屁、出る。排便。.... 佐久間學

(10/12/3-12/21)

Blog Version


12月21日

BACH
Sonatas
Ronald Moelker(Rec)
福田理子(Cem)
ALIUD/ACD HA 007-2(hybrid SACD)


我が家では、買ってはみたものの一度も聴く機会がなくほったらかしにされているCDが山積みになっています。一応新譜紹介という看板を掲げていますのでつい新しいものを中心に聴いてレビューを書いていると、いつの間にかそれらのものは山の下に埋もれてしまい、化石になるまで発見されることはなくなってしまいます。そんなことになってしまっては、せっかくこの世に生まれてきたCDがあまりにも不憫、たまには手をさしのべてかわいがってやらなければ。
そんな慈悲の心で「再発見」されたのが、このSACDです。気が付けば日本でリリースされてから2年以上経っていましたが、そんなことは問題ではありません。しかし、ケースの中にブックレットとともにSACDのキャンペーンのためのチラシが入っていたのには、さすがに時代を感じてしまいました。どんだけ、輸入に手間取っていたのでしょう。
ここで、オランダの中堅ブロックフレーテ奏者ロナルド・メルカーと共演しているのは、桐朋学園を卒業後、王立ハーグ音楽院に留学、主にフォルテピアノを勉強した日本人ピアニスト、福田理子(りこ)さんです。相方の楽器はりこだ(リコーダー)。
もちろん、ここで使っている楽器は、18世紀のフレンチをコピーしたヒストリカル・チェンバロです。そう、SACDであることを売り物にしていたこのアルバムで、何よりも聴いてみたいと思ったのが、そのチェンバロの音なのでした。さまざまなSACDを聴いてきた中で、このフォーマットが最も得意としているのはガンガン鳴り響く大きな音ではなく、真の繊細さを要求される小さな音なのではないか、という気がしてきたものですから、チェンバロなどはうってつけなのではないか、と。CDなどでは、間違いなくヒストリカルを使っているはずなのに、まるでモダン・チェンバロのような鋭利な音が聞こえてきた、という体験は、何度も味わっていましたから。
そんな好奇心は、期待以上の成果をもたらしてくれたようです。スピーカーから聞こえてきたチェンバロの音は、何度も生で接したことのあるヒストリカル・チェンバロそのものの音だったのです。プレクトラムで弾かれた弦の響きは、なにか心の奥をくすぐるようなふわふわした浮遊感を持っています。それでいて音の芯はくっきりと聴き取れるという、そうですね、まるで細い竹串に刺したマシュマロのようなものでした(って、何という貧しい比喩なのでしょう!)。それは、このまま何時間でも聴いていたくなるような魅力をたたえたものだったのです。
演奏されているのは、バッハのフルート・ソナタが2曲と、ヴァイオリン・ソナタが2曲です。いずれもチェンバロ・パートは通奏低音ではなくオブリガート、つまり右手が独奏楽器との対話を産むというトリオ・ソナタのスタイルで作られているものです。もちろん、バッハのことですから、指定された以外の独奏楽器で演奏することには何の問題もありません。聴き慣れたロ短調(BWV1030)とイ長調(BWV1032)のフルート・ソナタからは、横笛で演奏される時とはまた違った、リコーダー特有の音程感によるはかなさが味わえます。その分、チェンバロとのバランスはまさに理想的、ある時にはリコーダーがチェンバロのオブリガートとして聞こえることもあり、そのスリリングな掛け合いの妙が満喫できます。ちなみに、イ長調の最初の楽章の欠損部分は、デュールによる新全集版を使っています。
ヴァイオリン・ソナタの場合は、音域の関係でしょうか、全音、あるいは半音高く移調されています。有名な「シチリアーノ」を持つハ短調(→ニ短調)BWV1017はもちろん、第2楽章のかわいらしさにバッハの無邪気な一面を見る思いのホ長調(→ヘ長調)BWV1016が、とても心に残ります。

SACD Artwork © Skarster Music Investment

12月19日

BACH
Orgelwerke
Zsigmond Szathmáry(Org)
JVC/JM-XR24002S(XRCD)


