寒気の歌。.... 佐久間學

(10/3/9-3/28)

Blog Version


3月28日

PRAETORIUS, SCHEIDT
Der Wächter auf der Zinne
Dominique Visse(CT)
Katharine Bäuml/
Capella de la Torre
COVIELLO/COV 20907(hybrid SACD)


北ドイツのハレという街は、決して雨が降らないのと(「晴れ」ね)、あのヘンデルの生地として有名ですね。そのヘンデルはまだ生まれてはいなかった1615年に、この街は新しい行政官を迎えるにあたってのお祝いでわきかえっていました。町中のいたるところで、そう、まるで仙台市の定禅寺ストリート・ジャズ・フェスティバルのように、歓迎のための音楽が演奏されたのだ、と言われています。その時に演奏されたであろう音楽を再現したものが、このSACDです。
その時にハレの音楽を仕切っていたのは、ヴォルフェンビュッテルの宮廷楽長で、当時は非在任でこの街の宮廷楽長も務めていたミヒャエル・プレトリウスと、後にその地位を継ぐことになるザミュエル・シャイトでした。ここで演奏されているのは、その2人の曲を集めたもので、「胸壁の夜警」というタイトルが付けられています。もちろん、それらの曲が実際に演奏されたなどという証拠はどこにもないのですが、なんたって「架空」のレパートリーなのですからそんなことは別に気にすることはありません。
ここには、プレトリウスがヴェネツィアで学んだ、ガブリエリ風のスペクタクルな典礼音楽の技法がまざまざと反映されています。さらに、そこにはプロテスタント音楽の要素も加わり、この地ならではの華やかさのなかにも渋さも併せ持つ音楽を聴くことが出来ます。
このアルバムの最大の魅力は、声楽担当として参加しているドミニク・ヴィスでしょう。実を言えば、最近の彼の声を聴くために買ったようなものなのですが、彼と、「カペル・デ・ラ・トーレ」という「古楽器」のアンサンブルがかもし出すサウンドを耳にしたときに、あるショッキングな体験が待っていました。最初のプレトリウスの「Jubilate Deo」が聞こえてきたときに、歌っているのはヴィス一人だけのはずなのに、それにポリフォニックに絡むもう一つの声部を歌っている「歌手」の声が確かに感じられたのですよ。実際は、それはツィンクで演奏されていたのですが、インストであるはずのそのパートから、はっきり「歌詞」までが聞こえてきたような気がしたのですね。
これは、ツィンクやショーム、そしてサックバットといった、この時代にしか存在していなかった楽器(「古楽器」という言葉は、本来そういう使われ方をするものです)たちの持つ音が、いかに人間の「声」と溶け合っていたものなのかを、否応なしに認識できた瞬間でした。例えばヴェネツィアの音楽家たちの楽譜を見ると、そこには声楽のパートしか書かれてはいないのですが、実際の演奏にあたってはなんの不自然もなくそれらのパートを楽器で演奏したりしています。「楽器」と「声」が同等の立場で寄り添うというのはこういうことなのか、という、新鮮な驚きが感じられたものです。もちろん、これはヴィスの「声」が、楽器と対等に渡り合えるだけの存在感を持っていた、ということにもなるのでしょう。
さらに、SACDのスペックを生かし切った素晴らしい録音が、それを助けていることも見逃せません。各パートの「楽器」や「声」のそれぞれが、見事に浮き上がって聞こえてくるのはさすがです。シャイトの「戦いのガイヤール」では、左右で呼び交わすツィンクの陰で、レガールの繊細な音が手に取るようにはっきり聞こえますよ。レガールというのは、小さなリード管が使われた携帯用のオルガンのことですが、最後にあのバッハも用いた有名なコラール「Wachet auf, ruft uns die Stimme」をソロで演奏していますから、そこでなかなか聴く機会のないその鄙びた音色を堪能できることでしょう。そして、それに続くのが、プレトリウスのヴェネツィア様式満載の七声のコラール、まさに「胸壁の夜警」さながらのにぎやかな世界が繰り広げられます。
ほんのひととき、ドイツ・ルネサンスの極上の響きを味わえる素敵なアルバムです。

SACD Artwork © Coviello Classics

3月26日

TOGNI
Lamentatio Jeremiae Prophetae
Jeff Reilly(BCl)
Lydia Adams/
Elmer Iseler Singers
ECM/476 3629


