エロい、か。.... 佐久間學

(08/4/2-08/4/20)

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4月20日

BACH
Motets
Peter Dijkstra/
Nederlands Kamerkoor
CHANNEL/CCS SA 27108(hybrid SACD)


Bo Holten/
Flemish Radio Choir
GLOSSA/GCDSA 922205(hybrid SACD)


最近バッハのモテットの新しい録音がないな、と思てっていたところ、なんとまとめて2種類もリリースされました。いずれもネーデルランドのアーティストによる録音のSACD、レーベルを扱っている日本の代理店も一緒という不思議な縁で結ばれたアイテム同士です。
まずは、合唱指揮界の期待の新星、ピーター・ダイクストラの指揮するオランダ室内合唱団です。この合唱団の他にもドイツのバイエルン放送合唱団とスウェーデンのスウェーデン放送合唱団の指揮者も務めているという超売れっ子のダイクストラ、最近は自らの仲間を集めた男声合唱団「ジェンツ」の方はどうなっているのでしょうか。
このレーベルのSACDでは、使っているマイクなどの機材から、マスタリングの時のケーブルまで、きちんとメーカーや機種を表記しています。それだけ音に対するこだわりはハンパではないぞ、ということなのでしょう。確かに、ここで聴ける録音は素晴らしいものです。合唱団の声はとてもきれいに混ざり合っている中に、通奏低音として加えられたチェロとオルガン(なぜか、どこにもクレジットがなく、いきなりプロフィールが書いてあるのは、ブックレットの編集ミス?)が、控えめなのにはっきりした主張をもって聞こえてきます。なによりも美しいのが、歌い終わったあとの残響です。録音セッションは教会で行われていますが、その空間が感じられるような広がりを持った爽やかな残響が、とても暖かくその場を包み込んでいます。
ただ、ここで歌っているオランダ室内合唱団の、特に女声パートの声の質が、ちょっと前までのまるでいぶし銀のような渋いものから、もっと軽やかなものに変わってしまっているのが気になります。いや、正直それは「軽やか」というよりは「薄っぺら」と言った方があたっているような、芯のない響きなのです。ここで彼らが聴かせてくれる素材としての「音」は、それ自体は非常に透き通った、美しいものです。ハーモニーもこの上なく見事に決まり、高次倍音がはっきり感じられるものです。しかし、それは人間が息を吹き込んで出している音というのではなく、何か楽器、それも電子楽器のような、極めて客観性の強いものが発する音のように聞こえてなりません。そこからは、歌っている人たちの人格が、まるで感じられないのです。
このような感覚は、ダイクストラとジェンツのアルバムを最初に聴いたときに受けた印象と良く似ています。美しいのだけれどなにも訴えるものがない、これはちょうど「癒し系」とか、「ヒーリング・ミュージック」を聴いたときに感じる物足りなさにつながるものなのでしょう。そのような路線が好結果を呼ぶ場合もあるのでしょうが、ここで演奏されているものがバッハだったところに、彼らの誤算がありました。中でも、多くの曲が集まっていて、それぞれが個別の訴えかけをもって迫ってきて欲しい「Jesu, meine Freude」などは、全てがのっぺりとした肌触りのよいものにまとめ上げられていて、なんの引っかかりもない分、衝撃からはほど遠い仕上がりとなってしまっているのです。
もう一方のベテラン、ボー・ホルテンを迎えたフランダース放送合唱団の場合は、指揮者の伝えたいものはしっかり伝わってくるという安心感があります。ちょっと合唱には雑なところがあるにもかかわらず、こちらの方がより充実したものが味わえたと感じられるのは、なぜなのでしょう。
ちなみに、ダイクストラ盤ではいわゆる1番から6番までの6曲、ホルテン盤では、それに偽作(J・クリストフ・バッハ)とされているBWV Anh.III 159Ich lasse dich nicht, du segnest mich denn」を加えた7曲が演奏されています。

4月18日

BIZET
Carmen
Leontyne Price, Mirella Freni(Sop)
Franco Corelli(Ten), Robert Merril(Bar)
Herbert von Karajan/
Vienna Philharmonic
BMG JAPAN/BVCC-34150-52(hybrid SACD)


