仰げばうとうとし。.... 佐久間學

(11/4/19-11/5/7)

Blog Version


5月7日

MAHLER
Symphony No.8
Soloists
Bertrand de Billy/
Wiener Singakademie, Wiener Sängerknaben
Slowakischer Philharmonischer Chor
ORF Radio-Symphonie-Orchester Wien
OEHMS/OC 768


かつて、BMG(今ではソニー・ミュージック)傘下の「ARTE NOVA」という廉価レーベルを主宰していたディーター・エームスが、BMGから離れて一本立ち、自らの名を冠したレーベルを立ち上げたのは、2003年2月のことでした。ARTE NOVAというレーベルはそのままBMGに残し、新たに主だったアーティスト(なんと言っても目玉はスクロバチェフスキでしょう)の音源を引き連れて「OEHMS」というレーベルを作ったのですから、BMGにしてみれば身内の造反ですね。当然、それまでのBMG経由の販路は絶たれるはずだと思っていたのですが、なぜか日本国内ではBMGの日本法人からのディストリビューションがそのまま続いていました。担当者との間に個人的なコネでもあったのでしょうか。しかし、2008年8月にBMGがソニーに吸収されてしまうと、おそらくその「担当者」もリストラに遭うかなんかしたのでしょうか(あくまで根拠のない「憶測」ですが)、そんな甘い関係は次第に通用しなくなり、2010年の終わりごろから数か月ほどこのレーベルの新譜が国内ではリリースされない状態が続いていました。しかし、2011年の4月ごろになると、今までにはなかった国内制作の「帯」が付いたものが店頭に並ぶようになりました。そこに記載された発売元は「ナクソス・ジャパン」、うーん、これは・・・。まあ、以前から「NML」のレパートリーだったのですから、ヤクソクはされていたのでしょう。
ベルトラント・ド・ビリーも、かつてはARTE NOVAにオペラのレパートリーで貢献していたアーティストでした。それが今では、こんな大曲でOEHMSの看板をしょって立つようになっています。
これは、2010年の3月にウィーンのコンツェルトハウスで行われたウィーン放送交響楽団のコンサートのライブ録音です。デニス・ラッセル・デイヴィスの後を受けて2002年にこのオーケストラの首席指揮者に就任したド・ビリーは、このシーズンを最後にそのポストを若手(1980年生まれ)のコルネリウス・マイスターに譲っていますが、このコンサートはその最終シーズンを飾ったマーラー・ツィクルスの総決算と位置づけられていたそうです。本来、CDにする予定などはなく、彼らのいつものコンサートのようにそれはORFで放送されるためだけの目的で録音されていたのですが、あまりのクオリティの高さに急遽CDリリースが決まったという、いわくつきのものなのです。
コンサートは3月の25日と27日に行われていますが、ブックレットのデータを信じれば、これは27日の本番をそのまま録音したもので、この手の「ライブ」録音ではありがちな、ミスした部分を他のテイク(25日の録音など)を使って差し替えたというようなことはやっていないようですね。確かに、細かいところでのアンサンブルの乱れはかなり見受けられますが、それを補ってもあまりあるテンションの高さが、この演奏にはあったのでしょう。
なによりも素晴らしいのは、とても放送局が行ったとは思えないような、解像度が高くメリハリの利いた録音です。これだけの大編成にもかかわらず、全体のクリアな響きといったらどうでしょう。特に、合唱の存在感は、演奏自体も素晴らしくひときわ抜きんでていますし、ヘタをしたらその合唱や金管楽器に埋もれてしまいそうな弦楽器も、常に艶やかな音色を主張しています。さらに、最後近くに登場する高いところから聴こえてくるソプラノ・ソロや、金管楽器のバンダの距離感も、見事に立体的に再現されています。CDでこれだけのクオリティなのですから、SACDだったとしたらどれほどのものだったことでしょう。
ただ、熱気あふれる演奏であるのは分かりますが、歌手たちがあまりに張り切り過ぎていたために、精度が欠けていたのが耳障りでした。テノールのヨハン・ボータなどは、こんな暑苦しい歌い方をしないで、もっと楽にその美声を届かせる力があったはずなのに。

