトゥッティの弦楽器が産み出す何とも言えない質感は、実はそれぞれの楽器がほんの僅かずつ異なるピッチで演奏していることから生まれます。それには、ビブラートが果たす役割が不可欠なものになってきます。その様な魅力を知ってしまった私たちは、このアダージェットのほとんどの部分では、演奏家が多大な集中力を払って獲得したはずの「ピュア」な響きも、単なる貧弱なサウンドにしか聞こえないことになってしまいます。なんと報われない努力なのでしょう。
この楽章の最後、サスペンデッド4の和音が長く引き延ばされた後にヴァイオリンが半音下がってヘ長調に解決する瞬間に出現する響きこそは、まさに「ピュア」そのもの、その美しさは感動に値します。しかし、これを得るためだけに強いられる禁欲は、おそらく演奏者にとっても聴衆にとっても、もっと言えばこれを作ったマーラー自身にとっても耐えられないものなのではないでしょうか。あのマーラーがこんなストイックな音楽を作るなんて、到底信じられません。
ビブラートを失った「ピュア」な響きは、純粋であるだけに乱暴に扱われでもしたら簡単に壊れてしまうほどのはかないものなのかも知れません。ですから、それがオーケストラの中に置かれたときには、力強い金管楽器などの間に割って入っていくだけの度胸などは、到底湧いては来ないでしょう。そう、金管やティンパニの炸裂の中にあっても、決してかき消されることなく、輝かしく自己を主張して欲しい弦楽器が、ここでは全く聞こえてこないのですよ。聞こえてくるのは元気の有り余った金管のみ。これではオーケストラではなくブラスバンドを聴いているような思いに駆られてしまいます。
そんな、ほとんどお祭り騒ぎのような喧噪の中を音楽は進んでいきますが、終楽章ではいきなり深刻ぶった控えめな表現で始まるのが意表をつきます。しかし、それはエンディングへ向けての盛り上がりのためだけの、単なる準備に過ぎませんでした。やはり最後はとてもバランスの悪い、しかし賑やかさにかけてはこれ以上のものはないだろうという華々しさで幕を閉じます。終わるやいなやの「ブラヴォー」の大歓声(ライブです)、この瞬間、ノリントンは指揮台の上で半回転ターンをして客席を向いていたに違いありません。

11月18日

BACH
Partita for Unaccompanied Ukulele
John King(Ukulele)
NALU/011998


「ウクレレ」と言えば、「ハワイアン」ですよね。いかにも南国のリゾートっぽいそのダルなカッティングは、「フラダンス」とか「腰ミノ」といった、およそシリアスさからはほど遠い無責任なたたずまいを醸し出すものです。最近聴いた、リコーダーとウクレレのアンサンブルによる「(やる気のない)ダース・ベイダーのテーマ」なども、その「無責任さ」を最初から狙ったものでした。あの勇壮なマーチがいともノーテンキな脱力系で演奏されるとき、私たちはそこにウクレレの持つユーモラスな力を感じずにはいられません。もちろん、「タフア・フアイ」という名曲に乗せて漫談を演じた牧伸二のアイディアは、この楽器のそんなキャラクターを存分に生かしたものであったことは、言うまでもありません。
そんな楽器でバッハを演奏したものがあるということを、2、3のブログで知って、入手したのがこのCDです。タイトルが「無伴奏ウクレレパルティータ」、ブーゲンビレアをバックにしたこのジャケットからは、やはり常夏の島のイメージしか湧いてきません。いったいどんなのどかなバッハが聞こえてくることでしょう。
しかし、1曲目の無伴奏チェロ組曲第1番の「プレリュード」が、まるでハープのような優雅な音で聞こえてきたときには、耳を疑ってしまいました。これが本当に、あのウクレレから出てきた音なのでしょうか。一つ一つの弦の音は、とても澄みきってふくよかです。しかも、それぞれの音に深く豊かな響きが伴っています。音程も、あんな小さな楽器の小さなフレットを扱っているとは思えないほど、正確なものです。ヘタをしたら、本物のチェロを少しいい加減に弾いている演奏などよりは、よほどいい音程かも知れません。そして、そのテクニックの見事なこと。こんな曲を弾くにはかなりの制約があるはずなのに、そんなことは全く感じさせない、まさにヴィルトゥオーゾの音楽が、そこには軽やかに流れていたのです。
ライナーを読んでみると、「ハープのような音」がしている訳が分かりました。なんでも、ここでは「カンパネラ・スタイル」というものが使われているというのです。これは、メロディを弾くときに、隣り合った音を常に別の弦で弾くという奏法、そうすることによって、フレットだけを移動するときのように前の音の響きがなくなってしまうことはなく、双方の音に豊かな響きが残るという、まさにハープのような音が可能になってくるのです。

