旱(ひでり)を!.... 佐久間學

(07/7/14-07/8/1)

Blog Version


8月1日

BACH
Matthäus-Passion BWV244b
Ute Selbig(Sop), Britta Schwarz(Alt)
Martin Petzold(Ten)
Matthias Weichert, Thomas Laske(Bas)
Georg Christoph Biller/
Thomanerchor Leipzig, Gewandhausorchester
RONDEAU/ROP4020/21/22


バッハの「マタイ受難曲」がライプツィヒで初演されたのは1727年のことですが、現在普通に演奏される時には後の1736年に演奏された時に改訂された楽譜が使われています。BWVでも、244として掲載されているのはその形のものです。改訂される前のいわゆる「初期稿」は、発見されたのがごく最近、1970年でしたから、BWVでは244bとなっています。ちなみに、BWV244aというのは、「マタイ」のパロディ、つまり「使い回し」である、ケーテンのレオポルド公のための葬送音楽です。
この初期稿、コンサートでは例えばバッハ・コレギウム・ジャパンなどが演奏していましたが、正規のCDとして出るのはこのビラーによるものが世界で初めてのものとなります(プライヴェート盤では、日本のアマチュア合唱団のものがありました)。ビラーたちは来日公演の際にもこの初期稿で演奏していましたから、長い時間をかけて練られた演奏が満を持して録音されたということになります。
BWVを見た限りでは、初期稿と通常稿との違いは第1部の大規模な合唱が、13小節しかない普通のコラールだということと、57番のバスのアリアのオブリガートが、ヴィオラ・ダ・ガンバではなくリュートになっているというぐらいの違いしか分かりませんでした。しかし、実際に聴いてみると違いはそれだけではありませんでした。例えば17番のコラールは歌詞が別のものになっていますし、第2部の最初に歌われる30番の感動的なアルトのアリアは、バス歌手によって歌われていたのです。それだけではなく、アリアなどのメロディラインが、なにか聴き慣れたものとは異なっているのに気づかされます。よく聴いてみると、それは装飾の違いであることが分かります。それがはっきり分かるのが、8番のソプラノのアリア。特に中間部で十六分音符や三十二分音符で華やかに彩られた部分は、いともあっさり八分音符で片づけられていて拍子抜けしてしまうほどです。同じメロディをユニゾンで吹いているフルートのパートもありませんし。
思うに、これはバッハの時代の習慣なのですが、メロディはほんの骨組みだけを書いておいて、実際に演奏するときには演奏家の裁量で装飾を付けるというものの、言ってみれば「使用前・使用後」の形が現れた結果なのではないでしょうか。1727年に作った楽譜は、大体のアウトラインだけ、もちろんそれを歌った歌手はそれなりの装飾を施して歌ったことでしょう。バッハはそれを(あるいは、もっと良いフレーズを考えて)1736年にはきちんと譜面に書き起こしたと。例えば「アポジャトゥーラ」と呼ばれている前打音などは、楽譜に書かれていなくても普通は付けて演奏するものです。ですから、そのような必要なものまで「楽譜通り」に付けないでおくというこの演奏は、「初期稿」の譜面づらを知るための効用はあるかもしれませんが、他人に聴かせるための演奏としてはちょっと硬直したアプローチのような気がするのですが、どんなものでしょう。
そんな、ちょっと不自然な面に目をつぶれば、これはなかなか聴き応えのあるものです。聖トマス教会の合唱はいつもながらの安定感を見せていますから、児童合唱特有の危うさは全く感じることは出来ません。ビラーの目指している細やかな感情表現をとても豊かに作り上げています。ソリスト陣ではエヴァンゲリストとソロを一人で受け持っているペツォルトが、まさにその細やかな情感を高いレベルで表現していて素敵です。オーケストラはもちろんモダン楽器ですが、しっかりバッハの様式を捉えた素朴さが光ります。49番のソプラノのアリアでのフルートのオブリガートを吹いている人は、おそらく木管の楽器を使っているのでしょう、渋い音色が心を打ちます。もちろん、必要な装飾を付けてくれていたら、何も言うことはなかったことでしょう(「今度からはそうしよう」ですって)。

7月30日

SCHNITTKE
Symphony No.0, Nagasaki
Hanneli Rupert(MS)
Owain Arwel Hughes/
Cape Town Opera Voice of Nation
Cape Philharmonic Orchestra
BIS/BIS-CD-1647


