減少、公娼局。.... 佐久間學

(10/1/8-1/27)

Blog Version


1月27日

Believe
Orianthi
GEFFEN/B001350202


昨年大きな話題を呼んだ映画、「This Is It」はご覧になりました?マイケル・ジャクソンが亡くなるほんの少し前まで行っていたロンドン公演のためのリハーサルの模様を記録したドキュメンタリーでしたね。なにかとスキャンダルが多かった中で、ともすればミュージシャンとしてのマイケルが忘れられがちになっていた時に、この映画では彼の本来の音楽家としての姿が見事に描かれていました。
そんな、彼の音楽作りの現場で、ひときわ印象的なギタリストがいたことも、ご覧になった方は覚えていることでしょう。マイケルのサウンドを担っている居並ぶいかつい男どもに臆することもなく、堂々とソロを弾きまくっていた長い金髪の女性ギタリスト、彼女の名前はオリアンティ・パナガリス、ギリシャとオーストラリアのハーフなのだそうです。ウェーバーとは関係ありません(それは「オイリアンテ」)。1985年1月22日生まれといいますから、先週25歳になったばかりという、ピチピチのギャル(死語)なんですね。映画の中では、マイケルと向かい合ってギターソロのフレーズを何度も何度もやり直しているシーンが、強烈に記憶に残っています。マイケルが一生懸命「こんな風に」と歌って聴かせても、オリアンティはなかなかその通りには出来ないのですが、最後にはマイケルの望んだとおりのフレーズが出てくる、という、スリリングなまでに感動的なシーンでした。その時の、金髪を振り乱しての彼女のパフォーマンスに、思わずファンになってしまった人は多いのではないでしょうか。
そんな、「シンデレラ・ガール」のソロアルバムが、昨年秋にリリース、国内盤も確か今日発売になったはずです。とは言っても、これは別に彼女の最初のアルバムではなく(国内盤は、これがデビューになります)、すでに何年か前にファーストアルバムは出ていますし、マイケルのバンドに加わったのも、それなりのキャリアがあったからです。しかし、映画によって火がついた彼女の人気、これは前作とは比べものにならないほどのセールスとなることでしょう。
ボディにスワロフスキーを貼りつめた彼女の愛器PRSを抱えて佇むジャケット写真は、濃いアイラインのいかにも「ヤンキー」といった感じ、それこそメタルなどにふさわしいいでたちですが、聞こえてきた音楽はそんなにヘビーなものではありませんでした。ここでは、彼女はギタリストであるとともに、ヴォーカリストでもあったのです。その歌声は、ほのかにはかなさを漂わせた、とてもかわいらしいものでした。ギターソロから連想されるような、喉を振り絞っての絶叫、みたいなものは全くありません。ブックレットの中のポートレイトには、1枚だけ楽器を抱えていないものがあります。それはメークも控えめで、ごく普通の服装をした、その辺にいるような女の子、といった素朴な写真です。そんな素顔が、ヴォーカルからは見え隠れしてきます。しかし、もちろんそれだけではなく、いかにも「ロックンロール」というハードな歌い方に徹したものもあります。間口は、充分に広いのですね。
ギターの方も、お得意のディストーションを効かせたソロだけではなく、「Untogether」のように、まるで彼女の「師匠」であるカルロス・サンタナのようなキャッチーななサウンドを聴かせてくれるものもありますから、キャパシティはかなりのものです。そして、1曲だけヴォーカルの入らないインスト曲が「Highly Strung」。ここでは、もう一人の「師匠」のスティーヴ・ヴァイとの息のあったバトルが堪能できますよ。2度目のバトルでとんでもないフレーズが出てくるのは、まさに余裕ですね。
そして、最後に収録されているのが、亡きマイケルのために書いたという「God Only Knows」です。「まだ、あなたが必要なんです」という歌詞が聞こえてきたとき、不覚にも涙が出てきたのはなぜでしょう。ロックを聴いて泣いたなんて、初めての体験です。