そうなってくると、例えばトラック6に入っている無伴奏チェロ組曲第4番のブーレのように、最初のテーマで音が5つつながっている場合(楽譜参照)、弦が4本しかないウクレレではこの奏法を使おうとしてもちょっと難しくなってしまうのではないでしょうか。しかし、ご覧下さい。ネットで探したこの演奏家、ジョン・キングの写真を見てみると、彼はなんと「5弦」の楽器を使っていますね。この写真の背景を飾っているのはここで演奏されている「無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番」の自筆稿ですから、このアルバムの曲がこの楽器で演奏されたことは明白です。これで、疑問は解けました。しかし、そもそも最初からこの写真をジャケットに使っていれば、あれこれ思いを巡らさずとも、これほどきちんとバッハを演奏しているのはすぐ分かったことでしょうに。
その「パルティータ」も、素晴らしい演奏です。そもそもこの曲はリュートのために編曲されたバージョン(BWV1006a)があるぐらいですから、ウクレレにも良く馴染みます。後にカンタータ29番の冒頭の華々しいシンフォニアにオルガンによって演奏されることになるプレリュードの細かいパッセージも難なく弾きこなすキングのテクニックには、いささかのほころびもありませんし、有名なガヴォットあたりでは、ウクレレのキャラクターが他のどの楽器よりも見事にマッチしているのではないでしょうか。
この曲は、ウクレレで弾きやすいようにでしょうか、ホ長調のものがニ長調に移調されています。そういえば、ト長調のチェロ組曲第1番もニ長調でしたね。そして、「平均律クラヴィーア曲集」の第1番、ハ長調のプレリュードも、同じくニ長調になっています。ところが、そのキーだと音域的に無理があるのか「ドミソドミ(ここではレファ♯ラレファ♯)」とまっすぐ上へ昇るべき音型が、「ソ」からオクターブ下に折れ曲がってしまっています。ここあたりが、唯一ウクレレの弱点が出てしまったところでしょうか。