先日のパイヤールと一緒に購入した国内制作LPSHM-XRCD化アイテムです。もちろん半額キャンペーン対象商品でした。録音されたのは1978年、オランダ、ズヴォレ聖ミヒャエル教会のシュニットガー・オルガンという、名前を聞くだけでもつい反応してしまう有名な楽器を使って演奏されています。こちらの方はビクターが直に制作、エンジニアにはフリーで活躍していたテイエ・ファン・ギーストという、いろいろなレーベルで(たとえばNAXOSあたり。RCAではゴールウェイの録音を担当していたこともあります)お目にかかれる人を使っています。
LPでリリースされた時には「76cm/sec マスター・サウンド」という仰々しいシリーズの一環としてのお目見えでした。当時のプロ用のテープ・レコーダーの標準速度は38cm/sec1/4インチ幅の磁気テープを2つのトラックに分け、それぞれ左右2チャンネルを振り分けた、いわゆる「ツートラサンパチ」という規格が、マニアがあこがれる最高のスペックだったのです。ちなみに、「アビー・ロード」のように、当時市販されていたオープンリールのソフトは、往復録音再生が出来る「4チャンネル」、速度は半分の19cm/secでした。ですから、この「76cm/sec」というのは、その最高の規格のさらに倍速、デジタル感覚ではサンプリング周波数を倍にするようなもので、とてつもない規格だったのですね。たぶん、今のPCMの最高スペック、24bit/192kHzをしのぐほどの音質だったに違いありません。
ですから、それを、場合によってはSACDよりも良い音が聴けるXRCDにトランスファーしたものは、マスターテープそのものには及ばないまでもLPCDよりは格段にクリアな音が体験できるはずです。楽しみですね。
ジグモンド・サットマリーという、ハンガリー出身の現代曲を得意としているオルガニストが演奏しているのは、まさに「名曲集」でした。「トッカータとフーガニ短調」、「パッサカリアとフーガハ短調」、「小フーガト短調」、「幻想曲とフーガト短調」、そして「シューブラー・コラール」から3曲と、恥かしくなってしまうほどのベタな「名曲」が並んでいます。まあ、音を楽しむことが主たる目的の企画だったのでしょうから、それは仕方がありません。
確かに、「トッカータ〜」の最初のパイプの音は、とても澄み切ったものでした。さらに、休符の間に漂っている残響が、得も言われぬ美しさです。これはまぎれもなく、そんなハイスペックでなければなしえない素晴らしい音です。ところが、しだいにストップが増えてフル・オルガンになっていくと、音があまりにもピュア過ぎて、そこからは押し寄せるような迫力が全く感じられないことに気が付きます。そうなんですね。いかに録音機材が優秀であっても、オルガンのような巨大な楽器の全貌を伝えるには、エンジニアの経験とセンスが不可欠になってくるのですよ。このファン・ギーストという人が録音したものは数多く聴いていますが、傾向としては迫力ではなく繊細さで勝負しているようなところがあるのでは、という感想を抱いていました。そういうセンスの人のオルガンですから、やはりちょっと物足りないのは仕方がないのでしょうか。いーすと(いい人)なんでしょうがね。
そして、それに輪をかけて、演奏しているサットマリーの作り出す音楽が退屈なのですね。「トッカータ〜」の「フーガ」に出てくるさまざまのストップを駆使して音色の変化を楽しめるところなども、いとも淡白ですし、「幻想曲〜」では、やはりフーガでペダルによるテーマが出てくるところが、なんともスカスカのストップ選択なものですから、ちっとも「ファンタジー」が感じられません。
そんな、もしかしたらLPでは気づくことのなかったさまざまの欠点まで露呈してしまうのが、XRCDの底力なのだとしたら、これは恐ろしいことです。パイヤールではそれが良い方に作用していたのでしょうが、ここではそれがかえって災いとなってしまったようです。

XRCD Artwork © Victor Creative Media Co., Ltd.

12月17日

PARADISI GLORIA 21
Angelika Luz, Marlis Petersen(Sop)
Adrian Eröd(Bar)
Ulf Schirmer/
Chor des Bayerischen Rundfunks
Münchner Rundfunkorchester
BR/900302


