居留守の歌。.... 佐久間學

(14/2/7-14/2/25)

Blog Version


2月25日

The Magic Flute
Tia Roper(Fl)
Mitchell Vines(Pf)
ALBANY/TROY 1437


The Magic Flute」などというタイトルだと、普通はモーツァルトの「魔笛」を連想してしまうものですが、このアルバムの内容はそれとはまってき関係ないよう
このアルバムのプロデューサーでもある、ティア・ローパーという初めて聞く名前のアメリカのフルーティストがここで目指しているのは、単に「魔法のようなサウンドの楽器」であるフルートの様々な時代、方向性の作品を集めたというコンセプトだったのでしょうが、図らずもここに登場している7人の作曲家には、いずれも自身がフルーティストである、という共通項がありました。もちろん、そんなことはブックレットのどこを見ても書いてはありませんが、これはフリードリヒ・クーラウだけはフルーティストではなかったことを考慮してのことなのでしょう。でも、そんなことはどうでもいいんです。たとえ、公式のバイオグラフィーで「フルーティスト」と書かれていなくても、これだけフルートのことを知り尽くしていて、この楽器のために膨大な作品を残してくれた作曲家なのですから、間違いなくフルートも上手に演奏できたにちがいありませんからね。
まずは、アメリカのフルーティスト、ランソム・ウィルソンの「カルメン幻想曲」です。ただ、彼は「作曲家」といわれるほどのものではなく、これは単なる「編曲者」という意味でのクレジットと考えるべきでしょう。実際、これは有名なフランソワ・ボルヌが作ったものに、彼なりのアイディアを少し付け加えただけというものです。ボルヌ版に馴染んでいる人は、その「違い」を探しながら聴くのも一興でしょう。
次は、やはりアメリカのフルーティスト・コンポーザーのゲイリー・ショッカーの「エアボーン」。彼ならではの超絶技巧が要求される曲ですが、後半にはピアソラ風のけだるいダンスが登場します。
そして、デンマークの作曲家、「ソナチネ・アルバム」でおなじみのクーラウです。「ファンタジー」は無伴奏フルートの大曲、後半のモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」に出てくるテーマによる変奏曲にたどり着くころには、スタミナを使い果たしているという超難曲です。
さらに時代をさかのぼって、プロイセンのフリードリヒ大王の先生でもあったヨーハン・ヨアヒム・クヴァンツのフルートソナタです。もちろん、もともとはバロック時代の楽器のために作られた曲ですね。
そして、ギルドホール音楽院の教授でもある、現代イギリスのプレイヤー/コンポーザーのイアン・クラークの「オレンジ・ドーン」は、アフリカの夜明けに触発されて作られたという、瞑想的なピースです。
続く、テオバルト・ベームは、フルーティスト、作曲家のみならず、現代フルートの原型を作った楽器製作者としても知られている才人です。ここでは彼の新しい楽器の性能のデモンストレーションにはうってつけの「グランド・ポロネーズ」が選ばれています。
最後は、坂本龍一などとのコラボも行っているというイギリスのマイク・マウアーの「オーパス・ディ・ジャズ」です。文字通り、全面ジャズのイディオムが満載の3つの楽章から成る作品です。
これだけ変化に富んだレパートリーを、それぞれのテイストを的確に見極めることを怠り、どの曲も全く同じアプローチでしか演奏できていない、というのが、フルーティストのローパーの最大の問題点です。というか、この人にはそもそもその時代の音楽に必要なものは何かという意識が、まるでないのかもしれません。ぶっきらぼうな語尾からは、クーラウのロマンティシズムは全く感じられませんし、楽譜通りの演奏に終始して、「グルーヴ」までには手が回らないマウアーからは、ジャズのエッセンスを味わうことはかないません。
録音も、生音がそのまま聴こえる幼稚なもの。さらに、クーラウの後半で盛大に聴こえてくる外部ノイズに気づかないエンジニアと、それを許したプロデューサー(もちろんローパー自身)にはプロとしての資格はありません。

CD Arterok © Albany Records

2月23日

MOZART
Le Nozze di Figaro
Andrei Bondarenko(Conte), Simone Kermes(Contessa)
Fanie Antenelou(Susanna), Christian Van Horn(Figaro)
Mary-Ellen Nesi(Cherubino), Maria Forsström(Marcellina)
Teodor Currentzis/
Musicaeterna
SONY/88843014172(BA)


