ジャイ子のスキー。.... 佐久間學

(14/2/27-14/3/17)

Blog Version


3月17日

WAGNER
Parsifal
Jonas Kaufmann(Parsifal), René Pape(Gurnemanz)
Katarina Dalayman(Kundry), Peter Mattei(Amfortas)
Evgeny Nikitin(Klingsor), François Girard(Dir)
Daniele Gatti/
The Metropolitan Opera Orchestra, Chorus, Ballet
SONY/88883725729(BD)


ワーグナー・イヤーの2013年2月に、ニューヨークのMETで上演された「パルジファル」の映像です。例によって、ライブ・ビューイングの素材をそのまま商品化したという「2度おいしい」商売の産物です。しかも、おそらくこのBDと全く同じものがWOWOWでも放送されていますから、そちらで楽しむこともできます。とは言っても、放送されたものの音のクオリティはセルBDと比べたらひどいものですから、本当に良い音で聴きたい時には、きちんと商品のBDを買って聴かなければいけません。
それで、本来の姿のライブ・ビューイングの場合はどうなのかを知るために、先日初めて映画館に行ってその映像と音を体験してみました。音に関しては、これはもうひとえにその映画館の設備の良否にかかっているわけですから、一概には言えないでしょうが、その仙台市の映画館の場合は、セルBDにははるかに及ばないものでした。なにしろ、一番期待していたサラウンドに、全く対応できていないのですからね。
ただ、やはり大画面の迫力は、お茶の間の小さなモニターでは決して得られないものでしたから、音にはそれほど期待せずに見に行けば、なかなか楽しめるのではないでしょうか。しかも、映画館の場合は休憩時間も生中継の時と同じようにそのままステージの設営の模様や、客席の様子などを映していますから、まさにリアルタイムで実際に劇場にいる時と同じ時間を共有できますよ。BDでは、インタビューが終わったあとはカットされていますからね。
ライブ・ビューイングを商品化するにあたってのレーベルは、特にMET独自のものではなく、それぞれの演目のメインのアーティストとの契約の関係あたりが基準になって、既存のところに割り振っているのでしょうか。今回は、なんと言ってもカウフマンが目玉ですから、彼が「所属」しているSONYからのリリースとなります。
そんな扱いでも分かる通り、このプロダクションの最大の魅力は、カウフマンの歌うタイトル・ロールでしょう。第1幕の、まだ「愚か者」だった時点での登場場面でも、彼の声が聴こえてくるなりステージ全体がピリッと引き締まるのが分かります。第2幕はもう圧倒的、クンドリー役のダライマンを相手に、思いっきりのフル・ヴォイスの魅力に浸れます。そして、もはや「賢者」となった第3幕では、ソット・ヴォーチェまでも交えての、とても深みのある歌を聴くことが出来ます。
ただ、この演出ではパルジファルがセミヌードになるシーンがあるのですが、そこをカメラがアップでとらえると、思いのほかお腹のあたりたるみがたっぷりあったのには、ちょっとがっかりしてしまいました。ルックス同様、体もしっかり引き締まっていると思っていたのに・・・
でも、おそらくこの演出はカウフマンを想定してのものだったのでしょうから、もっとブヨブヨの、たとえばボータあたりだったら、別のプランに変更するのかもしれませんね。
そんな、鳴り物入りで起用されたジラールの演出は、さすがに映画監督だけあって、映像の使い方が堂に入ってました。ただ、「指環」のルパージュのような合成されたものではなく、おそらく実写の映像がステージのバックに映し出されるという手法で、確かに美しいものではあるのですが、オペラのステージでこれをやってしまうのはちょっと反則っぽいのでは、と感じてしまいます。それより気になったのは、合唱団やらバレエ団でおそらく100人以上にはなっている群衆の扱いです。かなり細かい演技、というか「振り」を要求しているのですが、その出来がイマイチなんですよね。「一生懸命覚えました」という切迫感がミエミエですからね。しかも、その合唱の歌が最悪。
それと、バイロイトでの実績もあるガッティの指揮も、ちょっとオケが付いていけてないようで(前奏曲が、ボロボロでしたから)素直には入りきれないところがありました。

BD Artwork © Sony Music Entertainment

3月15日

RAVEL
Orchestral Works
Alexander Kalajdzic/
Bielefelder Philharmoniker
MDG /901 1820-6(hybrid SACD)


