ウニ棘。.... 佐久間學

(15/4/5-15/4/24)

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4月24日

Claviorganum
Thomas Scmögner
PALADINO/PMR 0033


先日、親戚の結婚式に参列した時には、最初のうちはデジタルキーボードで、ピアノのサンプリング音源によるBGMが演奏されていました。それが、花嫁の入場とともに、その同じ楽器から勇壮なオルガンの音でローエングリンの結婚行進曲が聴こえてきたときには、ちょっと感激してしまいました。別になんということはないのですが、今までピアノだったものがいきなりオルガンに変わってしまったのに、素直に驚いてしまったのですね。
そんな驚きを与えたいという気持ちは、昔の楽器職人も持っていたのかもしれません。現代のデジタルキーボードでは当たり前にできることを、その頃の人は涙ぐましいほどの力技を駆使して実現していたのです。そんな気合いのこもった楽器が、この「クラヴィオルガヌム」です。
ジャケットにデザインされているのが、その楽器の全体像です。まるで昭和時代の「茶箪笥」を思わせるような外観ですね。鍵盤があるので一見ポジティーフ・オルガン、事実、下半分はポジティーフ・オルガンそのものです。ただ、その上になんと「フォルテピアノ」が乗っかっているのですね。この場合は「スクエア・ピアノ」と言って、弦が横に張られているタイプのフォルテピアノです。ただ、鍵盤は1つかありません。それがピアノフォルテのアクションやオルガンのアクションに連動していて、ストップによってどちらか一方、あるいは両方同時に音が出せるようになります。さらに、それぞれに音色を変えるストップもいくつかついています。つまり、それらのストップを組み合わせることによって、多彩なサウンドを作り出すことができる、という優れものなのですね。
そんな音色の変化のデモンストレーションとしては、最初に演奏されているモーツァルトのファンタジーk 397などは恰好なサンプルでしょう。序奏はフォルテピアノだけで演奏されますが、かなりプリミティブな音、しかもダンパー・ペダルはありませんから、前の和音の響きが消えないまま次の和音に続くといった、ちょっとやかましい音に聴こえます。それが、いきなり明るい音色に変わったのは、そこにオルガンが加わったからです。この鮮やかさはなかなかのもの、これを最初に聴いた人はかなり驚いたことでしょうね。ただ、鍵盤が一つということは、同じ鍵盤で出された音でも、それぞれの鍵盤楽器の特性の違いから、片方はすぐに減衰してしまうのに、もう片方はずっと音が鳴り続けるというちょっとシュールな状況が出現してしまいます。
その次の曲はヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーという「ベートーヴェンの先生」ということでのみ音楽史に名前を残している作曲家のオルガンのためのかわいい3つの前奏曲ですが、これはそのままオルガンだけで演奏されています。だったら、こんな楽器を使わなくてもいいに、と思っても、これは純粋にオルガン・パートだけの音を聴くサンプルだと理解すべきでしょう。
この珍しい楽器は、ウィーン美術史美術館の中に設立された古楽器博物館というセクションのコレクションです。ですから、このCDもその美術館とレーベルとの共同制作によって作られています。ブックレットの最初には「このCDはウィーン美術史美術館とPaladino Musicレーベルとの共同制作です」としっかり記載されていますね。ところが、このCDは2014年にリリースされたばかりなのに、録音されたのは2003年という「大昔」だったので、調べてみたら、これは全く同じジャケットで2004年にスイスのACANTHUSというレーベルからリリースされていたものでした。つまり、「共同制作」を行ったのはPALADINOではなくACANTHUSだったのですね。その後、おそらく、このスイスのレーベルはPALADINOに吸収でもされたのでしょう。ですからこれは実質的にはリイシュー。にもかかわらず、さも新譜であるかのように売り出したというのは、いつもながらのこのウィーンのレーベルのいい加減さの端的な現れです。

CD Artwork © Kunsthistorisches Museum Wien


4月22日

Mozart (Re)inventions
Paladino Music
Eric Lamb(Fl)
Martin Rummel(Vc)
PALADINO/PMR 0050


