死体の上。.... 佐久間學

(13/7/22-13/8/9)

Blog Version


8月9日

POULENC, HINDEMITH, DUTILLEUX, MUCZYNSKI, MARTIN
Flute Works
Anne-Catherine Heinzmann(Fl)
Thomas Hoppe(Pf)
AUDITE/92.667(hybrid SACD)


プーランク、ヒンデミット、デュティユー、ムチンスキー、そしてマルタンという、20世紀に活躍した作曲家によるフルートとピアノのための作品の定番を集めたアルバムです。すでに今まで数多くの録音がある中で、今更こんな「ポピュラー」な曲をわざわざ聴く必要性はほとんど感じられませんが、フルート・ソロには珍しいSACDであることと、ジャケット写真のブロンドの女性に不思議な魅力が感じられたので、聴いてみることにしました。
この女性はアンネ=カテリーネ・ハインツマンというドイツのフルーティスト、ごくノーマルです(「パンツマン」ではありません)。年齢は不詳ですが、1999年からフランクフルト歌劇場のオーケストラの副首席奏者、さらに2005年には神戸国際フルートコンクールに出場していますから、まあ、それぐらいのお年なのでしょう(このコンクールの年齢制限は33歳以下)。この時の成績は、一次予選は通ったものの、二次予選で敗退というものでした。三次予選通過がファイナリストですから、かなり不本意な成績だったのではないでしょうか。ちなみに、この4年前の同じコンクールで1位となったサラ・ルヴィオンは、彼女と同じ職場で首席奏者になっています。
ジャケット(というか、ブックレット)で惹かれたのは、ハインツマンの顔だけではありませんでした。

裏側にあった楽器の写真も、ちょっとユニークなものです。左手の小指で押さえているキーが、なんだか表のGisキーに直結しているようには見えませんか?というより、キーカップの上に、本来あるはずのないキーが乗っているように見えますね。つまり、ここでは左手の小指によってGisキーを「閉じて」いるのですよね。ということは、これは普段はそのトーンホールが開いている「Gis open」という、珍しいシステムの楽器のように見えます(その「Gis open」の楽器の数少ない使い手の一人であった、元NHK交響楽団の首席奏者、中野富雄さんが、先日お亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りいたします)。しかも、このキーにはE-mechanism用の連結もありますから、3オクターブ目のEは普通の運指で出せるんですね。
録音が行われたのは、ベルリンのイエス・キリスト教会という、カラヤンが愛用した場所です。オーケストラだけではなく、このようなソロ楽器の場合も良い響きが得られるようで、ピアノもフルートもとても美しい残響を伴った、芯のある音が捉えられています。録音フォーマットは24/44.1というしょぼさですが、とても透明性のある音が聴けますよ。そこで、ピアノ伴奏のトーマス・ホッペの熟達の芸が聴けるわけですが、最初のプーランクあたりでは、そのソリストに対する気の使い方があまりに過剰なために、かえって音楽の流れを損なうようなところがあったりしますから、本当に伴奏というのは難しいものです。
いや、伴奏者だけを責めるわけにはいきません。フルートのハインツマンも、このプーランクのソナタやヒンデミットのソナタ、そしてデュティーユのソナチネなどの前半の曲目では、なにか守りに入った吹き方が目立って、かなり不満が募ります。デュティーユあたりはもっと軽やかに進んで行って欲しいな、こんなんだから、神戸はダメだったんだな、と思えてしまいます。とても素直でいい音なんですけどね。
ところが、後半のムチンスキーのソナタになったとたん、俄然音楽が生き生きとしてきましたよ。こういう、ジャズ風のシンコペーションを多用したノリの良い曲の方が、彼女には向いているのでしょうか。ピアニストとの絡みも全く遠慮なく対決している感じ、終楽章のカデンツァも、まるで人が変わったような軽やかさです。最後のマルタンのバラードも絶品でした。ここでは、他の奏者がつい安易に通り過ぎてしまうようなところで、なにか絶妙な表現があって、とてもスリリング、こういうことが全ての曲で出来ていれば、神戸でも1位を取れていたでしょうに。