ラヴェルのオーケストラ作品の新しいアルバムです。とは言っても、全て最初はピアノ曲だったものをオーケストラ用に編曲したものです。ここに収録されている「高雅で感傷的なワルツ」、「古風なメヌエット」、「亡き王女のためのパヴァーヌ」はラヴェル自身が編曲を行い、すでに日常的に演奏されているバージョンですが、「夜のガスパール」だけは、マリウス・コンスタンという人によってごく最近編曲されたもので、たまにしか演奏されません(コンスタントではない、と)。
この編曲は、1990年にコンスタンがラヴェルの遺族と出版社からの要請で行ったもので、その年にまずローラン・プティジラール指揮のフランス交響楽団によって初録音されます。さらに翌年、1991年にこのメンバーによる公開の初演がサル・プレイエルで行われ、同じ年に楽譜も出版されました。その後は、このバージョンは、2004年のエッシェンバッハ盤(ONDINE)、2007年のジョナサン・ダーリントン盤(ACOUSENCE)と2012年のスラトキン盤(NAXOS)いう3種類の録音が出ただけなのではないでしょうか。ですから、今回の録音は知りうる限り5度目のものとなるのでしょう。
演奏しているのは、初めて耳にしたビーレフェルト・フィルハーモニカーというオーケストラです。北ドイツのビーレフェルトという街に、1901年に創設されています。ただ、ここの公式サイトなどを見てみると、管楽器は3管から4管のメンバーを抱えているようですが、弦楽器がかなり少なめ、コントラバスなどは4人しかいません。まあ、普通の有名なオーケストラのほぼ半数のメンバーですね。日本で言えば仙台フィルのような地方オケよりも少なめです。ブックレットにある、おそらく演奏会の前に撮ったと思われる集合写真では、やはりサイトで見られる人数ぐらいしかいませんから、こんなほとんど「室内オケ」に毛が生えたような編成で頑張っているのでしょうか。
その写真の場所は、このオーケストラの本拠地であるルドルフ・エトカー・ハレという、収容人員1500人ほどのホールです。床が真っ平な、本当の意味でのシューボックス・タイプの形をしていて、ステージにはオルガンも設置されています。
このオーケストラは、ビーレフェルト劇場で行われるオペラ公演でも演奏しています。その、オペラ、オーケストラを統括する総音楽監督を2010年から務めているのが、ここで指揮をしているザグレブ生まれのアレクサンダー・カラジッチです。
そんな彼らが演奏するラヴェルは、どことなく機能的な感じが与えられるものでした。管楽器の奏者たちは、かなりの高レベルのような印象があります。特にフルートやクラリネットのソロには、しばしば「すごい」と思えるようなところがあって、とても聴きごたえがあります。ただ、そのような個人芸には秀でたところがあるものの、全体の演奏になるとなにか心に迫るものが希薄になってしまいます。特に、最初の「ワルツ」などは、ラヴェルには必ずあってほしい「粋」なテイストがほとんど感じられないのが、さびしいところです。これは、弦楽器の人数が少ないことも、たぶん影響しているのではないでしょうか。音が生で聴こえてきて、包む込まれるような感触が得られないんですよね。
しかし、最後の「夜のガスパール」は、ちょっと様相が違っています。コンスタンの編曲は、はっきり言ってラヴェルの趣味とはかなり隔たりのあるものです。初演盤では、そこにちょっとした勘違いがあったようで、何か全体の音を融合させようという意識が感じられ、確かにそこからはある意味「ラヴェル風」の響きは聴こえてきたものですが、今回はSACDということもあってそれぞれの音、特に打楽器が生々しく聴こえてきて、「コンスタンらしさ」がはっきり感じられるものになっているのです。ラヴェルには向かないオーケストラだと思っていたものが、こんなところで威力を発揮していたとは。

SACD Artwork © Musikproduktion Dabringhaus und Grimm

3月13日

DUKAS
L'Apprenti sorcier, Velléda, Polyucte
Chantal Santon(Sop)
Julien Dran(Ten)
Jean-Manuel Cadenot(Bar)
François-Xavier Roth/
Les Siècles
ACTES SUD/ASM 12