こちらでとても素晴らしい「レクイエム」を聴かせてくれたギリシャ出身の指揮者クレンツィスが、今度はレーベルをSONYに変えて「フィガロ」全曲を録音してくれました。「レクイエム」のときと同じ、ロシアの歌劇場付きのオーケストラ「ムジカ・エテルナ」が演奏しているので、あの時(2010年)と同じシベリアのノヴォシビルスクの歌劇場での録音かな、と思っていたら、こちらはなんとウラル山脈の麓の都市、ペルミの国立歌劇場ではありませんか。実は、クレンツィスは2011年にノヴォシビルスクを去って、こちらの歌劇場の音楽監督に就任していたのですね。言っといて下さいよ(テルミー!)。しかも、その時にオーケストラも一緒に連れていくことを要求、それがかなって前任地と同じハイレベルの仕事が出来ているのだそうです。
そんな、まさにクレンツィスの「手兵」であるムジカ・エテルナと、彼が選んだソリストたちは、ライブ録音ではなく、なんと11日間にわたってほぼフルタイムでのセッション録音に臨み、この録音を成し遂げたのだそうです。今時、SONYのようなメジャー・レーベルがそんな贅沢なことを許すだけの価値を、この若い指揮者に見出したというのがすごいところですが、彼は見事にその期待にこたえていました。ここには、彼の求める究極の「フィガロ」の姿が、見事に記録されています。
彼らが使っている楽器はピリオド楽器ですが、クレンツィスはオーセンティックなアプローチを試みるというよりは、このスタイルの方がよりモーツァルトの音楽を的確に表現できると考えていたようですね。実際、ここではモダン楽器のお上品な表現は姿を消し、ピリオド楽器ならではの幅広い表現力を最大限に引き出して、モーツァルトとダ・ポンテが作り上げたエネルギッシュなドラマを、信じられないほどの迫力で具現化しているさまを体験することが出来ます。ピッチがA=430Hzという、バロック・ピッチよりもはるかに高いものであることも、彼らの目指すところが単なる懐古趣味でないことの表れなのでしょう。
まず、序曲からして、度肝を抜かれるような衝撃的なものでした。そこでは、陰に回るべき声部までも、はっきりと自己を主張しているのがはっきり分かります。さらに、表現に必要とあらば、楽譜を改変する事も厭いません。たとえば、再現部で第2主題のモチーフが2回繰り返される時に、その2度目の前にこんな上向スケール(赤い音符)がフルートによって加えられています(T228/03:01付近)。
そして、幕開きのデュエットに続いてレシタティーヴォ・セッコが始まると、そこでの低音を演奏しているフォルテピアノの見事さに耳を奪われてしまいます。ありきたりの数字付きの低音ではなく、なんとイマジネーションが豊かなのでしょう。そんな伴奏に乗って、歌手たちも、存分にそこで「ドラマ」を演じています。なんせ、ドモリの裁判官のドン・クルツィオが登場する前では、フォルテピアノまでどもっているんですからね。パーソネルを見ると、低音にはその他にリュートとハーディ・ガーディのクレジットがあります。リュートはケルビーノの「Voi che sapete」のバックで聴こえましたが、ハーディ・ガーディは一体どこで・・・
最後の「Contessa, perdono!」という伯爵の「歌」が、およそ「オペラ的」ではない弱々しさで、リアルに究極の情けなさを表現していたことが、このオペラ全体のコンセプトを象徴しています。これほど生々しく物語が感じられる「フィガロ」は、今まで聴いたことがありません。
すでに、「コジ」は録音が終わっていて、今年の秋にはリリース、さらに「ドン・ジョヴァンニ」も来年の秋にはリリースになるそうです。それがどんなものになるのか、今から楽しみです。唯一の気懸りは、今回同様24bit/192kHzという最上位のハイレゾによるBAも出るのか、ということです。これを聴いてしまうと、もはや普通のCDのしょぼい音など、聴く気にもなれませんから。

BA Artwork © Sony Music Entertainment

2月21日

MENDELSSOHN
Symphonie No.3 "Scottische"
Gustavo Dudamel/
Wiener Philharmoniker
DG/479 0083(LP)