1957年に完成した「交響曲第0番」と、1958年に作られたオラトリオ「長崎」という、シュニトケの最初期の作品の、もちろんCDとしては初めての録音です。「交響曲」の方は完成した年にモスクワで演奏されていますが、「長崎」はラジオ放送用に録音されただけ(「1959年に日本で放送されたんですって」「ほう、そうですか」)で、このCDの録音と同時に行われた200611月のコンサートが、世界で初めての公開演奏となりました。そもそも、この2曲ともロンドンの「シュニトケ・アーカイブ」に残された自筆稿のコピー自体にかなり欠落や不明瞭な部分があったので、モスクワ音楽院や、モスクワ放送局のライブラリーで調査を行い、修復を施されて演奏可能な状態になったということです。
4楽章の古典的な形式を持つ交響曲は、殆どショスタコーヴィチの亜流のような印象を受けるもの、いかにも親しみやすいテーマが出現する各楽章は、難解さとは全く無縁のたたずまいを見せています。スケルツォ楽章である第2楽章のテーマは、一見複雑なリズムが出てきますが、それは十分に聴きやすさの範疇に収まっています。中間部のメロディアスなテーマも魅力的。そして、第3楽章の、まずファゴットのソロで提示されるしっとりとしたテーマも、なかなか深い味わいです。ショスタコーヴィチですと、それに続くフィナーレは華々しい迫力あふれるものになるところが、ここがシュニトケならではの個性が発揮されたところでしょうか、ちょっと斜に構えたテイストに仕上がっているのが面白いところです。
「長崎」は、もちろん長崎に落とされた原爆の惨状と、それを乗り越えてみんなで平和な世界を作り上げようというメッセージ(もちろん、冷戦時のアメリカに対する批判)が込められた、5楽章からなる大規模なカンタータです。テキストには、「ソ連」のプロパガンダ詩人アナトリー・ソフロノフのものと、島崎藤村、米田栄作という2人の日本人の詩のロシア語訳が用いられています。
メゾソプラノ独唱と混声合唱、それに大編成のオーケストラという大規模なオーケストレーションなのですが、単に木管楽器が4人ずつ(4管編成)という人数的なことだけではなく、ピアノ、チェレスタ、パイプオルガン、そしてなんとテルミンまで用いられているというユニークさには圧倒されます。第1楽章や第2楽章などは、単調なリズムに乗って、華やかな金管楽器が彩りを添えるという、まるでオルフの「カルミナ・ブラーナ」のような壮大なストレートさで迫るものです。ロシア語の歌詞の中にあって、「ナガサキ」という響きは、何度も何度も繰り返されて、いやでも耳に染みついてしまいます。
しかし、第3楽章では、かなり前衛的な扱いが見られ、そこまでとはひと味違う、緊張感が走ります。そして、次の第4楽章が、音楽的には最も実りが多いと感じられた部分です。薄目のオーケストレーションの中で、注意深く新しい響きを作り出しているあたりが、シュニトケのアイデンティティのあらわれのように聞こえます。最後の楽章でも、高らかに歌い上げられてはいても、なにか醒めたものが感じられるのは、ソフロノフの詩には決して共感してはいなかった作曲者の創作姿勢のあらわれなのでしょうか。
南アフリカ共和国には2つしかないプロのオーケストラの一つ、ケープ・フィルは、管楽器を中心に色彩的で力にあふれたサウンドを披露してくれています。ただ、写真で見ると弦楽器の人数がかなり少なめなのが気になります。実際の録音でも弦楽器には豊かさというものがまるで感じられない薄っぺらなものでした。「長崎」で頻出する変拍子にも、ちょっとした甘さが感じられてしょうがありません。合唱は言葉を失うほどのひどさ。いくらロシアの曲だといっても、ここまで音程がないとただの叫びになってしまいます。

