血迷うさ。.... 佐久間學

(07/10/24-07/11/12)

Blog Version


11月12日

RESPIGHI
Pines of Rome, Fountains of Rome, Roman Festivals
Arturo Toacanini/
NBC Symphony Orchestra
JVC/JM-M24XR01


今年、2007年は、アルトゥーロ・トスカニーニというパスタみたいな名前の(それは「ペスカトーレ」)往年の名指揮者が亡くなってから50年という記念の年になっています。ちなみに彼は90才になる年に亡くなっていますから、同時に生誕140周年を迎えるということになるのだそうです。そんな、殆ど歴史上の人物(実際、生まれたのは江戸時代)が演奏したものが録音として残っているというのですから、考えてみたらこれは大変なことですよ。いえ、それは、ただ単に「残っている」というだけのものではなく、現代でも十分に通用するほどのクオリティを持ったものなのですから、ちょっとすごいことです。
しかし、今回このXRCDを聴くまでは、実は彼の録音はそんなに大したものではなかったのだとずっと思いこんでいました。LPを数枚持っていたのですが、どれも潤いのない、やたらとハイが強調されたギスギスした音だったからです。フルトヴェングラーの方が低音がたっぷり出ていていいな、ぐらいにしか思っていませんでした。そのフルトヴェングラーにしても最近の復刻盤などを聴いてもかなりひどい音でしたから、なおさらトスカニーニは「悪い音」という印象が根強く残っていたのです。
そんなトスカニーニの録音を、わざわざXRCDにして出すという噂を聞いて、なぜそんな無駄なことをするのか、不審な思いに駆られたものです。しかし、あの杉本さんがそんな意味のないことを行うわけがありません。程なくしてその杉本さん自身によるインフォを目にした時、その疑問は解けました。LPとして出ていたトスカニーニの録音は、実はかなり音質に手が加えられていて、元の音とはかけ離れたものになっていたというのです。ですから、そこでオリジナルのマスターテープからCDにするというこのプロジェクトの意味が出てくるわけです。最初にRCAのエンジニアが収録していた音とはどんなものだったのか、そこに興味がわかないはずはありません。
このシリーズの一番手としてXRCDがリリースされたのは、トスカニーニの名演奏と誰しもが認めるレスピーギの「ローマ三部作」でした。録音されたのは「祭り」が1949年、「噴水」が1951年、そして「松」が1953年ですから、当然モノラルです。しかし、音のクオリティは、今まで抱いていたイメージを軽く超えるものでした。特に、最も古い録音である「祭り」で聴くことの出来る弦楽器の瑞々しさはどうでしょう。さらに、3曲中最も大きな編成をとっているにもかかわらず、そのバランスの良さは筆舌に尽くしがたいものがあります。
最も新しい(それでも半世紀以上前のものですが)「松」などでは、その上に解像度の良さが加わります。グロッケンの生々しさ、チェレスタの神秘的な響き、そしてピアノの生き生きとした音色など、明晰そのものの音像で迫ってきます。2曲目冒頭の弦楽器のふくよかな雰囲気なども、信じられないほどの存在感を示しています。
そのようなリアルな音を通して聞こえてきたものは、NBC交響楽団のメンバーの技術の確かさです。特に木管楽器奏者たちのソロを聴くと、このオーケストラの水準の高さを実感することが出来ます。これは間違いなく、あの時代の最高の能力を持ったオーケストラでした。もしかしたら、現代のオーケストラでも、これほどの豊かな音色と、確かなイントネーションを持っているところは少ないのではないでしょうか。このことは、例えばさっきのフルトヴェングラーのバイロイトでの録音などと比較すると歴然としています。
そのような卓越したオーケストラによって繰り広げられるトスカニーニの確信に満ちたインテンポの世界、それがどれほどの力を持つものだったのか、今回のマスタリングによって初めて理解できたような気がします。