ほとんど「近代」という位置づけの時代に作られた音楽でも、あくまでその当時の楽器を使って演奏するという、ロトとレ・シエクルのチームが、今度はポール・デュカスの作品を録音しました。デュカスといえば、ストコフスキーがサウンド・トラックを担当したディズニー・アニメの中で使われて一躍有名になった「魔法使いの弟子」と、もう1曲、こちらはNHK-FMのテーマ音楽として、作曲家の名前も分からずに耳に馴染んだ「『ラ・ペリ』のファンファーレ」以外には全く知られていないクラシック界の「一発屋」、いや「二発屋」です。ここでは、そんな、今まで全くタイトルすらも知らなかった「ヴェレダ」というカンタータと、「ポリュークト」序曲も聴くことが出来ます。
もちろん、メインは「魔法使いの弟子」です。ケムンパスのお仲間ですね(それは「魔法使いのべし」・・・わかんないだろうなぁ)。なんと言っても聴きどころは、あのユーモラスなテーマを演奏しているファゴットの音色でしょう。この楽器は、今でこそ世界中どこに行ってもその「ファゴット」という名前を持つ楽器を使っているオーケストラしかいなくなってしまいましたが、デュカスが想定しているのはもちろんフランス風の楽器「バソン」でした。
ところが、そのバソンが出てくる前の弦楽器の音で、すでに全く今まで聴いてきたものとは別物のサウンドを体験することになります。それは、なんとも言いようのない、「これぞ、おフランス」という、くすぐったくなるような肌触りを持っていたのです。こんな弦楽器に先導されれば、そのあとに出てくるのはやはりホンワリとしただらしなさ(もちろん、いい意味です)を振りまいているバソンしかありません。
ライナーには、例によって使われている楽器のメーカーまで書いてありますから、ビュッフェ・クランポンの名前があればそれがバソンであることははっきりします。そんな風に他の楽器を見てみると、フルートはルイ・ロットでしたね。そういえば、そんなまろやかな音でノン・ビブラートのフルートが聴こえていました。こうなると、木管のハモリが全然別物に聴こえます。
さらに打楽器の欄には「Jeu de timbres Mustel」というクレジットが見えました。ミュステルというのはチェレスタを作ったメーカーですが、「ジュ・ド・タンブル」、つまり鍵盤グロッケンシュピールも作っていたのでしょうか。スコアを見てみると、このパートには「Glockenspiel(Célesta à défaut)」つまり「欠陥のあるチェレスタ」という表記があります。要するに「チェレスタとしては、音の優美さが欠けている楽器」程度の意味だとすると、まさに鍵盤グロッケンシュピールそのものですね。おそらくこの楽器なのでしょう、ひときわにぎやかに「鉄琴」にしてはキャラが立ちすぎている音がはっきりと聴こえてきます。そんな、とても猥雑な雰囲気ムンムンの演奏に、まさに心は「世紀末」(1897年に作られています)。
初めて聴いた3人のソリストのためのカンタータ「ヴェレダ」も、なかなか興味深い作品でした。印象派的な手法も取り入れているにもかかわらず、外観はあくまでキャッチー、ガリア人の巫女ヴェレダと、ローマ人の司令官エドルとの道ならぬ恋の物語なのだそうですが、テキスト(フランス語のみ)を見なくても、ドラマティックな情景が目の前に広がってくるような気がするから不思議です。そのエドルを歌っているジュリアン・ドランというテノールが、このオーケストラの世紀末的な響きに見事にマッチした、なんとも言えない「濁った」(これももちろん、いい意味です)声なのが、たまりません。
最後の「ポリュークト」序曲だけは、なんだか普通のオケみたいに落ち着いた音色で聴こえてきます。録音会場が違うせいなのか、弦楽器の人数が33人から41人に増えているせいなのかは、分かりません。スリリングさがなくなってしまって、ちょっと残念。

CD Artwork © Musicales Actes Sud

3月11日

音楽史影の仕掛け人
小宮正安著
春秋社刊
ISBN978-4-393-93031-1

「音楽史」、正確には「西洋音楽史」というのは、言うまでもなく「西洋音楽」の「歴史」なのですから、そんな「音楽」を作った人物である「作曲家」の「歴史」と言えないこともありません。しかし、現実はそんな単純なものでないことは、誰でも気付くはずです。例えば、バッハ→ハイドン→モーツァルト→ベートーヴェンと「音楽」が「進化」してきた、みたいな、かつては教育現場でさえもまかり通っていた分かりやすくシンプルな史観は、もはや顧みられることはありません。そんなものは、そういう流れの発展形ととらえられていた「現代音楽」の崩壊とともに、跡形もなく崩れ去っていたのです。
もちろん、作曲家は西洋音楽史の主人公であることは間違いありません。しかし、その作曲家に様々な影響を与えるなど、何らかの形で関係を持っていた人物の存在を知れば、より奥深い人間像がイメージ出来るようになるはずです。確かに、それぞれの作曲家の伝記には決まって登場するキャストというものが、必ずいるものです。ただ、それらは、たとえば「モーツァルトはコロレド大司教の逆鱗に触れた」みたいな定型文として認識されているだけで、そのコロレドさんというとは実際はどういう人だったのか、つまり、コロレドさんサイドからの証言というものにはほとんどお目にかかることがなかったというのが、今までの伝記業界の実状だったのではないでしょうか。そんな、今まで西洋音楽史の片隅にちょこっと顔を出すことによって「どこかで聞いたことがあるような名前」として意識の片隅に残っていた人物について掘り下げてみた、というのがこの本なのです。
そんな、いわば「裏音楽史」の主人公たちは全部で25人、それぞれに個性的な面々が集まっています。そんな中で、この人たちがいなかったら、今のコンサートはさぞやさびしいものになっただろうと思えてしまうような二人の「セルゲイ」の存在が、とても気になるものでした。一人は、「バレエ・リュス」を創ったセルゲイ・ディアギレフ、そしてもう一人は指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーです。ディアギレフに関してはある程度の人間像はわかっていましたが、クーセヴィツキーがこれほどまでに貪欲に自らの道を開いた人であったことは、ここで初めて知ることが出来ました。なんと言っても、2度目の奥さんの実家の財産にものを言わせて、強引に指揮者のレッスンを受けたり、あのベルリン・フィルを金で買って指揮者デビューを果たしたりといった豪快なエピソードがたまりません。
考えてみれば、前作「モーツァルトを『造った』男」に登場したケッヘルさんも、この著者によって同じようにその人間的な側面が生き生きと伝わって来たものでした。あの時に著者が見せた単に音楽史にとどまらない世界史全体を見据えた視点は、ここでも健在でした。あたかも「暴露話」のように見えて、全体を読み終えたときには18世紀後半から現代へ至るまでのヨーロッパ全体の歴史が頭の中に広がっていて、革命や戦争にさらされながらもしたたかに生き延びてきた「西洋音楽」の姿が、くっきりと浮かび上がってくるのです。おそらく意識したことではなかったのでしょうが、この本の中に幾度となく登場する「毀誉褒貶」という難しい単語が、それぞれの人物の姿を「つとに」明らかにしてくれています。
著者がこの本を書き上げたのは昨年の7月ごろだったのでしょうが、あと半年ほどすると世間を騒がせた「ゴーストライター」事件が発覚します。そこでゴーストライターに曲を作らせた人物こそは「影の仕掛け人」、そこで、あのモーツァルトをしてゴーストライター業に手を染めしめたヴァルゼック伯爵を登場させていれば、さらに充実した内容になっていたのかもしれないよう。惜しいことをしましたね。