7月28日

DURUFLÉ
Requiem
加納悦子(MS)、三原剛(Bar)
鈴木雅明(Org)
堀俊輔/
東響コーラス、NHK東京児童合唱団
東京交響楽団

LIVE NOTES/WWCC-7556


デュリュフレのレクイエムには、オリジナルのフル・オーケストラ・バージョンの他に、オルガン・バージョンと室内オーケストラ・バージョンがあります。最近は手軽なオルガン・バージョンがよく演奏されているようで、CDの種類もこれが最も多くなっています。確かに、合唱だけを見てみればこのオルガン・バージョンには素晴らしい演奏が多いのは事実、まさに理想的とも言える素晴らしい合唱を聴かせてくれているCDがたくさんありますから、この曲に関しては殆どこのバージョンだけで満足してしまう人が多いことでしょう。
しかし、いくら合唱の水準が高くても、オルガンだけの伴奏ではなにか足らないような気がしてならないのは、例えばデュリュフレの自作自演盤(ERATO)などで、この曲の色彩あふれる肌触りと、大オーケストラならではのダイナミック・レンジの広さを体験してしまっているせいなのでしょうか。一度これを味わってしまうと、オルガン版はいかにも平板に聞こえてしまいますし、殆どの管楽器のパートをオルガンに置き換えた室内オーケストラ・バージョンも、大差ないように思えてしまいます。
この「おやぢの部屋」が始まって以来ずっと新譜がなかったというほどに待望久しいオリジナル・バージョンが、なんと日本人の演奏で登場しました。2006年の10月に東京オペラシティコンサートホールで行われたコンサートのライブ録音、はたして、この曲の色彩感を存分に味わうことは出来るのでしょうか。
演奏している東京交響楽団は、素晴らしい演奏を聴かせてくれています。そういえば、明日は選挙ですね(投票交響楽団)。最近の日本のオーケストラの水準の高さには驚かされますが、以前は(何十年も前のことですが)なんとも冴えないものだと思っていたこの中堅オケは、いつの間にかちょっとした外国のオーケストラなど軽く凌駕するほどの実力を備えるようになっていたのですね。特に木管楽器のしなやかな音色は、とても満足のいくものでした。久しぶりに味わえたフル・オケならではのテクスチャー、同じ音符であっても、オルガンのパイプからは決して生まれない、人間が吹いているからこそ味わえる微妙な音のエンヴェロープを、しっかり楽しむことが出来ました。まさに、こんなところにこんな楽器が入っていたのだという新鮮な驚きを随所で体験できた喜び。「In Paradisum」の最初の部分の神秘的な響きは完璧です。
それに比べると、合唱に関してはちょっと不満が残ります。メインはこのオーケストラの付属の合唱団として作られた混声合唱団、もちろんアマチュアですが、一人一人の能力はおそらくかなり高いものがあるはずです。しかし、この日のコンサートに臨んでのトレーニングは、必ずしも万全ではなかったような気がしてなりません。なにしろ、冒頭の「Kyrie」で出てくる男声のピッチが恐ろしく暗め、それだけでがっかりしてしまいました。それを受ける女声も、音程こそ美しいのですが特にソプラノの過剰なビブラートは、この曲との違和感を募らせるものでしかありませんでした。最後の2曲に登場する児童合唱も、変に大人びた発声でなじめません。
そうは言っても、今まで出ていたこのバージョンのCDで、合唱もオケも満足のいくものなどは皆無でした。そのようなものが聴けるのは、先の楽しみとしてとっておくことにしましょう。この演奏でも、実際に会場で聴けば十分に感動的なものだったはずです。最後の音が消えてから10秒近く聴衆が凍り付いたようになっていた事実が、そのことを物語っています。
カップリングとして演奏されたのが、デュリュフレその人に師事したただ一人の日本人作曲家、尾高惇忠の「オルガンとオーケストラのための幻想曲」です。多少冗長なところはありますが、時折師匠のフレーズが見え隠れするという粋な曲です。

7月26日

MOZART
Symphonies Nos. 40 & 41
Bruno Weil/
Tafelmusik Orchestra
DHM/82876-89504-2
(輸入盤)
BMG
ジャパン/BVCD-34040(国内盤)

このCD、「レコ芸」の最新号に国内盤のレビューが載っていたのですが、ちょっと気になることが書いてあったので、珍しいことに輸入盤ではなく国内盤をゲットです。そこには、「41番」の楽譜にミスがあることを、指揮者のヴァイルが発見した(確かに、国内盤の帯にはそのことがセールスポイントであるかのように、大々的に記載されています)、ということと同時に、それだけメーカーが力を入れているポイントにもかかわらず、日本語のライナーノーツではそれに対する反論が述べられているということが書いてあったではありませんか。これはぜひとも現物を読んでみなければなりません。
まず、ヴァイルの主張を一緒に掲載されてある楽譜を見ながら読んでみると、確かに彼の言うとおりにファゴットの音が3度ずれているような気になってきます。実際、このまま演奏するととんでもないクラスター(レミファソという「和音」)が生じてしまいますから、モーツァルトの作品としてはちょっと気持ち悪い響きにならざるを得ません。実際は今まで何回もこの部分を聴いていながら何も感じることはありませんでしたし、今回改めて楽譜通り演奏しているものを聴き直してみても特段の違和感はありませんから、そんなに目立つものではありません。ただ、ヴァイルたちは、管楽器だけの分奏の時にこれを発見したということ、確かにここだけ抜き出して吹いてみれば、明らかに「間違っている」という思いを、耳の良い演奏家でしたら確実に抱くに違いありません。
ですから、国内盤のライナーでわざわざ「反論」を述べている安田和信さんという方の論旨には、学術的な正当性だけを問題にして、ヴァイルの提案からは微妙に目をそらせているような態度が感じられてなりません。楽器で音を出しさえすれば、この部分は「おかしい」と感じるのが、まっとうな音楽家だと思うのですが、どうでしょう。もう一つ不思議なのは、こんな反論の掲載を許した日本のメーカーの姿勢です。いかに「と」であっても、自社のアーティストが主張していることなのですから、それを販売するのなら一蓮托生の覚悟で臨むのが、メーカーとしてのあるべき姿なのではないのでしょうかねえ。マイカーはやめるとか(それは、「一円タクシー」)。
ヴァイルが率いるターフェルムジーク・オーケストラは、しなやかさという点ではモダンオーケストラとも十分に拮抗出来るほどのものを身につけています。中でも木管セクションは、ヴァイルがまちがいに気づいたというのも頷けるほど、ひところのオリジナル楽器とは隔世の感のある精緻な音程をみせつけてくれています。クラリネットが入っていない第1稿による「40番」では、その引き締まった音色で存在をアピール、指揮者の求めたキビキビとしたスタイルによく応えています。アンダンテ楽章がいかに軽快なテンポで進もうと、彼らは決して浮き足立ったりせず、インテンポの音楽を誠実に作り上げていきます。
41番」になると、うってかわって華やかな、殆ど脳天気というほどの音楽が繰り広げられます。ここでも基本はインテンポ、軟弱なリタルダンドなどは見せずに小気味よく走り続ける軽快さは素敵です。この演奏がもたらす爽快感は、モーツァルトの音楽には過剰の思い入れなど全く必要ではないことを教えてくれています。鬼の首を取ったように声高にまちがいを指摘するのも、本当は必要のないことなのかもしれません。もちろん、それに対する反論などは、矮小極まりないものです。