11月10日

LPジャケット美術館
高橋敏郎著
新潮社刊(とんぼの本)
ISBN978-4-10-602160-2

本屋さんの店頭でこの表紙を見たとき、なんとも懐かしい思いに駆られ、つい手に取ってしまいました。5万枚のレコードを所有しているという著者のコレクションの中から厳選された100枚のLPのジャケット、これは壮観です。
CD全盛の世の中、ジャケットのデザインもアーティストの写真がメインのものが多くなってしまい、これぞというインパクトを与えられるものは少なくなってきたような気がします。やはり、12インチ四方という広い陣地を与えられたからこそ、デザイナー達は腕を奮うことが出来たのでしょう。そんなデザイナーや原画を描いた画家、イラストレーターの仕事に、著者は多大の敬意を払っているように見えます。つまり、そこに関わっていた人たちを実際に名前(時には生没年も)を挙げて紹介しているのです。そのことによって、これらのジャケットは、芸術家達による「作品」としての評価が、自ずと読むものに伝わることになります。
そこで登場する人たちの中には、例えばシャガール、ミロ、クレーなどそうそうたる画家もいて、驚かされます。藤田嗣治などもいるのですからね。一世を風靡したイラストレーター、ベン・シャーンの描いたベートーヴェンの肖像などは、とても貴重なもの、あのレイモン・ペイネがフルトヴェングラーの「田園」のジャケットを飾るなどというミスマッチも、とても楽しいものです。もっとも、楽しさという点では、米COLUMBIAがチェコのSUPRAPHONを発売するときに使ったCROSSROADSというレーベルのジャケットの秀逸さには、かなうものはありません。サンディ・ホフマンという漫画家によるものが2点紹介されていますが、さまざまな仕掛けが施されたそのユーモラスなイラストは何度見ても飽きることがありません(このレーベル、音は悪かったような記憶がありますが)。
著者がここで選んでいるものは、特にオリジナルや初出のものにこだわるということはないようです。あくまでジャケットの芸術性がその基準、その結果、フルトヴェングラーのバイロイト「第9」でも、フランスEMI(つまり、VSM)による「松明ジャケット」が取り上げられています。これを見てしまうと、本家HMVのデザインは、なんとダサいことでしょうね。
ですから、著者は国内盤のジャケットにも積極的に目を向けることになります。LP時代、日本のレコード会社はその方面には手間を惜しみませんでした。例えば杉浦康平といったようなグラフィック・デザイナーによる武満徹の作品集などは、まさにその頃の音楽状況までもが脳裏によぎるほどの強いインパクトを持ったものです。勝井三雄の手になる三善晃の「レクイエム」とともに、これらのジャケットデザインは、その本体のクオリティの高さを如実に語っている証人だったのです。
逆の意味で、その時代の証であったものが、「4チャンネル」のジャケットです。今で言えば「サラウンド」になるのですが、当時は3つの方式が乱立して、互いに足を引っ張り合っていました。そんな時に、ソニーの「SQ」方式のいわばサンプルとして作られたブーレーズの「オケコン」のジャケットは、いかにして自社の方式をアピールするかという強い訴求力を持つことになりました。「4チャンネル」が消え去った今となっては、その強すぎる「力」がなんとも言えない魅力と化しています。
そんな風に感慨にふけっているうちに、思いがけないジャケットに出会いました。ホロヴィッツがカーネギーホールで行ったカムバックコンサートのライブ録音、その名も「An Historic Return」(左)は、あのP・D・Qバッハの不朽の名盤「An Hysteric Return」(右)のジャケットの、完璧なパクりではありませんか(なわけ、ね〜だろう)。

11月8日

KODÁLY
Works for Mixed Choir Vol.3
István Párkai/
Debrecen Kodály Chorus
HUNGAROTON/HCD 32366


コダーイの混声合唱全集の第3集です。前2集に続いての年代順の構成、ここでは最晩年1948年から1965年までの作品が収録されていて、これで晴れて完結となりました。第1集の録音が2004年の6月に始まっていますが、これは2006年9月の録音、2年ちょっとで総ての無伴奏混声合唱曲を録音してしまったことになります。
ただ、今回演奏している合唱団は同じデブレツェン・コダーイ合唱団なのですが、指揮者が今までのエルデイから、イシュトヴァン・パルカイに代わっているのが、気になるところです。そう言えば、もうすぐクリスマスですね(それは「トナカイ」)。ジャケットやブックレットをくまなく探しても、この方の写真はおろかプロフィールさえも掲載されてはいないので、いったいどんな人なのか全く知ることは出来ません。
というのも、前作第2集ではかなりレベルの高い演奏を聴かせてくれていたこの合唱団が、ここではまた元に戻ってしまった(第1集はひどい演奏でした)かのように、冴えない演奏になってしまっているからなのです。メンバーの素質はそれなりにしっかりしたものがあるようなのですが、それを一つの方向にまとめて「力」を与えることに、この指揮者は全く関心がないように思えてしょうがありません。
ただ、このアルバムをきちんと聴いていくと、そんな無気力な演奏を産んだのは、必ずしも指揮者のせいだけではないような気にさせられてくるのも事実です。1967年に85才で亡くなるまでのコダーイの晩年は、まさに満ち足りたもの、国内での数々の名誉職の歴任や受賞のみならず、外国からもオクスフォード大学や東ベルリン、トロントの大学などからも名誉博士号を授与されているのです。同じハンガリー出身の大作曲家バルトークの悲惨な晩年を引き合いに出すまでもなく、これは作曲家としてはかなり異例なこと、そんな中から産まれた作品にはもともと緊張感を強いられるような要素は潜んではいなかったのかもしれません。
その代わり、このあたりの作品にはなにか力の抜けた、殆ど浄化されたような世界が垣間見られるのも興味深いところです。1963年に作られた「音楽への頌歌An ode for music」という、ウィリアム・コリンズと、シェークスピアの英語の歌詞による曲が、そんなおもむきを漂わせたものとなっています。出だしの和音の積み重ねという手法は、彼の過去の作品の投影を見る思いですが、そこからはハンガリーの語法から昇華された、もっとユニバーサルなテイストが感じられはしないでしょうか。そして、このような曲にこそ、もっともっと細やかな神経を使った歌い方で臨んでもらいたかったところなのですが。
1954年の作品、バリトンソロが加わった「ズリニイの賛歌Zrínyi szózata」は、彼の無伴奏の合唱曲の中では最も長大なものです。この中で、コダーイはまるで彼自身の作曲技法の集大成のようなことを行っています。それは、あたかもルネサンス時代に回帰したかと思えるほどの、殆どマドリガルのような軽やかな曲調や、まるでバッハを思わせるような厳格なフーガを伴うものでした。そんな中でも、この合唱団はそれぞれのキャラクターを際だたせるでもなく、平板な演奏に終始しているのがとても歯がゆく感じられてしまいます。最後のフーガのやる気のなさといったら、どうでしょう。
とは言っても、この全集によって曲がりなりにもコダーイの総ての混声合唱曲がいつでも聴けるようになったという意義は小さくはないはずです。1892年という、第1集にも含まれていなかった年代の男声合唱曲「スターバト・マーテル」を混声に直したバージョン(編曲したのはコダーイではありませんが)のような珍しいものも含めて、彼の作曲家としての生涯とはなんだったのかを考える上では、これ以上の資料はあり得ません。