「天国の栄誉 21」というこのタイトルは、21世紀に活躍している作曲家に宗教音楽を委嘱し、それを演奏するというウルフ・シルマーとミュンヘン放送管弦楽団のプロジェクトの名前なのだそうです。もちろん、彼らの母体であるバイエルン放送が録音し、逐一放送しているのでしょうね。
このプロジェクト、2008年と2009年には、「マニフィカートと聖母マリア」というテーマが設けられていました。そのテーマに沿って新たに作られた4つの作品が、このCDに収められています。もちろん、すべて世界初演の時のライブ録音ですから、当然世界初録音ともなるものばかりです。宗教曲ですから声楽が加わるものもありますが、合唱を担当しているのが、バイエルン放送合唱団です。お馴染み、ピーター・ダイクストラが音楽監督を務めている団体ですが、ここで合唱指揮者は別の人(2人の名前がクレジットされています)、多忙なダイクストラくんの職務は、ここでは「現場」よりも「管理部門」なのでしょうか。
最初の作品は、オリオール・クルイセント Oriol Cruixentという1976年生まれのスペインの作曲家の「深い淵 Abismes」。一応「オーケストラだけで演奏される曲」ということにはなっているのですが、後半に男声合唱でグレゴリアンのようなものが歌われているので「合唱団」はいなくても「合唱」は聞こえてきます。そんなに上手ではないので、オケの団員が歌っているのかも知れませんね。詩篇でお馴染みのこのタイトルですから、そのあたりの聖歌が引用されているのでしょう。しかし、この曲が始まった時には、よもやそんな展開などにはなるまいと思えるほどのハードなものだったので、ちょっと期待したのですが、それは「深い淵=混沌」といういとも安直な連想を具現化するためだけの、単なる「技法」の引用だったのでしょう。そう、この世代の作曲家にとっては、クセナキスさえ「引用」の対象となってしまっているのです。
次は、もう少し上の世代、1952年生まれのゲルト・キュール Gerd Kührというオーストリアの作曲家の「マニフィカート」です。感染性胃腸炎が流行っていますが、下痢とキュウリの間に因果関係はありません。こちらは、あのハンス・ヴェルナー・ヘンツェに師事したというぐらいですから、12音音楽あたりの伝統的な「現代音楽」をしっかり引き継いでいるという、ある意味貴重な作風を未だに貫いている人のようです。ここには合唱の他にソプラノとバリトンのソロが加わります。テキストも、本来の「マニフィカート」のラテン語の歌詞の前後に、ドイツ語の別の歌詞が加えられています。ソプラノのソロにわざわざ「高いソプラノ」と指定してある通り、ここでのソリスト、ルツは殆ど高い音だけを出させられています。ただ、実際は「A」とか「H」のソプラノにとってはそれほど高いとは思えない音を、いかにも苦しげに絞り出しているのは、そのようなキャラクターが求められていたせいなのでしょうか。そんな、久しぶりに聴く「ハード」な作品は、この中では最も聴き応えのあるものでした。
そのキュールに師事したのが、1973年にポーランドに生まれたヨアンナ・ウォズニー Joanna Woznyです。彼女もまた、「伝統」をしっかり引き継いだ作風を持っているように思えます。ここで演奏されている「群島 Archipel」というオーケストラ曲は、しかし、そのような技法を駆使した結果、「ハード」ではなく「メディテーション」の世界にたどり着いたという、ユニークなものになりました。表面的ではない、真の「瞑想」がそこにはあります。
最後は、1969年生まれ、ウィーン在住のやはり女性作曲家ヨハンナ・ドデラー Johanna Dodererの「サルヴェ・レジーナ」、これはまっとうに普通の歌詞が歌われますが、曲想も他の3人とは全く異なる「まっとう」なものでした。代理店によるこのCDのインフォに「最も宗教曲として心にしみるものでしょう」とある通り、いかにも素人受けしそうな作品です。

CD Artwork © BRmedia Service GmbH.

12月15日

VIVALDI
Les Quatre Saisons
Gérard Jarry(Vn)
Jean-Francçois Paillard/
Orchestre de Chambre Jean-Francçois Paillard
JVC/JM-XR24001S(XRCD)


日本ビクター(ではなく、実際はビクターなんたらという社名でしょうが)が誇るSHM仕様のXRCDという、現時点のCDの規格の中では最高の音質を期待できるスペックの製品が、大量に安売りの対象になっていました。なんと1枚税込1890円、元の値段の半額ですよ。確か限定盤のような形でリリースされたものですからちょっと複雑な気持ちですが、せっかく安くしてくれるというのですから買わない手はありません。最初に出た時にはその価格でちょっとためらってしまった、かつて日本ビクターが制作したアイテムを、今回はいそいそとお買い上げです。
これが録音されたのは1976年、実際に制作を担当したのは、ミシェル・ガルサン率いるあの「ERATO」レーベルのチームです。最初はインディーズとしてスタートしたERATOですが、やがてRCAの傘下に入り、後にはWARNERへ移籍(?)、結局はそのメジャー・レーベルによって「飼殺し」の憂き目に遭うという末路をたどってしまいましたね。
このレーベルの国内盤は、最初は日本コロムビアが発売していたのですが、RCAの管理下に置かれた時点、おそらく1975年頃に、RCAと提携関係にあった日本ビクター(正確には、RCAと日本ビクターの合弁会社であるRVC)によって扱われるようになります。その関係で、このような企画が実現したのでしょう。
ライナーを読むと、もともとは「4チャンネル」のために録音されたものであることが分かります。1970年代に、今で言うところの「サラウンド」にあたる規格が提案され、それ用のソフトや再生機器が発表されたのですが、結局さまざまな規格が乱立したために殆ど普及せず姿を消した、と言うものです。不朽の規格にはならなかったのですね。日本ビクターが提唱していたのが「CD-4」という、4つのチャンネルをそれぞれ独立して記録する方式でしたが、いわばそのデモンストレーションとして用意されたものが、この録音なのでしょうね。ここで演奏されているヴィヴァルディの「四季」は、実は同じメンバーで1970年にすでにERATOに録音されていましたが、4チャンネルのために敢えて再録音を行ったのでしょう。
そんな「商売」の背景は、30年以上の時間が経過すればすっかり濾過されてしまい、あとにはそこに記録された「音」だけが残ります。久しぶりに聴いたパイヤールの「音」は、予想していたものをはるかに超えるインパクトを誇っていました。
「四季」を初めて世に知らしめたイ・ムジチ同様、パイヤールも当時の「バロック音楽」のスタンスで演奏しています。使われる楽器は当然モダン楽器、ライナーの写真でチェンバロを特定することが出来ますが、それはノイペルトのスピネット・タイプ「ツェンティ」でした。ヒストリカルに迫ろうとはしていても、基本的にはモダン・チェンバロの範疇に入る楽器です。そんなメンバーが演奏する「四季」、しかし、いとも整然と始まったと感じたのは最初だけ、聴き進んでいくと、そこには、ちょっと油断していると思わず足をすくわれそうになる「仕掛け」がいたるところに潜んでいたのです。まるで、「断じてヒーリング・ミュージック(そんな言葉、当時はなかったでしょうが)には終わらせないぞ」と言わんばかりの気概が込められているようでした。それはある意味、現在の主流となったピリオド楽器の人たちの目指しているものとかなり似通ったもののように感じられてしまいます。
そんな印象が伝わってきたのは、美しいのだけれどあちこちに棘のようなものが隠されている弦楽器の音が、とてもリアルに聞こえてきたからなのでしょう。そのような合奏の中では、ノイペルトはまさにアクセントとしての役割をしっかり果たしてくれています。そんなチェンバロともども、録音会場の教会の外を走っている自動車の音までもしっかり捉えた優秀な録音が、XRCDならではの骨太の音で迫ってきます。

