シベリアの理髪師。.... 佐久間學

(10/3/30-4/18)

Blog Version


4月18日

LAURIDSEN
Choral Works
Noel Edison/
Elora Festival Singers
NAXOS/8.559304


外国の人の名前を日本語で表わすのは難しいものですが、「Morten Lauridsen」というアメリカの作曲家ほど、その表記が乱立している人もいないのではないでしょうか。このページでも、以前「ポリフォニー」の演奏を取り上げた時には、「モートン・ローリドセン」という表記を使っていたはずです。「ラウリドセン」なんて呼ぶ人もいたようですね。しかし、どうやら彼の作品の主な供給先である合唱界では「ローリゼン」という言い方が一般的に用いられているような感触がありますので、そのあたりがおそらく「正解」なのではないでしょうか。「d」と「s」は別々の子音ではなく、「ds」でひと固まりの子音、というとらえ方ですね。いや、まだご存命ですが(「死因」はまだ分からない、と)。
ということで、日本語表記については結論が出たのだと思っていたら、このCDのタスキでは「ラウリセン」ですって。いや、タスキにしてもネットにしても、この○クソスさんのインフォほどいい加減なものはありませんから、とりあえずこれは無視することにしましょうね。
今回のCD、先ほどの「ポリフォニー」のものとは重なっているレパートリーもたくさんあります。最初の曲「O nata lux」は、あちらのメイン・タイトルだった「Lux aeterna」という、オーケストラの伴奏が付いたかなり長い作品の中に含まれていた、唯一無伴奏で歌われていたナンバーでしたね。この曲と、最後に置かれたやはり無伴奏のモテット「O Magnum mysterium」あたりが、おそらくローリゼンの作品の中では最も親しまれて、多くの合唱団で取り上げられているものなのでしょう。それだけおなじみのものをまず「名刺代わり」の取り上げた、1980年にここでも指揮をしているノエル・エディソンによって創設されたというこのカナダの合唱団は、たちどころに温かい音色で聴く者を魅了してくれました。
次の「6つのマドリガル」という、ルネサンス期のイタリアの詩をテキストにした曲も、やはり「ポリフォニー」のアルバムでも取り上げられていたものでした。あちらの、ちょっと息苦しいほど完璧な演奏とはちょっと方向性が異なっていて、こちらはいかにも軽やかなイタリア語の歌詞の世界が、気持ちよく伝わってくるような歌い口なのではないでしょうか。
そして、続くのはフランス語の歌詞による「Les Chansons des Roses」です。カナダ人の特性でしょうか、フランス語のディクションの自然さには惹かれます。そして、音楽もいかにもフランス風の和声と、ちょっとこじゃれたフレーズの処理が前面に出てきています。ドビュッシーの「3つのシャンソン」とどことなく似ている(というか、もろパクリ)ような曲もありますし。
ここまで聴いてくると、このアルバムのコンセプトがだんだん明らかになってくるような気にはなりませんか?どうやら、ここでは、この作曲家のテキストに対する柔軟な対応を実際に味わってもらおう、としていたのではないでしょうか。次の英語の歌詞による「Mid-Winter Songs」になると、予想通りきっちりと「英語っぽい」音楽がつけられているのですからね。たとえば、軽やかなシンコペーションなどが、そんなファクターの一つでしょうか。
そして、最後が最初と同じラテン語による静謐な世界というわけです。これほど見事にテキストに寄り添ったキャラクターの音楽が作り上げられる人だったんですね。ローリゼンさんは。もちろん、そんなことに気づかされたのは、この合唱団の言葉に対する極めて高いセンシティビティがあったからに違いありません。ほんと、こんな気持ちの良い合唱を聴いていると、別に肩肘を張って主張されなくても、包容力のある音楽の中から巧まずして伝わってくるメッセージには、真の力があることがよくわかります。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

4月15日

BACH
Markus-Passion
Dominique Horwitz(Nar)
amarcord
Michael Alexander Willens/
Kölner Akademie
CARUS/83.244