7月24日

MOZART
Le Nozze di Figaro
Bernd Weikl(Il Conte di Almaviva)
Gundula Janowitz(La Contessa)
Hermann Prey(Figaro)
Lucia Popp(Susanna)
Agnes Baltsa(Cherubino)
Jean-Pierre Ponnelle(Dir)
Karl Böhm/
Chor und Orchester der Wiener Staatsoper
NHK/NSDS-9492(DVD)


1980年に日本公演を行ったウィーン国立歌劇場の演目のうちのNHKによって収録されていた「フィガロ」がDVDとなりました。演出はジャン・ピエール・ポネル(元の演出はポネルですが、ここでは「ツアー演出」ということでヘルゲ・トーマがクレジットされています)、歌手もプライ、ポップ、ヤノヴィッツ、バルツァ、ヴァイクルという当時の最高級品が取り揃えられたという、超豪華版。しかし、何と言っても最大の目玉は、この公演の翌年には他界してしまうことになる指揮のカール・ベームに違いありません。まさに最晩年のベームの映像、これを涙なくして見ることなど出来るでしょうか。
当時の撮影スタッフも、そのあたりは十分に承知していたことでしょう、序曲の間中、カメラはベームの姿だけを執拗に撮り続けます。極端に力の抜けた、殆ど流れに身を任せているかのような指揮ぶりは、彼がたどり着いた究極の境地でしょうか。そこから導き出される音楽は、もはやあれこれ言うような次元を超えた、おおらかな広がりを持ったものでした。それは、この時代の少し後にモーツァルトの演奏に襲いかかる革命の波などは全く知らない世界の、ある意味幸福な時代の産物には違いありません。しかし、そのどこにも無理のない、ひたすら美しい姿だけをさらけ出している音楽には、何の抵抗もなく引き込まれてしまう力がありました。
中でも絶品は、第3幕の伯爵夫人のアリア「楽しい思い出はどこへDovo sono i bei momenti」と、第4幕のスザンナのアリア「恋人よ、早くここへDeh vieni, non tardar, o gioia bella」でしょう。今にして思えば信じられないほど遅いテンポで迫ってくるものは、確かにこの上ない陶酔の世界です。それは、後者のアリアが婚約者にやきもちを焼かせるという屈折した意味を持っていることなど忘れさせてくれるほどの魅力を持ったものです。モーツァルトの演奏における一つの時代を、ここでは確かに感じることが出来るはずです。
演奏とともに、オペラの上演のあり方についても、このDVDは示唆に富んだ記録として捉えることが出来ます。この当時はおそらくホールの中に日本語の字幕が掲示されるというようなサービスはなかったはずです。オペラを見ようと思ったら、台本の対訳を見ながらレコードを聴いて、音楽と物語をしっかり頭の中に入れておかなければ、満足に鑑賞は出来なかった時代です。そこには、最高の演奏者と、高度に修練を積んだ聴衆との間の息詰まるような緊張感が存在していたはずです。したがって、アリアが終わって扉の陰に退場した歌い手であっても、あえて物語の流れを断ち切って聴衆の強烈な拍手に応えるためだけに、再度登場するようなことも許されるのです。ただ、ヤノヴィッツだけは、目の奥にあからさまな嫌悪感をたたえていたことは、注目に値するでしょう。
収録されたビデオテープのマスターは、おそらくもう廃棄されており、放送時に挿入された字幕などがそのまま残った「完パケ」しか残ってはいないのでしょう。ここでは格段に大きなフォントのスーパーが目を引きます(当時の標準は14インチのブラウン管でしょうか)。その対訳に携わった方がライナーに文章を寄せていますが、当時のディレクターだったその方のお名前は武石英夫。イタリア語をそのままの語順で訳したために、日本語としては笑うしかないようなお粗末な対訳で(あんこがしっぽまで入っていません・・・それは「たいやき」)、一目見ればこの方が作ったことが分かってしまうスーパーをあちこちで披露している武石さんは、NHKの職員だったのですね。もしかしたら、これが分かったことが、9000円以上という大枚をはたいてこのDVDを入手した最大の収穫だったのかもしれません。ほんと、2枚組のオペラのDVDがこんな値段だなんて、完全に消費者をなめてます。