CD Artwork © Geffen Records

1月25日

The Chick Corea Songbook
The Manhattan Transfer
4Q/FQT-CD-1819


40年近くという長い歴史を誇るジャズコーラスグループ、マンハッタン・トランスファーの最新アルバムです。所属レーベルも、かつてのATLANTICSONY、そして最近のRHINOとあちこち転々とした末に、今回は「Four Quarters」というワールド・ミュージックなどを主に扱っているレーベルからの登場です。
裏ジャケット(「ライナー」っていうんでしたっけ?)やブックレットには、最近のメンバーの写真が載っています。ティム・ハウザーあたりは元々老け顔でしたからあまり変わってはいないように見えますが、ジャニス・シーゲルなどは、集合写真を見てみるとほんとに「おばさん」というか、「老婆」っぽい顔になってしまったのは、時の流れのなせる業でしょうか。ブックレットの最初のページにある網タイツ姿のスナップなどは、顔がよく見えないせいかとてもセクシーだというのに。アラン・ポールも、髪には白いものが混じっていますね。シェリル・ベンティンだけは、いつまで経っても若さが弾けています。いったい彼女は何歳なのでしょう。
このアルバムでは、タイトルにある通りすべてチック・コリアの曲をカバーしたものが集められています。このジャケットを見ると、なんだかチック・コリアのかつてのアルバムを飾っていたさまざまなモチーフが登場しているようで、面白いですね。さらに、カバーだけではなく、このアルバムのためにチックは「Free Samba」という曲まで書き下ろしていますし、その中では彼自身が演奏にも参加しています。なんと豪華な。
その「Free Samba」、ブラジルのジャングルを思わせるような叫び声から始まる、まさにブラジル色満載の曲です。彼らのATLANTIC時代、1987年のアルバムに「Brasil」というのがありましたが、それを思い出させるようなちょっと哀愁が漂う曲、確かにチックは彼らの特質をよくつかんだ曲作りをしています。
おそらく、この中では最も有名なナンバーである「Spain」は、オリジナルのようにロドリーゴの「アランフェス協奏曲」のテーマが、最初に挿入されます。ガットギターのソロ(とても素敵な音色!)に乗って、まるで「スウィングル・シンガーズ」のようなコーラスが響きます。そして、いよいよ本編、あのスリリングなユニゾンを彼らはどのように料理しているのか、期待を込めて聴き進みます。と、それは、いともゆったりとしたビートに乗った、なんともユルい音楽でした。今風の重心の低い独特のノリのあるリズムには違いないのですが、こんなテンポではオリジナルの持つ息詰まるような緊張感など、出るわけがありません。まるで鼻歌のように、あのサビの複雑なリズムをスローモーションでこなしている彼ら、もはや彼らには、かつてのような一糸乱れぬアンサンブルなどは期待できないのでしょうか(一糸まとわぬ姿なら・・・)。正直、ここではかなりの失望感を味わってしまいました。
そうなってくると、かなりハードルを下げたところでの彼らとの対峙となるのもやむを得ません。残る期待は「Children's Song」でしょうか。お馴染み、チック自身も録音していましたし、クラシックのピアニストも取り上げることもあるというちょっと不思議な、(たとえば「現代曲」っぽいといったような)肌触りのソロ・ピースから、15番と1番が、ここではあまり厚くしないアレンジで、声も楽器のように扱われて録音されています。これは期待通りの面白さでした。15番はマリンバとフルート、1番ではピアノだけという編成で、メンバーがいかにも唐突なメロディを楽しみながら紡いでいる姿が、素敵です。
もはや、それほど高度なことは期待できなくなった彼らですが、音楽そのものを楽しませる力はまだまだ健在です。あえて「コーラス」にはこだわらないで接すれば、まだまだ応分の喜びは与えてもらえることでしょう。

CD Artwork © Four Quarters Entertainments, Inc.

1月23日

ピアニストという蛮族がいる
中村紘子著
中央公論新社刊(中公文庫)
ISBN978-4-12-205242-0

中村紘子さんが20年近く前に文藝春秋社から出版したこの単行本は、そのすぐ後には同じ出版社から文庫となって登場、中村さんの他の著作同様、音楽関係者だけではない広い読者層を獲得している書物となっています。昨年デビュー50周年を迎えたという記念の年に便乗したのでしょうか、今回別の出版社から新たに文庫本として再登場しました。
さまざまなピアニストの、ほとんど評伝と言っていい詳細な描写によって埋め尽くされているこの本は、中村さんの「物書き」としての卓越した技量を余すところなく世に知らしめるものです。ほんと、天は彼女にピアノを演奏する能力と文章を書く能力の両方を最大限にお与えになったのですね。おっと、もう一つ、まさに城を傾けるほどの美貌までお与えになっているのは、ご存じの通りです。いやあ、もはやとっくに還暦などは過ぎているというのに、あの美しさはどうでしょう。さらに大家としての貫禄まで。
ここで取り上げられているピアニスト、最初のうちはホロヴィッツとかラフマニノフといった、まさに大ピアニストたちですから、特にここで読まなくても、他にいくらでも資料がありそうな気がします。もちろん、そんな資料を駆使した、まさにピアニストならではの鋭い視線は、ここでしか味わえないものなのでしょう。
しかし、そのあとの、明治時代、まさに日本が西洋音楽を初めて取り入れた時の先駆者となった2人の女性について描かれた部分は、なんとも言えない迫力を伴うものでした。まず、名前だけは知っていても、その素顔にはなかなか接することの出来なかった幸田延については、演奏家、指導者としての華やかな経歴とともに、あまりに日本的な理由での失脚にいたるまでの経緯が、詳細に描かれています。そこには、まさに、同じ女性としてトップを極めた中村さんならではの視線が感じられます。
そして、名前も知らなかった久野久の生涯が語られるときには、その、事実のみが持ちうる重みによって、ドラマティックな感動を味わうことになります。日本にいるときこそ、最大の讃辞を浴びた彼女のベートーヴェンの演奏が、ヨーロッパではなんの価値もない、ほとんど初心者と変わらない拙いものであることを悟ったという、とてつもなく残酷な現実、これを、中村さんはご自身の体験とも重ねることによって、痛々しいほどに描ききっています。
それにしても、邦楽しか学んだことのなかった少女が、音楽大学に入るために西洋のクラシック音楽をいきなり勉強して、それがそこそこ(もちろん、ただならぬ努力があってのことですが)通用してしまう当時の日本のクラシック事情というのは、なんともものすごいものだったのですね。その力が「本場」では全く通用しないことを悟って自ら命を絶ってしまうほどの犠牲が、今の「クラシック」の隆盛を、もしかしたら支えているのかもしれません。
しかし、同じように幼少の頃は何一つ「クラシック」の素養のなかった少女が、初めてピアノに触れた時にいきなりその才能を開花させるという、オーストリアのタスマニア島出身のアイリーン・ジョイスの評伝に立ち会うとき、そこに久野とは根本的に異なるなにかを感じるのは、もしかしたら中村さんの巧妙なトリックのせいなのでしょうか。同じく、未知なものとしての「クラシック」に対して、ジョイスは久野に比べたらいともたやすく成功を勝ち取ることが出来ました。そこには、西洋人が作り上げてきた「クラシック」という文化の、本質的な特性が隠されているのでは、とは感じられないでしょうか。あたかも世界共通、グローバルであるかに見える「クラシック」、しかし、実際にはそれは東洋の島国の人間の持つ「文化」あるいは「精神構造」、もっと言えばDNAを真っ向から拒んだ上に成り立っているものなのかもしれませんね。