バッハは受難日の礼拝に演奏するために「マタイ」、「ヨハネ」の2つの受難曲以外にも、福音書を主なテキストにした受難曲を作っています。しかし、それらは現在は演奏できる形では残ってはいません。今でこそ、バッハの自筆稿などというものはほとんど宝物のような扱いを受けていますが、彼が生きている頃はただの紙くずだと思われて、暖炉の焚き付けにでもされてしまっていたのでしょう。なんとももったいない話ですね。
とりあえず「マルコ受難曲」は、歌詞だけは残っているのだそうです。レシタティーヴォはもちろん新約聖書の「マルコ福音書」から取られたものですし、アリアの歌詞は、「マタイ」の歌詞を作ったピカンダーの手になるものです。さらに、曲も以前作ったお葬式のためのカンタータBWV198を使い回しているという情報もあるために、一部のアリアは修復が可能でした。その修復作業の最初の成果が、1964年に出版されたディートハルト・ヘルマンによる再構築稿でした。この楽譜を使って演奏された録音が、ペーター・シュライアーが指揮をしたDECCAですね。この稿のポイントは、エヴァンゲリストの語りや、登場人物のセリフには、音楽が付けられていない、ということです。アリアなどは使い回しされた別の作品から作り直すことが出来ますが、このようなレシタティーヴォ・セッコは、テキストにあわせてバッハが作ったメロディがないことにはどうしようもありません。中には、それらしくでっち上げた稿もありますが、ヘルマンはそこまではやらなかったのでしょうね。ないものはしょうがないので、とりあえず言葉だけは、と、こういう「ナレーション」の形を選択したのでしょう。
今回のCDでは、その「ディートハルト・ヘルマン稿」を元に、さらにいくつかのコラールを加えてアンドレアス・グレックナーという人が校訂を行ったもので、2001年にこのレーベルの母体であるカルス出版から刊行されています。というか、言ってみればその楽譜を実際に音にしたサンプル、ということになるのでしょうね。
ライナーノーツも執筆しているグレックナーによると、2009年の初頭に、サンクト・ペテルブルクのロシア国立図書館で、この曲がライプツィヒの聖トマス教会で1744年に再演されたときに印刷されたテキストが発見されたのだそうです。それには、1731年の初演の時にはなかった2つのアリアが含まれているのだとか、この曲を巡っては、これからもさまざまなアプローチがなされることでしょう(それにしても、ライナーではきちんと「ディートハルト・ヘルマン」と書いてあるのに、ジャケットでは「ディートマル・ヘルマン」とありますよ。楽譜出版社がこんなところで間違えるなんて)。
ここで歌っているのは、「アマコルド」という、その聖トマス教会聖歌隊のOB1992年に結成した5人組の男声アンサンブルに、ゲストとして4人の女声が加わったメンバーです。「OVPP」とまではいきませんが、各パート2人(ベースは3人、一人余っとるど)という編成で、もちろんアリアもメンバーが歌っています。そこで気になるのは、アリアと合唱との相性なのですが、2曲あるアルトのアリアを歌っているクレア・ウィルキンソンなどは、アリアでさえもロングトーンでは全くビブラートをかけないで歌っていますから、もうこれは完全に合唱になっても溶け込んだ声であることが分かります。ソプラノの2人はソロではかなり対照的な音色なのに、合唱になると見事にイノセントな声で全体をリードしていますし。
ただ、やはりレシタティーヴォをナレーションで処理するというのには、「OVPP」以上に抵抗を感じてしまいます。これはあくまで「仮の姿」、たとえでっち上げでも、バッハっぽいメロディがあったほうが、ただ「語る」よりははるかに作品としての意味があるのではないでしょうか。

CD Artwork © Carus-Verlag

4月13日

FANTASY
A Night at the Opera
Emmanuel Pahud(Fl)
Juliette Hurel(Fl)
Yannick Nézet-Séguin/
Rotterdam Philharmonic Orchestra
EMI/4 57814 2


パユ様のニューアルバム、もしかしたらこのジャケットを見ただけで、モーツァルトの「魔笛」が連想されるかもしれませんね。そう、フルートを持ったパユ様の背景は、あの有名なカール・フリードリヒ・シンケルが制作した「魔笛」の舞台デザインなのですね。夜の女王が現れるシーンで用いられたものですが、ブックレットの裏では、その夜の女王の姿が入っている現物を見ることができます。
そんな、まるでオペラを見に行ったような思いを味わえる、オペラのハイライトのような曲が、パユ様の華麗なテクニックで披露されているのでは、と、このジャケットを見た人は思ってしまうことでしょう。それは必ずしも間違ったことではありませんが、もしかしたらそういう意味では少なからぬ失望感を味わうこともあるかもしれません。
というのも、ここでパユ様が取り上げている曲は、19世紀に盛んに作られたフルーティストの名人芸を最大限に披露することが目的のものだからなのです(そういう名人は、ゲイだったりします)。ふつうはピアノ伴奏によって演奏され、フルーティストのリサイタルには欠かせないレパートリーになっているそんな華やかな曲たちを、ここではオーケストラ伴奏に編曲してお届けする、といった趣旨なのですね。もちろん、フルート愛好家、およびパユ様の熱烈なファンにとっては、こんな素晴らしい贈り物はないのでしょうが、たとえばオペラ愛好家の人がジャケットやタイトルにつられて聴いてみたら、おそらく彼(彼女)は「だまされた」と思ってしまうことでしょう。
有名なドップラー兄弟が2本のフルートのために作った「リゴレット・ファンタジー」などは、そんな、最も「失望度」の高いものかもしれません。確かにヴェルディの「リゴレット」で歌われるナンバーのメロディは見え隠れするものの、それがドップラー達の手にかかるとそこからはヴェルディのオペラの世界はきれいさっぱり消え去り、ひたすら彼らが腕によりをかけて作り上げた華やかな超絶技巧が眼前に繰り広げられることになります。それにしても、ここでパユ様と共演している、ロッテルダム・フィルの首席フルーティスト、ジュリエット・ユレルは、何と巧みにパユの芸風に寄り添っていることでしょう。並のフルーティストにはなかなか近づけないはずの、彼独特の表現を、彼女は見事になぞっています。
ジャケットがらみで、「魔笛」の、こちらはソロ・フルートとオーケストラのための「ファンタジー」を作ったのは、20世紀生まれのロバート・ホッブスという人です。とは言っても、そのスタイルはまさに19世紀的な語法ですから、心配することはありません。この曲は、かつてグローウェルズもとり挙げていましたが、しっかり序曲から始まって、第2幕のフィナーレで大団円を迎えるという、あたかもオペラ全曲を聴いた気になるような構成をとってくれていますよ。しかし、13分やそこらでこのオペラを全部聴かせるのはもちろん無理な話ですから、気持ちだけ、ですがね。それにしても、この脈絡のない曲の配列には、オペラを知っている人の方が逆に戸惑ってしまうかもしれません。
そんな中で、ポール・タファネルが作った「魔弾の射手ファンタジー」(念のため、ここまでに出てきた「ファンタジー」という言葉は、このような技巧的な作品のタイトルとして使われるものです)は、オーケストラに編曲されたことによって、今までピアノ伴奏で聴いたときには決して感じることの出来なかった、「ドイツの暗い森」のイメージがわいてくる様を体験できてしまいました。タファネルには、ドップラーほど自身の個性を発揮する能力はなかったからなのでしょうか。あるいは、ウェーバーの音楽にはヴェルディやモーツァルトほどは、他で使い回しがきくだけの融通性がないせいなのでしょうか。それって、もしかしたらかなり名誉なことなのかも。

