貼るの、大変。.... 佐久間學

(14/1/18-14/2/5)

Blog Version


2月5日

GRAENER
Orchestral Works II
Werner Andreas Albert/
NDR Radiophilharmonie
CPO/777 679-2


パウル・グレーナーという作曲家をご存知ですか?1872年にベルリンで生まれ、1944年にザルツブルクで亡くなった指揮者、教育家でもあった作曲家です。1898年にはロンドンに移住、劇場の音楽監督に就任するとともに、作曲の教師も務めます。1909年にはイギリスの市民権も獲得するのですが、今度はウィーンへ家族(妻と子供3人)とともに移り住みます。そののち、1911年には、ザルツブルクのモーツァルテウムから院長就任のオファーを受け、1913年までその職にありました。以後、ライプツィヒやベルリンで教鞭をとることになるのですが、1933年にはナチスの党員となり、もっぱら「御用作曲家」として活動、そのために最近までは作曲家としてはほとんど忘れられた存在でした。
作品はオペラから室内楽、ピアノ曲など多岐にわたっているようですが、こんな風にオーケストラ作品の全集(これが第2巻)が出るようにもなってなってきました。
ここでは、それぞれ時代の、おそらく作風も違っている3つの作品を聴くことが出来ます。最初はザルツブルク時代の1912年に作られた交響曲ニ短調「Schmied Schmerz」です。ただ、このタイトルの日本語表記については、ちょっと補足が必要です。例えば、Wikipediaではこれを「鍛冶屋シュメルツ」と訳していますが、これは完全な誤訳です。確かにドイツ語で「Schmied」は「鍛冶屋」ですが、「Schmerz」はその鍛冶屋さんの名前ではなく、普通名詞で「痛み」という意味を持つ単語なのですよ。そもそもこれは、グレーナーが歌曲のテキストにも用いている詩人、オットー・ユリウス・ビーアバウムが作った「痛いのは鍛冶屋だ」というフレーズで始まる、人生の苦悩のようなものを鍛冶屋の仕事に喩えた詩のタイトルなのですからね。別に、この曲の中で鍛冶屋がハンマーを振り下ろす描写が出てくるわけではありませんが、この元の詩の中に漂う厳しい情感を表わしたタイトルなのです。この時期にグレーナーは幼い長男を亡くしてしまっていて、その悲しみの情が作品にも反映されているのですよ。
それを、「鍛冶屋シュメルツ」などと訳してしまっては、いったい何のことかわからなくなってしまうではありませんか。恐ろしいのは、ネット中を探してみても、「鍛冶屋の苦悩」と訳したただ一つの例外を除いては、このWikiの誤訳しか見つからないということです。盲目的に信じられてしまった誤った情報が、何の批判も受けずに拡散することほど恐ろしいものはありません。それによって、正しい情報がしゅめるつ(死滅)してしまうのですからね。
実際には、この曲には確かに第1楽章の序奏など重苦しい部分はありますが、それよりも、そこを乗り越えた心の安らぎのようなものがしっかり描けているような気がします。何より、ハープの入った三管編成の華麗なサウンドが、後期ロマン派ならではの充実した響きを堪能させてくれています。
2曲目は、「牧神の王国から」というタイトルの、4つの部分から成る作品です。これは1920年に作られたものですが、この時期作曲家はフランスの印象派に傾倒していたそうなのですね。そこで、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」に対するオマージュとして、こんなものが出来たのだそうです。でも、聴いてみると「どこが印象派?」と思えるような、間違いなくドイツ・ロマン派の範疇の作品なのですが、あくまで自分の中では印象派だと思いこんでいるところがかわいいですね。ホルンのフレーズや、最後のサンバル・アンティークなどは、もろ「牧神」のパクリですし。
そして、最後の「騎士オイゲン公」による変奏曲は、もろナチスのプロパガンダです。集会で演奏されたらさぞや盛り上がるだろうな、という、とても扇情的で分かりやすい作品に仕上がっていますよ。最後のトランペットのバンダに合わせて「Heil! Hitler!」とかやってたんでしょうね。こんなのも、ある意味貴重です。