アルバムタイトルの「(リ)インヴェンションズ」という言葉につい惹かれて買ってしまいました。「再び発明する」という意味ですから、これはかなりのインパクト、しかもその対象が「モーツァルト」ですからね。モーツァルトのどの辺を「発明」してくれるのか、かなり楽しみです。ジャケットもなにやらシュールな演出が施されていますし。
しかし、聴きはじめると、それは別に何の目新しいものもない、単なる「モーツァルトの作品をフルートとチェロのために編曲」しただけのものだとわかりました。これにはがっかりですね。一応、その「編曲」は、ここで演奏しているフルートのエリック・ラムとチェロのマルティン・ルンメルが行っているということなのですが、最初に聴こえてきた「魔笛」からの二重奏は、すでに編曲者不詳として多くの楽譜が出回っているヴァイオリンまたはフルートのためのデュエットと全く同じものでしたし。辞書で調べてみたら、「インヴェンション」には「捏造」という意味もあるのだそうです。
そう言えば、このレーベルで以前、こんなとんでもないアルバムを聴いていました。ウィーンで音楽出版を手掛けている会社が作ったレーベルですが、何か肝心なものが抜けているような気がしませんか?
今回のアルバム、どうやらモーツァルトの「最初」と「最後」、さらに「真ん中あたり」の作品を並べて、彼の生涯を俯瞰しようというコンセプトのもとに作られているようです。その「最後」として、彼の最晩年の作品である「魔笛」を選んだのはなかなかのチョイスなのですが、それが、そのオペラからいくつかのナンバーを2つの楽器のために編曲した、いわば「ハルモニームジーク」あたりでお茶を濁そうとするやり方だったのには、なんとも言えない寂しさが募ります。
「最初」では、それこそ「k 1」から「k 33b」あたりまでの、5歳から10歳までの間に作られたクラヴィーアのための作品を、二重奏に直したものが演奏されています。そして「真ん中」としては、1783年に作られたヴァイオリンとヴィオラのための2曲の二重奏曲(k 423, 424)が選ばれています。これは、ザルツブルクのコロレド大司教がミヒャエル・ハイドンにこの編成による6曲のセットを委嘱した時に、彼が病気になって4曲しか作れなくなってしまったためにモーツァルトが手助けをして作ったものですね。
この2曲が、一応このアルバムの中ではメインと考えられている作品なのでしょう。それぞれ3つの楽章から出来ている20分程度のものですからね。当然ここは、この2人の演奏家は、他の曲のようなお手軽な対応ではなく、しっかりとした演奏を心掛けるところでしょう。ということで、もしかしたら過度のプレッシャーがこの2人、とりわけチェリストのルンメルにかかったのでしょうか、何かアンサンブルが成立していないもどかしさが感じられてしまいます。2人で音楽を進めていこうという気持ちが、彼にはほとんど見られないような気がするのですよ。フルートが作っている時間軸にまるで関係のないところで勝手に彼だけの時間の感覚で演奏を行っているとしか思えないような「合ってない」ところだらけなんですね。音程も、プロとは思えないようなひどさですし。
唯一の救いは、フルーティストのラムのすばらしい演奏です。彼はデトロイトに生まれたというアフリカ系のアメリカ人ですが、ドイツとイタリアでフルートを学んでいます。先生の中にはミシェル・デボストの名前なども見られますが、彼のとてもしなやかな音楽性と、伸びやかな音色は、そのあたりの経歴が反映されているのでしょう。目がくらむような派手さはないものの、低音から高音まで磨き抜かれた音は、とても魅力的です。彼の楽器は、日本のALTUSなのだそうです。

CD Artwork © Paladino Media GmbH


4月20日

VIVALDI, BACH
Magnificat & Concerti
Hanna Bayodi-Hirt, Johannette Zomer(Sop)
Damien Guillon(CT), David Munderloh(Ten)
Srephan MacLeod(Bar), Perrr Hantaï(Cem)
La Capella Reial de Catalunya(by Lluís Vilamajó)
Jordi Savall/Le Concert des Nations
ALIA VOX/AVSA9909D(hybrid SACD & DVD)


ジョルディ・サヴァールが、彼の合唱団の「ラ・カペラ・レイアル・デ・カタルーニャ」と彼のオーケストラの「ル・コンセール・デ・ナシオン」を指揮した最新録音のSACDです。録音されたのは2013年の6月、ヴェルサイユ宮殿王立礼拝堂で行われたヴィヴァルディとバッハの「マニフィカート」を一緒に演奏するというコンサートの模様がライブ収録されています。さらに、このパッケージにはSACDのほかに映像を収録したDVDも入っています。ただ、それはヨーロッパ仕様の「PAL」ですから、国内の普通のプレーヤーでは再生されないはずですが、やはりサヴァールの「ロ短調」で同じように付いてきたPALのDVDが手持ちのマルチディスク・プレーヤーで何の問題もなく再生出来たことを思い出して試しにかけてみたら、やはりきちんと再生できました。さすがに、安物のBDプレーヤーではだめでしたが、PCでも再生できるようですから、その気になればPALを再生するのはそんなに面倒なことではないのかもしれません。もし、貴重な映像なのにPALでしか出ていないことで販売をためらっているような代理店がいたら、勇気を出してPALのままで出すことをお勧めします。
しかも、今回のDVDはSACDよりもずっと音がいいのですよ。弦楽器の艶っぽさがきちんと聴こえてきますし、合唱もくっきりとした音像です。会場ノイズなどでSACDも全く同じ音源であることが分かりますが、SACDはなんか芯のないサラっとした音に聴こえます。映像ではマイクアレンジがよくわかりますが、指揮者の真上に3本のメインマイクを吊るすという「デッカ・ツリー」を採用しているようですね。
DVDでは、最初にヴィヴァルディの「マニフィカート」が演奏されています。だいぶ前に一度聴いたことがあったはずなのに、まるで初めて聴く曲のような印象がありました。なにしろ、曲の始まりが短調というのが、かなりショッキング。そのあとには、ほとんど間をおかずにソリストたちの重唱など様々な短い曲が続いて、それらの中には長調のものもあるのですが、最後の「Gloria Patri」ではまた短調に戻ってしまいます。そんなちょっと暗めの曲を、合唱団のメンバーは真に言葉の意味を自分たちのもののようにして歌っているように見えるのが、とても印象的です。スペインの合唱団ですが、彼らの言葉とラテン語とはかなり近いものがありますから、おそらく何の違和感もなく「呪文」ではなく「歌詞」として感じることができるのかしら。
それが終わったところでバッハの「マニフィカート」です。もちろんこれは長調の曲ですが、このようにヴィヴァルディと続けて演奏されると、今まで思っていたこの作品の印象がずいぶん変わってしまうことに気づきます。正直、この冒頭の曲などは特に、あまりにあっけらかんとしていてちょっとノーテンキすぎるのではないか、という気がしていたのですが(実際、そんな演奏にはよく出会えます)、ここでのサヴァールの歌わせ方は、もっと節度を持った、もしかしたら「翳」すらも感じられるようなものでした。このテキストは、もちろん聖書(ルカによる福音書)の中の聖母マリアが受胎告知に関連して唱える言葉が用いられていますが、その「受胎」の後に生まれてくる子供の後の受難を考えれば、そんなにあけっぴろげに喜んでもいられないのでは、ということなのでしょうか。
ソリストたちも、とても素晴らしい人たちが揃っています。特にソプラノのバヨディ=ヒルトとカウンター・テノールのギヨン、そしてテノールのムンデルローの節度を持った歌い方が心に残ります。
この後に、同じ年に別の会場で収録されたバッハのチェンバロ協奏曲BWV1052が演奏されています。これはニ短調の非常に深刻なテーマで始まる「暗い」曲、なぜこれがカップリングされたのかは明白です。

