食べにゃあ。.... 佐久間學

(09/1/27-09/2/14)


2月14日

RACHMANINOV
Symphony No.2
Lan Shui/
Singapore Symphony Orchestra
BIS/SACD-1712(hybrid SACD)


ラフマニノフの交響曲第2番が好きな人には、良く出会えます。なんとも甘ったるくて軟弱、その道の大先輩ベートーヴェン先生がその中に込めた「厳しさ」や「苦しさ」などはかけらもない、同じ「交響曲」と呼ぶことすらはばかられるような曲なのですが、なぜかファンは多いのですね。ある人は、それを「演歌の魅力」だとおっしゃっていました。なるほど、確かにあのいたずらに飾り立てられた叙情性は、まさに「演歌」の持つ湿っぽさとどこか共通するものがあるのかもしれません。それだったら、日本人の心にストレートに訴えかける力を持っているのも納得です。糸を引く粘っこさもありますし(それは「納豆」)。
この、ムダに長い曲は、かつては作曲者の公認のもとに、多くの冗長な部分をカットして演奏するという慣習がありました。例えば、オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団が1951年にそのようなカットを施した楽譜で録音したものをこちらで聴くことが出来ます。この曲を良く知っている人が聴けば、確かに多少の違和感が伴うかもしれませんが、何も知らないで聴いていたらいったいどこをカットしたのか分からずに通り過ぎてしまうかもしれません。これはその程度の曲、1箇所たりとも変えることが許されないほどの確固たる構成感を持っているとされるベートーヴェン先生の作品とは、そもそも勝負にならないのです。
とは言っても、やはり作曲家の書いたとおりのものをきちんと演奏したいという機運は高まってくるもので、1973年にはアンドレ・プレヴィンがロンドン交響楽団と、初めてこの曲をオリジナル通りに演奏したものを録音したのです。そのジャケットにはわざわざ「コンプリート・バージョン」という但し書きがつくほど、それは珍しい試みだったのですね。もちろん、現在ではこの曲にカットを加えて演奏するような不見識な指揮者は、まず見あたりません。
ただ、実はプレヴィンの録音は決して「コンプリート」ではありませんでした。この曲の第1楽章には、古典的な交響曲のように提示部の繰り返しが指定されているのですが、プレヴィンはそこを繰り返さないで演奏しているのです。さすがにそこまでやるのは「長すぎる」と判断したのでしょうか。確かに、ここを繰り返して「コンプリート」を貫いている指揮者は、あまり見かけません。
2008年6月に録音されたという、現時点でもっとも新しいCDをリリースしたラン・シュイ指揮のシンガポール交響楽団は、その繰り返しをしっかり行っていました。実際にそういう演奏を聴くのは初めての体験だったのですが、それによってことさら「長い」と感じることがなかったのは、おそらくカットされたもの聴いても何も感じなかったのと同じ意味を持っているのでしょう。別に長くしようが短くしようが、それが全体の価値に及ぼす影響などはそもそも極めて少ないというのが、この曲なのです。
そんなことよりも、ここで弦セクションが繰り広げているなんとも派手なポルタメントには、辟易とさせられます。なにしろ、マーラーであろうがドビュッシーであろうが、跳躍音型を見つければその間を連続した音で埋めないと気が済まないというのは中国系の人々のアイデンティティのようなものなのでしょうから、いくら「演歌」であっても、これほどまでに粘っこくはないだろうという嫌らしいまでのポルタメントには耐えなければなりません。
ところが、先ほどのオーマンディの半世紀以上前の演奏を聴いてみると、実はこれと同じ程度の「くさい」表現が、頻出しているのにも気づかされます。ひょっとしたら、シュイたちの演奏は、そんなノスタルジックなスタイルへの回帰だったのでしょうか。確かに、SACDでありながらなんとも解像度の低いモヤモヤとした録音は、そんな時代を彷彿とさせるものでした。ですから、SACDモードでの再生は不可能なこちらで聴いてもなんの遜色もありませんよ。

CD Artwork © BIS Records AB

2月12日

PURCELL
Dido & Aeneas
Sarah Connolly(Dido)
Gerald Finley(Aeneas)
Elizabeth Kenny, Steven Devine/
Choir of the Enlightenment
Orchestra of the Age of Enlightenment
CHANDOS/CHAN 0757


