栗捨て、えれ〜損。.... 佐久間學

(14/3/19-14/4/6)

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4月6日

HUMMEL
Mozart's Symphonies Nos. 38, 39, 40
Uwe Grodd(Fl), Friedemann Eichhorn(Vn)
Martin Rummel(Vc), Roland Krüger(Pf)
NAXOS/8.572841


フンメルという、まるで下剤のような名前の作曲家(それは「糞出る」)によってフルート、ヴァイオリン、チェロ、ピアノという編成のアンサンブルに生まれ変わったモーツァルトの交響曲です。彼は8歳の時にモーツァルトの家に住み込んでピアノのレッスンを2年間受けていて、生涯その師に対する尊敬の念を持ち続けますが、これもそんな気持ちの表れだったのでしょう。
このような編成ですから、おそらくコンサートでお客さんを前にして演奏するというよりは、実際に自分たちで演奏して楽しむ、といった需要に答えて作られたものなのでしょう。基本的に、プロではないけれど、かなり達者にピアノが演奏できる人が中心になってモーツァルトの交響曲の骨格を演奏、それにオブリガートという形で他の3つの楽器が絡む、と言った感じなのではないでしょうか。
ですから、これらの編曲を聴いていると、アンサンブルのそれぞれのパートにしっかりとした必然性があるとは、なかなか思えてきません。例えば、39番の第3楽章のトリオでは、オリジナルは弦楽器の薄い刻みに乗って2本のクラリネットと1本のフルートが、文字通り「トリオ」として、2番クラリネットのベースラインの上で1番クラリネットとフルートが掛け合い演じるという絶妙のアンサンブルが展開されているのですが、この編曲では、なんとフルートのフレーズとピアノとが重ねられているのです。これは、原曲を知っている人にはとてつもなくダサいアレンジに聴こえるはずです。
したがって、こういう楽譜を演奏するのであれば、ピアノ以外の楽器は極力「邪魔にならない」ようにふるまうのがセオリーとなるはずです。ところが、このCDではピアノのクリューガーがとても素晴らしい演奏を聴かせてくれているのに、フルートのグロットが、まるで自分が主人公のようにふるまっているものですから、事態は深刻です。このフルーティストは、特にピッチがなんとも不安定なためにいやでも目立ってしまって、アンサンブルをぶち壊しているのですからね。
ところで、このCDを聴いていると、40番の第2楽章の中で2ヶ所、ちょっと「変だな」と思えるところがあることに、誰でも気付くはずです。それは正確には、提示部の29小節から32小節と、再現部の100小節から103小節のそれぞれ第2主題の中ほどの4小節間。原曲では木管が切れ切れに三十二分音符の下降スケールを4小節に渡って交代に吹くという部分です。そこで全く同じ形のものが多少アレンジを変えて丸々2回繰り返されています。つまり、オリジナルの4小節が8小節に拡大されているのですよ。実は、モーツァルトの自筆稿ではここで確かに新たにその4小節分の楽譜が加えられているのですが、それは現在では「代替用」として加えられたものだと考えられています。しかし、当時の写譜屋がそれを「追加用」と勘違いして誤ってそこに挿入してしまったために、最初の出版譜では「8小節」として印刷されてしまいました。もちろん、後の楽譜ではその箇所は「4小節」に訂正されているのですが、フンメルがこの編曲を行った時にはまだその「誤った」楽譜しか世に出ていなかったのですね。
しかし、今回新しく楽譜を校訂したグロットは、その部分はそのまま「8小節」にしています。なんでも、1997年に「その部分は『追加用』とみなされるべきである」という説が発表されたのだそうなのですよ。しかし、実際にここで音になっているその部分を聴いてみると、「8小節」にするためにその「4小節」を4小節目の最後から1小節目の最初につなごうとすると、その間の和声が絶対にモーツァルトではあり得ない進行になってしまうのですね。それは、新モーツァルト全集の校訂者のロビンス・ランドンも言っていること、まともな審美眼の持ち主であれば、ちょっと、この「新説」には同意しかねるのではないでしょうか。
この部分は、こちらで聴くことが出来ます。第2楽章の01:31からと05:32からです。なお、2006年に録音されたヘンリク・ヴィーゼなどによるCD(BIS-1567)では、ここは「4小節」で演奏されています。

CD Artwork © Naxos Rights US. Inc.