CD Artwork © EMI Records Ltd.

4月11日

BACH
Mass in B minor
Dorothee Mields, Johannette Zomer(Sop)
Patrick van Goethem(Alt), Jan Kobow(Ten)
Peter Kooij(Bas)
Daniel Reuss/Cappella Amsterdam
Frans Brüggen/Orchestra of the Eighteenth Century
GLOSSA/GCD 92112


2009年3月に、ワルシャワのルトスワフスキ・ラジオ・スタジオというところで行われたライブ(スタジオ・ライブ、でしょうか)録音です。その割には客席のノイズは皆無、曲が終わったあとのたっぷりと残る余韻は、なんだか空っぽのホールを感じさせるものです。おそらく、リハーサルなどのテイクを編集したものなのでしょう。ところで、ブックレットには、アーティスト達の写真に混じって、なぜかレコーディング・エンジニアの姿まで名前入りで(レック・ドゥジックというクレジット)掲載されていますが、この方はそんなに有名な人なのでしょうか。確かに、非常にバランスのよい、会場全体の雰囲気が伝わってくる素晴らしい録音ですので、この扱いは意味のあるものなのでしょう。
もちろん、素晴らしいのは録音だけではありません。ここでブリュッヘンが見せてくれた「ロ短調」は、この曲をめぐる様々な立場からの矮小な主張(「オリジナル」であるか否か、「OVPP」であるか否か)などは全く問題にならないほどの強靭な世界観の上に立ったものだったのです。無条件でひざまづきたくなるような、それは、大きな包容力を持つものでした。
それを支えていた最大の功労者は合唱パート、ダニエル・ロイスによって鍛えられた「カペラ・アムステルダム」です。以前ご紹介したアルバムでは、リゲティなどの作品で暖かなソノリテと驚異的なスキルを披露してくれていましたが、それはバッハに於いても最大限に魅力を発散するものだったのです。やや渋めの感触のトーンがすべてのパートで統一されていて、決してパート、あるいは個人の声が飛び出して聞こえてくることはありません。それでいて、ポリフォニーの綾はしっかりと浮き出してくる、という、まさに理想的な「合唱」の姿がそこにはありました。ですから、ソリスティックなパッセージがいたるところで現れるこの曲では、そんな「難所」もいとも易々とクリアしてくれていますよ。「合唱」で歌うのは不可能であるとさえ思える「Et resurrexit」での75小節アウフタクトから始まる12小節間にも及ぶ長大なベースのパートソロでも、彼らはいともやすやすと表情豊かに歌いきっています。それにしても、このベース・パートの音色の、何と柔らかいことでしょう。
バッハ自身がこの作品を「1パート一人ずつで歌わせる」と考えていたというのは、今ではかなりの信頼性を持って事実だとされています。しかし、こんな透明感のある「合唱」で歌われたものを聴いてしまうと、そのような形態では決して到達することの出来ないもっと極上の世界を作り上げる力を、この曲が確かに持っていることも思い知らされてしまいます。リフキンたちが明らかにした当時の演奏の形態は、あくまで演奏者の都合によるもので、バッハとしては出来ることなら「合唱」によって歌われることを望んでいたのでは、という「妄想」を抱くのは、果たして間違ったことなのでしょうか。
ここでブリュッヘンが曲の最後で示している悠揚迫らぬ終始の姿、これは、一見ロマンティックな趣味への回帰のようですが、そこから与えられる感動は、そんな時代様式を超えた普遍的なもののように感じられます。おそらく、それは200年以上前にバッハがこの曲の中に込めたものと同質のものなのではないでしょうか。そして、それは、「1パート一人」では決して表現することは出来ないもののように思えてなりません。
ソリストたちも、そんな世界を見事に見せつけてくれています。男声アルトのファン・ゲーテムが歌う「Agnus Dei」を聴けば、ロマンティックのかけらもない、真の深さを味わうことが出来るはずです。バスのペーター・コーイが、とんでもない音程で唯一この世界から浮き上がっているのには、目をつぶりましょうか(好意的に)。

