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鼻毛の歌....渋谷塔一

(01/6/25-01/7/15)


7月15日

ALKAN
Symphony for solo piano
Marc-André Hamelin(Pf)
HYPERION CDA67218
「おやぢの部屋」ではおなじみのアムランの新譜です。前作のシューマン作品集も、もちろん悪くなかったのですが、やはり彼の本領は、こういったヴィルトゥオーゾアイテムにあると言えましょう。
さて、今回の「ピアノソロのための交響曲」ですが、この作品は、「短調の12のエチュード」と題された作品の第4曲から第7曲までの4曲です。アムランは以前に同じ作品番号の第8〜10曲、「ピアノソロのための協奏曲」をリリースしていますので、これはある意味続編と言ってもいいかもしれません。
そもそもアルカンが謎だらけと言い出したのは誰だったのでしょう。某メーカーの出しているCDのカタログでも、アルカンの紹介文はすごいものでした。「およそ常人には演奏不可能な作品を多数作曲、題名も謎に満ちている。多数の蔵書に押しつぶされて最期を迎えた」こんな内容だったと記憶しています。
このように、本人は歩かんのに伝説のみが一人歩きしていた感のある人ですが、それは偏に彼の作品を正しく演奏できる人がいなかったからに他なりません。で、アムラン。彼の演奏技術とアルカンへの愛のおかげで、世界のアルカン事情はかなり風通しが良くなったのではないでしょうか。結局、「本につぶされた云々」も事実ではなかったらしいですし、そろそろ純粋な音として彼の作品を楽しむことが出来る時代になってきたのかもしれません。
さて、今回のメイン、「ピアノソロのための交響曲」です。これは作曲家の生前には、ただ1度しか公の場では演奏されなかったという、アルカンの作品の中でも大掛かりで、高度な技巧を要する曲。しかし、この曲もアムランの手に掛かると、全く難しく感じれらなくなってしまうというのが、難点といえば難点でしょうか。
曲想はまるでシューマン。ただし、彼のような屈折した対位法ではなく、もっと素直に心に響くメロディーだったのが、意外と言えば意外でした。実際に演奏するのは大変かも知れませんが、もっと広く聴かれてもいい曲です。
カップリングの小品が、また貴重です。なかでも、「悲劇的な3つの小品 Op.15」。これは、あの偉大な日本人ピアニスト(?)ミヒャエル・ナナサコフも同時期にレコーディングを果たしたと言う注目の作品。このアルバムにつきましては、また機会があれば触れますが、とりあえず、アムランが勝つか、ナナサコフが勝つか、まことに興味深い対決です。
アルカンの真意は、膨大な音符の壁を崩さないことには表れ出でることはありません。この難事業を成し遂げたアムランのがんばりを讃えたい1枚である事は、まちがいありませんね。