4月4日

BERLIOZ
Symphonie Fantastique
Eugene Goossens/
The London Symphony Orchestra
EVEREST/KKC-4026(hybrid SACD)


「エヴェレスト」というのは、ステレオLPが開発された1950年代後半にアメリカに登場したレーベルです。何よりも、最初からステレオによる優秀な録音を目指していましたから、発売当初から音の良さには定評がありました。日本でもオーディオ・マニアの間でその音は高く評価されています。
初期のものは普通の録音テープを使って録音されていましたが、やがて「35mm磁気フィルム」を使うようになると、その音のクオリティはさらに高まることになります。これは、当時映画のために開発されたもので、映画用の35mmフィルムのベースに磁性体を塗布して、録音用のテープとして使ったものです。標準の録音テープより幅も広く、走行スピードも速いので、当然音のクオリティも上がります。さらに、両端に穴が開いていますから、回転ムラも軽減されます。当時はマーキュリーやコマンドといったレーベルもこの究極のアナログ録音方式を採用して、多くのLPが世に出たのですが、いつの間にかこのシステムは世の中から消え去っていましたね。
そんな新興レーベルを演奏面で支えたのが、19世紀末に生まれたイギリスの作曲家でもあった指揮者、ユージン・グーセンスです。「春の祭典」のイギリス初演を行ったり、アメリカやオーストラリアのオーケストラで常任指揮者を務めるなどして「サー」の称号まで授与されたのですが、晩年にちょっとした問題を起こしたために、楽壇から半ば追放された状態になってしまいます。いえ、別に他人に曲を作らせて、それを自作と偽って大儲けしていたというわけではないのですけどね。
そんな「干された」巨匠がいたからこそ、エヴェレストは今日まで語り伝えられるほどの価値のあるレコードを数多くつくることが出来たのです。彼がいかがわしい女性と関係を持ったりしていなければ、半世紀以上前のアナログ録音が、最新のSACDとなって今日の市場をにぎわすことはなかったでしょう。
もちろん、もはやエヴェレストというレーベルは存在していませんから、そのようなトランスファーを行ったのは別の会社です。しかし、それに関して販売元のキング・インターナショナルは「オリジナルの35ミリ磁気テープからSACDマスタリングを施した」と言っていますが、それは正確ではありません。調べてみたら、2007年に「HDAD」という耳慣れないフォーマット(もはや完全に消滅した「DVD-Audio」の進化系)で発売されたアイテムと全く同じマスターが今回使われていたことが分かりました。その時のスペックは24bit/192kHzPCM、つまり、もはやヴィンテージものとなってしまった35mm磁気フィルム再生用のプレーヤー(Westrex-1551)からデジタル変換を行った時には、PCMにトランスファーされていたのですね。したがって、このSACDは、それをさらにDSDに変換したものなのですよ。したがって、「磁気テープ→SACD」としているさっきのキングの表記は全くの嘘っぱち、それは、「マス」を「サケ」と表示するのよりたちの悪い偽装に他なりません(こんな、すぐにばれる嘘は、ふつうの人は避けます)。
確かに、ここからは最良のアナログ録音ならではの、たっぷりと「実の詰まった」音を味わうことは出来ます。音場設定も、第2楽章の冒頭で聴こえる2台のハープの位置関係までしっかり分かるものでした。そして、なんと言っても圧巻は第5楽章に登場する「鐘」の音です。その存在は、まさにその場で叩かれているようなリアルさで迫ってきます。
ところが、オーケストラ全体の音が、なんとも鈍いのですね。特に、ピッコロの音は絶対聴こえてほしいところでは全く聴こえてきませんし、第4楽章のトロンボーンのペダルトーンも、全然聴こえません。はっきり言って、これは音楽に必要な音がなくなってしまっている欠陥商品です。鐘の音に惑わされてこんなものをほめちぎるオーディオ評論家は、音楽をきちんと聴き取れるだけの耳は持っていないのでしょう。