またまた生誕100周年がらみの、カラヤンのアイテムです。現在では「Sony BMG Music Entertainment」という名前になっている、かつては「RCA」というレーベルで知られていたアメリカのレコード会社から1964年にリリースされたもののリイシューとなります。なぜカラヤンがRCA?といぶかしがる方もいらっしゃるかもしれませんね。この当時のレコード業界は今のように巨大資本が全世界に販売網を広げるというようなことはありませんでしたから、それまで続いていたEMI(というよりHMV)との提携が解消されてしまい、ヨーロッパでの販路が絶たれたRCAは、イギリスのDECCAと新たに提携を結んでいたのです。販売面だけではなく、制作の現場でもその提携関係は生かされており、このようにお互いのアーティストを出し合ってレコードを作ることもありました。そこで、当時DECCAと契約していたカラヤンとウィーン・フィルが、RCAレーベルに登場することになったのです。
ここで録音を担当していたのが、DECCAのジョン・カルショーのチームでした。エンジニアに天才ゴードン・パリーを抱え、有名なショルティの「指環」を作り上げたこのチームが、カラヤンとウィーン・フィルを録音したものは、実は少し前にDECCAからまとめてボックス・セットのCDが出ていました。しかし、これを聴いて、なぜか期待したほどの音ではなかったのには、ちょっとした失望を味わったものです。このチームの音をLPレコードで聴きなれた人にとっては、おそらくそれはなんとも輝きに欠けるものに感じられたことでしょう。
今回は、初出時のパッケージを彷彿とさせるような豪華なブックレットと外箱仕様というだけではなく、音に関しても特別に吟味されたものであるという事を聞いて、今時のCDとしてはかなり高価ですが購入して聴いてみることにしました。なんでも、このために用意されたのは、RCADECCAから渡されたオリジナルの2チャンネルのマスターテープであり、アメリカでそれをDSDでトランスファーしたものをSACDレイヤーのマスターとするとともに、CDレイヤーのためにはあの杉本さんがマスタリングを行ったというのですからね。ちなみに、SACDはステレオだけで、マルチチャンネルはありません(それが、当然のことですが)。
そのマスタリングの素晴らしさは、最初の前奏曲での底力のあるシンバルのクラッシュを聴いただけで明らかになりました。それはなんという厚みと、そして瑞々しさをたたえたものだったでしょうか。これは、まさにDECCAのボックスをはるかに凌ぐ、よりオリジナルに近いものでした。注目すべきは、CDレイヤーでの健闘ぶりです。SACDのクオリティを意地でもCDで出してやろうじゃないか、という杉本さんの意地のようなものまで、そこからは感じることは出来ないでしょうか。比較のために、1997年に行われた20ビット・マスタリングのCD(↓)も聴いてみましたが、その差は歴然たるものです。シンバルの音は少し高音が強調されて一見華やかに思えますが、そこからは重量感のようなものが見事に消え去っています。
RCA/74321 39495 2

他のチェック・ポイントを聴き比べるという、楽しい作業を続けていくうちに、その違いはさらに明らかになっていきます。中でも驚異的なのは、第1幕フィナーレの最初に現れるチェロの存在感でしょうか。以前のCDではなんとも平べったかった音が、今回のCDレイヤーはまさにSACDに肉薄した立体的な音で迫ってきます。
歴史的な事情から、たまたまRCAのものとなっていたDECCAの磁気テープが、そのおかげで最高のスタッフの手によって最高の形でハイブリッドSACDとして蘇ることになりました。本家DECCA(というかUNIVERSAL)ではそれはもはや叶わないことなのでっか

