ハウスマヌカン。.... 佐久間學

(10/1/29-2/16)

Blog Version


2月16日

MADERNA
Complete Works for Orchestra Vol.1, Vol.2
Arturo Tamayo/
hr-Sinfonieorchester
NEOS/NEOS 10933・10934(hybrid SACD)


1920年生まれ、それこそブーレーズなどとともに「現代音楽」の最先端を走っていたイタリアの作曲家、ブルーノ・マデルナの「オーケストラのための完全作品集」です。作曲年代順に収録されていて、「Vol.1」が1948年から1953年まで、「Vol.2」が1954年から1966年までの作品となっています。それ以後、1973年に亡くなるまでオーケストラ曲は作っていたはずですので、いずれ「Vol.3」なども出てくるのでしょうか。確かに、この中には、少なからずあったはずのオーボエ独奏を伴った作品が全く見あたりません。
その代わりと言ってはなんですが、フルート・ソロがフィーチャーされたものが3曲も入っていますよ。もちろん、これらの作品は当時の音楽シーンでそのような新作の演奏を一手に引き受けていた伝説的なフルーティスト、セヴェリーノ・ガッツェローニのために作られたものです。以前ご紹介した同じ作曲家の「ドン・ペルリンプリン」というオペラでもフルートが大活躍していましたが、これももちろんガッツェローニの演奏を想定して作られたものなのでしょう。
このフルート・ソロを、ここで演奏している「hr」、つまりヘッセン放送協会の専属オーケストラ「hr交響楽団」(いや、かつては「フランクフルト放送交響楽団」と名乗っていたオーケストラ、ホルンだけのオケではありません)の3人の団員がそれぞれ担当している、というのが興味をひきます。そのうちの2人はもちろん首席奏者ですが、もう一人は主にピッコロを吹いている2番吹き、そのようなポストでも、ガッツェローニが吹いていたパートを任せられる、というのがすごいところです。
その人が、ジャケットの写真にも登場している、まるでジャズ・プレイヤーのような風貌の(実際、ジャズとのコラボレーションも行っているそうです)アフリカ系アメリカ人、タデウス・ワトソンです。彼の担当は、1954年の作品「フルート協奏曲」です。8分程度の短い曲で、この時期ぐらいまではまだこの作曲家が大切にしていたはずのリリシズムが存分に味わえるものです。その分、テクニック的にはそれほど難しいという感じはありません。きちんと「ソノリテ」を勉強していればなんなく吹けるはずの曲ですが、ワトソンは意外と苦戦しているのが、ちょっとかわいそう。
首席奏者のセバスティアン・ウィティバーという人が吹いているのが、もう少し後、1964年に作られたソプラノとフルートとオーケストラのための「Aria」です。これは、同じ時期に作られた、フリードリッヒ・ヘルダーリンのテキストによる「Hyperion」というオペラの、いわば「スピンオフ」のような作品なのだそうです。ここでウィティバーが演奏しているのは普通のフルートより1オクターブ低い音域のバス・フルートという楽器です。ソプラノ・ソロに絡むだけではなく、かなり長いカデンツァもあって、この楽器のハスキーな音色を存分に楽しめます。技巧もとても滑らか、やはり「格」が違います。
同じく「Hyperion」からのスピンオフ、フルートとオーケストラのための「Dimensioni III」を演奏しているのがもう一人の首席、スペイン出身の女性フルート奏者、クララ・アンドラーダ・デ・ラ・カッレです。これは、とてつもない技巧と音楽性が要求されるソロパートですが、彼女は、もしかしたら初演者ガッツェローニなどははるかにしのぐほどの冴えを見せているのかもしれません。特に、伸びやかな音色は素晴らしいものです。
そんな、プレイヤーひとりひとりの演奏上の特質までが手に取るように分かるのは、SACDならではの卓越した録音によるところも大きいはずです。同時に、この録音が伝えているのは、タマヨに指揮されたオーケストラのしなやかで肌触りの良い音色です。特に、「Vol.1」で顕著に見られるメロディの美しさをまだ信じていた頃のマデルナの特質が、ここからはいとも素直に伝わってくることでしょう。

SACD Artwork © Hessischer Rundfunk

2月14日

DVOŘÁK
Symphonies Nos. 7 & 8
Charles Mackerras/
Philharmonia Orchestra
SIGNUM/SIGCD 183