11月15日

YAMADA
Nagauta Symphony
湯浅卓雄/
東京都交響楽団
NAXOS/8.557971J


日本作曲界の草分け、山田耕筰のオーケストラ作品を集めたアルバムです。もちろん、全部彼が作ったものです(「盗作」ではないと)。山田耕筰と言えば、誰でも思い出すのが「赤とんぼ」、もしかしたら後世彼の代表作として残るのはこの「♪夕焼け小やけの〜」という童謡しかないのではないか、とも思えるほどのヒット曲です。しかし、もちろん彼の本領は日本人としてはほとんど初めてともいえる実質的な長期のドイツ留学によって磨き上げられた「本場」ドイツの作曲技法を駆使した管弦楽曲やオペラだったはず、このアルバムによって、もしかしたらその様な正当な評価が一般的なものになるかも知れませんね。
ここでは全部で3曲の作品が、時代をさかのぼる形で収録されています。そこには制作者の緻密な配慮が感じられますが、これをあえて逆の順序、作られた時系列に従って聴くという作業を行ったとき、皮肉にも彼の音楽の本質的なものが見えてきたのは、興味のあることでした。
最も初期の作品が、留学から帰って間もない1916年に作られたダンス音楽「マグダラのマリア」です。これはもう、最初から最後までワーグナーとリヒャルト・シュトラウスに満ちあふれています。耕筰がドイツにいた頃にはそのシュトラウスがまさに現役で活躍していましたから、彼がもろにその音楽の影響を受けることになったのは、無理のないことでしょう。この曲は、あたかも「フックト・オン・シュトラウス」といった様相を呈することになるのです。「サロメ」の淫靡な和声、「アルプス」の壮大なオーケストレーション、「薔薇の騎士」の瀟洒なたたずまい、そして仕上げは「ツァラ」のファンファーレです。その間を縫って顔を出すのが、「ワルキューレ」や「神々の黄昏」、このサウンドは、まさに現代のオーディオルームを支配している重厚かつ華やかなオーケストラサウンドそのものではありませんか。それを助けるのが録音を担当しているEXTONのチームです。ちょっと貧弱気味な東京都交響楽団の木管もなんのその、そこからは芯のある腰の据わった見事なオーケストラの響きが広がってきます。このトラックは、オーディオのデモに使ったら効果は抜群と思えるほど、見事な録音、そして、音楽です。
その次の時期に作られた「明治頌歌」(1921)では、さすがにそんな、みえみえのシュトラウスのいいとこ取りは影を潜めています。それどころか、最初に聞こえてくる雅楽にヒントを得たであろう不思議な和声による弦楽器の響きには、ちょっと驚かされます。まるで「武満トーン」の先取りとも思えるその前衛的な音からは、確かに借り物ではない、自らの日本人としてのアイデンティティを追求する真摯な姿勢が感じられます。しばらくしてベタな五音階のテーマが聞こえてくるまでは。そう、いかにも神秘的に始まったこの曲も、これですっかり馬脚を現してしまうのです。それに続く脳天気なお祝いモードの音楽が、それに輪をかけるという段取りです。そして、そのあたりから、音楽はにわかに「国民楽派」へと変貌していきます。スメタナやドヴォルジャークがかつてのシュトラウスの座に取って代わったというのは、作曲家にとっての進歩なのでしょうか。終わり近くに登場する管楽器は、おそらく篳篥でしょう(いくら都響でも、オーボエではありません)。いとも唐突に鳴り響くその微妙なピッチこそは、日本固有のサウンドを追求したとされる作曲家の良心の表れに違いありません。
そして、アルバムの最初にあるのが、1934年に作られた「長唄交響曲」です。純邦楽である「長唄」を、その道の演奏家がそのまま歌い(もちろん、三味線や囃子ものと一緒に)、それに西洋音楽のオーケストラが絡むという、とんでもないコラボレーションです。ただ、「長唄」サイドには作曲家の手はなにも入っていないというのが、ちょっと歪んだ形のコラボレーションになってしまった元凶、ひたすらマイペースの「長唄」に擦り寄るオーケストラの、なんと卑屈なことでしょう。
ドイツで身につけた当時の「現代音楽」、それを日本古来のものと融合させようとした彼の試みは、「赤とんぼ」ほどの成功を収めることは果たしてあったのでしょうか。「耕筰の苦闘の軌跡」というコシマキのコピーに確かなリアリティを感じるのは、私だけではないはずです。

11月14日

BACH
St Matthew Passion
Felicity Lott(Sop), Alfreda Hodgson(Alt)
Robert Tear, Neil Menkins(Ten)
John Shirley-Quirk, Stephen Roberts(Bas)
David Willcocks/
The Bach Choir, Thames Chamber Orchestra
DECCA/475 7987