4月16日

拍手のルール 秘伝クラシック鑑賞術
茂木大輔著
中央公論新社刊
ISBN978-4-12-003925-6

N響のオーボエ奏者、茂木大輔さんの最新の書き下ろし単行本です。あとがきではつい最近のシェレンベルガーとN響との共演のことに触れられていますが、この演奏会の模様は実は少し前の「おやぢ」でも取り上げていました。その時には、後半の交響曲でオーボエを吹いていた茂木さんの姿をテレビで見ながら、オーボエと指揮の両方で活躍しているという同じ立場の指揮者の下で演奏している彼の心中はどんなものなのかとても興味が湧いたものですが、それをご本人の言葉でこんなに早く知ることが出来ようとは。
茂木さんの著書には、以前から親しんできました。今では文庫本になってしまった彼のデビュー作「オーケストラは素敵だ」を読んだときには、とてもユニークな才能が現れたことに驚きすら感じたものです。しかし、それは彼の執筆活動のほんのスタート地点、それからの茂木さんの多方面での活躍ぶりには目を見張るものがあり、それらの体験の中から産み出された著作は、さらなる広がりを持ったものになっていきます。今回の新作を昔のものと比較してみると、文体までもが完全に変わっていることが分かります。
そんな、完璧に茂木さん独自のペースを身につけた軽快な語り口で繰り広げられているのは、タイトルの通りの「コンサートにおける拍手の正しいルール」、及び、「『今さら聞けないクラシック音楽に対する疑問』への回答」です。もちろん、それはそのような体裁を借りて茂木さんの音楽観をさりげない形で披露するという、非常に高度な仕掛けを持ったものであることは、十分に認識しておく必要があるでしょう。
そのためには、前半の章で述べられている彼の「クラシック」観をしっかりと噛みしめることが重要になってきます。彼の中での「クラシック音楽」というものは、様式的には(年代ではなく)バッハからシェーンベルクであると規定されています。それ以前は「古楽」、そしてそれ以後は「現代音楽」として、全く別の概念として扱われています。
そのような前提を設けた上で彼は「クラシックは敷居が高い」と主張します。これは、彼が行っている「のだめコンサート」などの趣旨とは矛盾するものではないか、と誰しもが思うかもしれませんが、彼は「敷居の高さこそが、クラシックの魅力である」と言いきっているのです。そうなのです。敷居を下げたとき、それはもはやクラシックではなくなっていることを、これほど明確に語ってくれたことには、まっとうなクラシック・ファンであれば誰しもが溜飲を下げるに違いありません。そんな彼だからこそ、日本人のクラシック演奏家がクラシックやそれ以外の曲を華やかにアレンジして演奏するいわゆる「J−クラシック」を「あれはクラシックではない」と決めつけることが出来るのです。「J−クラシック」は、「ライト・クラシック」と言い換えても差しつかえはないでしょう。茂木さんは、そのような安直なクラシックへのアプローチではなく、もっと苦痛を伴いつつも、いずれはたどり着くであろう実り多い世界の美しさを主張しているように思えます。
そのようなある意味堅苦しい内容を、なんの抵抗もなくすらすら読ませてしまう茂木さんの文章の魅力の秘密は、至る所にちりばめられた怒濤の「おやぢギャグ」ではないでしょうか。明らかにスベりまくっているにもかかわらず(「拍手の法則」は、その最たるもの)、その迫力には圧倒されっぱなしです。もぎ(もし)あなたのオーケストラが茂木さんに指揮をされるような機会があった時には、「タイ明けくん」とか、「仙台市役所すぐ戻す課」などと言われても困ったりしないで、的確なリアクションを返してあげて下さいね。

4月14日

ANDERSON
Orchestral Music Vol.1
Jeffrey Biegel(Pf)
Leonard Slatkin/
BBC Concert Orchestra
NAXOS/8.559313


今年生誕100年を迎えるのは、なにもカラヤンだけではありません。少し軽めのオーケストラ・コンサートには欠くことの出来ない数多くの魅力的な作品を作ったアメリカの作曲家、ルロイ・アンダーソンも、やはり1908年に生まれているのです。「タイプライター」や「そりすべり」の作曲家がカラヤンと同じ年だったなんて、ちょっと意外な気がしませんか?ただ、アンダーソンの場合は1975年に亡くなっていますから、「むかしの人」という印象が強いのかもしれません。
このアニヴァーサリーに合わせて、「全曲録音」が大好きなこのレーベルが、ついにアンダーソンの全集を作ることになりました。彼のオーケストラ作品は、出版されているものだけでも70曲近くあります。しかし、彼の曲は殆どが3分前後の短いものばかりですので、おそらく4、5枚もあればすべてのものが収録されてしまうことでしょう。完成が楽しみです。
ハーヴァード大学でウォルター・ピストンやジョルジュ・エネスコに作曲を師事したというアンダーソンは、クラシックの基礎を持ちながらも「ヒット曲」を作ることを目指していたのでしょう。ダンスバンドを作って活躍していた1930年代後半に、ボストン・ポップスの指揮者、アーサー・フィードラーに見いだされて、専属のアレンジャー・作曲家となるのです。戦争で一時活動が中断した後も、1950年頃まではフィードラーの元で曲を作り続けますが、それ以後は自分でオーケストラを編成して、自分名義のレコードを出すようになります。このアルバムにも収録されている「舞踏会の美女」と「ブルー・タンゴ」がカップリングされたシングル盤は大ヒットとなり、「ブルー・タンゴ」はなんとビルボードのシングル・チャートの1位になってしまいます(1952年の年間チャート1位)。そう、あのころでいえばパティ・ペイジやナット・キング・コールと同じ次元でのヒットを、彼は放ってしまったのです。これでアンダーソンのヒット・メーカーとしての地位は揺るぎないものとなりました。
さらに、1958年にはブロードウェイにも進出、ミュージカルを1曲作ることになります。しかし、1962年に最後のアルバムをDECCA(もちろん、アメリカDECCA。今はMCAからCD化されています)から出した後は、殆ど作曲からは遠ざかり、もっぱら編曲や指揮が主な活動となってしまいます。
MCA/MCAD2-9815