カナダの作曲家、ピーター・アンソニー・トーニという人の「預言者エレミアの哀歌」という作品です。いわゆる「エレミア哀歌」のことですが、有名な旧約聖書をテキストにした古来から多くの作曲家によって作られてきた合唱曲に、この、2007年に初演された新しい作品が加わることになりました。
とは言っても、この曲は「合唱曲」というカテゴリーではなく、「バス・クラリネット協奏曲」という呼ばれ方を望んでいるようです。作曲者のトーニは、バス・クラリネット奏者のジェフ・ライリーとともに、「サンクチュアリー」というインプロヴィゼーションのユニットを結成(トーニはオルガンを担当、もう一人チェロのメンバーもいます)しているのですが、そのライリーから「協奏曲」の委嘱を受け、このような、無伴奏混声合唱とバス・クラリネットのソロというユニークな編成の「協奏曲」が出来上がったのです。
旧約聖書の「哀歌」は、全体で5つの章から成る長大なテキストですが、トーニはそれぞれの章から適宜ピックアップして1曲ずつ、したがって5つの曲を作りました。それはまず「合唱曲」として、合唱団によって歌われます。ここで演奏している20人ちょっとのアンサンブルは、ソロのバス・クラリネットと張り合うようなことはせず、あくまで「背景」に徹しているかのように見えます。そう、この、居るか居ないか分からないほどの存在感が、おそらくこの曲には求められていたものなのでしょう。あくまで主役はバスクラ、合唱はそれを引き立てるだけの、まさに「バック・コーラス」という役割なのでしょう。
もちろん、それは決して、合唱団の存在を貶めるものではありません。それどころか、そのような立場を貫くのは、実はかなり高度なスキルが求められもするはずです。例えば20,000Hz以上の高周波のように、誰もその存在には気づかなくても、それがなくなってしまうと明らかに違いが分かってしまうような、まるでCDSACDの違いを産む要素のようなものなのかもしれません。
しかし、このカナダの合唱団は、どうやらそこまでの境地に達するには、あまりにも合唱団としてのプライドが高すぎたようです。というより、なんとしても自らの主張を伝えたいという、ごく当たり前の願望を消してしまえるほどの、作品に奉仕しようとする意識、あるいはテクニックは、残念ながらこの団体には備わってはいなかったのでしょう。いや、もしかしたら、歌詞を持った合唱に「協奏曲」のバックをゆだねるという、この作曲家の発想にそもそも無理があったのかも。ただ、ちょうど真ん中に位置している3曲目の「Silentio」だけは、合唱とソロが対等に渡り合えていて、それほどストレスを感じることはありません。
そんな、ちょっといびつな成り立ちにはあまり影響されていないかのように、ソロのライリーは伸び伸びとしたインプロヴィゼーションを披露してくれています。冒頭の中東風の旋法から生まれる哀愁を帯びたテーマから、心はすでに「哀歌」の世界へ誘われます。なかなかソロを吹く現場に居合わせることはないはずですが、同じような形状を持ちながら、ジャズでしか通用しないキャラクターのテナー・サックスとは異なり、ジャズの「アドリブ」でも、そして「現代音楽」の「即興演奏」でもなんの違和感もなくこなすことの出来るこの楽器は、実に新鮮な刺激を与えてくれます。最後に、まるでピッコロのような音が聞こえてきたときには、この楽器の持つ知られざる可能性をまざまざと見せつけられた思いでした。
合唱のパートはきちんと書いているのでしょうが、ソロに関しては「作曲家」としてのトーニがどの程度まで曲作りに関わっていたのかは、当人でない限り分からないことなのでしょう。

CD Artwork © ECM Records GmbH

3月24日

SCHUBERT
Symphonies Nos 8 & 9
Thomas Dausgaard/
Swedish Chamber Orchestra
BIS/SACD-1656(hybrid SACD)