SACD & DVD Artwork © Alia Vox


4月17日

ポホヨラの調べ
指揮者がいざなう北欧音楽の森
新田ユリ著
五月書房刊
ISBN978-4-7727-0513-4


指揮者の新田ユリさんと言えば日本シベリウス協会の会長を務められるなど、シベリウスを中心にした北欧の作曲家の演奏に関してはまさにオーソリティとして自他ともに認められている方です。そんな新田さんは、文才も豊か、日々の指揮活動などを事細かに語ったFacebookやブログの文章は、常に関係者への配慮が込められた適切さの中に、ご自身の思いを端的に伝えているという驚くべきものです。そんなスキルの真髄を込めて書き上げられた本が、面白くないわけがありません。
表紙の一番上に「シベリウス&ニルセン生誕150年」という文字があります。もちろん、この本が今年のそのような記念年をさらに盛り上げるために企画されたものであることはまちがいありません。しかし、おそらくそれは単なるきっかけ、新田さんの脳に蓄積された豊かな知識と経験値は、ずっとこのような発露の機会をうかがっていたのでしょう。それが地表に現れて輝く光のもとに姿を見せたものが、この本なのではないでしょうか。
全体のページの半分を占めているのが、シベリウスの全交響曲と主な管弦楽曲(+ヴァイオリン協奏曲)についての記述です。それらは、その辺のCDのブックレットやらネットのブログやタイムラインで見つかる通り一遍の「楽曲解説」のようなものとはまるで次元を異にするものです。新田さんの場合、まずは客観的な事実、創作に至るまでの状況など、基本的なデータはしっかり述べられているのは基本ですが、その部分ですでに多くの資料を立体的に読み解いた末にたどり着いたとても見晴らしの良い情景が広がっています。そしてそのあとに続くのが、演奏家という視点から曲の真髄に分け入っていくという作業です。それは、実際にスコアの隅々までを読み込んで、作曲家の思いを完璧に受け取ったものにしか書くことの許されないほどの精緻かつ深遠なものです。ですから、もしかしたらこの部分を真の意味で理解するためには、ある程度の音楽的な知識と経験が必要とされるのかもしれません。しかし、それは逆に未熟な読者にとってはさらなる知的探求を促すものに違いありません。もちろん、それなりの深みに達した聴き手にとっては、これ以上のものはないでしょう。まして、実際にオーケストラのメンバーとして新田さんの指揮に接していたりすれば(新田さんは多くのアマチュアの団体との共演を行っていますから、そんな機会がないとは限りません)、これほど興味深く読める部分もないはずです。
楽譜に関する最新の情報が盛り込まれているのも、新田さんならではのことです。現在、シベリウスの初期稿や編曲なども含めてすべての作品を刊行するという全集の編纂が進行中で、現時点ではその半分近くのものが出版されていますが、新田さんはそれらの校訂を担当している人物とも直接コンタクトできるという立場にありますから、その情報の正確さに関しては誰よりも精通しています。ごく最近、昨年の12月に刊行されたばかりのヴァイオリン協奏曲の全集版についても、ここで初めて楽譜として目に触れることが出来るようになった初期稿への熱い思いをつぶさにうかがうことが出来ます。なんでも、6月には実際にこの初期稿を指揮される機会があるのだそうですね。新田さんの「経験値」はさらに高まります。
さらに、シベリウスやニルセン以外の北欧諸国(フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、アイスランド)の作曲家200人(!)を、代表的なCDとともに紹介しているという「編集部」の偏執狂ぶりにも驚かされます。それはただの「付録」ではなく、新田さんの本文とはしっかり有機的に関連付けられているという優れものです。
217ページにリハーサルで指揮をなさっている写真が載っていますが、そのオーケストラはなんと仙台ニューフィル。なんかうれしくなりました。