11月6日

BEETHOVEN
The Nine Symphonies
Angela Denoke(Sop), Marianna Tarasova(MS)
Endril Wottrich(Ten), Matthias Goerne(Bar)
Mikhail Pletnev/
The Moscow State Chamber Choir(Dir:Vladimir Minin)
Russian National Orchestra
DG/00289 477 6409
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1365/9(国内盤)

プレトニョフがベートーヴェンのピアノ協奏曲と交響曲の全曲録音を進めていますが、協奏曲の方は絶賛されているというのに、交響曲に関しては評価がきっちり分かれているというのが、なかなか面白いところです。例えば、朝日新聞などでは風変わりではあるがそこからは確固たる意志が感じられる、みたいな持ち上げ方をしているというのに、「レコ芸」ではその風変わりさが許せないのか、国内盤担当の2人の評者、小石忠男先生と宇野功芳先生が揃って否定的な論評を下しているというのですから、これは絶対に面白い演奏に決まっています。レコ芸国内盤の批評ほどいい加減なものはないというのは、誰でも知っていることですから(「功芳も筆の誤り」)。これはぜひ実際に聴いてみるしかありません。5枚組でもそんなに高くはありませんし。
届いたボックスを開けてみると、それはまず見た目からして期待に違わない風変わりなものでした。紙袋の中から出てきたのは、レーベル面になにも印刷されていないCDだったのですから。これにはなにかマニアックな意味があるのかと思いましたが、2枚目以降はしっかり印刷されていましたから、これは単なる不良品だったのですがね。とは言っても、音には何の異常もありませんでしたから、別に返品もしないで手元に置いてあります。そんなものを集めている人の方が、あるいは「風変わり」と言われそう。
さて、演奏ですが、確かにこれはヘンタイ丸出しのとてつもないものでした。びっくりするようなところにパウゼが入っていたり、思いっきりテンポを揺らしたり、はたまたまるで大見得を切るような時代がかったアコードを演出したりと、突っ込みどころが満載です。そんなヘンタイぶりをいちいちあげつらっているのは、しかし、この際は殆ど意味のないことです。おそらくここでプレトニョフが試みたものは、「名曲」の名をほしいままにしているベートーヴェンの交響曲を、完膚無きまでに自己の趣味に作り替えるという果敢なる挑戦だったのですから。
それを成し遂げるために彼の手兵、ロシア・ナショナル響が果たした役割には、驚異的なものがあります。それは、指揮者の出す、殆ど即興的と言っていい要求に瞬時に応えられるだけの高度の適応性と、それを支える精密この上ないアンサンブルの能力です。特に、どんな過激なテンポの変化にも全く動じることのないアンサンブルには、まさに信じられないものを見る思い、これだけの性能があるからこそ、プレトニョフは安心して自分の思い通りの表現を実現することが出来たという、まさに指揮者とオーケストラとの間の美しい信頼関係が、ここには成り立っていたのです。
それだけの、殆ど自身の「楽器」と化したオーケストラによってプレトニョフが描きたかったものは、例えば「第9」などを聴いてみることによって明らかになります。ここではさらに独唱者や合唱団の力も加わり、そのベクトルはより明確なものになります。その皮切りとなるゲルネのバリトンソロの、何と絶望感に満ちていることでしょう。そこから聞こえてくるものは、彼本来の深い響きではなく、まるで抜け殻のように空虚なつぶやきだったのです。続くアンサンブルでも、ソプラノのデノケの不安定な音程にリードされたハーモニーからは、前向きの勇気などはスッパリとそぎ落とされていることを感じるはずです。そして、殆ど音程のなくなっている合唱は、まるでゾンビのような叫びを繰り返すだけ、それは、こんな人たちと「兄弟」になんかなるものか、という決意を持つには十分のものでした。
もうお分かりでしょう。ここでプレトニョフが試みたのは、ベートーヴェンの力を反対側に作用させるという、小気味よいカウンターパンチだったのです。