XRCD Artwork © Victor Creative Media Co., Ltd.

12月13日

それは、懐かしい時の始まり。
田原さえ(Pf)
MHK'S MUSIC/LLCM-1003

こういう、日本語のタイトル、いいですね。最近のCDのタイトルといったら、「Smile」だの「Tears」だのと、一見ファッショナブルでも中身は空っぽというわけの分からない英語もどきが氾濫していますから、こういうのを見ると何かほっとさせられる思いです。
アルバムのリーダー田原さんという方は、仙台市を中心に活躍されているピアニストですが、ピアノだけではなくチェンバロも演奏されるなど、多彩な方面での演奏を行っています。さすがに馬に乗ったりはしませんが(それは「ジンガロ」)。さらに、美術館のロビーで、バロックダンスとのコラボレーションを行うなど、ユニークな活動もなさっています。特にバッハの演奏には定評があり、ご自身でも「仙台バッハゼミナール」というものを主宰して、後進の指導にも尽力されています。
以前、最も尊敬に値する世界的なフルーティスト、ペーター・ルーカス・グラーフとの共演を聴いたことがありますが、この巨匠の作り出す堅牢な音楽を、しっかりと支えていたのは印象的でした。多少気紛れなところもある巨匠は、興が乗ると即興的な「仕掛け」を繰り出してくるのですが、そんなアド・リブにも的確に対応していたのを見るに付け、この方のアンサンブルに対する鋭いセンスを感じたものです。
最近でも、チェロや弦楽四重奏とのアンサンブルを聴く機会がありましたが、他のプレーヤーが伸び伸びと演奏できるような心配りが至るところで見られ、とても気持ちのよい一時を過ごすことが出来ました。
今回のCDは、田原さんにとっては初めてとなる、録音のためのセッションを設けて、制作されたものです。そのために用意された楽器とロケーションは、田原さんの思いがとことん反映されたものとなっています。まず、録音された場所は、仙台市から少し北に離れた町、黒川郡大和町にある「仙台ピアノ工房」というところの木造のドーム型をしたホールです。ここは、まるで天文台のような形をした十角形の建物、収容人員は60名ほどですが、木造ならではのとても暖かい響きを持っています。そして、楽器はそこの備え付けの、1960年に作られたというD型スタインウェイです。生まれてから半世紀も経った名器が、ホールの主である伊藤さんという調律師の手によって最良のコンディションに調整され、それをとてもナチュラルな響きのホールの中で演奏するという、何かとてもうらやましくなるような環境で録音されたものが、ここには収められています。
そんな良心的な心遣いは、1曲目のバッハの「プレリュードとフーガ嬰ヘ短調」(BWV883)で、まずはっきり聴き取ることが出来ます。それはまさに、タイトルにあるような「懐かしい」思いがこみ上げてくるようなものでした。それは、最近ありがちな鋭角的なバッハではなく、あくまで流れるような心地よさを持ったもの、そして、ピアノの音はなんともまろやかで、潤いに満ちています。そのまわりを囲む木製の空間がまるで眼前に広がるような、爽やかな空気感までも、確かに聴き取ることが出来ることでしょう。
次の、ショパンの「24のプレリュード」では、ショパンならではの技巧的なパッセージを誇示することはなく、もっぱらしっとりとした、ピアノによる「歌」を伝えているように感じられます。。そこからこみ上げてくる田原さんの息づかいは、まさに「懐かしさ」を誘うものでした。
最後は、曲自体がとても懐かしい、シューマンの「子供の情景」です。幼いころラジオから流れてきた、あるいは、たどたどしい指づかいで実際に弾いてみたかもしれないあのかわいらしい曲たちが、まるで包み込むような暖かい音色で聴こえてきた時、思わずウルウルしたとしても、何も恥ずかしがることはありませんよ。
リリースはプライベート・レーベルからですが、こちらこちらなどでも容易に入手できます。