Book Artwork © Gogatsu-Shobo


4月15日

BIZET
Carmen
Marilyn Horne(Carmen), James McCracken(DJ)
Tom Krause(Escamillo), Adriana Maliponte(Micaëla)
Leonard Bernstein/
Manhattan Chorus(by John Mauceri)
Metropolitan Opera Orchestra & Children's Chorus
PENTATONE/PTC 5186216(hybrid SACD)


このレーベルは、元々はなくなってしまったPHILIPSのアーカイヴの中でも、「4チャンネル」で録音されていたものをサラウンドのSACDでよみがえらせようという目的のために設立されていました(たぶん)。それがしばらくリリースされていないようになっていたと思っていたら、こんどはDGの、やはり4チャンネルの音源によるSACDを出し始めました。その時には、ジャケットのアートワークは、花の中にタイトルが埋め込まれているというぶっ飛んだデザインのものに変わっていましたね。
そんな中で注目したのが、バーンスタインが指揮をした「カルメン」です。でも、バーンスタインというと、オーケストラの指揮者としてあまりにも有名ですから、オペラなんかは演奏していないような気にはなりませんか?確かに、録音されたものは、よく比較されるカラヤンなどに比べるとはるかに少ししかありません。
とは言っても、オペラハウスでの実績はきちんとありました。たとえば、「地元」のメトロポリタン歌劇場では1964年にヴェルディの「ファルスタッフ」でデビューを飾ります。この演目は、バーンスタインはウィーン国立歌劇場でも1966年に演奏し、その時のメンバーでスタジオ録音されたものは彼の最初のオペラ録音として知られています。その後のMETでは、1970年には、なんと「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「道化師」の二本立てという、ちょっとバーンスタイらしくない演目での指揮も行っています。
そして、1972年には、「カルメン」を指揮することになりました。これは、9月19日から10月20日までの間に6回上演されていますから、「中5日」というスケジュールだったのでしょう。その上演と並行して、オフの日にほかの場所でセッション録音されたものが、このSACDのもとになったアナログ音源です。
ここでバーンスタイが使っている楽譜は、ビゼーのオリジナルの形に近い、セリフが間に入る「アルコア版」です。この楽譜が出版されたのが1965年ですから、それまでの伝統(ギローによって改変された「グランド・オペラ版」)を破ってこの時期にMETが新しい楽譜を選択していたのにはちょっと驚きます。
バーンスタインの演奏は、まず前奏曲でそのあまりのテンポの遅さに驚かされます。おそらく彼は、このような重々しい演奏によって「カルメン」の悲劇性を強調しようとでもしたのでしょうね。ただ、この中で出てくる「闘牛士の歌」が第2幕で歌われる時にも、同じようなテンポをとられると、歌っているエスカミーリョ(トム・クラウゼ)がとても間抜けに感じられてしまいます。
同じようにそんな気まぐれに付き合わされて悲しい思いをしているのが、「第3幕への間奏曲」を吹いているフルーティストでしょうか。ハーピストがおそらく指揮者の指示に従って、かなりゆったりとしたテンポで弾き始めたのですが、それはおそらくフルーティストの感性の下限を超えていたのでしょう。そのハープとは全く無関係なテンポで演奏を始めました。結局最後までその二人は全く別のテンポ感で貫き通すのです。ここで指揮者はいったい何をやっていたというのでしょうか。
ここで録音を担当しているのは、DGのトーンマイスター、ギュンター・ヘルマンスです。しかし、ここで聴く音は彼のいつものカラヤンとベルリン・フィルとの音とはずいぶん違っているようです。録音場所の違いもあるでしょうが、最大の理由は「4チャンネル」を意識して間接音をかなり強調した音作りが行われていることでしょう。それをサラウンドではなく2チャンネルステレオで聴いていると、なんか地に足がついていない浮遊感のようなものに悩まされて、不愉快になってきます。歌手たちの声は何とも大げさな動き方を見せて(聴かせて)います。なにか、4チャンネルというものに振り回されて、肝心の音がちょっとお粗末になっている感じがしてなりません。

SACD Artwork © Pentatone Music B.V.