CD Artwork © OehmsClassics Musikproduktion GmbH

5月5日

モーツァルトを「造った」男
ケッヘルと同時代のウィーン
小宮正安著
講談社刊(講談社現代新書
2096
ISBN978-4-06-288096-1

「ケッヘル」と言えば、「モーツァルト」には必ず付いて回る「単語」として、よく知られています。もちろん、いやしくもクラシック音楽のファンを自負している人であれば、このモーツァルトのすべての作品につけられた番号が、人の名前に由来していることぐらいは知っているはずです。そう、モーツァルトの残したすべての作品を、初めてジャンル別に分類し、作曲年代順に番号を付けた人が、「ケッヘルさん」なのですね。しかし、このケッヘルさんがどんな人だったのか、ということについては、たとえば「植物学者であり、鉱物学者であった」ぐらい知っていればかなりのマニアとして尊敬されるほどです。そもそも、彼のフルネームさえ、完璧に知っている人などほとんどいないはずですし。一般には「ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル」と呼ばれている、この「植物学者」のちゃんとした名前は、「ルートヴィヒ・アロイス・フェルディナント・リッター・フォン・ケッヘル」という長ったらしいものなのですね。
そんな、ケッヘルの知られざる生い立ちや業績などを、詳細に語っているのが、この本です。おそらく、日本語でこれほど完璧に彼のことを扱った本などは、今までになかったのではないでしょうか。それだけではありません。これは、単なる評伝ではなく、彼がなぜモーツァルトの作品目録を作りたいと思ったかというようなことを、当時の社会情勢を交えて描いているのです。もちろん、それはその前後の世界史を俯瞰した上での壮大な視点に基づくものですから、必然的に彼と彼の仕事が歴史の中でどのように位置づけられているのかも、極めて的確に語られることになります。言ってみれば、一人の人間を通して見た、フランス革命以後から現代までに続くヨーロッパ史、これが面白くないはずがありません。
そもそも、ケッヘルという人は職業としての「植物学者」や、ましてや「音楽学者」ではなかったのだ、という指摘に、まず驚かされます。彼が生業としていたのは「家庭教師」だったのですね。それが、なんと時のハプスブルク皇帝フランツ一世の実弟、カール大公の家の家庭教師というのですから、すごいものです。もちろん、この時代のオーストリアの貴族の子女は、下々のものが通う学校になどは行かず、宮殿住み込みの多くの教師によって教育を受けるのが当たり前でしたから、家庭教師と言えども今の「カテキョウ」みたいなハンパなものではありませんでした。そんな「仕事」も、40歳になったあたりで「退職」するのですが、その時にケッヘルは一生何不自由なく生活できるほどの退職金を手にするのです。おまけに、家庭教師としての実績が認められて、彼自身が「貴族」にもなってしまうのですね。彼のフルネームの中の「リッター・フォン」というのが、貴族としての称号です。ちなみに、彼は生涯独身でした(「独身貴族」って)。
ですから、彼にとっての植物学や鉱物学、そして、幼少のころからたしなんでいた音楽や、敬愛していたモーツァルトの作品目録を作る仕事も、言ってみれば「アマチュア」としての立場での取り組みだったのですね。いや、ここではそれは「ディレッタント」という言葉で、まさに時代背景とともに語られます。彼が史上初めて行った、作曲家のすべての作品の目録の作成という仕事は、「自由人」ならではの視野の広さがあったからこそ成し遂げることが出来たのでしょう。
もう一つ、時代背景によって明らかになるのが、隣国ドイツに対しては、「音楽」によってしかアイデンティティを主張できなかったオーストリアの立場です。今では、ともすると「ドイツ」も「オーストリア」も一緒くたに語られがちですが、ケッヘルがモーツァルトにこだわったモチベーションは、あくまでオーストリア人としての愛国心だったのですね。「ケッヘルがいなかったら、モーツァルトは今ほどの人気は得られなかった」という著者の言葉には、重みがあります。タイトル通り、まさにモーツァルトはケッヘルによって「造られた」のですね。

Book Artwork © Kodansha Ltd.

5月3日

GOUNOD
Requiem & Messe Chorale
Charlotte Müller-Perrier(Sop), Valérie Bonnard(Alt)
Christophe Einhorn(Ten), Christian Immler(Bas)
Michel Corboz/
Ensemble Vocale et Instrumental de Lausanne
MIRARE/MIR 129