CD Artwork © MusiContact GmbH

4月9日

Rosso
Italian Baroque Arias
Patricia Petibon(Sop)
Andrea Marcon/
Venice Baroque Orchestra
DG/477 8763


フランスのソプラノ、パトリシア・プティボンを初めて聴いたのは、このアルバムででした。まずジャケットのまるでお姫様のようなかわいらしい写真に惹かれ、もちろん、そこで歌われていたフランスのバロック・オペラにも惹かれて、すっかりファンになってしまいましたよ。2008年には初めて来日して、そのリサイタルをBSで見ることができました。そのときのプティボンの姿は、やはりさっきのジャケット写真のようにかわいらしいものではあったのですが、もはやあのような「子供っぽさ」はすっかり影を潜め、おそろしく知的な風貌に変わっていたのには、ちょっと驚かされました。そこで歌われていたものも、まさに彼女しかなしえないようなユニークな完成度を持ったものでした。ひょっとしたら、彼女は思ったほど若くはないのではないか、と、そのときには感じたものでした。
今回のジャケット写真でも、その特徴的な赤毛は変わりませんが、顔立ちはまさに成熟した女性のものですよね。確かに、経歴を見ると、コンセルヴァトワールを卒業したのが1995年とありますから、もう30代、すでに「お肌の曲がり角」はとっくに過ぎていたのです。いつまでも「縦ロール」は似合いません。
今回のDGからの2枚目のアルバムは、イタリア・バロックのアリア集です。曲目が、こちらはまだまだお若いデ・ニースのものと重なったりしていますから、どうしても比較したくなってくるのは人情というものでしょう。
そこで、お馴染み「ジューリオ・チェーザレ」の中のクレオパトラのアリアを聴き比べてみたのですが、同じくクリスティ門下でありながらその表現の方向はかなり違っているような印象を受けてしまいます。デ・ニースは、なんせ最初に見た映像でのインパクトが強かったので、CDではちょっと物足りないところもあったのですが、やはり聴き直してみると若さゆえの一途さ以外にはそれほどの魅力はないように感じられます。しかし、プティボンは違いますよ。ここで歌われている「Piangerò la sorte mia」は、まずしっとりとした曲想で始まるのですが、その味わい深いこと。なにしろ、彼女の歌は表現の振幅がとても大きいのですよ。時によっては「歌」もなくなってしまって「ささやき」だけになるかと思うと、次の瞬間には思い切り張ったフルヴォイスに変わるといったように、すべての音符に彼女の意志が感じられるのですよ。ソプラノにありがちな不安定な音程や過度のビブラートもありません。それでいて、音は輝きにあふれています。
有名な「リナルド」の中のアリア「Lascia ch'io pianga」も、ダ・カーポでの変化をデ・ニースのように装飾を用いて付けるのではなく、そんな表現の幅を最大限に生かして歌い方そのもので細かい表情を変えてしまっているのですから、ちょっとすごいことです。声の素材自体が、彼女の場合はデ・ニースをはるかにしのぐものであることが、図らずも分かってしまいました。この声を武器に、おそらく、彼女はこれからさらに円熟の度合いを加えていくことになるのでしょう。とても楽しみです。
マルコン指揮のヴェニス・バロック・オーケストラも、やはり多彩な表情でバックを務めています。何よりも普段あまり見かけない「パーカッション」や「ギター」といった楽器が加わった編成が、めざましいほどの活きの良さを音楽に与えているのにはうきうきしてしまいます。そういえば、どちらの楽器もポップスの世界では「リズム楽器」、彼らの産み出す「リズム」こそが、そんな生命感の源だったのでしょう。「アントニオ・サルトリオ」などという、全く初めて聴いた作曲家の作品なども、彼らの手にかかるととてもキャッチーに聞こえてきます。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

4月7日

BACH
Matthäus-Passion
Christoph Genz(Evangelist)
Jan Van der Crabben(Jesus)
Sigiswald Kuijken/
La Petite Bande
CHALLENGE/CC 72357(hybrid SACD)