今年はメンデルスゾーンの生誕200年祭ですが、同時にイギリスの作曲家ヘンリー・パーセルの生誕350年という記念の年でもあります。彼の代表作である「ディドとエネアス」というオペラも、さまざまな露出があるのでしょうか。
もちろん、このタイトルは主人公の名前から取られているというごく普通のネーミングです。つまり、ディドというカルタゴの女王と、エネアスという、ガソリンスタンドのような名前の(それは「エネオス」)トロイの王子との愛の物語です。オペラとは言ってもほんの1時間足らずで聞き終えてしまえるという手軽なもの、というか、もともとは女学生が演じるスクール・オペラだったのですね。
最初にこのオペラをCDで聴いたときには、正直そのプロットには付いていけないものがありました。なんとも、話の進み方があらゆる面で唐突なのですよ。なかでも、愛し合っていたはずの美男美女が、別れなければならない動機がさっぱり分からないのには困ってしまいました。もちろん、それはディドを憎む魔法使いのたくらみによる神のお告げという、エネオスにとっては絶対的なものには違いないのですが、そんな子供だましのようなやり方が良く通用したものです。しかも、エネオスは、やっぱりディドの愛の方が神のお告げよりも大事なことに気づいて、ヨリを戻しにやってくるのですが、なぜかディドはそれをはねつけてしまうのですね。さらに、その事を嘆いて自ら命を絶ってしまうというのですから、もはや理解不能な世界です。
しかし、そんな理不尽なお話などは、オペラの世界では日常茶飯事であったことにも、気づくべきでしょう。なんと言っても有名なのは「魔笛」、途中で、今までの善人と悪人の設定が全く逆になってしまうのですから、たまったものではありません。そういうときに必ず出てくるのが、「しかし、モーツァルトの音楽の美しさは、そんな物語の矛盾などを超えたもの」という常套句です。さらに、最近大流行の「読みかえ」演出によって、大概のお話は説明可能なものに変貌させることが可能になっています。ですから、荒唐無稽なお話を、いかに深遠な思想を含んだものに変えるかが、昨今の演出家に課せられた使命だとは言えないでしょうか。ワーグナーの「指環」あたりは、まさにそれにはうってつけの素材と言えるでしょう(もっとも、逆に一層分かりにくくなる場合もありますがね)。
ですから、この「ディド」も、演出家にとっては恰好の題材、まだ見たことはありませんが、ぜひそのうちに映像で見てみたいものです。
そんな、いささか強引な筋の運びなど気にさえしなければ、最後の「ディドの死」という深い憂いをたたえた美しい音楽を味わうために、1時間ちょっとの暇を惜しむことはありません。ここでそれを歌っているサラ・コノリーの、まさに心の琴線に触れる深い歌を、心ゆくまで味わおうではありませんか。
もう一つの楽しみは、魔法使いの歌うおどろおどろしい呪いの歌です。これを最初に聴いたのが、クリスティの指揮によるものだったのですが、その時のキャストはクレマン・ジャヌカン・アンサンブル、となると、この役はドミニク・ヴィスということになりますね。そんな強いインパクトの演奏と比べてしまうと、パトリシア・バードンはいかにもまっとうに聞こえてしまいます。
そんな、クリスティ盤にはなかったような、踊りの音楽が時たま聞こえてくることがあります。これは、最近の研究の成果だとか。「指揮」とクレジットされていて、オーケストラの方向付けをしている、リュートのエリザベス・ケニーと、チェンバロのスティーヴン・デヴァインが中心になった演奏は聞きものです。やはり、オペラにとって重要なのは、物語のプロットではなく、そんなエンタテインメント性なのでしょうか。

CD Artwork © Chandos Records Ltd

2月10日

TCHAIKOVSKY
Symphony No.5
Gustavo Dudamel/
Simón Bolívar Youth Orchestra of Venezuela
DG/00289 477 8022


快進撃の止まらないヴェネズエラの星、ドゥダメルとシモン・ボリーバル・ユース・オーケストラ、ついに昨年の12月には来日公演が行われましたね。その時のプログラムであるチャイコフスキーの「5番」のCDは、ですから、だいぶ前に国内盤が発売になっていました。あいにく、国内盤にも、そして東京でのコンサートにも全く縁のないものとしては、やっと輸入盤として出回ったこのアルバムが、この曲を演奏している彼らとの初対面となります。今までのアルバムで、ベートーヴェンからマーラーまで、単なる勢いにはとどまらない確かな音楽性を披露してくれていたこのコンビですから、期待は高まります。
しかし、ここでのドゥダメルたちの、なんだかあまりノリの良くない演奏には、ちょっと戸惑ってしまいました。今までのアルバムでは必ず見られていた、曲の最初からみなぎっている生命感が、あまり感じられないのです。言ってみれば、楽譜を音にするのに精一杯、それを超えたところでの流れのようなものが、まるで見えてこないのです。どうやら、チャイコフスキーというのはかなり手ごわい相手だということに、彼らは気が付いてしまったのではないでしょうか。事実、チャイコフスキーの音楽の作り方というものは、一筋縄で解き明かせるものではなく、多くの「謎」に包まれています。一見華やかに見えて、なんのためにあるのか分からないような仕掛けが、あちこちに見え隠れしているのですね。最初のうち、ドゥダメルたちはその「仕掛け」に一生懸命意味づけをしているように見えます。ある時には、ちょっとヘンな作り方をなんの細工もしないで表面に出してきて、さも、お客さんにその謎解きを迫っているかのように振る舞っているような風にも見えてしまうのです。
ですから、最初のホルンのソロに始まって美しいメロディがてんこ盛りの第2楽章にしても、決してその美しさに酔わせよう、などとは考えてはいません。それどころか、そのホルンのソロを包み込むさまざまな夾雑物を、あえて表面に出してきて、その美しさの陰にあって今までは気づくことの無かった「負」の部分を、ことさら目立たせようとさえしているように見えてしまうのです。
これは、戸惑いを超えた驚きをもって迫ってきます。ある意味、若さに任せて元気よく振る舞っていたはずの若者たちが、実はそんな深いところにまで考えを巡らせていたのか、という驚きです。ただ、それはいかにも迷える若者の整理の付かない心のようなもので、問題点は良く分かるものの、聴いていて決して心地よいものではないのです。この問題を昇華したところでの、もっと弾けた音楽を聴きたいな、と、正直思ってしまいました。
そんな思いで暗い気持ちになってしまい、やはりチャイコフスキーは若さだけではなんともならないものなのだな、とあきらめかけていたところ、第4楽章になってしばらくすると、急に今までの彼らのアルバムで感じたのと同じようななにか浮き立つものを感じる瞬間があったのです。それは、楽章の序奏にあたる1楽章でさんざん聞かされた「運命のテーマ」の再現が終わり、ティンパニのロールに導かれて「Allegro vivace」の部分が始まった時のことでした。今までウジウジしていたのがまるでウソだったかのように、いつも通りのドライヴ感あふれる音楽が始まったのですから、喜びはひとしおです。これは彼らの作戦だったのでしょうか。いや、まだまだ迷いの多い青春まっただ中の心情の、これは正直な吐露だったのだとろ思いたいものです。
うっかりすると忘れてしまいがちですが、メンバーの殆どはそもそもクラシック音楽を専門的に学んではいないはずです。そんな集団が、逆にクラシックの閉塞感を破ってくれるのかもしれませんね。

CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH, Hamburg

2月8日

BEETHOVEN
Symphonies for Fortepiano
大井浩明(Fp)
ENZO/MOCP-10006


かつて、クラシック音楽の世界では、まるでダーウィンのような「進化論」が語られていたことがありました。バッハが進化したものがモーツァルト、さらに進化するとベートーヴェンといったように、音楽が一直線の時間軸でより「進んだ」ものに変わっていったという史観です。もちろん、そんな思想は、その「進化」の最後の形であったシェーンベルクの試みが無惨な敗北を収めたことにより、なんともナンセンスなものであったことが明らかになるわけですがね。
今ある「ピアノ」という鍵盤楽器も、同じように「進化」の最終形であると見なされていました。いや、こちらに関しては、いまだにそう信じている人だっているはずです。「チェンバロ」が進化したものが「フォルテピアノ」だったと思う人こそ少なくはなりましたが(なんせ、発音原理が全く異なりますからね)、「フォルテピアノ」から「ピアノ」へは、それこそ一直線の「進化」をたどったはずだと、普通は考えがちです。しかし、現在ではこの二つの楽器は全く異なるものだという考え方が支配的になっています。例えばある時代の「フォルテピアノ」では備わっていた「モデラート」という、ペダルを踏むとハンマーと弦の間に薄い布が入り、音色が変わる機能が、「ピアノ」ではなくなっています。ですから、この楽器を使って作曲された「ピアノ曲」を演奏する場合、「Moderato」という表記が出てきたときには注意をしなければいけません。なにしろ、それは「速さ」ではなく、「音色」を指示したものなのですからね。
クセナキスの超難曲「シナファイ」「エリフソン」での目の覚めるような演奏で世界中の人を驚かせたピアニスト大井浩明さんが、ご自身のブログで、しばらく前にベートーヴェンのピアノソナタのツィクルスを始めたと書いておられたので、ちょっと意外な気がしていました。しかし、その後の情報が入って来るに従って、それはクセナキスとは全く別な意味でのユニークさを持つ演奏であることが分かってきました。つまり、ベートーヴェンは、生涯にわたってその時代に大きく変化を遂げたフォルテピアノの機能に興味をそそぎ続け、それぞれの時期の楽器の可能性を、とことん作品に反映した、という事実を踏まえて、大井さんはそれぞれのソナタの作曲時期に合わせた楽器を用いて演奏を行ったのです。ベートーヴェンの楽譜に現れている、特定の時期の楽器でなければ正確にはその意図は伝わってこない指示を丹念に掘り起こし、それを実際にその楽器によって音にするという作業は、クセナキスの難解なスコアから作曲家の描いたものを正確に実体化する作業と、まさに同一線上にあるものではなかったのでしょうか。
そんなプロジェクトのスピンオフとして、リストによるピアノ版の交響曲のツィクルスも敢行され、それらも、ソナタ同様順次ライブ録音としてCDがリリースされています。その第1弾が、交響曲の1番と2番(それとカルテットの1番の第1楽章だけ)、使われている楽器は1846年に作られていますから、まさにリストと同じ時代のものです。
リスト編曲のベートーヴェンの交響曲は、ピアノによる演奏では数多く世にでていますが、フォルテピアノによるものはおそらくこれが最初になるのではないでしょうか。大井さんは、ベートーヴェンが、そしてリストがこの楽器を使って表現したかったことを、おそらく全人格的な意味で再現することを目指していたのではないか、と思わせられるほど、そこには生々しい魂の発露が感じられ、圧倒されます。
そんなしゃかりきな面とともに、例えば繰り返しの部分では必ず加えられているかわいらしい装飾にも注目です。オーケストラ版だったらまずあり得ない(いや、ジンマンあたりはやっていたかも)まさに「オーセンティック」なアプローチ、これは和みます。ゆっくりお湯に浸かったように(それは「温泉ティック」)。

CD Artwork © Office ENZO Inc.