Book Artwork © Shunjusha Publishing Company

3月9日

BEETHOVEN
Symphonies 7&8
Giovanni Antonini/
Kammerorchester Basel
SONY/88765 46937 2


アントニーニとバーゼル室内管弦楽団とのベートーヴェンの交響曲は、最初はOEHMSレーベルからリリースされていました。1番と2番がカップリングされたアルバム2005年にSACDとして出たのですね。1番は2004年、2番は2005年の録音でした。なかなか勢いのある演奏だったので、続編を楽しみにしていたのですが、それ1枚きりで終わってしまった・・・と思っていたら、実はレーベルがSONYに変わって、その後もコンスタントに2〜3年おきに番号順に録音を重ね、すでに「3/4番」と「5/6番」をリリースしていたのでした。今回この「7/8番」が出て、やっとそのことに気付いたというわけです。マイナー・レーベルはいつもチェックしているのですが、最近のメジャー・レーベルは最初からスルーしていますから、見逃してしまったのですね。
ただ、レーベルが変わったと言っても、これは良くある単にディストリビューターが変わったというだけのことで、製作スタッフは全く同じですし、故アバドの最近の映像でおなじみのルツェルンのホールでのセッション録音というスタイルも変わっていないようです。なにはともあれ、この2010年に録音された「7番」と、2012年に録音された「8番」によって、彼らの刺激的なツィクルスにまた参加できることになりました。
しかし、SONYでの1作目まではOEHMS時代と同じSACDだったものが、2作目からはノーマルCDになってしまったというあたりが、変化と言えるかもしれません。そのあたりも、チェックする必要はあるでしょう。
10年近くのブランクを経て再会した彼らの演奏は、とても自信に満ちたものでした。実際には、メンバーはかなり入れ替わっているようですが、それにもかかわらずアントニーニのやりたいことがしっかり浸透し、それが受け継がれているのでしょう。「1番」あたりではちょっと気になっていたいかにも借り物のような不自然な表現はもはや見られず、確固たるスタイルを築き上げて、それを元に突き進んでいるように思えます。これはかっこいいですよ。
基本的に、モダン楽器を用いながらピリオド楽器に限りなく近づいた表現を行うというのが、彼らのやり方です。弦楽器の人数も、初期のものでもこの頃のものでもほとんどサイズを変えず、あくまで「室内オケ」としてのベートーヴェン演奏という姿勢を貫いていて、小編成ならではの小気味の良い表現が随所に見られます。
「7番」では、第2楽章のちょっとクールな仕上がりがとても魅力的です。深刻にならず、それでいて何か背筋が寒くなるような風景を感じるのは、まるで男声合唱のようによくハモる低弦と、そこにショッキングなパルスを打ち込む金管、そして、対照的に夢見るようなたたずまいを醸し出す木管のせいでしょう。終楽章の、コントロールの枠を外れる一歩手前の疾走感も、素敵です。
それから2年後に録音された「8番」でも、よくあるような、「7番」との対比で少しキャラクターを変えるというような小細工は施さず、演奏はあくまでアグレッシブに迫ります。こちらも第2楽章の極端なダイナミック・レンジの設定は聴きものです。常々しつこすぎるような気がしていた終楽章のエンディングにも、しっかりと必然性が感じられますし。
ただ、録音会場もエンジニアも全く同じなのですが、微妙なマイクアレンジの違いで音がちょっとまろやかなものに変わっているために、少し穏やかな印象を与えられますが、それはおそらくアントニーニが意図したことではないような気がします。
しかし、それまでの「7番」でたっぷりした音圧で聴いている分にはほとんど不満はなかったものが、そんな幾分繊細な音になった時には、もろにCDの限界が感じられてしまいます。これが当初のようなSACDであれば、そんなことはなかったのでしょうが。
次に出るであろう「9番」がとても楽しみです。でも、それがSACDで出ることはまずないでしょうね。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

