大臣の歌.... 佐久間學

(13/6/12-13/6/30)

Blog Version


6月30日

ヴェルディ
オペラ変革者の素顔と作品
加藤浩子著
平凡社刊(平凡社新書
683
ISBN978-4-582-85683-5

同じ「生誕200年」とは言っても、ワーグナーに比べたらヴェルディの扱いはかなり冷淡なこのサイトです。この傾向は、世間一般ではどうなのでしょうね。少なくとも、CDDVDBD)の世界では、「ワーグナー>ヴェルディ」という図式は厳然と存在しているような気がするのは、はたして錯覚なのでしょうか。ワーグナーの場合、初期の3作品はともかく、「オランダ人」以降の10作品についてはもれなく何十種類ものアイテムが簡単に入手できますが、ヴェルディでは26作品の中でそのような厚遇を受けているのはせいぜい11作品ぐらいのものではないでしょうか。その「11作品」というのは、あくまで私見ですが「マクベス」、「リゴレット」、「イル・トロヴァトーレ」、「ラ・トラヴィアータ」、「シチリアの晩鐘」、「仮面舞踏会」、「運命の力」、「ドン・カルロ」、「アイーダ」、「オテッロ」、「ファルスタッフ」です。宇宙飛行士の話はありません(それは「ライトスタッフ」)。例えば、序曲だけはたま〜に演奏されることがある「ナブッコ」や「ルイーザ・ミラー」の「本体」を全部見たり聴いたりしたことがあるという人には、いまだかつて会ったことがありません。つまり、作品の有名度は、ワーグナーは7割6分9厘に対して、ヴェルディは4割2分3厘ということですから、ヴェルディの劣勢は明らかです。
そんな状況は、この本の出現によって必ずや是正されるはず。加藤浩子さんという方が書かれた最新のヴェルディ本、これはとてもバランスのとれた素晴らしいものでした。
構成は、ヴェルディの生涯と作品について語るという、何の変哲もないのですが、その視点が非常に新しいものであることが、最大の魅力です。最近では、その作曲家の作品の楽譜を徹底的に客観的な資料をもとに検証して、後の校訂や印刷の際に紛れ込んでしまった胡散臭い情報を取り除き、真に作曲家が楽譜に込めたものを明らかにしようという、いわゆる「批判校訂」の作業が、猛烈な勢いで進められています。オペラの世界でも、ロッシーニなどではその成果が見事に現れて、彼の作品に対する評価が劇的に変わってしまったのはご存じのことでしょう。ヴェルディの場合は、まだその作業は緒に就いたばかりですが、一部の批判校訂版はすでに出版されていますし、ヴェルディ作品での歌手の声についても、今までとは全く違ったアプローチが試みられるようになっているのだそうです。そのあたりの、今まさに「進行中」の最新情報が得られるのは、なににも代えがたいものです。
さらに、ヴェルディ本人の生涯や功績なども、従来の俗説ではなく、これもきっちり音楽学者によって「裏」の取れた「真実」のみが語られています。これも、今までは作曲家を「偉人」とあがめて、都合の悪いことはひたすら隠していた風潮がさっぱりと取り払われている現在の潮流に従ったものですね。ヴェルディの女性関係についての詳細な記述は、それだけでとてもドラマティックです。確かに、そのような真の人間像が分かった上で、初めてその作品に対する真の理解も得られることになるのでしょう。
そのような客観的で厳密な考証と並んで、著者自身の「主観」を前面に押し出している部分もあるというのが、この本の魅力を一層高めています。「今聴きたいヴェルディ歌手」という一章が、そんなところ、ここでは、著者の好みがもろ全開で、とても素直なコメントが楽しめます。
そして、最後に登場するのが、全作品の詳細なデータです。単なる「あらすじ」や「聴きどころ」だけではなく、その「背景と特徴」というのが絶妙な筆致、正直、これを読むだけで、ヴェルディのオペラの真の魅力が分かるほどです。これさえあれば、マイナーな作品も聴いてみようという意欲が、間違いなく湧いてくることでしょう。

Book Artwork © Heibonsya Limited, Publishers

6月28日

レクィエムの歴史
死と音楽との対話
井上太郎著
河出書房新社刊(河出文庫い
30-1
ISBN978-4-309-41211-5

井上太郎さん渾身の名著が、今春文庫本でリイシューされました。1999年に平凡社から出ていた元本はすり減るほど読み返したものですが、もう絶版になって入手困難な状況だったとか、こういう「復刻」はとてもありがたいことです。