2月6日

ROMAN
Twelve Flute Sonatas
Verena Fischer(Fl)
Klaus-Dieter Brandt(Vc)
Léon Berben(Cem)
NAXOS/8.570492-93


この作曲家の名前はJohan Helmich Romanですから、普通に読めば「ヨハン・ヘルミッヒ・ローマン」と発音するのでしょうが、あいにくこの方はスウェーデン人、実際は「ユーハン・ヘルミク・ルーマン」となるのだそうです。なんだか、リストラにあって晩ご飯もまともに食べられなくなってしまった人みたい(「夕飯、減る肉」)。
1694年の生まれですから、バッハやヘンデルよりちょっと後に生まれたという、バロック時代の作曲家です。当時、音楽的には(あ、もちろん、イタリアを中心にした音楽、ということですが)辺境の地であったスウェーデンでの、言ってみれば最初の大作曲家という位置づけがなされている人です。彼にとってヘンデルは、まさに「アイドル」的な存在でした。1720年から5年ほど、イギリスに「留学」、そのヘンデルのオーケストラの第2ヴァイオリン奏者として直接彼の音楽に触れ、自身も作曲家としての修練に励みます。
この12曲のフルートソナタ集は、そんなイギリス時代から始まって、スウェーデンへ帰国した頃までの間に作られたものとされています。彼の作品は、ほとんど自筆稿としてしか残ってはいませんが、このフルートソナタ集だけは1727年に出版され、国内だけではなく外国でも販売されたそうです。いかにもヘンデルのような作風(実際に、ヘンデルのソナタからの引用もあるようです)も感じられますが、舞曲を素材にした多楽章形式のそれぞれのソナタには、なにか鄙びた田舎の情景のようなものも感じられはしないでしょうか。5つの楽章から成る「第10番」の真ん中の楽章「Piva」などは、チェロがまるでドローンのようにフルートに絡みつくという、当時のストリート・ミュージックを彷彿とさせるものです。
演奏には、もちろんオリジナル楽器が使われています。しかし、ここでトラヴェルソを吹いているヴェレーナ・フィッシャーの経歴を見てみると、彼女はまずモダン・フルート奏者としての修練を、グラーフやニコレに師事することによって、かなり高いレベルで積んでいたことが記されています。実際、オーケストラの首席奏者としての経歴も輝かしいものがあります。しかし彼女は、ある時なぜかフラウト・トラヴェルソの魅力に取り憑かれ、ハーツェルツェット、クイケン、ヒュンテラーといったそうそうたるトラヴェルソ奏者たちの教えを受けることになりました。そして、1996年から2006年までは、そのハーツェルツェットの後任として、「ムジカ・アンティカ・ケルン」のトラヴェルソ奏者を務めています。
そんな彼女の演奏、普通のトラヴェルソ奏者の演奏を聴き慣れた耳には、かなり奇異に映るのではないでしょうか。おそらく、彼女はモダン・フルートのテクノロジーを、このオリジナル楽器にも適用しようとして、最大限の努力を払っているのでしょう。そこから聞こえてくるのはまさにモダン・フルートそのものの豊かな響きを持った音だったのです。場合によってはビブラートの助けを借りて、さらにパワフルな音を出すことさえ厭いません。低音の力強さなどには、信じがたいものがあります。
そのような試みは、実はオリジナル楽器の黎明期には確かに行われていたことがありました。例えば、こちらでその生々しい現実が味わえるように、当時はまだまだ楽器自体や奏法の研究が完全ではなかったために、今にして思えばなんともちぐはぐな演奏が平然と行われていたのです。それとかなり似たものが、この時代になって現れたことについては、どのようなスタンスで立ち向かえばよいのでしょう。それは、オリジナル楽器に於けるスタイルの幅が広がったと考えるには、あまりに唐突すぎる出来事ではないでしょうか。これは単に、モダン・フルートの奏法を完全に棄て切れていない演奏家の勘違いであることを、切に願いたいものです。少なくとも、この堂々たる音の中では、彼女の楽器の音程の悪さだけが異様に目立ってしまっています。もちろん、そこからはあの時代の香りなど、嗅ぐべくもありません。実際にこちらで、それを嗅いでみられては。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.