3月7日

MOZART
Serenade K361 "Gran Partita"
Stuttgart Winds
TACET/B 209(BA)


ドイツのTACETというレーベルは、1980年代の終わりごろに、それまでINTERCORDレーベルでレコーディング・エンジニアを務めていたアンドレアス・シュプレアーという人が作ったものです。彼のこだわりは、真空管マイク。ノイマンのU-47とか、M-49といった、それぞれの品番に現れている1947年と1949年に発表されたというヴィンテージ・マイクをメインに使って、暖かみのある音を目指しているようでした。それは到底CDでは十分に味わえるものではないという気がしていたので、以前LPを入手して聴いてみたことがありました。しかし、その盤質は最悪で、素晴らしい音の片鱗すらも味わえないものでした。
最近になって、このレーベルではついにBAを出すことになったようです。その最初のリリース分の中にこんな「名曲」があったので、このフォーマットだったらシュプレアーが求めていた音が存分に伝わってくることを期待して、聴いてみることにしました。
いやあ、その音ときたら、まさに度肝を抜かれるようなものでした。スペックは24bit/96kHz、全くストレスを感じることのない、現在求め得る最良のデジタル録音を味わう思いです。それぞれの楽器はとてもなめらかな肌触りでしっかりと存在感を見せていますし、アンサンブルとしての音の融け具合も見事です。この曲の場合、当時の一般的なハルモニー・ムジークの編成(オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンがそれぞれ2本ずつ)に、バセット・ホルンとコントラバスが加わっていますが(さらにホルンが4本に)、そんな特徴もはっきり楽しむことが出来ます。特に、クラリネットとバセット・ホルンは、同じ仲間でありながら、微妙にキャラクターが違っていることが、これほどはっきり聴き取れる録音には初めて出会えたような気がします。
ですから、そこからはモーツァルトのオーケストレーションの見事さもしっかり伝わってきます。例えば3曲目の「Adagio」では、オーボエ、クラリネット、バセット・ホルンという3つのメロディ楽器は、それぞれの2番奏者がオスティナートを吹いている中を、1番奏者が代わりばんこに美しい歌を歌いつなげていきます。長いメロディ・ラインを、それぞれ最適だと思われる楽器が受け持つ、その受け渡しは、見事としか言いようがありません。一渡り歌い終わったところで、今までリズムばかりを吹かされていた2番奏者にかわいらしいフレーズがまわってくるのも、演奏家にとってはたまらない配慮です。
と、そのあと新しい歌が始まったとたん、何か違和感のある音が聴こえてきました。オーボエとバセット・ホルンのターンの下の音が、聴きなれたものより半音高いのですね。しかも、前の音とタイでつながっています。
そういえば、それまで聴いていた中でも、アーティキュレーションがちょっと違うものがあったような。
楽譜を調べてみたら、ここで使われているのはベーレンライターの新全集だとわかりました。ブライトコプフの旧全集とは、かなりの部分で違っているのですね。しかし、この部分は自筆稿にははっきりナチュラルが書いてあるのに、なぜ旧全集ではそれが落ちてしまったのでしょう。世の愛好家は、ずっと間違った音で聴かされていたのですね。

↑旧全集


↑新全集


↑自筆稿

最近の録音のものでもいまだにこの間違った旧全集を使っているところもありますが、ピリオド楽器系ではもちろん新全集を使っています。ここで演奏しているのは、あのノリントンにピリオド奏法を仕込まれたシュトゥットガルト放送交響楽団の管楽器のメンバー、そもそも1曲目の序奏でも付点音符を長めに演奏していましたし、ホルンもナチュラルっぽい音を出したりしてピリオド・アプローチを心がけているようですから、新全集を使うのは当たり前なのでした。最後の「トルコ行進曲」では、コントラバスが「バルトルコ(バルトーク)・ピチカート」を使って、にぎやかさを演出していましたしね。録音も演奏も大満足、シュプレアーの思いは、見事に伝わってきましたよ。

BA Artwork © TACET

3月5日

A Tribute to Oscar Peterson
Andrew Litton(Pf)
BIS/SACD-2034(hybrid SACD)


かなり前のことですが、2001年9月にアップした「おやぢの部屋」でこんなCDを紹介していました。「ホロヴィッツへのオマージュ」というタイトルのそのCDでは、ヴァレリー・クレショフというピアニストが、ホロヴィッツが自ら編曲したとても難度の高い曲を何どしても弾いてみたいと、楽譜が公になっていないその演奏の録音を聴きとって楽譜を書き下ろし、それを録音した、というものでしたね。
これがアップされた時には、ある「疑惑」がささやかれていました。