おそらく、「レクイエム」だけに特化したガイドブックなどというものは、日本ではこれが最初に出版されたものなのではないでしょうか。しかも、それは最初からとてつもない完成度を持ったものでした。まずは、「レクイエム」という音楽形態の定義から始まって、その歴史、テキストの意味、さらには個々の作品の詳細な解説と続きます。そこで取り上げられている作品の多さにも驚かされます。それは、古今東西の「レクイエム」という名前を持つ作品のみならず、タイトルは違ってもこの曲の本来の目的である「死者を悼む」という意味が込められている作品まで網羅されているのですからね。
これについては、著者は元本の「あとがき」(もちろん、今回の文庫本にも収録されています)の中で「海外でもこれほど広範囲にわたって触れた本はあるまい」と言い切っていますから、最初から壮大なビジョンをもって執筆にあたっていたことがうかがえます。
なんと言っても、ちょっと馴染みのない「レクイエム」のCDを見つけたときなどに、この本を見ると必ずその曲が触れられているのですから、これほど役に立ったものはありません。それに関しても、やはり「あとがき」によると、「執筆にあたりCDを集めることから始め、150曲ほど集めた」と言いますから、すごいですね。
修復にあたって多くの版が存在しているモーツァルトの作品では、そのあたりの成立の事情が手際よく解説されていますし、それぞれの版の特徴などは潔く省いて、その代わり巻末のCD一覧にあるものを聴いて実際に聴き比べてほしい、といったスタンスなのでしょう。しかし、稿そのものが違っているものが乱立しているフォーレの作品の場合は、一般に演奏されている第3稿ではなく、オリジナルの第2稿、しかも参照CDはネクトゥー・ドラージュ版を使っているガーディナー盤だというのも、見識の高さが現れているのではないでしょうか。
著者の高い志は、評価の定まった古典的な作品だけではなく、最近出来たばかりの「20世紀」(書かれた当時は、まさに20世紀が終わろうとしていた時でした)の作品についても、確かな価値を見出し、それを伝えるための労をいとわない、というあたりにも表れています。いや、むしろそのような新しいものの方が、生身の人間との思いがストレートに込められていて、「現代人」の心を打つのでは、という著者の主張のようなものを、受け取ることが出来ます。リゲティの作品に対しての「地獄を見た人でなくては書けない音楽」という言及は、感動的ですらあります。
最後の章で、日本人の作品について触れているのも、見逃すわけにはいきません。日本にとっての「原爆」はまさに「地獄」そのもの、それをモティーフにした「レクイエム」は、まさに日本人のアイデンティティであることが、まざまざと伝わってきます。その中にさりげなく込められたペンデレツキの欺瞞性にも、注目すべきでしょう。
文庫化にあたって、21世紀になって作られたものも新たに加筆されているのではないかと期待したのですが、それはありませんでした。したがって、元本と同様、「あとがき」で触れられている1998年に作られた三枝成彰の作品が、この本の中では最も新しい「レクイエム」です。こんな駄作でこの名著を終わらせるのではなく、さらに新しいものもぜひ書き加えて欲しかったと、切に思います。ただ、もしかしたら、著者にとってはそれ以降の作品はもはや紹介するに値しないものだったのかもしれませんね。それはそれで、納得できないことではありません。

Book Artwork © Kawade Shobo Shinsha, Publishers

6月26日

WHITACRE
Choral Music
Klaus-Jürgen Etzold/
Junges Vokalensemble Hannover
RONDEAU/ROP6064


人気作曲家エリック・ウィテカーの合唱作品は、もはや日本の合唱団でも定番のレパートリーになっているようですね。コンクールやコンサートで彼の曲を取り上げる団体は、年を追うごとに増えていっているような気がします。CDも、自演盤も含めて何枚か出ています。ただ、今までは英語圏の合唱団によるものしか聴いたことがありませんでしたが、ついにドイツの合唱団がフル・アルバムを作ってくれました。これで、文字通りウィテカーも「国際的」。
ここで歌っているのは、ハノーファーにある「ユンゲス・ヴォーカルアンサンブル」という団体です。みんな黄帝液を飲んでいるわけではなく(それは「ユンケル」)「若い声楽アンサンブル」という意味のネーミングです。でも、ブックレットに載っている写真を見てみるととても「若い」とは言えないようなおじさん、おばさんが並んでいますね。なんでも、この合唱団が創られたのが1981年のことだそうですから、もしかしたら当時のメンバーがそのまま残っているのかもしれませんね。始めたときは「若」かったものの、30年以上経ってしまえばおじさんになるのはあたりまえ、まさか、こんなに長く続くとは思わずに安易につけた名前だったのでしょうか。
この録音は、おそらくウィテカーの立会いの下に行われたのでしょう。同じブックレットには、ウィテカーがリハーサルでメンバーに囲まれている写真や、コンサートでカーテンコールを受けている写真もありますから、録音に先立ってまずコンサートが行われていたのかもしれませんね。かなり時間をかけて、曲を練り上げて録音に臨もうというスタンスだったのでしょう。
確かにここでは、そんな、しっかりウィテカーにリスペクトをささげている様子が目に浮かぶような、共感に満ちた演奏を味わうことが出来ます。まず、合唱団のメンバーが60人ほど、というサイズが、とても深みのあるサウンドを作っています。例えば自演盤などでは、せいぜい30人程度で歌われていて、それはそれで緊張感のあるタイトな響きを聴くことが出来るのですが、それがもう少し増えたことによって、そこからはもっと暖かみのあるものが感じられるようになっています。例えば、両方に含まれている「Sleep」という2000年に作られた曲を比べてみると、ウィテカー特有の不協和音が、自演盤ではストレートに「雑音」っぽく聴こえるのに、このCDではもっと意味のある和音のように聴こえてきます。
逆に、この中では最も初期の作品である1993年の「Cloudburst」では、始まりのあたりのちょっと「前衛的」な部分が、そのまま「難解なもの」として聴こえてくるあたりは、かつてそういうものを実体験として持っていたドイツ人の感性の表れなのかもしれません。おそらく、そんな、作曲家自身でも気が付かなかったようなアプローチまで、ともに楽しみながら録音が進められていったのではないか、という思いになるほど、これは楽しめるアルバムでした。
なによりも、個々のメンバーのレベルがかなり高いうえに(プロではないそうです)、それこそ歴史の重みさえ感じられるような、合唱団としての熟達度があります。言ってみれば、長年樽で寝かせたお酒、みたいなものでしょうか。優しく溶けあったハーモニーが、とても素敵な味を醸し出しています。
1996年にソプラノ・ソロのために作られたものを、2001年に混声合唱に改訂した「Five Hebrew Love Songs」では、自演盤では伴奏も改訂された形の弦楽四重奏に変わっていましたが、ここではオリジナルのヴァイオリンとピアノのバージョンのままなのも、嬉しいところです。こちらの方が、より素朴な味があります。ただ、ライナーノーツに「改訂の際に、伴奏はそのままにした」とあるのは、自演盤にあるウィテカー自身のコメントとは食い違っています。おそらくこちらは事実誤認でしょう。