SACD Artwork © Countdown Media GmbH

4月2日

L'après-midi des flûtes
Andreas Blau/
Die 14 Berliner Flötisten
MDG/308 1811-2


ベルリン・フィル、ベルリン・シュターツカペレ、ベルリン・ドイツ交響楽団、ベルリン・ドイツオペラ管弦楽団、ベルリン放送交響楽団といったベルリンのオーケストラの団員や、ベルリンを拠点に活動しているフリーランスのフルーティストなどが集まって1996年に結成されたのが、「14人のベルリンのフルーティストたち」という団体です。ベルリン・フィルの首席奏者を45年間も務め、今シーズンで定年を迎えるアンドレアス・ブラウを芸術監督として、ある程度固定されたメンバーが参加しているようで、これまでに何枚かのアルバムを出しています。名前の通り、彼らは基本的に「14人」という編成のフルートアンサンブルのために編曲された作品を演奏しているようです。
その14本のフルートの内訳は、半数はC管フルートとピッコロ(C管の1オクターブ上)という、ごく普通にオーケストラで使われている楽器と、アルト・フルート(C管の4度下のG管)というあると便利な楽器ですが、残りのメンバーはF管のソプラノ・フルート(C管の4度上)、バス・フルート(C管の1オクターブ下)、F管のバス・フルート(そのさらに5度下)、コントラバス・フルート(バス・フルートの1オクターブ下)、ダブルコントラバス・フルート(コントラバス・フルートの1オクターブ下)という珍しい楽器を演奏しています。ピッコロの最高音はピアノの最高音を少し超えますし、ダブルコントラバス・フルートの最低音は、4弦のコントラバスよりも低くなっていますから、アンサンブル全体の音域は7オクターブ、これは、フル・オーケストラの音域に匹敵します。
その最低音の楽器、ダブルコントラバス・フルート(日本のコタト製)を演奏しているのは、日本人のイイズカ・ヒコさん。これ1本あるだけで、今までフルートアンサンブルに抱いていたイメージがガラリと変わります。どんなに楽器を大きくしても、そもそもフルートの低音には限界がある、と思っていたものが、この楽器からはまるでオルガンのペダルのような、パワフルな低音が聴こえてくるのですからね。
そして、最高音を担っているピッコロには、1976年から2001年までベルリン・フィルに在籍していたヴォルフガング・デュンシェーデが控えています。その正確なピッチは今でも健在、彼によってアンサンブル全体の輪郭が、くっきりと浮き出てきます。
このアルバムのタイトル「フルートの午後」の由来となった、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」(かつてのメンバーで編曲者のヴェルナー・タストによって付けられたタイトルは「14人のための午後」)は、ブラウのソロによって始まります。そして、そのあとで原曲に現れるハープのフレーズが、何種類かのフルートだけで完璧に再現されていたのを聴く時、この編曲のセンスの良さと、このアンサンブルの合奏能力のとんでもない高さを知ることになるのです。この演奏からは、間違いなくオリジナルのオーケストラの響きが醸し出していたものと同じ世界を味わうことが出来ることでしょう。それは、ミュートを使ったホルンの音を、フラッター・タンギングで模倣したり、本物のサンバル・アンティークを手のあいたメンバーが演奏していることに加えて、なによりも全てのフルート奏者が抱いているであろう、この曲に対する愛情が、14人分まとまって迫ってきたからに違いありません。
逆の意味で、「管楽器のためのセレナーデ」というタイトルであるにもかかわらず管楽器の筆頭であるフルートが加わっていないドボルジャークの作品では、仲間外れにされるのなら、意地でもフルートだけでやってやろうじゃないか、という意気込みすら感じられないでしょうか。なぜかオリジナルに入っているチェロとコントラバスの「ソラシ♭ラソファミ」という低音のフレーズが見事に決まる様は爽快そのものです。

CD Artwork © Musikproduktion Dabringhaus und Grimm

3月31日

クラシックレコードの百年史
 記念碑的名盤100+迷盤20
ノーマン・レブレヒト著
猪上杉子訳
春秋社刊
ISBN978-4-393-93542-2

イギリスの音楽ジャーナリストNorman Lebrecht2007年に刊行した「Maestros, Masterpieces and Madness」という書籍の全訳です。お分かりのように、この元のタイトルはしっかり「M」で韻が踏まれていますね。全部で3部からできている、これがそれぞれのタイトルだったのです。実は、その第1部はさらに8つの章に分かれていて、それぞれ「Matinee」、「Middlemen」といったM始まりの単語がタイトルになっています。それだけで、このレブレヒトという人はただ者ではないような気がしてきますね。もちろん、邦題はそれとは似ても似つかぬ陳腐なものですから、そこから著者、あるいは著書のテイストを推測することは困難です。ほんと、こんなんではまるでクラシックレコードが100年かけて発展してきた歴史をつづった本、みたいに思えてしまいますよね。
そうなんです。この日本語の書名では全く伝わっては来ませんが、これはレコードがこの世に誕生してから消滅してしまうまでの成り行きを、主にメジャー・レーベルについて、その経営者やプロデューサーを主人公にして、客観的に描いたドキュメンタリーなのです。いや、まだ「消滅」はしてはいないだろう、と、多くの方は思うかもしれませんが、メジャー・レーベルに限って言えばもはや「クラシックレコード」というものを「産み出す」機能は失われてしまっているのですよ。これは、そんな「クラシックレコードの終焉」を世に知らしめる書物なのです。こんなノーテンキな邦題に騙されて読み始めたら、そのあまりに悲惨な内容に、読んだことを後悔するかもしれませんよ。
そもそもの著者の企ては、彼がコラムを執筆している新聞やウェブサイトを通して寄せられた読者の声も反映させて、クラシックレコードが誕生してから今日までの100枚の「Masterpieces」を選ぶことでした。その結果は本書の「第2部」にまとめられています。そこで選ばれた全てのアイテムに詳細にコメントを加えていく過程で、必然的にそれらを包括的に歴史を追って述べることの必要性を感じ、「第1部」を新たに書き下ろしたのでしょう。したがって、「第1部」と「第2部」(さらに、「Madness」たる「第3部」も)では、重複した記述が頻繁に見られますが、それらはおそらく著者の主張を繰り返すことによって印象付けようとする手法だと思いたいものです。
もちろん、「終わり」があれば「始まり」もありますし、その途中には間違いなく「成功」だってありました。そんな最も成功した事例として挙げられているのが、言うまでもなくヘルベルト・フォン・カラヤンです。なんたって、彼は今までにレコード(+CD)を2億枚も売っているのですからね(そんなアーティストランキングが載ってますが、ジェームズ・ゴールウェイが6位のマリア・カラスと8位のプラシド・ドミンゴに挟まれて7位に入っているというのがすごいですね)。そんな、カラヤンに群がる複数のレーベルの関係者の動向をつぶさに語っているくだりは、何かとても現実とは思えないほどの今の世の中とはかけ離れた出来事のように思えます。かつては、レーベルの力によって、指揮者をランクの高いオーケストラに「送り込む」ことさえ出来たというのですからね。
たとえば、古くはゴードン・パリーがDECCAを去った理由とか、最近ではSONYによって進められていたリゲティの全曲録音がいきなり中断され、WARNERに移った事情など、ぜひ知りたいと思っていたことがいとも身近に語られているのを見るのは、知的好奇心を潤すには十分すぎる効能です。あのジョン・カルショーすら、いとも気軽に「ゲイ」で片付けられているのですからね。ただ、注意しなければいけないのは、おそらく原文にあったであろう「ひねりのきいた」言い回しが、この訳文では誤って伝えられる恐れがあること、それと、著者自身の事実誤認は、訳者によってかなり訂正されてはいますが完全にはなくなっていない点です。パヴァロッティがベルゴンツィの代役でヴェルディの「レクイエム」を歌ったのはニューヨークではなくミラノですし、「EMIスタジオ」が「アビーロード・スタジオ」と呼ばれるようになったのは1970年代以降のことなのですからね。