1978年の録音、以前はASVから出ていたそうですが、今回DECCAからの再発になったアイテムです。録音スタッフはDECCAのクルーですから、これが本来の形なのでしょう。非常に珍しい英語による演奏ですから、珍品マニアにはたまらないものが、簡単に手に入るようになりました。ひとつ、どないでっか
いや、「珍品」などと言ってはいけないのかも知れません。そのあたりを指揮者のウィルコックスはライナーの中で「教会での宗教行事として聴くためには、誰でも意味の分かる英語が望ましい」と述べていますから、確固とした信念に基づいていることは明白です。さらに、当時はすでに市民権を得ていたオリジナル楽器に対しても、彼は批判的だったようで、「より美しさを表現できる」モダン楽器に寄せる信頼は揺るぎのないものでした。そして、合唱に関しても少年と男声だけによる小規模なものは「使えない」というスタンスのようです。
彼のその様な信念は、それから30年近く経った今となっては、なんの説得力も持っていないことは明らかです。少なくともワールドワイドのマーケットに向けたもので、「マタイ」をドイツ語以外で歌っているものは皆無ですし(個人的には、フランス語版などを聴いてみたいとは思いますが)、モダン楽器を使った大編成の演奏の方が、間違いなくマイナーなものとなっているのですから。
ここで歌っている合唱団は「バッハ合唱団」という団体です。おそらく、例えば「東淀川バッハ合唱団」とか「歌舞伎町バッハ合唱団」のように、頭に地名を冠したこのような名前の合唱団は夥しい数が存在しているのでしょうが、なにも付けないでもそのアイデンティティが主張できるのは、この団体が1世紀以上もの長い歴史を持つ、それこそイギリスでは最初にバッハを演奏するために作られたものであるためです(創設当時はワーグナーさえ存命でした)。ウィルコックスは、1960年から1998年までこの合唱団の8代目の指揮者を務めており、その間にブリテンの「戦争レクイエム」の初演などでも、大きな役割を果たしていました(日本初演では、ブリテンの代わりに彼が指揮を務めました)。現在ではデイヴィッド・ヒルがその後を任されており、CDのリリースこそ目立たなくなったものの、新作の初演なども含む堅実なコンサート活動を続けています。
ここで聴かれる「マタイ」は、ウィルコックスのこだわりが見事に反映されたものに仕上がっています。ケネス・ウィルキンソンとサイモン・イードンというDECCAのエンジニアによって捉えられた弦楽器やソロの管楽器の艶やかな音色に支えられ、そのサウンドはあくまで美しく輝かしいものです。ここで用いられている、エドワード・エルガーなどによって校訂されたノヴェロ版の指示なのか、ウィルコックスによる判断なのかは分かりませんが、本来ヴィオラ・ダ・ガンバがオブリガートを務めるはずの第2部の初めの頃のテノールのアリアは、それがチェロに置き換わっています。そこでは、オリジナルの持つ厳しさは影を潜め、何ともソフトな情感が漂うことになります。ただ、終わり近くのバスのアリアでは楽譜通りのヴィオラ・ダ・ガンバですから、見事な対比を見せてさらなる寂寞感をそそっています。
最も出番の多いエヴァンゲリスト役のティアーがちょっと力が入りすぎなのは、やはり感情を大事にしたかった指揮者の要望なのでしょうか。同じテノールでアリアを歌うジェンキンスの一途さも、捨てがたいものがあります。歌手陣で最も惹かれたのはなんと言ってもロットです。その伸びやかな訴えかけには、様式や言葉を超えたものがあります。
そして、肝心の合唱です。かなりの大人数、それ故の精度の低さはありますが、指揮者の思いを過不足なく伝える力には見るべきものがあります。特にコラールでの細やかな表現は見事、「言葉」に込める感情が、母国語であることでより身近なものになった、これは一つの成果なのかも知れません。ピラト役で、ポール・ヒリヤーの暖かいバリトンを聴くことも出来ますよ。

11月10日

BEETHOVEN
Symphonies 5 & 7
Gustavo Dudamel/
Simón Bolívar Youth Orchestra of Venezuela
DG/00289 477 6228(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック/UCCG-1345(国内盤07/2/21発売予定)