CD Artwork © Rondeau Production GmbH

6月24日

BEETHOVEN
Symphonies Nos. 5 & 7
Carlos Kleiber/
Wiener Philharmoniker
DG/00289 479 1106(BD)


今回鳴り物入りで登場したユニバーサルのBDオーディオは、この前聴いたDECCAカウフマンがあまりに素晴らしかったので、DGではどうなのかな、と入手してみたのがこれです。このアルバムでは幸運なことにCDだけではなく、しっかり最初期の段階のハイブリッドSACDと、最近の国内盤のシングルレイヤーSACDが出ていますから、かなり高次元での比較が可能になるはずですが、あいにく手元には2003年のハイブリッド盤しかありませんでした。
予想通り、このBDは、あらゆる面でハイブリッドSACDをしのぐものでした。まずは何の不安もなくたっぷりと伸びている豊かな低音、そして、弦楽器の瑞々しさと管楽器の滑らかさ、さらにはそれぞれの楽器の立体感でしょうか。
BDのクレジットでは、マスタリングに関しての記述は全く見られませんが、ディスプレイでの表示は前回のDECCA盤と同じく24bit/96kHzの2チャンネル音源がPCMDOLBYDTSの3種の中から選べるようになっています。もちろん、聴いたのは非圧縮のPCMです。クラシックには非圧縮
これが、ハイブリッドSACDでは、確かにマスタリングを行った年(2003年)と、エンジニアの名前が表記されています。ただ、その肩書が「New surround mix and new stereo mix」となっているのが、ちょっと気になります。というのも、2003年当時のSACDに対する認識は、今のような「ハイレゾ」の音源というよりは、もっぱら「サラウンド」再生が可能なメディアというものだったような気がするからです。このクライバーの音源は当然2チャンネルステレオなのに、わざわざサラウンドの成分をでっちあげて、そちらの方をメインのセールス・ポイントにしていたのではないでしょうか。2010年にシングルレイヤーSACDとして出た時には、もちろんオリジナルの2チャンネルだけになっていたのは、SACDに本当に求められているものにメーカーが気付いた結果なのでしょう。ただ、そのシングルレイヤーSACDには、確か「2003年のDSDマスター」のような表記があったはずですから、そこで使われたのは2003年の「stereo mix」ということになるのでは。
DSDでは「mix」は不可能ですから、当然最初のデジタル・データはPCMだったはず、それをそのまま提供しているBDと、一旦DSDに変換したSACDとの勝負というのは、すでにショルティの「リング」で違いを見せつけられていました。しかも、SACDは読み取りエラーも考えられるハイブリッドタイプでしたから、この結果は至極当然のことだったのかもしれません。
なんでも、近々ブリテンの「戦争レクイエム」自作自演盤が、BDオーディオでリリースされるそうです。「リング」と同時期のDECCAのスタッフによって録音されたものですから、これも間違いなく素晴らしい音が聴けるはずです。とても楽しみ。
実は、このアルバムを全曲きちんと聴いたのは、これが初めてです。そんないい音で聴いたせいでしょうか、「5番」と「7番」とでは全く音が違っていることがはっきり分かってしまいます。録音会場こそ同じですが、それぞれ年代も録音スタッフも別なのですからそれは当たり前のことです。「5番」でのゴリゴリとした弦楽器の響きは、まるでかつての東ドイツのオケのようですが、「7番」になるとすっかりソフトな落ちついた音に変わって、とても同じオーケストラとは思えません。そんな音の違いが、演奏の印象の違いとなって感じられるのも面白いところです。全くの私見ですが、「5番」ではどこをとってみてもクライバーならではのしなやかなフレージングが徹底されているのに、「7番」では、なにか詰めが甘くて、指揮者とオケの間に「隙間」のようなものを感じてしまうのです。
最近、BSでクライバーのドキュメンタリーを立て続けに見せられましたが、そこでは彼の気まぐれな一面が強調されていました。おそらく、そんな振幅が、この2つのセッションにも投影されていたのでは、というのも、もちろん「私見」です。