シューベルトの「8番」と「9番」のアルバムです。もちろん、ここでは「8番」=「未完成」、「9番」=「大ハ長調(いわゆる『グレイト』」)という割り振り、これは、かつては「7番」と呼ばれていた、全4楽章のスケッチだけが残されているホ長調の交響曲が新全集では削除されたために、以前の「8番」と「9番」がそれぞれ一つずつ前に来て「7番(未完成)」と「8番(グレイト)」というように名前が変えられたのだ、という「現在の常識」には真っ向から刃向かう表記です。しかし、こんな、演奏家の間ではもはや「常識」と思われていることが、ことレコード業界では全く通用しないことに、今さらながら驚いているところです。なにしろ、現在市販されているCDで、この「正しい」表記がなされているものは皆無なのですからね。せっかく新しい番号を制定して、みんながそれに馴染むように努力し、その成果が最近になってやっと出てきたな、と思っていたところなのに、この業界ではそんな動きは見て見ぬ振り、ひたすら今までの間違った表記を貫くことに終始していたのですね。なんということでしょう(金子建志などは、著書の中−音友刊「交響曲の名曲・1 」132ページ−でこんな愚行になんとも不可解な正当性を主張していたりします)。
この件に関しては、ライナーには「この演奏はベーレンライター社から出版された新シューベルト全集に基づいているが、実用的な理由から、今までの番号を残すことにした」という「言い訳」が述べられています。いくら「正しい」番号を使おうと思っても、それを許さないのがレコード業界。この「言い訳」には、そんな悔しさのようなものがにじみ出ているようには感じられませんか?
ですから、ダウスゴーたちは、演奏によってこの旧態依然たる業界、そして、それに甘んじているリスナーに対して、ある種の挑戦を叩きつけているのでは、などという邪推すら生まれてきてしまいます。それほどに、これはスリリングな仕上がりとなった演奏ですよ。
そもそも、すべての反復を忠実に行っているにもかかわらず、「7番」と「8番」が1枚のCDにカップリングされているのでも分かるとおり(79分を超えたものを「タップリング」といいます。ウソですが)、テンポ設定はかなり早めです。特に「7番」ではそれが顕著。冒頭のチェロとコントラバスのパートソロは、そんな流れを予想させるようないともあっさりとしたもの、よくあるおどろおどろしい気配など全く感じられません。弦楽器のビブラートも控えめで、メリハリのきいた胸のすくような演奏が繰り広げられます。
「8番」でも、「グレイト」などといういかにも壮大なイメージを植え付けられるような呼称(それに惑わされている演奏家は数知れず)には敢えて逆らった、どちらかというと「壮大」の反対語である「卑小」とも言えるようなアプローチが取られています。曲の始まりを告げるホルン・ソロからして、なんともいじけた風情が漂ってはいませんか?第2楽章は、今まではなんとものどかなオーボエ・ソロだと思っていたものが、なんともどす黒いイメージで迫ってきます。付点音符を強調しているために、なんだかハーケンクロイツの腕章を着けた人たちの行進のように聞こえるのですよ。そうなると、終わり近くの減七の和音のあとのゲネラル・パウゼや、それに続くチェロの不気味さなどの意味が、自ずと変わって聞こえてくるはずです。
スケルツォでは、弦楽器の2小節目の「くさび形」のアクセントを、テヌートと解釈することによって、なんとも間抜けな、ということは、極めて刺激的な印象を与えてくれます。同じ音型の管楽器との対比に、やはり深い意味を感じることだって、可能です。

同じようにフィナーレのファンファーレの意味の違いを弦と管とで際立たせているのにも、注目すべきでしょう。恐るべきシューベルトです。

SACD Artwork © BIS Records AB

3月22日

Broadway without Words
Richard Hayman/
his Orchestra
NAXOS/8.578039-40


リチャード・ヘイマンとは、なんとも懐かしい名前です。彼の名前を付けたオーケストラは、主にポップスの世界でよく聴かれていたものでした。起伏に富むアレンジで(「平板」ではなかったと)、例えば「アンディ・ウィリアムズ」などのコンサートでバックを務めるといったように、当時の大物アーティストからは絶大なる信頼を得ていた指揮者であり、編曲者でした。
クラシックのフィールドでも、あのボストン・ポップスのアレンジャーとして、アーサー・フィードラーを支えていたそうです。ということは、おそらくルロイ・アンダーソンの後任者だったのでしょう。彼の編曲は、フィードラーのあとのジョン・ウィリアムスの時代でも使われていたといいますから、かなりのクオリティを持っていたのでしょうね。
今回の、有名なミュージカルを集めた2枚組のアルバム、いつもながらのこのレーベルのいい加減さのおかげで、いったいいつ頃録音されたものなのかは全く分かりません。いやしくも、コンピレーションの「マルP」を表示しているのですから、きちんとオリジナルのデータを明記するのはレーベルとして最低限のモラルだと思うのですが、どうでしょう。いや、そんなことも出来ないから、日本語のタスキでも「歌のないブロードウェイ」などというしょうもない「邦題」を付けてしまうのでしょうね。「歌詞」がないだけで、「歌」は、このアルバムには充ち満ちているというのに。まあ、ヘイマンは1920年生まれですから、おそらくもうこの世界からはリタイアしているのでしょうが、1980年代に作られた「オペラ座の怪人」や「レ・ミゼラブル」が収録されているのですから、それほど古い録音ではないはずです。
ここでは、全部で14の作品が登場します。それはもう名作揃い。というのも、ミュージカルの本体は知らなくても、その中のナンバーがカバーされて別な形で耳にする機会が多かった、ということでしょう。中でも、全部で5つもの作品が収録されているロジャース/ハマースタインのチームによるものなどは、もう「ミュージカル」という範疇を超えて「愛唱歌」と化しています。何のかんのといっても、やはり彼らは偉大なソングライターだったのでしょう。
ヘイマンの編曲は、単にオリジナルをオーケストラで華麗に響かせる、といった次元をはるかに超えた、まさに彼自身の「作品」となっています。おそらく、彼自身の中では、素材であるミュージカルを咀嚼し、必要なもののみを選び出してそれらを最も効果的に聴かせるように再構築するという作業が、常に行われていたのでしょうね。まず導入部では、オリジナルを超えるほどの、「腕によりをかけた」凝ったアレンジが披露されます。そして、数々のメロディアスなナンバーをつないでいき、最後にはリズミカルに盛り上がって終わる、という、まさに「黄金の法則」ですね。「サウンド・オブ・ミュージック」では、映画化の際にカットされた「How Can Love Survive?」というエルザ(だれそれ?・・・トラップ大佐の婚約者ですよ)のナンバーが入っているのも、そんな彼の価値観のあらわれなのでしょう。
そんなヘイマンの音楽、あくまで「楽しみ」として味わうには、申し分のない仕上がりになっています。しかし、例えば「ウェストサイド・ストーリー」のように、オリジナルの完成度があまりに高すぎるためにそれが体の芯まで染みついているような作品の場合は、そのような効果を優先させるための音楽の改竄に対しては強力な拒否反応が生まれることになってしまいます。それは、バーンスタインのチームが作り上げたものが編曲までも含めて不動の力をもっていたことを、はからずも気づかせてくれたことにもなるのでしょう。ほんと、「クール」や「アメリカ」といった鮮烈そのものの印象を持っていたはずのナンバーが、ちょっと甘めの編曲が施されただけで、これほどまでに陳腐で軟弱なものに変わってしまうとは。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd

3月20日

MOZART
Symphonies 29, 31, 32, 35 & 36
Charles Mackerras/
Scottish Chamber Orchestra
LINN/CKD 350(hybrid SACD)


1986年から1990年にかけてTELARCにプラハ室内管弦楽団によって交響曲全集を録音していたマッケラスが、今度はLINNに、スコットランド室内管弦楽団と一緒にまた交響曲の録音を始めています。前に後期交響曲集がリリースされていましたが、これはそれに続く第2弾です。今回は29番から36番までとなっていますが、多少抜けているのは「全曲」にはこだわっていないからなのでしょうか。ただ、「32番」などという、殆ど聴いたことのないようなものまで入っているのは、彼なりのこだわりなのでしょうか。
こだわりといえば、3つの楽章しかないはずの「31番」で「4つ」の楽章を演奏しているのも、マッケラスならではのことでしょう。「パリ」という愛称でも分かる通り、この曲はパリのコンセール・スピリチュエルの支配人、ジョセフ・ルグロから依頼されて作ったものなのですが、初演の際に第2楽章のアンダンテがルグロには不評だったので、別のアンダンテを作って差し替え、再演の時にはそれを演奏したのです。つまり、この曲には「第2楽章」が2種類あるのですが、それを両方とも収録しているのです。さらに、第1楽章も自筆稿と最初にパリで出版された初版とでは、いくつかの箇所で異なっています(例えばティンパニとトランペットのリズムなど)が、マッケラスは通常は演奏されないこの「パリ初版」によって演奏しています。これらの第1楽章と第2楽章の異稿は、ベーレンライターの新全集でも「付録」という形で最後に掲載されていますから、実際に楽譜を見ながら確認することは簡単です(さっそくスコアを買いに行こう)。
この「付録」にある第2楽章は、さっきの「パリ初版」に採用されていたバージョンなのですが、3/4拍子、58小節のこの楽章は、まず演奏されることはありません。録音でも、オリジナル楽器による最初の交響曲全集であるホグウッド盤にかろうじてあるぐらいなのですが、マッケラスは以前のTELARC盤でもすでにこの2種類の「アンダンテ」を録音していました。ただ、実際は普通に演奏される6/8拍子、98小節の「アンダンテ」の方も、最初は「アンダンティーノ」の表記だったものを、細かいところを手直しして今の形になったものなのです。TELARC盤のライナーに彼の言葉が引用されていますが、いくらこだわりがあってもさすがにその「アンダンティーノ」を演奏することはせず、「オリジナルのうちの2番目の稿」を選んだと言っています。そう、この時点では、この普通に演奏されるアンダンテの方が「オリジナル」、つまり、初演の時に演奏されたものであると、マッケラスでも信じていたのですね。
ところが、1980年代の研究によって、最初に演奏された「オリジナル」は実は「パリ初版」にあるアンダンテの方で、現在一般的になっているアンダンテは、後に作られ、再演で差し替えられたものであることが明らかになったそうなのです。にわかに脚光を浴びることになったこのかわいらしいアンダンテ、果たしてこれから「オリジナル」として扱われるようになることはあるのでしょうか。
ちなみに、このLINN盤の表記では、6/8拍子の方の第2楽章は「アンダンティーノ」となっていました。もしかしたらマッケラスは改訂前の形(そのチェックポイントは、TELARC盤のライナーに書いてあります)で演奏しているのか、と期待したのですが、聴いてみたら普通の形、それはただのミスプリントだったのですね。
マッケラスの基本的なアプローチはTELARC盤とは変わりませんが、もはやチェンバロを加えることはなくなっています。さらに、演奏にはより深い重みが感じられるようになっています。何よりも、録音がまさに雲泥の差、これぞSACDという、ゾクゾクするほどの生々しさには圧倒されてしまいます。「29番」で弱音器を付けて演奏される第2楽章の弦楽器などを聴いていると、至福の世界に漂っているよう。

