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高級海苔の包装。.... 渋谷塔一

(03/2/12-03/3/13)


3月13日

Das himmlische Leben
MAHLER
Sinfonie Nr.4,Rükert-Lieder
Alison Browner(MS)
飯森範規/
Württembergische Philharmonie Reutlingen
EBS/ebs 6130
このCD、最初はお店の新譜コーナーの片隅にひっそりと置かれていましたが、1週間ほど経ったら、「これはスゴイ」とコメントが付けられてマーラーのコーナーにも置かれていました。
何しろタイトルが“天上の生活”です。私も最初見た時は、「またいつものコンピレーションアルバムか」と思いましたね。ちょっと江戸川乱歩が入ってるミステリー・タッチの(それは「天井〜」)。しかし良く見たら、マーラーの交響曲第4番全曲と、今マイブームのリュッケルトの歌曲が4曲収録されています。そしてもっと良く見ると、指揮者の名前がNorichika Iimori。そう、飯森範規さん指揮ヴュルテンベルク・フィルのCDだったというわけです。確かにこれはスゴイ。お店の人も、最初が気が付かなかったのでしょう。
ヴュルテンベルク・フィルは、南西ドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州の都市ロイトリンゲンにあるオーケストラです。ここは有名な保養地バーデン・バーデンと、シュヴァルツヴァルト(黒い森)の近くにあるのどかな観光地です。(日本で言えば信州、戸倉上山田温泉のようなものでしょうか)飯森範規さんは現在ここの芸術監督を務めているそう。
このマーラー、とてものどかな音楽です。昔、第4番は「大いなる喜びへの賛歌」という愛称で呼ばれていたのをふと思い出すような、本当に喜ばしい音に満ちています。確かにアンサンブルには多少の乱れがあって、(カラヤン&ベルリン・フィルと比べた場合!)特に2楽章など気になる部分もないわけではありませんが、第1楽章や第3楽章の「幸福な気分」。これは例えようもないくらいに心地よいもので、人肌程度の温泉にじっくり浸かったような爽快感と癒しの効果が期待できると言うものです。
終楽章、ここが恐らく一番の聴かせどころでしょう。ソロには、珍しくメゾソプラノを起用。これも、この曲の持つ落ち着きを強調するのに一役買っています。アリソン・ブロウナーの声はしっとりと深みがあり、決してヒステリックに叫ぶことはありません。今流行のコジェナーを思い出させる歌声ですが、もう少し曲の流れを素直に表現する感じでしょうか。(「素直」という言葉と「没個性」という言葉は同義語ではありませんよね)
彼女の美質は「リュッケルト」の歌曲にも現れていて、ひたすら曲の求める深遠さを追求しているようです。「真夜中に」の静かな祈り、「私はこの世に忘れられ」での諦観。あくまでも、自らを律し音楽に一体化する。伴奏を伴う歌としてではなく、声がひとつの楽器としてアンサンブルに参加するやり方。これが見事に成功しているからこそ、聴いていて心地よいのかもしれません。