この第1集、そんなヒット・チューンに混じって、1953年に作られたピアノ協奏曲が収録されているのが目をひきます。もちろん、初めて聴くものですが、例えばあのガーシュウィンのように、ヒット曲だけではなく、きっちりとしたクラシックの作品も後世に残したいという思いが、彼の中にもあったのだろうという先入観を持って聴き始めると、見事に裏切られることになります。もちろん、それは楽しい裏切りでした。そこにはやはり他の小曲で見られる彼の素顔が、そのまま宿っていたのですからね。特に、第3楽章などは、ピアノ・ソロとスネアドラムの対話という楽しい導入から始まって、いかにも軽快そのもののいつものアンダーソン節が満開となります。それにしても、この曲の第1楽章は殆どラフマニノフのパロディではないですか。しかも後半にはなんとブルースの「フーガ」が登場するのですから笑えます。2楽章にしたって、いきなりラテン・リズムが乱入してきたりと、彼の頭の中はとことん人を楽しませようという気持ちでいっぱいだったのでしょうね。
そう言えば、この中の「クラシックのジュークボックス」という曲も、パロディ精神満載の小気味よいナンバーです。ご想像のとおり、クラシックの名曲の断片を集めた、まさに「ジョークボックス」(途中では「針飛び」まで起こします)ですが、コードが違っているのもなんのその、別の曲を強引に同時に演奏するという手法は、後のP・D・Q・バッハそのものではありませんか。そう、ピーター・シックリーこそは、まさにアンダーソンの正統な後継者だったのですね。

4月12日

MAHLER
Symphony No.6
Valery Gergiev/
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO0661(hybrid SACD)


本拠地キーロフ・オペラの他にメトロポリタン・オペラやロッテルダム・フィルにもポストを持っているゲルギエフは、2007年1月にはロンドン交響楽団の首席指揮者にも就任したということです。そうなってくると、今までずっとCDをリリースしてきたUNIVERSAL系のメジャー・レーベルだけではなく、このオーケストラが持っているプライヴェート・レーベル、というか、今では立派なマイナー・レーベルとして確固たる地位を得ているLSO LIVEからも、この人気カリスマ指揮者のアイテムをリリースすることができるようになるのですから、ロンドン交響楽団はなかなかの買い物をしたということになりますね。
実際にレーベルが変わってみると、録音のポリシーもずいぶん異なって感じられます。今まではかなり生々しい音のとらえ方だったものが、もっと空間の響きを大切にした、洗練されたものになっているのではないでしょうか。なによりも、こちらのレーベルのフォーマットはUNIVERSALでは最近はまず出すことのなくなったSACDであるというのが、非常に大きなポイントです。
これは、ゲルギエフにとっては初めてのマーラーの録音となるものです。新たに手兵に加わったロンドン交響楽団とのコンサートでは、これから2年にわたって、マーラー・ツィクルスが開催されるというのが大きな目玉となっています。そして、おそらくそれらがこのようにSACDとして順次リリースされることになっているのでしょう。その劈頭を飾る「6番」で見せてくれたゲルギエフのマーラー観は、なかなか興味深いものでした。食べられませんが(それは「馬拉糕(マーラーカオ)」)。それは、まず第1楽章のとてつもなく早いテンポから生まれる疾走感の中に現れています。今までの彼の演奏の中で顕著に見られたものは、ドライヴ感あふれる流れの中に奏者を引き込んで、大きな力でひとつの方向へ導くというスタイルでした。今回の演奏の中では、その疾走感を産むために余計な力を加えずに、もっと軽やかな所作を用いている、という点が新たな特徴となっているのではないでしょうか。一見さりげない風で、実は細かいところで微妙な「技」をきかせているという、ワンランク上のクレバーさをそこには感じ取ることが出来るはずです。
例えばフィナーレの最初のあたりに現れる、木管の三連符に乗ったまるでワーグナーのような明るいパッセージが、ゲルギエフの手にかかるとなんとも暗めのテイストに変わってしまうようなところでも、彼のさりげない恐ろしさを認めないわけにはいきません。アンダンテ楽章の、一見甘い歌のように見えるものが、実はかなりグロテスクな音列だった、というような仕掛けも、彼の演奏では見事に明らかにされています。
ところで、そのアンダンテ楽章が、ここでは「第2楽章」になっていることには、気づかれたでしょうか。従って、スケルツォが「第3楽章」という、普通に演奏されているものとは逆の順番になっています。今までの楽章順というのは、1964年に刊行されたクリティカル・エディションに従ったものなのですが、ごく最近、2003年になって、その校訂元であるマーラー協会が「それは間違いで、第2楽章=アンダンテ、第3楽章=スケルツォが正しい順番」という宣言を行ったのです。これは、1906年の初演の時の順番なのですが、1964年版では、1907年のマーラー自身による最後の演奏が「スケルツォ−アンダンテ」という順番だったというアルマ・マーラーあたりの証言を拠り所に、そのように変えてしまったのです。しかし、最近の研究によるとそれがどうも信用できないもので、マーラーは初演以来一貫して「アンダンテ−スケルツォ」で演奏していたようだということになったのだそうです。2004年に録音されたアバドに続いて、早速その「正しい」順番を取り入れたというのも、ゲルギエフのクレバーなところなのでしょう(ラトルなどは、もっと前から取り入れてはいましたが)。