ある意味フィルハーモニア管弦楽団の自主レーベルのような面を持つようになったSIGNUMレーベルです。首席指揮者サロネンの「グレの歌」がSACDだったので、他の自主レーベルのようにSACDでのリリースが恒常化か、と思ったのですが、首席客演指揮者のマッケラスの場合はフツーのCDでした。そんなぁ。グレてやる。
フィルハーモニアといえば、何と言っても首席フルート奏者のケネス・スミスの存在が大きな魅力でした。今までは伝統的にこのオーケストラは管楽器の首席奏者は一人しか置かない、という体制でしたから、このオーケストラを録音で聴くときに聞こえてくるフルートは、間違いなく彼のものだ、という安心感がありました。しかし、世界の趨勢は複数の首席奏者によって多くのコンサートやレコーディングのスケジュールをこなすというものですから、フィルハーモニアでも2005年に、ロンドン交響楽団の首席奏者だったポール・エドムンド・デイヴィースという人をもう一人の首席奏者として団員に加えたのです。そうなってくると、このオーケストラを聴くときには、必ずしもスミスが「乗って」いるとは限らなくなってしまいます。現に先日アシュケナージと来日したときの模様がテレビで放送になったときには、スミスは「降り番」でした。ベルリン・フィルを聴くときに「パユさま」(死語)が目当てだったのに、吹いていたのはブラウだった、というようなものですね。そんなことがないように、ロイヤル・コンセルトヘボウ管のエミリー・バイノンなどは自分のサイトでどの演奏会で「乗り」なのかを告知していますよね。でも、これは特別、ふつうは演奏会場に行くまで誰が乗っているのかは分からないものです。
そんなわけで、果たしてこのアルバムではフルートは誰が吹いているのか、実際に聴いて確かめるまでは分からないことになるのですが、そこから聞こえてきたのはスミスの一本芯の通った輝かしい音だったのでまずは一安心、7番も8番もフルートが大活躍する曲ですので、それをスミスの演奏で聴けて幸せな気分になれました。
マッケラスのドヴォルジャークといえば、2005年にプラハ交響楽団と録音したSUPRAPHONがありました。その時は8番と9番のカップリングでしたね。一方、フィルハーモニア管としては、今回と同じ7番と8番を、インバルの指揮で1990年と1991年に録音したTELDEC(これも「死語」)盤がありました。それらの録音と今回のものを比べてみると、マッケラスの演奏にはもはや確固たるスタイルが堅持されていて、たとえオーケストラが変わったとしてもそこからは間違いなく彼の音楽が聞こえてくる、という安心感、というか安定感のようなものを感じ取ることが出来ます。プラハもフィルハーモニアもライブ録音ですが、ライブだからことさら燃える、あるいは聴衆のちがいによって大きく演奏の形が変わってしまうという、この前のミュンシュのようなところは全くありません。彼の芸風が、どんなところでも同じ品質を提供できるだけのものを獲得した、ということになるのでしょうか。もちろん、8番の終楽章でのチェロのパートソロでの自筆稿による独自のヴァリアント(プラハ版だと、256小節目の最後の八分音符が、「シ」ではなく「ド」)も、双方に共通しています。
同時に、フルート・ソロのスミスの芸風も、指揮者の音楽性には作用されないほどの確固たるものとなっているのも、インバルとの演奏と比べて確認できてしまいます。彼もまた、自らの音楽をオケの中でさえ発揮できる力を備えているのですね。これは、一見矛盾する状態、奏者に左右されない指揮者と、指揮者に左右されない奏者との対決、その結果がどうなったのか、それは実際に聴いて頂くしかありません。

CD Artwork © Philharmonia Orchestra

2月12日

TORMIS
Forgotten Peoples
Tönu Kaljuste/
Estonian Philharmonic Chamber Choir
ECM/434 275-1(LP)