CD Artwork © Classic Produktion Osnabrück

2月3日

ブルクミュラー 25の不思議
なぜこんなにも愛されるのか
飯田有抄・前島美保共著
音楽の友社刊
ISBN978-4-276-14333-3

「ブルクミュラー」と言えば、小さい頃(あるいは、ある程度おおきくなってから)ピアノの勉強をしたことがある人にとっては忘れられない単語に違いありません。それは「バイエル終わったから、次はブルクミュラーね」みたいなノリで語られる、ごく初歩的な段階での教材の話として、もっぱら登場していたものでした。「バイエル」にしても「ブルクミュラー」にしても、それぞれフェルディナント・バイエルとフリードリヒ・ブルクミュラーという名前の作曲家が作曲した練習曲のことなのですが、そんな作った人のことなどはすっかり忘れられ、単に「バイエル教則本」とか「25のやさしい練習曲」という「教材」の名前として、それらは認識されていたはずです。
現実には、バイエルさんに関しては最近ではかなりその人物像が一般的になって来たような印象はありますが、ブルクミュラーさんについてはそもそもどんな顔をしていたのか、というあたりから「謎」に包まれていたのではないでしょうか。まあ、別に顔が分からなくてもピアノの勉強には差支えはないでしょうから、そんなことはどうでもよかったのかもしれませんが。
ただ、ご存じのようにこのブルクミュラー(あ、もちろん練習曲のことです)には、技術的には全然難しくないのに、なんか奥の深い世界を味わわせてくれる魅力がありました。そのせいでしょうか、この曲集は、現在ピアノに携わっている人だけではなく、これを習っているあたりでピアニストへの道をあきらめた人までも含めた多くの人たちに愛されているような気がします。
そんな思いが昂じて、「ぶるぐ協会」などというブルクミュラーさんのことを研究する秘密結社(つまり、出版社のお仕着せ表記である「ブルク」ではなくあくまで昔の呼び名の「ブルグ」にこだわっているというマニアの集まりなのでしょう)を作ってしまった飯田さんと前島さんというお二人が、これまでの「調査」の成果として上梓したのが、この本です。
まず、この本の表紙に描かれた、お目目がキラキラしたかわいいブルクミュラーさんの似顔絵に、ちょっとびっくりしてしまいます。こんな顔をしていたんですね。知りませんでした。いや、それは当然だということが、読み始めてすぐに分かります。そこには彼の肖像画(リトグラフ)が掲載されているのですが、それは、彼女たちが2006年にフランスの国立図書館で発見し、初めて日本で紹介したものだというのですからね。そんな「足」で調べた、これもおそらく日本では初めて目に出来る彼のバイオグラフィーから始まって、この曲集の出版の歴史、さらには教育現場での受容史など、あらゆる方面からブルクミュラーさん本人と、その作品についての詳細なアプローチが並びます。これはもう圧巻としか言いようがありません。
執筆に当たっては、飯田さんと前島さんという、全く文章のテイストが異なるお二人が、それぞれの切り口で語っている、というスタンスが、なんとも言えない魅力を生んでいます。どちらも藝大の楽理科卒業という経歴ですが、飯田さんの方はプロのライターとしてご活躍なさっているとあって、文章はとても滑らか、時には「ウケ」をねらったようなツッコミまで交えて、軽快に論を進めています。一番受けたのは、音楽雑誌で何度か掲載されたブルクミュラーの特集記事に対してのツッコミですね。
一方の前島さんは、はっきり言って文章はヘタ、というか、そもそもエンタテインメントとしての文章ではなく、学術論文のようなちょっとした堅苦しさが残るものですが、それがちょっと滑りがちな飯田さんのパートの確かなフォローとなっています。彼女が担当した出版史のパートなどは、詳細で堅実な記述が光ります。21番の「天使の合唱」のコーダの最初の和音は、属7ではなく減7だというのが、今の現実です。

Book Artwork © Ongaku No Tomo Sha Corp.

2月1日

MERCADANTE
Flute Concertos Nos. 1,2, and 4
Patrick Gallois(Fl)/
Sinfonia Finlandia Jyväskylä
NAXOS/8.572731


サヴェリオ・メルカダンテのフルート協奏曲は、作曲家がまだナポリ音楽院で学んでいた1813年から1819年の間に「5曲」作られたと考えられています。ただ、現在出版されている楽譜には単に調性が記されているだけで、番号は付けられてはいません。録音にしても3曲収録されていた1987年のゴールウェイ盤では単に「ニ長調、ホ短調、ホ長調」としか表記されていませんでした。さらに、2004年に録音された「全曲盤」でも、曲順が一応作曲された順番になっていましたが、そこに番号が付けられることはありませんでした。ただ、そのCDのブックレットでは、一応慣例的な番号があることは示唆されてはいましたね。
2011年にパトリック・ガロワが「吹き振り」した今回のCDでは、なんとタイトルとして堂々と「番号」が付けられていましたよ。なんせNAXOSのことですから、それはいい加減なでっち上げかな、と一瞬警戒してみましたが、それはきちんとさっきの「全曲盤」で述べられていた内容と同じだったので、まずは一安心です。
一応整理しておくと、曲は「5曲」しかありませんが、番号は「6番」まで付いています。「1番」はホ長調、「2番」が、その第3楽章が1983年にベルディーン・ステンベルグというオランダのアイドル・フルーティストがディスコ・ビートに乗せて演奏したもの(こちらにあります。この映像はええぞう)が大ヒットしたことで有名になったホ短調なのですが、この曲は後に他の人の手によって「小さなオーケストラ」のために書き換えられました。それが「3番」なのだそうです(NAXOSの面目躍如というか、この曲についてブックレットの英訳では「変ホ長調」と、イタリア語の原文にはないことが記されています)。気を取り直して、「4番」はト長調、「5番」はヘ長調、「6番」はニ長調の曲ということになります。ですから、ゴールウェイ盤には「1番、2番、6番」が収録されていることになりますね。ガロワは「6番」の代わりに「4番」を演奏している、と。どちらにも入っていない「5番」はクラリネットとトロンボーンがオブリガートで加わるという不思議な編成ですから、おそらく「全曲盤」に入っているものが唯一の録音なのではないでしょうか。
メルカダンテのフルート協奏曲では、どの曲でも第1楽章では最初にかなり長いオーケストラの序奏が演奏されています。最初に入っている「2番」の序奏が聴こえてきた時に、そのオーケストラの響きがとんでもなく貧しい録音によるものであったことには、大きな失望を感じないわけにはいきませんでした。このレーベルも、最近はBAなども積極的に展開、録音に関しても先進的な姿勢を打ち出しているのでは、と思っていただけに、旧態依然のこのひどい録音には心底がっかりしてしまいます。何しろ響きに潤いがないものですから、演奏までもがヘタに聴こえてしまいますし、そのあまりに平板な音場は、ハイレゾを聴きなれた耳にはほとんど苦痛でしかありません。
そこに、ガロワのソロが入ってきます。予想はしていたものの、相変わらずのヘンタイぶりにはちょっとたじろいでしまいます。