4月10日

COOMAN
Sacred Choral Music
Samuel Rathbone(Org)
Rupert Gough/
The Choir of Royal Holloway, University of London
NAXOS/8.559361


カーソン・クーマンという、母親が動物みたいな(それは「母さん、熊」)名前の作曲家がアメリカにいるって、知ってました?なんでも、現在までに800曲近い作品を発表しているというものすごい創作力を誇る人なのですが、1982年の生まれといいますから、まだ25才か26才という、「神童のようなもの」です。もし15才の時から作曲を始めたとしても、わずか10年間で800曲なんて、すごいものですね。しかも、そのジャンルは器楽曲から声楽曲までに幅広く及んでいます。もちろん、交響曲や協奏曲のような大規模なものもありますし、なんとオペラやミュージカルまで作っているのですね。もっとも、ミュージカルというのは学校の文化祭で上演するようなほんの10分足らずの小規模なもののようですが。
クーマン君のすごいところは、それらの作品にしっかり自分の手で「作品番号」を付けているということです。普通、作品番号のようなものは出版社が付けるもので、作った本人はそういうものには無頓着な場合が多いものです。ですから、殆どの作曲家の場合専門の研究者が大変な苦労をしてその作品にきちんと番号を振るという作業を行うのですね。果たして武満徹やクセナキスに「作品番号」が付けられることはあるのでしょうか。しかし、彼の場合は、そういう面での問題というのは将来起こることはあり得ないということになりますね。そういう几帳面な性格が災いしたのかどうかは分かりませんが、彼の写真を見ると、とてもそんな年齢とは思えないような立派な頭頂部に驚かされることになります。(左)
もう少し前の写真(右)では一応「前髪」は健在ですから、これはそんなたくさんの作品を産み出した代償なのでしょうか。髪をかきむしって、作曲に没頭した結果だとか。
そんなクーマン君の、これは宗教的な合唱曲を集めたアルバムです。すべてのものが、教会などからの委嘱によって作られたといいますから、もはや安定したヒット・メーカーのようなスタンスで曲を作っているというところでしょうか。どの曲もせいぜい3分程度の演奏時間というのも、ヒット曲のサイズとしては適当な長さです。
ここで演奏しているのがイギリスの聖歌隊というのが、ちょっとしたミスマッチでしょうか。少年ではなく女声が入った聖歌隊ですが、その声はまるで少年のような清純さを持ったものです。しかし曲の方はあまりそのような音色を求めていないような、色彩感豊かなテイストを持ったものなので、ちょっとした違和感がつきまといます。さらに、オルガニストとしても活躍しているクーマン君は、伴奏のオルガンパートをとことん技巧的なものに仕上げていますから、正直ちょっと「やかましい」と感じられてしまいます。録音に使われた礼拝堂にあったオルガンも、ちょっとしまりのない音ですから、なおさら騒々しさをかき立てます。
曲自体は、いかにもアメリカの音楽の伝統をしっかり受け継いでいるな、という感じが伝わってくるものでした。例えばコープランドあたりにみられるようなこれ見よがしのシンコペーションとか、斬新なつもりでいる陳腐なハーモニーなどがその特徴でしょうか。一生懸命新鮮味を出そうとしているのかもしれませんが、結果的にはルーティンワークにすぎなかった、みたいな、どこか音楽に最も必要とされるものが欠けているような気がしてならないのです。そういえば、さっきのクーマン君の写真、アーティストというよりは、なにか有能なビジネスマンのような雰囲気がありませんか?
音楽雑誌の広告に「J・ラター(あ、もちろん、ジョン・ラッターのことですね)が好きな方は必聴!」みたいなことが書いてありましたが、残念なことに、ここからはラッターの持つ音楽の喜びとは全く異質なものしか感じることは出来ませんでした。

4月8日

BACH
Matthew Passion
John Butt/
Dunedin Consort & Players
LINN/CKD 313(hybrid SACD)