3月9日

BACH
St Matthew Passion
Paul McCreesh/
Gabrieli Players
ARCHIV/474 200-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCA-1029(国内盤 3月26日発売予定)
2年近く前に、「イースター・オラトリオ」と「マニフィカート」のカップリングのアルバムでご紹介したポール・マクリーシュ、今回は「マタイ」です。あの時にも書きましたが、彼の金科玉条は20年以上前に「ロ単調ミサ」の全ての合唱パートを一人ずつで歌うというアイディアを実践したジョシュア・リフキンの教えです。最近は、リフキン・フォロワーのアンドルー・パロットも入っているようですが。ですから、ここでマクリーシュが用意した歌手は、全部で8人しかいません。
最初の合唱は、恐ろしく早いテンポで始まります。総勢8人の合唱は、確かに迫力には欠けますが、各パートの動きをはっきり聞き取れるという点では、それなりのメリットは感じられます。じつは、この曲と、第1部の最後の曲だけには、もう一人、普通の合唱版では少年合唱が担当する事が多い「ソプラノ・リピエーノ」という、コラールを歌うパートが加えられています(だから、ここだけは9人)。しかし、このリピエーノが、さっぱり聞こえて来ないのには、ちょっとがっかりさせられます。
続くエヴァンゲルリトのレシタティーヴォ、これは、合唱1の中で歌っていたマーク・パドモアが担当しています。そうなると、イエスはもちろん合唱1のピーター・ハーヴェイという事になりますね。この二人はなかなかの力演を聴かせてくれています。特にパドモアの表現力には、素晴らしいものがあります。この受難曲を最後まで緊張感あふれるドラマとして聴くことが出来たのは、ひとえにこの人のお陰でしょう。
しかし、コラールになると、ちょっと困った事がおきます。アンサンブルが滅茶苦茶、「歌」としてのコラールが全く聞こえてこないのです。これは、ソプラノパートの2人、デボラ・ヨークとジュリア・グッディングが、あまりに清楚な声なのに対し、他の歌手の自己主張が強すぎるため。先ほどのパドモアにしろ、アルトのマグダレーナ・コジェナーにしろ、ソロの時の個性が強すぎて、合唱になったときには主旋律以外が異様に目立ってしまうグロテスクなコラールになってしまっているのです。
そのコジェナー、このメンバーの中でもひときわ個性的。個々のアリアはそれだけ聴く分には大変魅力的ですが、その、ちょっとバッハにはふさわしくないビブラートは、全体の中では違和感を抱かざるを得ません。もっとも、合唱2のアルト、スーザン・ビックリーの、まさにびっくりするような音程の悪さとリズム感のなさに比べれば、それほど大きな疵とは言えないかもしれませんが。
何とかイエスを助けようとするピラトと、「十字架につけろ!」と叫ぶ群衆とを同じ歌手(ステファン・ローゲス)が歌うという理不尽な事も起こってしまうこの「マタイ」、しかし、なぜか最後まで興味深く味わう事が出来たのは、マクリーシュの、バッハに対する愛情がひしひしと伝わってきたからなのでしょう。それさえあれば、方法論としては多くの誤りがあろうとも、なにかしら心を打つものはあるのです。バッハの音楽とは、そんな些事を越えた、もっと逞しいものなのですから。

3月7日

TCHAIKOVSKY/RACHMANINOV
Piano Trio
Kempf Trio
BIS/CD-1302
昨年の来日時、ちょっとしたコネのおかげで、今回のピアニストである、フレディ・ケンプに直接お話を伺う機会を持てたことは、私にとっても幸せな体験でありました。若き大家を目の前にして、緊張の余りどぎまぎしてしまいましたが、興味深い話も聴け、すっかり彼のファンになってしまったのでありました。
そんな彼が折に触れ、「これからは室内楽に力を入れたい」と語っていたのですが、今回のアルバムはそれを具現化したもの。彼が信頼するベンサイド(Vn)とチャウシアン(Vc)の3人で結成したトリオによるチャイコフスキーとラフマニノフです。その名も「ケンプ・トリオ」、しかし、決して往年のお笑いのパクリではありません(それは「テンプク・トリオ」)。
さて、現在若手のピアニストの中でも注目株の一人である、ケンプです。最初の頃は、彼の出自にばかり目が行って(かのヴィルヘルムの遠縁!)、演奏そのものは未知数である、と評価されていたように思いますが、何度も来日するにつれて、知名度もあがり、彼の音楽の方向性も見えてきたように思います。BISとの契約のため、いろんな作曲家の作品にチャレンジしてはいますが、本人が認めているとおり、その全てが成功しているわけでもなく、明らかに「苦手でしょう?」と思わせる作品もちらほら。(誰の作品とは言いません)そのくせ、前作のリストなどは思い切り飛ばしてくれて、いかにも気持ち良さそう。「若いって素晴らしい!」と心から感心するような演奏を聴かせてくれるのがナイスです。
今回のチャイコフスキーとラフマニノフ。なんと言ってもチャイコフスキーの「偉大なる芸術家の思い出に」の面白いこと。この長大な作品、ニコライ・ルービンシテインへのオマージュが心行くまで歌いこまれています。「この曲は長くて苦手」と思っていた私も一気に聴いてしまいました。
最初、ピアノは大変控えめ。チェロの朗々とした歌が耳に残ります。しかし、そんなのは一瞬のこと。主旋律がピアノに移ると同時に音楽は花が開くかのように沸騰を始めます。頂点に向かって駆け上がり、高潮していくパッセージには思わず赤面するほど。ここでまた「若いって素晴らしい」とつぶやいてしまうおやぢでした。
第2部の変奏曲。こちらも変幻自在な表情付けがさすがです。いつもだったら、ここで少し飽きてしまうのですが(何しろ粘っこい曲なので)今回は、とてもさっぱり聴けたのが自分でも驚きでした。チャイコフスキーの音楽にありがちなねちっこさが、すべからく削ぎ落とされているのには感動モノ。ここら辺が新しい感覚として受け入れられているのかもしれませんね。