SACD Artwork © Ludger Böckenhoff

8月7日

新・長岡鉄男の外盤A級セレクション
長岡鉄男著
共同通信社刊

ISBN978-4-7641-0663-5


1984年に刊行された同名書(確か、これが「1」で、その後続編が何冊か出たはず)の復刻版です。ただ、文字通りそのまま同じものを作るのではなく、復刻されているのはテキストだけで、結局その他はレイアウトもデザインも一新されています。用いられているレコードのジャケット写真も、新たに別の人が所有していたレコードから撮影された全100枚がカラーで紹介されています。その、巻頭に45ページにわたって掲載されている「撮りおろし」の写真が、まず圧巻です。12インチ四方のキャンバスを使い切った壮大なアートワークは、12センチ四方のCDのジャケットを見慣れた目には、別世界のもののように感じられることでしょう。
さらに、今回の復刻では、実際にこの中で紹介されている優秀録音盤の音の一部分を聴くことが出来るSACDが付録として付いています。
長岡さんがこの本を書いたときには、間違いなくレコード・マニアたちの購入に際しての指針という役割を持っていたはずでした。ここで長岡さんが紹介していたレコードを何とかして入手し、長岡さんがおっしゃっていたことを実際に体験、それを自分の耳と照らし合わせて、さらなるオーディオ修行に励む、といったマニアは、たくさんいたことでしょう。
しかし、今回の復刻版の最初には「掲載している(原文のママ)アナログレコードは、現在ほとんど全てが廃盤であることをご了承ください」という断り書きがある通り、今となってはこの本の当初の目的はすっかり失われてしまっています。それでもなおかつ復刻されたというところに、長岡鉄男のすごさがあるのでしょう。彼が書いたものはその時限りのものではなく、そのレビューの対象が失われてしまってもなお残る普遍的な価値観の記録なのでしょうね。確かにここからは、「カリスマ」ならではの時代を超えた主張が感じられます。
そんな彼の言葉は、今でも事あるごとに引用されていて、他の人には決してまねのできない独特の表現がマニアを酔わせているのはご存じの通りでしょう。ただ、今回そんな「名言」のオリジナルの出典を読んでみると、全体の文章自体はそれほどインパクトのあるものではないことにも気づきます。彼が書いていたことは、そのレコードに関するコメントを、単にオーディオ的な側面だけではなく、演奏や作品そのものにも言及しつつ様々な角度から述べているという、非常に高度なものだったのですが、後世の人はその中のごく一部のフレーズだけを取り出して、そこを異様なまでに強調していたのですね。ECJのレコード「鳥の歌」での、「口の開け方までわかる」というフレーズは有名ですが、その他の点では結構シビアなことも書いているのですから。
今回も、ブリテンの「戦争レクイエム」の自演盤で「コーラスの衣装の色は全員、黒一色」などと、これだけ見たらとんでもないホラ話だと思えるようなフレーズを発見しましたが、これだってその前後の文章をきちんと読めば、それなりに納得できる表現だと気づくはずです。
いくら、すでに現物は入手が出来ない状況だとしても、そんな長岡さんのお勧めレコードの片鱗を知りたいと思う人は多いはず。そこで、ここでは現在CDなどで入手可能なアイテムにはその旨の表記があります。ただ、それも全100枚中の25枚のみというのには、かなり失望させられます。しかし、よく見てみると、その他にも確実に現時点でCDなどが手に入るはずのものもかなりあることに気付きます。何の表記もなかったさっきのブリテンだって、ごく普通に買えるはずですし、BDオーディオだって、もうすぐ出るというのに。
そんないい加減な編集スタッフのやることですから、付録のSACDに不満が募るのは当然のことです。もしこれを目当てに購入するのであれば、間違いなく味わうはずの失望感を覚悟しなければいけません。

Book Artwork © K.K.Kyodo News

8月5日

CANTUS
加藤訓子(Per)
LINN/CKD 432(hybrid SACD)


ネットでこんな面白いものを見つけました。リムスキー・コルサコフの「熊蜂の飛行」の最初の2小節を、4トラックのMIDIで延々と聴かせるだけなのですが、bpmを、トラック1は120、トラック2は122と、ほんの少しずつ早くしているのがミソ。同時にスタートした4つのパートは次第にずれて行って、不思議な「モアレ効果」を生み出すという仕組みです。タイトルは「ミニマル熊蜂」となっていますが、これこそがミニマル・ミュージックの祖師の一人、スティーブ・ライヒが初期の作品で展開した技法に他なりません。1960年代に彼が始めた、同じ音形を複数の演奏家がほんの少しずつテンポを変えて演奏することによって、そんな単純な音形からは想像できないような世界を作り上げることが出来る、という「実験」は、多くの人に衝撃を与えました。演奏する側にとっても、それはとっても緊張を必要とする作業だったに違いありません。それが、50年後には、シークエンサーのアプリさえあれば誰でも簡単に同じ現象を作り上げることが出来るようになってしまったのですね。これは、「ミニマル」の一つの落とし穴でもありました。
その後、ライヒの作曲スタイルは変化してきますが、基本的に単純なパターンを素材としている点は変わりません。そして、それはなにも人の手を煩わさなくても、アプリによって同じものが作れるという点でも、変わってはいません。
打楽器奏者の加藤訓子は、以前このレーベルでライヒの「カウンターポイント」をたった一人で演奏していたアルバムKuniko Plays Reichを作っていました。それは、やはり、PCを使えば簡単に出来てしまうごく単純な「対位法」を、敢えて多重録音を使って「生音」で全てのパートを録音していたものでした。
今回、同じようなコンセプトで作られたアルバムでは、前作には収録されてはいなかった「カウンターポイント」シリーズの、本来はクラリネットのための作品「ニューヨーク・カウンターポイント」を取り上げて、まずは「カウンターポイント・ツィクルス」を完成させています。これは、クラリネットの替わりにマリンバで演奏するという試みですが、なぜかトランジションの部分でかなりの違和感が残るのは、やはり管楽器と打楽器との音の存在感の違いがもろに現れた結果なのでしょうか。
しかし、今回のメインはライヒではなく、タイトルとなっている「Cantus」など、アルヴォ・ペルトの作品でした。本来「ミニマリスト」と呼ぶには抵抗のあるこの作曲家の登場は、この間のラベック姉妹のケースと同じ、結局彼は、遠からずそのようなカテゴリーにくくられてしまうのでしょう。おそらく、それはある意味無機質な「ミニマル」の世界を、もっと情感あふれるものに仕立て上げたいという、多くの人の願い(あるいは利害)によるものなのかもしれません。
そのような役割を担わされたペルトは、アルバムの最後のトラック「Spiegel im Spiegel(鏡の中の鏡)」で、見事に期待にこたえています。これが録音されたのは、近未来的なレコーディング・スタジオではなく、遮音もままならない横浜の古びた倉庫。その空間の豊かな残響とともに、さりげなく混入している外界のノイズが、どれほど「情感」を漂わせていることでしょう。
もう一人、「Purl Ground」というマリンバ・ソロのための作品が演奏されているイギリスの若い作曲家ハイウェル・デイヴィスあたりは、そんな「情感あるミニマル」の将来を担うのでは、と思えてしまいます。