もうすっかり恒例となった、年に1度の贈り物、コルボがフランスのヴィルファヴァール農園で録音した珍しい宗教曲のシリーズです。昨年の8月に行われたセッションで取り上げられたのは、その前年に好評を博した(いや、ここでだけですが)ことを受けてか、グノーのレクイエムとミサ曲という、やはり珍しい曲でした。
レクイエムの方は、彼の最晩年、1891年に、その2年前に亡くなった孫のモーリスを悼んで作られました。そして、彼自身が亡くなる1893年まで、校訂を行っていたということです。さらに、フル・オーケストラのバージョンだけではなく、もっと簡単に演奏できる小編成のバージョンを作ることを、友人であったアンリ・ビュセールに託していました。ここで演奏されている、4人のソリスト、混声合唱、弦楽五重奏、ハープ、オルガンという編成のスコアは、ビュセールによって仕上げられたものです。
オルガンの半音進行のテーマで始まるこの曲は、なんとも神秘的な雰囲気と、それの対極にあるダイナミックなキャラクターを併せ持つものでした。フォーレの曲の「Libera me」を思わせるような低音のピチカートも印象的です。しかし、正直これを聴いて「死者を悼む」といった感じにはなれなかったのはなぜでしょう。前半の「Dies irae」が、あまりに冗長だったせいなのでしょうか。後半の「Benedictus」あたりからは、本当にリリカルな、まるでロイド・ウェッバーのようなフレーズが満載になってくるのですが、どうにも敬虔な気持ちにはなれません。「Agnus Dei」などは、本当に美しい音楽なのですがねえ。
一つには、この編成のアンサンブルが、なんとも落ち着きのないサウンドに聴こえてしまうからなのかも知れません。特に、小さなオルガンのチープな響きとむき出しの弦楽器の音が、全体を薄っぺらなものにしています。
それと、もっと大きな要因は、ここでの合唱のあまりのひどさです。最近北欧の素晴らしい合唱団を何度も体験してしまったせいでしょうか、このスイスの合唱団はなんともおおざっぱな演奏に終始しているようにしか感じられないのですね。
ところが、後半の「合唱ミサ」になったとたん、このいい加減な合唱が「レクイエム」とは打って変わって、伸び伸びとした歌い方になっていたのには驚いてしまいました。響きがまるで違うのですよ。もしかしたら、この「農場」にはたくさん録音用の会場がありますから、別の場所で録音していたのかも知れませんね。
このト長調のミサ曲は、「伴奏用のオルガンと、大オルガン」と、2台のオルガンが用いられるようなタイトルになっています。実は、それぞれの曲の最初に、合唱の入らないオルガンソロの部分が設けられているのですね。合唱が入ってくると、もう1台のオルガンで薄い伴奏に徹するといった感じでしょうか。しかし、オルガニストは1人しかいないようなので、ここではおそらくストップを変えて両方の役割を担わせているのでしょう。
まず、最初には堂々としたフル・オルガンで、グレゴリア聖歌をモチーフにしたイントロが奏されます。そのことでも分かるように、この作品ではいにしえのミサ曲の様式が用いられていて、とても19世紀後半に作られたとは思えないような落ち着いた雰囲気が漂っています。まるでルネサンスのような対位法の世界ですね。おそらく、そのあたりも合唱が本来の力を発揮できた要因なのでしょう。「Sanctus」あたりは、ホモフォニックに、まるでコラールのように迫ります。こんな透明感あふれる感触が、よもやこの合唱団から味わえるとは、なんとも嬉しい誤算でした。前回同様、グノーというのは本当にサプライズを秘めた作曲家だったことを、今回も思い知らされました。ぐうの音もでません。
来年は、どんな「贈り物」が届けられることでしょう。楽しみのような、怖いような。

CD Artwork © Mirare

5月1日

BACH
St Matthew Passion
Gerd Türk(Ev)
Peter Harvey(Jes)
Jos van Veldhoven/
The Netherlands Bach Society
CHANNEL/CCS SA 32511(hybrid SACD)


「ロ短調」「ヨハネ」でお馴染みの、電話帳のように分厚いブックレットとセットになった、フェルトホーフェンとオランダバッハ協会によるバッハの宗教曲のシリーズの「トリ」を務める「マタイ」です。相変わらずの、ムダに豪華なブックレットなものですから、本当に必要な録音データがなかなか見つからないのは困ったものです。これだけの紙面があるのなら、録音の時の写真などが有っても良さそうなものですが、その手のものは全く見あたりません。ま、これで価格が高くなっているわけではないので別に構いませんが、収納にははっきり言ってジャマ。
「ヨハネ」では「第1稿」などという珍しいものを使っていたフェルトホーフェンですが、今回の「マタイ」は特別な楽譜は使ってはいないようです。声楽の編成は以前と同じ基本的に1パート1人という、いわゆる「OVPP」で、部分的にリピエーノによって補強するというやり方です。ただ、リピエーノが施されるのはコーラス1だけ、コーラス2は常に「ソリ」で歌われます。あ、もちろん使われている楽器はピリオド楽器です。
ソリストたちがそのままコーラスを歌うという、殆ど「現代」におけるスタンダードと化したスタイルの中で、エヴァンゲリストとイエスを担当する歌手がどのようなスタンスをとるか、というあたりが、わずかに残された選択肢になるのでしょう、ここではエヴァンゲリストは専任でレシタティーヴォのみ、イエスは兼任でアリアも歌うという形になっています。
全体の演奏は、自然の流れに任せたなかなか心地よいものでした。フェルトホーフェンのとったテンポは、基本的に中庸、ごくたまにびっくりするような早いアリアなどが登場しますが、殆どの部分ではじっくり落ち着いて味わうことの出来る懐の深さを持ったものです。群衆のコーラスでも、刺激的な表現は避け、あえて滑らかな外観を保っているように見られます。例えば、50番に登場する「kreuzigen(十字架につけろ)」という歌詞に与えられたシンコペーションのリズムは、ありがちにスタッカートでゴツゴツ歌われるのではなく、殆どレガートであるかのように角が取れて、いともソフトな印象が与えられます。1番や68番といった大合唱も、最少人数ということもあって、決して大げさな素振りは見せない慎ましさが、静かな力となっています。
そんな中だからこそ、テュルクのドラマティックなレシタティーヴォが光ります。物語の進行は、この雄弁なエヴァンゲリストに任せておけば、安心していられます。ほんと、時にはきめ細かに、そして時にはダイナミックにと、彼の確かな表現力には感服です。
その他のソリストたちは、合唱と同じテイストの慎ましさがなかなかの魅力を与えてくれています。中でも、コーラス1のソプラノ、ベルギーの新星アマリリス・ディールティンスは、可憐そのものの美しい歌声を聴かせてくれます。この人の名前からして、なんとも美しいものでアリマス。軽快なテンポに乗った13番のアリアでは華麗に、そして49番のアリアでは、深刻さなど微塵も感じさせない澄みきった魅力で迫ってきます。もちろん、ルックスも文句なし、2008年にこのチームが来日して「ヨハネ」を演奏した時にはリピエーノに甘んじていたものが、今回は堂々のソロへの抜擢、新世代の「女神」として、これからのシーンを引っ張っていってくれることでしょう。
ちょっと残念だったのは、テュルクに代わってアリアを担当しているもう一人のテノール、ジュリアン・ポッジャーが20番のアリアであまりの格の違いを露呈してしまったこと。音程はひどいし、表現もあまりに雑過ぎます。それと、その曲と60番で加わっているコーラス2が、リピエーノがないためになんとも薄っぺらに聴こえてしまいました。それさえ除けば、これは存分に楽しめた「マタイ」です。