3月5日

SCHUBERT
Sonatines etc.
Jean Ferrandis(Fl)
Emile Naoumoff(Pf)
LA FOLLIA MADRIGAL/LFM 00501
フランスのフルーティスト、ジャン・フェランディスが、エミール・ナウモフと共演して作ったシューベルト・アルバムです。ピアノ伴奏をしているナウモフについては、以前「コンチェルト版展覧会の絵」でご紹介していますから、そのヘンタイ性についてはご存知でしょう。彼は、その前にもストラヴィンスキーの「火の鳥」やフォーレの「レクイエム」をピアノ独奏用に編曲して録音しているという「前科」を持っていますから、こんなまともな曲の伴奏はどうなのかという点では、そそられるものがあるはずです。
肝心のフルートのフェランディスですが、おそらく大部分の人は名前すら聞いたことがないはずです。彼は、もっぱらコンサート・フルーティストとしてのキャリアを築いており、ヨーロッパあたりではかなり有名だそうですし、日本にも最近立て続けに訪れて、このCDでの合方のナウモフとともに、各地でコンサートを行っています。じつは私も、最近彼らのコンサートを実際に聴いたばかり、なかなか強烈な印象があったので、会場で売られていたこのCD(かなりレアなレーベル。ちょっと普通のお店では入手できないのでは)を通して、このフルーティストを紹介してみたくなったというわけです。
彼のとびきりの魅力は、その音にあります。まず、ほとんど聞こえないぐらいの小さな音から、とてもフルート1本で出しているとは信じられない大きな音までを、自由自在に操る音量のコントロールの能力はもちろんですが、さらに魅力的なのは、音色の多彩さです。特に、倍音をほとんど加えない空ろな音のセクシーなこと。終電が終わったあとは、欠かせません(それはタクシー)。じつは、こういう音を意識して使っているフルーティストというのは意外に少ないものですが、それが完璧にマスターできると、かのジェームズ・ゴールウェイのような、世界に二つとない魔法のような音を出すことが可能になります。フェランディスの場合、ゴールウェイの域にはまだ及ばないものの、並のフルーティストからは味わうことの出来ない、音そのものが発する魅力というものを、存分に味わうことが出来るのです。
このCDでは、シューベルトの作品だけを演奏していますが、最後の「しぼめる花」を除いては、全て他の楽器のための曲をフェランディス自身がフルート用に編曲したものです。ヴァイオリンのための三つのソナチネは、フェランディスの多彩な音色で、もしかしたらオリジナルよりももっと色彩的で雄弁なものに変貌しているかもしれません。「アルペジオーネ・ソナタ」は、多くのフルーティストが取り上げていますから、ほとんどフルート用のレパートリーとなっていて、その分比較の対象も多いのですが、彼の表現はやや淡白。というより、かれのフレージングとか歌わせ方には、音色ほどの配慮が行き届いていないようで、特に第2楽章あたりでは物足りなく感じられてしまいます。有名な「しぼめる花」も同じこと。豊かな音と揺るぎ無いテクニックで迫る分、深みのある表現を求める人には、ちょっと不満が残るかもしれません。
ピアノのナウモフは、やはり只者ではありませんでした。伴奏の何気ないところ、例えば左手の低音の動きなどに、ハッとさせられるような斬新な表現を発見して、何度驚かされたことでしょう。