先日お亡くなりになった浅川マキさんは、生涯CDの音に不満を感じられていたそうですね。「CDはジャズじゃない」とおっしゃって、かつてLPで出ていたアルバムをCDにして販売することを許さなかったのだとか。エンジニアの耳ではなく、あくまでミュージシャンとしての研ぎ澄まされた感覚が、そのように言わせたのでしょう。しょうがないですね。
そんな風に、CDの音というのは、LPに比べると何かが足らない、と感覚的に思っている人は多いのではないでしょうか。理論的には、デジタル録音をそのままデジタルデータで記録しているのですから、CDの方がいい音のはずだ、と思いながらも。しかし、例えばSACDなどで、同じデジタルでもCDよりはるかに良い音を聴くことが出来る体験を持ったりすると、実はCDはそれほど良い音のメディアではなく、LPの足元にも及ばないものなのではないか、と気づくことになります。
実際、最近になって作られたLPのテスト盤を聴いたときには、かつてかなり耳障りだったサーフェス・ノイズや、スクラッチ・ノイズなどが全く聞こえなかったこともあって、その伸びのあるしなやかな音は間違いなくCDを超えたものだという実感が持てました。そう、素材まで吟味して、細心の注意を払って作られたLPは、CDなどはるかに超えた素晴らしい再生音を聞かせることが出来るのです。 そんな認識を持つようになった頃、ECMのカタログを眺めていたら、なんと、このレーベルでは今でもLPを販売しているというではありませんか。なんでも、昨年2009年に創立40周年を迎えたECMが、その記念に限定生産したものなのだそうです。さっそく入手したのがこれです。録音されたのは1990年、そして、1992年にCDがリリースされています。
現物を手にしてみると、それはこの間の「テスト盤」の素っ気なさとは異なり、まさにかつて馴染んだ「レコード」そのものの感触でした。2枚組みのダブルジャケット、中には歌詞の入った同じサイズのブックレットも入っていて、CDに比べたらなんとも贅沢なつくりです。
音は、予想通りの素晴らしさでした。収められているのはトルミスが長い年月をかけて作り続けた「Forgotten Peoples」という、エストニア近隣の広い地域の、それぞれの民族音楽を再構築したシリーズです。1970年の「リヴォニアの遺産」から始まり、この録音が行われた少し前、1989年に作られた「カレリアの運命」まで、全部で6つの部分がセットとなった大作です。ここでトルミスがまず求めたのは、昔から伝えられていた民族的な発声によって歌うことだったのでしょう。エストニア・フィルハーモニー室内合唱団はそれに応えて、見事に素朴な発声に徹しています。そのゾクゾクするほどの生々しさが、このLPからはまさにストレートに伝わってくるのです。「カレリア」(2枚目のB面)の3曲目、「ヴィルの奴隷」に登場するテノール・ソロの「地声」といったら。CDは聴いたことがありませんが、おそらく、これほどのみずみずしさは味わうことは出来ないはずです。
しかし、とても残念なことですが、このLPの盤質は最高のものとは言えませんでした。まず、ターンテーブルに乗せて回転を始めたときにすぐ気づくのですが、レコード自体がかなり反っているのです。場所によっては、ターンテーブルの表面から1o程度の隙間が出来ているところもありました。そんな雑な作り方ですから、サーフェス・ノイズもかなりのものです。そして、見た目には傷など全くないところで、かなり派手なスクラッチ・ノイズが発生しています。おそらく、コンパウンドの材質に起因しているのでしょう。「テスト盤」で見られた驚異的な品質は、あいにくこのレコードをプレスした工場では到底達成できないものだったのでしょうね。「失われた民族」ではありませんが、一度失われてしまった「レコード製造技術」という文化は、容易に取り戻せるものではないのかもしれません。

LP Artwork © ECM Records

2月10日

MOZART
Arias for Male Soprano
Michael Maniaci(Sop)
Martin Pearlmen/
Boston Baroque
TELARC/TEL-31827-02


久しぶりにTELARCCDを手にしたら、品番の付け方がいつの間にか変わっていましたね。以前は「CD-80・・・」といった最初からのカタログからつながっている連番、しかも、安くなって再発されたときにもその品番が変わらない、というものだったのですが、これを見るとなんだか電話番号みたいですね。これは、TELARCCONCORDというジャズの大手レーベルの傘下に入ったこととの関連なのでしょうか。いや、それは確か2005年のことですから、なぜ今頃になって・・・という気がしますが。こういう業界の仕組みは、我々「一般人」にはなかなか分からないところがあります。でも、品番一つ取ってみても、かつてはまさに「手作り」感覚で優秀な録音のレコードを作っていたレーベル、という親密なイメージからははるかに遠いところへ行ってしまったな、と感じてしまうのは、単なる考えすぎでしょうか。
実際、このレーベルはもはや「優秀な録音」というところからも、はるかに遠いところにあるのでは、とは、最近の看板アーティスト(なにしろ、「グラミー賞」の常連ですから)であるボストン・バロックの一連のアルバムを聴いても、痛切に感じられてしまいます。なにか焦点の定まらないもやもやとした雰囲気の中にある音、そこからは、オリジナル楽器特有の鋭い響きは殆ど感じることは出来ません。あるいは、アメリカに於けるこういうジャンルの音楽への好みが、そのような音に反映されているのでしょうか。
そんな、20枚を超える彼らのこのレーベルへのアルバムの最新作は、マイケル・マニアチというオタク(それは「マニアック」)をフィーチャーした「男性ソプラノのためのモーツァルトのアリア集」です。この「邦題」、あえて「男声ソプラノ」と表記しなかった日本の代理店の微妙な感覚は、痛いほど伝わってきますね。「男声」の歌手が、ファルセットを駆使してソプラノの音域を歌う、というのではなく、あくまで声自体が「ソプラノ」である「男性」なのですよ。そう、それは少年の頃に生殖器を切り取って、男性ホルモンの分泌を阻止した結果、決して変声期を迎えることがなくなった大人の「男性」歌手、カストラートのことなのです。もちろん、モーツァルトの時代には華々しい活躍をしていたそのような「男性」はもはや存在してはいませんから、ここで歌っているマニアチという人は、生まれながらにしてそのような特殊な声を獲得していたのでしょうね。話には聞いていた「男性の力強さを備えた、輝かしい女声」が、実際に体験できるのでしょうか。
しかし、まず、録音自体が今までのボストン・バロックで聴かれたいかにも鈍いものであったことで、彼の声がなんともフワフワした弱々しいものとして聞こえてきた時点で、軽い失望感を抱くことになります。それは、例えばドミニク・ヴィスのような突き抜ける声をある程度期待していたことへの反動なのかもしれませんが、それは「力強さ」などはどこにも感じることは出来ないものでした。
しかし、カストラートが最も得意としたはずの華々しいコロラトゥーラのキレの良さに関しては、いかに録音が悪くても評価は出来るはずです。ここでの彼の「技」は、どうひいき目に見ても「華々しさ」にはほど遠いもののように思えます。「ティト」でのセストのアリア「Parto, ma tu ben mio」などは、さんざん聴いた「女性」のカサロヴァの方が「華々しさ」でも「力強さ」でも数段勝っています。オブリガートのクラリネットも、なんだかへなちょこですし。
彼の声につきまとうなんともはかなげなビブラートは、彼の歌から「力強さ」が感じられない最大の要因なのではないでしょうか。いつだったか、まだ生きていたカストラートの歌を録音したものを聴いたことがありますが、そこで味わったのがちょうどこんな感じ、もしかしたら、マニアチは別の意味で真実のカストラートの姿を現代に蘇らせていたのかもしれませんね。