ソロの最初のフレーズはこういうものなのですが、最初の小節の後半の「ターン」の扱いが、なんとも不自然なのですよ。まあ、「ツカミ」ですから、インパクトから言ったらこれ以上のものはありませんが、それも度が過ぎると単なる子供じみた振る舞いにしか見えなくなってしまいますから、難しいものです。同じことをオーケストラにもやらせているのですが、嫌がって弾いているのはミエミエですし。
しかし、2楽章での自由な装飾はまさに「大家」ならではのゴージャスなものですし、終楽章の目にもとまらぬ「速吹き」にも圧倒されます。ただ、それが単に「速い」だけであまり音楽的ではなく、「それがどうした」と感じられてしまうのは困ったものです。同じ速さでもゴールウェイからは確かな音楽が感じられたというのに。

CD Artwork © Naxos Rights US. Inc.

1月30日

TCHAIKOVSKY
Piano Concertos Nos 1 & 2
Denis Matsuev(Pf)
Valery Gergiev/
Mariinsky Orchestra
MARIINSKY/MAR0548(hybrid SACD)


チャイコフスキーのピアノ協奏曲と言えば、なんたって「第1番」が有名ですね。あまりに有名なために、彼のピアノ協奏曲はこれしかないのだ、と思っている人も少なくないのではないでしょうか。彼にはほかにまだ2つもピアノ協奏曲があるというのに。さらに、「協奏曲」という名前は付いていませんが、「協奏的幻想曲」という、ピアノとオーケストラのための2楽章から成る堂々たる作品もありますし。
「第1番」が作られたのは1875年ですが、1880年には「第2番」が作られました。さらに、最晩年の1893年には、未完の交響曲をピアノ協奏曲に転用した「第3番」だって作られています。もっとも、この「第3番」は演奏時間が15分ぐらいの一つの楽章しかありませんから、確かに他の2曲にはちょっと引けを取っています(ちなみに、この元になった交響曲は、1955年にセミョン・ボガティレフという人によって「交響曲第7番」として復元?されました)。しかし、「2番」の演奏時間は「1番」よりも長く、堂々たるものですから、もっと自信をもってもらいたいものです。
そんな有名な「第1番」ですが、これにはとっても不思議な部分があります。それは、第2楽章のテーマが、最初にフルート・ソロによって演奏されるものと、それを受けてピアノ・ソロが弾き出すものとが、違うメロディになっているということです。

これは、その後どんな楽器で出てきても、すべてピアノと同じもの、おそらく、この曲を初めて聴いた人は、なぜフルートだけが違うメロディを弾いているのか不思議に思うはずですが、さすがに「名曲」として親しまれているものですから、「これは音が違っている」などと言い出す勇気のある人はいませんでした。というか、もうこれはこういうものなのだ、と寛容に受け止められるようになっているのが現状なのでしょう。そこに最近、イギリスのピアニスト、スティーヴン・ハフが、はっきりした証拠を突きつけて「フルートの音が間違っている」と言い出しました。その「証拠」というのが、ベルリン国立図書館所蔵の、この曲の自筆譜です。こちらで現物を見ることが出来ますが、確かにフルートの「F」の音を青鉛筆で「B♭」に直した跡がはっきり分かりますね。やはり、これはピアノと同じように吹くのが、作曲家の本心に従ったやり方なのでしょうか。
ただ、こんな、誰でもネットで見られるほどの物に、他の誰も気が付かなかった、という方が、よっぽど不思議なことのような気がするのですが、どうでしょう。
ちょっと調べてみたら、実際には1950年代あたりの録音では、結構B♭で演奏しているものがありました。その中には、モントゥー指揮のロンドン響とか、ライナー指揮のシカゴ響のようなメジャーどころもありましたね。しかし、最近のものとしてはネシュリング指揮のサンパウロ響(BIS/2006年)しか見つかりません。今回ハフが訴えたことによって、この状況は変わるのでしょうか。もちろん、今回のSACDでのゲルギエフ指揮のマリインスキー管弦楽団のフルート奏者も、今まで通りの「F」で演奏していますし。
ここでは、そんなマニアックなものではなく、あくまでマツーエフの、まさに「完璧」と言っていい演奏を思う存分楽しむべきでしょう。「1番」のような難曲をいとも軽々と弾いてくれる様は爽快そのものですし、それに加えて第1楽章の第2主題などのような繊細極まりない表現にも圧倒されます。そして、なんでも「2番」では通常カットされる部分もしっかり演奏されているのだとか。これを彼のピアノで聴けば、きっとこの曲がもっと頻繁に演奏されて欲しいと、心から望むようになることは間違いありません。きっとチャイコフスキーは、第3楽章の胸のすくような鮮やかさを、このような演奏で堪能してほしいと思っていたんのうではないでしょうか。