SACD Artwork © Channel Classics Records bv

4月29日

KODÁLY
Choral Works for Male Voices
Tamás Lakner/
Béla Bartók Male Choir-Pécs
HUNGAROTON/HCD 32641-42


コダーイの合唱曲は、日本でも多くの合唱団によって歌われています。もちろん、男声合唱団でも、数多くの曲が取り上げられています。しかし、コダーイ自身は男声合唱という形体には批判的な姿勢をとっていたそうですね。特に、ドイツから入ってきた「リーダーターフェル」という、ある種社会的な運動のような側面を持つとされていた活動には、あまり芸術性を見いだせなかったのでしょう。「音色や表現力が乏しい」というようなことを、公の文書で主張していますからね。確かに、彼の合唱曲全体の中では、男声合唱は5分の1程度の量しかありませんし、その中にはオリジナルではなく、児童合唱や混声合唱を男声用に作り直したものも多く含まれています。とは言っても、結果的にはこんなCD2枚でなければ収まり切らないほどの作品が残されたのですから、男声関係者はあまりいじけないようにしましょうね。
そう、これは、コダーイの全作品を録音しようというこのレーベルの「コダーイ・コンプリート・エディション」の一環としてリリースされたもので、ここにはまさに男声合唱のための「全作品」45曲が収められているのです。その中で、1913年というかなり早い時期に作られたものが「酒飲みの歌」というのですから、なんだかなぁ、という感じですね。もろに彼の「偏見」が反映されているような気はしませんか?いや、誇大妄想?そして、それからしばらくの間は彼は男声合唱のための曲は作ろうとはしていません。
そんなことが分かるのも、このCDでは、彼の作品をしっかりジャンル別に分類、それに作曲年代などもきちんと添えるという具合に、まさに「全集」として欠かせないリストが充実しているからなのです。ライナーノーツも読み応えがありますし。
ところで、ほんの数年前に、同じレーベルから、今回と全く同じアーティストによってやはり「男声合唱曲集」がリリースされていました。それには20曲しか収録されていないのですが、2004年から2005年にかけて録音されたもの、と、そのCDにはクレジットされています。そして、今回リリースされたCDのデータは「2010年録音」、「マルP」も2010年になっていますから、それとは別に新たに録音されたものだ、と、普通は考えるはずです。なんと言っても「全集」ですから、この際全部新たに録音し直したのだな、やはり「ご当地」の意気込みはすごいな、と。ところが、収録されている同じ曲を前回と今回の録音で比較してみると、それは全く同じ音源であることが分かります。まず、演奏時間の表記がどれも全く同じ(1秒程度の誤差は、マスタリングの時に発生します)、そして、実際に聴いてみれば、それは一目瞭然、同じ演奏家による同じテイクであることがはっきり分かってしまうのですよ。さらに、今回新たに録音されたと思われるものとそれらとを比べると、録音のテイストが全く異なっているのも分かります。「新」録音の方がマイクがオン気味なのでしょうか、音が生々しく、サ行の発音などもかなりきつく聴こえるのですね。
つまり、このCDのクレジットのように「2010年」に録音されたものは、全45曲のうち、前回の20曲を除いた25曲しかないことが明らかになったのです。それにもかかわらず、このレーベルは全ての録音が新しいものであるかのように、表示しているのですね。これは明らかな「偽装」、言ってみれば「詐欺」なのではないでしょうか。まさに許し難い「犯罪」です。こちらでもそれを真に受けていますし。
おそらく、事実は単なる記載ミスか勘違いのなせる業だったのでしょう。この程度のミスはこの業界ではいくらでもお目にかかれますからね。しかし、いやしくも「全集」と銘打って、曲目についてはきちんとしたデータを揃えているのですから、こんなお粗末なことでその価値を貶めるなんて、なんとも間抜けな話です。

CD Artwork © Hungaroton Records Ltd.