SACD Artwork © Linn Records

3月18日

BEETHOVEN/Symphony No.5
VIVALDI/The Four Seasons
Wojciech Rayski/
Polish Chamber Philharmonic Orchestra
TACET/L164(LP)


Daniel Gaede(Vn)
Polish Chamber Philharmonic Orchestra
TACET/L163(LP)


LPは、CDなどとは比べものにならないほど良い音であることに今さらながら気づかされているところです。何度も繰り返しますが、少し前に聴いた「リング」のテスト盤TESTAMENT)の素晴らしさには感動すら覚えたものです。しかし、その「感動」を期待してECMから出ていた「最近の」LPを買ってみたら、プレス技術の退化はまさに目を覆いたくなるほどだったんですね。
ただ、そのECM盤は普通の規格のLPだったので、やる気になればもっとちゃんとしたプレスも出来るのでは(現に、TESTAMENTでは出来てます)、と思っていたら、ドイツのTACETというレーベルが、えらくマニアックなLPを出しているのを見つけました。なんでも「チューブ・オンリー」というコンセプトが貫かれているのだそうです。もちろん、名古屋や岐阜の人でなくても、買うことは出来ますよ(それは「中部オンリー」)。
この「チューブ・オンリー」では、LPの録音から製造まで、すべての課程で「真空管」を使っているのだそうです。まず、マイクはノイマンの「M49」という1949年に作られた「真空管マイク」を2本使います。もちろんミキサーやアンプも「真空管」、そして、記録媒体はテレフンケンの「M10」という、1950年代に作られた「テープレコーダー」です。もちろん、レコードに溝を刻むためのカッティング・レースを駆動させるアンプも、真空管アンプです。つまり、徹底的に「アナログ」にこだわった録音、そしてマスタリングということになりますね。
いや、この「こだわり」は、レーベル内にとどまらず、それを買って聴こうというユーザーにも向けられます。「あなたが真空管アンプをお使いならば、このレコードを本当に楽しむことが出来ます」ですって。ま、その後に「でも、どんな装置でも特別な魅力は感じられますが」とは言ってますが、なんか腹が立ちますね。そこまで言うのなら、普通の「トランジスター・アンプ」で、その「魅力」とやらを味わってみてやろうではないですか。
まず聴いたのは、ヴィヴァルディの「四季」です。確かに、とても柔らかな音、柔らかすぎて、トゥッティではちょっと甘くなっていますが、ソロだけはかなりクリアに聞こえます。教会のようなところで録音しているようで、まわりに漂う雰囲気感が、まさに「真空管」という暖かさですね。特に真ん中のゆっくりした楽章では、その雰囲気がえもいわれぬ「魅力」となって伝わってきます。遠くにあるはずのチェンバロも、くっきりと聞こえてきます。演奏もかなり現代的(というのは、「古楽」の手法も取り入れて、ということですが)で適度の緊張感を持ったもの、確かに、これはいつまでも聴いていたいと思わせるような「魅力」を持ったものでした。
もう1枚、もう少し編成の大きな「運命」も聴いてみました。しかし、ここではマイク2本だけという「ワンポイント」のセッティングが、ちょっと無理があるような印象を持ってしまいます。なにしろ楽器のバランスが悪いのですよ。特にホルンだけが異様に目立っていて、その分木管が弱くなってしまっています。かと思うと、第2楽章ではマイクの場所を変えたのでしょうか、木管が1楽章とは全く違った音像で聞こえてきたりしていますよ。フィナーレの入りなども、明らかにフェーダーを操作したように、音圧が一段下がっています。そんな録音以前に、何よりもこの指揮者の作る音楽が、ドライブ感の全くないものなのですからね。
そして、プレスに関しても、ECMほどではありませんがTESTAMENTには到底及ばないお粗末なものでした。一応「180gの重量盤」などと謳ってはいるのですが、カッティング・レベルが低いためにサーフェス・ノイズがかなり目立ちますし、スクラッチはもう絶え間なし、このレーベルは、客にアンプの指図をする前に、もっと他にやることがあったはずです。