SACD Artwork © State Academic Mariinsky Theatre

1月28日

HINDEMITH
Violin Konzert, Symphonic Metamorphosis
五嶋みどり(Vn)
Christoph Eschenbach/
NDR Sinfonieorchester
ONDINE/ODE 1214-2


昨日は、アメリカで「世界最大の音楽賞」と言われている「グラミー賞」の授賞式が行われました。対象は、もちろん女性だけです(それは「グラマー賞」)。
今回も、日本人アーティストが受賞するのではないかということで、様々な下馬評が飛び交っていましたが、あいにくそのような人たちは受賞を逃したようですね。ところが、全く期待されていなかったクラシックの部門で、なんと五嶋みどりさんという押しも押されぬ日本人アーティストが受賞したということで、全く何の準備もなかったその方面の業界はてんやわんやの騒ぎになっているのだとか。
それは、全部で82もある部門の中の79番目、「BEST CLASSICAL COMPENDIUM」というちょっと意味不明のものです。賞自体は、指揮者のクリストフ・エッシェンバッハに対して贈られるもののようですが、そこに五嶋みどりさんがソリストとして参加していたため、「日本人がグラミー賞を受賞!」という報道が飛び交うことになったのです。
そのアルバムが、これ。リリースされたのは昨年ですが、その年はパウル・ヒンデミットの没後50周年にあたっていたということで企画された、ヒンデミットの曲集です。メインタイトルは、「ヴァイオリン協奏曲」、その他に、「ウェーバーの主題による交響的変容」と、「協奏音楽」が収録されています。「ウェーバー〜」以外は全く聴いたことのない曲ですが、せっかくですのでみどりさんの活躍している「ヴァイオリン協奏曲」を聴いてみることにしました。
古典的な3楽章形式による協奏曲、第1楽章では、いかにもヒンデミットらしいクールな和声が迫ってきます。ちょっと人工的なテイストなのは仕方がありませんが、オーケストラの響きはとても充実していて、すんなり入って行けます。ヴァイオリンは、ここではそれほどソリスティックにテクニックを披露する、といったものではなく、淡々とそのクールさを楽しむかのようにオーケストラに寄り添います。全然力みのない自然な佇まいが、こういう音楽にとてもよく合っています。
第2楽章も型通りのゆっくりとしたもの、ヴァイオリンは、ひたすら静かな情景を描いています。この、情感を表に出さないような奥ゆかしさは、なんだか日本人の感性とマッチしているように思えます。しばらくすると、その静かさは荒々しいオーケストラのトゥッティにかき消されますが、それがひとしきり収まった後に、まるで何事もなかったかのようにやってくる静かなヴァイオリンが、とても素敵です。
第3楽章は、いきなりクライスラーの「中国の太鼓」のような、東洋的で軽やかな音楽で始まります。ここに来てやっと、ヴァイオリンの技巧を楽しめるようになりますが、それもしばらくするととても息の長い、やはり東洋風のヴァイオリン・ソロによって、落ち着きを取り戻します。そのテーマは、2度目に現れたときには、1オクターブ上の音になり、より切なさ、あるいははかなさといったような情緒が漂い、それがそのまま長大なカデンツァへとつながります。このカデンツァは見事としか言いようがありません。
おそらく、ヒンデミットの作品の中では最も演奏頻度の高い「交響的変容」は、長いこと最後の最後に出てくるテーマ以外は「どこがウェーバー」という気がしていました。そこで、その楽章ごとの「元ネタ」の音源を探して聴いてみたところ、この作品の骨組みは、ほとんどウェーバーのオリジナルと同じであることが分かりました。今頃、と言われそうですが、ヒンデミットが施した「変容」というのは、その骨組みに彼なりの和声とオーケストレーションを与えることだけだったのです。それと、最後の「マーチ」では、オリジナルのトリオの部分を拡大してそのまま盛り上げて終わるという形に変えただけなのですね。そんな、ヒンデミットのニヒリズムが、エッシェンバッハの演奏からは良く伝わってきます。

CD Artwork © Ondine Inc.