3月1日

BEETHOVEN
Piano Concertos Nos.1-5
Pierre-Laurent Aimard(Pf)
Nikolaus Harnoncourt/
Chamber Orchestra of Europe
TELDEC/0927-47334-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11563(国内盤 3月26日発売予定)
今年のニューイヤーはいかがでしたか?なんと言っても、あのアーノンクールが再登場です。みんな「アーノンクールなら、どうせ・・・・だろう」(好きな言葉をいれてください)と想像したでしょう。しかしそれ以上に変なことをしてくれたものだから、聴く人はみな唖然としたようです。とにかく、当日にテレビを見たマスターのレポートにもあるように、全く「お正月らしくないニューイヤーなんてモーイヤー」という感じで終始しました。おかげでCDがまるで売れないんです。と、いつものCD屋のお兄さんがぼやいていましたよ。また「アーノンクール嫌い」が増えなければいいのですが。
まあ、確かにあの金壷眼は、お正月のおめでたい雰囲気にはミスマッチでしょうが、これがベートーヴェンになるとがぜん威力を発揮するのですから、やはり彼からは目を離せないですよ。以前のシンフォニーも相当凄かったですからね。
今回、彼が取り上げたのは、5曲あるピアノ協奏曲です。「アルゲリッチがソロを担当する」という噂もありましたが、実際に共演したのは、あのメシアンでお馴染みのエマール。2人で並んでいる写真の迫力のあることと言ったら並の演奏家の比ではありません。
まず、4番から聴いてみました。御存知の通り、この曲はピアノのソロで始まります。何かを訴えかけるような柔らかい音色。さすがエマールです。それを受けてオーケストラの序奏が始まりますが、これがまるで一筋縄ではいかないのがアーノンクールたる所以でしょう。ベートーヴェンにしては柔和な表情を持つこの曲ですが、アーノンクールには、まるで「美しく演奏しよう」などと言う気はないようです。至る所に挑戦的なひっかかりを持たせ、それがいちいち気になります。しかし「なんでここで変なタメがはいるのだろう?」と疑問に思ううちに、不思議なことにいつの間にか、同じタイミングで大きく呼吸を合わせている自分に気がつくのです。
エマールの腕なら、はっきり言ってベートーヴェンくらいの難易度なら軽々弾きこなせるはずです。それなのに、どことなく、ぎこちなく、恐る恐る弾いているような気がするのは何故なのでしょう?一瞬「この人こんなに下手だっけ?」とまで思ってしまう場面も。もしかしたら、彼の考えているベートーヴェンとアーノンクールの考えるベートーヴェンには、大きな隔たりがあるのでしょうか。そんなことすら勘ぐってしまう、不思議な導入部です。それが展開部になると、かなり様相を違えてくるのが面白いです。カデンツァでの自由な飛翔。これはやはりエマールならではです。
4番だけで字数が尽きてしまいました。全曲について詳細に書き出したら、この10倍でも足りないでしょう。そのくらいいろいろ考えさせてくれる、全く興味深いアルバムです。ちなみに私はアーノンクールもエマールも大好きです。

2月26日

TAKANO
Women's Paradise
森川栄子(Sop)
Hubertus Dreyer(Pf)
BIS/CD-1238
(輸入盤)
キングレコード
/KKCC-2341(国内盤)
1960年生まれの作曲家、たかの舞俐(高野眞理)の作品集が、なぜかBISレーベルからリリースされました。たかのさんは、桐朋学園を卒業したあと、ドイツのフライブルクで、ファーニホー、ハンブルクでリゲティに師事し、これまでに数々の賞を獲得されている方。BISの社長、フォン・バールが気に入って強力にプッシュしているということですから、これからも続けて出されることが約束されているとか、なかなか楽しみです。ジャケットの写真を見ると、たかのさんというのは持田香織似のなかなかキュートな方、フルーティストのシャロン・ベザリーといい、フォン・バールはこの手の女性がお気に入りなのでしょう。
アルバムタイトルにもなっている、4曲からなる「Women's Paradise」では、全編でシンセサイザーやサンプラーが用いられており、女声ヴォーカルのサンプリングを生の女声と共演させたり、シークエンサーによるMIDIの演奏(?)と一緒に演奏したりと、今風の表現の形が興味を引きます。さらに、3曲目の「カサブランカ」は3本のサックスの多重録音(トマス・グラマツキ)にヴィオラとシンセという編成で、まさにジャズのノリのセッションを聴く思い。
「2つのシャンソン」は、「You,you,you,・・・」というソプラノのパルスに乗ってピアノが心地よいコードを奏でるミニマル風の曲と、吉本ばななの小説に触発されたという、スキャットまで入ったスインギーな曲のセット。次の「無限の月、無限の星」は、一転して、十七弦や、雅楽の笙、篳篥といった和楽器とヴァイオリンのアンサンブル。ここからも、楽器の特性にこだわらない、活き活きとした、やはりジャズ風のインタープレイが楽しめます。
「花のアリア」は、製作中のオペラの中の曲とか。もちろん、冷たいセリー系とは無縁の、叙情性すら感じられるような聴きやすいものです。まるでゼリーのようなプリプリと滑らかな膚触り。ピアノソロの「イノセント」は、彼女のペットのためのレクイエムという成り立ちを持っていますが、たとえばキース・ジャレットあたりのジャズ・ピアニストのソロとの相違点を見つけるのは困難です。ここでピアノを弾いているドライヤーは、リゲティのピアノ協奏曲の初演もしたという「現代音楽」のエキスパート。しかし、他の曲でもリーダーシップを発揮している彼の演奏からは、エンタテインメントにも通じる人懐っこさを感じることが出来ます。それは、たかのさんの曲の資質ともうまく合致しています。経歴でもわかるように、彼女は押しも押されぬ「現代作曲家」なのですが、このアルバムに収録されている曲を聴く限りでは、彼女の持ち味は独特のビート感に支えられたポップなもの。ジャズにも通じるそのリズムの良さは、ロジカルではなく、フィジカルな訴えかけとなって、聴き手を魅了してくれています。