2月4日

Resonanser
Swedish Choral Music - New Perspectives
Anders Widmark(Pf)
Cecili Rydinger Alin/
Allmänna Sången
BIS/CD-1714


北欧の合唱のレベルが高いことはよく知られており、多くの合唱団がコンサートに、録音にとその魅力を競っています。この間もスウェーデンのとても素晴らしい男声合唱団「スヴァンホルム・シンガーズ」のCDを聴いたばかりですが、今回は混声合唱団、なんと1830年に創設されたという、ウプサラ大学の合唱団、通称「アルメンナ・ソンゲン」です。尊厳のある名前ですね。同じくスウェーデンが誇る男声合唱団「オルフェイ・ドレンガー」も、やはりウプサラ大学が起源なのですが、こちらは1853年の創設、さらに古い歴史を誇る合唱団ということになります(このアルバムで指揮をしているアーリンが、スンドのあとを次いで「OD」の次期指揮者になるという情報があります)。設立当初はやはり男声合唱団だったのですが、後に混声になったという経緯をたどっているそうです。その歴史あるウプサラ大学の建物の前で撮った集合写真がジャケットにありますが、確かにみんな学生のような若々しいメンバーの顔が並んでいます。
このアルバムは、スウェーデンの作曲家の作品を集めたものですが、そこにちょっと変わったコンセプトが込められています。ここで集められているのは、いずれも本来なら無伴奏で歌われる曲なのですが、そこに幅広いジャンル、中でもジャズを中心に活躍しているピアニスト、アンデシュ・ヴィドマルクが加わって即興的なコラボレーションを繰り広げているのです。それも、「共演」というよりは、まるで「異種格闘技」のような趣、例えば、ステンハンマルの「3つの合唱曲」では、いかにも素朴な民謡のアレンジのような合唱が歌われたあとに、全くテイストの異なるモダン・ジャズっぽいピアノソロが「乱入」してきたり、別の曲では合唱とピアノが同時に全く関係のないことをやって「競い合う」といった場面も登場したりする、といった具合です。
もっとも、こういうアイディアは、別にこのCDで初めて聴いたものではなく、実はさる日本の合唱団が、以前から試みていたものをすでに何度も聴いたことがありました。それは、やはり大学が起源の合唱団であるChor青葉」という団体なのですが、彼らが毎年行っているコンサートの目玉の一つが、そんな、ジャンルの異なるピアニストとの共演なのですよ。特に、最初にその小原孝さんというピアニストが加わった年のステージでは、男声合唱の定番、清水脩の「最上川舟歌」での、まさに「バトル」と言ってもいいようなすさまじいピアノのインプロヴィゼーションには、大きな衝撃を与えられたものでした。
ただ、同じようなことをやっていても、同じ空気を共有してはいないせいでしょうか、ここではそれほどの衝撃は得られませんでした。このような試みは、生の聴衆との交流が命、それが録音で一方的に送られてくる形になってしまうと、おそらくその場では熱かったものが、なんとも醒めて感じられてしまうものなのでしょう。
そんな思いが募るのは、この合唱団の演奏が、なにか突っ込みの足らない、表面的なものに終わっているからなのかもしれません。特に女声には、確かにクリスタルのような透明感はあるものの、そこからはなんの主張も感じられない薄っぺらな響きしか伝わってこないのです。それは「若さ」ゆえの拙さなのでしょうか。確かに、写真の中でカラフルなドレスに身を包んだ彼女たちは、実にあどけない表情を見せています。
ですから、そんな小細工を弄しない、いかにも作品そのもので勝負しているようなもの(そういうのを「前衛的」と言うのでしょう)の方が、よりクールな魅力を感じられることになりました。なかでも、有名な「歌う猿」という男声合唱曲を作っていたサンドストレムの、ちょっとミニマルっぽい「山風の歌」や、いかにもリゲティの亜流といった感じのヒルボルイの「夏至の夜の夢」(まさに「ルクス・エテルナ」のテイスト)あたりがとても聞き応えのあるものに仕上がっています。

CD Artwork © BIS Records AB

2月2日

SCHUBERT
Winterreise
Christoph Prégardien(Ten)
Joseph Petric(Accordion)
Pentaèdre
ATMA/ACD2 2546