1月27日

BIZET
Docteur Miracle
Marie-Bénédicte Souquet, Isabelle Druet(Sop)
Jérôme Billy(Ten), Pierre-Yves Pruvot(Bar)
Samuel Jean/
Orchestre Lyrique de Re()gion Avignon Provance
TIMPANI/1C1204


クセナキスのオーケストラ作品の全集はなかなか先に進まないで立ち消えになりそうな気配のTIMPANIレーベルですが、本来の役割であるフランスの隠れた作品の紹介ではまだまだ頑張っているようです。しばらく新譜を見かけないなと思っていたら、どうやら日本の代理店が替わったみたいですね。そのためにリリースが滞っていたのでしょう。
そこで、新しく代理店になったのが、ナクソス・ジャパンなのだそうです。ここは、自社製品でなくてもしっかり帯解説を付けてくれたりしていますから、これにも期待したのですが、あいにくなにもありませんでした。そこまでは手が回らなかったのでしょうか。
この「ミラクル博士」というのは、ビゼーが18歳の時に作ったという「オペレッタ」、あるいはフランスですので「オペラ・コミーク」と言われるジャンルの作品です。まあ、ビゼー晩年(といっても36歳)の有名な「オペラ」である「カルメン」も実は「オペラ・コミーク」なのですが、物語の内容も音楽のスケールも、大きく異なっています。すでに録音もありますし、実際に日本で上演されたこともありますが、おそらく今まで普通に聴かれたことはまずない、極めて珍しい作品です。
そんな珍しいものですから、この代理店が誇る「帯職人」の手によってせめてあらすじだけでも読めるようにしてほしかったなと、切に思います。
とりあえず、出演者は女性二人、男性二人の4人だけです。それは、地方の司法官(名前は明らかにされていません)とその妻ヴェロニク、その娘のロレット、そして、彼女が愛している兵士のシルヴィオ。ただ、ヴェロニクは今までに4人の夫と死別していて、現在の夫に対しても死んでくれることを望んでいるという、ちょっとアブナい人。ロレットも、義父からは別の男との結婚を迫られているという、問題を抱えた家族構成です。そこで、シルヴィオは醜いコックに変装して毒入りのオムレツを作って司法官に食べさせ、今度はどんな病気でも治せる「ミラクル博士」という、ラテン語しかしゃべれない医者に変装して現れ、最後はめでたくロレットと結婚するという、ドタバタ喜劇なのでしょう。
音楽は、その前の年に作られたハ長調の交響曲のような、古典的なテイストに包まれています。全体的になんか「小さくまとまっている」という感じがしますね。序曲からして、ある意味荒唐無稽な物語にしてはきっちりと作られていますし、途中で短調に変わるなど「深み」を演出する意図は感じられます。その中で、のべつトライアングルのにぎやかなロールを鳴らし続けているのは、「喜劇」としての軽さを演出したいという気持ちの表れなのでしょうが、変に浮き上がって全体の方向性が散漫になってしまっています。
地のセリフを入れても、全体で1時間ちょっとという非常にコンパクトな作品ですので、気軽に楽しむことはできるでしょう。「アリア」とは言えないほどの素朴なソロ・ナンバーもありますが、メインはアンサンブル、軽妙なやり取りが、とてもあっさりした音楽によってすんなり入ってきます。最後あたりの、オムレツを食べるシーンでの「オムレツの四重唱」などは、笑いのツボをしっかり押さえていてほほえましく感じられます。
4人の歌手はそれぞれに魅力的ですが、シルヴィオ役のテノールの人は、もっと伸びやかな歌い方だとさらに魅力が増したのではないでしょうか。その人の演じているニセ医者がタイトルになっているのですが、これを「ミラクル博士」と訳してしまうと、なんだか近未来のマッド・サイエンティストの物語のように思えてしまいませんか?これからは、そのまま「ドクター・ミラクル」と呼んだ方がいいと思いま〜す!
幕開けの三重唱の中で、一瞬「ハバネラ」の断片が聴こえてきたのにはびっくりしました。こんなところに「カルメン」の萌芽があったなんて。

CD Artwork © Timpani

1月24日

PENTATONIX VOL. II
Pentatonix
MGR/0-43396-40620-9


「ペンタトニックス」って知ってますか?カメラじゃないですよ(それは「ペンタックス」)。アメリカの20代の5人のメンバーによるア・カペラで、今最もホットなグループとして大注目されているんですよ。特にYouTubeでの露出が、とんでもないヒット数となっているそうです。