「誰も寝てはならぬ」に続く、最近のクラシックのヒット曲といえば、なんと言っても「ベト7」、いや、ベートーヴェンの交響曲第7番ではないでしょうか。なにしろ、毎週月曜日の夜9時10分頃には、全国のテレビ保有者の18%以上の人がこの曲を聴いているのですからね。ドラマやCMとのタイアップでヒットした曲は、最新の松たか子の「みんなひとり」(1129日リリース)から、かつてのジェリー・ウォレスの「男の世界」(ふ、古すぎ)まで枚挙にいとまがありませんから、このヘビー・ローテーションに乗って「ベト7」がチャートにランクインする日は間違いなく訪れることでしょう。赤ちゃんも喜びますし(それは「ベビー・ローション」)。いや、現実にはこの曲のクライバー盤がバカ売れしているといいますから、そんな夢のようなことが実現することだってあり得ます。
そんなヒット曲の最新のカバーが(いや、クラシックの場合、全てがカバーです)、2006年2月録音というこのアルバムです。レーベルは老舗のDGですが、アーティストは全く聞いたことのない人ばかり、それもそのはず、これはグスタヴォ・ドゥダメル指揮のシモン・ボリーバル・ユース・オーケストラのデビュー・アルバムだったのです。
そんな名前の人が建国に大きな力を果たした国ベネズエラの、これはアマチュアのユース・オーケストラです。なんでもこの国には「ユース」や、「チルドレン」のオーケストラを支える「FESOJIVFundactión del Estado para el Sistema de Orquesta Juvenil e Infantil de Venezuela ベネズエラの若者と子供のオーケストラのための国家的財団)」というものがあって、国内にはなんと125のユース・オーケストラと57のチルドレン・オーケストラがあるというのです。そんな多くの団体のまさに頂点に立っているのが、この「シモン・ボリーバル」だということになります。ちなみにこの財団の目的は、決してプロの音楽家を育てることではなく、あくまでも「子供達を救う」という一点に集約されています。スラムや路上ですさんだ生活をしている子供達を、音楽の力によって正しい道へ導くという、これはいわば大規模な「更正プログラム」なのです。実際、ライナーではドラッグ漬けになった少年が楽器を与えられて見事に更正したというような「美談」が数多く紹介されています。
そんな少年たちが集まったこのオーケストラは、しかし、その様な「ストーリー」が付いてこなければほとんどなんの価値も認められないようなある意味偽善的な活動の成果とは根本的に異なる高次元の音楽を奏でる能力を、この国の機関によって与えられていました。個人の技量、アンサンブルのセンス、そして指揮者の求めているものを全員が表現する力、それらのものは決してプロの団体と遜色のない、極論すれば先ほどのクライバー盤と同列に語れるほどのものだったのです。そこには、心を一つにして感動的な演奏を産み出した「Sオケ」すらも霞んでしまうほどのグルーヴが込められています。
千秋真一よりは年を食っている、それでもまだ25歳のベネズエラ生まれの指揮者ドゥダメルは、「プラティニ国際指揮者コンクール」と同等のレベルを持つ「マーラー国際指揮者コンクール」で優勝したという逸材、すでに世界へ向けてのポストを着々とものにしている、まさに次世代のホープです。すでに8年間も首席指揮者を務めているこのオーケストラとは、強い信頼関係で結ばれているのでしょう。その演奏にはなんの迷いも感じられません。第1楽章冒頭で明らかになる弦と管との間の強烈なキャラクター設定の落差、一歩間違えば時代遅れの巨匠タイプになってしまうものを、見事にそれぞれの楽器が最も輝くスマートな演奏へと導いています。そして圧巻は終楽章。全てのメンバーの意志が一つの方向へまとめられた強烈なエネルギーは、別にヴァイオリンのネックを持ち上げたり、コントラバスを回したりしなくても得られるということが如実に分かるすさまじいものです。357小節からの(4分54秒あたり)弦楽器の各パートが、同じパターンを次々と重ねていく部分でのスリリングなこといったら、どうでしょう。この瞬間には、もしかしたらクライバー盤をもしのぐ血のたぎりが放出されていたかも知れません。

11月8日

Two Mozart Masterpieces
 in Contemporary Transcription
Malcolm Bilson, Zvi Meniker(Fp)
Abigail Graham(Ob), Mónika Tóth(Vn)
Laszló Móré(Va), Csilla Vályi(Vc)
HUNGAROTON/HCD 32414