4月13日

NIELSEN
Songs for Choir
Michael Bojesen/
Ars Nova Copenhagen
DACAPO/6.220569(hybrid SACD)


なんたってニルセンの生誕150年という記念の年ですから、母国デンマークのレーベルも盛り上がっています。今回はこんな珍しいレパートリーがSACDでリリースされました。
ニルセンが作曲した「歌」は全部で300曲ほどあるのだそうです。その中にはもちろん「クラシック」としての「歌曲」も含まれていますが、ほとんどのものは非常にシンプルな「唱歌」のようなものでしょうか。1922年に、「国民高等学校歌集」というものが公式に編集されたときに、ニルセンは編者の一人として参加、今まで作ったそのような「唱歌」を33曲提供しました。現在でもこの歌集は版を重ねられていて、彼の作品は36曲に増え、さらに、同じようなスタイルで作られた他の作曲家の作品も加わっています。
ここには、この歌集の中から選ばれた20曲ほどの「歌」が録音されています。ただ、タイトルは「合唱のための〜」とはなっていますが、その中でニルセン自身が合唱の形にしていたのは3曲しかありません。残りは普通のピアノ伴奏のメロディー譜だったものを、ここで指揮をしているミケール・ボイエセン(彼は作曲家でもあります)によって4声の無伴奏混声合唱に編曲されたものです。
それぞれは、本当にシンプルな、全く同じものが歌詞を変えて数回繰り返されるという「唱歌」そのものです。そこで歌われているのはデンマークの自然や、歴史などですが、音楽は例えばコダーイのように民族的なスケールやフレーズが登場するものではなく、いたって生真面目なそれこそ日本の「小学唱歌」にも共通するような西洋音楽の基礎的なハーモニーにのっとったものです。それは、そもそも他人に聴かせるというよりは、誰でも簡単に口ずさめることを目指すという、この「歌集」のコンセプトに沿ったものなのでしょう。「Se dig ud en sommerdag(夏の日をみわたしてごらん)」という歌などは、クリスマスでよく歌われる「Christmas Bells Are Ringing」という曲とそっくりです。
それを合唱に直した時に、ニルセン自身の編曲はいともシンプルなホモフォニーになっているのも、アマチュアが簡単に歌えることを目指したからなのでしょう。ただ、このアルバムのためにボイエセンが行った編曲では、いかにも「合唱曲」っぽく、あるパートをほかのパートとちょっとずらすというような「小技」が入っているものがあるのが面白いですね。
こんなマイナーな作品ですから、タイトルにも定訳はなく、オリジナルのデンマーク語から英語に訳したものを頼りに、日本語の表記が代理店によって提供されていますが、それとは別におそらくデンマーク語から直接訳したと思われる別の表記が、北欧音楽のオーソリティ、「ノルディックサウンド広島」からも提示されているので、ちょっと混乱しています。いや、それがほぼ同じものなら問題はないのですが、あまりに違っているものがあって、おそらくどちらかが誤訳なのでは、と思わざるを得ません。例えば、(代理店=NA):「海に囲まれたデンマーク」/(ノルディック=NO):「デンマークを囲む海」と、正反対の言い方になっているものは、英語訳を見る限りNOが正解であることが分かります。こういうものは担当者が語学力に乏しいNAの方が常に間違っているものなのですが、(NA):「わが布の弱さを考える」/(NO):「私のもろい蜘蛛の巣をごらん」では、歌詞全体を見てみるとNAの方が正しそうだ、という意外な結果が出たりします。しかし、(NA):「浮島の戦艦」/(NO):「いつでも出帆できる船のように」となると、もうどっちが正しいのかわからなくなってしまいます。
ポール・ヒリアーの指揮による多くの録音でおなじみのアルス・ノヴァ・コペンハーゲンも、いつもながらのピュアなサウンドが素敵です。各パート3人ずつの12人編成が基本ですが、曲によって4人のソリになるところがあって、それはまさに「素朴さ」の極致ともいえる見事なハーモニーです。

SACD Artwork © Dacapo Records


4月11日

CHILCOTT
St John Passion
Lawrie Ashworth(Sop), Ed Lyon(Ten)
Darren Jeferey(Bar), Neal Davies(Bas)
Matthew Owens/
Wells Cathedral Choir
Wells Cathedral Oratorio Society & Voluntary Choir
SIGNUM/SIGCD412