これが、そのメンバー、後列向かって左からミッチ・グラッシ(リード・ヴォーカル)、スコット・ホイング(リード・ヴォーカル)、カースティー・マルドナード(リード・ヴォーカル)、前列向かって左からアヴィ・キャプラン(ベース)、ケヴィン・オルソナ(ヴォイス・パーカッション)という、女声1人、男声4人の編成です。最初はミッチ、スコット、カースティーの3人の幼馴染同士で始めたグループでしたが、後にアヴィとケヴィンが加わり、現在の形になりました。それぞれに小さなころから音楽的な経験を積んできていて、しっかりクラシックの教育を受けている人もいます。スコットはすでにソングライターとして活躍していて、ピアノも弾きますし、ギターも弾けるケヴィンはコーラス・アレンジにも携わっています。
上の画像から「Evolution of Music」という、コーラスの歴史をア・カペラでたどろうという曲のYouTubeの映像がリンクされていますが、それを見れば(聴けば)彼らの完璧なア・カペラ・ワークが分かるはずです。
フィジカル・パッケージとしては、2012年6月にリリースされた、「PENTATONIX Vol. 1」という6曲入りのミニアルバム(こういうのも「EP」というのだそうです)が大ヒット、それに続いて2013年の11月にリリースされたのが、この「Vol. 2」です。収録曲は全部で8曲、トータル・タイムは27:12と、かなりコンパクト、しかし、この中には彼らの実力を見せつけるような、非常にバラエティに富んだ曲が並んでいます。
最大の目玉は、フランス出身のテクノ・ユニット「ダフト・パンク」のヒット曲を全部で7曲詰め込んだというマッシュアップ「Duft Pank」でしょう。おなじみの曲の断片を、まるで一つの作品のように聴かせるアレンジの妙が、完璧なア・カペラのテクニックで聴くものを熱くしてくれます。「One More Time」などでは、オリジナルではヴォコーダーで変調させているヴォーカルを、ミッチくんが素の声で見事に再現してくれますし、「Get Lucky」なんかはオリジナルをはるかにしのぐコーラスのすばらしさですよ。これを映像で見ると、それぞれのメンバーの役割がはっきりわかって面白いのではないでしょうか。
そんな「最新」のカバーとともに、半世紀以上前のレイ・チャールズの持ち歌「Hit the Road Jack」なども取り上げられているのも、なかなかのものです。
さらに、彼らのすばらしさはオリジナル曲でも発揮されているというのが、すごいところです。前作CDでは6曲中2曲、そして今回は8曲中3曲が、おそらくスコットくんあたりが作った曲が入っていますが、そのどれもが作品としてとても素晴らしいのですね。どの曲にも、必ずハッとさせられるような美しいメロディが潜んでいるのですよ。その中で一番のお気に入りは、最初から最後までケヴィンくんのヴォイパが抜けた他の4人のホモフォニックなア・カペラで歌われる「Run to You」という曲です。この編成は、あの「シンガーズ・アンリミテッド」と同じもの、時折、ボニー・ハーマンのように聴こえるカースティー嬢のヴォーカルを中心にした、もしかしたらこの先達を超えるのではないかとも思えるような純正なハーモニーは、至福のひと時を与えてくれます。中でも
I will break down the gates of heaven
A thousie angels stand waiting for me
Oh, take my heart and I'll lay down my weapons
Break my shackles to set me free
という歌詞で盛り上がるサビの部分には、涙さえ誘われるほどの崇高さ、もっと言えば、宗教的な高貴さまでもが宿ってはいないでしょうか。

CD Artwork © Pentatonix/Madison Gate Records, Inc.

1月22日

Paths Through The Labyrinth
- The Composer Krzysztof Penderecki
Anna Schmidt(Dir)
C MAJOR/9861


先日NHK-BSで、昨年2013年に80歳を迎えたポーランドの作曲家、クシシトフ・ペンデレツキのドキュメンタリー映像を放送していました。これはいずれBDDVDとしてリリースされるということなので、ちょっと先走ったレビューです。
タイトルが「迷宮の小道」という大層なものですが、これはこの中で作曲家自身がたびたび口にしている「作曲とは、迷路の中を歩いているようなものだ」という、分かったような分からないような語録に由来するものなのでしょう。しかも、その「迷宮」というか、「迷路」の中を実際に歩き回っている彼の映像がシンクロしているという具体性までくっついていますから、いやでも納得させられてしまいます。そこで驚いてしまうのは、その生垣で作った背の丈ほどもある迷路などが点在している広大な庭園が、彼の自宅の敷地内にあるということです。いや、実はそんな瀟洒な庭園などはごく一部分、その背後に広がる巨大な樹木が生い茂る、なんと30ヘクタールにも及ぶ山野が、そのまま「自分の土地」だというのですから、彼はまさに「大地主」いや、もっとはっきり言えば「大金持ち」です。ロック界のスーパースター、マイケル・ジャクソンの「自宅」だって、これほど広くはないのではないでしょうか。