BD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

6月22日

XENAKIS
Synaphaï
Geoffrey Douglas Madge(Pf)
Elgae Howarth/New Philharmonia Orchestra
Roger Woodward(Pf)
Claudio Abbado/Gustav Mahler Jugendorchester
DECCA/478 5430


この「20C」というシリーズは、文字通り20世紀に作られた作品を網羅しようという企画、1900年から2000年まで(ちょっとはみ出していますが)のすべての年に必ずなにかが入っているという徹底したものです。アルバムとしては作曲家別にリリースされていますが、ブックレットには年ごとのリストがあって、なかなか楽しめます。それぞれの年には、1曲しかないものも有りますが、最高では4曲採用されている年もありますね。例えば1905年はドビュッシーの「海」、シェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」、R.シュトラウスの「サロメ」、そしてレハールの「メリー・ウィドウ」というのですから、面白いですね。リストでは、すでにリリースされているものがイタリック体になっていて、普通のフォントのものはもはや数少なくなっています。もうしばらくすると、すでに「20世紀」は「古典」となってしまったことがはっきり認識できるアンソロジーが完成します。
今回はクセナキスが初めて登場です。この、ペンローズ・トライアングルを応用した立体の画像がちょっとかわいいもので、つい買ってしまいました。こういうM.C.エッシャー、あるいは安野光雅の世界がクセナキスと通じていると感じたデザイナーに、拍手。
そして、ジャケットの裏側を見ると、こんな痛々しい写真が。第二次世界大戦中に受けた傷跡がこれほど生々しく写っている写真なんて、初めて見ました。彼のポートレイトといえば、右側から撮ったものか左側が陰になっているものがほとんどですからね。これは、ある意味貴重な写真です。

内容はこちら1975年に録音されたDECCA音源によるアルバムに、ボーナス・トラックとしてこちらの中に収録されていたORF/DG原盤の「Keqrops」が加わっているというものです。結果的に、クセナキスの3つのピアノ協奏曲の最初と最後のものがカップリングされることになりました。
もちろん、クセナキス自身は「ピアノ協奏曲第1番」のような言い方は決してしない人ですから、その3つには単にタイトルが付いているだけです。「1番」に相当するのがテレビのワイドショーでも紹介されて有名になった「ピアノと86人の演奏家のためのSynaphaï」。1969年に作られて、1971年に初演されていますが、ここに収録されている、マッジとハワースのものが初録音でした。ワイドショーの大井盤は2番目の録音になります。「2番」である「ピアノと88人の演奏家によるErikhthon」は1974年に作られ、同じ年に初演されていますが、録音は大井さんのものしかありません。そして「3番」は1986年にニューヨーク・フィルの委嘱で作られた「ピアノと92人の演奏家のためのKeqrops」です。同じ年にロジャー・ウッドワードと、メータ指揮のNYフィルによって初演されましたが、ここには1992年の第5回ウィーン・モデルンでのアバドとウッドワードによるライブ録音が収録されています。もちろん、これが唯一の録音でしょう(この現代音楽祭は、現在まで毎年欠かさず開催されていることを初めて知りました)。
この2つの協奏曲を並べて聴くことによって、その間に横たわる17年の歳月がクセナキスの作風にも大きな変化を与えていることが如実に分かるはずです。「3番」でピアノ・ソロが一定のビートでアコードを叩きつけるのを聴くと、ついに彼にも人の感情に寄り添った音楽を作ることへの関心が芽生えたことを感じないわけにはいきません。時折五音階の「メロディ」が顔を出す時もありますし。そこまでの境地に達した時、彼のそれまでのグリッサンドやクラスターがどんな意味を持っていたのかを多くの人が理解できるようになるのでしょう。これこそが、作曲家の「成長」に他なりません。もちろん、今の世の中には歳を重ねるとともに「退化」する作曲家の方が圧倒的に多いのは、ご存じのとおりです。そういう人たちは、文字通り「大家」と呼ばれたりします。

CD Artwork © Decca Music Group Limited

6月20日

BERLIOZ
Grand Messe des morts
Barry Banks(Ten)
Colin Davis/
London Philharmonic Choir
London Symphony Orchestra & Chorus
LSO LIVE/LSO 0729(hybrid SACD)