2月24日

MAHLER,SCHÖNBERG
Lieder
Christian Gerhaher(Bar)
Gerold Huber(Pf)
Hyperion Ensemble
ARTE NOVA/74321-87818-2
1968年生まれの期待のバリトン、ゲルハーエルの新譜です。彼は、昨年の「ポリーニ・プロジェクト」の一員としても来日、少しずつ日本の聴衆にも名前が定着してきたように思います。
最初に彼の歌声を聴いたのは、2年前でしたか。それは、某雑誌でも高い評価を受けていた「白鳥の歌」でした。3月には国内盤も発売になりますね。花粉症のシーズンに合わせて(それは「ハクションの歌」)。もともとARTE NOVAの歌手シリーズは丹念にチェックしていましたが、このCDはそんな事情もあってか、お店でも試聴機に入っていましたね。実直な歌い口は、さすがディースカウの薫陶を受けただけあって、とても胸に染み入るものでした。その次にリリースされた「冬の旅」はここでも取り上げましたね。もう1枚、ブラームスの「4つの厳格な歌」のCDも持っていますが、こちらはあまりにも晦渋な内容。もう少しドイツリートの森に分け入ってから、聴き直したい1枚です。
さて、今回の新譜はちょっと変わった形態のマーラーの歌曲集。その一つはピアノ伴奏による「亡き子を偲ぶ歌」。そしてもう一つは(今このヴァージョンが流行しているのでしょうか?)室内楽版の伴奏による「さすらう若人の歌」です。亡き子については、ディースカウ&バーンスタインの名演もありますが、このゲルハーエルの歌は、また違った意味で興味深いものです。ピアノ伴奏を務めるフーバー、彼は長年のパートナーだそうですが、こちらが曲をどんどん引っ張っていくのです。それこそ恐ろしいくらいに。そのせいでしょうか、悲しみが浄化されずストレートに伝わってくる気がします。以前、マイヤーの歌でこの曲を聴いた時は、あまりの艶かしさにくらっとしましたが、その世界に近い、ある意味生々しい「亡き子」です。
そんなゲルハーエルだからこそ、「さすらう若人の歌」はとても生き生きしてて素敵です。ピアノを加えた小編成の管弦楽の奏でる音は、深い森の下枝を皆払ったかのような、清々しい響きです。カッコウの声も近くに聞こえます。そこで歌われる若者の希望と絶望、これは「冬の旅」とは正反対の世界です。彼の歌声には一番あっている曲かな、と思いました。それほどまでにはまっています。
おまけ(?)として収録されているシェーンベルクの室内交響曲(ベルク編曲)、こちらも最近リノスアンサンブルの演奏で聞いたばかり。あちらに比べると、少々乾いた音が特徴的ですが、これも、この曲をロマン派と取るか、その先の音楽と取るかで解釈が違ってくるのでしょうね。このハイペリオン・アンサンブルはかなり現代寄りの解釈をしているように思いました。