今までにシュタイアーとのフォルテピアノ伴奏版、カンブルランとのオーケストラ編曲(もちろん、ハンス・ツェンダーによるもの)版と、ひと味違った「冬の旅」の録音を行ってきたプレガルディエンが、今回もなかなかユニークなアルバムを出しました。伴奏はなんと木管五重奏+アコーディオンという不思議な編成、さらに、曲順がシューベルトの楽譜による順番ではなく、ヴィルヘルム・ミューラーが出版した時の順番に変えられています。
この歌曲集の曲順に別の可能性があったことなど初めて知りましたが、そうなった経緯はこういうことなのだそうです。最初にシューベルトがこの詩集に出会ったのは、ミューラーが雑誌に発表した12編の形ででした。彼はまず12曲から成る曲集として、「冬の旅」を出版します。これが、現在では「第1部」と呼ばれている1曲目から12曲目までの曲です。しかし、後にミューラーはさらに12編の詩を作り上げ、それを続編という形ではなく、以前の12編と一緒にして大幅に順序を入れ替え、24編の詩集として出版したのです。それを見たシューベルトは、すでに出来上がっていた最初の12曲の流れを大切にするために、あえて曲順は変えず、残りの12曲を「第2部」という形で曲集にしたのです。その際に、22曲目の「勇気」と23曲目の「3つの太陽」は、ミューラーの順番とは逆にしたのは、シューベルトなりのこだわりでしょうか。
すっかり「シューベルト版」の曲順に馴染んでしまっているところへ、この「ミューラー版」を聴かされると、確かにちょっとした違和感が無いわけではありません。なにしろ、5曲目の「菩提樹」のあとに、本来ならずっと後、13曲目の「郵便馬車」が聞こえてくるのですからね。さらにショッキングなのは、11曲目、つまりほぼ折り返し点に位置していた印象的な「春の夢」が、最後近くの21曲目にあることでしょう。この2点だけでも、曲集全体に対するイメージが、ガラリと変わって感じられるはずですよ。
そして、今回の伴奏の楽器編成です。編曲を行ったのは、ここで演奏している木管五重奏団「ペンタドル」のオーボエ奏者、ノルマン・フォルゲですが、彼が管楽器だけではなく、そこにアコーディオンを加えたアイディアは、ちょっと微妙な評価を呼ぶことでしょう。もっとも、ツェンダーのぶっ飛んだアレンジを体験していれば、これなどはいともまともなものに思えてくるのかもしれませんが。実際、オリジナルのピアノ伴奏を逸脱することは決してない、それどころか、ピアノではなかなか聞こえてきにくい旋律線が、管楽器によってきれいに歌われているあたりはなかなかのものです。クラリネットは時にはバス・クラリネットに持ち替えて、超低音の不気味さを演出してくれていますし、「郵便馬車」では、ナチュラル・ホルンが素朴な音程でこの伴奏音型の本来の姿を浮き彫りにしています。そして、シューベルトでは21曲目、ここでは17曲目の「宿屋」では、管楽器の4人の男性メンバー(フルートは女性)が、なんと「男声四重唱」を披露してくれているのですから、すごいものです。楽器を演奏する人が合唱をやるというのはなかなかありそうで無いもの、ここで聴かれる素晴らしいハーモニーは、まさに「プロ」の腕前です。
そう、もう一つ、このアルバムのこだわりがありました。それは、オリジナルのキーで歌われている、ということです。本来はテノールで歌うためのキーだったものが、なぜか低音歌手用に移調した楽譜が流布される中で、この曲は例えばバスのハンス・ホッターやバリトンのディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウの渋〜い演奏が最高のものとされてしまっています。テノールのキーが逆にゲテモノ扱いすらされて、奇異な目で見られていたのですからね。しかし、ここでのプレガルディエンの演奏を聴けば、もうそんなことを言う人はいなくなることでしょう。この曲の「暗さ」は、ことさら低い声にこだわらなくとも、充分に伝わるものなのですから。

CD Artwork © Atma Classique (Canada)

1月31日

BACH
Brandenburg Concertos 1-6
Giuliano Carmignola(Vn)
Claudio Abbado/
Orchestra Mozart
MEDICI ARTS/20 56738(DVD), 20 56734(BD)