先日85歳でお亡くなりになったコリン・デイヴィスの、今リリースされているものの中では最も新しい録音、2012年の6月に行われたライブの模様が収録されているSACDです。その時に演奏されたのがベルリオーズの「レクイエム」という、とてつもなく巨大な編成の曲なのですから、驚いてしまいます。最晩年にこんな大曲のコントロールが出来るだけの精神的・身体的な能力があるなんて。同じぐらいの年で亡くなったカール・ベーム(米寿にはあと一歩でした)あたりは、晩年はオケに合わせて棒を振っていただけだというのに。
この曲がどのぐらい「巨大」なのかは、スコアの最初のページを見れば分かります。

とりあえず木管などは「4管」と普通ですが(ファゴットが多いのは、ベルリオーズのお約束)、ホルンは12本、ヴァイオリンだけで50人となればこれは普通のオーケストラのサイズ(最高でも34人)を大幅にオーバーしています。もちろん、合唱は210人という大人数。ただし、これはあくまで「相対的な人数」という注釈があります。つまり、会場のスペースさえ許せば、合唱はこの2倍でも4倍でもかまわず、それに応じてオーケストラも拡大しろ、ということなのですね。これを忠実に再現したのが、マクリーシュ盤だったのでしょう。
それだけではありません。これはあくまで1曲目の「Requiem et Kyrie」の編成、次の「Dies irae」になると、これに会場の東西南北に配置される4群の金管のバンダが加わります。つまり、指揮者の前にはホルン以外の金管はいないことになります。その上に、ティンパニだけで10人の奏者が必要とされる膨大な打楽器群ですから、これはまさに360°を埋め尽くす「サラウンド」そのものですね。
ただ、この、ロンドンのセント・ポール大聖堂での演奏では、弦楽器だけは普通の16型のサイズですからかなり「少な目」です。それと、合唱は総勢240人ほどですから、充分なようには見えますが、ベルリオーズのパートごとの指定では、男声が全然足りてません(テナーもベースも50人程度しかいません)。その分、女声が多くなっています。これが普通のバランスなのでしょうが、ベルリオーズは女声より男性をたくさん要求しているのですね。これは、「Hostias」では男声合唱だけになることと無関係ではないのでしょう。「Agnus Dei」も、最初は男声だけですしね。
その2曲では、男声合唱と共にフルートが大活躍するというあたりにも、個人的には思い切り惹かれます。トロンボーン+フルート3(4)本という組み合わせで延々と合唱の合いの手を入れていくのは、ただ、実際に演奏するのはかなりしんどいような気はしますが。もっとしんどい、ほとんど苦行と思えるのが、「Sanctus」での、40小節以上全く休符なしで書かれたソロです。おそらく実際は何人かでつないでいくのでしょうが、もう聴いているだけでうんざりしてきます。
いかにも巨大なイメージが先行しているこの作品ですが、実はア・カペラの合唱だけで演奏される「かわいい」部分もあります。それが5曲目の「Quaerens me」です。「Rex tremendae」と「Lacrimosa」という「激しい」曲に挟まれた、本当に美しい曲ですが、これも実際に歌うのは至難の業なのでは、という気がします。ここで歌っている2つの大きな合唱団の連合体は、ほんの5分程度の短い曲なのに、歌い終わる頃にはほぼ全音(実際は3/4音ぐらいでしょうか)下がってしまっています。始まった時はイ長調だったものが、終わった時はト長調になっているのですね。ライブならではの難しさでしょうが、同じライブでもマクリーシュ盤では全く下がってはいないのですから、これは問題。もちろん、セッション録音のインバル盤(1988)では、下がることはありません。
そんな、細かいところはちょっと気になりますし、録音もかなり悲惨ですが、なぜかデイヴィスの「思い」だけは伝わってきます。

SACD Artwork © London Symphony Orchestra

6月18日

CHILCOTT
Everyone Sang
Gemma Beeson(Pf)
Will Todd Trio
Christopher Finch/
Wellensian Consort
NAXOS/8.573158