ボブ・チルコットの新作は、日本では桜が散るこっとになる季節にリリースされました。彼にとっては「レクイエム」に続く大規模な宗教作品となる「ヨハネ受難曲」です。
チルコットは、かつては一応テノールのソリストでしたから、バッハの「ヨハネ」や「マタイ」といった受難曲のエヴァンゲリストを実際に歌ったこともあり、それよりも昔のキングズ・カレッジ聖歌隊のメンバーだった時にも、バッハ以前、ルネサンス期のもっとシンプルな受難曲を歌う機会があったそうです。そのような体験から、常々自身でも受難曲を作ってみたいと抱いていた夢がかなったことになります。
チルコットに「ヨハネ受難曲」を作る機会を与えてくれたのは、「レクイエム」と同じく、マシュー・オーウェンズが指揮をするウェルズ大聖堂聖歌隊でした。ここでは「レクイエム」の時に参加していたソプラノのローリー・アシュワースもソリストとして加わっています。
曲の編成は、「レクイエム」同様アマチュアなどにも広く演奏してもらいたいという願いが込められた結果(いや、本当は演奏する機会を増やして楽譜が売れることを期待した、というところでしょうが)、大人数のオーケストラを使うことはせずにごく少人数のアンサンブルに伴奏を任せるという道を選んでいます。ただ、前回は木管楽器が主体だったものが、ここでは金管五重奏(2Tp, Tb, Hr, Tub)にティンパニとオルガン、さらにはヴィオラとチェロも加わってより変化のあるサウンドが提供できるようにはなっています。
バッハの受難曲の様式を現代に再現したようなプランで作られたこの作品では、やはりテノールによるエヴァンゲリストが福音書のテキストを歌う時に、そのヴィオラとチェロの二人だけによる、まるで通奏低音のようなシンプルな伴奏が付けられています。ただ、エヴァンゲリストはもっとメロディアスな歌を歌いますし、「低音」も時にはしっとり、時にはリズミカルにと、表情豊かなバッキングを務めています。そこにイエスやピラトといったほかの登場人物の歌が入ると、金管楽器も加わってさらに色彩豊かな音楽に変わります。もちろん、群衆の言葉は聖歌隊による合唱です。そこではさらにティンパニなども入って、よりダイナミックなシーンが展開されます。
さらに、「コラール」に相当するものが「聖歌」です。ここでは、主に伝承されている聖歌の歌詞やメロディを使って、チルコットが再構成した合唱曲として存在を主張しています。合唱も聖歌隊だけではなく大人の合唱(かなりの大人数)も加わりかなりのハイテンションの音楽に仕上がっています。もちろんバックでは金管とティンパニが最大限の華やかさで盛り上げていますから、その壮大さは聴きものです。
そして、それとは対照的な存在が、チルコットのオリジナルによるア・カペラの合唱曲と、ソプラノ・ソロによるナンバーです。バッハの受難曲では「アリア」に相当するものなのでしょう。
正直、「聖歌」のあまりに大げさな様相には、ちょっと引いてしまいます。いわば、テレビドラマのシーンを盛り上げる音楽のように、力ずくで感動をもぎ取ろうというあざとさがミエミエですからね。ですから、「Miserere, my Maker」と「Away vain world」という、しっとりとしたア・カペラの曲が、これもミエミエのテンション・コードが鼻につきはしますが相応の「癒し」を与えてくれています。ただ、ここで歌っている聖歌隊以上にもっと美しく歌える団体は、いくらでもいるのでは、という思いは募ります。いつものことですが、このトレブル・パートの無気力さと言ったら。
ソプラノ・ソロは、シンプルなオルガンだけの伴奏で、やはり定番の「Pie Jesu」的な穏やかな情緒を演出しています。深みこそありませんが、ちょっと辛い時の慰めぐらいにはなるのではないでしょうか。

CD Artwork © Signum Records Ltd


4月9日

HANDEL
Messiah
J. Nelson, E. Kirkby(Sop), C. Watkinson(Alt)
P. Elliott(Ten), D. Thomas(Bas)
Christopher Hogwood/
The Choir of Christ Church Cathedral, Oxford
The Academy of Ancient Music
DECCA/478 8160(CD, BD-A)


最近の「ハイレゾ」の盛り上がりは、ちょっとすごいことになっています。本屋さんにはその「ハイレゾ」がタイトルになった雑誌やムックが普通に本棚に並んでいるのですからね。ほんの数年前までは一握りのマニア相手の商売でオイソレとは手が届かなかったものが、ここまでの広がりを見せるような事態になることなど、全く予想できませんでしたから、これには本当に驚いてしまいます。
とは言っても、そういう書籍をパラパラ眺めてみると、書いてあることはどれも同じようなこと、そもそも、そこに登場するライターが、本当に限られた人だけなのですから、それも当たり前なのでしょう。つまり、こういうものを読んでみると、このところ低迷を極めていた音楽ソフト業界で、久しぶりのヒット商品が現れたために、そういうライターの言うことに乗っかって内容も分からないままにとりあえず売りまくろう、という魂胆が丸見えなのですよ。
ですから、本当に「ハイレゾ」を必要としているマニアにとっては、こんなに大げさに盛り上がってしまうと、その反動が怖くなってしまうのではないでしょうか。単なる「ブーム」でしかないものであれば、それは時間がたてば間違いなく消え去ってしまいます。すでに、フィジカルなハイレゾのソフトでは「シングル・レイヤーSACD」というものが市場から姿を消していますしね。
そんなハイレゾのフィジカル・ソフトとして、現在最も信頼のおけるものがBD-Aなのではないでしょうか。同じ音源を、1bit/2.8MHzのDSDであるSACDと比較すると、BD-Aのほうがはるかに「いい音」に聴こえることの方が多いような気がします。DSDでも最近では5.6MHzとか11.2MHzなどというスペックのものもあるようですが、まだそれに対応できるだけの機器は一般的ではありません。
BD-Aを細々ながら継続して出してくれているユニバーサルから、今回L'OISEAU-LYREのアナログ音源からのトランスファーによる新譜が登場しました。このレーベルはもちろんDECCAのスタッフによって制作されていましたが、DECCAならではのどぎつさは極力抑えられていて、あくまで「古楽器」にふさわしい繊細さを前面に出したようなサウンドが持ち味なのでは、という印象がありました。それがBD-Aではどのように聴こえるのかが、とても楽しみでした。というのも、このホグウッドとAAMとの一連の録音の中で、モーツァルトの交響曲全集のCDボックスを聴いてみたのですが、そのあまりに硬質な音にはちょっと失望させられたものですから。
しかし、このBD-Aは違います。そもそも、同梱されている「最新リマスターCD」では、確かにいくらか柔らか味を帯びた音にはなっていたものの、このBD-Aを聴いてしまうとそんなものはあくまでCDという範疇での「改善」でしかなく、いくらがんばってもそのCDの限界を超えることはできないことを再確認させられるだけのものにすぎませんでした。BD-Aでは、まず弦楽器の肌触りが別物ですし、なんたって合唱やソリストの声がとてもふくよかです。
そんな、サウンド面ではまさに期待通り、いや、期待をはるかに超える仕上がりに満足はしたものの、ここで歌っているクライスト・チャーチ聖歌隊の演奏には、かなりの失望感を抱かざるを得ませんでした。この聖歌隊は、もちろん伝統的なすべてのパートが男声だけという編成なのですが、そのトレブルがあまりに「ピュアすぎる」のですね。確かに、この録音が発表された当時は、この「ピュアさ」こそが売り物だったのでしょうが、それ以後に現れた多くの団体を聴いてしまったあとでは、このトレブル・パートは単なる「無気力」にしか聴こえないようになってしまっています。メリスマのピッチなどは舌を巻くほどの完璧さなのですが、それが上っ面の「見世物」にしか聴こえないのは、まさにこの「時代」だからなのかもしれません。そう、これは18世紀の「ピリオド」ではなく、あくまで「20世紀後期」の「ピリオド」なのです。