クラウディオ・アバドによって集められた、イタリアのごく若い音楽家集団「オーケストラ・モーツァルト」が、2007年に行ったバッハの「ブランデンブルク協奏曲」の全曲演奏会の模様が、DVD(そしてブルーレイ)によってリリースされました。
このオーケストラの正規メンバーは若い人たちばかりですが、この「ブランデンブルク」の演奏に際しては、多くのベテランのゲストが参加しています。ソロ・ヴァイオリンとしてはジュリアーノ・カルミニューラ、そしてチェロにはマリオ・ブルネロが加わるという豪華版です。もともとはモダン・オーケストラの団体なのですが、アバドがこの2人を入れたのには、やはりオリジナル楽器のサウンドの追求という意味があったのでしょう。メンバーが弾いている楽器自体はモダンのようですが、弓と、おそらく弦はバロック時代のものを使っているようですし、聞こえてくる音も確かに柔らかなものとなっていました。
それに対して、管楽器は全てモダン楽器となっているのが、面白いところです。ですから、最初の「第1番」では、そんな弦楽器と管楽器の、時代様式を超えた対話を楽しむことになります。そう、ここでアバドが目指したものは、「ピリオド・アプローチ」でもなければ「ロマンティック」でもない、言ってみれば「アバド風」のごちゃ混ぜ様式だったのです。しかし、ホルンやオーボエの超絶テクニックと、弦楽器奏者のしなやかな音楽性によって、そこからは実に生命感あふれる音楽が発散されているのは、驚くべきことでした。これはひとえに、様式を超えたところで自発的な合奏を行っている、才能あふれるメンバーの功績と言えるでしょう。アバドといえば、ほんのキューを出す程度の「指揮」に徹しているのですからね。いや、もしかしたら、彼は単に合奏に合わせて体を動かしているに過ぎなかったのかもしれません。
そんな合奏の楽しげな様子は、「第3番」でよりはっきり見ることが出来ます。メンバーは、お互いににこやかに笑顔を交わしながら的確なアンサンブルを作り上げていきます。チェロ・パートが難しいパッセージを演奏しているときなどは、手を休めて実に暖かな眼差しで見守っていますしね。そして、おそらく彼らは指揮者のことなどは全く眼中にはないのでしょう。
そして、ヴィオラ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、低音という不思議な編成の「第6番」では、ついに指揮者がいなくなってしまいます。合奏を仕切るのはとてもキュートなヴィオラの女性二人、彼女らが造り出す絶妙のグルーヴは、もしかしたら指揮者がいたためにそれまでは前に出てくることがなかったのでは、と思えるほどの、素晴らしいものでした。
「第5番」では、フルートにジャック・ゾーンが登場します。彼の楽器は木管、一見トラヴェルソのようですが、もちろんモダンのベーム管です(彼はトラヴェルソを吹くこともありますが、お世辞にも上手だとは言えません)。ここでは、カルミニョーナとともに、それまで後ろの方で低音を弾いていたチェンバロのオッターヴィオ・ダントーネの流麗なソロが堪能出来ます。イタリアも、今年の冬は暖かいのでしょうか(暖冬ね)。
「4番」と「2番」には、リコーダーのミカラ・ペトリの姿がありました。彼女の楽器も、低音用のキーがついた、まさに「モダン」な楽器ですね。そして、最後に演奏された「2番」では、トランペットの名手ラインホルト・フリードリヒの熱演が光ります。アンコールでこの曲の終楽章が演奏されたときには、本番の時とはうってかわってのハイスピード、しかもペトリはソプラニーノ・リコーダーに持ち替えて1オクターブ上を演奏しているものですから、全く別の曲のように聞こえてしまいます。そんな盛り上がりの主人公はあくまで若い演奏家たち、最初から最後まで指揮者の存在感が恐ろしく薄かったのが妙に印象的なコンサートでした。

DVD Artwork © Medici Arts

1月29日

Serenade to the Dawn
Andrea Lieberknecht(Fl)
Frank Bungarten(Guit)
MDG/905 1540-6(hybrid SACD)


1965年生まれ、「愛の奴隷」という素敵な意味のラストネームを持つドイツの美人フルーティスト、アンドレア・リーバークネヒトは、学生時代に早くもミュンヘン放送交響楽団の首席奏者に就任、さらに1991年にはケルン放送交響楽団の首席奏者となります。1993年から1996年の間は、バイロイトのピットにも入っていました。コンクールの入賞歴も輝かしいもので、1993年の第3回神戸国際フルートコンクールでは、1位なしの2位となります。その時の3位が、あのエミリー・バイノンなのですから、すごいですね(ちなみに、その4年前の第2回では、パユがアランコと1位を分け合っていました)。現在は、ハノーファー音楽大学の教授を務めていますが、このポストはかつてオーレル・ニコレが務めていたもの、先ほどのパユやアランコなど、数多くのフルーティストを輩出した名門スクールなのですね。
彼女がこのアルバムで共演しているのは、1958年生まれのギタリスト、フランク・ブンガルテンです。彼が1987年に最初にこのレーベルに登場したときに共演したのが、彼女の師、パウル・マイゼンだったというのも、なにかの縁なのでしょう。いや、この二人は、偶然出会ったときからお互いの音楽性の中に同質のものを認めていたということですから、運命的な赤い糸で結ばれていたのかもしれませんね。のぞみとめぐみみたいに(意味不明)。
そんな二人のこだわりによって作られたこのアルバムには、20世紀に作られたフルートとギターのための「あまり有名ではない」作品が収められています。ラインナップはウィリー・ブルクハルトの「セレナーデ」、ハンス・ホイクの「カプリッチョ」、マリオ・カステルヌオーヴォ・テデスコの「ソナチネ」、ウージェーヌ・ボザの「ポリディアフォニー」、ホアキン・ロドリーゴのアルバムタイトル曲、そしてエイトール・ヴィラ・ロボスの「花の分布」の6曲です。確かに、この中で広く知られているものは、カステルヌオーヴォ・テデスコの曲ぐらいのものでしょうか。
その中でも、二人が「新しい発見」と言っているのが、ボザの作品です。管楽器のための作品など多くのものが知られているボザですが、ギターのための曲というのは非常に珍しいのだそうです。しかも、この曲はちょっと難解なタイトルの通り、かなりアヴァン・ギャルドなテイストを持ったものでした。気取っている、とか(それは「キザ」)。2つの楽器がそれぞれ独立して主張し合っている、という趣、かなり高度なアンサンブルの能力が要求されそうな曲です。フルートではフラッタータンギングやグリッサンドなどの特殊な奏法も多用されていますし、音楽自体も調性からは離れた冒険がメインとなっています。おそらく、この二人はこういうものが性に合っているのでしょう(その分、C・テデスコやロドリーゴは、ちょっと物足りません)。
そして、その流れからなのでしょう、「花の分布」では、楽譜に指定されている通常のフルートではなく、1オクターブ下の音が出せる「バスフルート」が用いられています。普通の楽器で演奏してもなかなか神秘的な曲なのですが、それがバスフルートのなんともハスキーな低音で演奏されると、それはただごとではない神秘さに変わります。
最後に「Bonus」という作曲家の作品が3曲、のように見えたのですが、実はこれは「ボーナス・トラック」、そのうちの2曲は、ギターとバスフルートによる即興演奏だったのです。そして、最後の1曲は「Surround Walk」というタイトルが付いていますが、なんのことはない、先ほどの「花の分布」を、フルーティストが部屋の中を歩き回りながら演奏しているのですね。それは、言ってみればこのレーベルが採用している極めて特殊なサラウンド・システムのデモンストレーションなのでしょうか。もちろん、これは先ほどのものとは別テイク、装飾音のアーティキュレーションが微妙に異なっています。