SACD Artwork © Linn Records

8月3日

MAHLER
Symphony No.8
C. Brewer, C. Nylund, M. Espada(Sop), S. Blythe(Ms),
藤村実穂子(Alt), R.D. Smith(Ten), T. Hakala(Bar), S.Locán(Bas)
Mariss Jansons/
Netherlands Radio Choir, State Choir'Latvija', Bavarian Radio Choir
National Boys & Children's Choir, Royal Concertgebouw Orchestra
RCO LIVE/RCO 13002(hybrid SACD+BD)


以前、このロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団がいろいろな指揮者によってマーラーの全交響曲を演奏した映像集(DVD, BD)がリリースされていましたが、その中で、現在の首席指揮者ヤンソンスが指揮をしていた「8番」が、SACDになりました。しかも、ここには「ボーナス・ディスク」として、その時の映像が同梱されていて、価格はCD1枚分というのですから、なんともお買い得。いつもながらのこのレーベルの良心的な価格設定には、感謝の言葉もありません。ちなみに、映像はDVDBDの中から選べるようになっていますが、当然BDタイプを買わせていただきました。
今までの経験で、BDDVDでも)の音は下手をするとSACDよりも良いことが分かっていますから、まずはBDからチェックです。音ももちろんですが、何よりもこの大編成の曲での実際の「人」の様子には興味がありますからね。
オーケストラの人数は、弦楽器が18型(コントラバスが10本)という、この曲にしては「普通」の編成をとっています。合唱は、会場のコンセルトヘボウのステージ上の客席をすべて使って、真ん中に90人の児童合唱、左右に、合わせて150人ほどの混声合唱が並んでいます。これもまあ、現在では標準的な人数でしょうね。上手の客席最上段には金管のバンダが座っていますし(もう少しで、おれたちの番だ)、下手の同じ場所には、第2部の始まりから3人目のソプラノ・ソロ(栄光の聖母)が座って、出番を待っています。ほかのソリスト7人は、指揮者の横に並びます。

BDの場合は、指揮者やソリストの入場のところから始まりますから、そこで客席の拍手が聴こえます。まず、その拍手の音がとても美しく響いていることに感激してしまいます。このホールの音響がとても素晴らしいことが、これだけで分かってしまいます。そして、指揮者が指揮台に上って拍手も止み、一瞬の静寂の中から聴こえてきたのは、この大編成からは想像できないほどの澄み切った音でした。特に、合唱のピュアな響きには心底惹きつけられてしまいました。この「大人」の合唱団は、ヤンソンスの故国ラトヴィア、そして、ヤンソンスが首席指揮者を務めるオーケストラがあるオランダとドイツの、それぞれ屈指の実力を持つ団体が集まったものなのですから、それは当然のことでしょう。というより、この曲を巨大なものととらえ、物量で勝負しようという時代は終わっているのだ、ということが、こういうコンパクトな(あくまで相対的なものですが)合唱を聴くと強く印象付けられます。
BDではオーケストラのメンバーも良く分かりますが、フルートのトップがエミリー・バイノンだったのはしあわせでした。ただ、濃すぎるメークのせいでしょうか、最初は全くの別人だと思ってしまいましたが、音を聴けばまぎれもない彼女のトーンだったので、一安心。あとは、出番の少ないマンドリン奏者が、身動きもしないでずっと座っているのも興味深い映像です。そして、演奏が終わったあとは、会場のお客さん全員によるスタンディング・オベーションです。こんなことが、本当に起こっていたのですね。
録音も、巨大さよりは繊細さにフォーカスを合わせたような素晴らしいものでした。Polyhymniaのクルーによって、コンセルトヘボウ管の弦楽器のしなやかさは際立って聴こえてきます。大音響での力強さと、本当に静かなところでのふっくらとした肌触りの対比は絶品です。
ところが、SACDで聴いてみると、その音はBDとはかなり違っています。繊細さはそこそこ感じられるのですが、力強い部分ではなにかヴェールに包まれたようになって、勢いが殺がれてしまっているのですよね。これは、常々この2つの媒体を比べた時に感じられたこと、現場ではPCMで録音した音源を、そのままPCMで再生するBDと、それをDSDに変換したSACDとの違いは、かなり大きなものなのかもしれません。