Book Artwork © Chuokoron-Shinsha, Inc.

1月21日

デューク・エイセス55周年記念盤
デューク・エイセス
EMIミュージック・ジャパン/TOCT-26955・56

今年2010年は、1955年に結成されたコーラスグループ、「デューク・エイセス」がなんと55周年を迎えるという記念の年です。その間、バリトンの谷さんはずっと「勤務」されていたのですから、すごいものですね。谷さんだけでなく、セカンドテナーの吉田さんやベースの槇野さんも、ほんの2〜3年目に「入社」していますから、殆ど同じ職歴です。ただ、トップテナーだけは、和田さん、小保方さん、谷口さん、飯野さん、そして現在の大須賀さんと、5人もの人が今までに「務めて」いたことになります。
これは、そんな55年の歴史を、その間に作られた日本語の歌を通して振り返ろうという壮大なコンセプトのベストアルバムです。収録時間は2枚合わせて15831秒、CDの規格いっぱいです。すごい企画ですね。谷さんのライナーノーツに「五代にわたるトップテナーの声」とあるように、なつかしい初期のお二人の声もしっかり味わえますよ。
ただ、そんなメンバーの変遷をあらわす貴重な写真はあるものの、肝心の曲が録音された年代が全く記載されていないのは、とても残念なことです。5人のトップテナーたちのそれぞれに個性的な声を聴き分ける裏付けとしての録音データは、ぜひとも必要なものでした。デューク・エイセス歴は長いと自負していても、和田さんが歌っているのは「寿限無の嘆き」1曲だけなのか、あるいは飯野さんが参加している曲も「死んだ男の残したものは」1曲だけなのかというのは、いまいち自信が持てないものですから。
興味深いのは、彼らの最初のヒット曲「おさななじみ」が、それぞれの時代に応じて新たに2つのバージョンが加えられていることです。オリジナルはもちろん1962年の、「夢であいましょう」の中で生まれた曲、トップテナーは小保方さんでしょうね。「続・おさななじみ」になると、歌詞の内容から1970年代の初頭に作られたことがうかがえます。トップはもちろん、デュークの全盛期を支えた谷口さんです。そして、「おさななじみ・・その後」というのがこのアルバムのための新録音、トップは昨年新しく加入したばかりの大須賀さんですね。歌詞はともかく、アレンジなどがそれぞれに時代を反映していてまさに日本のポップスの歴史を見る思いです。そして、コーラスですが、確かにトップの違いによる変化はかなり大きいものの、まわりの3人の力が、そのトップをしっかりと支えているということが良く分かります。これが、彼らの力なのでしょう。たとえメンバーが替わったとしても、底に流れるものは決して変わらないという確固たる彼らの信念を見る思いです。
とは言っても、全45曲中35曲にまで参加している谷口さんの声は、やはりデュークが最も輝いていた時代を反映しているものでしょう。谷さんのバリトンとの2声部がしっかり基礎になった鋼のように強固なハーモニーは、おそらく日本のコーラスグループが到達した最高の成果として、これからも語り継がれていくことでしょう。さらに、谷口さんのソロの味わい深いこと、今回初めて聴いた、1987年の石川優子のペンになる「星の旅人たち」での彼のソロは、涙が出るほどの素晴らしさです。もちろん、それは彼のまわりを包み込むタイトなハーモニーがあればこそ成し遂げられたものであることは、言うまでもありません。
LPでさんざん聴きまくった、「DUKE'20」シリーズの中の「虞美人草」(1975年のアルバム「望郷抄」収録曲)も、谷口さんのソロとともに、さまざまな想い出が蘇ってくるものでした。デュークは録音にもこだわっていて、この頃はたぶん行方洋一さんという卓越したエンジニアが担当していたはずです。LPでは度肝を抜かれたその素晴らしい録音、これも、アナログ時代の一つの成果として伝えてもらいたいものですが、あいにくCDではそれが叶わないのが、とても残念です。