CD Artwork © Concord Music Group, Inc.

2月8日

BACH
Matthaus-Passion
Johannes Chum(Ev), Hanno Müllert-Brachmann(Je)
Christina Landshamer(Sop), Marie-Claude Chappuis(Alt) Maximillian Schmitt(Ten), Thomas Quasthoff(Bas)
Riccardo Chailly/Gewandhausorchester
Thomanerchor Leipzig, Tölzer Knabenchor
DECCA/478 2194


2009年の4月に録音された最新の「マタイ」は、なんとリッカルド・シャイーがゲヴァントハウス管弦楽団を指揮したという、バリバリのモダン楽器のチームの演奏でした。メンゲルベルクの時代ならいざ知らず、誰しもがオリジナル楽器というものを知ってしまった今の時代に、この曲をモダン・オーケストラが演奏するのはかなり勇気の要ることです。あるいは、シャイーには、そんな世評に一矢を報いるだけの勝算があったのでしょうか。
そのヒントは、このCDの枚数にあらわれています。ふつうこの曲を収録するためにはCDだったら3枚は必要、しかし、このシャイーの演奏はなんと2枚に収まってしまっていますよ(トータル・タイムが16010秒)。今まで聴いた中で最も短かったのが、同じく2枚組み、マクリーシュ盤16132秒なのですから、これはもしかしたら世界最速の「マタイ」なのではないでしょうか。しかも、マクリーシュ盤は「OVPP」という最新スペックを採用、人数が少ないからこそ出来うるその軽やかなテンポには度肝を抜かれた記憶がありますから、それよりも早いテンポ設定というだけで、なにか期待出来そうな予感が。
果たせるかな、第1曲目の合唱は、まさにモダン・オケ陣営にしてはとんでもない早さでした。エヴァンゲリストによるレシタティーヴォはモダンであろうがオリジナルであろうがそんなにテンポが変わることはありませんが、アリアなどもあまりもたつかない歌手たちの功績もあって、かなり快適に運ばれます。しかし、中には13番のソプラノのアリア「Ich will dir mein Herz schenken」のように、イントロのオーボエ・ダモーレによるデュエットがあまりに速すぎて歌手がそれに合わせられないような場面も見られましたね(合わせてたもーれ)。あ、これはゲヴァントハウスでのライブ録音、こんなことも起こります。
テンポ感はともかく、ラントシャマー(ソプラノ)、シャピュイ(アルト)、シュミット(テノール)あたりの歌は、まさにオリジナル楽器の世界でも十分に通用するしっかりとした時代様式を持ったものでした。特にシャピュイは、必要以上に暗くならない音色がとても魅力的です。ただ、バスのクヴァストホフだけは、他の人から浮いてしまっているような「臭さ」が、ちょっと気になります。
そこまでの違和感を、この大御所がもたらしているのは、オーケストラがバッハ時代の様式を取り入れようと努力、ほぼ完璧にそれを成し遂げていたせいもあります。そう、このライプツィヒのオーケストラは、単にテンポだけではなく、奏法や表現まで18世紀のライプツィヒを再現すべく、普段のレパートリーに向けるものとは異なる努力をひたすら行っていたのです。弦楽器は完全なノン・ビブラート、第2部の初めのあたり、39番のアリアのオブリガートなどは、音色といいフレージングといいまるでバロック・ヴァイオリンを聴いているような錯覚に陥るほどです。フルートだって負けてはいません。49番の「Aus Liebe will mein Heiland sterben」という、最高に美しいソプラノのアリアのオブリガートでは、これもトラヴェルソではないかと思えるほどの完璧なノン・ビブラートとフレージング、よくぞここまで、という感じです。
もちろん、シャイーたちがここで試みたのは、単にバロック時代の様式を模倣したことだけではなかったはずです。例えばコラールでの、まさに息詰まるほどの切迫した「モダン」な表現などは、そんなある意味ストイックな試みとは見事な対比を示して、思わず興奮を抱かずにはおかないものです。それを成し遂げた2つの合唱団も立派、ここではトマス教会合唱団と、テルツ少年合唱団の2つの団体がクレジットされていますが、それはどのような分担だったのでしょう。テルツはリピエーノだけだったのでは、という気もするのですが、ブックレットからの情報では、それは決して分かりません。