NAXOSとしては初めてとなるチルコットの作品集です。これで、チルコットも晴れてメジャーな作曲家の仲間入り。しかも、嬉しいことに「世界初録音」となる曲が大半を占めています。「The Lily and the Rose」のように、以前SIGNUMから出ていた曲集に含まれる曲もありますが、それは編成が違っていますしね。その同じアルバムに入っていた「A Little Jazz Mass」が、やはり「世界初録音」となっていたので、そんなわけはない、と思ったのですが、こちらも聴いてみたらオリジナルの児童(女声)合唱ではなく、混声合唱バージョンですから、「初録音」もウソではないのでしょう。ただ、この版が出来たのはオリジナルの翌年の2005年で、すでにコンサートでは世界中で演奏されています(日本の仙台市でも、聴いたことがあります)から、いまさら「初録音」というのもなんだか、という感じはしますが。
このように、同じ曲でも編成を変えて、別の味を楽しめる、というケースは合唱の世界ではよくあることです。合唱に限らず、現代の作曲家が曲を作る「動機」は間違いなく演奏団体などからの「委嘱」です。作曲を生活の糧にしている人が、何の見返りもないのに曲を作るわけがありません。「芸術」というものは、そのような「商取引」なしには成立しないのが、現代社会なのです。いや、それはベートーヴェンの時代からあったもの、ただ、彼の場合は「委嘱」という受動的な形ではなく、「献呈」という、いわば「押し売り」だったところが少し違うだけの話です。
ですから、最初に女声合唱団からの委嘱があれば、当然その編成の曲を作ることになり、それが好評で混声合唱の団体が歌いたいと思えば、要望に応えてそれをそのまま混声合唱に直して買い取ってもらうという、それだけ「商取引」の機会が増えていくことになります。
ただ、そうなると、その作品が最初に出来たときの編成には、必ずしも必然性はなかったのでは、ということにもなりますね。表現上のこだわりが全くなければ、それはいともたやすく他の編成に「移植」出来てしまいますからね。でも、例えば最初は男声合唱のために作られた泥臭いテイストの音楽が、そのまま女声合唱で歌われたりすれば、何か異様に感じることはないのでしょうか。
そんなことを考えながら、先ほどの「A Little Jazz Mass」の混声版を聴いてみたら、SIGNUMの女声版とは全然ノリが違います。きちんと聴いてみると、コーラス・アレンジそのものがかなり変わっていました。「Kyrie」の歌い出しなどは、女声版はユニゾンですが、混声版ではポリフォニックな合いの手が入って全然別の曲のようになってます。これは、単に「改訂」を行ったのではなく、しっかりとクライアントの要望を取り入れた、もう一つの作品を作ったということになります。うん、ここまで丁寧な仕事こそが、「委嘱」に応える作曲家のあるべき仕事なのでしょう。
チルコットの作品と言えば、例えばここでは「Mid-Winter」のように、まるでロイド・ウェッバーのようなキャッチーなメロディ・ラインを持つものが、なんといってもメインなのではないでしょうか。本当に、あの「Phantom in the Opera」の中の「Think of Me」にとてもよく似たテイストのこの曲は、なんとも言えないやさしさで心に迫ってきます。ただ、ここで歌っている2009年に出来たばかりのイギリスの若い合唱団は、必ずしもそんな思いを適切に伝えられるだけのスキルは持ち合わせてはいないようでした。なんと言っても、こんな若い人たちには珍しく、女声にかなりきついビブラートが入っているのが、相当のマイナス要因になっています。「帯」を見てみると、キャッチコピーは「きちんと歌うのはすごく難しそうだけど、一度は歌ってみたくなるようなステキな曲たち」でした。これが、このあたりの事情を柔らかく表現したものだとしたら、今回はこの「帯職人」の耳は確かだったようです。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.

6月16日

WAGNER
Complete Piano Music
Pier Paolo Vincenzi(Pf)
BRILLIANT/94450


少し前に「いくらワーグナー・イヤーでも、彼の全作品を録音するレーベルはないだろう」みたいなことを書きましたが、実はそれに近い動きはあったのですね。そうですよ、いくらCD不況だからって、そんなレアなものを出してワーグナーの布教を行う機会は、今を逃すと当分ありませんからね。
ということで、ピアノ曲に限ってのことですが、現存する全作品を録音したものが同じ時期に2種類もリリースされてしまいました。一つはDYNAMICからのダリオ・ボヌチェッリの演奏、そしてもう一つが、このヴィンチェンツィのものです。「全作品」と言っても、時間にしたら「ラインの黄金」1曲よりも短いものですから、CDに目いっぱい収録すれば2枚に収まってしまいます。それが、このBRILLIANTではDYNAMICの三分の一の値段で買えるのですから、なんと言ってもお買い得、しかも2012年の5月の最新録音ですし、使っている楽器はFAZIOLIF278なのですから、何の問題もありません。
ワーグナーのピアノ作品は、このアルバムの場合は全部で15曲収録されていますが、おそらくそれですべてを網羅しているのでしょう。ごく初期に作られたピアノソナタもあるようですが、それらは楽譜が散逸してしまっているようですし。
現存する「ソナタ」で最も早い時期の作品は、演奏に30分近くかかる4楽章のソナタ(変ロ長調 WWV21)です。1831年に完成していますから、ワーグナーは18歳ぐらいでしょうか。ベートーヴェンあたりの様式を巧みに取り入れた大作ですが、いかにも修行中の習作といった感じがミエミエのほほえましいものです。まるで交響曲のような楽章構成で、第3楽章はメヌエットになっていますが、その教科書通りの楽想には思わず笑いたくなってしまうほどです。なんと素直な音楽なのでしょう。
この時期には、WWV22とされている「幻想曲嬰ヘ短調」という、やはり30分近くの曲が作られています。これは、構成はソナタよりも自由な、めまぐるしく楽想が変わる作品ですが、モティーフや和声はいともオーソドックスな、その時代の様式がそのまま反映されたものです。
ところが、翌1932年に作られたイ長調の「大ソナタ」(WWV26)になると、いきなり音楽としての成熟度が増しているのに驚かされます。前のソナタがベートーヴェンの初期の模倣だとすれば、これは同じベートーヴェンでも後期のような充実ぶり、たった1年で、交響曲で言えば「1番」から「9番」までのレベルに到達してしまうほどの「進歩」を遂げているのですね。やはり、ワーグナーはただの女たらしではなかったんですね。
このソナタの最後の楽章は、Maestosoの堂々たる序奏に続いて、まるでウェーバーのような軽やかなテーマが登場するAllegroとなるのですが、実は、最初の構想ではこの間にフーガの部分がありました。出版の際にはそれは削除されたのですが、このCDにはその「フーガ付き」のバージョンも別に「おまけ」で演奏されています(これは、DYNAMIC盤にも入っています)。それは、出だしこそ「マイスタージンガー」になんとなく似ているテーマによる4声の堂々たるフーガですが、途中からポリフォニーではなくなっているので、やはり公にしない方が正解のような気はしますが。
こんな曲を作っていた若者が、それから四半世紀も経って「トリスタン」を作るころになると、全く彼独自の和声の世界を手に入れることになるのですから、驚きはさらに募ります。その時期の作風が反映されているのが、ヴィスコンティの「ルートヴィヒ」に使われて(オーケストラ版)有名になった「エレジー変イ長調 WWV93」です。
この時代の作曲家は、このように生涯をかけて新しい音楽、つまり、より複雑な音楽を作ることを目指していました。しかし、いつしかそれは行き場を失った結果、たとえばペンデレツキのような現代の作曲家は、逆に生涯をかけてよりシンプルな音楽を作るようになっているのですから、面白いものです。