SACD and BD Artwork © Koninklijk Concertgebouworkest

8月1日

Minimalist Dream House
Katia & Marielle Labèque(Pf)
David Chalmin(Voc. etc)
Raphaël Séguinier(Dr. etc)
Nicola Tescari(Kbd. etc)
KML/KML 2117


先日、指揮者のセミヨン・ビシュコフがNHK交響楽団の定期演奏会に客演した時の模様が、テレビで放送されていました。メインはベルリオーズの「幻想」だったのですが、その前に演奏されたのが、日本初演となる2台ピアノとオーケストラのための「バトルフィールド」という作品でした。そこでソリストとして登場したのがラベック姉妹だったのですね。つまり、妹の方のマリエル・ラベックは、ビシュコフの奥さんですから、オットセイみたいな顔のに、ワンセットで付いてきたのでしょうか。
それはともかく、久しぶりに見た姉妹の映像は、なかなか興味深いものでした。前からのイメージでは姉カティア=派手、妹マリエル=地味、という印象だったのですが、今回は、確かに演奏のときのアクションはカティアの方が相変わらず目立ってたものの、それ以外の立ち居振る舞いなどは、マリエルの方が積極的みたいだったのが意外でした。もっと意外だったのがその顔立ち。カティアは昔から年齢不詳の小悪魔みたいな容姿だったので、今回もその流れが維持されていたのに対し、マリエルの方はなんだかすっかり「おばさん」になっていて、それをメークで隠そうとしているのが痛々しいほどでした。
いや、ビシュコフがそうであるように、クラシックの場合は「顔」ではありません、音楽です。最近の姉妹は自身のレーベルを立ち上げて精力的に活動していますが、最新のアルバムはなんと3枚組、なんでも、「50年にわたるミニマリズムの祭典のハイライト」がこの3枚のCDに収められている、というのが、ライナーノーツに書かれていたフレーズです。そうか、ミニマル・ミュージックが生まれてもう半世紀が経ってしまったんですね。
とは言っても、彼女たちがミニマル・ミュージックに対して、これまで熱心にかかわってきたという感触はあまりありません。今回のアルバムでも、ミニマル史上最大のスターであるスティーブ・ライヒの作品が取り上げられていないことからも、彼女たちにとっての「ハイライト」が、音楽史的な意味での「ハイライト」ではないことは明らかです。
彼女たちのスタンスは、おそらく2枚目のCDに顕著に表れているのではないでしょうか。ここで演奏されている作曲家には、例えばジョン・ケージやアルヴォ・ペルトといった、「ミニマリスト」というにはちょっとためらいがある人に混ざって、「クラシックの作曲家」以外の名前が数多く見られます。それは、立場によってさまざまな言い方が出来るはずですが、ざっくりとひとくくりにすれば「ロック」のアーティストたちです。ここで取り上げられているブライアン・イーノやレイディオ・ヘッドに限らず、多くのアーティストは「ミニマル」からは多大な影響を受けています(「テクノ」あたりは、「ミニマル」そのものです)。そこまで含めての「ミニマル」が、彼女たちの「ハイライト」には欠かすことが出来なかったのでしょう。ここでは、彼女たちのピアノだけではなく、さらに3人の友人たちのサポートで「バンド」を組んで、ギンギンに迫ります。そのメンバーたちのオリジナルも取り上げられていますが、パーカッションのラファエル・セギニエの作品などはもろ「明るいライヒ」といった感じ、おそらく、彼女たちにとってはあまりのストイシズムゆえに「ハイライト」たりえなかった「本家」の代わりとしての選択だったのかもしれません。
そう、このアルバムの中での「ミニマル」は、なんと明るいことでしょう。3枚目のCDに入っているテリー・ライリーの「in C」という「古典」が、これほど楽しく聴けたのは、初めての体験です。例えば、ライリー自身の録音などで聴ける「苦行」ぶりとは、目指すところが正反対、これはぜひ、こちらからダウンロードできる楽譜を見ながら、その「楽しさ」を味わってほしいものです。

CD Artwork © KML Recordings

7月30日

TSCHAIKOWSKY
Symphonie Nr.3
Dmitrij Kitajenko/
Gürzenich-Orchester Köln
OEHMS/OC 970(hybrid SACD)