Book Artwork © Syunjusha Publishing Company

3月29日

空想工房の絵本
安野光雅著
山川出版社刊
ISBN978-4-634-45054-6

つい先日88歳の「米寿」を迎えられたばかりの画家、安野光雅さんの最新の絵本です。お誕生日にはベージュのちゃんちゃんこを着ていたのだとか。
ただ、新刊には違いないのですが、この中に収録されている作品は、もう40年以上も前に書かれたものです。しかも、その一部分は今までにも事あるごとに別の形で印刷物になっていたことのあるものです。おそらく、その中のいくつかは、安野さんの作品とは知らずに目にしていたことがある人も多いのではないでしょうか。実際、これが発売された時の案内を見てみても、これはなにかの復刻なのでは、と思ってしまいましたから。しかし、実際に手にしてみると、これはまぎれもない「新刊」、しかも、マニアにとってはうれしくてたまらないものであることが分かりました。
安野さんは、1969年から1980年にかけての足掛け11年間、「数理科学」という月刊誌の表紙を書くという仕事をなさっていました。この雑誌は「科学の最前線を紹介する雑誌」として、もう50年以上もサイエンス社から出版され続けていますが、その当時の編集長が安野さんの絵本を目にして、表紙の連載を依頼したのでしょう。それが、出版された順に、全てのものがまとめられているのですよ。ですから、今まではその中から適宜選ばれて様々な機会で紹介されていたものを、まさに「一次資料」として1冊の絵本として提供されたもの、と言えるのではないでしょうか。
最近では、もっぱらスケッチ紀行のようなものが作品の主体になっているような気がしますが、この頃の安野さんは、もっぱらトリッキーな絵を書く絵本作家として知られていました。そこでは、M.C.エッシャーの作品のエキスだけを、安野さん独自のタッチで別の形に仕上げたものとか、有名な芸術作品を巧みなパロディで思いもよらないようなものに変えてしまうものなど、あらゆる「だまし」のテクニックを使って読者に対する挑戦を仕掛けていたものでした。この本の中の作品には、どれにもそのようなひねりが加えられていて、何度見ても飽きることはありません。
ここには、それぞれの作品に、「今の」安野さんが書いたコメントが付けられています。それによると、それがいったいどんな仕掛けだったのか、作ったご本人でももう分からなくなっているものがある、というのが面白いところです。それと、当時は完璧な仕掛けだと思っていたものも、今見ると大したことがない、というのもあるのだそうです。さらに、頻繁に「これは失敗作だ」とか、「締め切りがあったので、仕方なく渡した」みたいなネガティブな書き方をされています。
おそらく、そんな当時の評価によって、今まで日の目を見ることのなかった作品もあったものが、ついにこんな形で全てのものが公開されてしまったのです。実際に、殆どのものは確かに見たことがありますが、その中に今回初めて目にするものを発見した時の喜びと言ったら、言葉では表せないほどです。
そんなものを2作ほど、あくまで主観ですが、初めて見てとても「感動」したものを、その辺に広げてあったものを写真に撮ったらたまたま入っていた、というスタンスでご紹介します。

ところで、「いろは歌」という作品のコメントで、関係者の名前が登場したのには驚きました。ただ、安野さんの勘違いでしょうか、名称に不正確なものがあるのが、ほほえましいところです。

Book Artwork © Yamakawa Shuppansha Ltd.