CD Artwork © Decca Music Group Limited

2月6日

DUBRA
Choral Music
Rupert Gough/
The Choir of Royal Holloway, University of London
HYPERION/CDA67799


バルト3国と呼ばれているバルト海に面した3つの国、エストニア、ラトヴィア、リトアニアは、ともに「合唱王国」と呼ばれるほどの合唱が盛んな国々です。世界的に有名な合唱団もたくさん存在しているのは、ご存じの通りでしょう。もちろん、作曲家もエストニアのトルミスやペルトなどは今では確固たる地位を築き上げ、多くの団体がその作品をごく日常的に演奏するようになっています。
1964年生まれ、まだ若手のラトヴィアの作曲家リハルト・デュブラ(もちろん男性、ノーブラです)も、そんなブレイク寸前の存在なのかもしれません。合唱関係者の間ではすでにかなりの知名度が得られているものが、このようにHYPERIONレーベルで紹介されるようになれば、さらに多くの人に聴かれることになることでしょう。
自身も敬虔なカトリック教徒で、リガの教会のカントールも務めているデュブラの、これはラテン語によるモテットやミサを集めたアルバムです(1曲だけは英語)。演奏しているのは、あまり馴染みのない合唱団ですが、実は以前ご紹介した、NAXOSから出たカーソン・クーマンの合唱作品集で歌っていたのですね。ロンドン大学の数多くのカレッジの中でも最大のもの、ロイヤル・ホロウェイの学生による聖歌隊です。なんでも、ここの卒業生はイギリスの名だたる合唱団、例えば「ザ・シックスティーン」、「タリス・スコラーズ」、「ガブリエリ・コンソート」、「テネブレ」、「オクセンフォード・クラークス」などのメンバーになっているのだそうです。こういうのを見ると、イギリスの合唱音楽の底辺の広さをまざまざと感じさせられますね。
クーマンの時には、曲も曲ですし、オルガンの伴奏がやかましくてなかなか合唱団の素の声が分からなかったのですが、ここでア・カペラの演奏を聴くと、あの時かすかに感じたピュアなサウンドが、くっきりと広がっているのが味わえます。女声パートが、まるで少女合唱のように無垢な感じなのですね。ただ、それは時として表現の幼さにも通じるという、かなり危ないところでの勝負になるのですが、デュブラの作品の場合は、かろうじてそれが良い方に作用しているのではないでしょうか。
そう、彼の作品は、表面的にはそれほど「表現」というか、強くなにかを訴える、といったことに重きを置くものではないように聞こえてきます。「ネオ・ロマンティシズム」とか、「聖なるミニマル」、あるいは「ヒーリング」といったさまざまなタームでくくられている、現在の音楽界のほとんど「主流」と言ってもかまわない、極めて耳に心地よい和声とメロディ・ラインを持つ音楽の、ひとつの典型なのではないか、と。
このアルバムの中で最も初期の作品、1989年に作られた「Ave Maria I」などは、まさに「ロマンティック」そのもの、シューマンやメンデルスゾーン、あるいはブルックナーの曲だ、といって聞かせても信じられてしまうほどの「伝統的」な作風です。しかし彼は、もちろんそこにとどまって、ただの「ロマンティスト」であり続けるほどの愚かな作曲家ではありませんでした。同じテキストで1994年に作られた「Ave Maria III」では、冒頭からテンション・コードのパルスによる変拍子のオスティナートが出現するという、完全に「現代的」な手法に変わっていたのです。それは、ソヴィエト連邦が崩壊して、音楽を巡る環境が一変したことの、端的な表れなのでしょう。
2001年に作られた、アッパー・ヴォイス(つまり女声)とオルガンのためのミサ曲あたりになると、そんな時代を超えたロマンティシズムは、彼の固有の語法として成熟を見せています。流れるような合唱に絡むいかにもミニマルっぽいオルガン、そして、最後「Dona nobis pacem」で出現する、ループによる混沌、そこには、心地よさを遮らないだけの、さりげない「主張」までも感じることができます。

CD Artwork © Hyperion Records Ltd

2月4日

MOZART
Mass in C minor・Requiem
Gabriele Hierdeis(Sop), Alison Browner(MS)
Marcus Ullmann(Ten), Marcus Volpert(Bas)
Volker Hempfling/
Kölner Kantorei
Johann Christian Bach-Akademie
AVI/8553147