LP Artwork © TACET

3月16日

Shape of My Heart
Katia Labéque
KML/KML 2119


「ラベック姉妹」という、文字通り2才違いの姉妹によるピアノ・デュオがデビューしたのは、もうかなり昔のことになります。難曲を軽々と演奏する高度なテクニックと、何よりもその美しすぎる容姿によって、たちまち人気者になってしまいましたね。最近はさすがに寄る年波には勝てず(姉のカティアは、確か今年還暦を迎えるはず)第一線からは退いたのかな、と思っていたら、どうしてどうして、なんとこんな彼女たちのレーベル「KML」(もちろん、カティァ&マリエル・ラベックの頭文字)を立ち上げて、今まで以上に精力的に活動していたではありませんか。なんだか懐かしくなってしまい、とりあえず、お姉さんのカティアがクラシック以外のジャンルのミュージシャンと行ったコラボレーションが集められているこのアルバムを買ってみました。
ジャケット写真を見ると、とても「還暦」とは思えない若々しさ、ちょっと驚いてしまいます。しかし、そんなことに驚いていてはいけません。このジャケットは両側に見開きになっていて、それを開くと、なんとカティアの全身のポートレートが現れるのです。ノーブラの上に羽織ったシャツのボタンは外され、その豊かな胸が露わに・・・かな、まあ、実際に見てみるのが一番、それは何も知らないで見たらピチピチギャルの写真集にあるようなショットなのですからね。
この姉妹、派手で積極的なカティアと、少しおしとやか風のマリエルという、一見対照的な性格のように言われていませんでした?私生活でも、マリエルの方は確か堅実にビシュコフあたりと結婚していたはずですが、カティアときたら一時ギタリストのジョン・マクラフリンと親密な関係にあったものの(「を並べて不倫」)、今はどうなってしまっているのでしょう。このアルバムで共同プロデュースを手がけているやはりギタリストのダヴィッド・シャルマンあたりが、最近のボーイフレンドなのでしょうか。まさかスティングでは。
そのスティングをはじめ、さまざまな人との共演が収録されているこのアルバム、やはり、最も期待していたのは、チック・コリアとかハービー・ハンコックといった偉大なピアニストとのデュオでした。この人たちとなら、かなりエキサイティングなセッションを繰り広げてくれるのではないか、と。しかし、聴いてみるとそれはなんとも生ぬるい、焦点のぼやけたものでしかありませんでした。そもそもこのアルバム全体を支配しているのが、いかにもゴージャスに迫ってくる「ユルさ」なのですね。それは、彼女のソロでサティの「グノシエンヌ」が演奏されたときに、なんともベタベタな甘ったるいテイストが産み出されていたあたりで気づくべきでした。しかも、このデュオでは、チックなりハービーがいったいどちらから聞こえてくるのかが表記されていないものですから(おそらく、右にいるのがカティアなのでしょうが)、この退屈さを作っているのがどちらの責任なのかが、良く分からないのですよね。ただ、もう一人のピアニスト、ゴンサロ・ルバルカバとの演奏では、「ベサメ・ムーチョ」をアグレッシブに解体してくれて、そこそこ満足は出来ましたが。
最悪だったのは、シャルマンくんとの「ビコーズ」。ご存じ、「アビー・ロード」B面2曲目の名曲のカバーですが、なにしろシャルマンくんのボーカルがヘタ、それにからむカティアのピアノも、変に難しいことをやっていて、オリジナルの味をぶっ壊しています。そして、シャルマンくんのオリジナル、「パープル・ダイアモンド」の陳腐なこと。
結局、アルバム中最も面白かったのは、カティアとパーカッション(?)とのユニット「カティア・ラベック・バンド」のインプロヴィゼーションでした。大昔に聴いた彼女たちとシルヴィオ・グァルダによるエキサイティングなバルトークの残渣を、そこからは確かに感じることが出来ましたよ。

CD Artwork © KML Sonic Invaders

3月14日

BACH
Magnificat
Maria Keohane, Anna Zander(Sop)
Carlos Mena(Alt), Hans-Jörg Mammel(Ten)
Stephan MacLeod(Bas), Francis Jacob(Org)
Philippe Pierlot/
Ricercar Consort
MIRARE/MIR 102