それは、このジャケット写真は合成ではないのか、というものです。そんな「憶測」に基づいて、このレビューの「初稿」には、その「疑惑」に関する無責任な言及が含まれていました。しかしその後、「ホロヴィッツが亡くなる直前にクレショフはニューヨークでホロヴィッツに会っていたとライナーに書かれている」という外部からの「告発」がありました。たしかに、きちんと読みなおすとそのようなことが書いてあります。その写真は「本物」だったのですね。その「告発」に従い、本文を書き直したのは、言うまでもありません。このレビューの最後にある注釈は、そのあたりの混乱ぶりを反映したものだったのですね。
今回、似たような「疑惑」を持たれたのは、指揮者のアンドリュー・リットンでした。彼はピアニストとしても活躍していて、このたびピアノ・ソロのアルバムをリリースしました。そこで取り上げているのが、著名なジャズ・ピアニストであるオスカー・ピーターソンの即興演奏なのですね。そのジャケットを飾っているリットンとピーターソンが並んで写っている写真が、そんな「疑惑」の対象でした。どうですか?もちろん、リットンの写真はかなり若いころのものなのでしょうが、これはミエミエの「合成写真」ではないでしょうか。
しかし、12年半前の轍を踏むことだけは避けたいものだ、と、今回はリットン自身が執筆しているライナーノーツを、きっちり読んでみたところ、「ジャケット写真は、1985年の7月に撮ったものだ」という証言があるではありませんか。危ない、危ない。ヘタをしたら、このBISレーベルのおかげで2度目の大恥をかくところでした。
なぜリットンがオスカー・ピーターソンを?と思うのも当然のことでしょう。そんな疑問も、彼のライナーによって晴れることになります。ニューヨーク生まれのリットン少年は、クラシック音楽の英才教育を受け、ブロードウェイ・ミュージカルに親しむという中で育ちますが、「ジャズ」に関してはほとんど未体験でした。しかし、16歳の誕生パーティーで同級生のデヴィッド・フランケル(後の「プラダを着た悪魔」の監督)からもらった1枚のレコードによって、彼の人生は変わります。それは、オスカー・ピーターソンの「TRACKS」という1970年のソロ・ピアノのアルバムだったのですが、それを聞いたとたんにリットン少年は彼のピアノにハマってしまったのです。
やがてリットンは指揮者となり、実際にピーターソンとの共演も果たします(その時に楽屋で撮ったものが、ジャケット写真)。そしてしばらくすると、それまでは聴くだけだったピーターソンのピアノを、自分でも弾くようになってしまいます。それは、ロンドンでのさるパーティーで、スティーヴン・オズボーンがピーターソンを弾いているのを聴いたからです。楽譜など出ていないはずなのに、と、オズボーンに聞いてみたら、彼は自分でCDからコピーしたというのに驚き、早速その譜面を送ってもらい、それからはそれを弾くことが彼の「趣味」となりました。その「趣味」の集大成が、このアルバムなのです。
ピーターソンが一番好きだというベーゼンドルファーをわざわざ借りて録音したというほどに、まさに本人としてはピーターソンになりきって演奏している数々のソロ・プレイ、しかし、なぜかそこにはオリジナルのもつクールさが、見事に欠如していました。

SACD Artwork © BIS Records AB

3月3日

TCHAIKOVSKY
Ballet Suites
Herbert von Karajan/
Wiener Philharmoniker
DECCA/00289 478 5028(BA)