3月27日

BACH
Mass in B minor
Václav Luks/
Collegium Vocale 1704
Collegium 1704
ACCENT/ACC 24283


今や、各方面から注目を集めているチェコの新進ピリオド・アンサンブル「コレギウム1704」は、このACCENTレーベルからも、すでにゼレンカのアルバムを2枚出していましたが、今回晴れて大バッハの「ロ短調」を世に問うことになりました。
1970年生まれの指揮者、チェンバロ奏者、そしてホルン奏者でもあるチェコの俊英、ヴァーツラフ・ルクス(写真ではなかなかのルックス)が1991年に創設したピリオド・アンサンブルが、この「コレギウム1704」です。「1704」というのは、ゼレンカの最初の作品(「Via Laureata ZWV 245」という学校劇で、楽譜は消失)が作られた年、1704年にちなんでいるのでしょう。それは、彼らのFacebookページのプロフィール写真がその台本の一部から取られていることから推測されます。
ただ、創設当初はルクス本人もベルリン古楽アカデミーの首席ホルン奏者として多忙だったようで、常設の団体ではありませんでした。本格的にフルタイムの活動が始まるのは、ルクスがチェコに戻って来た2005年のこと、同時に声楽部門の「コレギウム・ヴォカーレ1704」も設立され、双方の指揮をルクスが務めることになります。
この録音での編成は、ヴァイオリンだけでも10人という、たっぷりとしたもの、もはや「1パート1人」などというギスギスしたものは、一時の流行として今では廃れてしまっているのだと思いたいものです。合唱も21人と、余裕のある人数ですが、これは適宜「ソリ」と「リピエーノ」を使い分けて、表現に幅を持たせています。ただ、アリアのソロなどは、その「ソリ」の人たちも歌いますが、合唱には参加しない専用のメンバーも3人いて、声楽陣はトータルで24人ということになりますね。
なにしろ、とても若々しい、きびきびとした演奏には、たちどころに虜になってしまいます。「Kyrie」の序奏がリピエーノのたっぷりとした響きで歌われた後、フーガからはソリの登場ですが、その先頭を担うテナーのヴァーツラフ・チジェクの伸びのある声は、まさにこの演奏全体の爽やかさを象徴しているのではないでしょうか。もう一人、こちらはコーラスもソロも歌っているソプラノのナハ・ブラシコヴァーの澄みきった声もとことん魅力的です。次の「Christe eleison」でのデュエットでの、第2ソプラノとのハーモニーも完璧です。コーラス全体は、この二人の音色に支配されていて、なんともピュアな美しさを聴かせてくれます。そこへ持ってきて、ルクスの作る音楽がとても軽やか、軽快なテンポに乗ってサクサクと進んでいきます。
実際、例えば2番目の「Kyrie」などは、ちょっと他ではお目にかかれないような速さです。常々、この曲のテーマはなんとも優柔不断なものに感じられて、しかもそれをことさらゆっくり演奏される場面が多いものですから、ちょっと聴いていて辛くなるような印象があったのですが、今回はそんなイメージが見事に拭い去られていましたよ。こういう演奏なら、バッハが重々しくてとっつきにくいなどとは誰も感じることはないでしょう。
ですから、「Gloria」の最後の「Cum Sancto Spiritu」などは超快速過ぎて、歌もオケもついていけないほどですが、それは勢いの余りということで許せます。同じように「Sanctus」の速さも群を抜いています。演奏時間は3分51秒、手元にある30種類ほどの演奏の中で、4分を切るのはこれだけです(一番遅いのはクレンペラーの6分12秒)。
その上に、合唱には加わっていない、元ウィーン少年合唱団のスター、テリー・ヴァイのアルト・ソロで歌われる「Agnus Dei」などは、テンポをぐっと押さえてしっとりと聴かせています。そんなコントラストも見せつつの快演、これは素晴らしい「ロ短調」です。
それを伝えてくれる録音も、とびきりの瑞々しさです。録音スタッフは、と見ると、担当したのはTRITONUS、ノイブロンナー自身がプロデューサーも務めていますからそれも納得です。声も楽器も、しっかりとした芯のある音で伝わってくる素晴らしい録音です。

CD Artwork © Note 1 Music GmbH

3月25日

VASKS
Flute Concerto
Michael Faust(Fl)
Sheila Arnold(Pf)
Patrick Gallois/
Sinfonia Finlandia Jyva[]skyla[]
NAXOS/8.572634