CD Artwork © MHK'S MUSIC

12月11日

ようこそ! すばらしきオーケストラの世界へ
近藤憲一著
ヤマハミュージックメディア刊
ISBN978-4-636-84683-6

オーケストラを聴く、ということは、まさにクラシック音楽鑑賞の王道です(王ケストラ・・・ちょっと苦しい)。おそらく、少年(少女)時代に初めてクラシックに親しむようになったきっかけは、ほとんどがオーケストラによってもたらされたのではないでしょうか。ある時その少年(少女)は、生のコンサートで実際のオーケストラの音を聴き、さらに強い衝撃を受けることになります。体中で感じられるその迫力に圧倒されると同時に、どんなに小さな音にも耳を傾けている自分に気づくことでしょう。さらに、その音色の多彩さ、それを生み出すそれぞれの楽器の特有の音にも、目を見張るに違いありません。かくして、オーケストラを聴くことは少年(少女)の最大の楽しみとなるのです。
そんな少年(少女)、あるいはもっと成長しておじさん(おばさん)になった人たちが、そんなオーケストラの魅力は一体どんな所から生まれているのか知りたいと思った時、とても役に立つのではないか、という本がこれです。いわばオーケストラの「攻略本」。これさえ読んでおけば、彼(彼女)は、さらに深くオーケストラと関わることが出来ることでしょう。
おそらく、「アラカン」を迎えた著者の近藤さん自身が、そのような小さなころからオーケストラに接する機会があったのでしょう。やがて、職業として音楽に関わるようになり、実際にオーケストラの内部の人たちとの交流も生まれることによって、そこで得られた知識をそんな「オーケストラ初心者」に伝えたいと思ったことが、この本を執筆する動機だったに違いありません。ここには、ご自身の体験とオーバーラップさせながら、おそらく彼自身が過去に抱いたであろうさまざまな疑問点を、すべてを知ることが出来るようになった現在の視点で暖かく解説している、という、なにか心和む風景が浮かんでいるように感じられます。
そのような意味では、この本では、オーケストラについての必要な知識は細大漏らさず述べられているように思われます。そもそも、オーケストラというのはどういうものなのか、という、まさに根源に迫る問題点から始まって、構成される楽器のこと、さらにはオーケストラに従事するさまざまな人間(楽器の演奏家だけではなく、それを支える「組織」としての人間も含めて)の「素」の姿まで、ここでは知ることが出来ます。まさに至れり尽くせり、これ以上何を求めることがありましょう。
しかし、いかにも活き活きと描かれているその姿が、なにか居心地が悪いのですよね。よくは分からないのですが、何かが足りません。それはおそらく、茂木大輔さんのさまざまなエッセイをすでに読んでしまっていたせいなのかもしれません。実際のオーケストラ・プレーヤーである茂木さんの筆からは確かに伝わってきたはずのリアリティが、この本からは全く感じられなかったのです。著者がいかにオーケストラに対する該博な知識を持っていたとしても、それだけでは決して語ることのできない「現場の匂い」のようなものが、ここでは完全に欠落しているのです。おそらくそれは、プロ・アマを問わず実際にオーケストラの中に身を置かない限り、身に付くことはないものなのでしょう。
著者も頑張ってはいるのでしょうが、たとえば「ブルックナーの交響曲は、どの曲もほぼ3管編成」(185ページ)とか、85ページでの弦楽器の弦が切れた時の処理(実際は、きちんと手順が決まっています)や、管楽器では「本番中の故障でもあわてないように、2本とも手元に置いて演奏する人もいる」などと書いてあるのを見ると、「やっぱりな」と思ってしまいます。A管とB♭管を持ちかえるクラリネットならいざ知らず、スペアの楽器を「手元に置いておく」木管楽器奏者など、まず普通のオーケストラにはいないはずですから。

Book Artwork © Yamaha Music Media Corporation

12月9日

Nordic Sounds
Choral Music by S-D. Sandström
Peter Dijkstra/
Swedish Radio Choir
CHANNEL/CCS SA 29910(hybrid SACD)