ダンディン・コンソート&プレイヤーズというスコットランドの団体は、エディンバラ生まれのソプラノ歌手スーザン・ハミルトンが1996年に指揮者のバン・パリーとともに創設した、ヴォーカル・グループとオリジナル楽器のアンサンブルです。2003年には指揮者がパリーからジョン・バットに替わり、現在の布陣となっています。彼らは、バロックなどの古い音楽を演奏するだけではなく、現代の作曲家に新しい曲を委嘱するというような、こういうグループにしては異色な活動も意欲的に行っているそうです。
指揮者のバットは、音楽学者としても知られる人です。彼が今回バッハの「マタイ」を演奏するにあたって引っ張り出してきたものは、「1742年頃の最終演奏稿」というものでした。もちろん、これは世界初録音、これで、以前ビラーによって初録音された「初期稿」と、通常演奏されている「1736年稿」と合わせて、3種類の形態がすべて録音されたことになります。
ただ、この「最終演奏稿」という、おそらくバッハが最後に演奏したであろう楽譜を再現したものは、「初期稿」と「1736年稿」ほどの劇的な違いは見られません。最大の相違は、その頃のトマス教会では第2コーラスのための小さなオルガンが使えなかったために、第2コーラスの通奏低音にチェンバロが用いられているというあたりでしょうか。それに伴い、第2コーラスのテノールによって歌われる、第2部の2つ目のアリア(とレシタティーヴォ)「Gedult!」で、響きを充実させるためにヴィオラ・ダ・ガンバが加えられています。実は、このあたりの措置は、1736年稿に基づく新バッハ全集の楽譜(BÄRENREITER)にも反映されており、現行の演奏でもすでに行われていることなので、特段の目新しさはありません。
聴いたときに分かる明らかな違いといえば、例えば42番のバスのアリア「Gebt mir meinen Jesum wieder」のヴァイオリン・ソロや、49番のソプラノのアリア「Aus Liebe will mein Heiland sterben」のフルート・ソロのオブリガートで、後奏の部分に楽譜にはない装飾が見らることでしょうか。しかし、これが「最終演奏稿」できちんと記譜されたものであるのかどうか、というのは判断の難しいところです。それは、普通のセンスをもつ、この時代の音楽を専門に演奏しているプレイヤーであれば、当然即興で付けたくなるような装飾なのですからね。
この演奏を特徴づけるものは、したがって、稿うんぬんではなくこれが「リフキン・プラン」に基づく2度目の「マタイ」の録音だということになります。スコット・ジョプリンの作品を蘇らせたことで名が知られていたアメリカのピアニスト/音楽学者のジョシュア・リフキンが、バッハのミサ曲ロ短調の全ての声楽パートを1人ずつで演奏するという「アイディア」を提唱してそれを録音したのは、今から四半世紀も前のことでした。この「アイディア」はバッハの他の作品にも波及し、なかなか新鮮な演奏を生んだものです。「マタイ」に関しても、2002年にポール・マクリーシュが9人の歌手だけで演奏したものを録音し、大きな話題となりました。
今回のバットの録音は、このマクリーシュの試みで問題となった部分をかなり改良したもののように思えます。歌手は基本的にソロも歌う人が8人と、「1パート1人」の線は守りますが、その他にリピエーノと、レシタティーヴォ・セッコに現れる多くの配役のための要員としてもう4人追加されています。ハミルトンを中心とした歌手たちはアンサンブルにも長けていますから、コラールなどもきれいなハーモニーとよいバランスで楽しめます。そのハミルトンに見られるように、ソロになってもその声はあくまで軽め、変に深刻ぶらず、淡々とドラマが進行していく心地よさがあります。エヴァンゲリストのニコラス・マルロイが、とても身近な視点から親しみやすい表現に徹しているのも、そのように思える要因なのでしょう。