LPの再生にはいろいろと手間がかかりますが、調整が完璧であればSACDBA、さらには配信のハイレゾ・データをしのぐほどの音を楽しむことが出来ます。実際、最近山下達郎のLPを聴いていて、ボーカルが少し歪みっぽいな、と思ってチェックしてみたら、針圧がかなり高めだったことに気づき、それを適正なものに直すことによって見違えるように安定感のある、艶やかな音に変えることができました。そこで、今持っているLPをもう一度聴き直しているところです。
そんなものの一つが、このドゥダメルの「スコットランド」です。これは、今の時代にあってLPでしかリリースされなかったという、とても珍しいアイテムでした。なんでも、これは売り上げのすべてがドゥダメルを育てた「エル・システマ」に寄付されるというチャリティ商品なのだそうで、その趣旨に沿って、あえてまだレコードの方が普及している(のでしょうね)ベネズエラの人たちにも聴いてもらえるように、こんな形でのリリースになったのかもしれませんね。
いずれにしても、貴重な「LPの新譜」ですから、これを聴かないわけにはいきません。こんな、今の新譜ではちょっと見られない古典的な黄色いマークのDGのデザインのジャケットというだけで、欲しくなってしまいますよ。しかし、2年前の4月にこのLPを手に入れた時には、まずその盤質に失望させられました。一応「180gの重量盤」と謳っていますが、まず、中央の穴が、おそらく樹脂のはみ出しのせいでしょうか、少し小さくなっていて、押し込まないことにはターンテーブルに密着しません。さらに、端の部分が目で見て分かるほど波打っています。聴いてみても、その音にも演奏にも、特にどうということのない平凡さしか感じることはありませんでした。一応、「そんなはずはない」という気持ちでもう1度聴き直してもその印象は変わらず、したがってレビューを書くほどの気にもなれず、そのまま放っておいてあったのです。
それを、今回聴き直してみたら、以前とは全然印象が変わっていたではありませんか。そんな、たかが針圧ごときのことで、LP自体の感じ方が全く違ってしまうのですから、なんともシビアで辛辣なものです。
これは、レーベルはDGですが、ムジークフェライン・ザールでのウィーン・フィルとの演奏会のライブをオーストリア放送協会が録音したものです。したがって、トーンマイスターもDGの下請けのエンジニアではなく、放送局のスタッフなのでしょう。「商業」録音にありがちな誇張された音ではなく、なんともナチュラルなサウンドが、おそらく最初に聴いたときにはインパクト不足と感じられたのでしょうね。これは、本当にウィーン・フィルとこのホールの醸し出す柔らかな響きを、過不足なく収めた素晴らしいものだと、今回きちんとしたコンディションの下でのLPを聴いて、感じることが出来ました。
ドゥダメルの指揮ぶりも、それほどオケをコントロールしようという強い意志は感じられず、どちらかというとこの名門オーケストラのなすがままに任せて、その中から自ずとにじみ出てくるものを掬い上げてみよう、みたいな、言ってみれば「胸を借りる」姿勢のように聴こえてきます。おそらく、シモン・ボリバルだったら第2楽章はもっときびきびと演奏していたに違いありませんし、第3楽章でももう少し手綱を締めていたのではないか、という気がします。
ところが、第4楽章になったら、いきなりドゥダメルはこのオーケストラに鞭を入れてきましたよ。今まで相手の手の内をうかがっているうちに、「これならできる」という感触をつかんだのでしょうか、なんか攻撃的な指揮ぶりを見せてきたのです。ところが、オーケストラの方はこれに戸惑って、一瞬アンサンブルが乱れてしまいます。それを見て、結局ドゥダメルは元の穏やかな指揮ぶりに戻ってしまうのですね。ライブ録音ならではの、スリリングな出来事でした。

LP Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

2月19日

Mythes Étoilés
Kaspars Putnins/
Latvian Radio Choir
AURORA/ACD 5083


ひところの「ニセ作曲家」事件は、はた目にはなかなか興味深い事実を提供してくれるものでした。宮川彬良さんのことじゃないですよ(それは「二世作曲家」)。世間的にはSさんに全ての罪をなすりつけて一件落着ということになりそうですが、これはそんな単純なものではないような気がしてなりません。誰も知ることがなく隠蔽されてしまう事実の方が、実はよっぽど恐ろしいことに気づくべきでしょう。
一連の情報の中で一つ確実に明らかになったのは、彼がこれまでに世に問うた(とされる)作品は、まぎれもなく今のこの時代に作られたクラシックの作品でありながら、決して「現代音楽」とは受け取られていない、ということです。例えば、「交響曲第1番」の「レコード芸術」誌でのカテゴリーは「現代音楽」ではなく「交響曲」ですし、Sさんの代わりに実際にこれらを作った(とされる)Nさんの、「Sの依頼は現代音楽ではなく調性音楽でしたから、私の仕事の本流ではありません」(週刊文春)という言葉により、それはさらに裏付けられます。つまり、「調性音楽」は断じて「現代音楽」ではない、という認識ですね。これがとんでもない事実誤認であることは明白です。現在、世界的に広く評価されている「現代音楽」の作曲家であるクシシトフ・ペンデレツキやアルヴォ・ペルトの作品は、まぎれもない「調性音楽」ですし、日本を代表する作曲家で、Sさんの作品を絶賛したとされる三枝成彰の作るものも、「調性音楽」に他なりません。というか、音楽史に精通し「現代」、正確には「今の同時代」の「音楽」がその歴史の中でどのような位置を占めているかを的確に把握している人にとっては、このNさんのコメントは「いわゆる現代音楽」という、もうとっくの昔に死に絶えた概念の亡霊を追い求めている偏屈な作曲家の勘違いとしか思えないはずです。この方のお仲間がブログで「『予定調和』をなぞるほど恥ずかしく、非創造的なものはない」などと書いていますが、こんなことを言う人の作ったものなどは、人の心を打つことは決してありません。
「調性」を持つか否かといったような些細なことにはこだわらず、真に「現代」における音楽の姿を追及している作曲家たちとの共同作業で、多くの「現代音楽」を生み出してきたラトヴィア放送合唱団の新しいアルバムを聴けば、例えば「合唱」というフィールドではどんなものが作られているかが分かるはずです。
タイトル曲である、ノルウェーの作曲家ラッセ・トゥーレセンが2010年に作った「星の神話」では、西洋音楽以外のイディオムまで貪欲に取り入れて、逞しい世界を作り上げています。物を作るというのは、その人の内面をさらけ出すこと、それが見事に芸術として昇華したものを見る思いです。
ジョン・ケージなどという、まさに「現代音楽」の一時代を築いた人の合唱曲は初めて聴きましたが、その「Four2」というのは、おそらくきちんと音を指定したものではなく、演奏者が自由に一定のガイドに従って作り上げていくようなものだったのではないでしょうか。その結果聴こえてきたのは、見事な「調性音楽」ではありませんか。いや、それは「『調性音楽』を素材にした新しい音楽」とでもいうべきものでしょうか。そのぐらいの懐の深さがないことには、「現代」の作曲家は務まりません。
この中で最も衝撃的だったのが、スウェーデンの作曲家アンデシュ・ヒルボリが1983年に作った「Mouyayoum」です。意味不明のタイトルは、全曲母音唱によって歌われるものだからでしょう。技法的にはライヒのミニマルの手法を取り入れたものですが、そこから肉感的ですらある世界を見せているのですから、すごいものです。これは混声バージョンですが、男声バージョンも用意されていて、すでに多くの合唱団のレパートリーになっているのだとか。そうなんですよ。多くの人に聴いてもらえてこその「現代音楽」なのだ、とは思いませんか?