オランダの若き合唱指揮者、ピーター・ダイクストラは、今ではいったいいくつの合唱団の指揮者のポストにあるのでしょう。これは、彼が2003年から首席客演指揮者を務め、2007年には音楽監督に就任したスウェーデン放送合唱団との初めてのアルバムです。スウェーデン放送合唱団といえば、「世界一」の合唱指揮者であるエリック・エリクソンによって育てられた、まさに「世界一」の合唱団です。ということは、ダイクストラくんは、今や「世界一」の合唱指揮者になったのだ、ということになりますね。
アルバムタイトルの「ノルディック・サウンド」というのは、ライナーでダイクストラが述べていますが、エリクソンによって磨き抜かれたこの合唱団特有の響きのことなのだそうです。昔あったレーベルではありません(それは「テルデック」)。そんな、いかにも北欧らしい渋いサウンドにふさわしいのが、ここで歌われているスヴェン・ダヴィッド・サンドストレムの無伴奏合唱曲です。
現代スウェーデンを代表する作曲家であるサンドストレムは、以前「メサイア」でご紹介したことがありました。それは、ヘンデルの有名な作品を下敷きにして、彼自身の語法(あの場合はネオ・ロマンティックなテイストが濃かったような気がします)で新たに再構築する、というものでした。言ってみれば、「カバー」という概念ですね。ポップ・ミュージックでは、オリジナリティの枯渇から、近年はこの「カバー」が隆盛を極めていますが、それはついにクラシックのジャンルにも及んできたのでしょう。
ここでは、彼のその「カバー」の歩みのようなものを聴くことが出来ます。まず1986年に作られた、ヘンリー・パーセルの「Hear my prayer, O Lord」という未完のアンセムを、彼が「修復」したものです。「カバー」というよりは「補作」でしょうか。その仕上がりは、まるでベリオによって「完成」されたプッチーニの「トゥーランドット」のような様相を見せていました。それは、最初はパーセルのオリジナルが、少ない人数の非常に澄みきった響きで演奏されていたものが、次第に不協和な「汚れた」響きに支配され、混沌の世界が広がるというものです。しかし、最後は思いがけずハ長調の美しいハーモニーが鳴り渡って、驚かされます。実は、この曲は最近さる合唱団がコンクールの自由曲として演奏しているのを何度か聴いたことがありました。その時にはその作為的な「汚れ」が、なかなか伝わってこなかったことに、ちょっともどかしさを感じていたのですが、このアルバムの演奏では、作曲家の意図がきっちりくみ取れるものになっています。
同じ時期に作られた、こちらはブクステフーデが「元ネタ」の「Es ist genug」では、「美しさ」と「汚れ」の対比が、圧倒的な「力」となって迫ってきます。
その後、彼はもっぱらバッハの作品のカバーに熱中します。1994年の「ハイ・ミサ@ロ短調ミサ」を皮切りに、クリスマス・オラトリオや受難曲、マニフィカートからカンタータと、多くの「元ネタ」による作品を発表してきます。2003年に取りかかったのが、「モテット」ですが、そのうちの「Lobet den Herrn」と「Singet dem Herrn」をここで聴くことが出来ます。前者での、まるでヒップ・ホップの「サンプリング」のような、脈絡のないリズムの応酬など、さまざまな「技」が駆使されますが、バッハの精神だけは透けて見えるというあたりが、面白いところです。
それまでは主にオーケストラの作品が多かったサンドストレムが、合唱曲の作曲家としても一躍有名になることになった1981年の衝撃作「Agnus Dei」と、最新作、2009年の「A new song of love」を比べると、その間に横たわる落差の大きさに驚かされます。人間というものは、これほどまでに安易な方向に流れるものなのでしょうか。そのあたりを、合唱団のサウンドとスキルを総動員して見せつけてくれたダイクストラ、やはり彼はただ者ではありませんでした。

SACD Artwork © Channel Classics Records bv

12月7日

BACH
St John Passion
Charles Daniels(Eva)
Stephan Varcoe(Jes)
Peter Seymour/
Yorkshire Baroque Soloists
SIGNUM/SIGCD209