4月6日

MARSH
Symphonies
Matthias Bamert/
London Mozart Players
CHANDOS/CHAN 10458


モーツァルトと同時代の作曲家たちのオーケストラ作品を集めたCHANDOSのこのシリーズがすでに20集もリリースされていたことは、今回の最新アルバムを入手するまで知りませんでした。そのラインナップを見てみると、三分の一は名前すらも知らない人たちでしたよ。もちろん、このジョン・マーシュという人にも、ここで初めて出会いまーしゅた。
モーツァルトが生まれる4年前、1752年にイギリスで生まれたマーシュですが、亡くなったのは1828年ですから、モーツァルトの倍以上生きたことになります。生涯に残した作品は350曲あまり、それらはオペラを除く全ジャンルに及び、39曲の交響曲、15曲の協奏曲、12曲の弦楽四重奏曲、そして鍵盤楽器のための数多くの作品や、合唱曲、歌曲などが含まれます。もちろん、彼の生前に出版されたものはごくわずかですが、そんな多作をなしたにもかかわらず、彼自身は専門の音楽教育を受けてはいない、というのがユニークなところです。彼が受けたのは法律の教育、本来は弁護士を職業としていた人なのですからね。
このアルバムに入っているのは、最も「晩年」の作品でも1796年のものですから、時代的にはまさにモーツァルトが生きていたのとほぼ同じ時期に作られたものばかりということになります。それらは確かに「その時代」の様式を色濃く反映したものではありますが、当然のことながらマーシュ自身のアイデンティティもかっちりと現れているものでした。
この中では最も「若い」頃の作品となる、これが世界初録音の交響曲第8番(1778年)と、交響曲第2番(1780年。良くあることですが、この番号は出版された順序ですから、作曲年代とは異なっていて混乱します)は、型どおりの3楽章形式のもの、いかにも溌剌な両端楽章の楽想は、まさに心を躍らせてくれる魅力を持っています。しかし、その味わいの中には微妙なところでその時代の様式を超えた「新しさ」が見え隠れすることに気づくことでしょう。例えば「2番」第1楽章の第2テーマでは、メロディの中に当時としてはちょっと和声的に違和感のある音が使われています。それは、現代の我々にはなんということのない仕掛けなのですが、モーツァルトの調和の世界の中ではまず使われることはないだろうな、と思われるような音なのです。同じように、「8番」の最初のテーマも、執拗な繰り返しから広がりを作っていくという、その時代からほんの少し先を行っているような新鮮な驚きを感じさせられるものです。
同じ頃に作られた「2つのオーケストラのための会話の交響曲」(1778年)という作品では、その名の通り2組のオーケストラ(と言っても弦楽器だけですが)が向かい合わせに配置されていて、まさに「会話」を交わしているようなフレーズのやりとりが行われます。この曲では前にヴァイオリンとヴィオラのソリストが出てきてソロやアンサンブルを行う場面もあり、少し前の時代の合奏協奏曲を思い起こさせられるようなアイディアにも満ちています。
もう少し後の作品、1790年の交響曲第7番(これも世界初録音)には、「狩り」というサブタイトルが付いています。これは文字通り狩りの情景を描いたプログラム・ミュージックです。朝に仲間を呼び合うことから始まって狩りが始まるまで、単純なテーマの積み重ねの中に楽器の扱いなどに行き届いた配慮があって、まさに生き生きとした狩りの情景が眼前に迫ってくるような音楽に仕上がっています。
バーメルトの指揮するロンドン・モーツァルト・プレイヤーズは、こんな誰も知らなかった曲を、まるで宝の山を掘り当てたような気持ちで楽しそうに演奏してくれました。そこから見えてくるマーシュのたぐいまれな才能、それはもしかしたらモーツァルトなどよりもはるかに人を魅了するものなのかもしれません。

4月4日

POULENC
Gloria & Motets
Susan Gritton(Sop)
Stephen Layton/
Polyphony
The Choir of Trinity College Cambridge
Britten Sinfonia
HYPERION/CDA67623


前作のブルックナーで、単なるハーモニーの美しさを聴かせるだけではなく、多少崩れたところがあってもより深い魅力として迫ってくる「力強さ」を見せつけてくれたレイトンと「ポリフォニー」でしたが、今回はプーランク・アルバムです。前半は「グローリア」、そして後半はモテットという編成になっています。
オーケストラも加わる大規模な「グローリア」では、合唱団がもう一つ、ケンブリッジ・トリニティ・カレッジ聖歌隊が参加しています。つまり、合同演奏ですね。そうなったことで、レイトンの「力強さ」は、さらに前面にアップで迫ってくることになりました。ただ、そこで、彼本来の持ち味であった緻密な表現があまり見られなくなっているというのが、面白いところです。合唱団の可能性を最大限に生かして幅広い表情を与えるということにかけては他の追随を許さないレイトンですが、ここでは単に「力」だけが先走ってかなり雑な歌い方になってしまっているのですね。特にフレーズの最後の扱いなど、考えようによっては思い切りの良い表現と言えなくもないのかもしれませんが、いかにも乱暴な印象はぬぐえません。
それと、オーケストラのまとめ方がちょっと、という気もします。このスコアはとても華やかな効果が生まれるような書き方をされていますが、彼の場合、やはりこちらにも「力」を求めた結果、そのすべての要素を満遍なく聴かせようとしてしまいました。そこからは、いかにも騒々しいという印象しか与えられません。あるいは、最初からそういう音楽なのだ、と、ある意味逆説的な解釈で意識的にそのようなサウンドを目指したのかもしれませんが、それではあまりにも趣味が悪すぎます。もう少し賢く振る舞って音を整理しないことには、プーランクの「粋」は生きてこないのではないか、と思うのですが、どうでしょう?
ですから、後半のモテットで「ポリフォニー」の単独ステージになったときには、正直ほっとした気分になったものです。最初の「Salve regina」で聞こえてきたア・カペラの合唱の響きの、なんと美しかったことでしょう。やはりプーランクは、こんな風にピュアな編成の方が、しっとりとした味がより伝わってくるような気がします。
しかし、そこはレイトンのことですから、次の「悔悟節のための4つのモテット」になる頃にはそんなのんびりした気持ちは捨てなければいけないことに気づかされます。それはなんと振幅の大きい表現なのでしょう。究極のピアニッシモで、ふわっとしたハーモニーを味わっていたと思ったら、次の瞬間にはいきなりハイテンションのフォルテシモが現れるというはげしさ、そこからは、一歩踏み込んでプーランクの内面までさらけ出さずには置かないという、厳しいものが感じられます。
「クリスマスのための4つのモテット」でも、そんな、ちょっとマゾっぽさを味わうような演奏は続きます。最初の「O magnum mysterium」で現れる、同じ作曲家のフルートソナタの第2楽章を思わせるようなテーマは、そんな夢みるような雰囲気をたたえることはなく、あくまで厳しく歌われます。
そして、最後のノーテンキとも言える明るさを持っているはずの曲「Exultate Deo」での、尋常ではないテンションの高さはどうでしょう。こんな、最近のレイトンの美学を端的に現した演奏でアルバムを締めくくるなんて、見事としか言いようがありません。