CD Artwork © Nowegian Society of Composers

2月17日

VERDI
Messa da Requiem
Juriana DiGiacomo(Sop)
Michelle DeYoung(MS)
Vittorio Grigolo(Ten)
Ildebrandl D'arcangelo(Bas)
Gustavo Dudamel/
Los Angeles Master Chorale(by Grant Gershon)
The Los Angeles Philharmonic
C MAJOR/714804(BD)


ハリウッドの山の中にある巨大な野外コンサートホール、ハリウッド・ボウルでは、毎年クラシックだけではなくジャズやロックのコンサートが開かれています。あの歴史的な「ザ・ビートルズ」のコンサートなどもここで行われました。確か「刑事コロンボ」にも登場したことがありましたね。
ここでLAフィルは、毎年夏のシーズンオフには定期的にコンサートを行っています。暑いです(それは「ハリウッド・ボイル」)。確かに、2002年には、当時このオーケストラの副指揮者だった日本人指揮者、篠崎靖男さんが指揮をしていました。

そして、昨年2013年には、音楽監督のドゥダメルの指揮によって、「当たり年」の作曲家ヴェルディの「レクイエム」が演奏されました。実は、この会場での映像を実際に見たのはこれが初めてです。なんでも、この会場はいろいろ問題があってなかなかライブ映像を撮ることができないのだそうで、これはかなり貴重なものとなります。
初めて見た「動く」ハリウッド・ボウル、しかし、最初に出てきた、この会場を象徴する「シェル」と呼ばれるステージの形が、さっきの篠崎さんの時の画像とはちょっと違っていることに気づきました。

実は、このシェルは2003年に今の新しいものに改築されたのだそうです。しかも、改築はそれが初めてではなく、1922年に建てられた時にはこんなシンプルな形をしていました。つまり、今のシェルは「3代目」となるのですね。

確かに、今のものはPAや照明も改良、さらに外側には大きな映像モニターも設置されていて、しっかり「今の」野外コンサートに対応出来るものになっているようです。

ただ、おそらく、会場用のPAは、録音用のものとは全く別系統になっているのではないか、という気がします。レコーディング・プロデューサーとしてクレジットされているのが、TELDEX STUDIOのフリーデマン・エンゲルブレヒトで、彼のマイクアレンジであるデッカ・ツリー(+アウトリッガス)をはっきり見ることが出来ますから、これが録音用のメインマイクなのではないでしょうか。実際、BDから聴こえてきた音は、まさにこのマイクアレンジならではの密度の高い、瑞々しいものでした。それと、屋外録音にしてはかなり豊かな残響が聴けますが、おそらくこの巨大なシェル自体が、オーケストラを包み込んで響きを作っているのでしょう。
ドゥダメルは、珍しいことに指揮棒を持っていませんでした。さらに、譜面台も置かないで全曲暗譜です。そんな、まさにストレートに演奏家たちとコンタクトを取っているような迫真の指揮ぶりで、とても熱い音楽を作りだそうとしていることが、よく見て取れます。ただ、必要以上に感情におぼれることはなく、その思いをあくまでインテンポの中で語ろうとしていることも、同時に読みとれるのではないでしょうか。それは、まさにオペラ作曲家であるヴェルディが作った「宗教曲」に対する、理想的なアプローチのように思えます。
そんな流れの中で、時としてソリストたちが過剰に思い入れを込めて歌うために、指揮者の意向とかみ合っていないように感じられる場面が見られます。特に気になるのがメゾ・ソプラノのデヤング。彼女の場合、以前から気になっていた高すぎるピッチとともに、何か常に全体から浮き上がっている感じがしてなりません。
テノールのグリゴーロも、あまりにナヨナヨした歌い方には、抵抗を感じる人は多いのではないでしょうか。その点、バスのダルカンジェロは、一本芯の通った素晴らしい歌を聴かせてくれています。ソプラノのディジャコモも、しっかり地に足の着いた音楽が感じられます。合唱も、水準は並ですが、決して全体の流れを壊すものではありません。
オーケストラのパワーはすごいものでした。ファゴット奏者が、「Dies irae」の直前にあわてて耳栓を装着しているシーンが、それを物語っています。