チャイコフスキーの番号が付いた6つの交響曲の中では、前半の3曲は後半の3曲に比べて圧倒的に演奏頻度が少なくなっています。そんなマイナーな3曲の中でも、「3番」というのはひときわマイナー感が強いのではないでしょうか。そもそも、楽章が5つあるという点が問題。なんたって、4楽章形式の交響曲というものは、ずっと昔から慣れ親しんでいたこともあって、かなりバランスのとれたフォルムを持っています。第1楽章でまず心を掴まれ、第2楽章でいったん冷静さを取り戻すものの、第3楽章でまた掻き乱されてしまい、ついにはフィナーレで否応なしにホテルへ直行、みたいなパターンですね。
ところが、この「3番」の場合は、第2楽章としてなんだか余計なものが本来の第1楽章と第2楽章の間に挟まっているという気がしてならないのです。「ドイツ風に」というタイトルが付けられた3拍子の曲なのですが、そのテーマがなんとも陳腐なメロディなんですよね。チャイコフスキーという人は、信じられないぐらい美しいメロディを作ることもありますが、たまにこんなどうしようもなくつまらないメロディも作ってしまうんですね。「ミレシソ↑ド」(in C)という音型、たまらなくダサいとは思いませんか?
そんな「3番」ですが、前にキタエンコで「2番」を聴いたときにはちょっとびっくりするぐらい引き込まれる演奏だったので、もしかしたらそんな「つまらなさ」を払拭してくれるのではないか、という期待で、このSACDを聴いてみることにしました。
しかし、残念ながら、それは、この曲の印象を変えてくれるほどのものではありませんでした。あの「2番」の時のすがすがしさはいったいどこへ行ってしまったのか、と思えるほどの鈍重な演奏には、ちょっと困惑してしまいます。第4楽章のスケルツォでは、木管楽器の名人芸によるフレーズの重なり合いで、目の覚めるようなキラキラした風景を見せて欲しいのに、このもたつきはいったい何なのでしょう。それぞれの奏者がなんてことのない音符で変に引っかかっているために、流れが全く感じられなくなっています。
そんな印象を与えられたのは、もしかしたら録音のせいだったのかもしれません。なにか、高音の伸びが今一つ不足していて、開放感がまるで感じられない音なのですね。ただ、カップリングの「眠りの森の美女」組曲では、そんな窮屈な音ではなく、いかにもSACDならではの伸びやかな音が聴こえるのは、やはり録音時期の違いによるものなのでしょうか。「2番」のSACDの時と同様、今回も2010年と2011年という2つの時期が記載されているのですが、どちらの曲がどの時期に録音されたのかは明らかにされていません。ですから、2011年の少し前に機材の変更か何かがあったとすれば、交響曲は2010年、バレエは2011年の録音なのではないか、と思うのですがね。
ただ、音は見違えるように良くなっているのに、今度は演奏がずいぶん硬直したものになっていました。最後の「ワルツ」などは、優雅さのかけらもないどんくさい仕上がりなのには、がっかりでした。
余談ですが、この「ワルツ」の序奏の部分は、NHK-BSの深夜クラシック番組「プレミアム・シアター」のオープニングテーマになっています。しかし、おそらく30秒というテーマ音楽の制約からなのでしょう、ここではその21小節目から24小節目までの4小節がカットされています。確かに、この部分はその前の4小節と全く同じものですから、分からないだろうと担当者は思ったのでしょうが、そんなことはありません。この序奏は、4小節のモチーフを繰り返して8小節になった部分が4つ+エンディングの4小節という36小節で出来ています。その8小節の部分を1ヵ所4小節に縮めてしまったのですから、バランス的におかしいことは仮にこの曲を聴いたことが無い人でも気づくはずなのですからね。いくら鬘を付けても、ばれる時はばれるのです(それは「女装」)。

SACD Artwork © OehmsClassics Musikproduktion GmbH

7月28日

Sommernachts Konzert 2013
Michael Schade(Ten)
Lorin Maazel/
Wiener Philharmoniker
SONY/88883 71214 9(BD)


このところ、「ニューイヤー・コンサート」と並んで、大々的に映像の露出が目立つようになってきた、ウィーン・フィルの「夏の夜のコンサート」が、今年もDVDBD、そしてCDでリリースされました。「夏」とは言ってますが、実際に行われたのは5月30日ですから、ほとんど「初夏」といった感じですね。
「ニューイヤー」は普通にホールの中でのインドア志向でしたが、「真夏」の方は目いっぱい「アウトドア」の趣、なんたって、あの(と言っても、実際に行ったことはありませんが)広大なシェーンブルン宮殿の庭園全体が会場なのですからね。まさに山あり谷あり、大きな池まであるという敷地の真ん中に大きなテントを張って、その中で演奏します。もちろん、会場全体に音が聴こえるようにPAにぬかりはありませんし、野外フェスさながらの巨大LEDモニターで指揮者の姿をアップで見せることも忘れてはいません。
さらに、おそらくこの模様はORFによって多くの地域に生放送されるのでしょう。そのために設置されるのが、本来はスポーツ中継などで使われていた「カムキャット」というシステムです。