4月27日

René Pape sings Wagner
René Pape(Bas)
Plácido Domingo(Ten)
Daniel Barenboim/
Staatskapelle Berlin
DG/477 6617


1964年にドレスデンで生まれたルネ・パーペ、今や世界中のオペラハウスから引っ張りだこの、まさに脂の乗り切ったバス歌手です。いや、その特徴的な甘い(というか、キモい)マスクは、オペラハウスだけではなく映画の世界でも可能性を見いだされ、あのケネス・ブラナーによる映画版「魔笛」でも、なんとも慈愛あふれるザラストロを演じていましたね。英語まで喋って。
いや、彼は英語どころか実はロシア語も堪能なのですね。今シーズンのMETでムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」がゲルギエフの指揮によって上演された時に、まわりはほとんどゲルギエフが連れてきたキーロフのロシア人歌手だった中で、ドイツ人であるパーぺは果敢にロシア語でタイトル・ロールを歌いきったのです。この模様は、「METライブ・ビューイング」として、日本の映画館でも体験することが出来たはずです。なんでも、かつて共産圏の「東ドイツ」だった頃には、ドレスデンではロシア語が必須教科として学校で教えられていたそうなのですね。確かに、言われてみれば当時はロシア、いや「ソ連」は、東ドイツには政治的には最も近い国でしたから、そんな「文化」も近かったのでしょう。
もちろん、彼の本領はなんと言ってもドイツ・オペラです。そんな中での代表格、ワーグナーの作品ばかりを集めたアルバムがリリースされました。意外なことに、彼にとっては、これは初めての「ワーグナー・アルバム」なのだそうです。確かに、バス・バリトンにとってのワーグナーは、ソプラノやテノールに比べたら地味な役柄が多くなっていますから、それだけでメリハリのあるアルバムを作るのは、結構大変、よほど実力のある歌手でない限り、なかなか成功は難しいのでしょうね。
パーぺほどの人でも、やはり全てを一人でというのは大変だったようです。そこで、グルネマンツとの絡みでパルジファル役としてフィーチャーされたのが、あのプラシド・ドミンゴ、バックを務めるバレンボイムの指揮するシュターツカペレ・ベルリンとともに、超豪華なゲストが集まって、なんとも贅沢なアルバムが出来上がりました。
まずは、「ワルキューレ」からの大詰め、「ヴォータンの別れ」を、ノーカットで聴いてみましょう。そこには、かつてのヴォータン役の歌手のような重苦しさは全くない、等身大の「父親」の姿がありました。もはや、威厳を振りかざす神々の長、といったイメージはこの役には当てはまらなくなっているのですね。そんな、マイホーム・パパぶりがパーぺにはよく似合います。しかし、バレンボイムの指揮はあくまで骨太、決してワーグナーならではの「重み」を忘れることはありません。
「マイスタージンガー」では、第2幕のハンス・ザックスのモノローグと、第3幕の幕切れの他に、なんと第2幕の最後の「夜警」の歌まで入っています。ステージでは味わえない「二役」の妙でしょうか。「ローエングリン」第1幕のハインリッヒ王の宣誓など、どうでも良い曲も入っていますし。
そして、ドミンゴとの共演の「パルジファル」第3幕は、なんとも渋く迫ります。いや、この作品自体が殆ど「歌」というものを考慮しないで作られているということの、それは再確認になるのでしょう。ここでのパーぺは、さっきのヴォータンとはまるで別人、それぞれのキャラクターを完璧に歌い分けていることが良く分かります。
そして、最後には、そんなある意味欲求不満を解消するかのようなメロディアスなナンバー、「タンホイザー」第3幕の「夕星の歌」です。洗剤を選べば悪臭を発しない、という歌ではありませんが(それは「部屋乾しの歌」)。ここに来て、力が抜けたのか、音程があやしくなっているのが惜しまれます。オーケストラの木管も、とんでもないピッチになっていますし。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

4月25日

PERGOLESI
Stabat Mater
Anna Netrebko(Sop)
Marianna Pizzolato(Alt)
Antonio Pappano/
Orchestra dell'Accademia Nazionale di Santa Cecilia
DG/477 9337