CD & BD-A Artwork © Decca Music Group Limited


4月7日

VERDI
Messa da Requiem
Anja Harteros(Sop), Daniela Barcellona((MS)
Wookyung Kim(Ten), Georg Zeppenfeld(Bas)
Lorin Maazel/
Philharmonischer Chor München(by Andreas Herrmann)
Die Münchner Philharmoniker
SONY/88875083302


今年の11月には首席指揮者のゲルギエフと来日することになっているミュンヘン・フィルですが、彼が正式に首席指揮者に就任するのは9月なので今現在ではそのポストは空席になっています。つまり、本当はそれまでは前任者のマゼールがその職を全うするはずだったのですが、あいにく彼は任期途中で辞任、そして昨年の7月13日には亡くなってしまったので、それ以来空席になっているということなのですね。
マゼールが、ティーレマンの後を受けてこのオーケストラのシェフになったのは2012年。それまでに、様々なオーケストラやオペラハウスの指揮者を歴任していたはずなのに、例えばカラヤンとベルリン・フィルとか、バーンスタインとニューヨーク・フィルといったような、真に「彼のオーケストラ」と呼べるようなものがないと感じられるのはなぜでしょう。いや、もしかしたら、カラヤン没後のベルリン・フィルのシェフになっていたかもしれませんが、あいにくそのポストはアバドに奪われてしまっていたのでした(濡れ手にアバド)。
実際に彼が首席指揮者なり音楽監督として在籍した団体は、ベルリン放送交響楽団から始まって、ベルリン・ドイツ・オペラ(確か、「トリスタン」を短縮版で日本初演してました)、クリーヴランド管、フランス国立管(やはり、メシアンの「わが主イエス・キリストの変容」の日本初演を行っています)、ウィーン国立歌劇場、ピッツバーグ響、バイエルン放送響、ニューヨーク・フィル、アルトゥーロ・トスカニーニ・フィル、そしてミュンヘン・フィルと多岐にわたっていますが、レコーディングではさらにこれ以外のビッグ・オケとの共演も数知れず、ですからね。ボスコフスキー亡き後のウィーン・フィルの「ニューイヤー・コンサート」の指揮を託されたのは、ほかでもないマゼールでしたし。
その間に、彼の芸風も大きく変わっていきます。晩年に接した多くの映像などでの、大きく音楽をデフォルメするスタイルは、まさに「巨匠」にしか許されないものだったのでしょうね。現代の、あまりに周りに気を使いすぎて小粒になってしまった多くの指揮者とはちょっと別格な、もしかしたらもう現れることのない真の「大物」の指揮姿には、もう接することはできません。
彼が亡くなる5か月前、2014年の2月6日、7日、9日にミュンヘンのガスタイク・ホールで行われた、ミュンヘン・フィルとの演奏がCDになりました。おそらく、これは彼の「最後のコンサート」ではなかったのでしょうが、今のところでは限りなく最後に近いライブの記録(編集は入っていますが)ということになります。
演しものがヴェルディの「レクイエム」なので、そこに何かしら彼自身の「死」への思いをうかがいたくなるのはありがちな心情ですが、そんな先入観をあざ笑うかのように、彼の晩年のスタイルを徹底的に押し出した悠揚迫らぬ演奏には、圧倒されます。常に遅めのテンポをとりつつ、徹底的に磨き抜かれたフレーズからは、この作品の新たな魅力が浮かび上がってきます。そもそも、オープニングの異常ともいえる超ピアニシモからしてヘンタイ、ふつうの再生環境では、この部分ではおそらくなにも聴こえてこないはずですからね。実際にホールで聴いていた人たちは、いったい何が起こっているのかと耳をそばだてていたことでしょう(もっとも、それは単にCDのダイナミック・レンジを出来るだけ稼ぎたかった録音スタッフによるマスタリング上の配慮だったのかもしれません。SACD、あるいはBD-Aであれば、そんな必要はないのに)。
合唱も立派ですし、ソリストたちもとても表情豊かな歌い方なのには感心させられます。しかし、彼らがアンサンブルになると、あまりに個性が強すぎて全くハモっていない、というあたりは、この「巨匠」の怪演に煽られたせいなのだ、と、笑って済ませましょうね。