11月4日

One More Song
Calmus Ensemble
QUERSTAND/VKJK 0612


また一つ、素晴らしいコーラスを知ることが出来ました。その名は「カルムス・アンサンブル」、韓国の合唱団ではありません(それは「辛みそアンサンブル」)。ドイツのライプチヒを中心に活躍している、女声1人、男声4人のグループです。
ライプチヒという都市で思い出すのは、あのバッハがカントールを努めていた聖トマス教会です。そもそもは、そこの付属の聖歌隊のメンバーだった男声5人が1999年に結成したもの。その後、2001年に中部ドイツ放送(MDR)児童合唱団のメンバーだったソプラノのアニャ・リプフェルトが加入して、現在の編成となっています。
聖歌隊出身のコーラスグループと言えば、まず最初に思い出すのは、あの「キングズ・シンガーズ」ではないでしょうか。彼らも、この先輩グループには多大な影響を受けているのは事実、実際に彼らはシュレスヴィヒ・ホルスタイン音楽祭でキングズ・シンガーズのマスタークラスを受講、彼らのサウンドに最後の磨きをかけたということです。また、彼らのウェブサイトには、ライプチヒを訪れたキングズ・シンガーズのオリジナルメンバー、サイモン・カーリントンと一緒の写真が、誇らしげに掲載されています。
彼らは、今までにライプチヒのレーベルQUERSTANDから4枚のCDをリリースしていましたが、それらはすべてクラシック系のレパートリーでした。今回は一念発起、「もっと別な曲を」ということで、こんなタイトルのポップスのアルバムを作ることになったということです。そういえば、キングズ・シンガーズも最初の頃はルネサンスのマドリガルなど、クラシックの曲しか録音はしていませんでしたね。ポップスに手を染めるようになるのは、デビューしてしばらく経ってからのことだったはずです。
しかし、このグループは初めてのポップスアルバムを出した時点で、すでに師匠のキングズ・シンガーズをはるかに超える確かなテクニックと、高度のセンスを持っていました。最初の曲、ドイツ語で歌われる民謡のテイストを持った歌はバリトンのベームくんのアレンジになるものですが、いきなり「スウィングル・シンガーズ」風のスキャットで、「フィガロの結婚」序曲のフレーズを持ってきたり、昔のラジオから聞こえてくるようなローファイの音が混じったりと、豊かなアイディアには脱帽です。ドイツ語の早口言葉の応酬は、まさにドイツ人のグループとしてのアイデンティティでしょう。もちろん、そのスキャットは本家「スウィングル」よりもずっとタイトなものでした。
女声が1人入っていることで、ソプラノパートも無理のない明るい響きが聴かれます。リプフェルト嬢はハーモニー感覚も抜群で、音程、音色とも見事に男声に溶け込んでいます。そんな彼女が、ガーシュインの「サマータイム」では、ガラリと発声を変えてソリスティックに歌っているのですから、たまりません。そんな一面を見てしまうと、このグループはあの卓越したスキルを持ったジャズコーラス、「シンガーズ・アンリミテッド」にも通じるようなものさえ持っているような気にもなってきます。1人1人の声がリアルに聞こえてくる録音の良さも、見逃せません。そういえば、「アンリミテッド」も、コーラスの録音にはドイツのスタジオを使っていましたね。
ポップスとはいっても、あまり馴染みのない曲が多い中にあって、やはりビートルズ・ナンバーは欠かせないものだったのでしょう。「Got to Get You into My Life」は、ローファイに加えてSP風のスクラッチまで入ったレトロな音から、いきなりシャープな音に変わるというサプラジングなアレンジ、アップテンポ気味に進むノリの良さは、同じ曲のキングズ・シンガーズのバージョンとは隔世の感があります。
かと思うと、フレド・ユンクというジャズ・ピアニストのオリジナルでは、彼自身のピアノに乗ってとことんジャジーに迫っているのですから、彼らのキャパシティの広さには驚く他はありません。あ、そういえば、彼らはクラシックも歌っているんでしたね。