Contemporary」というのは「現代の」ではなく「同時代の」という意味です。ですから、これはモーツァルトの作品をその時代、18世紀後半の人が編曲したもの、ということになります。ここでそれらの編曲の世界初録音を行ったフォルテピアノの重鎮ビルソンとハンガリーで活躍中のメンバーによるアンサンブル、もちろんオリジナル楽器が用いられています。
1曲目は、「グラン・パルティータ」という名前で知られている13の管楽器のためのセレナーデを、1767年生まれ、ハンブルクのカントールを務めていたクリストフ・フリードリッヒ・ゴットリープ・シュヴェンケという人がフォルテピアノ、オーボエ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロという編成のクインテットに直したものです(ちなみに、彼はこの職を1788年に前任者のカール・フィリップ・エマニュエル・バッハから引き継ぎました)。オリジナルはかなり大規模な編成、しかも主旋律のパートを受け持つ楽器がオーボエ、クラリネット、バセットホルンと、多彩な音色を味わうことが出来るものですが、この編曲では潔くソロをオーボエ1本に任せるというプランをとっているようです。そこにヴァイオリンがからみ、フォルテピアノは和声と低音を担当するというのが基本的な役割でしょうか。従って、メロディーを一手に引き受けるオーボエにかかる負担は非常に大きなものになってきます。しかし、ここでそのパートを吹いているイギリス出身のグレイアムは、オリジナル楽器というハンディを考慮しても、ちょっと力不足の感は否めません。素朴な音色はフォルテピアノや弦楽器とよく溶け合ってはいるのですが、もう少し精密な音程が欲しかったところです。
なんと言っても原曲のイメージが強いものですから、例えば2曲目のメヌエットで印象的に聞こえてくるホルン五度のフレーズがさらりと平凡なハーモニーに置き換わってしまっているのはちょっと物足りないものがありますし、なによりもファゴット2本とコントラバスで迫ってくる低音が全く再現されないのには失望を隠せません。終曲の魅力であるオーボエと低音の掛け合いの妙味が、ここでは完璧に失われています。とは言っても、彼らが作り出す音楽そのものは、かなり自由度のあふれたフレッシュなものでした。アイディアあふれる装飾やアインガンクは、おそらく編曲の際に楽譜に加えられたものではないはずです。
ただ、原曲にはないものが加えられている部分もあります。二つ目のメヌエットである4曲目は、本来は二つのトリオを持っているのですが、ここではなんと三つ目のトリオを聴くことが出来るのです。ちょっと肌合いの違ったチャーミングなトリオですが、もちろんこれはここで初めて聴けるもの、どのような経過でここに挿入されたのかは、不明です。もしかしたら、将来管楽器のバージョンでこのトリオが演奏されることがあるかも知れませんね。
もう一曲、有名なト短調の弦楽五重奏曲を、1751年生まれの、歌手でもあったカール・ダヴィッド・シュテグマンという人がフォルテピアノ連弾のために編曲したものも、収録されています。深い愁いをたたえた第一楽章こそ、この楽器で演奏されるとちょっと違和感が伴いますが、他の楽章ではまるで最初からこの編成だったのかと思わせられるほどのハマりようだったのは、別な意味での驚きでした。
これを聴いて、以前、オペラをピアノだけで演奏したものには強烈な違和感があったことを思い出しました。編曲という、ある意味記号化の作業では、歌のようなものをピアノに置き換えた場合、その記号になじまない要素が抜け落ちてしまうことがあります。おそらく、「13管楽器」でもその要素はかなり多かったものが、「弦楽五重奏」では、ほぼ完璧に置き換えられることが出来た結果が、このアルバムでも現れていたのではないでしょうか。弦楽器、管楽器、声というように、「器楽」的な要素が稀薄になるに従って、次第に記号化が難しくなっていくというものなのかも知れません。その認識のないまま気迫だけで編曲を行うときに、何か重要なものが欠落してしまうことがあるのでしょう。