7月22日

Sgt. Hetfield's Motor Breath Pub Band
Beatallica
OGLIO/OGL89144-2


ご存じ「ザ・ビートルズ」ほど、その楽曲が多くの人にカバーされているバンドもありません。「Yesterday」などは、軽く100を超えるカバーバージョンが存在するのだとか。こうなると殆ど「名曲」としての扱い、もっと言えば「パブリック・ドメイン」と言っても差しつかえないほどの浸透ぶりなのではないでしょうか。もちろん、彼らの著作権が「パブリック」の所有物になることは当分あり得ませんから、その権利を巡ってはすさまじい争奪戦が繰り広げられていたようです。かつてマイケル・ジャクソンが所有していたほぼ全曲分の権利は、今ではソニー・レコードに移っているのだとか。「名曲」がビジネスとして売り買いされるのを見ているのは、なにか辛いものがあります。
「名曲」ゆえに、彼らの曲はクラシック関係でも多くのカバーや編曲作品を産んでいます。通奏低音付きの弦楽合奏という、あたかもバロック音楽のような編成で典雅に演奏される「Let It Be」などは、その元ネタであるパッヒェルベルのカノンすらも押しのけて、殆どヒーリング・ナンバーの定番としての地位を獲得しているかに見えます。あるいは、単旋律のユニゾンで歌われれば、それはグレゴリオ聖歌と寸分違わない静謐な姿を現すのです。
これらのカバーは、ビートルズの曲の持つメロディアスな面を強調して作られていますから、私たちはもっぱら「ビートルズもクラシックと変わらないきれいな曲なのよね」という印象を持つことになります。たとえそこからは強烈なビートや歌詞に込められた屈折したメッセージが何も伝わってこなくても、「きれいな音楽」としてのクラシックの仲間に取り込んで、ひとときの満足感に浸るのでしょう。
そのような軟弱なアプローチとは正反対のベクトルで、ビートルズをカバーしたバンドが現れました。それは、元来ロックバンドであったはずのビートルズを、より「ロック」としてデフォルメする試みです。そのために、そのバンドはギンギンのヘビメタ・バンドである「メタリカ」のテイストで、ビートルズをカバーしたのです。当然のようにそのバンドの名前は「ビータリカ」となりました。これほどベタなネーミングも、直球勝負のヘビメタならではのものでしょう。田中星児がヴォーカルだと「ヤンチャリカ」。
そもそも彼らがこのような活動を始めたのは5年以上前のことです。もっぱらインターネットからのダウンロードという形で楽曲を公開、広範な支持を得てライブなども行っています。それこそ「権利」を巡っての横やりから、サイトは一時閉鎖されたものの、今では復活、このように堂々とパッケージとしてのCDを出すに至ったということです。もちろん、このCDにはネット配信されていた音源ではなく、2006年から2007にかけて新たに録音されたテイクが収録されています。
単にアレンジだけではなく、曲のタイトルや歌詞までも、彼らは「メタリカ風」に変えています。タイトル曲はもちろん「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」、ヴォーカルがポールより1オクターブ低いドスのきいた声で歌い始めれば、いやでもおどろおどろしいヘビメタの世界へ誘われないわけにはいきません。しっかりオリジナル通り、次の曲へのブリッジまで演奏しているのが憎いところ。
A Garage Dayz Nite(=A Hard Day's Night)」では、彼らの「ヘビメタ化」の方法論が明らかになります。この曲のリリカルさを象徴しているのが「And when I'm get home to you」という歌詞の部分の半音進行のメロディです。さらにこのメロディが並行3度のハーモニーに彩られて、そのリリカルさは際立ちます。ビータリカが行ったのは、その前半、アウフタクトの「And when I'm」の部分を丸ごとカットするということでした。その結果、この曲はリリシズムのかけらもないヘビメタへと変貌したのです。
Helvester Of Skelter(=Helter Slelter)」はビートルズ自身がヘビメタを目指して作った曲。ビータリカはその先輩に向かって、「ヘビメタって、本当はこうやるんだぜ」と意気込んでいるように聞こえます。