11月2日

BACH
Goldberg-Variationen
Hansjörg Albrecht(Org)
OEHMS/OC 625


以前、ワーグナーの「指輪」全曲(実際にはハイライトですが)を、オルガンで演奏するという暴挙に及んだアルブレヒトが、今回は少しおとなし目、バッハのゴルトベルク変奏曲をオルガン用に編曲して演奏しています。「指輪」の時には一人でオルガンを2台操るという離れ技も披露してくれていましたが、こちらはまっとうな普通のオルガン、3つの手鍵盤とペダルという、中型の楽器です。
普通にピアノやチェンバロで演奏するだけではなく、弦楽器3本のアンサンブルなど、この曲を別の形で演奏する試みは数多く知られています。ただ、オルガンで演奏したものは今までは聴いたことがありませんでした。このアルブレヒトの編曲では、オルガンならではの音色の変化と、音量を自在にコントロール出来ることによる壮大なダイナミックスを楽しむことが出来ます。
テーマである「アリア」は、まるでオルガン・コラールのように聞こえてきます。バス声部が独立してペダルで演奏されているため、いかにも落ち着きのある感じ、その分、左手の声部が、今まで聴いたことのなかったようなはっきりとした主張を見せてくれます。ですから、右手の声部は自由自在に華やかな装飾を楽しんでいるよう、最初のトリルも、主音の3度上から始めるというちょっと聴き慣れないものです。
第1変奏から、このペダルはとても効果的な使い方をされています。アクションの関係なのでしょうか、頭にアタックが付くというものですから、まるでチョッパー・ベースのように目立って聞こえます。
第3変奏では、ペダルはお休み、その代わり、右手はリード管、左はフルート管と、音色をめいっぱい変えて、カノンの動きを際だたせています。第7変奏のシチリアーノでは、倍音管も混じってなんともはじけたにぎやかな世界が広がります。
13変奏は、バッハの典型的な緩徐楽章、オルガン曲でいえばパストラーレBWV590のようなたたずまいでしょうか。ゆったりとしたバスに乗って、豊かな装飾が施されたテーマが流れます。この雰囲気は、伸ばした音が切れてしまうチェンバロよりは、ずっとオルガンの方が向いています。
14変奏になると、華やかなトッカータでしょうか。幅広い音域を駆け回るごとに音色が変わるのが楽しめます。前半の最後となる第15変奏でのオスティナートを形作るバスは、低いオクターブを不気味にさまよっているかのようです。
後半の幕開け第16変奏こそは、オルガンの魅力が全開となって迫ってくるものです。このフランス風序曲の世界は、とても他の鍵盤楽器で描くことは出来ません。最後のフーガのかっこいいこと。
19変奏のように軽やかなパイプの手鍵盤だけであっさり演奏されるのも、壮大な響きの中での息抜きになります。オルガンのダイナミックスの幅がいかに大きいかということでしょう。それは、第25変奏の「暗さ」から、第26変奏の「明るさ」に瞬時に切り替われるだけの音色の幅の広さにもつながります。
29変奏の壮大そのもののトッカータを経験し(このペダルの迫力は、ものすごいものがあります)、最後の第30変奏のグランド・フィナーレを迎える頃には、この曲をオルガン以外の楽器で聴いた時にはちょっと物足りなさを感じるカラダになってしまっているかもしれません。そのぐらい、サウンド的にはインパクトのある、このオルガン・バージョンでした。
とは言ってみても、各々の変奏のキャラが、あまりに分かり易くカラフルに表現されていることに対して、逆に抵抗を持ってしまう人もいるかもしれません。この曲はもっとストイックであるべきだ、と。それはそれで構わないことでしょう。このオルガン・バージョンでもたらされたイメージはあくまでアルブレヒトの主観にすぎないのですから、誰の迷惑にもなりません(迷惑なのは「痴漢」)。

10月30日

STRAVINSKY
Le Sacre du Printemps
Symphony in 3 Movements
Jonathan Nott/
Bamberger Symphoniker
TUDOR/7145(hybrid SACD)