11月5日

BURGON
Choral Music
Alan Thomas(Tp)
David Bednall(Org)
Matthew Owens/
Wells Cathedral Choir
HYPERION/CDA 67567


ジェフリー・バーゴンという、ウィスキーみたいな名前の(それは「バーボン」)1941年生まれのイギリスの作曲家の作品は、初めて聴きました。若い頃はマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンがアイドルの「ジャズ少年」だったというバーゴン、彼自身も、トランペッターとして音楽家のキャリアをスタートさせたということで、いわゆる「純音楽」の持つ堅苦しさとは無縁の世界を持っている人のような印象を、このアルバムからも受けることが出来ます。なんでも、ここに収録されている「Nunc dimittis」(タイトルはラテン語ですが、テキストは英語で歌われます)という曲は、1979年にBBCのドラマで使われて、ポップ・チャートのトップ10にランクインしたこともあるそうなのです。余談ですが、UKのチャートというのはアメリカのものとはひと味違っていて、時折とんでもない曲がランクインしてしまうことがあります。ミュージカルの中の曲が入ることはよくあることですし、なによりもNessun Dormaがこれほど有名になったのは、パヴァロッティが歌ったものがチャートインしてしまったせいなのですから。
バーゴンの合唱作品集、ここで目に付くのは、伴奏にオルガンの他にトランペットが頻繁に登場することです。作曲家自身の楽器として、愛着が強いものなのでしょう、その使い方は合唱によく溶け込むものになっています。「Come let us pity not the dead」という最近の曲では、間奏としてしっとりしたトランペットのソロがフィーチャーされていて、その最後のフレーズに柔らかく合唱がかぶさるのがこの上なく美しい仕上がりです。先ほどの「Nunc dimittis」も、オリジナルバージョンは女声合唱とトランペット、オルガンという編成、この穏やかな曲に素敵な彩りを添えています。
実は、この曲は、1997年にア・カペラの混声合唱とソプラノソロが2人という形で新たに編曲されたバージョンもあり、それもここで聴くことが出来ます。メロディーは一緒なのですが、この2曲は全く異なったテイストを与えてくれているのは、彼の場合メロディーそのものにはそれほどインパクトがないせいなのでしょうか。例えばジョン・ラッターのようにキャッチーなメロディーで惹き付けるというよりは、もっと深いところでの共感を呼び覚ますような、不思議な魅力を感じることが出来るのが、このバーゴンの曲であるような気がします。
若い頃の「Short Mass」などは、そんな無愛想な感じが強く残っているものですが、その中からは確かな安らぎを導き出すものを間違いなく感じ取ることが出来るはずです。ちょっと変拍子っぽいオルガンに導かれた難解な肌触りの「Magnificat」も、心の深いところに届く訴えを、間違いなく感じることが出来ます。
そういう意味で、もしかしたら、彼の作品は「ヒーリング」にカテゴライズしてもそれほど見当外れではないのかも知れません。しかし、そこにはただ甘いだけの心地よさではない、もっと心の底をえぐられるようなパトスまでもが存在してはいないでしょうか。
演奏しているウェルズ大聖堂聖歌隊は、トレブルが少年ではなく少女だというところがちょっとユニーク、本来は両方のメンバーがいるのですが、特別な時以外は、どちらか一方が男声隊(「ヴィカーズ・コラール」という名前で独立して活躍しています)と共演しているそうです。ここで少女隊のユニットが聴けたから、バーゴンの魅力もストレートに伝わってきた、という感じがするほど、彼女たちの歌には「少年」には見られない安定感がありました。ソリストもメンバーが担当していますが、それぞれに立派なものを聴かせてくれます。ただ、最も出番の多いキャスリーン・ハートはちょっと暗めの音色、もう一人のフランセス・ヘンダーソンの伸びやかな声の方が、魅力的ですが。

11月3日

STRAVINSKY
Le Sacre du printemps
Esa-Pekka Salonen/
Los Angeles Philharmonic
DG/00289 477 6198(
輸入盤 hybrid SACD)
ユニバーサル・ミュージック/UCCG-1334(国内盤 CD)