これは、会場の上空に長〜いワイヤーを張って、その上に小型の無線カメラを走らせる、というシステムです。最近では、それこそ「ニューイヤー」でも、ホールの天井にワイヤーを張って、シャンデリアの間をカメラが動いている映像が見られますから、視覚的にはお馴染みのはずです。ただ、やはり本領を発揮するのは室内ではなく屋外ですから、この野外コンサートでのカムキャットの活躍ぶりには、最初に見た時には感動してしまいました。もっとも、そのからくりも分かってしまい、それが何年も同じ形で続いて行くと、逆に陳腐に思えてしまうのは仕方がありませんがね。ですから、今回も同じように、手間がかかっている割には、もはやありきたりのショットにしか思えなくなるようになっている映像が登場すると、「またか!」という感慨しか起こらなかったのは、ちょっと残念なことでした。
もっと残念だったのは、当日はかなりの雨が降っている中で、このイベントが敢行されたということです。ご自慢のカムキャットのレンズには雨粒が付着してとても見ずらい映像になっていますし、なによりも、見ている人たちが雨ざらしの中でカッパに身を包んで寒さに震えながらコンサートを見ているという様子があまりにも痛々しくて。なんたって、生中継の後には、このようにパッケージが世界中で発売されることが前々から決まっていますから、いくら天気が悪くても中止になんかは出来ない事情があるのでしょうが、これはとても異様な光景に見えてしょうがありません。「シェーンブルンの雨傘」なんて、シャレにもなりません(それは「シェルブール」)。
そんな中で、ひたすら淡々と演奏に没頭しているマゼールとウィーン・フィルは、いくらそれが仕事とはいえ、ことのほか異様に感じられます。この日のプログラムは、お約束のヴェルディとワーグナー、最初の「アイーダの入場行進曲」などは、こんな鬱陶しい雨空を吹き消すような晴れやかな音楽をやってくれるのかと思いきや、それは一層滅入ってしまいたくなるような鈍重で暗い「行進曲」だったのですからね。そもそも野外コンサートには最もふさわしくない「トリスタンの前奏曲と愛の死」を、こんな雨の中で本気で格調高く演奏されたりしたら、マジで死にたくなってしまうかもしれませんよ。
ただ、ゲストのシャーデが、彼にしてはとても珍しいこの二人の作曲家の歌を披露してくれたのは、ちょっとした収穫でした。「ローエングリンの名乗り」などは、別にヘルデンでなくてもこの歌が心を打つことを見事に証明してくれたのではないでしょうか。そして、それは人気のフォークトに何が足らなかったのか、はっきり分かる歌でもありました。

BD Artwork © Sony Music Entertainment Inc.

7月26日

MOZART
Requiem & Clarinet Concerto
Lucy Hall(Sop), Angélique Noldus(MS)
Hui Jin(Ten), Josef Wagner(Bas)
Benjamin Dieltjens(B.Cl)
Leonardo Grasía Alarcón/
New Century Baroque, Choeur de Chambre de Namur
AMBRONAY/AMY038