CD Artwork © EMI Music Japan Inc.

1月18日

ただたけだけコンサート Vol.1 in 京都
伊東恵司/
なにわコラリアーズ
GIOVANNI/GVCS 10910

岐阜市にある「ジョヴァンニ」という通販サイトは、合唱関係のCDや楽譜を手広く扱っていて、その方面のファンには得難い存在です。参考音源を入手するなど、練習の序盤には、何かとお世話になることでしょう。各地のアマチュア合唱団のコンサートのライブ録音などを数多くプライヴェート盤としてリリースしているのも、見逃せません。
今回の新譜は、大阪の男声合唱団「なにわコラリアーズ」のコンサートの録音です。この合唱団は、何年か連続して合唱コンクールの全国大会で金賞を獲得していたという、いわば「日本一の男声合唱団」です。技術的なレベルの高さはもちろん折り紙付きですが、常に新しいレパートリーに挑戦して、ついマイナーになりがちな男声合唱の世界に新鮮な息吹を送り込んでいるのは、特筆すべきことです。エストニアの作曲家トルミスなどが、最近多くの合唱団で取り上げられるようになったのも、彼らの功績でしょう。
そんな彼らが、最近、いわば日本の男声合唱曲の「古典」である多田武彦の作品ばかりで構成されたコンサートをシリーズで開催する、という企画を立てました。指揮者の伊東さんという方は、いかにも大阪人らしいユーモアのセンスの持ち主のようで、そのコンサートのシリーズに「ただたけだけコンサート」という、まるで早口言葉のようなタイトルを付けましたよ。それは、自身の合唱団の名前を「なにこら」などと略しているのと同じ発想なのでしょうね。昨年の1月に京都の長岡京記念会館で行われたその第1回目のコンサートが、この「Vol.1」です。
多田武彦というのは、1930年生まれ(まだご存命です)の、ほとんど合唱曲しか作品がない作曲家です。というのも、彼は「専業」の作曲家ではなく、かつてはさる大手銀行に勤務していたというビジネスマンでした。仕事のかたわら、主に学生時代に身をおいた男声合唱の曲を数多く作ることになるのです。その作品には、男声合唱の響きを知り尽くした、「歌って心地よい」ツボが満載なのは、そんなご自身の体験が遺憾なく盛り込まれているからでしょう。さらに、「現代」ではちょっと恥ずかしくなってしまうようないかにも青臭い、しかし、それだからこそ心の深いところでつい共感出来てしまうような情感は、独特の持ち味となっています。
ここで「なにこら」が歌っているのは、1954年のデビュー作「柳河風俗詩」、1958年の「中勘助の詩から」、そして、後期の作品である1977年の「わがふるき日のうた」の3曲です。1曲目と2曲目は、まさに男声合唱団のスタンダードナンバー、おそらく、実際に男声合唱を体験されたことのある方でしたら、必ずこの中の曲の1つや2つは、歌ったことがあることでしょう。もちろん、そんな体験などなくともクラシック・ファンとして生きていくことは出来るのですから、そんな人にとってはもしかしたらこれは「初めて」聞く作曲家と、作品なのかもしれません。そして、実際に音を聴いてみても、たいしたものではないと見向きもしないかもしれませんね。
それはそれで良いんです。おそらく、多田武彦の作品は、そもそもマーラーやベートーヴェンなどと肩を並べようなどという大それたことははなっから考えていない、いともさりげないたたずまいの中にあるものなのですからね。あえて広い世界に出ようとはしない、あくまで限られた社会の中での、言ってみればマニアックな音楽なのです。
もちろん、それは彼の作品の魅力であるとともに、ある意味閉鎖的な聴き手の中だけでの自己満足に終わってしまう側面にもなり得ます。ここでの「なにこら」の演奏も、そんな弱気な「ただたけ」の世界で完結しています。それで良いんです。アンコールの「雨」で見せてくれたようなとてつもない深さが、全部の曲を覆っていたりしたら、さぞやうっとうしかったことでしょう。