OVPP」による、おそらく3番目の「マタイ」です。とは言っても、以前のジョン・バット盤の時にも行っていたように、レシタティーヴォ・セッコで出てくるエヴァンゲリストとイエス以外の「端役」の人たちはコーラス要員以外に用意する、という理にかなった人選になっています。いや、そもそも「マタイ」で「1パート一人」というのが理にかなっているのか、という議論の方がよっぽど大切な気はしますが。
もう一つの特徴としては、ヴァイオリン奏者である指揮者のシギスヴァルト・クイケンが、ヴィオラ・ダ・ガンバを演奏している、というクレジットがある点が挙げられます。いや、彼の場合、「チェロ」だったら以前から頻繁に演奏していたのは、良く知られたことでした。ただし、その際に用いられる楽器が「ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ」という特殊なものであったことには注意しなければいけません。英語だと「ショルダー・チェロ」、これは、肩から吊すことが出来るようなちょっと小振りの楽器で、構え方もヴァイオリンに近く、ヴァイオリン奏者でもすんなり演奏できるようになっています。ですから、クイケンはここではその楽器を使っているのかもしれません。しかし、音を聴いてみるとそれは紛れもないヴィオラ・ダ・ガンバですから、もしかしたらガンバそのものに肩ひもを付けて、横に構えて弾いているのかもしれませんね。つまり、「ガンバ(足)」ではなく「スパッラ(肩)」、「ヴィオラ・ダ・スパッラ」という新しい(?)楽器に「改造」しているのでしょうか。このあたりは、ライナーのインタビューでも触れられていませんし、録音風景の写真も全くありませんから、本当のことは分かりません。彼の経歴を見ると「最初に手にした楽器がヴィオラ・ダ・ガンバ」などとありますから、大人になってもひそかに頑張って練習していたのでしょうか。
さらに、演奏には全く関係のないことなのですが、この3枚組のSACDでは「通し」のトラックナンバーが付けられているのです。どういうことかというと、普通「マタイ」の場合は、新全集の番号にしたがってトラックが切られていますから、1枚目については「曲」の番号とトラックナンバーは完全に一致しています。しかし、2枚目になると、例えばその始まりが「第2部」の頭だったとすれば、本来は「30番」になるところが、トラックナンバーは「1」に戻ってしまうのですね。それは当たり前の話、事実、同じSACDでも先ほどのバット盤では、そんな風に2枚目と3枚目のディスクの最初は常に「トラック1」になっていました。しかし、このクイケン盤は、それが最後まで曲の番号と同じトラックナンバーが付けられているのですよ。ですから、2枚目は「トラック30」から始まる、というわけです。
これは本当に便利ですよ。例えばスコアを見ながら聴いているときなどは、今演奏されているものが何番なのか、すぐ分かるのですからね。もちろん、CDレイヤーではそんなことは出来ませんが。
そんな、さまざまな特徴を持つアルバムですが、演奏自体はそれほど共感出来るものではありませんでした。一番いけないのは、ソリストたちがアンサンブルの合唱にまわったときに、全く声が溶け合っていないことです。特に第2コーラスのソプラノのマリー・クイケンがなんとも頼りのない声なもので(8番のアリアはかなり惨め)、テノールなどの内声にかき消されてしまってなんともひどいバランスになってしまっています。「OVPP」のデメリットとは、こういうことなのですよ。
オケの方も、トラヴェルソがほとんど聞こえてこないのは、録音のせいでしょうか。49番のアリアでも、オーボエ・ダ・カッチャがあまりににぎやか過ぎて、せっかくのマルク・アンタイのソロを隠してしまっています。

SACD Artwork © Challenge Records Int.

4月5日

MAHLER
Symphonic Poem in Two Parts "Titan"
Jan Willem de Vriend/
The Netherlands Symphony Orchestra
CHALLENGE/CC 72355(hybrid SACD)