昨年、2010年は、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージの生誕300年ということで、なかなかの盛り上がりを見せていました。その一環で、7月にバーデン・バーデンで行われたコンサートでは、あの人気ソプラノ、ネトレプコがマリアンナ・ピッツォラートという新人のアルト歌手と一緒に、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」を歌ったということで、「初めての宗教曲への挑戦」と大きな話題になったそうです。彼女はすでにロイド・ウェッバーの「ピエ・イェス」を録音していますが、あれは「宗教曲」ではなかったのですね。言われるように、確かに彼女は「宗教曲処女」だったのでしょう。
とは言え、この曲でのネトレプコは、新しい体験にこわごわ身をゆだねるといったような、「処女」としてのしおらしさを見せることは決してありませんでした。彼女は、300年前に生まれた作曲家の時代の音楽に対して、現代の演奏家なら少なからず見せる様式的な配慮は一切行わず、彼女のホームグラウンドである「ベル・カント」の語法で見事に押し切っていたのです。ある意味彼女にはそういうことが期待されているのですから、別に、それは悪いことでもなんでもありません。もし、彼女がかつてのカークビーのように、曲に「合わせて」ノン・ビブラートで歌っていたりしたら、それこそ笑いものでしょう。そもそもこれは彼女の「挑戦」ではなく、「ペルゴレージ」の「宗教曲」が、ネトレプコのような歌手を迎えたらどうなるのか、といった意味での「挑戦」だったのですから。
その結果、この「バロック」の名曲は、「ベル・カント」の音楽としての資質を試されることになりました。それは、なかなか新鮮な体験ではありました。確かに、最初の頃こそ違和感がなかったわけではありません。なにしろ、パッパーノの指揮ぶりはあくまでエモーショナル、そんな大げさな前奏に導かれて二人の歌手が「Stabat〜」と歌い始めると、そこで生まれるはずの全音で2つの声部がぶつかる時の緊張感は、ネトレプコのあまりに深すぎるビブラートによって、さっぱりとなくなっていたのですからね。それは「全音」ではなく、「半音」と「短三度」の連続でした。しかし、しばらくすると、そんなヴェルディ的な世界でこそ、彼女の声は最大限に発揮されることに気づくことになります。こうなったら、どっぷりその世界に浸って彼女の美声を存分に味わうほうが、得に決まってます。
そうなると、6曲目のアリア「Vidit suum dulcem natum(また瀕死のうちに見捨てられ)」は、格別の味を持つことになります。それは恐ろしくドラマティックに、そして直接的に、人の心を打つ(というか、感動をもぎ取る)ものに仕上がりました。アルトとのデュエットも、確かな力を持つピッツォラートとの間では、まさに「対決」の様相を見せています。これでこその、歌手の力比べが最大の魅力となるヴェルディの醍醐味です。この上は、ぜひとも彼女の歌うヴェルディの「レクイエム」を聴いてみたいものです。
これはライブ録音ということですので、多少のノイズがあるのは別に問題はないのいず。しかし、なんだかそうとは思えないような不思議な音がしょっちゅう聞こえてくるのが、とても耳障りでした。それは、全く関係のないところでおしゃべりをしている声のように聞こえるのですが、どうでしょう。例えば、トラック16の1分03秒あたりとか、トラック17の0分32秒あたりではっきり分かるはずですので、確かめてみられては。もしかしたら、これは別のところから「混入」したもののような気もします。そうなると、これはとんでもない欠陥CDですよ(もちろん、「商品」としてのモラルの問題、演奏はその限りではありません)。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

4月23日

BRAHMS
Piano Concerto No.3
Dejan Lazic(Pf)
Robert Spano/
Atlanta Symphony Orchestra
CHANNEL/CCS SA 29410(hybrid SACD)