CD Artwork © ARLMIC Company, Limited

1月16日

XENAKIS
Pléiades
Les Percussiones de Strasbourg
DENON/COCO-73059


お馴染み「クレスト」シリーズの最新リリース分の中にあった、1988年録音のクセナキスです。ストラスブール・パーカッション・アンサンブルが来日したときに、浦安文化会館でセッション録音されたものですね。その翌年にCDがリリースされましたが、それから20年経ってやっと再発となりました。ただ、89年に出た時には、その時に世界初演された石井真木の「マリンバと6人の打楽器奏者のためのコンチェルタンテ」という、安部圭子のマリンバがフィーチャーされた作品がカップリングされていたのですが、今回はそれがなくなっています。なにか、契約上の問題でもあったのでしょうか。お陰で、たった43分で1枚のCDが終わってしまいますから、退屈することはありません(もちろん、イヤミです)。
1979年に、このグループのために作られた「プレイヤード」(「プレアデス」という表記もあるのです)は、金属片による打楽器、ヴィブラフォンなどの鍵盤打楽器、そしていわゆる太鼓という、3つの音色の異なる打楽器のみによって演奏される3つの部分と、それに先だって、その全ての楽器が登場する「混合」という部分の、全部で4つのパートから出来ています。
その、いわば「お披露目」的な意味合いを持つ最初の「混合」で、いきなり銅鑼のような金属片の音が聞こえてきたときには、そのリアリティにちょっと驚かされてしまいます。なんという生々しい録音なのでしょう。当時のDENONの録音技術のクオリティの高さを、改めて再確認です。
実は、この録音が行われた浦安のホールには、最近実際に中に入ったことがあります。

こんな、かなり横幅のあるだだっ広いワンフロアの客席で、後ろの天井にはなにやら反響板のようなものが設置されていますが、基本的には多目的用のかなりデッドなホールのような印象でした。ですから、おそらくこのステージで録音されたのでしょうが、余計な残響はほとんど付かないために、これだけクリアな音で録音することが出来たのでしょうね。
クセナキスの作品では、音のかたまりのコントロールにどうしても耳が行ってしまいがちですが、この曲の場合は音色に対する関心がかなり重要なファクターになっていることに気づかされます。特に、「金属」については、クセナキス自身が楽器制作にまで関与したということですから、そのあたりに注目です。優秀な録音と相まって、多彩な音色の打楽器の海の中に漂うという体験、これは、オーディオ的にもなかなかのものです。
「鍵盤」になってくると、そこには前から気になっていた、まるで沖縄あたりのペンタトニックっぽいメロディが登場します。タマヨのクセナキス全集に入っていた「Jonchaies」という1977年のオーケストラ曲にも、やはり「沖縄民謡」が顔を出していましたが、この時期のクセナキスはこんな旋法にハマっていたのでしょうか。
最後の「太鼓」は、それまでのテイストとは異なる、ストイックなモノトーンの世界です。まるで「鬼太鼓座」や「鼓童」といった和太鼓のアンサンブルのように、ひたすら神経を集中して他の奏者と一体化するという、まるで精神修養にも似た厳しさすら感じられないでしょうか。「合う」はずのないクセナキスの音楽で、「合って」しまっているのを聴くのは、なにか不思議な体験です。
そんな「厳しさ」のなかから、なにかカラフルな印象が与えられるというのも、興味深いところです。それは、おそらく微妙なダイナミック・レンジのコントロールによって生み出されているものなのでしょう。瞬時に大迫力の世界から、いとも繊細な世界へと変わることが出来る柔軟さ、あるいは、息の長いディミヌエンド、そんなしなやかなテイストも、クセナキスの中にはあったのです。これは、以前アメリカの団体の演奏を聴いたときには感じられなかったものです。演奏も、そして録音も、今回の方が数段勝っています。

CD Artwork © Columbia Music Entertainment, Inc.

1月14日

RÜTTI
Requiem
Olivia Robinson(Sop), Edward Price(Bar)
Jane Watts(Org)
David Hill/
The Bach Choir
Southern Sinfonia
NAXOS/8.572317