7月13日

RUTTER
Gloria and other sacred music
Stephen Layton/
Polyphony
HYPERION CDA67259
前回のリーム、私はちょっと苦手なタイプでしたが、それはあくまで個人的な趣味の問題ですから、現実には好きでたまらない人もいるわけです。なんでも、某大型CD店では、入荷した分がすべて売り切れてしまったとか。ご同慶の至りです。
同じ現代の音楽といっても、その作風は千差万別、その一つの例が、このページの一番下のCDになるわけですが、今回のジョン・ラッターのような人は、まさにリームの正反対の位置にいるということができるのではないでしょうか。「スクリーム」はスプラッターとはちょっと違いますし(?)。
フォーレのレクイエムの「ラッター版」でお馴染みのこのイギリスの作曲家ですが、合唱指揮者としても長いキャリアを持っていて、「ケンブリッジ・シンガーズ」という自身の曲を主に演奏する合唱団を持っていますし、さらに「COLLEGIUM」というプライヴェート・レーベルも主宰しているのです。作風は、無調やクラスターとは全く無縁の、極めて自然に耳に入ってくるメロディーと和声を用いたもの、よく引き合いに出されるのは、例の「オペラ座の怪人」のアンドリュー・ロイド=ウェッバーと、「癒し系」の大御所ジョン・タヴナーでしょうか。ミュージカルにも似た美しいメロディーと、包み込むような豊かなハーモニーが身上です。
そんなわけですから、「グローリアと、その他の宗教音楽」というタイトルのこのCD、抹香臭さを予想して身構える必要はさらさらありません。
3部から成る「グローリア」は、室内オーケストラに、有名なブラスバンド「ウォーレス・コレクション」が加わった大編成の曲です。1部と3部はそのブラスが大活躍する派手な音楽、シンコペーションを多用した躍動感あふれる曲想は、アメリカの団体からの委嘱ということと無関係ではないでしょう。どことなく、かの国のレナード・バーンスタインを連想することも可能です。それに対して、2部は殆どオルガンだけ、あるいは無伴奏の静かな曲、このあたりの表現の振幅の大きさも、彼の大きな魅力です。
「その他」は全部で12曲ありますが、これを続けて聴くと、さらにその音楽の幅広さに驚かされることになります。教会の礼拝のために作られた無伴奏の曲の敬虔なハーモニーには、それこそ「癒される」思いですし、何かの会合の折に作られたとことんキャッチーなメロディーを持つ曲は、そのままミュージカルのナンバーにも使えそう。自分の合唱団の団員同士の結婚のお祝いに作ったという曲などは、きっちり16小節の「二部形式」で出来てますし。
演奏しているのは、その合唱団ではなく、ついこの間ブリテンでご紹介した「ポリフォニー」。相変わらず均質な音色と柔らかいハーモニーで、至福の響きを聞かせてくれています。
こんな美しいアルバムなのに、先ほどのCD店では全然売れていないんですって。世の中、間違ってます。

7月11日

RIHM
Deus Passus
J.Banse(Sop), I.Vermillion(MS), C.Kallisch(Alt),
C.Prégardien(Ten), A.Schmidt(Bar)
Hermuth Rilling/
Gächinger Kantorei
Bach-Collegium Stuttgart
HÄNSSLER CD 98.397
このページではお馴染みのヘルムート・リリンク、彼が昔から主催していた「国際バッハアカデミー」は、近年はバッハに限らない幅広い展開を見せてます。秋の虫を研究したり(それはバッタアカデミー)、頭にお皿がある動物をテーマにしたり(それはカッパアカデミー)、というのはもちろんうそですが、1988年にはヴェルディを中心にした13人の作曲家の合作による、ロッシーニの1周忌のためのミサの「世界初演」を行ったかと思うと、1995年には、その現代版とも言える、「和解のレクイエム」を、世界中の14人の作曲家に委嘱するという大事業を行っているのです。
さらに、バッハ没後250年となった2000年には、「パッション2000」と銘打って、4つの福音書による受難曲を、4つの異なる文化圏に属する作曲家に作らせるという、とんでもないプロジェクトを立ち上げたのでした。その作曲家というのは、スラブ圏のソフィア・グバイドゥーリナ(ヨハネ)、ラテンアメリカのオスヴァルド・ゴリホフ(マルコ)、東洋のタン・ドゥン(マタイ)、そして、ヨーロッパ代表が、ヴォルフガング・リーム(ルカ)というわけです。
1952年、ドイツに生まれたリームは、カールハインツ・シュトックハウゼンや、クラウス・フーバーといった人に師事、最近はルイジ・ノーノに傾倒しているという、言ってみればヨーロッパ現代音楽の正統的な道を歩んでいる作曲家です。「和解〜」にも参加していましたが、リリンクにしてみれば、バッハから連綿と続いているドイツ音楽の流れの継承を、リームに託したのではないでしょうか。
確かに、リームが作り出す音楽には、最近の混沌とした音楽シーンとは距離をおいた、確固たる信念が見て取れます。それは、新ウィーン楽派あたりに原点がある作曲技法、創始者シェーンベルクをして、「ドイツ音楽の優越性は確立できた」と言わしめた、調性に基づかない音楽です。
曲の構成という面で見てみると、福音史家が福音書を朗読するという、バッハあたりではお馴染みのスタイルは姿を消し、複数のソリストによって対話的に物語が進行してゆきます。アリアに相当する部分に挿入されたのが、ラテン語による祈祷文。そして、最後の曲は、パウル・セランという人のドイツ語の詩がテキストになっています。
オーケストラや合唱の扱いには、時折はっとするような瞬間を見出すことが出来ます。特に、有名なピラトの裁判の場面で、合唱が"Barabbas"とか"Kreuzige"と執拗に呟きつづけるところなどは心を打たれます。ソプラノのバンゼが歌うアリア的なナンバーも実に感動的。
しかし、創作の基本が先ほど述べたようなものですから、全体を支配する無調の世界の中にあっては、そのような美点もややもすればかき消されがち。ソリストたちが正確なイントネーションで作曲者の意図した音たちを実体化すればするほど、この作曲技法のもつ根本的な欠陥が明らかになってしまうと感じられるのは、皮肉なことです。