学力テストのニュースが世間を騒がせていますが、何でもかんでも採点して評価しようという風潮には「ちょっと違うのではない?」と思わずにはいられません。えっ、その「採点」じゃない。失っ礼しました。
「春の祭典」と言えば、そんな学力テスト並の多くの課題を抱えた難曲ですから、アマチュアオーケストラなどではまさに「試験」そのもののような覚悟をもって挑まなければなりません。いえ、実際に演奏できる機会のあるアマオケはまだましな方、その前にとても無理だとあきらめてしまうことの方が断然多いはずですがね。
プロのオーケストラといえども、この曲を演奏する時にはそれまでのルーティンからは離れた、特別な接し方が必要になってくるはず、指揮者にしても、気合いの入れ方が違うことでしょう。大汗をかきながら、小節ごとに変わる変拍子と格闘している姿を見ていると、いかにも大変な曲であることが聴いている(見ている)人にも伝わってきます。そう、この曲はまさに指揮者にとっても「採点」を迫られる「試験」なのです。
そんな、いかにも難しい曲に立ち向かう努力の跡を見るのが、この曲の一つの魅力であった時代が確かにありました。作曲家自身が指揮をした録音を聴いてみると、そんなせっぱ詰まった思いが如実に伝わってきて興味は尽きません。
しかし、いつの頃からか、そんな作曲家の思いとは裏腹に、この曲をなんの苦労もなく演奏してしまう人が出てくるようになりました。さらに、ブーレーズあたりの功績でしょうか単に「野蛮でわけの分からない曲」というイメージからも脱却するようになったのです。
今回の指揮者ノットは、ブーレーズと同じ、パリの「アンサンブル・アンテルコンタンポラン」の指揮者だった人、現代音楽を精緻に演奏するだけではなく、しっかりとした存在感を持って表現する能力にかけては定評があります。だいぶ前に出たリゲティのアルバムでも、作品に対する的確な解釈で、とても暖かい音楽を引き出していたはずです。
ですから、「春の祭典」でも、ひとつひとつの楽器のフレーズがきちんとした意味を持ってそれぞれに主張し合っていることが良く分かる演奏に仕上がっています。そもそも出だしのファゴットのソロからして、作曲された時にはとても難しい音を苦労して出しているという悲壮感を求めたものだったのでしょうが、ここで聴けるものは殆どセクシーと言っても構わないほどの艶やかさを持ったソロでした。そんな、すべての面で余裕を感じさせられる「大人」の演奏、そうなってくると、ブーレーズあたりがしゃかりきになってリズムの不規則性を強調していた「若い娘たちの踊り」などは、いともあっさりとしたリズム処理になっていて、逆に肩すかしを食らってしまうほどです。そんな、一見些事にこだわらないかに見えるノットの戦法、しかしそれは極めてクレバーなアプローチであることに、しばらくすると気づかされます。そこから生まれるいとも暖かい「春の祭典」、それはおそらく最も「現代的」なメッセージが込められたものなのかもしれません。
カップリングには「3楽章の交響曲」が収録されています。ノットによって同じアルバムの中に入れられた時、この曲の中、例えば両端の楽章に頻繁に見られる「春の祭典」のモチーフの断片に、いやでも気づかされることになります。こんな駄作の中にも、セルフ・パロディとしての存在意義をきちんと見いださせてくれるのが、ノットのたぐいまれな手腕です。

10月28日

このNAXOSを聴け!
松本大輔著
青弓社刊
ISBN978-4-7872-7235-5

著者は、今までにもこの出版社から2冊のクラシック本を出しています。それらと一緒にこの本を読めば、この方はとてつもないクラシック音楽のマニアであることが分かることでしょう。何しろ、その聴く量がハンパではありません。おそらく、一日の殆どの時間をCDを聴くことに費やしているに違いありません。なんともうらやましい、と思ったら、実はこの方は通信販売専門のCDショップ、「アリアCD」の店主だったのですね。CDなんて売るほどありあ(意味不明)。
そんな、超コアなリスナーである著者が、今まで聴いてきた数多くのCDの中で、特に感銘を受けたものにNAXOSのものがかなり多く含まれていたことから、こんな、特定のレーベルをタイトルにした尋常ではない本を書こうと思い立ったのだそうです。さらに、このレーベルにこだわったのには、もう一つの理由がありました。著者は以前の書物でもご自分が感銘を受けたCDを紹介して、その思いを読者と共有しようとしていたのですが、程なくそれらのものは廃盤や製造終了となって入手不能になってしまったというのです。せっかく紹介しても、現物が手に入らないのであればなんにもなりません。しかし、NAXOSでは基本的に一度発売したアイテムを廃盤にすることはないというのです。しかも、他のマイナーレーベルとは違い、全国どこのかなり小さな小売店でも扱っていて、店頭になくても注文すれば間違いなく手に入れることが出来るという非常にありがたい体制が整っているのだそうなのです。なんでも、20年前に誕生したこのレーベルは、今までになんと3000枚以上のCDをリリース、そして現在も、毎月何十枚という新譜を出し続けているということ、それらが総て入手可能な状態にあるというのですから、これはすごいことですね。
そんなNAXOS1000枚(!)は聴いてきたという著者のお薦めは、とことん濃いものでした。なにしろ、「有名な作曲家」というコーナーでも、普通によく知られている作曲家などはまず登場しないのですからね。スヴェンセンやチャドウィックのどこが「有名」だというのでしょう。ティシチェンコやグレチャニノフなんて、初めて聞いた名前ですし。しかし、そこでめげていてはいけません。このコーナーを読破し、さらに「マイナーな作曲家」へと進む頃には、あなたも著者の熱気に煽られていっぱしのクラシックマニアになってしまっていることでしょう。
著者がこの本の中で多くのページを割いて紹介しているのが、例の「日本作曲家選輯」です。日本の代理店が企画を出して、今まで殆ど知られることのなかった日本人作曲家の作品を体系的に紹介しようというとても他のレーベルでは実現しそうもないプロジェクト、著者は執筆時点でリリースされているすべてのアイテムについて熱いコメントを寄せているのです。
しかし、そのコーナーの最後で「このシリーズは頓挫してしまうかもしれない」と述べているあたりから、この本は別の意味で極めてドラマティックな様相を呈することになります。折しも著者が原稿をすべて書き上げた頃に、NAXOSを創業時から支えてきた日本の代理店が、突然「も〜辞めた」と言って代理店の権利を返上、他の会社がその業務を引き継ぐことになってしまったのです。このあたりの詳細な経緯も、「あとがき」のような形で正確に知ることが出来ます。そのことによって、こちらにも書いたように、少なくとも今までの「廉価盤」というイメージは、もはや期待は出来ないようになってしまいました。しかし、このレーベルはすでに他では決して得られないレアなものをくまなく集めた、まさにクラシック音楽の百科事典としての確固たる地位を築き上げています。この本で著者は、図らずも「新生」NAXOSへ向けて熱いエールを送っているようには、見えないでしょうか。