なにかと突っ込みどころの多いこのレーベルのタスキですが、この曲のキャッチコピーが「フォーレとラターとペンデレツキが好きな人にはオススメ」ですって。なんだか、執筆者佐久間(笑)の好みを見透かしているような煽り方ではありませんか。とても他人とは思えません。もしかして知っている人かも。いや、それはあり得ませんが、こんな言い方で薦められれば、まんまと化かされてしまいます(それは「タヌキ」)。実は、カール・リュッティという作曲家の曲も、だいぶ前にこんなアンソロジーCDの中ですでに聴いていました。
リュッティという人はスイスで生まれ、スイスで教育を受けたのですが、イギリスの高いレベルの合唱団を聴いて驚き、合唱のために曲を作りたいと思ったのだそうですね。それからは多くの作品を「イギリスの合唱団」のために作っており、このジャンルでは殆ど「イギリスの作曲家」のような扱いを受けています。日本でも、彼の作品を取り上げている合唱団があるそうですし、オルガンの分野でもかなり知られている作曲家なのだそうですね。
ここで演奏しているデイヴィッド・ヒルとバッハ合唱団からの委嘱を受けて2007年に作られた「レクイエム」は、2008年の2月に彼らによって初演されました。その初演メンバーからソプラノのソリストだけが別の人に代わって2009年2月に録音されたものが、このCDです。
とりあえずタスキに乗せられたフリをして、そこであげられていた3人の作曲家との共通点でも探してみることにしましょうか。まず「フォーレ」ですか。確かに、曲の構成は、モーツァルトやヴェルディ系のフルサイズのテキストではなく、フォーレや、そしてデュリュフレのように、「Dies irae」で始まり「Lacrimosa」で終わる「Sequentia」というパートがありません。その代わりに含まれる「In Paradisum」が最後にあるのも同じ、しかし、「Pie Jesu」と「Libera me」はありません。このテキストでフォーレは劇的な要素を廃した落ち着いた曲想を貫くことになるのですが、リュッティの場合は、どちらかというとデュリュフレのように、「Offertorium」で派手に盛り上がる作風をとっていました。したがって、「フォーレ」というのはちょっとハズレっぽいですね。
次の「ラター」(いわゆる「ラッター」)というのは、楽想がベタで分かりやすい、ということなのでしょうか。そういえば、「Agnus Dei」の後半のメロディなどは、しっかりクリシェなどが使われてキャッチーな感じはします。しかし、正直その部分だけがやけに浮いて聞こえてきて、全体的にはラッターのような真の意味での親しみやすさはあまり感じられません。合唱だけを聴くと確かに穏やかなのですが、伴奏のオケが意図的に溶け合わない造りになっていて、なにか、常に暗いものに覆われているような雰囲気が、曲全体に漂っているのですね。
もしかしたら、タスキはそんなちょっとあやふやなテイストを「ペンデレツキ」という「記号」で表現していたのかもしれません。「わけの分からない音楽=ペンデレツキ」という人には、今でもしばしばお目にかかれますからね。しかし、リュッティの語法は、ペンデレツキが最もペンデレツキらしかった(変な言い方ですね)頃の作風とは似て非なるものでしょう。リュッティがここで用いているのは、「多調」という、以前のタスキの言葉を借りればもっと「スタイリッシュ」な手法なのです。
やはり、そんな、他人との比較ではない、リュッティ自身の音楽に謙虚に耳を傾けてみるのが大事。曲の始まりはソプラノのソロだけでシンプルに始まり、そこに合唱が加わるという構成、とうとう1曲目にはオーケストラは加わりません。そして、最後の曲でも、終わりはソプラノソロだけです。これは、「誰でも生まれてくるときや、そして死ぬときは、結局一人」という彼の死生観のあらわれなのでしょうか。それでは、あまりにも寂しすぎませんか?

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

1月12日

BERLIOZ
Symphonie Fantastique
Charles Munch/
Orchestre de Paris
ALTUS/ALT182


時の文化大臣、アンドレ・マルローによって「パリ音楽院管弦楽団」という由緒あるオーケストラが解体、再編され、新たに「パリ管弦楽団」、いわゆる「パリ管」という団体が発足したのは1967年のことでした。みんなでお金を出し合ったのですね(それは「割り勘」)。その年の1114日に、初代音楽監督であるシャルル・ミュンシュの指揮によって開催されたコンサートが、このオーケストラのデビューとなります。その歴史的なコンサートの模様を伝えるのが、このCDです。全部で3曲のプログラムのうちの、ドビュッシーの「海」とベルリオーズの「幻想」が収録されています。
ミュンシュとパリ管の「幻想」といえば、このコンサートに先だつ196710月にEMIによってセッション録音されたものが有名です。これは、この曲の一つの「名演」として、そのようなランキングの際には必ず登場することになるベストセラーであることは、ご存じの通りでしょう。特に、ミュンシュの「熱い」指揮ぶりが、多くのファンを獲得したのではないでしょうか。
しかし、そのほんの1ヶ月後に録音された今回のライブ盤を聴くと、EMI盤とはかなり演奏の中身が異なっていることに気づきます。単純に演奏時間を比較しただけでも、それは明らかです(10月のセッション/11月のライブ)。