2008年のカラヤン・イヤーに、こんなボックスを買ってました。まさにルーティン・ワークそのもののベルリン・フィルとのDG盤などは別に聴きたいとは思いませんが、この5年ほどの間のウィーン・フィルとの録音は、ちょっとそれとは違うような気がしていたものですから。それと、一番の魅力は、当時のDECCAの伝説的なエンジニア、ゴードン・パリーが録音を手掛けていた、というところでした。「指環」をはじめとしたこの頃のパリーの録音は、リアルタイムにLPで聴いていて、そのゴージャスな響きにはとことん惚れ込んでいたものですから、これもまとめて聴いてみようと「大人買い」に走ったのですね。
しかし、演奏はそこそこ興味深いものでしたが、音に関しては完全に失望させられました。かつて聴いていたパリーの録音では必ず味わえたはずの滴るような豊かな響きが、このCDでは全く味わうことが出来なかったのです。
しかし、そのうちにこの周辺の録音がSACD、さらにはBAで聴くことができるようになり、ボックスの5枚目として1枚のCDに収められていたこのチャイコフスキーの「3大バレエ曲」もめでたくBA化されることとなりました。
実は、CDだから1枚に入っていましたが、この中で「くるみ割り人形」と、そのほかの「白鳥の湖」と「眠れる森の美女」では録音時期が異なっています。「くるみ割り」は1961年に録音されて、同じ時に録音されたグリーグの「ペール・ギュント組曲」とのカップリングでLPがリリースされていますが、他の2曲は1965年に録音、この2曲のカップリングでのリリースでした。CDでもBAでも、「白鳥」、「くるみ」、「美女」という順序でカットされていて、真ん中に古い録音が挟まれている、という状況になっています。
早速、頭から前のCDと聴き比べてみると、もうその違いはすぐに分かりました。BAの「白鳥」の「第2幕の情景」からは、まぎれもない「パリー・サウンド」が聴こえてきたのです。オーボエ・ソロは、まるで別の楽器かと思えるほど音色が違いますし、しっかりとした存在感を示しています。周りから聴こえてくる弦楽器のかすかなトレモロの中にも、きちんとした「意味」を感じ取ることが出来ます。そして、トゥッティになった時の弦楽器の圧倒的な輝きこそが、まさに「パリー・サウンド」の真髄です。長年聴きたかった音に、ついに巡り会えた、と思いました。
ところが、次の「くるみ」になると、間違いなくCDとは別物の音には違いないものの、「白鳥」のクオリティにはちょっと及ばないようなところが感じられてしまいます。木管あたりがかなり遠くにあってちょっと物足りませんし、何よりも弦楽器の輝きが全く不足しています。CDだと、うまい具合にマスクされていてそれほど苦にはならないものが、そんな覆われた邪魔ものがBAでは取り払われてしまって、かえって聴きづらいものになっているのかもしれません。それは、エンジニアがパリーのほかにジェームズ・ブラウンがクレジットされているためなのか、あるいはマスターテープの劣化がより進んでしまった結果なのかは、分かりません。
「白鳥」と「美女」が録音された1965年のセッションは、カラヤンとDECCAとの最後のものになりました。契約上仕方なく設けられたセッションだったようで、3月19日の1日だけで2曲のバレエ組曲を録音するという、とんでもないものになっていました。ですから、カラヤンにしては珍しいアンサンブルの乱れがそのままになっているようなテイクでも、使わざるを得なかったのでしょう。面白いのは、どちらの組曲でも、「ワルツ」がウィーン風の気取ったリズムになっていることです。しっかりリハーサルの時間がとれた「くるみ」では、きっちりイーブンの三拍子になっているのですから、カラヤンは直すのが面倒くさくて、ウィーン・フィルの言い分をきいていたのかもしれませんね。

BA Artwork © Decca Music Group Limited

3月1日

SCHUBERT
Winterreise
Jonas Kaufmann(Ten)
Helmut Deutsch(Pf)
SONY/88883795652


待望のカウフマンの「冬の旅」です。彼のシューベルトのリートと言えば、DECCA時代に「水車屋」を録音したものがありましたね。今回も相棒のピアニストはその時と同じドイッチュ、さらに、ブックレットにこの二人のインタビューが載っているのも、そのインタビュアーがトマス・フォイクトであることも全く一緒です。こうなると、いまさらながら「レーベル」というものの「軽さ」が痛感される昨今です。それにしても、ブックレットの紙質までも一緒だとは。
ただ、コンディションは「水車屋」とは全く別物の仕上がりとなっていました。あちらはライブ録音でしたが、今回はセッション録音、写真を見るとカウフマンとドイッチュはマイクを挟んで向かい合って演奏しているという、ライブではあり得ない形、そこで的確なコンタクトを取りながらの録音であったことがよく分かります。そして、エンジニアリングが今回はTRITONUS、ピアノの深い響きと、ボーカルの細かいニュアンスを捕えきった素晴らしいものです。
この前のフィッシャー・ディースカウを筆頭として、この曲に関してはバリトンが歌うものだという暗黙の了解がありますが、プレガルディエンの時に書いたように、この作品は本来はテノールのためのキーで作られています。ただ、それはもちろんオペラティックに朗々と歌われるテノールで、ということではありません。かといって、フォークトのようなノーテンキなリリックが場違いであることも事実、なかなか難しいものがあります。
カウフマンの場合は、オペラでの実績を見る限り、たとえばモーツァルトあたりではあまりに声が立派過ぎて、ちょっと無駄に張り切っているという感は否めません。やはり、本領を発揮するのは「ヘルデン」としてのレパートリーではないかと思っているのですが。ですから、シューベルトのリートなどでは、ちょっとした不安がよぎります。現に、前回の「水車屋」は、必ずしも満足のいくものではありませんでしたから。
この「冬の旅」では、しかし、1曲目の「おやすみ」から、余計な力が入っていない落ち着いた歌が聴こえてきて、そんな不安は振り払われてしまいます。低音はごく自然に響いていますし、高音になっても決して力まずに、ファルセットも混ざったようなソット・ヴォーチェで勝負していますから、オペラのような遠くの世界ではない、もっと身近な情景が広がります。そして、その高音の中には、常に何かを追い求めているような視線を感じることはできないでしょうか。それは、はるか高みにある存在への憧憬のように思えます。そう、この曲集の中でカウフマンが見せてくれているものは、小さな人間の持つある種の「弱み」だったのではないでしょうか。それは、たとえば時としてさっきのフィッシャー・ディースカウの中に見られるような高圧的に上から見下ろす視線とは、対極にあるものです。
そんなスタンスで歌われる11曲目の「春の夢」などは、まさにほのかではかない「夢」そのもののように思えます。だからこそ、中間部の「Und als die Hähne krähten」という、鶏の鳴き声に目を覚まして現実に引き戻されるシーンでも、ことさら頑張らなくても、ほんの少し声の張りを加えるだけで、見事に場面を変えることが出来るのでしょう。それは、その少し前5曲目の「菩提樹」での「Die kalten Winde bliesen」と、冷たい風が吹いた時にもすでに気づいていたことではありましたが。
最後の「ハーディー・ガーディー弾き」は、そんなソット・ヴォーチェの世界の集大成でしょうか。いくら憧れを募らせても、決して届く事はないという現実が、最後の唐突なクレッシェンドに込められていると感じられるのは、それまでのカウフマンの歌、そしてドイッチュのピアノがあまりにも優しすぎるせいだったからに違いありません。