モーツァルトが亡くなった年、1791年に作られた2つの名曲、「クラリネット協奏曲」と「レクイエム」がカップリングされたという、ありそうでなかったアルバムです。と言うのも、普通に演奏するとこの2曲を1枚のCDに収録するのはちょっと難しいのですが、ここでアルゼンチン出身の指揮者、レオナルド・グラシア・アラルコンが選んだ「レクイエム」の楽譜があまり演奏時間が長くないバージョンだったものですから。
つまり、ここでアラルコンは、ジュスマイヤーが「作曲」した(つまり、モーツァルトが作っていない)とされる「Sanctus」、「Benedictus」、「Agnus Dei」は演奏していません。ライナーノーツの中で彼は、「誰が、ミロのヴィーナスに腕を付けたいと思うでしょう」と書いていますが、確かにそれは絶妙の比喩ですね。結局、それは、同じようなコンセプトで作られたモーンダー版には含まれていた「Agnus Dei」までをも切り捨ててしまうという、徹底したものになりました。しかし、モーンダー版で新たに加えられた「アーメン・フーガ」はそのまま使っています。ただ、残りの曲では、オーケストレーションはモーンダー版ではなく、バイヤー版のものを採用しています。さらに、そこに指揮者の裁量で、トランペットなどのパートを「自由に」改変しています。確かに、「Dies irae」のトランペットは、弦楽器と同じシンコペーションのリズムを刻むという、どの修復稿にも見られないユニークな形に変わっていましたね。
そんなトランペットの扱いにも見られるように、アラルコンの演奏はとことん「自由」なものでした。特に、思いきりぶっ飛んだダイナミクスの選択には、いたるところでハッとさせられます。それはまさにラテン系のひらめきといった感じ、そんな斬新な表現によって、この曲の音楽の幅が格段に広がっています。つまり、これは決して「典礼」のための音楽ではなく作品そのものの持つ魅力を目いっぱい味わってもらいたいという指揮者の意向なのでしょう。それは、「典礼」には欠かすことのできない楽章を無理やりでっち上げたジュスマイヤーの仕事を否定したことと、見事に呼応しています。
そんな指揮者の思いに応えて、とても柔軟な音楽を聴かせてくれている合唱には、感服しました。合唱団は今回初めて聴いたベルギーのナミュールを本拠地とした団体です。韓国が本拠地ではありません(それは「ナムル」)。それぞれのパートが若々しい音色で、常に表現のベクトルがはっきり見えてくる、とても素晴らしいものです。オーケストラはもちろんピリオド楽器、こちらは2009年に出来たばかりの、本当に若い団体ですが、しなやかな表現力は魅力的です。
この「レクイエム」では、録音の時にちょっと面白い並び方をしています。指揮者のすぐ目の前にバセットホルンとファゴット、それを囲むように弦楽器とソリスト、その外周に金管楽器とオルガン、一番後ろが合唱です。メインマイクはちょうど合唱とオケの間あたりにあるので、録音のバランスとしては別に木管が目立つということはないのですが、指揮者の細やかな指示はその木管チームにすぐに伝わって、弦と一緒になったアンサンブルはとても緊密になるのではないでしょうか。
クラリネット協奏曲では、ソリストのディールティエンスはもちろん「バセット・クラリネット」を吹いています。こちらも、決してソロを目立たせるのではなく、ソロとオケとの対話を存分に楽しみつつ、そんな「悦び」を伝えようとしているような姿勢が感じられます。低音は普通のクラリネットより下まで出せるので、「楽譜通り」に演奏できますが、そんな「超低音」をことさら力まずに爽やかに吹いているのがとても気持ちよく聴こえます。もちろん、上向音型で付いたシャープは、下降するときにはなくなるという「ピリオド」の基本もしっかり押さえられています。

CD Artwork © Centre culturel de recontre d'Ambronay

7月24日

BRAHMS
Symphony No.1
Karl Böhm/
Berlin Philharmonic Orchestra
DG/UCJG-90002(LP)


最近は、かつての音楽再生ツールであった「LP」、つまり「アナログ・レコード」が見直されているのはご存知のことでしょう。これは単なるノスタルジアなどではなく、間違いなくCDよりもLPの方が音が良いことに、多くの人が気が付いてしまったからです。そんな波の最先端の動きが、日本のユニバーサル・ミュージックによる「100% Pure LP」とかいうものの開発でしょう。ただ、現物は1か月以上前に発売されましたが、価格が1枚5800円というベラボーなものでしたから、おいそれとは手は出せないな、と思っていたところに、そんなファンの心理を見透かしたように「レコード芸術」の月評でまとめて紹介されていましたね。もちろん、この雑誌に掲載されている記事の大半は、レコード会社からの物的、金銭的供与の見返りに、真実からは程遠いおべんちゃらを並べ立てるものであることなどははなから承知の上で、とりあえず1枚買ってみることにしました。
クラシックのアイテムは5点ほどリリースされましたが、その中ですでに2種類のSACDが手元にあって、音の比較には事欠かないベームのブラームスを選んでみました。
まずは外観から。輸入盤のLPなどはシュリンク・フィルムなどでシールされていますが、これはかなり厚手の軟質PVCの袋に入っています。

ところが、なんと、このLPは「ジャケット」には入っていないのです。LPをまず高密度PVCの袋に入れたものを、無地の薄い、レーベルの部分に穴の開いた紙袋に入れて、本来ならそれをボール紙で作った頑丈な袋(ジャケット)の中に入れるものなのですが、その代わりにジャケットの表裏を印刷したちょっと厚手の紙に挟まれているだけなのですよ。


なんというお粗末なパッケージなのでしょう。しかも、裏面のライナーノーツは、国内盤LP初出時、故渡辺護氏が執筆したものがそのまま使われています。これが、現物のライナーをそのまま復刻したものであればそれなりの価値はあるのかもしれないなーと思うかもしれませんが、テキストだけを現代のデザインで印刷したら、単に新たな原稿を発注する経費を惜しんだだけとしか受け取られません。実際、この半世紀前の原稿には、「シューベルトの第9(7)交響曲」などという、今では全く顧みられることのない表記も見られますからね。
そして、LP本体は透明の樹脂で作られています。かつて「ピクチャー・レコード」という、プレスの際にやはり透明の樹脂で印刷した紙を挟んで作られたレコードがありましたが、なんかそれを思い出してしまう、チープな見た目です。