7月20日

And on Earth, Peace
Chanticleer
WARNER/8122-79984-4


クレジットを見て気が付いたのですが、このシャンティクリアの最新アルバムのレーベルは、「WARNER」とともに「RHINO(ライノ)」という名前が併記されています。RHINOといえば、かつては信じられないほど音の良いオールディーズのリマスター盤を出していたことで知られていた、クラシックとはまず縁のないレーベルだったはずですが、いつの間にかWARNERの傘下に入って、こんな風にクラシックも扱うぐらいのことをやるようにもなっていたのですね。
果たしてシャンティクリアが「クラシック」かどうかというのは議論の分かれるところですが、このアルバムに関しては紛う方なきクラシックでしょう。何しろこれは「シャンティクリア・ミサ」というタイトルの「ミサ」なのですからね。この団体の創設者であるルイス・ボットが亡くなって10年経つことを機会に、5人の作曲家にミサのそれぞれのパートを分担して委嘱したというものです。そして、そのオリジナルの曲の間に、昔からの曲、たとえばアンドレア・ガブリエリやジェズアルドの作品を挟み込んで、最終的には演奏に1時間15分を要する立派なミサ曲に仕立て上げました。
最初に聞こえてくるのは、グレゴリオ聖歌の単旋律の世界です。まず印象的なのは、録音場所であるジョージ・ルーカスの「スカイウォーカー・サウンド」の、とても芳醇な残響です。ただ、その芳醇さには石造りのチャペルなどで味わえるものとはかなり肌触りの異なる、なにか人工的なものが伴います。それは、もしかしたら過去のミサ曲からの決別を知らしめるための、意図した処理だったのかもしれません。
Kyrie」は、「Sex And The City」という人気テレビドラマの音楽など幅広い分野で活躍しているアメリカのダグラス・クオモが作りました。導入にいきなりシュプレッヒ・ゲザンクっぽいものが現れるのには驚きますが、「Kyrie eleison」の部分は先ほどのプレーン・チャントのようなものをソロが歌い、合唱がそれに応えるというシンプルなものです。中間部の「Christe eleison」ではうってかわって不安な和声とリズムに支配されるのが、アクセントになっています。
トルコ系のカムラン・インスが作った「Gloria」は、普通この曲が持っている華やかさが一切排除された、淡々とした音楽です。イスラム教のテキストを英語に訳したものが、オリエンタルな音階に乗って果てしなく続くというものです。ただ、「Moslems and Christians and Jews raising their hands to the sky」という歌詞の部分で力強さが感じられるのは、ここにある種のメッセージが込められているせいなのでしょうか。
シュラミット・ランの「Credo」は、ヘブライ語のテキストで始まります。おそらくこの「ミサ」の中では最もダイナミックな構成を持つ、いかにも主張するところの多い「合唱曲」という趣です。後半に英語で歌われる部分では、やはりメッセージ性の高いテキストが語られます。
Sanctus」を作ったイヴァン・ムーディはギリシャ正教などの東方教会に多くの影響を受けた人。ここでもギリシャ語のテキストで「東方」っぽく迫ります。
Agnus Dei」は、ケルト語で歌われます。ダブリン生まれのマイケル・マグリンの音楽は、独特の節回しと歌い方を持った、まさにケルト音楽そのものです。しかし、後半のラテン語のテキストの部分になると、それがもろミニマル・ミュージックに変わります。同じフレーズが果てしなく繰り返される「Dona nobis pacem」での長〜いフェイド・アウトの果てに、冒頭のプレーン・チャントが、今度はハーモニーを伴って現れる頃には、「我らに平和を与え給え」というメッセージは体中に染み渡っていることでしょう。
さまざまなバックボーンを拠り所に作られていても、訴えるものは一つ、それが現代における「ミサ」の一つの形なのかもしれません。

7月18日

LANSKY
Etudes and Parodies
William Purvis(Hr)
Curtis Macomber(Vn)
Mihae Lee(Pf)
David Starobin(Guit)
The brentano Quartet
BRIDGE/BRIDGE 9222