マーラーが作った「2部から成る交響詩『巨人』」なんて、なんか聞き慣れないタイトルじゃないですか?これは現在では「交響曲第1番」と呼ばれている有名な作品が最初に演奏された時のタイトルなのです。いや、正確には1889年にブダペストで初演されたときには、「巨人」というサブタイトルは付いてはいなかったのですがね。そうなってくると、このタイトルで演奏されたのは1893年のハンブルクでのことになるのです。つまり、これは最初に作ったものをマイナー・チェンジ(改訂とも言う)したもの、ということになります。ちなみに、この頃までは楽章は「第1部」には3つ、「第2部」には2つと、全部で5つありました。後に何度かモデル・チェンジされるうちに、「花の章」と名付けられた2番目の楽章は削除され、現在あるような4楽章の形に、そしてタイトルも「交響詩」から「交響曲」と変わっていったのですね。さらに、その頃には「巨人」という呼び名も削除されてしまいます。つまり、未だに一部のCDで見られるような「交響曲第1番『巨人』」などというものは、マーラーは作ってはいなかったのです。さらに付け加えると、現在全集版として出版されている決定稿は、このハンブルク稿とは楽器編成や細かいオーケストレーションが異なっていますから、そこに「花の章」だけを加えて演奏するのも、作曲者の意図をねじ曲げたものになってしまうわけです。
久しぶりにリリースされた「花の章」付のこの曲を演奏しているオランダの中堅指揮者デ・フリエントは、まずタイトルからしっかり「ハンブルク稿」であることにこだわって、このマーラーの初期の構想をそのままの形で示そうとしています。以前若杉弘が東京都響と同じような形で演奏したものがCDになっていましたが、最近ではほとんど見られない試みですから、楽しみです。
デ・フリエントが音楽監督を務めているネーデルランド交響楽団は、オランダ東部の都市ズヴォレを根拠地に、ワールドワイドに活躍しているオーケストラ(なぜか、このオーケストラも、そして指揮者も、音楽之友社が発行している最新の名鑑ムックには掲載されていません)です。録音会場の響きがよいのか、ミキサーの腕が良いのか分かりませんが、もしかしたらマーラーにはふさわしくはないのかもしれない透明感あふれる音色は、とても心地良いものでした。管楽器はちょっとオフ気味ですが、弦楽器が全体を包み込む中から、しっかり「オケの一部」という感じで聞こえてきます。金管の咆吼にしても、決して生々しくはならない慎ましさが光ります。
そんなサウンドで決定稿である全集版との違いを耳で確かめるのは、ちょっと難しいかもしれません。まず第1楽章が始まってすぐのクラリネットの三連符が、ここではホルンによって演奏されているのですが、気づかないで素通りしてしまうかもしれませんね。しかし、第3楽章(つまり「第2楽章」のスケルツォ)では、頭からいきなり低弦と同じリズムでティンパニが入っているので、確実に「違ってる」のが分かります。これはかなりショッキング。でも、「フレール・ジャック」のメロディが短調になって現れる第4(第3)楽章のコントラバス・ソロも、このハンブルク稿はコントラバスとチェロの「ソリ」なのですが、言われてもまず分からないでしょう。
最後の楽章で盛大に響き渡るはずのホルン(よく、立ち上がって演奏しますね)が意外に聞こえてこないのは、楽譜のせいなのか、演奏のせいなのかは良く分かりません。しかし、この楽章の真ん中で、弦楽器が思い切り歌うべきところをいとも平静さを装っているのを聴くと、これもデ・フリエントの作戦なのでは、思えてきます。今のようにがむしゃらに盛り上がるのではなく、なにか醒めた(冷めた)ものがハンブルク稿にはあることを、彼は感じとったのかもしれません。効き過ぎたエアコンみたいに(それは「震えんと」)。

SACD Artwork © Challenge Records Int.

4月3日

TORMIS
Visions Beyond Estonia
Ants Soots/
Estonian National Male Choir
ALBA/NCD 31


さる合唱指導者によると、「日本の男声合唱団の9割はハモっていない」のだそうです。それは確かに痛いところをついているのかもしれませんね。やはり「男声」と聞いて思い浮かぶのは、なんたって「ハーモニー」よりは「力」ですからね。いや、これは別に「日本」に限ったことではなく、外国の団体でも事情は同じことです。例えば、ロシアの男声合唱なんていったら、地を這うような重た〜い声が押し寄せるようなイメージはありませんか?そこでは、ハーモニーなどはどこかへ行ってしまって、ほとんど「クラスター」と区別がつかないような音の「塊」が迫ってくるように思えることでしょう。それでこそ、「ロシアの広大な大地」みたいなものが伝わってくるのではないでしょうか。
フィンランドのALBAレーベルからシリーズでリリースされていたトルミスの男声合唱、実は先日の「カレワラ」の、前にリリースされていたのが、この「エストニアを超えて」というタイトルのアンソロジーでした。代理店の都合かなんか知りませんが、出来れば順番は守って欲しいものです。いずれにしても、「エストニアのヴィジョン」というシリーズの3作が終わったあと、エストニア以外の国の民族音楽を素材にしたトルミスの作品を集めたものになりますね。
ここでは、まずその「ロシア」の曲に、強烈なインパクトを感じることが出来るはずです。英語表記だと「North Russian Bylina」という作品、ここではまさにそんな「ハモり」を超えた「ロシアの響き」を思う存分に味わうことが出来ます。ソリストが同じメロディを繰り返す中を、合唱が追いかけるという単純な手法なのですが、時折大胆な転調で景色をガラリと変えつつ、ひたすら「ハモらない」合唱が続きます。その中では、「オクタヴィスト」という、超低音を出す人の声も聞こえてきます。こうなると、もう理屈ではなく、ほとんど体育会系のノリのサウンドが直接体にまとわりついてくるという快感を堪能することになります。ある意味、マゾの世界ですね。おそらく、この快感は分かる人にしか分からないものなのでしょう。この曲、ずっとロシア語で歌われているものが、最後になってエストニア語で「解説」めいた語りが入ったりするのも、面白いところです。
いや、このエストニア国立合唱団のすごいところは、そんな「特殊な」ものだけを追求しているのではない、というあたりです。同じ民族音楽とは言っても「Three Livonian Folk Songs」あたりになると、まるで別の合唱団なのでは、と思えるほどきれいに「ハモって」いるのですからね。それだけ表現の幅が広いということ、決して「ハモらない」ことを売り物にしているのではないのですよ。というか、トルミスの曲はそこまでキャラクターを変えることが要求されるという、深いものなのでしょう。おそらく楽譜を見ただけでは、そこまでの深さを表現することはなかなか難しいはずです。それは、ある意味音楽的なスキルだけでは解決の出来ない、「血」までも関わってくるものなのかもしれませんね。
そんな民族的な素養が端的に表れているのが、「リズム感」なのかもしれません。おそらく日本の合唱団が歌ったら、さぞかし鈍くさいものになるのでは、というリズムをさりげなくこなして、なんとも楽しげなグルーヴを産み出しているのは、さすがです。
そんなすべての要素を詰め込んだ感のある「Peoples' Friendship Rhapsody」という長大な曲は圧巻です。エストニアから始まって、ロシア、モルドヴァ、アゼルバイジャン、カザフなど、まさに「民族のるつぼ」を音楽で表現、こんなことはこの男声合唱でなければ出来ません。ひとしきり「ロシア」で盛り上がったあとで訪れる静寂、そして最後には「エストニア」がストンと戻って来るんですよ。なんというかっこよさでしょう。