BD Artwork © C Major Entertainment

2月15日

MAHLER
Symphony No.2(arr. for small orchestra)
Marlis Petersen(Sop)
Janina Baechle(MS)
Gilbert Kaplan/
Wiener Singakademie(by Heinz Ferlesch
Wiener Kammerorchester
AVIE/AV 2290


かつては「マーラーの『復活』しか指揮のできないアマチュア指揮者」と、ほとんど奇人・変人扱いされていたギルバート・キャプランも、国際マーラー協会のお墨付きを頂いた楽譜を出版するようになるころには、もはや押しも押されもせぬマーラー指揮者として認められるようになっていました。もちろん、演奏するのは相変わらず「復活」だけですが、それもいいんじゃないでしょうか。まさに「一芸に秀でる」というやつですね(「一様に禿てる」じゃないですよ)。
おそらく、キャプランはこの曲が大好きでしょうがないのでしょう。とことん「復活」を正しい姿で世に送り出したいという願いのために、世界中から資料を集めたり、そんな風に楽譜の校訂までやってしまったに違いありません。そこまでやってしまった後に彼が企てたのは、きっと、この曲をもっと多くの人たちに演奏してもらいたい、ということだったのでしょうね。何しろ、この曲は基本4管編成の上に大編成の合唱団やバンダが必要という大規模なものですから、プロのオーケストラでもなかなか演奏するのは大変です。ましてや、地方のアマチュア・オーケストラなどでは、まず演奏が不可能な状態なのですからね。
そこで、いっそ、編成を小さくした楽譜を作ってしまおうとキャプランは考えました。そうすれば、自分が大好きなこの曲を、どんな田舎の人でも地元で自分たちの手で演奏することが出来るようになるじゃありませんか。まあ、そうすればおそらく演奏される機会は桁外れに増えるはずですから、楽譜のレンタル料で大もうけできるだろう、というビジネスマン根性も働いたのだろうといううがった見方も出来なく無ないでしょうがね。
何はともあれ、キャプランはロブ・マティスと協力して、そのような楽譜を作り上げました。マティスという人は、主にポップス畑で活躍している作曲家/アレンジャーですが、キャプランに負けないほどの「マーラーおたく」なのだそうです。
実際には、マーラーのスコアはパート内の人数が多くても、それだけの声部があるわけではなく、多くの部分で人を重ねているだけの状態ですから、人を減らす分にはそんなに問題はないはずです。ほんと、特にフルートでは現在はマーラーの時代よりも楽器の性能が高まっていますから、吹いていてなんでソロにしないのだろうという「無駄なユニゾン」がたくさんあることを実感します。さらに、バンダだって掛け持ちで出たり入ったりすればたぶん大丈夫でしょう。
その結果、オリジナルのスコアでは管楽器と打楽器を合わせて50人必要だったものが、たった22人で済むことになりました。これは、この曲の第1楽章のプロトタイプである「葬礼」で必要な25人とは、それほど違っていませんし、ベートーヴェンやブラームスの交響曲に比べたら十分に大人数です。そして、弦楽器もマーラーは指定していませんが本来なら18型(18+16+14+12+10=70人)のところを、この録音では10+8+6+6+4=32人で済ましています。合計すると、120人だったものが52人になるという、大幅な「リストラ」ですね。
もちろんキャプラン自身が指揮をしたこの世界初演となる「小編成版」の録音では、果たしてどのように聴こえることでしょう。正直、なかなか健闘しているな、という気はしました。とりあえず、必要なだけのものはしっかり聴こえてくるのですよ。ただ、録音が、やたらと音圧を上げているような感じで、何とか少ない人数を多く見せよう(聴かせよう)という意図がミエミエなんですよね。生で聴いたらスカスカに感じてしまうかもしれません。マーラーの場合は、本当は「人数が多くないとできない音楽」なのかもしれません。キャプランだったらそんなことは百も承知だったはずなのに。
合唱は、表記はありませんがおそらく50人ぐらいなのでしょう。これはこれで、ピュアな味がよく出ていましたね。

CD Artwork © Kaplan Foundation

2月13日

MUSSORGSKY
Pictures at an Exhibition(arr. by Breiner)
Peter Breiner/
New Zealand Symphony Orchestra
NAXOS/NBD0036(BA)


このアイテムついては、以前CDとハイレゾ・データでご紹介してありました。今回さらにBAも入手、色々比較してみます。そもそも、CDとは「帯」のキャッチコピーが違います。