7月9日

RAVEL-CONSTANT
Gaspard de la nuit
Laurent Petitgirard/
Orchestre Symphonique Français
O.S.F. OSF 49101
このCD、録音されたのは1990年ですし、リリースされてからもだいぶ時間がたっているのですが、なにしろ「フランス交響楽団」というオーケストラ(そんなのがあったんですね)の自主制作盤ですから、なかなか、普通のルートでは入手できないものでした。それが、最近某トレーディング経由で流通の道が開け、一般の大型店でも扱うようになったので、ご紹介できるというわけです。
目玉は、ラヴェルのピアノ曲「夜のガスパール」のオーケストラ版。ラヴェルは、生前自作のピアノ曲を数多くオーケストラ用に編曲していますが、この曲には手はつけてはいなかったのです。それを、最近、ラヴェルの遺族とラヴェルの曲の出版元であるデュラン社がオーケストラ曲として出版することを思い立ち、フランスの作曲家マリウス・コンスタンにその編曲を依頼しました。これは、その世界初録音ということになります。
元のピアノ曲は、ピアノのあらゆる技法を盛り込んだ、とても難しい曲であることは、この曲を一度でも聴いたことのある方でしたら、容易に想像がつくことでしょう。特に終曲の「スカルボ」は、ピアノのメカニズムの限界に挑戦するような、同じ鍵盤をとてつもない速さで叩くのがウリ、携帯メールの早打ち名人でない限り、演奏は不可能というような難曲です。
これを大オーケストラで演奏した時、果たしてピアノのあの運動感が再現できるかというのが、最大の関心事であったのですが、やはりというか、仕方がないというか、相当テンポを下げているにもかかわらず、トランペットやダブルリードであの粒立ちを出すというのは不可能なことだったようです。1曲目の「オンディーヌ」でも、やはり細かい音符の伴奏がありますが、コンスタンのレアリゼーションでは、まるでスティーブ・ライヒみたいなせわしないパルス。ここからオリジナルの透明感を聴き取るのはとうめい不可能です。
そんな中で、2曲目の「絞首台」だけは、オーケストラの持ち味が良く出た、魅力のある編曲になっています。この曲の中には、背景としてBbの鐘の音が終始流れているのですが、これがピアニスト泣かせの代物。前景で聴かれる音楽とは全く異質の音を、様々なニュアンスで弾き分けなければならないのですから、ちょっとやそっとのテクニックでは追いつきません。それが、オーケストラでは打楽器奏者のセンスさえ間違いなければ、どんな鐘の音でも自由自在、この演奏でも、実に繊細な音を聴くことが出来ます。メインの息の長いフレーズも、ピアノよりは管楽器の方がずっとさまになりますし。
ただ、全体を通してみると、オーケストラの色合いが、ラヴェルよりはドビュッシーに近くなっているのは、ちょっと問題でしょう。音楽史では「印象派」などというカテゴリーで一緒に扱われてしまいがちですが、この二人の音楽は似て非なるもの。カップリングの、ラヴェルのオリジナルの編曲物からは、このコンスタンの編曲とは一線を画した、ある種ストイックなものが感じられるはずです。