最近「ラ・フォル・ジュルネ」などで何かと評判の、フィリップ・ピエルロ率いるリチェルカール・コンソートのバッハです。「マニフィカート」と、BWV235の「ミサ・ブレヴィス」、そして、それぞれのテーマに関連したオルガン曲がカップリングされているという、粋なアルバムです。
もっと「粋」なのは、録音風景などが収められたDVDが一緒に入っていること、いわば「メイキング・ビデオ」ですが、これからはこんな形態も増えていきのかもしれませんね。というか、実は以前にもヤーコブスの「イドメネオ」でも、同じように録音現場の映像がくっついてきたので、まずそれを見てみたことがありました。しかし、なぜかそのDVDを見てしまったら、本編のCDを聴く気がすっかり失せてしまったということがあったので、こういう「サービス」も痛し痒しですね。
このDVDでは、幸いそんなことはありませんでした。それどころか、ぜひきちんと「製品」となった演奏を聴いてみたいと思えるようになったのですから、これは大成功、ヤーコブスの場合とどこが違うのか、それは指揮者の顔、でしょうか(笑)。いや、初めて見た「動く」ピエルロの指揮ぶりは、とてもナチュラルな感じを与えられるものでした。もともとはガンバ奏者だったせいなのでしょうか、指揮の「道具」にはそんなにこだわらず、鉛筆やボールペンを指揮棒代わりにして指揮をしている、というあたりがなにか親近感が湧いてくるところです。レコーディングだけではなく、ちゃんとしたコンサートのシーンもあるのですが、そこでも「鉛筆」での指揮を貫いているのですからね。そういえば、あのドミニク・ヴィスも、来日したときの映像を見ると鉛筆でアンサンブルの指揮をしていましたね。
レコーディングの時のエンジニアとのやりとりを聞いていると、表現とか解釈といったことではなく、もっぱらソリストのバランスなど、テクニカルな話題に終始しているのが印象的でした。もう演奏に関しては練り上げられているので、こんなところでジタバタする必要などさらさら無かったのでしょうね。これも、ゴタクを並べ立てていたヤーコブスのスタッフとは対照的です。
その中で、素晴らしいアルトの声が聞こえてきたので、画面を見てみたら、それは男声アルトでした。このカルロス・メーナという人は、どう聞いても「女声」、このDVDがなかったら気づかないところでしたね。
ソリストがこの人を含めて全部で5人、それが声楽パートの全てです。そう、これは最近殆ど「主流」となったかに見える、いわゆる「OVPP」による演奏です。ただ、例えばクイケンあたりは楽器奏者も「1パート一人」という絞りきった編成をとっていますが、ここでは弦楽器は複数の、というか、かなり大人数のメンバーが集められています。4-4-3-2-1ぐらいでしょうか。ですから、全体的にはかなりふくよかな響きが得られていて、この編成にありがちな違和感は全くありません。テノールのアリア「Deposuit potentes」のバックのトゥッティのヴァイオリンなどは、録音会場である教会の豊かな残響とも相まって、いともゆったりとした趣を与えられるものでした。
そう、ピエルロの音楽がかもし出すその「ゆったり感」が、全ての点で安心して身を任せられるという快感をもたらしているのですよね。このあたりに、なにか新しい(というか、実際には「古い」と切り捨てられた)波を感じることも可能なのではないでしょうか。
写真を見ると、第2ソプラノのツァンダーはかなり大きなお腹をしています。この録音が行われたのが2009年の4月ですが、その1ヶ月後にこのチームが来日し、「ラ・フォル・ジュルネ」でこの曲を演奏したときには、このパートだけ別の人に代わっていました。こんな贅沢な「胎教」を受けて、さぞや健やかなお子さんがお生まれになったことでしょう。

CD Artwork © Mirare

3月12日

PATTERSON/Little Red Riding Hood
BLAKE/The Snowman
Chris Jarvis(Nar)
David Parry/
London Philharmonic Orchestra
LPO/LPO-0015