BAは「これぞハイレゾ!」ですって。韻を踏んでますね(こういうのは、ふつう「おやぢギャグ」と言います)。
まずは、ダウンロード・データとの比較です。スペック自体は24bit/96kHzと全く同じなのに、意外にも感じが違います。具体的には、例えば打楽器の音場などは、データの方がよりくっきりと決まっていて、BAではそれがちょっと甘くなっています。ただ、弦のトゥッティなどでは、逆にBAの方に広がりが感じられますし、音色も輝きがあります。長時間聴いていると、おそらくBAの方が全体的により美しく感じられるのではないでしょうか。これはあくまで主観的なものですが、違って聴こえるのは間違いありません。
ただ、購入したデータは扱いやすさを優先させて、リニアPCMWAVではなくロスレス圧縮のFLACでした。もちろん、BAの場合はリニアPCMですね。理論的には、FLACは解凍すれば元のデータと変わらないものになるのですが、その演算にかかる負荷が音質に影響を与えることが指摘されています。もしかしたら、そのあたりが違いとなって表れていたのかもしれません。もちろん、それはCDとの違いとは比較にならないほど微小なものです。
ちなみに、トラックの切れ目は当然のことながらBACDと全く同じですが、データでは最後のトラック12から16の5つの部分が3つのファイルに別れています。さらに、これは「e-onkyo」で購入したのですが、ファイル名に付けられた番号が間違っていたため、そうとは知らずにソートをかけて再生すると曲順がグジャグジャになっていました(この件を指摘したら、即座に直しましたが)。
そして、前回もちょっと触れた楽譜についての検証です。そこでは漠然と「原典版」と書きましたが、きちんと聴いてみるとブレイナーの編曲にはその最初期、1931年に出版されたパーヴェル・ラム版の痕跡も見られます。ということは、おそらくラム版を下敷きにしたと思われる、1939年に作られたレオポルド・ストコフスキ―の編曲なども参考にしているようなのですね。
それが、まずトラック2の「小人」03:21でちょっと聴き慣れない音形となって現れてきます。自筆稿は「G♭・FB♭・G♭」という音形で、ラヴェル版も自筆稿を元にした春秋社版もその形になっているのですが、これは次(03:47)に出てくる同じような音形との類似性から、「最後のG♭はFの誤記」というのが春秋社版の校訂報告の指摘で、ラム、そして、ストコフスキーとブレイナーはそれに従っているのですね。

↑ラム版

↑春秋社版
トラック4の「古城」では、リズムの面で同じようなことが見られます。00:37で、ラヴェル版ではコール・アングレによって奏される、テーマの前半だけを使ったオブリガートの最初の音の長さは、「四分音符」になっていますが、これは春秋社版でも四分音符です。しかし、ラム版では「八分音符」になっていて、ブレイナーはここでもそれに従っています(楽器はオーボエ)。ただ、同じ型である01:57のオブリガートの最初の音は、なぜか全てのピアノ譜では「付点四分音符」になっているのにラヴェル版だけは「四分音符」(ヴィオラ)。ここでブレイナーは、コール・アングレでそれを「八分音符」で吹かせています。これは、ストコフスキー版そのもの。こうすれば全てのテーマが同じリズムで始まるという整合性が保てます。

そして圧巻は、トラック16「キエフ」の05:14で現れる「A♭・A♭♭・G♭・F」という半音進行です。ここはそもそもリムスキー・コルサコフ版の初版の印刷ミスだったのですが、ラヴェル版ではそのまま「A♭・A♭・G♭・F」というダサい進行になっていたところです。

↑春秋社版


↑リムスキー・コルサコフ版

こんな風に、ブレイナーの編曲には、ただのどんちゃん騒ぎではないしっかりとした裏付けがあったのですよ。

BA Artwork © Naxos Rights US, Inc.

2月11日

BACH
Christmas Oratorio
Kathrine Watson(Sop), Iestyn Davies(CT)
James Gilchrist(Ten), Matthe Brook(Bas)
Stephen Layton/
The Choir of Trinity College Cambrigde
Orchestra of the Age of Enlightenment
HYPERION/CDA68031/2