ドイツのヘッセン州リンブルグにある、13世紀頃に作られたという大聖堂で2006年3月に行われたコンサートのライブ録音です。ブックレットには、この大聖堂が美しくライトアップされている写真がありますね。曲目はモーツァルトの最も演奏頻度の高い宗教作品でありながら、どちらも未完のままで終わっている「ハ短調」と「レクイエム」の2曲のミサ曲、「未完」ですから、当然誰かが補作をしているわけですが、「ハ短調」はランドン、「レクイエム」はバイヤーによる版が用いられています。北島三郎ではありません(それは「与作」)。
演奏しているのはあまり聞いたことのない団体ですが、なんだか指揮者の名前に覚えがあったので調べてみたら、こんなアルバムを前に紹介していました。ここで歌っているのと同じ合唱団、これでニューステットの名前を初めて知ったのですが、なかなか手堅い演奏だったことを思い出しました。しかし、オーケストラは、全く初めて聞く団体です。1991年に作られたオリジナル楽器によるアンサンブルですが、この演奏の直後、2007年には「CONCERTO CON ANIMA」と名前を変えているのだとか。
広い大聖堂で録音されていますから、音が切れたあとの残響は確かに多いのですが、音自体は非常にすっきりとしています。合唱とオケのバランスも良く、ライブであることを感じさせない高いクオリティであることに、まず惹きつけられます。そして、このオーケストラの、オリジナル楽器の鋭角的な音色を前面に出したサウンドが、これらの曲にとても深い陰影を与えていることにも、気づかされます。まず、「ハ短調」では、そんな暗く厳しい音楽が強烈に迫ってきます。その中で、ティンパニが打ち込む一撃が心に突き刺さります。ただ、「Et incarnates est」でのフルート・ソロは、いくらトラヴェルソとは言っても、他の管楽器より明らかにランクの落ちる奏者のようでした。
合唱も、とことん暗さを前面に出したクールさに徹しています。そんな中で、ソリスト陣の調子がイマイチなのは、ライブならではの傷なのでしょうか。音程は決まらないし、細かいメリスマがことごとく乱れているのはかなり悲惨。
一応「ランドン版」と謳ってはいますが、さすがに「現代」では通用しないような部分は、適宜エーダー版を取り入れているのでしょうね。「Sanctus」の合唱の入りも、エーダー版の形になっていました。
「レクイエム」では、そんなクールな音楽の中に、さらに自発的なものが加わって、よりグレードの高い仕上がりになっています。それを象徴するのが、大活躍を見せるティンパニです。「Kyrie」の最後の部分、なんだかものすごい盛り上がりだと思って楽譜と照らし合わせてみたら、クラシックではあり得ないようなフィル・イン(いわゆる「おかず」)をたんまり入れているんですね。こちら(→音源)がバイヤー版の楽譜通りの演奏ですが、ここではこんな風(→音源)に前打音を入れたり、音符を細かくしたりしています(ちなみに、前の音源は1974年のシュミット・ガーデンによるバイヤー版の初録音ですが、ヘンプフリンクの演奏より半音近く高い殆どモダンピッチです。この時代の「オリジナル」が、いかに折衷的であったかが分かります)。このような「装飾」が、指揮者の指示なのか、あるいはティンパニ奏者の自発的なアイディアなのかは分かりませんが、20世紀に作られたバイヤー版でも、このような18世紀的な処理が加えられるようになった、というのはなにか感慨深いものがあります。この流れで「Dies irae」へなだれ込むのですから、緊張感はいやが上にも高まってきます。
ソリストも、アンサンブルが中心なのでかなりの安定感、もちろん合唱はハイレベルを保っていますから、これはなかなかの聴き応えのあるものになっていますよ。