ひところ世間を騒がせたあの「偽作曲家」の、「指示書」を書いて実際に曲を作った人に内容を伝えていたという「手口」は、マスコミによって細大漏らさず報道されてしまいましたね。これをもって、マスコミは「彼は作曲家ではない」と決めつけてしまったわけですが、実は今の時代、別に楽譜が書けなくても「作曲」は出来てしまいます。確固たるイメージと、それを的確に伝える能力さえあれば、だれだって「名曲」を作ることは出来るのですよ。現に、あの「指示書」に基づいて作られた曲に、多くの人が「感動」を与えられたのですからね。彼は楽譜こそ書くことはできませんでしたが、音楽によって人の心を動かすすべには精通していた、とは言えないでしょうか。
そこで彼が曲想を伝えるのに用いたのが、「調性音楽的60%対現代音楽的40%」のような、非常にわかりやすい定量的な指示です。それを見ると、「音楽」の属性をこのように「調性音楽」と「現代音楽」という2つの要素にきっちりと分けたという発想が、とても的を射たものであるように思えてしまいます。もし、「現代音楽」の中に「民族音楽」のようなものが含まれているとすれば、現在作られている音楽は、全てこの二つの要素から成り立っている、とは思えませんか?
1946年生まれのラトヴィアの作曲家ペーテリス・ヴァスクスのフルートのための作品を集めたこのアルバムを聴くときには、この「定義」が役に立ちます。まず、ここでフルートを演奏しているドイツのフルーティスト、ミヒャエル・ファウストのために2008年に作られた「フルート協奏曲」では、冒頭こそ何やらノイズっぽい打楽器の音が聴こえますが、それは単なる情景描写の手段であることがすぐにわかり、その後にはまるでそのまま映画音楽に使えてしまいそうな、極めて描写的な音楽が続きます。3つの楽章の最初と最後は、ほとんど同じゆっくりとした楽想で、フルート・ソロはまさに「調性音楽的」な歌を延々と歌います。第3楽章のエンディングには、冒頭のノイズがそのまま再現されるという分かりやすさです。そして、真ん中の楽章は「ブルレスカ」という、ちょっとおどけた軽快な楽想なのですが、その最後に演奏されるカデンツァだけが、もろ「現代音楽的」な音楽になっているのです。
次の、1992年にペトリ・アランコのために作られたフルート・ソロのための「ソナタ」は、協奏曲と同じ楽章構造、両端がゆっくりで真ん中が軽やかという3つの楽章で出来ていますが、その「ゆっくり」の方ではアルト・フルートが使われます。それは、まさに「現代音楽的」が100%という、潔さです。アルト・フルートで奏でられるパートは「夜」と名付けられています。どこまでも暗く深い闇の世界、対して普通のフルートの楽章は「飛翔」という、外へ向けての意志が感じられる音楽です。
練習曲のような目的で1972年に作られた「アリアとダンス」は、ピアノ伴奏が付いた、もろ「民族的」な音楽です。「調性」というよりは、素朴な「旋法」で作られているのでしょう。
そして最後は、1980年のフルート・ソロのための作品「鳥たちがいる風景」です。タイトルから、メシアンのようなパッセージを思い浮かべるかもしれませんが、ヴァスクスの場合の「鳥」は、もう少し北欧的なおおらかさを持っています。もちろん、これも「現代音楽的」なパーセンテージがかなりを占めている音楽です。
このようなヴァスクスの作曲に対する姿勢は、まさに「現代作曲家」に共通したものではないでしょうか。
演奏しているファウストは、おそらく「現代音楽的」なものの方が得意人なのでしょう。そのような曲では目覚ましい勢いが感じられますが、「調性音楽的」な部分になると、とたんに熱意がなくなってしまうようです。したがって、協奏曲ではカデンツァ以外での存在感が、オケの中に埋没しています。指揮のガロワが吹いていたら、どうなっていたでしょう。

CD Artwork © Naxos Rights US. Inc.

3月23日

BACH
St John Passion
James Gilchrist (Eva), Matthew Rose(Jes)
Elizabeth Watts(Sop), Sarah Connolly(Alt)
Andrew Kennedy(Ten), Christopher Purves(Bas)
Richard Egarr/
Academy of Ancient Music, Choir of AAM
AAM/AAM002