CD Artwork © Brilliant Classics

6月14日

Brillante Musik für Bläser
Bläser der Berliner Philharmoniker
James Galway(Fl), Lothar Koch(Ob)
Karl Leister(Cl), Günter Piesk(Fg)
Gerd Seifert(Hr)
TOWER RECORDS/PROC-1293


タワーレコードでは、だいぶ前からリスナーの要望にこたえて今では入手が出来ないようなアイテムの復刻を精力的に行っています。かつてはジャケットのデザインはタワー独自のもので、その中にオリジナルのジャケットが小さく配置されているというものでしたが、最近ではジャケットもフルサイズで「完全復刻」となっているようですから、ますます魅力が増してきているのではないでしょうか。
その流れで、今回ゴールウェイがベルリン・フィルに在籍中に録音されたこんな珍しいものが、しっかり、初出時のジャケットを使ってリリースされました。LP時代のゴールウェイのアルバムは殆ど持っていましたが、これに関してはその後に出た廉価盤しか手に入らず、このジャケットの国内盤LPを持っていた友人に画像だけを送ってもらって眺めていた、という切ない思い出があります。なんたってヒゲのないゴールウェイのカラー写真なんて、極めつけの「お宝」ですからね。
オリジナルのLPがリリースされたのは1970年ごろですから、40年以上も経って、ちょっと小さくなりましたが初めてそのジャケットを手にしたことになります。うれしいことに、このブックレットにはライナー(ジャケットの裏側)まで完全復刻されています。さらに、今回のCD化ではなぜか全く別のアーティストの録音がカップリングされていますが、そちらのジャケットまでもやはり表裏ともに復刻されているのですから、ちょっと感激してしまいます。
実は、このLPに収録されていたダンツィとライヒャ(レイハ)の木管五重奏曲と、シュターミッツの木管四重奏曲は、以前にもCD化されていました。それはこちらでもご紹介していましたが、もちろんジャケットはこのシリーズの統一デザインで、全くの別物、こちらにはツェラーの録音がカップリングされていました。さらに、「Ambient Surround Imaging」とかいう、人工的に音場感を付加したとされる処置が施されていて、音そのものはちょっと甘い仕上がりになっていました。しかし、今回は、「オリジナル・アナログ・マスターよりハイビット・ハイサンプリング(24bit/192kHz)化したマスターを使用」などと、額面通りに受け取ればとてつもないスペックの音源が使われているというので、前のCDよりはまともな音が聴けるのでは、という期待もありました。
実際に聴き比べてみると、確かに音は見違えるほど素直なものに変わっていました。前のCDではちょっとぼやけてしまっていた楽器一つ一つの輪郭がとてもくっきりしていて、ゴールウェイの存在感もより立体的に伝わってくるようになっています。ただ、LPでは、その上にさらにえもいわれぬ香りが加わって聴こえてきますから、やはりCDの限界を感じないわけにはいきません。これだけのハイレゾ・データを使っているのですから、いっそSACDにすればいいのに、と思うのですが。
ここにはCD化にあたってのクレジットは、先ほどのマスターに関する情報が唯一のもので、マスタリング・エンジニアの名前などは一切ありません。マスターにしても、これだけではどの段階のアナログ・マスターなのかは分かりませんし(国内盤用のサブマスターかもしれません)、デジタル・トランスファーがどこで行われたのかも不明ですから、これは情報としてはとてもいい加減なものです。
さらに、ジャケットの黄色い枠の中にあるロゴが「3行(DGG)」なのもちょっと不思議。