もちろん、ミュンシュは1楽章や4楽章の繰り返しはどちらの録音でも行っていませんから、これは単純にテンポの違いになるのですが、同じ演奏家がほぼ同じ時期に演奏したものが、これだけ異なるテンポになっているというのは、とんでもないことなのではないでしょうか。
実は、恥ずかしながらミュンシュのEMI盤は最近まで聴いたことがありませんでした。ある時思い立って、巷で評判のこの「熱い」演奏がどんなものなのか、意気込んで聴いてみたのですが、正直予想していたほどのインパクトが感じられずにちょっと失望してしまいました。この程度のものに、なぜあれほどの賞賛が集まるのか、ちょっと理解できなかったのですよ。ところが、今回のライブは全く別物、このテンポの違いでも分かるように、そこには間違いなく「熱い」ものがてんこ盛りだったのです。特にすごいのは終楽章、まさに、荒れ狂うばかりの修羅場が、眼前に広がります。このテンポではとてもついて行けないプレーヤーも見受けられますが、そんなことはお構いなしにひたすら突っ走るという疾走感は、とてつもなく気持ちの良いものでした。こんな、血がほとばしり出るような生々しい演奏が聴きたかったのですよ。この前、インマゼールのとことん生ぬるい演奏を聴いたばかりでは、その思いはひとしおです。
EMIのセッション録音を改めて聴き直してみると、フレーズの歌い方や、それらの構成など、ミュンシュの演奏のプラン自体は、ほとんど変わっていないことに気づきます。ただ、セッション録音では、それがいかにもていねいに仕上げられているために、肝心の情感がとても薄いものになってしまっているのです。ライブでは、お客さんに何かを伝えたい、という気持ちが充分すぎるほど感じられるというのに。
今さらですが、これは、「録音」というものを考えるときについてまわる大きな問題なのでは、という気になってきます。かつてのセッション録音というのは、「何度でも繰り返し聴く」ことに耐えるだけの「品質」を確保することが最も優先されていたはずです。しかし、ミュンシュのようなアーティストの場合は、お客さんを前にして初めて発することが出来るオーラのようなものが、そんな制約のあるセッションの現場では現れることはなかったのでしょうね。
カップリングの「海」からも、ドビュッシーにはあるまじき炎のようなすさまじさが発散されています。これも、1956年のボストン響とのセッション録音(RCA)からは、殆ど感じられなかったものです。

CD Artwork © Tomei Electronics Co. Ltd.

1月10日

DVORAK
Requiem
Lisa Milne(Sop), Karen Cargill(MS)
Peter Auty(Ten), Peter Rose(Bas)
Neeme Järvi/
London Philharmonic Orchestra and Choir
LPO/LPO-0042


2005年からスタートしたロンドン・フィルの自主レーベルLPO、古い録音や新しい録音をとりまぜてどんどんリリースを重ねていますね。これは2009年の2月のコンサートを録音した、ごく新しいものです。重鎮ヤルヴィが取り上げた曲目はドヴォルジャークの「レクイエム」、なんとも渋い、というか、珍しい曲を選んだものです。なにしろ、1932年にトマス・ビーチャムによって創設されて以来、このオーケストラがこの曲を演奏するのは今回が初めてだ、というのですからね。初演はイギリスで行われた曲だというのに、なんと言うことでしょう。
確かに、数ある「レクイエム」の中にあって、このドヴォルジャークの作品は、いまいち人気がないような気がしませんか。というより、実のところは「ドヴォルジャークがレクイエムなんて作ってたの?」と思う人の方が、圧倒的に多いのではないでしょうか。そう、これは、現在では殆ど演奏されることのない、言ってみれば殆ど「忘れられた」曲となってしまっているのですよ。よくぞこんなものを取り上げてくれましたね、ヤルヴィさん、みたいな。
ドヴォルジャークは、当時のイギリスではとても人気のあった作曲家で、バーミンガムの音楽祭で演奏された「スターバト・マーテル」などは、大好評を博します。そこで、その音楽祭から、「もっと大規模な合唱作品」を作るように依頼されます。それに答えるために作られたのが、この「レクイエム」でした。ですから、当初から「コンサートホール仕様」になっていたわけで、決して特定の人の死を悼んで教会などで演奏されるための「宗教行事仕様」ではありませんでした。出来上がった作品は、演奏時間は1時間半にも及ぼうという巨大なもの、オーケストラは華麗に鳴り響き、合唱は叫びまくり、4人のソリストは力の限り声を張り上げる、という絢爛豪華な仕上がりとなっています。そこからは、ほぼ同じ時期に作られたガブリエル・フォーレの作品が持っている、あくまで死者を悼むという真摯さはほとんど味わうことは出来ないはずです。そんなところが、この曲の人気が他の人の「レクイエム」に比べるとはるかに低いランクに甘んじている一つの理由なのではないでしょうか。もちろん、それは、彼自身が敬虔なカトリック教徒であったこととは全く次元の異なる問題です。
よく指摘されることですが、この曲の最初に出てくるテーマ(→音源)は、バッハの「ロ短調ミサ」の2番目の「Kyrie」のテーマ(→音源)を引用したものです(この音源はオリジナル楽器による演奏なので、「変ロ短調」であるドヴォルジャークの曲と、たまたま同じ調に聞こえます)。このテーマは、形を変えて何度も登場、最後の「Agnus Dei」でも、はっきりとした形で聞こえてきます。このあたりが、おそらくは彼の「敬虔さ」の現れなのでしょうが、おそらくそれが聴衆に伝わることはないのではないでしょうか。このテーマの類似性も、言われなければまず分からないでしょうし。
この、内に向かって静かに祈りを捧げる、というよりは、外へ向かって大声で主張する、という曲を、ヤルヴィはまさに渾身の力をもってその性格を発散させきっているように感じられます。そのダイナミックなオーケストラの咆哮は、ストレートに快感を与えられるものになっています。そして、やや落ち着いた楽想の部分で聞こえてくるソロ・フルートには、思わず耳をそばだててしまいます。音色といい、表現力といい、なんという存在感のあるフルートなのでしょう。現在ロンドン・フィルの首席フルート奏者は空席のようですが、だれかが客演で参加しているのでしょうか。デュフォーとかね。
合唱は、いかにも力みすぎの感は否めません。時折ア・カペラで演奏する場面もあらわれるのですが、そんな時にこそ発揮して欲しい真の繊細さが欠けているために、曲全体が常に騒々しいという印象が際立ってしまいます。