7月6日

BRITTEN
Sacred and Profane etc.
Stephen Layton/Polyphony
HYPERION CDA67140
生前は、「イギリスが生んだ今世紀最大の作曲家」などと持ち上げられていたベンジャミン・ブリテンですが、死後四半世紀を経た今となっては、「青少年のための管弦楽入門」1曲がかろうじて音楽史に残ろうかという寂しいありさまです。おそらく、あまたのマイナーな作曲家同様、一握りのマニアックな愛好家の好奇心の対象として、そのアブノーマルな性癖とともに細々と後世に語り伝えられていくことでしょう。なんせ、ツモらなければ上がることは出来ないのですから(それはフリテン)。
しかし、天才的なひらめきこそ見いだせられないものの、その職人的な作風によって生み出された作品の数々には、なかなか侮れないものがあることは、否定するわけにはいきません。今回ご紹介するア・カペラの合唱曲を集めたアルバムからも、そのような適度の喜びは得られます。
収録されているのは、16歳のまだ学生時代に書かれた「A Hymn to the Virgin」から、亡くなる前の年に完成した「Sacred and Profane」まで全6曲。ただし、これには曲集も含まれるので、トータルの曲数は28曲となります。おそらく、これらの曲は、アマチュアの合唱団にとっては格好のレパートリーなのではないでしょうか。特殊なテクニックが求められているわけではなく、きちんと練習をやりさえすれば、かなり聴きばえのするプログラムになることでしょう。
実は、私も昔、「Five Flower Songs」を、さる合唱団で歌ったことがあるのですよ。ただ、その時は、ブリテンというのはなんてかったるい曲を書く人だと思ってしまいました。しかし、このCDで聴いてみると、あのときの同じ曲とはとても思えない爽やかな印象です。一つには、原語ではなく、日本語の訳詞で歌ったことも敗因だったのかも知れません。特に5曲目の「Ballad of Green Broom」などは、日本語で歌ったのでは絶対出すことの出来ないリズミカルな仕上がりになっています。
スティーヴン・レイトンの指揮する「ポリフォニー」は、そんな、テキストと音楽の関連性を押さえた上で、徹底的にハーモニーに磨きをかけて、この凡庸な作品たちから見事な輝きを引き出しています。驚異的なのは、男声、女声を含めて、各パートの音色がしっかりと統一感を持っているということ。それを端的にあらわしているのが、「Sacred and Profane」の5曲目で聴かれるソプラノソロです。アンサンブルとまったく同じ音色で、決して浮き上がることはないにもかかわらず、際立って存在感が主張されているという、理想的な発声が実現されているのです。
本体とエコーという、ルネッサンスの二重合唱の形態をとった「A Hymn to the Virgin」は、ほんの3分足らずの曲ですが、彼らの手にかかると、まるで魂を洗われるような崇高な気分を味わうことが出来る壮大なヒーリング・ピースに変わります。まさかブリテンで癒されようとは夢にも思っていませんでしたから、それを可能にしたイギリスの合唱界の裾野の広さを、羨望の念とともに再確認させられた思いです。

7月4日

LISZT
Années de Pèlerinage(Italie, Venezia e Napoli)
Frederic Chiu(Pf)
HARMONIA MUNDI HMU 907263
リストの傑作、「巡礼の年報 第2年 イタリア」と「第2年への追加 ヴェネチアとナポリ」全曲を、若手俊英、フレデリック・チュウのピアノで聴いてみました。
この曲集はリストのいわば「旅のアルバム」のようなもの。第1年がスイス、第2年はイタリア、そして第3年(これには地名がついていません)。1年から3年といっても作曲された年数にはかなりの隔たりがあり、最初の曲は、第1年の「牧歌」で彼が24歳のとき、それからおよそ40年ほど経って、第3年の数曲が書かれています。(この中には有名な「エステ荘の噴水」も含まれます。
リストの作曲様式の変遷については改めて申し上げるまでもありますまい。数々の人生経験を重ねるにつれ、作品も深みと美しさを増してゆくのです。とは言え、この第2年は、まだまだリストが脂ぎっていた頃(いやな表現だ)の作品。第2曲目の「物思いにふける人」などもまだまだ技巧の追求に観点が行っていて、「物思いにふけってます」と言う境地からはほど遠いものを感じます。何と言っても、この曲集で面白いのは、イタリアそのものとも言える、「ペトラルカのソネット」や「カンツォーネ」など風物詩を描写したもの。そして圧巻は1曲で15分の長さを誇る「ダンテを読んで」でしょうか。
さて、チュウのピアノです。彼も昨今の例に漏れず、ばりばりの技巧派といえるでしょう。以前、グリークのヴァイオリンソナタで、アモワイヤルと共演したCDを聴いた事がありますが、ヴァイオリンとの熱のこもった絡みに、思わず手に汗を握ったくらいです。(これはおおげさ)
とにかく巧い人で、どんなところでも技巧に破綻は一切ありません。例えば、伝説的なピアニスト、ベルマンの同じ曲の演奏なんかは、フレーズとフレーズをつなぐ無意味なパッセージに入る前に、一瞬のタメが入るのですね。そこで音楽の流れが僅かながら滞る事もあるのですが、チュウの場合、メロディの中に完全に組み込まれるので、変なパッセージも全く違和感なく耳にしみこむのです。ただし、ベルマンの場合は、その風情が「ロマンティック」と解釈される場合が無きにしも有らずでして。そう、チュウの演奏ですと、若干冷たい印象を持つ方もいるのでは。
確かにゴンドラの漕ぎ手の歌う唄は、少々たどたどしいくらいの方が味があるのかも知れません。あまり巧く弾いてしまうといけない曲もあるのだな。と感心しましたよ。
彼の持ち味が存分に生かされるのは、やはり「タランテラ」のような激しく燃える曲でしょうか。これは素晴らしい。まったく唖然とするような8分間。
そんなわけで、全曲を通すと満足度50%といったところでしょうか。そう、チュウくらいですね。