ポール・ランスキーという、1944年生まれのアメリカの作曲家の名前は、こちらで馴染みがありました。ここでは「電子音楽」という範疇の作品が集められていたのですが、ランスキーのトラックではサンプリングをした女声を重ねた、心地よいコーラスのようなものがエントリーされていたのです。それは、決して「電子音楽」と言われて想像されるような頭でっかちな音楽ではない、すんなり心に入り込んでくるものでした。
このアルバムは、そんなランスキーの最近の作品が収められたものです。コンピューターなどを駆使して作曲を行っていた彼も、50歳を迎える頃から普通に五線紙に書いていく音楽を作るようになったといいますが、ここにはそんなアコースティックな編成の曲が集められています。
彼は、このレーベルから多くのアルバムを出してきましたが、そのジャケットがなかなか魅力的、これもなかなか味のあるものです。収録されている曲に使われている楽器をすべて合成したような不思議な楽器が目を引きます。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、ギターのネックのそばには作曲家の不気味な笑い顔が。
1曲目は、ホルン、ヴァイオリン、ピアノという、ブラームスあたりが好みそうな編成による「エチュードとパロディ」という曲です。小さな曲が7つほど集まっていますが、その1曲目でやはりブラームスのパロディが聞こえてきたのには、嬉しくなってしまいました。さまざまな曲想のものがその後に続きますが、リズムのはっきりしたロックのようなテイストの曲も多く見られます。このあたり、作曲者の「地」の趣味が反映しているのかもしれません。最後の曲が「パヴァーヌ・ノワール」というタイトル。ホルンで「パヴァーヌ」といえばこれしかないという、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」の、見事なパロディになっています。
パロディというコンセプトは、他の曲の中にも貫かれています。2曲目はギター・ソロのための「セミ・スイートSemi-Suite」。「ちょっとした組曲」といった趣でしょうが、もちろん「Semi-Sweet」とかけていることは明らかです。ビキニの女性は出てきませんが(それは「セミ・ヌード」)。これはもろバッハのギター(リュート)組曲のような雰囲気を醸し出している曲です。それぞれのタイトルが、又ちょっと人を食ったもの、「うわさの前奏曲」、「でたらめなアリア」、「いびつなクーラント」、「ハレンチなサラバンド」、「ぶざまなアルマンド」、「ある意味パヴァーヌ」といった具合です。とは言っても、音楽としてはとても爽やかなギター(もちろん、クラシックギター)の音色と相まって、しっかりとしたエモーションを受け取ることの出来る内容の濃いものです。中でも「サラバンド」の「甘い」美しさといったら。ちなみに、演奏しているスタロビンは、このレーベルのオーナーです。
最後は弦楽四重奏による「リチェルカーレ・プラス」です。最初は「リチェルカーレ」だけが作られましたが、後に「プレリュード」と「ポストリュード」を前後に加えて、このようなタイトルに改作されたものです。その後から作られた部分は、おそらくアルヴォ・ペルトのパロディなのでしょう、ビブラートをたっぷりかけた弦楽器が、神秘的な和音をとうとうと奏でるさまはとても印象的な仕上がりです。もしかしたら、ランスキーがかつて見せていたサンプリングの確かな延長上にあるのかもしれないこの部分は、ストイックな「リチェルカーレ」と見事な対象を形作っています。

7月16日

GOLIJOV
Oceana
Luciana Souza(Vo)
Dawn Upshaw(Sop)
Kronos Quartet
Robert Spano/
Atlanta Symphony Orchestra and Chorus
DG/00289 477 6426


外国人の名前の表記は難しいもので、この、DGというクラシック界の老舗レーベルが最近贔屓にしているアルゼンチン出身の作曲家も、いろいろな読み方をされているようです。かく言うこのサイトでも、一番最初に彼の作品を取り上げた時には「ゴリヨフ」だったものが、しばらく経ったら「ゴリジョフ」に変わっていたりしますから、同じ人間が書いてさえいても混乱が伴うわけです。しかし、最も新しい情報では、どうやらこの人は「ゴリホフ」と呼ばれているらしい、ということなので、この際ですから「ゴリヨフ」も「ゴリジョフ」も、きちんと「ゴリホフ」に直しておきました。そう言えば、ドビュッシーに「ゴリホフのケークウォーク」というピアノ曲がありましたね(それは、「ゴリウォグの〜」)。
そんなゴリホフがこのレーベルから発表したばかりの3枚目のニューアルバムは、しかし、もしかしたらそんな新しい物ではなく、ずっと昔の録音を再発売したのだと思われて、CD棚の前を素通りされてしまうかもしれません。というのも、誰が見てもこのジャケットは、ビル・エヴァンスとジム・ホールが1962年にUNITED ARTISTSに録音した「UNDERCURRENT」というアルバムそのものなのですから。

いくらDGの黄色いロゴは入っていたところで、「ビル・エヴァンスの音源がこんなところに・・・」と思われるのが落ちでしょう。そう、このジャケットは、半世紀近い歴史の中で、もはやこのアルバムとは切っても切れない確固たるイメージを作り上げてしまっているのです。
もちろん、このジャケットの写真は、トニ・フリッセルという女性写真家が雑誌に発表した「Weeki Wachee Spring, Florida」というれっきとした「作品」ですから、例えば印象派の画家の作品をドビュッシーあたりのアルバムのジャケットに使うのと同じノリで、別に誰が使っても問題になるわけではありません(このアルバムでも、きちんとクレジットが入っています)。しかし、これだけ特定のアルバムとの結びつきが強い、確実にそのアルバムのパクリと思われてしまいかねない写真を敢えて使うからには、それなりの意味があるのではないかと考えるのは当然のことでしょう。しかし、残念ながらこの2つのアルバムの間の関連性を示唆するものは、パロディも含めて何一つ認めることは出来ませんでした。デザインを担当したチカ・アズマは、ジャズのアルバムを数多く手がけている人ですから、エヴァンスのものを知らないわけはないというのに。
もう一つ気になるのは、このアルバムがリリース予定になった直後、まだ市場にも出ていないのに突然廃盤扱いになってしまったという事実です。このジャケットを巡っての何らかのトラブルがあったことをそこから推測するのは、果たして見当外れの邪推でしょうか。
おそらくこのジャケ写にコンセプトを求めたであろう「オセアナ」という曲は、ヘルムート・リリンクの2000年の「現代作曲家による受難曲」のプロジェクトの成果である「マルコ受難曲」の萌芽とも言うべき作品です。やはりリリンクによって1996年に委嘱されたもので、ラテンリズムに乗ったルシアーナ・スーザ(「マルコ」でもソロをとっています)のクラシックからは対極にあるヴォーカル・パフォーマンスが聞きものです。これを聴いてしまうと、別のトラックで「3つの歌」を歌っているドーン・アップショーがなんとも堅苦しいものに感じられてしまうから不思議です。最後の曲などはかなり崩してはいますが、それはスーザとは全く異なる次元のものです。これだけかけ離れた音楽性が要求される作品を同時に創り出すことが出来るゴリホフのユニークな才能こそを、ここでは賞賛すべきなのかもしれません。