CD Artwork © London Philharmonic Orchestra Ltd

1月8日

BERLIOZ
Symphonie Fantastique
Jos van Immerseel/
Anima Eterna Brugge
ZIG ZAG/ZZT 100101


ベルリオーズの「幻想」を初めてオリジナル楽器で演奏したのは、たぶんノリントンだったのでしょう。少なくとも録音に関しては、彼の1988年のEMIへのものが「世界初」と言われています。それはかなりのセンセーショナルな出来事だったはずですが、今聴き直してみると、演奏そのものは至極まっとうなもののように感じられてしまいます。その後1991年にガーディナーが行った録音(PHILIPS)は、弦楽器を大人数にしたり、ハープなどは6台も使うという大編成に加えて、楽譜にはない「セルパン」を、オフィクレイドの補強(あるいは、ビジュアル的な効果?)として加えるなど、積極的なアプローチが随所に見られて、なかなか興味深いものでした。
この二人の録音によって「幻想」もついにオリジナル楽器で演奏される時代が、と思われたのですが、なぜか彼らに続くものは、CDのリリースに限っては長らく現れませんでした。そんな時に、新録音が17年ぶりに登場です。
このインマゼールの録音、レコード会社にとっても恰好のアイテムだったのでしょう。変わりばえのしない最近のこの曲の録音の中では久しぶりの「変わり種」、幅広い層にアピールを、と、国内盤仕様でライナーの日本語訳を添付して発売してくれました。そのライナー、インマゼール自身の長〜いコメントに加えて、キーとなる楽器の演奏家の言葉まで掲載されているかなりの文字数のものですから、それが日本語で読めるのはありがたいことです。
その中で、ひときわ注目をひいたのが、「鐘」に関するインマゼールの解釈です。楽譜には元々「鐘、またはピアノ」と記されていますし、そもそも楽譜の指定通りの「低い」音程の鐘だと、その重さは数トンから数十トンになってしまい、とても実際にステージで使うことなど出来ないそうなのですね。その他、さまざまな傍証を引き合いに出して、「ベルリオーズが本物の鐘を用いたということはあり得ない」と断言しています。ほんとかね、と思ってしまいますね。
しかし、実際にその部分、つまり、第5楽章の「Dies irae」のあたりを聴いてみると、2台のエラール製のピアノによって演奏された「鐘の音」は、指定通りの充分に低い音によって見事に不気味さを感じられるものになっていました。これを聴いてしまうと、普通に演奏される「小さな鐘」の音などは、殆ど冗談にしか聞こえなくなってしまうかもしれませんね。たしかにこれは、国内盤のタスキにあるように「目から鱗」の発想でした。テーマを演奏するオフィクレイドとファゴット(いや、バッソンですね)が混じり合った独特の不気味さが、このピアノによってさらにはっきりしてきます。
楽器編成は、ガーディナーなどに比べるとずっと少なめ、ヴァイオリンが9本ずつ、以下の弦楽器はすべて6本というものです。その分、管楽器の音がクリアに聞こえてきて、オリジナル楽器ならではの鄙びた音色が存分に味わえます。ただ、なぜか第2楽章で加わっているオプションのコルネット・パートが、殆ど聞こえてこないのですよ。この楽器は、ブックレットに写真入りで載っているホルンを小さくしたようなとても珍しいものです。どんな録音でも、この部分でコルネットが入っていればすぐ分かるはずなのに、それがよっぽど注意しない限り聞こえないというのは、楽器のせいなのか、ミキサーの耳のせいなのか。
そんな風に他人のせいには出来ないのが、インマゼールの指揮ぶりです。ライナーを読む限り、必要なリサーチは充分すぎるほど行っているのでしょうが、そこから出てくる「音楽」が、なんともキレのない、退屈なものになってしまっているのですね。聞こえてくるのは空虚な「音」だけ、その中に込めて欲しい「情熱」や「悪夢」が、全く伝わってこないのですよ。そういえば、今まで彼のCDを聴いたあとには、常にそんな虚しい思いを味わっていたことを、思い出しました。

CD Artwork © Zig-Zag Territoires

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17