1970年頃にはこれは「2行(DG)」になっていたはずですし、現に1971年9月にリリースされた国内盤のジャケットでは「DG」なのですからね。

Product manager」としてクレジットされている、ユニバーサル・ミュージックの「Kaoru Abe」さんは、以前はタワーレコードの店員さんだったはず。この方なら、そんな疑問も洗い流してくれるかも(それは「シャワーレコード」)。さらに、どうでもいいことですが、ブックレットの2ページにはこんなミスプリントもありました。


CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

6月12日

MAHLER
Das Lied von der Erde
Alice Coote(MS)
Burkhard Fritz(Ten)
Marc Albrecht/
Netherland Philharmonic Orchestra
PENTATONE/PTC 5186 502(hybrid SACD)


趣味の悪さでは定評のあるPENTATONEのジャケット・デザインですが、今回もなんだか指紋の拡大写真みたいなものだったのには、ちょっと引いてしまいました。これはいったい何なのでしょう。もしかして枯山水の庭園?「大地の歌」の中国からの、短絡的な発想なのでしょうか。
それよりも、録音場所のクレジットで「Yakult zaal」、つまり「ヤクルト・ホール」とあったのにはびっくりです。オランダにまで「ヤクルト」が進出していたとは。確かに、このホールはアムステルダムの駅前にある有名な建築物、「ブールス・ファン・ベルラー」の中にあるいくつかのホールの一つで、最大で800人まで収容できる中ホールなのだそうです。写真を見ると、天井がガラス張りのモダンなホールです。「ヤクルト」は、このホールのネーミング・ライツを買っただけなのか、実際にホールの運営にまで関わっているのか、それはわかりません。もしかしたら、休憩時間には、お客さんにヤクルトが配られたり、ホールの開演のブザーの代わりに、モーツァルトの「グラン・パルティータ」が演奏されるのかもしれませんよ(「十三管」≒「乳酸菌」ですね)。
今回のSACDでは、アルブレヒトが「大地の歌」を演奏すると聞いて、一瞬、最近室内楽版が出たばかりなのでは、と思ってしまいましたが、それは別のアルブレヒトでした。そう言えば、ずっと日本のオーケストラの常任指揮者を務めていた人がいましたね。もう一人いたのでした。でも、なんだかファースト・ネームが「マルク」というのが気になります。その人は同じ3文字でも、もっと汚い響きがしたような・・・ああ、そうでした、それは「ゲルト」でしたね。マルクさんは、初めて聴くことになる指揮者だったのでした。なんと紛らわしい。
実は、本当の話、ずっと「ゲルト」だと思ってこのSACDを聴いていました。聴いているうちに、えらく几帳面な指揮ぶりで、これは違うのではと思って、やっと間違いに気付いたわけです。なんか、こんな拍の頭が常に分かってしまうようなかなり分かりやすい指揮は、「ゲルト」の年代の指揮者には似つかわしくないな、と。実際のところ、「マルク」は、「ゲルト」と同世代のゲオルク・アレクサンダー・アルブレヒト(この二人は赤の他人)という、ずっとオペラ畑で活躍していた指揮者の息子さんですから、まさに一世代若いことになります。
ところが、テノール・ソロのフリッツが、かなりゴツゴツとした歌い方をする人なので、こういう「スマート」な指揮にはちょっと馴染まないような感じで、何か聴いていて違和感が残ります。指揮者はかなり軽快なテンポでサクサクやりたいと思っているのに、なにかもっと「クサく」おどけてやりたがっているみたいなのですね。
そこへ行くと、メゾ・ソプラノのクートは、アルブレヒトにしっかり寄り添って、素晴らしい歌を聴かせてくれています。終曲の「別れ」は、重みこそないものの、繊細な情緒をたたえた伸びのある声で、とても深いものが表現出来ているのではないでしょうか。この楽章では、様々な木管楽器がオブリガートを務めますが、中でもオーボエとフルートは絶品です。フルートは、多分木管の楽器を使っているのでしょう、とても渋い音色が魅力的です。一瞬、ドビュッシーのような音楽がよぎるのも、新鮮な体験です。
一時、TRITONUSに替わったこともありましたが、最近のこのレーベルは、一貫してPOLYHYMNIAが録音を担当しています。その、DECCAあたりとは正反対の、まさにかつてのPHILIPSのポリシーが感じられる繊細なサウンドは、ワーグナーあたりではちょっと物足りなく思えてしまいますが、この曲の、特に終楽章ではとても味わい深いものを感じさせてくれます。最後のチェレスタが登場するあたりは、殆ど夢を見ているような柔らかい音に包まれて、まさに至高の一時を味わえます。

SACD Artwork © PentaTone Music b.v.

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17