2月22日

Ninna Nanna
Montserrat Figueras(Sop)
Paul Badura-Skoda(Pf)
Jerdi Savall/
Hespèrion XXI
ALIA VOX/AV 9826
最近、「オリジナル楽器」とか「古楽器」とか、良く耳にしますが、なんだかその用法に少し混乱があるような気がしませんか。ここで、僭越ながら私なりの定義を(これが必ずしも正確な言い方ではないかもしれませんが)。「オリジナル楽器」というのは、現在も使われている楽器が、数十年、あるいは数百年前にとっていた形のもの、例えば、ヴァイオリンでしたら駒の低い、指板の短い形とか、フルートでしたらキーが一つだけの楽器とか、そういうものです。それに対して「古楽器」というのは、現在ではもはや別の楽器に置き換わってしまって、普通には使われていない楽器のことを指します。例えば、リュートあたりは、原理はギターと同じですが、現代の音楽に通用する楽器ではなくなっています。「セルパン」なんて、どこに行っても見ることは出来ませんし。どうです。分かりやすいでしょう?
「ヴィオール」という弦楽器も、そんな「古楽器」の一つです。いろいろの大きさの同族楽器が揃っていて、再高音の「ソプラノ・ヴィオール」は、形はヴァイオリンに似ていますが、全く別のもの。奏法からして、顎に挟むのではなく、ひざの上に立てて弾きます。チェロの音域を持つ「ヴィオラ・ダ・ガンバ」が有名ですが(足の間に挟むから、股楽器)、ヴィオール族だけによるアンサンブルでは、とても柔らかい澄み切った響きが味わえます。
と、前置きが長くなってしまいましたが、このアルバムでちょっと毛色の変わった文化圏の、古いものでは西暦1500年代に歌われていた子守唄を歌っているモンセラート・フィゲーラスは、そんな「古楽器」のアンサンブルである「エスペリオンXXI」をバックに、じつに多彩な歌を聴かせてくれています。彼女はこのグループのリーダー、ヴィオール奏者のジェルディ・サヴァールの奥さん。以前から、このグループの一員として活躍しています。彼女の声は、エマ・カークビーのような、飾りのない伸びのあるものですが、カークビーほどの純粋さはなく、適度に「汚れ」が入っているのが、このあたりの音楽に見事に合致しています。スペイン語や英語はもちろんですが、ロシア語やギリシャ語、さらにはヘブライ語や、聞いたこともないような(活字もない!)言葉を自在に操っているセンスには、感服しつつ、時間と空間を超えた「子守唄」のさまざまな姿をたっぷり味わうことにいたしましょう。
最新の子守唄は、ご存知アルヴォ・ペルトの作品が2曲。シンプルなメロディ、伴奏も元はピアノなのでしょうが、サヴァールたちのヴィオール合奏で弾かれると、さっきまで聴いていた何世紀も前の曲と何の違和感もなく味わえるから、不思議なものです。
バドゥラ・スコダが、昔のピアノ(それこそオリジナル楽器)で伴奏したロマン派の子守唄も、また異質な肌合いで、楽しめます。

2月20日

CHOPIN
Piano Concerto No.1
Abdel Rahman El Bacha(Pf)
Stefan Sanderling/
Orchestre de Bretagne
FORLANE/16833
クラシックをあまり聴かない友人たちが口をそろえて言う言葉の一つに、「どうして、同じ曲に何種類ものCDがあるの?」というのがあります。それを言われるたびに、返す言葉に詰まってしまうのです・・・・。
さて、このショパンの協奏曲にも多数の名演が存在します。私が最初に買ったLPは、ポリーニがショパンコンクール優勝直後に録音した演奏でした。その頃は、本当にショパンに耽溺していて、寝ても覚めてもショパン。ほどなくポーランドの期待の新星、ツィメルマンが登場。私の熱狂もピークに達したというものです。それこそ浴びるほどショパンを聴いて過ごした青春時代の思い出は、今でも、このロマンティックな協奏曲を聴くたびに、甘酸っぱい恥ずかしさを伴って、胸の奥から湧き上がってきます。
このエル=バシャの演奏は程よいロマンティシズムを湛えたもの。冒頭こそ、毅然としたオクターヴで始まりますが、弾き進むにつれ、テンポを自在に揺らし、よく歌いこむと言った、丁寧に曲をなぞっていくやり方が耳に心地よく響きます。これは最近お気に入りの、原智恵子の少々勇ましい演奏とはかなり肌触りが違います。(そういえば、Fさんもこの曲を録音してました。こちらもここで取り上げるべくCDを用意したのですが、聴いてるうちに腹が立ってきて・・・結局放棄しました。売れているようですが)
協奏曲も良かったのですが、併録の“ポーランドの歌による幻想曲”が特にステキです。パリに出たショパンが自らの売り込み(パリモーション)のために使った、若い頃の作品ですが、この序奏部がたまりません。過剰とも言えるパッセージの羅列(これは協奏曲の第2楽章もそうです)を、まるでイヤミにならずに、ここまで美しく歌い上げるなんて。アラウなんかの、少々硬めの演奏では物足りなかった部分をそっくり埋めてくれた感じです。
先ほどの問いかけの答えの一つに、「演奏家それぞれが、聴き手に対して自分なりのメッセージを伝えたい」と言う事があるでしょう。例えば、前述のツィメルマンの2回目の協奏曲の録音。自らオーケストラを指揮して、とてつもなく濃い音楽を創り上げました。好き嫌いは別として、この録音は高い評価を受けたのです。そう、この「好き嫌いは別」というのが大前提。演奏家の発するメッセージが、たった一人でも聴き手に受け入れられれば、それで良しの世界なのです。もしかしたら、全く受け入れられない自己満足で終わる危険性もあるのですから。(もし、私がピアニストだったら、この曲に昔の甘酸っぱい想いを込めて演奏するに違いありません・・・。)