今まではHARMONIA MUNDIなどを中心に録音を行っていたアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックは、最近自分たちのレーベルを作ったそうです。なんでも、このオーケストラは昨年2013年に創立40周年を迎えたそうで(延々と活動を続けていたのですね)、そういう節目での心機一転、ということなのでしょうか。
その「AAM」レーベルの第2弾としてバッハの「ヨハネ受難曲」が出るという情報を見つけました。それによると、なんとそれは「1724年稿」で録音されたものだ、というではありませんか。ご存知のように、きちんとこの初演時の楽譜を復元して録音されたものは知る限りではフェルトホーフェン盤1種類しかありません。「1724年稿」というようなタイトルでリリースされたものでも、実際に聴いてみると全く別物なのでがっかりさせられたことが、何回あったことでしょう。
ですから、今回のAAM盤も現物の音を聴くまでは信用はできません。でも、発売になるのは1ヶ月も先のこと、早く聴いてみたいなあ、と思ってダメモトでNMLを検索してみたら、たった今、という感じでアップされているではありませんか。しかも、公式サイトではブックレットが丸ごとダウンロードできますから、ライナーノーツや録音データも見ることが出来ます。別にSACDではないようですので、それだったら1ヶ月も待つことはないと、さっさと聴いてしまいましたよ。
その結論はというと、これは例えばハジェット盤のような「『1724年稿』という表記はあっても、似て非なるもの」ではなく、指揮者のエガーがしっかり自分で楽譜を「復元」しているという、まぎれもなく「1724年稿」を目指したものでした。まあ「目指した」というあたりがちょっと、なのですが。
そもそも「1724年稿」がどういうものなのかは、すでに1725年稿と1749年稿を出版しているCARUSがそれぞれのスコアに詳細な対照表を掲載しているので知ることが出来ます。ただ、楽譜についてはかなりのところまで分かっているのですが、編成については今一つ不明な部分があります。それは、この時にフルートが演奏されていたか、という点です。CARUSの対照表では、1曲目だけは「フルートは入っていない」というだけで、それ以後の曲については明言を避けていますが、先ほどのフェルトホーフェン盤では、「全曲フルートはなし」という立場で、後の稿ではフルートで演奏されている部分は、全てヴァイオリンやオーボエなどの他の楽器で置き換えられています。
この点についてのエガーの見解は、それとは全く逆、「この時代のカンタータではフルートは使われていたので、当然この曲にも入っていたはず」というものでした。そして、全ての資料を当たっても、フルート奏者がいたという確実な証拠がない理由として「2人のオーボエ奏者のうちの一人が、持ち替えで吹いた」という解決策を提案しています。したがって、フルートが登場するのは9番のアリア、34番のアリオーソ、35番のアリアだけ、その他の合唱部分やコラ・パルテのコラールではオーボエの音しか聴こえてきません。
まあ、フルートの有無についてはそのような「状況証拠」しかありませんから、結論が出ることはないのでしょうが、3番のコラールでピカルディ終止になっているのと、38番のレシタティーヴォが23小節ではなく、後の形の25小節になっているという2点が、CARUSの対照表とは異なっているのが、気になります。この点に関してのエガーの説明は、ここにはありません。
エガーはここで「初期の荒削りな姿」を伝えたかったのだそうです。合唱の部分ではそれは成功しているようですが、ソリストたちのスタイルにちょっと異質なものがあるために、そこから「祈り」とか「愛」などを感じとるのはちょっと困難です。
録音はLINNのフィリップ・ホッブスが担当しています。NMLAACで聴いても、その片鱗は感じられます。

CD Artwork © Academy of Ancient Music

3月21日

LE LIVRE D'OR DE L'ORGUE FRANÇAIS
André Isoir(Org)
LA DOLCE VOLTA/147.2


ジャック・ル・カルヴェという人が1972年に創設したフランスのレーベルが、CALLIOPEです。アナウンサーではありません(それは軽部真一)。普通は「カリオペ」と呼ばれていますが、フランス語読みだと「カリオップ」となるのだそうです。
そのCALLIOPEが、創設直後から1976年にかけて敢行したプロジェクトが、このタイトル、日本語では「フランス・オルガン音楽の至宝」となります。それは、全部でLP30枚分という、膨大なアンソロジーでした。ルネサンス期の作品からメシアンまでをカバーするという、それまでに前例のない企画、中でも、17世紀から18世紀にかけてのフランスのオルガン作品が独自の輝きを持っていた時代のものが、これだけ体系的に録音されたのは初めてのことでした。その中で、メシアンの6枚はルイ・ティリーが演奏していましたが、残りの24枚は、アンドレ・イゾワールが一人で録音したものです。そのうちの10枚のアルバムに収録されていたものが、今回6枚のCDとなって、ボックスとしてリイシューされました。
実は、このシリーズが最初にLPでリリースされた時には、国内盤がビクター音産から出ていました。それが、まずオーディオ的なすごさによって大評判となります。確かに、ル・カルヴェとタッグを組んでいたエンジニアのジョルジュ・キセロフによる録音は、まさに驚くべきものでした。ですから、国内盤では飽き足らず、わざわざ秋葉原まで行って何枚かフランス盤を買ってきたほどです。それは、ジャケットもとても凝ったもので、見開きのダブルジャケットのLPを入れる部分に、さらに折り返しがあって埃の侵入を完全に防ぐ工夫が施されていました。


今回のボックスでは、そんな初期のジャケットの片鱗すらもない、ケバいデザインに変わっていました。ただ、その外箱に日本語が印刷してあるのにはちょっとびっくり、ブックレットも、しっかり全文がフランス語、英語、そして日本語で印刷されています。おそらく、このレーベルのファンが日本には多いことを考慮してのことなのでしょう。先ほどから「カリオップ」とか「キセロフ」といった、見慣れない表記があるのは、その訳文からの引用だからです。
ご存知のように、ル・カルヴェは2010年に自らの手でこのレーベルを終息させてしまいました。その後、権利とカタログは他人の手に渡るのですが、そんな中で2011年に、このLA DOLCE VOLTAという新しいレーベルが、CALLIOPEのカタログのリイシューのために設立されました。ただ、それとは別にCALLIOPEのレーベル名までも引き継いで、同じようにリイシューを行っているところもあるので、ちょっと事情は複雑です。
このボックスに関しては、今までCDでは出ていなかったものが多く含まれているので、かなり貴重です。実際、手元にあったLPと重なっていたのは1枚だけでした。当時は欲しくても全部は買えなかったものが、その一部分でも安価に聴けるようになったのは何よりです。リマスタリングも、LPと比較さえしなければ充分に聴きごたえのあるものですし。何よりも、このブックレットには、LPでは見ることのできなかった、演奏しているオルガンの写真がすべてカラーで載っていますから、それだけでも感激です(データが一部間違っているのは、この際見逃しましょう)。
とは言っても、やはりLPと比べると、その音のしょぼさはどうにもなりません。せめてSACDにしてくれていたら、さらに、こんな出し惜しみをしないで全アイテムを出してくれたら、と、ないものねだりは果てしなく続きます。何より、ノイズの乗り具合など、今回2013年に行われたリマスタリングで使われたマスターテープは、劣化が進んでいることがはっきりわかります。もはや取り返しのつかない状態になっているのですね。もっと早い段階でハイレゾのデジタル・トランスファーを行っておけば、というのも、やはりないものねだりです。