CD Artwork © Kölner Kantorei

2月2日

オーケストラが好きになる事典
緒方英子著
新潮社刊(新潮文庫)
ISBN978-4-10-130381-9

しばらく前から、「クラシック音楽」が「ブーム」になっているのだそうです。確かに、あの「のだめカンタービレ」あたりが一つの契機となって、確実に新しいファン層が広がってきているのは間違いのないことなのでしょう。この本は、そんな「のだめ」がそろそろ注目され始めたかな、という、まだブレイクにまでは至っていなかった2003年に出版された「オーケストラ楽器おもしろ雑学事典」を改題、さらに広い読者層を対象とした文庫本としてリニューアルされたものです。しかし、著者は文庫化にあたって、かなり大幅な加筆を施した、ということなのですね。なんでも、この中で取り上げられているオーケストラの団員たちへのインタビューを、すべて新しいものに差し替えた、というのです。忙しい時間を割いてくれたプレーヤーに逐一インタビュー、それを原稿に起こすという、恐ろしく手間のかかる作業をあえて行ったのは、もしかしたら「のだめ後」を意識したものだったのかもしれませんね。確かに、マンガ→テレビドラマやアニメ化→映画化といった一連の動きに伴って、「クラシック音楽」を取り巻く状況は「のだめ前」とはガラリと変わってしまいましたから、以前のインタビューなどはかなり古く感じられてしまうのでしょう。あいにく、前作は入手していないのですが、機会があったらぜひそのあたりを比較検討してみたいものです。
例えば、茂木大輔さんの著作に見られるように、実際に音楽の現場で華々しい活躍をしている演奏家の体験からは、間違いなく、決して門外漢には知ることの出来ない興味のある事実を知ることが出来ます。そんな知識を、すべての楽器の演奏家(いや、その他に指揮者や作曲家まで)からの体験から引き出そうとしているのですから、この著作がいかに膨大な情報にあふれているかは想像に難くありません。事実、フルートに関しては、金属製の楽器についてはかなりマニアックなことまで知っているつもりでいても、ここに登場するN響の神田さん(駅の伝言板に「金太待つ、神田」と書いた人ですね)が、ご自身の木製の楽器について語られているのを読むと、実際にそのような楽器を使っていなければ決して分からないトラブルがあるものだと、感じ入ってしまいますし。
もちろん、微妙なところで、いかにリサーチを行ってもカバーできなかったところが出てくるのは、やむを得ないことなのでしょう。クラリネットに関する項目が、そんな、ちょっと「?」を感じてしまう部分です。そもそも、最初に載っている楽器の写真が左右反対、「裏焼き」の画像なのですからね(銀塩写真のネガを裏返すことはかつては良くあったのでしょうが、デジタルの画像を裏返すのは、逆にかえって手間がかかることなのに)。そして、「ドイツ式」の楽器についても、「ハンマーシュミット(中黒は入りません)」や「ヴリツァー」というメーカー名を出す前に「ベーム管」に対して「エーラー管」という概念を提示すべきなのでは、と思うのですが。また、リガチャーにひもを用いるのも、必ずしもドイツ式の特徴ではないような気もしますし。
いや、そもそも、すべての楽器について完璧な知識を持つことなど、あり得ませんので、そんな些細なことは見逃すべきでしょう。なんたって、指揮者の飯森さんが語る「オーケストラの事故」など、興味深い話が満載なのですからね。クラリネット奏者が「ボレロ」のソロを1拍長く吹いてしまったために、それが他の奏者にまで伝染してしまったなどというエピソードは、とても他人事とは思えませんよ。なにしろ、チャイコフスキーの交響曲第1番で、フルートソロが1小節早く出てしまったら、それに続くオーボエとクラリネットのソリストまでが仲良く同じミスを繰り返した、という現場に居合わせたことがあるものですから。

Book Artwork © Shinchosha Publishing Co., Ltd.

1月31日

POULENC
Concertos for Keyboard Instruments
Hansjörg Albrecht(Org)
Yaara Tal, Andreas Groethuysen(Pf)
Peter Kofler(Cem)
Babette Haag(Perc)
Bach Collegium München
OEHMS/OC 637(hybrid SACD)


オルガニストであり、指揮者でもあるアルブレヒトのアルバムは、常になにか刺激的なものを与えてくれます。同じパターンのジャケットのデザインも的確なワンポイントが効いているしゃれたものになっていますし。今回は、「鍵盤楽器のための協奏曲」というタイトル自体が、ここではすでにひとひねりある二重の意味を持っています。オリジナルの形で演奏されるのは、「オルガン、弦楽器とティンパニのための協奏曲」だけ、あとの「2台のピアノとオーケストラのための協奏曲」と、「チェンバロとオーケストラのための田園協奏曲」は、その「オーケストラ」のパートがオルガンで演奏されているのです。つまりそこでは、「鍵盤楽器だけの協奏曲」という意味も持っているのですね。どこを探しても、このオルガンバージョンを作った人の名前が見当たらないのですが、おそらくアルブレヒト自身の編曲なのでしょう。
その、「鍵盤楽器だけ」(いや、正確には打楽器も加わります)が録音されたのは、ミュンヘン音楽大学のホールです。そこのオルガンは1999年に出来たばかりのごく新しいクーン・オルガン。とてもエッジのきいた、鋭い音が随所に聴ける、かなり活きの良い楽器です。フランス風のストップもたくさんあるようで、とても多彩な音色、「パイプオルガン」というよりは、「エレクトーン」みたいな音に聞こえてしまうのは、いけないことでしょうか。
そのような、言ってみれば「機能的」な楽器ですので、それがオーケストラの代役を果たすのにはなんの不足もありません。最初の「2台のピアノ」では、それに打楽器が加わった編成でまるでオルフの「カルミナ・ブラーナ」みたいなサウンド(実際に、エレクトーンと打楽器で演奏されたものを聴いたことがあります)が響き渡ります。
この曲の第2楽章は、ピアノのパートがまるでモーツァルトのパロディのように出来ています。それに対してオーケストラのパートはいかにもフランス風のしゃれた味付けなので、その対比がとても面白い効果を出しています。この編成では、それがさらに強調されたように感じられ、なんとも不思議な世界が広がります。
「田園協奏曲」は、プーランクがランドフスカのために作ったものですから、想定されていた楽器は当然プエイエルのモダンチェンバロでした。そこで、アルブレヒトがチェンバリストのコフラーに使わせたのは、やはりモダンチェンバロの名器、カール・リヒターがよく使っていたノイペルトの「バッハモデル」でした。この楽器、まだ製造されているのですね。1台39,000ユーロですって。