ロスアンジェルス・フィルの本拠地として2003年に完成した「ウォルト・ディズニー・コンサートホール」のことは、こちらでご紹介してあります。しかし、そのCDで演奏されていたこのホールのこけら落としのためにサロネンが作った曲は、実はその場所で録音されたものではありませんでした(オーケストラも違います)。ですから、実際にロスアンジェルス・フィルが音楽監督のサロネンとこのホールで演奏した音というのは、今回の、2006年の1月に録音されたCDで初めて耳にすることが出来るということになります。
このホールが完成した直後にここで定期演奏会の指揮をなさったという、当時のロスアンジェルス・フィルのアシスタント・コンダクターの篠崎靖男さんは、その時の様子を「本当に素晴らしいホールで、ピアニシモでもはっきりディテールが聞こえますし、音の混ざり具合も全体的な音量も豊かです」とおっしゃっていました。今回のDGのスタッフによる録音で、そんな、ロスの新しい観光名所ともなっているホールの外観だけでなく、その音響の素晴らしさも各方面で絶賛されている会場の響きを、味わうことは出来るのでしょうか。プログラムは、タイトルの「春の祭典」の他にムソルグスキーの「はげ山の一夜」とバルトークの「マンダリン」という、多彩な音響が楽しめるものばかりですから、これは楽しみです。部屋もきれいになりますし(それは「マジックリン」)。
「はげ山」は、しかし、リムスキー・コルサコフによる「派手で洗練された」オーケストレーションと比べると、「地味」とか「粗野」と言われているオリジナル・バージョンで演奏されています。ところが、この録音からは、なぜその様なことが言われるのか分からないほどの、見事に煌びやかなサウンドが聞こえてきたではありませんか。弦楽器はあくまで澄みきった音ですし、管楽器も驚くほど柔らかい響きです。それらがホールの中で溶け合って、えもいわれぬ爽やかな雰囲気を醸し出しています。これが、このホールの力なのでしょう。確かに評判の素晴らしい音響が、録音からもうかがえました。その様な極上の響きの中で、サロネンはかなり細やかな表情を与えようとしていますから、もはやこの曲はロシアの田舎臭い音楽ではなく、とてもみずみずしく、しかも贅沢なものに仕上がりました。時折聞こえてくるピッコロの、なんと上品な音色なのでしょう。それは、いたずらに刺激を与えるものではなく、全体の音色の外側を軽くなぞって、艶やかな味わいを加えるものとなっています。
2曲目の「マンダリン」も、よくあるおどろおどろしいテイストなど全くない、風通しのよいものです。ここでは、各々のフレーズにことさら思い入れを込めないで、バルトークのスコアにそのまま語らせる道をとったかのように、余計な力が入らない心地よさが感じられます。途中で聞こえてくるオルガンの音は、このホールご自慢の、それこそディズニーの世界に出てくるような外観を持つ楽器から聞こえてくるものなのでしょう。これも、オーケストラの一部であるかのような、一体感を伴った響きの中にあります。

そして、「春の祭典」です。これも、例えばゲルギエフあたりとは正反対のテイストに支配されたスマートな肌触りです。もっと言えば、ディズニーアニメのサントラでストコフスキーが見せた原色感からも、はるかに距離のある世界です。力でねじ伏せるのではなく、隠し持った鋭利なナイフで素早く仕留める、そんな趣も、時たま見ることは出来ないでしょうか。
多少クレージーな感がなくもないフランク・ゲーリーの建物の中にあって、豊田泰久の音響設計は、そんなクレバーな仕掛けも難なく実現させてくれるホールを作り上げていました。名前から与えられる印象よりもはるかにまっとうなこの音響、これを与えられたとき、演奏家はさらなるアイディアを求めて行くに違いありません。ホールが音楽を変えていく、まさにホールも楽器の一部であることをまざまざと示してくれる、これは格好のサンプルです。

さきおとといのおやぢに会える、か。


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