7月2日

BRAHMS
Quartett op.60, Quintett op.34
La Gaia Scienza
WINTER&WINTER 910 052-2
以前紹介したこともある、ラ・ガイア・シエンツァの最新アルバムです。今回はブラームスのピアノ四重奏曲第3番と、ピアノ五重奏曲です。いつものように、このWINTER&WINTERのレーベルのこと、何か新しい発見があるに違いありません。
さてさて、以前紹介したのはシューマンでしたっけ。ユリ・ケイン・アンサンブルによる「詩人の恋」とのコラボレーションで、ピアノ四重奏曲を演奏していましたね。あのアルバムは確かに衝撃的でした。「詩人の恋」といっても、そこはあのユリ・ケイン。形は借りているものの、まったくの彼のオリジナルといっても差し支えないほど曲の原型はありませんでした。そう、あえて言うなら、あのツェンダーによる「冬の旅」の創造的改作のように。ただ、ツェンダーの編曲は、一応クラシックの範疇を超えていなかったのですが、ユリ・ケインはなんでもあり。ジャズ、ワールド、泣きオンナ、(何だそれ)ありとあらゆる要素が混然一体となり、独特の世界を形成していましたね。そのやり方は、次のアルバム、「ゴルドベルク変奏曲」にも受け継がれていましたが。
なんだかユリ・ケインの話になってしまいましたので、ここで、ラ・ガイア・シエンツァについて。このオリジナル楽器アンサンブル、奏者はあの「イル・ジャルディーノ・アルモニコ」のメンバーです。「イル・ジャルディーノ・アルモニコ」といえば、確かに変わった解釈で有名な団体でして、ヴィヴァルディの四季にしても、発表時には、かなりな驚きを持って迎えられたものです。実際の演奏会では、四季をロック調にアレンジしたり、ま、そんなところは、ユリ・ケインと波長が合うのでしょう。ヌードでチャリをこいだりして(裸体や自転車)。
で、このブラームス。CDのジャケもかなり扇情的なデザイン。どんな演奏なのだろうとちょっと不安になってしまったものです。
しかし、聴いて見れば、日頃から抱いているこの曲のイメージとかけ離れている事はまったくありませんでした。ブラームスにしては、ちょっと元気が良すぎるかなとも思いましたが、それは単に私の持つ先入観のせいに他なりませんね。その上で、エラールのピアノの優雅な音や、温かみのあるチェロの音を楽しめたのです。
たぶんブラームスの演奏は、あまりにも多様化しているのでしょう。例えば、アファナシェフやグールドのような極端な解釈で耳が慣れているのかも知れません。ピアノ四重奏曲にしても、以前聴いたラレード&上海SQのようなロマンティックな演奏もあれば、今回の演奏のような、溌剌とした演奏もあって当然ですね。
楽しいブラームス。梅雨の晴れ間に最適です。