そう、ロック・アイドルならいざ知らず、かつては「前衛」と言われていたクラシックの「現代作曲家」が、こんなにリッチな生活をしているなんて、とても信じられない、というのが、まずこの映像を見ての率直な感想なのでした。我ながら、なんと浅ましい。
そんな田園風景から、いきなり画面が野外ロック・フェスの会場へと変わります。詰めかけた何万人という聴衆の前に姿を現したのは、ペンデレツキその人、そして、彼に指揮されたステージ上の弦楽オーケストラが奏ではじめたのは、なんと彼の半世紀前のヒット曲「広島の犠牲者にささげる哀歌」ではありませんか。作られたころはお客さんはみんな眉間にしわを寄せて、ひたすら拷問のような音響に耐えていたというこの「前衛作品」に、お客さんたちは何の抵抗もなく、それこそ大音響のヘビメタでも聴くような感覚で、喝采を送っているのですよ。演奏者がアップになると、彼女ら(女性奏者が圧倒的に多いようでした)はいとも嬉々とした表情で、時には笑いながら、この、本来は難解そのものの音楽を全身で楽しんでいるようでした。
なにかが確実に変わっています。この頃のペンデレツキの作品に対して、今まで考えられなかったような方面からの「ファン」がいつの間にか生まれていたのですね。これに関しては、思い当ることがありました。それは、以前こちらでご紹介したレディオ・ヘッドのメンバー、ジョニー・グリーンウッドのアルバムです。これはこの映像のフェスの1年前に録音されたもの、これはまさにこのアルバムを引っさげてのライブだったのでしょう。もちろん、ここではそのペンデレツキの熱狂的なファンであるグリーンウッドの作品も演奏されていました。
ここで重要なことは、このフェスで聴衆が熱狂的に聴いていたのは、ペンデレツキの「過去の」作品だったということです。彼らが現在の彼の作品を聴いたら、いったいどのように感じるのか、非常に興味のあるところです。
このドキュメンタリーのハイライトは、先ほどの自分の地所の中に作られた、「クシシトフ・ペンデレツキ・ミュージック・センター」という名前のコンサートホールの、こけら落としコンサートです。彼の資産は、途方もないガーデニングだけではなく、ホールを1軒やすやすと建ててしまえるだけのものだったのです。この映像で語られているのは、彼より120年ほど前に生まれた作曲家は、自分のホールを作るためにパトロンに無心して国家予算をつぎ込ませたというのに、現代の作曲家はそれを自費でやれるほどお金を持っていた、というお話です。BDが出たらじひ(ぜひ)見てみてください。


Package Artwork © C Major Entertainment GmbH

1月20日

TSCHAIKOWSKY
Symphonie Nr.4
Dmitrij Kitajenko
Gürzenich-Orchester Köln
OEHMS/OC 671(hybrid SACD)


キタエンコとケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団とのチャイコフスキーの全交響曲(マンフレッド交響曲を含みます)のツィクルスが、今回の「4番」で完了したようですね。リリースされた順番は、最初に「マンフレッド」というちょっと珍しいところを持ってきて、次に「悲愴」、「5番」という最もポピュラーなもの、そのあとは「1番」、「2番」、「3番」というレアものが続き、最後にこの「4番」で締めくくるという、なかなか粋な形をとっています。さらに、変なカップリングを施さず、きっちり1つの交響曲について1枚、余白はバレエ曲や序曲を入れるという分かりやすさです。これで、「マンフレッド」入りのSACDによる全集はマーツァルとチェコ・フィルによるEXTON盤と、プレトニョフとロシア・ナショナル管弦楽団によるPENTATONE盤に続いて3集目となりました。
ただ、録音されたのはこの順番ではなく、2009年から2011年頃までに集中的に行われたものを、適宜リリースした、という感じのようです。それにしても、リリース順につけられた「665」から「671」というきれいに並んだ品番には、このレーベルの几帳面さを感じさせられますね。なんという分かりやすさ。
まずは、なんといってもSACDにこだわった音へのこだわりには、触れないわけにはいきません。エンジニアや録音会場によってムラがあるというものの、このツィクルスのどこをとっても、ハイレゾならではの各々の楽器がしっかり立って聴こえてくる明快さがあります。それと同時に、それぞれのセクションの肌触りが、立体的に伝わってくるのも、気持ちがいいものです。要するに、一度SACDBA、あるいは配信音源でハイレゾを味わってしまうと、CDを聴くたびに「これがハイレゾだと、もっとのびやかで繊細な音がするんだろうなぁ」と思ってしまい、なんでこんなものを買ってしまったのだろうというストレスを感じるカラダになってしまうのですよ。
この忙しい世の中では、音楽を聴く時間などは、何とかやりくりしてひねり出さないことには生まれては来ません。そんな貴重な時間なのですから、同じ聴くのなら少しでもいい音で聴きたいじゃないですか。このSACDのように、きちんと報われるだけの音が聴こえてくれば、それだけで幸せな気持ちになれるものです。
そんな、極めて透明度の高い、それでいて中身の詰まっている音だからこそ、キタエンコがこのオーケストラから導き出そうとしているチャイコフスキーのイメージは、ストレートに伝わってきます。それは、よくある激情に任せたパッションあふれる音楽ではなく、もっとタイトな音楽です。
第1楽章では、冒頭のファンファーレは決して情熱的なインパクトを与えられるものではなく、いたって冷静な佇まいを持っています。ここでもう聴き手は、チャイコフスキーによって心躍る時間がもたらされる期待を断ち切られることになります。曲が進むと、あちこちのパートが勝手気ままにリズムを刻んで、ほとんど収拾がつかないような恐ろしい事態が登場します。そんな、決して丸くは収まらない戦場を作り出すのも、キタエンコの狙いだったのでしょう。ここに見られるのは、カタストロフィーにほかなりません。
第2楽章では、オーボエのソロがすでに異様なグロテスクさに包まれています。それは、一切の感情を殺したかのような、まるでロボットが演奏しているのではないかと思われるほどの機械的な音楽です。それがあるからこそ、そのあとの弦楽器は、ほんのさりげないしぐさでも十分に必要な情感が伝わってくることになります。
残りの楽章もあくまでクール、それに比べてカップリングの「イタリア奇想曲」は、うって変わってベタベタの雄弁さが際立っています。シンフォニーとは違う音楽だという、これもキタエンコのメッセージなのかもしれません。むすび丸に会いに行きませんか?(それは「北へ行こう」)