CD Artwork © Alba Records Oy

4月1日

モーツァルト殺人法廷
Mozart muss sterben-Ein Prozess
ルドルフ・アンガーミュラー著
久保田慶一、小沢優子訳
春秋社刊
ISBM978-4-393-93548-4

35歳と10ヶ月ちょっとという若さでこの世を去ってしまったモーツァルトですから、その死因を巡っては多くの憶測が駆けめぐったことでしょう。いつしか、彼はだれかに毒殺されたのでは、という噂がまことしやかに囁かれるようになったのは、ご存じの通りです。そして、その噂は例えばロシアの文豪プーシキンの戯曲「モーツァルトとサリエリ」などでフィクションとして扱われることによって、あたかも現実であるかのように世間に流布することになりました。さらに、この作品をテキストに用いたリムスキー・コルサコフの同名のオペラも作られます。このオペラを実際に見たことがありますが、ここでは、なにしろ「オペラ」ですから、モーツァルトの作品を大胆に引用したりして、非常に分かりやすい形でこの「毒殺説」を描いていたような印象がありました。
そしてごく最近、1979年にピーター・シェーファーが「アマデウス」という戯曲を発表するに至って、「サリエリがモーツァルトを毒殺したのかも」という「噂があったこと」が、一気に世の中に広まることになります。この戯曲は江守徹によって翻訳された国内版も出版され、彼と松本幸四郎が演じたステージも大評判となりましたね。さらに、1984年には原作者が脚本を担当した映画まで公開され、それがアカデミー賞では主要3部門を含む8部門でオスカーを獲得したものですから、もはや「サリエリによる毒殺説」は、誰一人として知らないものはないほどに広まってしまったのです。
もちろん、「アマデウス」のストーリーはプーシキンを下敷きにしたシェーファーの完全な創作なのですが、なまじそこで演じられていたモーツァルトの姿が、研究者の間では良く知られていた素顔を反映していたものだったことから、そこでのサリエリのキャラなども本当のことであるかのように錯覚してしまう人が出てきてしまったのは、ちょっと困ったことです。いや、逆に、ここで「ダメな作曲家」の烙印を押されたことによって、今まで日の目を見なかった作品が録音されたりして、本当はそんなに「ダメ」ではなかったどころか、実はモーツァルトをしのぐほどの才能の持ち主であったことが明らかになったのですから、かえって喜ぶべきことなのかもしれませんね。
高名なモーツァルト研究者であるアンガーミュラーが2005年に著したこの本は、かなりスキャンダラスなタイトル(原題は「モーツァルト、死すべし(公判記録)」)で、全編が架空の裁判の公判記録という体裁をとっています。しかし、内容は至極まっとうなものでした。要は、モーツァルトに恨みを抱いていて、もしかしたら「死すべし」と思っていた(あるいは実際に口にしていた)人たちを広範に探し出して「被告人」に仕立て、現存する膨大な資料を、その「被告人」が供述する、という形を取って提示しているだけの話なのですね。時折、わざと話を脱線させて、裁判官が「関係のない話はしないように」みたいに突っ込んでいるあたりが、著者にしてはユーモアのつもりなのでしょうが、ちょっとそこで笑うのは辛いものがあります。
当然のことながら、サリエリを含めたすべての被告人には「無罪」の判決が下されてしまいます。いったい、この「裁判」はなんだったのでしょうか。
ですから、ここではもっぱら、詳細極まりない「証言」を元に、晩年のモーツァルトの真の姿を垣間見る、というのが、正しい味わい方になるはずです。ほんと、「プフベルク書簡」で有名な、フリーメーソンの仲間ミヒャエル・プフベルクの「証言」による、モーツァルトの経済状況と、借金の無心をねだる、殆ど「詐欺師」まがい、歯の浮くようなおべんちゃらたらたらの手紙の文面などは、この退屈でくそ真面目な「裁判ごっこ」の中では、ひときわリアリティの感じられるものでした。