これで音が悪かったら「金返せ!」と言いたくなるところですが、さすが、腐ってもLP、聴こえてきた音は、SACDとは次元の違うものでした。イメージ的な表現では、「きわめて音楽的」な音なんですね。何の無理もなく心に届くなめらかな音が、そこにはありました。もう少し具体的に言うと、SACDでは、楽器の輪郭がとても鋭角的なのですね。特定の楽器が見事に浮き出して聴こえては来るのですが、それが全体からは突出しているというイメージ、それがLPでは角が滑らかになって、見事に周囲に溶け込んでいるのです。例えば低弦のピチカートでは、SACDでは単に楽器の低音がはっきり聴こえるのに対して、LPでは、その周りの空気の振動まできちんと伝わってくるのですね。第4楽章の序奏の最後近くで現れる金管とフォゴットによるコラールは、LPからはまざまざと「神々しさ」が感じられますが、いずれのSACDからも、それは単なる音響としか聴こえません。
ただ、材料やカッティングにはものすごくこだわったようなことを言ってますが、このLPの材質はひどいものです。ちょっと静かなところになるとスクラッチ・ノイズの嵐、せっかく素晴らしい音が聴けるというのに、これでは何にもなりません。現実に、「2L」や「TESTAMENT」のLPではほとんどスクラッチ・ノイズが聴こえないことを体験できるのですから、これは到底価格には見合わない粗悪品以外の何物でもありません。非常に残念です。

LP Artwork © Universal Music LLC

7月22日

今のピアノでショパンは弾けない
高木裕著
日本経済新聞出版社刊(日経プレミアシリーズ
190
ISBN978-4-532-26190-0

3年ほど前に刊行された高木さんというピアノ調律師の方がお書きになったの、言ってみれば「続編」とでも言うべき新刊が出ました。前の本ではピアノの調律について、今まで全く知らなかったことを教えていただきましたから、今回もエキサイティングな語り口を期待しましょうか。なにしろ、こんなショッキングなタイトルですから、さぞや刺激的な内容なのでしょうから。
正直、そのタイトルに関しては期待したほどのものではなく、単なるこけおどしだったのには、ちょっとがっかりしてしまいました。ショパンの時代と現代とでは同じピアノといっても全く違うものだということぐらいは、そういうCDがいくらでも出ているので知っていましたから、「今のピアノは、ショパンが弾いたピアノとは別物」という意味でこういうタイトルを付けたのだとすれば、なんとも底の浅い発想のように思えてしまいます。
ところが、タイトルだけではなく、本文でも前の本に書かれていたこととなんら変わりのない主張が羅列されるのを見てしまうと、ちょっと疑問がわいてきます。いや、確かにここで(というか、前作で)述べられている「良心的な調律をしたければ、ホールに備え付けの楽器を使うのではなく、自ら納得のいくまで調律した楽器を運びこむべきだ」という主張は、間違いなく正論なのですが、それを、こんなに短いスパンで繰り返すことによって、逆に真実味が薄れてしまうことが、他人事ながら心配になってしまいます。
おまけに、このあたりでは例えば「ラプソディ・イン・ブルーでは、100人を超えるオーケストラが使われた」とか、「チェンバロは大きな音は出せても小さい音は出せない」といった、なんだかなぁというような記述がみられて、さらにがっかりさせられてしまいます。
前作の冒頭を飾っていた、ホロヴィッツが来日した時に、たまたまホテルに置いてあったので弾いてみたらとても気に入ったという古いスタインウェイのエピソードも、やはり今回も同じような興奮気味の筆致で語られています。そのピアノを筆者が手に入れ、それならばその楽器を、かつて演奏されていたカーネギー・ホールに持ち込んで自ら調律し、それを録音しようということになって、実際にCDも制作されたという話ですね。ただ、その時にいったい誰が演奏を行ったのかは、前作には書かれていなかったので、今回こそはそのあたりの具体的な演奏者や曲目などもきちんと知ることができるのでは、と思ったのですが、やはり「カーネギーで録音」としかありませんでした。確かに、このCDが出たときにはかなり話題になったはずですから、筆者としてはことさら述べる必要はないと思っていたのかもしれませんが、この新書の読者層を考えれば、それはかなり不親切な扱いのような気がします。あるいは、ご自分では、ちゃんと書いていたと思い込んでいたとか。確かに、別のところに唐突にそのピアニストは登場していますがね。
と、何か肝心のことが抜けているようで焦点が定まらない本なのですが、最後のあたりでホロヴィッツが自分の楽器として世界中のコンサートで使っていたピアノを筆者が手に入れる、という、ごく最近のエピソードになったとたん、今まで読んできたものはいったいなんだったのか、と思ってしまうほどの、息もつかせぬほどの迫力が出てきたのですから、驚いてしまいました。それはまるで上質のミステリーを読んでいる時のような興奮を誘うものでした。ここには、まさにそのスタインウェイ自身が波乱の「生涯」をたどった挙句に、幸せなエンディングを迎えるという、涙さえ誘いかねない感動的な物語がありました(主人公はスタイルいい)。おそらく筆者は、これを書きたいがために、前作の二番煎じをだらだらとやっていたのでしょう。

Book Artwork © Nikkei Publishing Inc.

おとといのおやぢに会える、か。


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