10月26日

LUCHESI
La Passione di Gesù Christo
A. Vavasori(Pietro/Alt), P. Manfredini(Maddalena/Sop)
M. Pierattelli(Giuseppe/Ten), A. Manzotti(Giovanni/Alt)
E. Bertuzzi(Nicodemo/Sop)
Sandro Filippi/
Orchertra Barocca di Cremona
TACTUS/TC 741203


1730年にメタスタージオが書いたテキストを用いた「我が主イエス・キリストの受難」という、いわゆるバッハあたりの「受難曲」とはひと味違った設定によるオラトリオは、18世紀後半から19世紀初めにかけて数多くの作曲家によって作られています(一説では十何曲)。それらの作曲家はいまいち有名ではない人たちばかりなので、今まで殆ど知られることはありませんでしたが、最近になって次々と新録音が登場して、この曲に関心が集まるようになってきています。「おやぢの部屋」でも、今までにミスリヴェチェクサリエリパイジエッロの作品を紹介してきました。
今回は、1741年生まれ、ヴェニスで活躍した後、あのベートーヴェンのおじいさん(名前も「ルートヴィヒ」)が努めていたボンのカペルマイスターの地位を獲得したというイタリアの作曲家アンドレア・ルケージの作品の、世界初録音盤です。彼の名前は、この前のエントリーの「モーツァルトの周辺の作曲家」の中でも見られたものですね。ちなみに、ボンの宮廷楽団では少年時代のルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン・ジュニアその人もオルガニストの助手や、チェンバロとヴィオラ奏者として演奏していましたから、作曲に関してもルケージからは何らかの影響を受けていたことでしょう。
彼の「受難」は、1776年にボンで作られました。ところが、今まで聴いてきた3曲はCD2枚組だったのですが、これは1枚しかありません。それは、2部構成のテキストの内の第1部しか作曲されていないためです。これは、否認を悔いたペテロのシーンを集中的に扱うために、あえてキリストの埋葬に訪れるという第2部をカットしたルケージ自身の配慮によるものです。さらに、歌手の都合で最後のペテロのアリアも「ニコデムス」という、別のキャラが歌うようになっています。
そんな、少しコンパクトになった中で、音楽はキビキビと進んでいきます。アリアの間をレシタティーヴォでつなぐというオペラと同じ手法ですが、アッコンパニアート(レシタティーヴォの伴奏)もなかなか雄弁で楽しめます。短調で始まる重々しい序曲といい、それに続くペテロのアリアといい、まさにモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」と非常によく似たテイストを持った音楽が展開されているという印象を受けるのは、ある程度予測の出来たことでした。いえ、どこがどう似ていると指摘が出来るようなものではないのですが、それは例えばこの曲の中のソプラノのアリアを、ドンナ・アンナのアリアと置き換えてみてもなんの違和感もないだろうと思われるというほどに、同じ世界の産物のように聞こえてくるということなのです。もちろん「ドン・ジョヴァンニ」が作られるのはこれから10年ほど先のことになるのですから、直接的な関連などあるわけはありません。そういう次元の話ではなく、あの時代のヨーロッパではこういう音楽を作ろうと思えば誰にでも(もちろん、それなりの修練を積んだスキルの持ち主に限られますが)それが出来るだけの素地があったということなのでしょう。別な言い方をすれば、この曲は「モーツァルトの新しく発見されたオペラ」と紹介されて初めて聴かされた時に、かなり多くの人がなんの疑いも持たずに信じるだけのものを持っているのです。一度、試してみませんか?
ただ、このあたりのイタリアのレーベルにありがちな非常に貧しい録音のために、そんな試みも足を引っ張られてしまうかもしれません。ぼやけて焦点の定まらない音はオーケストラの響きから活力を奪ってしまい、かなりのメッセージをそぎ落としてしまっています。さらに、ソリスト達も粒ぞろいとは言い難く、アリマテアのヨゼフ役のテノールとヨハネ役のアルトはかなり悲惨。「聴き比べ」は、もっとまともなキャストと録音のものが現れてからにした方が良さそうです。