2月12日

Dream of the Orient
Werner Ehrhardt/Concerto Körn
Vladimir Ivanoff/Sarband
ARCHIV/474 193-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCA-1031(国内盤)
モーツァルトの「後宮よりの逃走」は、トルコの後宮が舞台。だからこの序曲や、オペラの中の行進曲などに、実際にトルコの打楽器を使ってみようと考えた人は今までにもいたわけで、私もミンコフスキやマッケラスで何度か聴いたことはありました。このCDも、最初に「後宮」序曲が入っていますから、まあ、そんなものと同じだろうと思って普通のヴォリュームで聴き始めたら、弦のテーマに続いてとんでもない音量で打楽器が聞こえてきたので、あわててヴォリュームを絞ってしまいましたよ。ここで、トルコ風の打楽器を担当している民族バンド「サルバンド」のメンバーは、そんな、とことん羽目を外した演奏を心底楽しんでいるようです。
このCDは、コンチェルト・ケルンが、その「後宮」に代表される18世紀後半の異国趣味を反映した作品をサルバンド(たぶん、シンバルしかないでしょう)と一緒に演奏しているだけではなく、サルバンドのサイドでも本物のトルコの音楽を演奏しているという、ユニークな構成になっています。そもそも、最初の「後宮」序曲の前にも、なにやら怪しげな「前振り」が入っているのですから。
モーツァルト以外の作品では、グルックの「思いがけないめぐり合い」序曲、ヨーゼフ・マルティン・クラウスの「ソリマン2世」からの舞曲、そして、ジュスマイヤーの「トルコ風シンフォニア」が収められています。グルックもクラウスも、それがオリジナルかどうかは分かりませんが、打楽器が入ることによってとても活き活きとしたものを聴くことが出来ます。ライナーに写真があるのですが、小さな鈴がたくさん付いた「Turkish crescent」という楽器が常に「シャラシャラ」と鳴っているのは、なかなか心地よいものです。モーツァルトの奥さんの愛人として(ではなくて、「レクイエム」の補筆者としてでしょうが)知られるジュスマイヤーの作品を聴くと、彼が言われているほど拙い作曲能力しか持ち合わせていなかったとは到底思えなくなってきます。それほどに、アイディアといい、センスといい、なかなかのものを持った曲ですよ。フィナーレで突然現れるアジア音階には、思わずうなってしまいました。
それにしても、サルバンドの演奏による「オリエンタル」な曲は、私たちの胸になんとストレートに響いてくることでしょう。やはり、私たちはアジア人、どこか深いところで、トルコの音楽と結びついているものは確かにあるのでしょう。ヴォーカルが入ったものなど、まさにどこかで聴いたことのあるようなものばかり。無抵抗に染み込んでくる力といったら、クラシック音楽の比ではありません。
ただ、おそらく現代の作品でしょうが、コンチェルト・ケルンが共演して、ストリングスを入れたようなものは、ちょっといただけません。どこの国でも見られる、安直なコラボレーション、これを克服するには、まだ時間が必要なようです。

おとといのおやぢに会える、か。


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