ブラームスのピアノ協奏曲「第3番」ですって。確か、ブラームスのピアノ協奏曲というのは2曲しかなかったはず、とは言っても、別に新しく楽譜が発見されたとかいうわけではなく、これは有名な「ヴァイオリン協奏曲」を、ピアノ協奏曲に作り直したものなのですよ。たしか、ベートーヴェンも自らそのようなトランスクリプションを行っていましたね。しかし、これはブラームス自身ではなく、ごく最近、クロアチア生まれの若手ピアニスト、デヤン・ラツィック(代理店による表記)が、なんと完成まで5年の歳月をかけて作り上げたバージョンなのだそうです。そのラツィックくん自らのピアノ独奏によって、200910月にアメリカのアトランタで行われた「世界初演」の模様が、ここでは聴くことが出来るのです。当然のことながら、これが「世界初録音」ですね。そのような「初物」には弱いものですから、つい手が伸びてしまいました。
ここで、ラツィックくんがお手本にしたのが、さっきのベートーヴェンと、そしてバッハの「ピアノ協奏曲」なのだそうです。バッハの場合は元々作曲の際に特定の楽器にこだわっていたわけではありませんから、そもそもお手本にするのは問題のような気がします。ベートーヴェンの場合には、未だにピアノ版の持つ違和感には馴染めませんし。
とにかく、お手並み拝見、あれこれ考えずに聴いてみることにしましょうか。しかし、第1楽章でピアノ・ソロが登場するところで、すでにヴァイオリンの時とは全く別の世界が広がっていたのは、まさに予想通りのことでした。オーケストラの間をかいくぐってソリストが低音からのスケールを披露するという場面、ヴァイオリンが1本の時には堂々とした中にも、なにか孤高さを秘めたストイックなイメージがあったものが、分厚い和音で飾られたピアノでは、それがやたら華やかでけばけばしいものに変わっていたのです。当然、単旋律の楽器であるヴァイオリンをピアノに置き換える時には、それなりの「加工」が必要になってくるのですが、それはあくまでブラームスのピアニズムに合致したものでなければ、成功したとは言えません。この登場のシーンは、まるでラフマニノフかなんかのよう、ちょっと引いてしまいます。そして、この楽章の間中、ピアノからはまるでベートーヴェンのような語法が漂って来ているのですね。いや、それは「お手本」ではないだろう、と言いたくなるほどの勘違いです。
第2楽章では、ピアノよりもオーボエ・ソロに耳が行ってしまいます。それほどのピアノの存在感のなさ、それはヴァイオリンならではのリリシズムが決定的に欠けているせいなのかもしれません。ちなみに、ここでオーボエを吹いているアトランタ響の首席奏者は、きちんと「エリザベス・コッホ」とクレジットが与えられています。このラストネームを見て、あのローター・コッホの親族なのでは、と思ってしまいましたが、全くの赤の他人のようですね。候補ですらありません。いや、その元ベルリン・フィルのトップ奏者のような繊細な音色だったものですから、つい。
そして、第3楽章では、あのロンドのテーマがピアノによって演奏されると、なんとも不思議なテンポ感になってしまうことに気付かされます。あのフレーズは、ヴァイオリンでは軽快に聴こえますが、ピアノではあまりに遅すぎます。
ブラームスに限らず、後期ロマン派などと称されるこの時代の作曲家は、楽器の選択にはこだわりがあったはずです。例えば、彼のクラリネット・ソナタは、自身の編曲によるヴィオラ版ではかろうじて原曲のテイストを保てますが、それをフルートで演奏したりすると悲惨な結果が待っています。まして、表現パターンの全く異なるヴァイオリンからピアノへの変更などは、そもそも無理な話だったのでしょう。そうでなければ、130年以上も手を付けられなかったはずがありません。

SACD Artwork © Channel Classics Records bv

4月21日

MOZART
Overtures
Andrea Marcon/
La Cetra Barockorchester Basel
DG/477 9445


モーツァルトのオペラの序曲を集めたアルバムです。彼の「オペラ」は、2006年のザルツブルク音楽祭での「全曲」演奏に倣えば、全部で22曲カウントできることになりますが、その中には未完のものも3曲(「ツァイーデ」、「カイロの鵞鳥」、「騙された花婿」)含まれていますし、「第一戒律の責務」はちょっとオペラというには苦しいものがありますから、正味は18曲というあたりが妥当なところでしょう。ここではCD1枚の容量をギリギリ使って、「シピオーネの夢」と「偽りの女庭師」を除く全16曲を収録しているのですから、これはもうほぼ全曲と言える健闘ぶりです。ありそうでなかったオペラ序曲の(ほぼ)全曲アルバムの誕生を喜んでみることにしましょうか。
ブックレットには見開きで録音セッションの写真が載っています。それを見ると、演奏している「ラ・チェトラ」のメンバーは若い人ばかりが集まっていることが分かります。見かけだけでは判断できませんが、おそらく40歳を超えるメンバーなどいないのではないでしょうか。頭が薄いのはチェンバロの人と、指揮者のマルコンぐらいのものですからね(それにしても、ジャケット写真のトリミングの絶妙なこと)。
それは、小さな体育館のようなところで録音している様子なのですが、マイクがとてもたくさん使われていることも分かります。クレジットを見ると、エンジニアはアンドレアス・ノイブロンナー、というか、録音からマスタリングまでをまるまる彼の「トリトヌス」が引き受けているのですね。話にはきいていましたが、実際にDGのようなメジャー・レーベルで彼らが行った仕事に出会ったのは、これが初めてのことです。もはや、メジャー自身が録音の現場を仕切ることはなく、「下請け」のプロダクションに任せるという時代になっていたことを、改めて痛感です。
その「トリトヌス」ならではのヌケのよい音は、確かに素晴らしいものでした。しかし、いままでSACDで接することが多かったため、やはりここではCDの限界を感じてしまいます。ヴァイオリンの高音に、今ひとつ肌触りの繊細さが不足しているのですね。国内盤ならともかく、いまさらこのレーベルがSACDに切り替えるとは思えないので、せっかくの録音が生かされないのがとても残念です。
もう一つ、写真からの情報では、このオーケストラが完全な対向配置をとっていることが分かります。個々のパートがクリアに定位しているこの録音では、左のファースト・ヴァイオリンと、右のセカンド・ヴァイオリンが、時には対話し合い、時には支え合うというお互いの役割を果たしている様子が、まさに手に取るように伝わってきます。もちろん、けんか腰になることはありません(それは「対抗配置」)。
管楽器も、オフになりがちなトラヴェルソがきちんと聴こえてくるために、理想的なバランスが味わえます。この楽器がある時とない時との音色の違いも堪能できますよ。
曲順がほぼ作曲年代順になっているために、ここではモーツァルト自身の11歳から35歳までの成長過程を、曲を通してつぶさに味わうことが出来ます。マルコンのていねいな指揮と、それに的確に反応している若いオーケストラによって、例えば15歳の時に作られた「救われたベトゥーリア」では、すでに短調の中に深い情感を込めていることが分かりますし、それが31歳の時の「ドン・ジョヴァンニ」になると、同じく短調で書かれた序奏の中では、全く次元の異なる高みに達していることを感じることができることでしょう。この曲は、その新全集によるコンサート用のエンディングまでを含めて、この中では最高の仕上がりを見せているのではないでしょうか。
ただ、「フィガロ」や「魔笛」といった超有名曲では、若さゆえのストレートさだけが強調されてしまい、モーツァルトが持つ真の愉悦感が少し聴こえにくかったのが、ちょっと残念です。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH

4月19日

歌う国民
渡辺裕著
中央公論新社刊(中公新書2075)
ISBN978-4-12-102075-8

以前から「唱歌」の成り立ちに関しては体系的に知りたいと思っていたところに、こんな恰好なガイドブックが現れた、と手にしてみたところ、帯に記された梗概には、「推理小説を読むような興奮あふれる、もう一つの近代史」などとあるではありませんか。どうやら、これは単に唱歌などの解説に終わることのない、スリリングな読み物なのかも知れないという期待が募ります。そもそもサブタイトルには「唱歌、校歌、うたごえ」とありますよ。「唱歌、校歌」はともかく、最後の「うたごえ」というのが、かなりミスマッチには思えませんか?前者は、言ってみれば「お仕着せ」の産物、後者はなんといっても「民衆」の「自発的」な運動のようなイメージがありますからね。
そう、そのような、一見なんの関連性もないように思えるものが、突き詰めて考えると実は深いところで結び付いているのだ、というのが、おおざっぱに言えばこの本のテーマなのですよ。確かに、そのような結論にいたる著者の語り口は、まさに「推理小説」そのものでした。
まず、「唱歌」に対して今まで抱いていたイメージが、ガラリと崩れ去りました。著者が最初に提示してきた「夏期衛生唱歌」にまず大爆笑です。夏場は食品が黴びやすいので、消化の悪いものは食べてはいけない、もし食べてしまったら吐き出しなさい、とか、海水浴は午前中は9時から11時、午後は4時から6時まで、心臓病や頭痛持ちの人は泳ぐな、といったようなお節介が、格調高い七五調で20番まで歌われているのですからね。こんなぶっ飛んだサンプルを出しながら、著者は「唱歌」の本質について、我々の先入観を覆すという、小気味良い作業を進めて行きます。その結果行きついたのが、明治政府が目指した「音楽教育」の真の目的です。いやあ、このあたり、「推理小説」という惹句に決して偽りはありませんでした。
そこで「真相」が分かってしまうと、確かにこの時代の「唱歌」の稚拙さの意味もおのずと理解できるようになります。そして語られる、「鉄道唱歌」の真の姿。なんとも興奮してしまいますね。
もちろん、これは「推理小説」なのですから、「真犯人」をここで公にするといった「ネタバレ」はご法度です。それは実際に読んでいただくほかはありません。ただ、この本を読んですぐに連想したものについて語るぐらいのことだったら許されるのではないでしょうか。それは、このひと月の間、テレビやラジオから絶え間なく流れてきている「あの歌」のことです。「○んにちは、○りがとう」(別に伏せ字にすることはないか)という、詞も曲も、そして歌い方も稚拙極まりない歌なのですが、これなども著者の「コンテクスト」の中では確固とした意味を持っているように捉えられてしまうのです。そう、「唱歌」の時代に培われたノウハウは、こんな緊急時に便乗して「マナー」に名を借りたある種の統制意識を浸透させようとした時に、しっかり役立っていたのですね。
もう一つ、「卒業式の歌」に関する部分でも、最近抱いた疑問が見事に氷解したという、感動的な体験が待っていました。それは、さる音楽番組で最近の「卒業式で歌われる曲ランキング」をやっていた時に生じた疑問、今ではもはやだれも歌っていないのではと思っていた「仰げば尊し」が、堂々の1位に輝いていたのですよ。最近ではこんな時代錯誤も甚だしい歌は、とっくに「旅立ちの日に」や「大地賛頌」などにとって代わられたと思っていたので、これは意外でした。しかし、そこにはちゃんとした理由があったことが、この本を読めばいとも簡単に知ることが出来ますよ。
この手の本にはめずらしい「ですます体」を使ったかなり技巧的な文体から、著者の本心を探り当てるという「推理」まで加わって、たしかにスリリングな本に仕上がっています。

Book Artwork © Chuokoron-Shinsha, Inc.

おとといのおやぢに会える、か。


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