CD Artwork © Musikproduktion Dabringhaus und Grimm (Germany)

1月27日

Taverner & Tudor Music II
Paul Hillier/
Ars Nova Copenhagen
ARS NOVA/8.226056


かつて「ヒリヤード・アンサンブル」のメンバーだったことなどは、もはやおぼえている人もいなくなったポール・ヒリアー、現在ではもっぱら合唱指揮者として、その名声を誇っています。彼が指揮をした合唱団からは、極めて高いレベルの音楽を引き出していることが、多くのCDによって知られているのですからね。その大半は、エストニア・フィルハーモニック室内合唱団とのものなのでしょうが、最近になってこんな合唱団の首席指揮者を務めていることを知りました。それは、デンマークにある「アルス・ノヴァ・コペンハーゲン」という、20人にも満たないメンバーの合唱団です。ホットドッグの材料ですね(それは「コッペパン」)。ヒリアーとのコンビが始まったのは2003年からのことですが、彼らは自身のレーベル「ARS NOVA」から今までに2枚のアルバムを出していました。それは、ジョン・タヴァナーのミサ曲を中心にしたイギリス、チューダー王朝の作品を集めたものと、なんとテリー・ライリーの初期の傑作、というより、ミニマル・ミュージックを代表する名曲であるin Cを、合唱で演奏するというショッキングなものでした。つまり、彼らはルネッサンス期のポリフォニーのような「アーリー・ミュージック」と、「ニュー・ミュージック」、つまり現代の音楽とに全く等しい価値観をもって取り組んでいるという、ユニークなスタンスをとっている団体なのです。この「in C」のヴォーカル・バージョンなどは、最近の合唱の録音の中ではひときわ素晴らしい視点を持った快挙なのではないでしょうか。
今回は、「タヴァナーとチューダー王朝」の第2集です。前回は有名な定旋律ミサ「春風のミサ」がメインでしたが、ここでは同じくタヴァナーの代表作「ミサ・グロリア・ティビ・トリニタス」が取り上げられています。そこに、定旋律の元ネタであるプレイン・チャントや、タヴァナーの前後に活躍したイギリスの作曲家たちの曲が散りばめられている、という構成です。
このようなレパートリーは、かつてはイギリスの団体の独壇場でした。そのさきがけは「プロ・カンツィオーネ・アンティクヮ」や、それこそ「ヒリヤード・アンサンブル」のような、すべて男声、あるいは教会の聖歌隊(「キングズ・カレッジ合唱団」など)のように、少年がトレブル・パートを歌っているものでした。そのような流れに変化を与えたのが、女声、といっても、まるで少年のようなノン・ビブラートの声を自在に駆使できるシンガーが加わった「タリス・スコラーズ」です。彼らは、この時代の合唱曲が現代人にも共感を持って受け入れられるようなスタイルを確立し、そこからほぼ完璧な演奏を紡ぎ出していたのです。
この「アルス・ノヴァ・コペンハーゲン」は、そんなイギリス合唱界の一つの成果である「タリス」のスタイルを、継承したもののように思えます。しかし、「タリス」が1984年に録音した同じ曲のCD(GIMELL)と比較してみると、この「アルス・ノヴァ」の演奏には、精密なハーモニーと表現力はそのままに、そこに北欧ならではの豊かなソノリテが加わっていることが分かります。中でもソプラノ・パートの、完全にノン・ビブラートでありながら、その中に力強さとさらには「色気」のようなものを含んだ音色には、とてつもない力を感じることが出来るはずです。このアルバムのライナーノーツを、「タリス」のメンバーだったサリー・ダンクリーが執筆していることからも、彼らの志はうかがえます。
タヴァナーの織りなすポリフォニーの綾は、この卓越したメンバーによって極上の輝きを放っています。そんな中に突然、少し時代が進んだウィリアム・バードの「Christe qui lux es et dies」というホモフォニックなスタイルの音楽が現れると、とても新鮮な驚きが待っています。まさにプログラミングの妙、素晴らしい録音と相まって、このアルバムの魅力をさらに高めています。

CD Artwork © Naxos Global Logistics GmbH (Germany)

おとといのおやぢに会える、か。


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