SACD Artwork © OehmsClassics Musikproduktiln GmbH

1月18日

STRAVINSKI/Le Sacre du Printemps
MUSSORGSKI/Tableaux d'une Exposition
Pentaèdre
ATMA/ACD2 2687


こちらで、木管五重奏(+アコーディオン)の伴奏による「冬の旅」を披露してくれていたカナダのアンサンブル「ペンタドル」が、今回はなんと「春の祭典」と「展覧会の絵」に挑戦です。
まずは、木管楽器だけでもそれぞれ5人のメンバーが必要とされる「5管編成」で書かれている超大編成の曲、ストラヴィンスキーの「春の祭典」を、たった5本の管楽器だけで演奏しようという、無謀とも思える試みです。とは言っても、演奏するのは5人でも、それぞれ別の楽器を「持ち替え」でとっかえひっかえ使っていますから、楽器自体は本当は10本以上あるのですがね。例えば、フルーティストは普通のフルートのほかにピッコロとアルトフルート、オーボエ奏者はオーボエ、オーボエ・ダモーレ、コール・アングレといった具合です。
確かに、この曲はオーケストラが全員で大音響を提供する場面も少なくありませんが、それと対照的なほんの少しの楽器しか使っていないところも結構あるのですね。なんたって、曲の頭はファゴット1本だけで始まるのですから。そのあたりの、主に管楽器だけで絡み合う部分では、確かにほとんどオリジナルと変わらないようなサウンドが実現できています。
しかし、弦楽器がパルスを刻み始める「春の兆し(乙女たちの踊り)」あたりから、なんだか様子がおかしくなってきます。どうしても、この部分では60人ぐらいの弦楽器奏者が一斉に音を出すという「トゥッティ」の感じがしっかり刷り込まれていますから、それをファゴットとオーボエだけで演奏されてしまうと、そのあまりの軽さには違和感を通り越して怒りのようなものまで湧いてきます。彼らは「音」を埋めさえすれば、「音楽」までも再現できると思っているのかもしれませんが、この曲に限ってはそれは完璧に不可能なことであることを思い知るだけのものでしかありませんでした。本当に「ご苦労さん」と言ってあげたい気はしますが、それは全くの徒労に終わっていたのです。
一方の「展覧会の絵」は、編曲を行ったシュテファン・モーザーがライナーに書いているように、よく知られているモーリス・ラヴェルのオーケストラ編曲版ではなく、あくまでオリジナルのピアノ・ソロを元に編曲されていますから、「春の祭典」とは逆に楽器を増やす作業になります。こちらの方が、おそらく勝率は高くなるはずですね。
ただ、かわいそうなことに、この曲の場合はピアノ曲よりはラヴェル版の方がはるかに良く聴かれていますから、この、ほぼピアノ譜にある音だけを音にしたような編曲を聴くと、何か物足りないものを感じてしまうのですから、困ったものです。そんな中で、あえてピアノ版(もちろん、ラヴェルが下敷きにしたリムスキー=コルサコフ版ではなく原典版)の特徴を際立たせようとしているところは、好感が持てます。それは、「ビドロ」の始まりの部分を、コントラファゴットでブイブイと元気よく吹かせているところなどに現れています。この曲は、本当はこのようにffで始まるのって、知ってました?アーティキュレーションなども、ラヴェル版とは違うなと思ったところのピアノ譜を見ると、確かにそんな風になってましたし。
1ヵ所だけ、ピアノ版にはないようなことをやっているのが、「カタコンブ」の次の「プロムナード」にあたる「Cum mortuis in lingua mortua」です。本来は右手のオクターブの「トレモロ」だったものを、ピッコロの「トリル」に変えとりるのですね。確かに管楽器ではこんなトレモロはフラッター・タンギングでも使わないと無理でしょうから、これは仕方がありません。
エンディングが、とてもあっさり終わってしまってちょっと拍子抜けでしたが、これもラヴェル版の刷り込みによる誤解でした。ピアノ版では13小節しかないものを、ラヴェルはなんと21小節に「水増し」していたのですよ。これは、新たな発見でした。

CD Artwork © Atma Classique

おとといのおやぢに会える、か。


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