4月2日

BEETHOVEN
Symphony No.3
Andrew Manze/
Helsingborg Symphony Orchestra
HARMONIA MUNDI/HMU 807470(hybrid SACD)


先日BSでN響の定期演奏会の模様を放送していました。途中から見たのでその日の指揮者は分からなかったのですが、前半のプログラムがモーツァルトの「グラン・パルティータ」ということで、指揮者を立てず、団員だけのアンサンブルというのが、ちょっとオーケストラの定期としてはユニークなものに思えました。ただ、そこでは1番オーボエを、元ベルリン・フィルの首席オーボエ奏者シェレンベルガーが吹いていましたので、おそらくこの演奏会のソリストとして、後半では協奏曲を演奏するのでしょう。と思っていると、休憩あけのステージは交響曲第40番、そこで、なんとさっきのシェレンベルガーが指揮者として登場したではありませんか。いつの間にか、彼は指揮者としてのキャリアもスタートさせていたのですね。お世辞にも上手な指揮ではありませんし、メヌエットではヘミオレを大きな3拍子で振るという、ちょっと素人っぽいやり方をしていましたので、オールラウンドの指揮者としてやっていけるかどうかは未知数ですが、こうしてわざわざ「外国」まで呼ばれてきたのですから、それなりのランクには入っているのでしょうね。一芸に秀でていれば「指揮者ぐらい」簡単になれてしまうものなのでしょうか。
そんな風に、ソリストとして名をなした人が指揮者に転向するというのは良くある話です。しかし、アンドルー・マンゼが「フツーの」オーケストラの指揮者になったということになると、これはただごとでは済みません。彼の場合は、「ソリスト」と、そして「オリジナル楽器」という2つの肩書きからの脱却が必要だったはずでしょうから。
彼が2006年に首席指揮者に就任したのは、スカンジナビア半島の突端、対岸にはデンマークがあるというスウェーデンの小都市ヘルシングボルイのオーケストラでした。ただ、このオーケストラはメンバーが59人しかいないといいますから、ギリギリ「室内オーケストラ」は免れている、という陣容です。トラなしではファースト・ヴァイオリンが10人という、ちょっと少なめの編成しか組むことは出来ません。この録音でも、やはりそんな編成であることが、きっちりと曲別のメンバー表が載っているので知ることが出来ます。
その弦楽器の配置が、ちょっと面白いものになっています。「オリジナル」出身のマンゼの意向なのでしょうか、ファースト・ヴァイオリンとセカンド・ヴァイオリンが両翼に来るというのは当然の措置なのですが、なぜかチェロとコントラバスという低弦が向かって右側、セカンドの後ろにいるのです。従ってヴィオラがファースト・ヴァイオリンのすぐ隣という、普通のコンサートではまずあり得ない配置なのです。
しかし、マンゼのユニークなところはそこまででした。演奏が始まってみると、それはなんの変哲もないごくフツーのものだったのです。とりあえず楽譜はクリティカル・エディションを使っているようですが(フィナーレ第5変奏のフルートの上向スケールがデタッシェ)弦楽器はフツーにビブラートをかけていますし、フレージングもフツーのモダンオケのもの、そこには今流行の「ピリオド・アプローチ」の片鱗すらもありまへんりん。どうやら、自分でバロック・ヴァイオリンを演奏するときと、あくまでフツーの訓練を受けてきたメンバーの集団であるモダン・オケを「指揮」するときとでは、要求されるスキルが異なるものなのでしょうね。アーノンクールやノリントンのような特別な信念と力量がない限り、そこからフツーではないものを引き出すのは、かなり難しいことなのでしょう。そういえば、先ほどのシェレンベルガーも、プレーヤーとして参加したアンサンブルではさまざまの新鮮なアイディアを披露していたというのに、指揮者になった途端、やはりフツーの演奏になってしまっていましたね。
いくらカップリングに「エロイカ」の元ネタを添えたところで・・・。

おとといのおやぢに会える、か。


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