CD Artwork © Sony Music Entertainment Germany GmbH


4月6日

SCHNITTKE
3rd Symphony
Vladimir Jurowski/
Rundfunk-Sinfonieorchester Berlin
PENTATONE/PTC 5186 485(hybrid SACD)


ライプツィヒのコンサートホール、「ゲヴァントハウス」がリニューアル・オープンした時に委嘱されたのが、この「交響曲第3番」です。そのホールで1981年11月5日に、クルト・マズア指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によってまずは初演が行われました。
最初の録音は、1984年のロジェストヴェンスキー盤(MELODIYA)、さらにBISの全集として1989年にはエリ・クラスの指揮によって録音されました。それ以来、この曲が録音された形跡は見当たりませんから、この2014年のユロフスキによる録音が3番目のものになるのでしょう。
なんでも、この曲を演奏するためには「111人」のメンバーが必要なのだそうです。調べてみると、弦楽器は「16.16.12.12.10」管楽器は「4.4.4.4/6.4.4.1」、それにティンパニと、5人の打楽器奏者、さらには特殊楽器としてハープ(2台)、ピアノ、チェレスタ、チェンバロ、オルガン、エレキギター、エレキベースが加わります。これらを単純に加えれば、確かに「111」になりますね。特徴的なのは、エレキギターやエレキベース、これらは、シュニトケの他の作品ではおなじみですね。チェンバロも、聴いた感じではアンプを通して演奏しているようです。
委嘱元がドイツ音楽の伝統を育んできた古都ライプツィヒですから、この曲には「ドイツ音楽」、あるいは「オーストリア音楽」が数多くサンプリングされています。それは断片的なものであったり、あるいは単なる「雰囲気」としての引用だったりですが、そのようなものがごちゃ混ぜになったコラージュとして聴く者に届く、という手法は、やはりシュニトケの得意技ですね。
第1楽章の、まるでこの世の始まりのようなおごそかさは、間違いなくワーグナーの「指輪」のオープニング、つまり、「ラインの黄金」の最初の混沌の引用なのでしょう。ただ、それはもっともっと複雑な、音楽的な秩序さえ超えてしまうほどの「混沌」を形作っているものでした。その低音を支えているのがエレキベースというのが、何とも鮮やかな印象を与えています。
第2楽章は、そんなモヤモヤ感が一掃されたとてもさわやかな音楽、と言えば聞こえはいいのですが、ミエミエのモーツァルトの模倣には、逆にそんなさわやかさの陰に隠れているどす黒い「陰謀」を感じてしまいます。もちろん、こんなあざとさがシュニトケの最大の魅力であることは言うまでもありません。最初にフルートで演奏されるときにはニ長調だったものが、最後にピアノ・ソロで「ハ長調」で弾かれることによって、しっかり「元ネタ」までも紹介していますしね。さらに、この楽章ではチェンバロによってご当地ライプツィヒの巨匠バッハの模倣まで披露するというサービスぶりです。
第3楽章も、冒頭で何やらファンファーレらしきものが聴こえますが、これがリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」のパロディだとしたら、そのセンスには驚かざるを得ません。ここでもエレキベースと、そしてエレキギターが大活躍。もちろん、エレキギターはディストーションをかけた「ロック」ではなく、あくまでクラシックの「弦楽器」として扱われているあたりが「フツー」という感じはしますが。なにか、ベートーヴェンの「エグモント」の断片が聴こえてきたのは耳の錯覚でしょうか。
第4楽章はまさにマーラーのアダージョ楽章そのものです。それはとても澄み切った静謐な世界、と思っていられるのは最初のあたりだけ、次第に音楽はクラスターの様相を高めてきて、それはほとんどリゲティか、という濃厚なものに変わります。それが最後はフルート・ソロで終わるのは、もしかしたら「どんでん返し」のつもりだったのでしょうか。
そんな振幅の大きい、ある意味野蛮なサウンドが、このPOLYHYMNIAの録音ではかなり「お上品」なものになってしまっています。もっとマッシブな音を聴きたかったものです。

SACD Artwork © Deutschlandradio/Pentatone Music B.V.


さきおとといのおやぢに会える、か。



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