一時期SACDも出していたHYPERIONですが、最近は全く見かけないようになってしまいました。これは、パッケージはあくまでCDで通して、ハイレゾを希望する人にはサイトからのダウンロードをお願いする、という方針になったからなのでしょう。確かに、ここの配信ソースのカタログはかなり充実しているようで、今回の「クリスマス・オラトリオ」のような新譜も、すでにデータが購入できるようになっています。ブックレットもしっかりPDFで手に入るようですし、こうなると最初からダウンロードでもいいかな、という気になってきますね。ただ、提供されているデータのスペックが、24bit/88.2kHzという、あまり一般的ではないものなのが気になります。それと、これはどこでも同じですが、リニアPCMWAVではなく、FLACALACといったロスレス圧縮音源しかないのも、選択肢が限られていてちょっと気に入りません。
ただ、おそらくこのCDはタイトル曲に合わせて12月ごろにはリリースされたのでしょうが、なんとも理不尽な流通経路のおかげで、日本で入手できたのはもう年を越してからだという、間抜けなことになってしまいました。配信であれば、そんな障害は全く関係なく即座に入手できるということになりわけですから、まあ、そのあたりが最大のメリットなのでしょうね。
つまり、この録音は、去年の1月10日から14日の間に録音されているので、充分にその年のクリスマス・シーズンには間に合うスケジュールで製品を提供できるはずなのですよ。そしてこの録音のデータからは、ブックレットには何も書いてありませんが、おそらくこのメンバーによっておととしの1225日から、去年の1月6日まで実際にクリスマスの礼拝として録音会場であるトリニティ・カレッジのチャペルで演奏されていたことがうかがえます。ある意味、リアルタイムの「ゲネプロ」を終わらせて、その熱気のままに録音が行われたような気がするのですが、どうでしょう。
レイトンのバッハとしては、最近「ヨハネ」を聴いていました。確か、それは初めて聴く彼のバッハだったはずです。その時には、他の作品の録音に接した時のレイトンの芸風がそのまま反映された、密度の高い演奏が繰り広げられていたような記憶があります。
今回は、同じバッハでも「ヨハネ」とは大きく印象が変わっていました。それは、まず合唱団はその時の「ポリフォニー」ではなく、「トリニティ・カレッジ合唱団」になっていたことが最大の要因なのではないでしょうか。オトナの合唱団である「ポリフォニー」とは異なり、基本的にケンブリッジ大学の学生がメンバーであるこの合唱団は、ソプラノあたりの声にはまだきっちりナイーブさが残っていますから、サウンド的にはとてもピュアなものが伝わってきます。おそらく、それはレイトンのねらったところなのでしょう、その布陣によって(「婦人」ではなく「少女」を使うことによって?)前回の「キリストの受難」と今回の「キリストの生誕」というテーマの違いを、ここでは見事に受け取ることが出来ます。つまり、ハイテンションで押しまくるという芸風は、必ずしもレイトンの本当の姿ではなく、合唱団が変わればこんな穏やかな表現も出来るのだということなのでしょう。ちょっと物足りないような気もしますが、まあ「クリスマス」にはそれもふさわしいかな、と。
エヴァンゲリスト役で、もちろんアリアも歌っているテノールのジェイムス・ギルクリスト(すごい名前ですね)は、並はずれたコロラトゥーラのスキルに感服させられます。カウンターテナーのイエスティン・デイヴィスも、初めて聴きましたがなかなかの逸材ですね。怪しい色っぽさを漂わせているあたりが、魅力的です。ソプラノのキャスリン・ワトソンもクセのない声、ただ、バスのマシュー・ブルックだけは、何か集中力が欠けているようで楽しめませんでした。

CD Artwork © Hyperion Records Limited

2月9日

LIGETI
Violin Concerto, Orcheatral Works
Benjamin Schmid(Vn)
Hannu Lintu/
Finnish Radio Symphony Orchestra
ONDINE/ODE 1213-2


人気の映画、「ゼロ・グラビティ」を見てきました。大画面によってまるで本当に宇宙空間にいるような疑似体験をもたらす映像はまさに圧巻でしたが(酔っぱらう人もいるとか・・・それは「熱燗」)、そのバックで流れている音楽も、観客に媚びるありがちなものではなく、とことんハードに迫っていることにも好感が持てました。それは、このハードな映像との見事な融合を成し遂げていたように感じられます。そして、この完璧なコラボレーションを楽しんでいるうちに、かつて同じようなシチュエーションの映画を体験していたことを思い出していました。それは、半世紀前に作られたスタンリー・キューブリックの名作「2001年宇宙の旅」です。そこでは、既存の「クラシック」の曲がそのまま使われていたのですが、その中でも同じ時期に作られたばかりのリゲティの作品たちは、まるでこの映画のために作られたかのようなマッチングさえ見せていたのです。
まさにその時にスクリーンから流れていた「ルクス・エテルナ」の平静感、そしてクライマックスでの「アトモスフェール」のとてつもない破壊力が、「ゼロ・グラビティ」のスティーヴン・プライスによるスコアから感じられたのは、決して偶然ではないような気がします。リゲティよりほとんど半世紀後に生まれたこのイギリスの作曲家は、監督のアルフォンソ・キュアロンが多くのシーンでキューブリックへのオマージュを試みているように、間違いなくリゲティの音楽へのリスペクトによって今回の音楽を作るにあたってのモチベーションを高めていたことは、想像に難くありません。
もちろん、プライスのスコアからは、リゲティの曲が持つざらざらとしたテイストはサッパリとなくなっていて、かなり耳当たりの良い音楽が聴こえてきます。それはおそらく、50年というスパンの中での音楽のありかたの劇的な変化とは無関係ではないはずです。
このCDには、「若手」が中心になった演奏家によって2012年から2013年にかけて録音された、リゲティのヴァイオリン協奏曲と3つのオーケストラ作品(「アトモスフェール」、「ロンターノ」、「サンフランシスコ・ポリフォニー」)が収録されています。
まずは「ロンターノ」を聴いてみます。この曲は、ほぼ同じ時期に作られた「ルクス・エテルナ」とは「姉妹曲」同士だと言われているそうですが、今まではそんなことは気づきもしませんでした。しかし、驚いたことに、ここで聴けるものは、まさにその精緻な無伴奏合唱曲と全く変わらないテイストではありませんか。おそらく、弦楽器の澄み切った音色と、伸びやかなフレージングが、そのような印象を与えてくれた要因なのでしょうが、これほどまで合唱曲と同じサウンドの志向性を持った演奏には、初めて出会ったような気がします。いや、これは合唱曲よりもキャッチーなサウンドに仕上がっているかも。
そこで、「アトモスフェール」を聴いてみると、これも今まで聴いてきたものとはまるで違った、とても「美しい」ものに感じられてしまいます。とにかくオーケストラの音色がとても滑らかでソフト、それはまさに「今」のサウンドだったのです。
もうお分かりだと思いますが、この2曲はまさに「ゼロ・グラビティ」の中で流れていても何の違和感もないだろうと思えるようなものだったのです。リゲティの作品には、そんな、時代の変化に見事に対応できるだけのしたたかさがあったのですよ。
もう少し後に「ヴァイオリン協奏曲」を作るころには、そんな「したたかさ」はすでに目に見えるものとしてはっきり表に出てきていることが、この演奏からはよく分かります。第2楽章でのソロ・ヴァイオリンのたっぷりとした「歌」、そのバックのオカリナやリコーダーによる中世風の佇まい、それは、似たようなことをやっているペンデレツキなどとは全く異なる志から出てきたものであることも。