バッハの「ヨハネ受難曲」の最新録音です。演奏しているメンバーが、なんとも懐かしい名前だったものですから、ためらわずに入手しました。この、ピーター・シーモア指揮のヨークシャー・バロック・ソロイスツというチームは、モーツァルトのレクイエムの補筆版の中でもユニークさという点では群を抜いていた「ドゥルース版」を録音していた、数少ないアーティストの一つだったのですよ。というより、そもそもその版の産みの親であるダンカン・ドゥルースというヴァイオリニストは、このアンサンブルのコンサートマスターで、「ドゥルース版」は彼らが演奏するために作られたものだったのです。
彼らがその「ドゥルース版」を録音したのは1991年でした。それから20年近く経っての今回の「ヨハネ」ですが、メンバー表を見ると、さすがにドゥルースの名前はありませんでしたが、ヴァイオリンやヴィオラには、まだ当時のメンバーが残っているのには、ちょっと嬉しくなりました。
合唱団も、かつては「Yorkshire Bach Choir」という別の名前を持っていましたが、今ではこの「ソロイスツ」の中に一緒に揃いすつあるのでしょうね。20人ほどのそのメンバーは、おそらくすべてプロフェッショナルな声楽家なのでしょう。ここでは、アリアはすべてこの合唱団のメンバーによって歌われています。
モーツァルトでは超ぶっとんだ版を使っていた団体ですから、この「ヨハネ」でも、まず気になるのはどんな版で演奏しているか、という点です。しかし、あいにく(笑)彼らが使っていたのはごく一般的な新バッハ全集でした。5つある版のうち、第2稿と第3稿は曲の中身が違うのですぐ分かりますが、第1稿と第4稿、そして新バッハ全集の元になった未完のスコアを見分けるには、9番のアリア「Ich folge dir gleichfalls mit freudigen Schritten」が役に立ちます。詳細はこちらを参照して下さい。
今回の彼らの編成は、合唱はわりと大人数なのに、オーケストラの弦パートはそれぞれ一人+コンマスという、なんとも慎ましいものになっています。1曲目ですでにヴァイオリンの十六分音符の音型が管楽器に消されて全く聞こえてこないのですから、なぜこんな少ない人数なのか理解に苦しみます。モーツァルトの時には、ヴァイオリンだけで9人もいたというのに。
合唱に関しても、数々の「?」がついて回ります。それだけの人数なのですから、たっぷりとした表現をとるのだと思いきや、なんとも素っ気ない表情付けに終始しているのですからね。特に異様なのがコラールの歌い方です。一つ一つの音符をぶつぶつ切って歌うというもの、それはやたら攻撃的、時にはまるで行進曲のような「力強さ」まで備えているもので、そこにはコラールらしい流れる音楽は全く見あたりません。すべてのコラールがこの歌い方で徹底されているからには、何か特別な意味があるのでしょうが、それは到底理解することは出来ません。
アリアもかなり悲惨です。一応なにがしかの経歴を背負った人たちなのでしょうが、まずその歌にはぴりっとした存在感のない人が殆どでした。先ほどの9番のアリアを歌っている人は、フレーズの終わりに不思議な「タメ」を持っていて馴染めませんし、35番の美しいソプラノのアリアも(これは別の人)、テンポが異様に遅くて、息切れしています。
そんな、ちょっと不思議な流れに支配されて、とても「憩う」気持ちになれないのが、最後から2番目の合唱「Ruht wohl(憩え、安らかに)」です。常にゴツゴツとした動きにじゃまをされていて、決して滑らかな流れが出て来ないのですよ。これはもしかしたら、ヨークシャーの田舎でしか通用しないようなローカルなバッハなのかも。

CD Artwork © Signum Records

12月5日

チェロの森
長谷川陽子著
時事通信社刊
ISBN978-4-7887-1068-9

日本を代表するチェリスト、長谷川陽子さんのエッセイが発売されました。その前半は彼女の生い立ちから現在に至るまでの歩みをつづった、いわば「自叙伝」、いつまでもお若いと思っていた彼女も、もうそのような過去を振り返るお年頃になったのでしょうか。熟女の年代へ、ようこそ。
しかし、それは単に今までのことを振り返るのではなく、これまでの自分の歩みを思い返す中から、将来の、更に充実した道を模索していきたい、という爽やかなスタンスを持ったものでした。一見、日本でのチェロ修行、そしてフィンランドへの留学と、なんの挫折もなくいともすんなりと成功を収めてきたように思えてしまいますが、その裏にあった苦悩などはほとんど感じさせないのは、彼女の思いやりのなせる業なのでしょう。 そのような温かなまなざしは、彼女がこれまでに出会った人たちにも向けられています。中でも、二人の師匠、井上頼豊とアルト・ノラスへの思いは、とても美しく感じられます。さらに、そのまなざしが彼女の親族に向けられた時、読者は彼女のとびぬけて恵まれた境遇に、驚きを隠せないはずです。この本の表紙を飾っている肖像画は、母方の祖父である日本画家、加藤晨明が描いたもの、少女の凛とした表情と、彼女が奏でる、まさに音が響いているかのようにデフォルメされたチェロからは、なんという愛情が感じられることでしょう。父方の祖父の長谷川英三も、音楽にも造詣が深い高名な建築家です。そして、彼女の父親が、音楽評論家の長谷川武久だということも、初めて知りました。ここで描かれている、父親の娘に対するさりげない思いやりにも、心を打たれます。
実は長谷川さんとは、今から20年近く前、実際に共演する機会がありました。いえ、「共演」とは言っても、こちらはアマチュア・オーケストラのメンバーとしてドヴォルジャークのチェロ協奏曲のバックを務めた、というだけのことなのですがね。
それは、さる自動車メーカーのメセナの一環で当時頻繁に行われていた冠コンサートでした。指揮者とソリストを用意してくれて、そのギャラもすべて賄ってくれるというおいしい企画です。当初はチェロのソリストとして藤原真理さんが予定されていましたが、なぜかその予定が変わってしまって、代わりに「派遣」されてきたのが長谷川さんだったのです。当時、1992年という年は、長谷川さんがフィンランドのシベリウス音楽院を卒業し、いよいよ本格的にソリストとして活動しようという時期でした。しかし、まだまだ「駆け出し」という印象はぬぐえず、それが決まった時には正直がっかりしたものです。本番の前の日に我々の前に現れた彼女は、なんとも初々しい「お嬢さん」にしか見えませんでしたしね。タートルネックのセーターにチェックのスカートというおとなしい服装、首からは大きめのペンダントをぶら下げていたでしょうか。しかし、チェロを弾くのには邪魔になるのか、彼女はそのペンダントをやおら背中の方に回してしまいました。まるで、なにか気合を入れるようなその動作に続いて始まった演奏は、まさに度肝を抜かれるものでした。それは、なんという力強さ、そしてなんという繊細さを持っていたことでしょう。
実は、その時にあてがわれた指揮者は、なにか言動が屈折していて、ねちっこい態度を示す人でした。少しでもミスをしようものなら、容赦なく罵声が飛び交います。その指揮者の悪態は、信じられないことに、演奏会後の打ち上げの場でも続いていました。そんな嫌な空気を一掃してくれたのが、長谷川さんだったのです。指揮者の後であいさつに立った彼女は、「K分先生(指揮者)がムチだったので、私はアメになりましょう」とおっしゃって、見事にその場を和ませてくれたのです。そんな優しい気配りのバックグラウンドを、18年も経ってからやっと知ることが出来ました。