6月30日

BRUCKNER
Symphony No.00
Stanislaw Skrowaczewski/
Saarbrücken Radio SO
ARTE NOVA 74321 84434 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス BVCE-38037(国内盤)
1995年ごろに、スクロヴァチェフスキ/ザールブリュッケン放響のブルックナーの7番が発売された時は、大げさに言えば、まるで一つの「事件」が起こったようでした。聞いたこともないような廉価盤専門のレーベルからリリースされた、当時は殆ど世間から忘れ去られていた「過去の大家」(彼は、女湯をのぞいた事が発覚して、干されていたという噂も・・・それはオフロバチェックスキ)、の演奏が、とてつもなく素晴らしかったからです。最初は輸入盤だけでしたが、そのうち国内盤も出るようになって、このコンビのブルックナーは発売されるたびに驚異的なセールスを記録したのです。
このたび、めでたくこの「00番」がリリースされ、11曲すべての交響曲が出揃ったということで、12枚組の全集も同時に発売されていますが、これは国内盤でも6000円、輸入盤ではなんと4890円という破格のお値段。これだけクオリティの高い演奏の全集がタダ同然で手に入るのですから、これはもう買うしかないでしょう。
さて、この「00番」、ブルックナー39歳の時の作品です。実は、この頃彼は、10歳も年下のオットー・キツラーという指揮者のもとで、作曲のレッスンに励んでいたのです。様々な事情で、こんな年になるまできちんとした管弦楽法などを学んでいなかったブルックナーですが、この時の頑張りが、将来の大作の創造の基礎になったわけですね。で、その際の課題として作ったのが、この曲というわけです。
ブルックナー自身も、スコアに「習作」と書いていたように、決してのちのブルックナーの交響曲と同列に扱うことはできない作品ではありますが、逆に言えば、このような曲しか書けなかった作曲家が、のちにあのようなだれにも真似の出来ないものを作り出すという事実に、奇跡的なものを感じてしまいます。そのぐらい、作曲者名を伏せて聴かせられれば、シューベルトとか、シューマン、メンデルスゾーンと言われても納得してしまう、とてもチャーミングな曲です。
したがって、スクロヴァチェフスキがここで行っているのは、後の交響曲との関連性を意図的に断ち切った、あくまで若書きの作品の実像を知らしめること。終始軽快な音楽の運びからは、たとえばエリアフ・インバルの91年の録音に見られるような、なんとしてもこの曲から「ブルックナーらしさ」を導き出そうとする強引な意思は、微塵も感じ取ることは出来ません。
さるディスコグラフィーによれば、これはこの曲の7番目の録音ということになります。スクロバやインバル以外の演奏が、この曲にどのようなアプローチを取っているのか、それをチェックするほどのまにあではありませんから、現在の趨勢がどういうものであるかは分かりません。しかし、とりあえずこのスクロバチェフスキの演奏からは、とても自然で、ストレートなメッセージが伝わってくると、私には感じられます。

6月27日

BUXTEHUDE
Membra Jesu Nostri
Harry Christophers/
The Sixteen
LINN CKD 141
ディートリヒ・ブクステフーデというバッハの先輩のような作曲家のことはご存知でしょう。北ドイツのリューベックという町の聖マリア教会のオルガニストとして、絶大な人気を誇っていた当時のカリスマです。ただ、本などはあまり読まず、その代わり食事には気を使ったグルメ(ブック捨て、フード)・・・というのはうそ。その頃は全国ツアーなんてものはありませんでしたから、演奏を聴こうと思ったら、リューベックまで行くほかはありませんでした。で、その時はアルンシュタットの新教会のオルガニストだった20歳のバッハは、教会に1ヶ月の休暇を願い出て、はるばる370キロ(仙台−東京間!)も離れたリューベックまで、歩いていったと伝えられています。生で聴くブクステフーデのオルガンや、彼が主催していた「アーベント・ムジーク」という演奏会の素晴らしさに夢中になったバッハ青年は、結局4ヶ月もアルンシュタットを留守にすることになってしまい、教会関係者の大目玉を食らってしまうのですね。追っかけもほどほどに、ということでしょうか。
このブクステフーデ、オルガンのための曲を作ったことは良く知られていますが、ここに取り上げたような宗教的な声楽曲も数多く作っているのです。教会のオルガニストだから、それは当然のように思えますが、実はこのあたりについてはあまりはっきりしていないのだそうです。つまり、バッハなどは、教会の「カントール」でしたから、教会の行事のためにせっせとカンタータを書いていたのですが、ブクステフーデの場合はカントールは別の人だったので、これらの宗教曲は教会のためではなく、スウェーデンのある音楽愛好家のために作られたとも言われているのです。実際、この曲も彼に献呈されてますし。
さて、「われらがイエスの四肢」と題されたこの曲は、7つの部分からなる連作カンタータです。キリストが十字架につけられ、傷付けられている様子を、身体の7つのパーツ(足、膝、手、脇腹、胸、心、顔)について歌ったもの、キリストの受難の痛みを慈しむ内容になっています。それぞれの部分は合唱やソロなど6曲から成っていますが、8分前後で終わってしまいますから、全曲でも1時間とはかかりません。コンパクトですが、なかなか訴えかけるものが多い美しい音楽です。
この曲については、BISから出ているバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏(CD-871)が、決定盤とされていました。しかし、合唱あたりにはもう少し透明感が欲しいと常々思っていましたから、今回のザ・シックスティーンの新録音には、大いに期待が沸いたのでした。ただ、もともと16人編成の合唱団だったからこういう名前なのですが、ここでは5人のソリストしか参加していません。合唱の部分も、1声部1人という「重唱」だったのですね。ちょっとがっかりしましたが、聴き込んでみると、これがなかなか良いのですね。量感こそはありませんが、ハーモニーの透明性などはBCJをはるかに凌駕しています。もちろんソロも日本人に比べると、数段音楽性が豊か、すっかり満足してしまいました。