Book Artwork © Shunjusha Publishing Company

3月30日

ROSSINI
Overtures(for wind quartet)
Andrea Griminelli(Fl), Corrado Giuffredi(Cl)
Danilo Marchello(Hr), Rino Vernizzi(Fg)
DECCA/476 5245


グリミネッリの「新譜」なのですが、前作同様、レーベルがイタリアUNIVERSALなので4年も前にリリースされたものが今頃日本国内で出回っています。しかも、録音されたのは17年前、きっと本人は録音したことも忘れているのではないでしょうか。
フルート、クラリネット、ホルン、ファゴットという、通常の木管五重奏からオーボエを外した木管四重奏の形で演奏されているロッシーニの序曲などというものは、初めて聴きました。編曲したのが、ロッシーニと同時代のクラリネット奏者、ヴィンチェンツォ・ガンバーロという、春闘みたいな(それは「ガンバロー」)名前のイタリア人です。この方はパリの「テアトル・ロワイヤル・イタリエン」という劇場のオーケストラの首席クラリネット奏者を務めていて、ロッシーニ本人とも交流があり、1825年にはロッシーニから2本のクラリネットとオーケストラのための変奏曲をプレゼントされています。その時に2番クラリネットを演奏したのは、ガンバーロと同じオケの2番奏者、フリードリッヒ・ベールでした。
この編曲は、よくある「ハルモニー・ムジーク」のような、適当にカットを施したいい加減なものではなく、原曲通りの尺が維持されています。それが木管楽器だけで演奏されるのでは、さぞや退屈だろうな、という当初の予想は、この4人のとても力のある奏者の渾身の演奏によって、見事に裏切られることになりました。中でも、フルートのグリミネッリとクラリネットのジュフレディの「怪演」といったら、まさに胸のすくようなものです。オケ版に比べて足らないものは、「どろぼうかささぎ」のスネアドラムぐらいしか見あたらないほど、完璧に原曲の世界が再現できています。「セミラーミデ」のホルンによる四重奏だって、よく溶け合うこの4人の楽器でそれっぽい雰囲気が充分に出ていますしね。もちろん、この曲での管楽器の聴かせどころの掛け合いなどは、お手の物でしょう。そして、驚くべきことに、「グリエルモ・テル」の冒頭の5本のチェロのアンサンブルまで、4人でやってしまうのですからね。
「序曲」は、その他に、「チェネレントーラ」と「オテロ」が演奏されていますが、最後にもう1曲、ロッシーニ自身が1812年に作ったこの編成のためのオリジナル作品「アンダンテ、テーマと変奏」が加わっています。その名の通りゆっくりした序奏と、テーマに続く5つの変奏、そしてコーダから出来ているという分かりやすい作品です。このCDでの表記が「Tema, andante e variazioni」となっているのは、なにかの間違いでしょう。これは、SCHOTTから出版されている「6つの木管四重奏曲」の中の「第6番」として、演奏される機会も多い作品です。他の四重奏曲はロッシーニの、やはり6曲ある「弦楽のためのソナタ」の「3番」以外を編曲したものですが(番号は、1、2、4はそのまま、5が3に、6が5に変わっています)、これだけがオリジナル、ちょっと毛色が変わっています。ただ、このCDで演奏されているのは、そのSCHOTT版とは微妙なところで異なっています。楽譜には「F.ベールにより出版」とありますので、もしかしたらさっきのフリードリッヒ・ベールが、「ソナタ」と一緒にこちらもロッシーニの楽譜に少し手を入れて出版したのかもしれませんね。
こちらは、「変奏」で、それぞれのメンバーがとびっきりのパフォーマンスを聴かせてくれて、その凄さを見せつけてくれます。4人がそれぞれものすごいテクニックを持っている上に、いかにもイタリア人ならではの、ほとんど羽目を外すほどの大げさな「歌心」が加わっているのですから、もう怖いものなどありません。
これは、ロッシーニがオペラで発散させていたとびっきりの楽しさを、4人の管楽器奏者が最大の共感をもって披露しているものです。聴いていて楽しくならないわけがありません。

CD Artwork © Universal Music Italia s.r.l.

おとといのおやぢに会える、か。


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