10月24日

Sinfonie avanti l'Opera intorno a Mozart
Francesco Quattrocchi/
Orchestra Sinfonica Abruzzese
BONGIOVANNI/GB 5634-2


タイトルを直訳すると「モーツァルトの周辺の、オペラの前の交響曲」となります。もちろん「Sinfonie」を「交響曲」と訳すのはこの場合は不適当、当時はオペラの前に演奏された、ある種「呼び込み」というか、「1ベル」のような役目を果たしていた音楽のことを「シンフォニー」と言っていたのですから、「序曲」と訳すべきでしょう。これらの「序曲」は急−緩−急の3つの部分に分かれていることが多く、それに踊りの音楽であるメヌエットなどを加えて独立した楽曲となったものが将来は「交響曲」と呼ばれることになるのです。もっとも、「交響曲」などというおどろおどろしい字面を持つ言葉はもちろん日本語だけのものですね。ベートーヴェン以降の「シンフォニー」にしか通用しないようなこの訳語も、そろそろご用済みになって欲しいものです。
このCDに収められているオペラの序曲は、すべて世界初録音のものなのだそうです。そういうものを聴いてみたいと思うのと同時に、それが「モーツァルト周辺」の作曲家のものであるというのに、非常に興味を覚えました。モーツァルトは確かに才能にあふれた作曲家ではありますが、その音楽は彼個人の才能だけでは決して生まれたものではないことは自明の理です。彼と同時代の作曲家達の作った「知られざる」曲を聴くたびに、そんな思いはどんどん募ってきたところ、こんな企画でそれをさらに確固たるものにしたいという気持ちがあったのです。
ここに収録されている序曲の作曲家は全部で5人、そのうちのジョヴァンニ・パイジエッロ、アンドレア・ルケージ、そしてドメニコ・チマローザの3人は作品を聴いたことのある人たちでしたが、残りのニコロ・ピッチンニとパスクワーレ・アンフォッシは今回初めて聞く名前と、そして初めて聴く作品です。「アンフォッシ」さんなんて、甘い物好きだったのでしょうか(餡、欲し)。
最初の、そのピッチンニの「偽のトルコ人」という、いきなりタンバリンなどが聞こえてくる、それこそモーツァルトの「後宮」のようなオリエンタル・テイスト満載の曲では、ちょっとした失望感を味わってしまいました。オーケストラが全くやる気がないのがはっきり分かってしまうのです。写真などを見ると一応プロのオーケストラのようではありますが、出てくる音はまるっきりのシロート、テンポは定まらないし、オーボエ・ソロの音程など悲惨なものです。そして、ピッチンニ先生の曲が、本当につまらない、気の抜けたようなものだったのですよ。もしかしたら、モーツァルトはこんな人たちとは別格な存在としてこの時代に君臨していたのでは、と本気で考え直したくなったほどです。
しかし、同じようにつまらない「アメリカのナポリ人たち」に続いてパイジエッロの「親切なアラビア人たち」という曲になった途端、オーケストラの響きが俄然変わってしまったのですから驚きます。それまで決して聞かれることのなかった生き生きとした魂の昂揚のようなものが、ここからは見事に発散されるようになってくるのです。その流れるようなグルーヴ感と、時折見せてくれるちょっと意外なメロディの変化は、まさにモーツァルトと全く変わらない様式の中から生まれてくるものでした。
その後、アンフォッシの曲では、ピッチンニほどではありませんが凡庸なたたずまいを感じたものの、ルケージ、そしてチマローザでは、モーツァルトの曲の持つスピリットにかなり近いものを彼らが持っているということが確認できました。
モーツァルトの時代には、彼と同程度の作曲家はいくらでもいたということは、もはや揺るぎのない事実です。それと同時に、当然の話ですがどうしようもない作曲家もいくらでもいたということを、クワトロッキの指揮する名もないオーケストラは、見事に証明してくれたのです。
ちなみに、このアルバムの企画、選曲、楽譜校訂を行ったのは、日本の音楽学者、山田高誌さんです。

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17