CD Artwork © Ondine Oy

2月7日

Classica Francese
Anette Maiburg(Fl), Alexandra Cravero(Voc)
Emmanuel Ceysson(Hp), Karina Buschinger(Vn)
Wen Xiao Zheng(Va), Guido Schiefen(Vc)
Mathias Haus(Vib, Xylo)
Andreas N. Turkmann(Arr)
MDG/910 1825-6(hybrid SACD)


ドイツのフルーティスト、アネッテ・マイブルクは、ハーゲン・フィル、バンベルク交響楽団などのフルート奏者として活動しつつ、「後進の指導」にもあたるというごく普通のクラシックのフルーティストとしてのキャリアを重ねていましたが、2008年から、このMDGレーベルとともになかなか興味のあるプロジェクトを始めました。それは、「クラシカ」というタイトルの、一つの国をテーマにして、クラシックという枠を超えてフォークロアまでに及ぶレパートリーを紹介するというアルバムを作ることでした。現在までにキューバ、アルゼンチン、ヴェネズエラ、スペインの4つの国のアルバムが完成、今回はフランス編です。
フランスともなると、当然今までの、ある意味「民族色」の濃いレパートリーとは一味違う選曲となってくるのでしょう、ここで「クラシック」に対して選ばれたのは「シャンソン」でした。念のためですが、ここで言う「シャンソン」とは、16世紀頃の世俗的な合唱曲のことではなく、20世紀になって作られた「ポップス」の1ジャンルとしてのヒット・チューンのことですからね。
それに対して、「クラシック」からはドビュッシーの「ソナタ(Fl, Va, Hp)」、「牧神の午後への前奏曲」、クラ(クラス)の「五重奏曲」、そしてジョリヴェの「リノスの歌」というラインナップです。「牧神」と「リノス」は、室内楽のバージョンです。
まずは、いかにもフランス風のテイストが醸し出されそうなドビュッシーの「ソナタ」から、アルバムは始まります。この3つの楽器が溶けあって、えも言われぬ「おフランス」の情緒を、まず聴いてもらおう、というコンセプトなのだな、と、普通は考えてしまいます。ところが、この才人マイブルクが仕掛けたのは、そんな甘ったるいものではありませんでした。彼女は、この、凡庸な演奏家の手にかかれば、思わず眠気を催さずにはいられないほどの退屈な時間を過ごすことになってしまうような曲から、あり得ないほどの生き生きとした躍動感を引きだしていたのです。彼女のフルートは、時としてこの曲に求められる表現の幅を大きく逸脱した、積極的な表情を見せています。きっぱりとした意志の感じられるクレッシェンドや、自由自在のルバートによって、今まで聴いたことのなかったような芳醇な魅力を、この曲から引き出していたのですね。相方のシャオツェンのヴィオラも、同じように積極的な音楽を仕掛けてきて、さながらツイン・ギターのバトルのような様相すら見せてはいないでしょうか。
そして、次に控えるのが「シャンソン」です。ところが、その「アムステルダム」のイントロときたら、殆ど「クラスター・ミュージック」のような「現代的」なアレンジによって、まるで「ゲンダイオンガク」のように聴こえてくるではありませんか。アレクサンドラ・クラヴェーロの歌も、殆ど「シュプレッヒ・ゲザンク」のような異様さで迫ります。アンドレアス・タルクマンという人が編曲を担当していますが、これはただ事ではありません。
ところが、そのあとに「牧神」をこのメンバーのためにハープのエマニュエル・セイソンが編曲したものが演奏されますが、これがオリジナルの持っている風通しの良さがまるで継承されていない、なんとも重苦しいアレンジなのですね。そんな毒気にあてられたのか、それに続くクラ(クラス)は何の変哲もないただのサロン音楽に聴こえてしまうし、ジョリヴェに至っては肝心のフルートが陰にまわってしまって、この曲のエキスがさっぱりとなくなってしまっています。
そうなると、「シャンソン」も、やけに芝居がかった歌が鼻に付いてくる始末です。せっかく好スタートを切ったというのに、終わるころにはスタミナ切れ、76分45秒もの長丁場をテンションを保ったまま完走するのは、大変なことなのだな、というのが正直な感想です。

SACD Artwork © Musikproduktion Dabringhaus und Grimm

おとといのおやぢに会える、か。


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