Book Artwork © Jiji Press Ltd.

12月3日

MOZART
Mass in C minor
Gillian Keith(Sop), Tove Dahlberg(MS)
Thomas Cooley(Ten), Nathan Berb((Bar)
Harry Christophers/
Handel and Haydn Society
CORO/COR16084


モーツァルトの「ハ短調ミサ」は、「レクイエム」同様、未完の作品ですが、そもそも作曲者自身が完成させる意志を持っていなかったということと、こちらはとりあえずそのままでも演奏可能であるために、特に未完の部分を「修復」したりはせずに演奏されることが多くなっています。確かに、ミサとして必要なすべての楽章を備えた「完全版」の作成が試みられたこともありました。古くはシュミット版、最近ではレヴィン版などが出版されていますね。これらは「未完」の部分にモーツァルトの他の作品を流用するなどして作られたものですが、実際にはその需要はいまいちのようで、録音でも、レヴィン版を演奏しているのは依頼主のリリンクだけ、シュミット版に至ってはもはや入手可能なものはありませんからね(こちらの「『大ミサ』の主なヴァージョン」の記述でパウムガルトナーの演奏がシュミット版だというのは間違いです)。
ただ、やはり「未完」というのはなにかと不備があるもので、そのしわ寄せは主に男声のソリストが被ることになります。なにしろ、ソプラノ二人が華やかなソロを与えられているのに対して、テノールとバスのソリストは、ソロのアリアは全く歌わせてはもらえないのですからね。テノールの出番は「Quoniam」の三重唱と「Benedictus」の四重唱の2曲だけ、バスに至っては「Benedictus」1曲しかありません。これは最後の曲ですから、ずっと待っていなければならないのですね。先ほどの「完全版」では、両方ともとりあえずテノールには「Et in Spiritum Sanctum」でソロを与えて「救済」を施していますが、バスには何の恩恵もありませんし。そんなところも、使われない理由?
ここで、「ザ・シックスティーン」の創設者のクリストファーズが用いたのは、もちろん「未完」のエーダー版でした。ただ、演奏しているのはその合唱団ではなく、2009年から彼が芸術監督を務めているアメリカの「ヘンデル・ハイドン協会」という、オーケストラと合唱団の複合体です。ここは、1815年に誕生したと言いますから、もうすぐ「創立200周年」を迎えることになる由緒ある団体。ボストン交響楽団の本拠地、シンフォニー・ホールなどで定期的にコンサートを開催しています。オーケストラはピリオド楽器によって演奏、もちろん、最近アーノンクールとともに来日した怪しげな団体とは異なり、至極まっとうな「古楽」を目指しています。当然のことながら、200年前からこのようなスタイルをとっていたわけではなく、ピリオド楽器を使い始めたのは最近のことなのでしょう。「伝統」に縛られがちなこのような団体にしては、果敢な挑戦だったに違いありません。そして合唱団は、全員オーディションを経て採用されたプロの集団です。
このアルバムは、2010年の1月にシンフォニー・ホールで行われたコンサートのライブ録音です。40人ほどの合唱団は、この響きの良いホールで、とても伸び伸びと歌っているように感じられます。多少声の質が溶け合わないようなところもありますが、それは個々のメンバーのテンションがかなり高まっていたせいなのでしょう。それは決して耳障りなものではなく、いきいきとした息吹きとして伝わってきます。「Qui tollis」などでは、重々しい複付点のリズムのイントロを受けて、しっとりと情感あふれる音楽を聴かせてくれています。
これだけ充実した合唱に比べると、ソリストたちはちょっと見劣りするでしょうか。特にアンサンブルでは、かなりお粗末なところを露呈しています。しかし、最後に「Hosanna」がこの合唱で締めくくられれば、お客さんは満足したことでしょう。このCDには、そのあとの拍手喝采が3分間も収録されていますが、その場にいた人たちが共有したであろうとても幸福な時間の余韻をまざまざと味わうことが出来ます。よいん演奏会だったのでしょうね。

CD Artwork © The Sixteen Productions

おとといのおやぢに会える、か。


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