7月14日

Beethoven for Winds
Symphony No.7, Fidelio Overture

Octophoros
ACCENT/ACC 10034


なんでも、昨年2006年はこのACCENT(アクサン)レーベルが出来てから25年の記念の年だったそうですね。銀婚式ですか(それは「オクサン」)。1981年(1979年という説もあるのですが)の発足時から、この、ベルギーのオリジナル楽器専門のレーベルは日本コロムビア(現コロムビアミュージックエンタテインメント)というメジャーなメーカーから国内盤が出ていましたから、馴染みがありました。
そんななつかしいアイテムが、25周年を記念してまとめて「ACCENT PLUS」というレーベルでオリジナルのジャケットにかなり近いデザインのものがリイシューされました(例のラーメンの丼のような模様はなくなっていますが)。クイケンたちのものはさんざん聴いていたので、ここではちょっと面白そうなベートーヴェンのハルモニー編曲版を聴いてみましょう。「フィデリオ」序曲は他の人の編曲ですが、なんといっても、交響曲第7番全曲をこの管楽器だけのアンサンブルのためにベートーヴェン自身が編曲をした、というものには興味がわきます。あのベートーヴェン、交響曲というものを極限まで高い精神性で構築した人が、言ってみればBGMに過ぎないこんな編成のものに書き換えるなんて、ちょっと信じられない感じがしませんか?あるいは、それは後の人による勝手な思いこみに過ぎず、軽いノリで自作のプロモーション用のバージョンを作っただけなのかもしれませんがね。
一通り聴いてみると、第1楽章ではしっかり提示部を繰り返して演奏していました。ですから、演奏の姿勢自体はしっかりオリジナルに忠実であるような印象です。しかし、なんだか第3楽章と第4楽章がいつの間にか終わってしまっているような違和感が残りました。演奏時間もこの2つの楽章はずいぶん短めです。
実は、このシリーズには、廉価盤であるにもかかわらず、初出の時のライナーノーツがきちんと掲載されています。それを読んでみると(もちろん英語で)、ベートーヴェンは、この編曲に当たってはずいぶんいい加減なことをやっていたことが、生々しく語られていたのです。あちこちで大幅なカットを行ったと。それを参考にして、今度はスコアを見ながら聴いてみると、確かに第4楽章などは無惨なカットがなされていることが分かります。なんせ、展開部がまるごとなくなっているのですから。その手口があまりにも確信に満ちていたものですから、最初は全く気づきませんでしたが、イ長調(そもそも、この編曲は楽器の都合に合わせて「ト長調」に移調してあります・・・オリジナル楽器ですから、嬰ヘ長調に聞こえますが)からハ長調に転調している展開部は、なんのためらいもなく素通りされていたのです。これは大問題。ひょっとしたら、「運命」の第2楽章を4小節で終わらせてしまったピーター・シックリー(P・D・Qバッハ)と同程度に笑える措置かもしれません。
第3楽章のロンドも、本来はロンド主題−トリオ−ロンド主題−トリオ−ロンド主題−コーダだったものが、「トリオ−ロンド」のセットが一つなくなっています。これもバランス的にはとても間抜け。それからもう一つ、第2楽章の253小節目がやはりなくなっています。これはちょっと余計かと思えなくもない小節なのですが、これがないことによっていかにもありきたりの音楽に変わってしまうのがよく分かります。
こういう仕事を見てしまうと、果たしてベートーヴェンは自作にどれほどの愛着を持っていたのだろうという疑問が湧いてはきませんか?あるいは、そもそもハルモニー・ムジークなどというものはそんなに心血を注ぐほどのものではないと思っていたのでしょうか(それはよく分かります)。
そんな作曲者の思いを代弁したわけでもないのでしょうが、この演奏はとてもしまりのないいい加減なものです。そもそも、交響曲を9つの管楽器だけで演奏することには無理があるのでしょう、一人でベースのパートを担当させられているコントラファゴットなどは、第1楽章の144小節目のとても目立つソロで見事に落ちてしまっていました(繰り返しでは演奏しているので、そういう編曲ではないことが分かります)。それに気づかない録音スタッフも相当いい加減。

おとといのおやぢに会える、か。


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