6月25日

Don't panic!
60seconds for piano
Guy Livingston(Pf)
WERGO 6649 2
WERGOといえば、現代音楽専門のレーベル。しかし、現代音楽好きのおやぢにしては、このレーベルがまだ2枚目とは、ちょっと意外な気がします。ただ、現代音楽といっても、そこに含まれる音楽は多種多様、で、WERGOの場合は、頭でっかちの理屈っぽい曲がメインという勝手なイメージがありましたから、ちょっとひいていた面があるのかもしれません。
しかし、この、パリ在住のアメリカ人ピアニスト、ジョージ・ガーシュイン・・・ではなく、ガイ・リビングストンが作った「パニくるなっ!」というタイトルの、とても楽しいアルバムによって、そんなイメージは見事に吹き飛んでしまいました。
準備に3年間を費やしたというこのアルバム、世界中の60人の作曲家に、それぞれ60秒で演奏できる曲を書いてもらい、それを録音したものなのです。ルールとしては、持ち時間は60秒、普通のピアノの他に、プリペアド・ピアノでも可、ナレーション、打楽器、テープとの共演も認めましょうという感じ。作曲家の国籍は18ヶ国に及んでおり、もちろん日本人も含まれています。あいにく、その中で私が知っている人は2人か3人しかいなかったということは、知られざる作曲家が多いのか、単に私が無知なのか。多分後者でしょうが。
これらの作曲家の作風は当然のことながら多岐にわたっていますから、出来上がった作品も実に様々。きちんと書き込んだアカデミック系、限りなくポップスに近いエンタテインメント系、あっさりしたミニマル系、他人の曲を引用したコラージュ系、しゃべりながら弾いたりするアヴァン・ギャルド系、何を勘違いしたのかおさらい会風のエレメンタリー系、日本人はお約束のペンタトニック系・・・
これらの曲が、何の脈絡もなくつながっているのですから、真面目な人はそれこそパニックに陥ってしまうかも知れません。なにしろ、プリペアド・ピアノのテープ音と同時に演奏している「前衛的」な響きの15曲目の後の16曲目は、ラグタイム風の能天気なナンバーだったりするのですから。
持ち時間が1分というのも、心憎い気配りです。「これはちょっとな」と思っても、1分待っていれば次の曲になっていて、今度は楽しめるわけですからね。
こうして、様々なフォルムを持った曲をまとめて聴いてみると、現代における音楽の多様性というものをいまさらながら実感させられてしまいます。1時間で味わえる最先端の作曲事情、これが面白くないわけはありません。
シャッフル機能がついたCDプレーヤーで、順序を無作為に入れ替えて聴いたら、また別な面白さが発見できるかも知れませんね。いきなり聞こえてきたクラスターにびっくりして、しゃっくりが止まったりして。

おとといのおやぢに会える、か。


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