CD Artwork © Sony Music Entertainment

2月27日

TCHAIKOVSKY
Piano Concerto No.2
Boris Berezovsky(Pf)
Alexander Vedernikov/
Sinfonia Varsovia
MIRARE/MIR 200


チャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番などという「珍しい」曲の新譜が、こちらに続いてリリースされました。あちらは2013年の録音で、こちらは2012年、もう少しすると「第3番」の新しい録音も出るはずですから、これは「チャイコフスキーのマイナーなピアノ協奏曲」に光が当たる時代がついにやってきた、ということなのでしょうか。
ただ、この作品については、曲目解説などを読むと「改訂」だの「カット」だのといった言葉が頻繁に顔を出します。このあたりをきちんと押さえておかないと馬鹿にされそうですから、まずは基本的な出版の経緯を調べてみましょうか。
曲が完成したのは1880年で、1881年には初版が出版されています。しかし、チャイコフスキーのかつての生徒で、当時は彼の作品の校訂などを行っていたアレクサンドル・ジローティが、この曲の、特に第2楽章があまりに長すぎるとして、チャイコフスキーの死後の1897年に改訂版を同じ出版社から出版します。それ以来、この曲の演奏にはこの改訂版が使われることになりました(チャイコフスキー自身は、一部のカットは認めたものの、改訂そのものは認めてはいなかったそうです)。ジローティの弟子でモスクワ音楽院の院長も務めたアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルによって作曲家の自筆稿に基づくオリジナル版が出版されたのは、1955年になってからのことでした。
ジローティの改訂は、全ての楽章に及んでいました。第1楽章では、経過的な部分である319小節から342小節までをカットしています。そして、第2楽章では、332小節あるオリジナルのうちの191小節もカットするという大ナタを振るっています。そのうちの15小節はエンディング直前のちょっとした経過部ですが、残りの176小節は、この楽章のユニークなところであるピアノのほかにヴァイオリンとチェロがソリストとして大活躍する部分を丸ごとカットしています。カット開けは唐突にピアノ・トリオが始まってしまいますし、そもそもオープニングのヴァイオリン・ソロが、ピアノ・ソロに変えられています。
第3楽章では、尺は変わっていませんが、ところどころでピアノ・ソロの音型が少し変えられています。
そんなことを目安に、NMLあたりでポイントを聴き比べてみると、例えばエミール・ギレリスといった「大家」は、1959年の録音ではまだ改訂版を使っているのは仕方がないとして、1966年の録音でもしっかり改訂版を使っていることが分かります。一度覚えたものは、そうそう直すことはできないのでしょうね(指揮者はいずれも今度裸身、いやコンドラシン)。
しかし、最近の演奏家のものでは、ほぼみんなオリジナル版で演奏するようになっているようです。もちろん、作曲家が許したとされる第1楽章と第2楽章のエンディングのカットも行っていません。ところが、先日のマツーエフは、第2楽章のエンディングだけカットしているのですね。インフォには「原典版」とあるのに。そして、今回のベレゾフスキーも、第1楽章と第2楽章のエンディングの2か所でカットが入っています。これは、インフォでは正直に「オリジナル版だが、チャイコフスキーが認めたカットがある」とありますが、これはなんか変。カットが入った「オリジナル版」なんて、あるんでしょうか。
今回のCDは、オーケストラがちょっと小ぶりです。それもあってか、ピアニストは力任せにガンガン弾く、というようなことはやらずに、もっと爽やかなところで勝負を仕掛けているようです。特に、ピアノのソロとフルートなどの木管が絡むところでは、しっかりアンサンブルが出来ているように感じられます。ですから、ヴァイオリン、チェロ、ピアノの3者がソリストとなる、いわば「合奏協奏曲」の形を取った第2楽章では、得も言えぬ爽やかな風が吹きます。こんな素晴らしいところをカットしてしまったジローティの気がしれません。

CD Artwork © Mirare

おとといのおやぢに会える、か。


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