CD Artwork © La Dolce Volta

3月19日

MOZART
Requiem
Joanne Lunn(Sop), Rowan Hellier(Alt)
Thomas Hobbs(Ten), Matthew Brook(Bas)
John Butt/
Dunedin Consort
LINN/CKD 449(hybrid SACD)


常にひとひねりある楽譜を使った演奏で、聴く者を驚かせているジョン・バットとダニーデン(ダンディン)・コンソートのチームが今回取り上げたのはモーツァルトの「レクイエム」のジュスマイヤー版です。もちろんそこは腐ってもバット、彼が使ったのは、ただのジュスマイヤー版ではありませんでした。
それは、2013年に出版されたばかりの、「新しく校訂された」ジュスマイヤー版です。そのようなものはすでにベーレンライターからきちんとしたものが出ていたのですが、今回はペータースから、デイヴィッド・ブラックという人が新たに自筆稿などの資料を洗い直してよりきちんとした楽譜を作ったのですよ。
もちろん、そんなものをただ出しても、誰にも認知されませんから、今回は「初演復元版」というセールスポイントを強調しています。さも、今までそういうものが存在していなかったような大げさな煽りようですが、騙されてはいけません。基本的に「原典版」というものはそのような初期の状態に戻されたものを指すのですからね。
実際、このペータース版をベーレンライター版と比べて見ても、はっきり言って違いはありません。もちろん、資料の読み取り方などが校訂者の主観によって微妙に変わっているところはありますが、その資料自体は同じものなのですからね。
ただ、1ヶ所だけ、明らかに今までの楽譜とは異なっている部分がありました。それは、「Kyrie」の24小節目のソプラノ・パートの音符に付けられたアーティキュレーションとテキストの割り振りです。スラーの範囲と、二重フーガの「クリステ・エレイソン」というテキストの最後のシラブル、「ソン」の位置ですね。



この部分はジュスマイヤーの手が入っていないモーツァルトの自筆稿(ソプラノ記号)が残っていますが、それを見ると確かにそのようになっています。



テキストに関してはともかく、スラーは、こんな素人が見てもはっきり分かるものに、ベーレンライター版(1)の校訂者のレオポルド・ノヴァークは気付かなかったのでしょうか。ここだけは、初期のブライトコプフの印刷譜(2)を丸ごと信用していたのだとか。
しかし、やはり2013年に出版されたコールス版(3)でも、このペータース版と同じ形になっていますから、これからはこの形が主流になっていくのかもしれません。そんな、今までだれもが見落としていたポイントを指摘したのは、このペータース版の功績には違いありません。かなりマニアックですが。
このSACDでは、おまけとして、ジュスマイヤー版が出来る前に、自筆稿をそのまま使って17911210日、つまりモーツァルトの死の直後に行われた葬送ミサの際に演奏されたであろう「真の初演の復元版」が録音されています。合唱が8人(ソリストも合唱の中で歌う)など、あくまで忠実にその時の模様を再現したと言っていますが、「Kyrie」にトランペットとティンパニのリズムが入っていないのは、ちょっと違うような気がします。確かに、その楽譜にはまだそのパートは入ってはいませんでしたが、その前の、すでに完成されていた「Requiem aeternam」では、しっかり入っているのですから、アド・リブで入れることは可能だったはずです。そのアド・リブのパターンは後の全ての修復稿でみんな違っているのですから、ここで入れておいた方が、より的確な「復元」になったのでは。
そして、1793年1月2日に行われたジュスマイヤー版の初演を再現したはずの正規の演奏では、その合唱(+ソリスト)が16人に増えています。これがなんとも大味で散漫な演奏で、死者を悼む気持ちなどは全く伝わっては来ません。もしかしたら、「ゴーストライター」に残りを仕上げてもらったものではそんな気持ちなど起きようもなかったというところまで、この演奏では「再現」していたのかもしれませんね・・・と、妄想は際限なく続きます。

SACD Artwork © Linn Records

おとといのおやぢに会える、か。


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