このチェンバロの威力はすごいものです。プーランクがあの時代に求めた「繊細さ」というのがどういうものであったのか、とても良く分かるような気がします。やはり、この微妙に倒錯した味は、「本物」であるはずのヒストリカル・チェンバロでは出すことが出来ないことを再確認です。
「オルガン協奏曲」の録音では、ミュンヘンの「ガスタイク」という大きなホールが使われています(ベタですが、「ガスタンク」ではありません)。備え付けのクライス・オルガンは、4段鍵盤を持つ巨大な楽器、ここではアルブレヒトは指揮もしていますから、オルガンのコンソールをステージと客席の間に持ってきて、「弾き振り」をしています。これも、もろバッハのパロディであるイントロでの、フルオルガンの充実した響きには圧倒されます。そして、それにからみつく弦楽器の粒立ち。そう、常に彼のアルバムの録音を担当してきたマルティン・フィッシャーの腕の冴えは、ここでも満開です。続くアレグロのテーマは、なんともドイツ的でストイックな味付けが印象的です。その小気味よさの中から自ずと漂うプーランクの際立ったセンスの良さ、極上の録音と相まって、至福の時を過ごすことが出来ますよ。

SACD Artwork © OehmsClassics Musikproduktion GmbH

1月29日

JANEQUIN
Le Chant des Oyseaulx
Ensemble Clement Janequin
JVC/JM-XR24500(XRCD)


1978年にカウンター・テノールのドミニク・ヴィスが中心になって作られた「アンサンブル・クレマン・ジャヌカン」が1982年に録音した、彼らの多分3枚目のアルバム「鳥の歌」が、装いも新たにXRCDとなって登場しました。北島三郎ではありません(それは「トリの歌」)。
このアンサンブルは、ヴィス以外のメンバーは適宜入れ替わって、現在でも活動を続けていますね。デビュー当時のヴィスは、まるで妖精、というか小悪魔のような風貌でしたが、それがそのまんま大きくなって、今ではほとんど老婆といった趣になってしまいましたね。それでも、彼の特徴的な声はいつまで経っても変わらず、その突き抜けるような音色は常にインパクトを与え続けています。
このアルバムは、国内盤としては彼らのデビューとなったものでした。1985年にLPで、翌1986年にはCDで、今回と同じ「ビクター」からリリースされています(会社の名前は「ビクター音楽産業」から「ビクター・クリエイティブメディア」に変わっていましたね)。その頃はビクターがHARMONIA MUNDIの国内盤を出していたのですね。このアルバム自体はそれ以前に輸入盤では出回っていて、当時のオーディオ界のオピニオン・リーダー、故長岡鉄男さんが大々的に録音の良さを紹介していたものですから、LPのリリースにあたっても「重量盤」を採用するなど、オーディオ的な側面を強調したものになっていました。長岡さんの「口の開け方まで分かる」というコメントも、宣伝コピーとして使われていましたね。ちなみに、その頃はこのグループの「邦題」は「ジャヌカン古楽アンサンブル」などという、とてもヴォーカルのアンサンブルとは思えないようなものでした。
ビクターが過去に扱っていたからなのでしょうか、だいぶ前にも同じレーベルのパニアグワの「タランテラ」など、やはり長岡さんご推薦のアイテムがXRCDになったことがありますが、今回ついに「ジャヌカン」が杉本さんのリマスタリングで聴けるようになりました。長年愛聴してきたアルバムが、最高の音質で聴けるのですから、まるで夢のようです。
実は、これは今までにLPで聴いたことはありませんでした。聴いていたのは輸入盤のCDです。国内盤とはジャケットが微妙に違っていますね。

その頃使っていた再生装置では、ヴィスの特徴的な声はそれなりに再生されていて、後に彼の参加した殆どすべてのCDを集めてしまうほど、その魅力にとりつかれることになるのです。しかし、今回同じCDを、今使っているかなり解像度が高いと自負している装置で聴いてみると、そのヴィスの声が完全に歪んでしまっているのです。そもそもオリジナルの録音が、アナログのギリギリのレベル設定だったのでしょうか、初期の、殆どマスタリングなどは考慮されていないCDでは、それがまざまざと「歪み」となって出てきてしまっていたのですね。
しかし、さすがはXRCDCDで「歪み」と感じられた同じ場所が、なんともきわどい、まさに崩壊する一歩手前という感じの豊穣さとして、聞こえてきたのです。アナログ録音の最後の輝きをテープに収めていたエンジニアの心意気のようなものまで、ここからは感じることが出来たという、これは、なんともスリリングな体験でした。もしかしたら、LPだったら生半可なレコードプレーヤーではトレース出来なかったのかもしれませんね。
もちろん、メンバーひとりひとりの声が、しっかりとした存在感を持って聞こえてくるという、いつもながらの杉本さんの仕事ぶりは健在でした。そこで、長岡さんの言った「口の開け方」も、余裕を持って体験できることになります。タイトル曲の途中のたくさんの鳥の声の模倣の部分では、テノールのラプレニーの「巻き舌」は、「舌」ではなく「のど」を震わせて出していることまではっきり分かるのですからね。

XRCD Artwork © Victor Cerative Media Co. Ltd.

おとといのおやぢに会える、か。


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