かつて、このレーベルの統一されたジャケットデザインに感心して、こんなコンテンツを作っていました。その中で、ひとつだけその「特徴」、つまり、★のマークがどこにも見当たらないものがあったのですが、おそらく、それは著作権の対象であるイラストをそのままジャケットに使っているために、そんな「お遊び」は許されないのだろう、と思っていました。しかし、ネットの画像ではなく、現物を見てみれば、もしかしたら思いもよらないところに★があるのではないか、という興味だけで、このCDの現物を購入してみたのですよ。やはり、こういうことは徹底的に調べて納得しないことには、安心して眠ることも出来ません。
結果的には、予想通り、どこにも★は見当たりませんでした。ただ、現物を手にして初めて分かったのは、このアイテムだけはこのレーベルの他のものとは全く異なるパッケージになっていて、通常のケースではなくデジパック、それをスリーブで覆っていて、両面にそれぞれ「赤ずきんちゃん」と「スノーマン」のオリジナルのイラストがデザインされているということでした。「両A面」ってやつですね。
「スノーマン」の方は、なじみ深いレイモンド・ブリッグスの「Snowman」という、文字の全くない絵本をアニメ化したときに、ハワード・ブレイクが作ったサウンド・トラックが、そのまま演奏されたものです。というか、かつて絵本展に行ったときにこの絵本のコーナーがあって、そこでそのサントラのフルスコアが売られていた、ということがありましたから、もはやこの曲自体はそれだけでかなり需要のあるものだったのでしょう。このCDでは、映像がないのを補うために、ブレイク自身が作ったテキストが、ここでのナレーター、クリス・ジャーヴィスによって語られますので、もしアニメを見たことがある人は、その時の情景が拙いヒヤリング能力でも、まざまざと蘇ってくることでしょう。確かに、エンディングなどはホロリとさせられますよ。
もうワンセットは、ポール・パターソンが音楽をつけた「赤ずきんちゃん」と「3匹のこぶた」です。しかし、これがなかなかのくせ者でした。そもそも、ジャケットの赤ずきんちゃんは、あんまりかわいくありませんよね。舌なめずりをしている狼を怖がるのではなく、なんだかバカにしているようには見えませんか?この絵柄が、なんだかどこかで見たことがあると思ったら、これを描いたクウェンティン・ブレイクという人は、例の、映画にもなった「チャーリーとチョコレート工場 Charlie and the Chocolate Factory」(なぜか、原作の邦題は「チョコレート工場の秘密」)の作者、ロアルド・ダールの挿絵を一手に引き受けていた人なのですね。ですから、ここで使われているテキストも、そのダールが書いた問題作「へそまがり昔話 Revolting Rhymes」(もちろん、挿絵はブレイク)が元になったものだったのですよ。
ご存じでしょうが、これはそんな「昔話」のパロディ、というか、とことんブラックに迫ったとんでもない物語ばかりです。ですから、「赤ずきんちゃん」も、非常に分かりやすいパターソンの音楽によって、まるで「ピーターと狼」のような幸せな世界が広がるのか、と思って聴いていると、いきなり赤ずきんが「ズロースの中からピストルをとりだし」たりするのですから、驚きます。どう見てもお子さまがターゲットのようなアルバムですが、これはどちらかというと「大人向け」の企画、あるいは、イギリス人ならではのきつ〜いブラック・ユーモアの産物なのでしょうね。
「3匹のこぶた」にも、なぜかこの「ピストルを持った赤ずきんちゃん」が登場、助けられたと思っていたこぶたは、バッグにされてしまうのですから、すごいものです。
★を付けなかったのは、実際に聴いてみてそんなぶっ飛んだ内容を味わわせるための、巧妙な「罠」だったのかもしれませんね。ちょっと、あぶないよう

CD Artwork © London Philharmonic Orchestra Ltd.

3月10日

BEETHOVEN
9. Symphonie(Arr. Mahler)
Gabriele Fontana(Sop), Barbara Hölzt(Alt)
Arnold Bezuyen(Ten), Reinhard Mayr(Bas)
Kiustjan Järvi/
Slowakischer Philharmonischer Chor
Tonkünstler-Orchester Niederösterreich
PREISER/PR 90773(hybrid SACD)


ベートーヴェンの交響曲は、まさに全人類の遺産、なのでしょう。その精神をより深く大衆に浸透させるために、ある時代の作曲家はその時までに達成されたオーケストラの性能をこれらの曲に反映させるべく、自らの手でベートーヴェンのスコアに改変の手を施していました。オーケストラが音楽史上最大の楽器編成を持つに至った時代を作ったグスタフ・マーラーもその一人です。
マーラーは、1886年のプラハを皮切りに、1895年のハンブルク、1900年のウィーンなどを経て1910年のニューヨークなど、生涯に10回ベートーヴェンの「第9」を演奏しています。そのたびに彼はスコアに夥しい書き込みをして、この作品を「マーラー風」に仕上げた上で演奏していました。なんでも、ハンブルクの時には、第4楽章のテノール・ソロが入る「マーチ」の部分では、離れたところにもう一つ別のオーケストラを用意したのだとか。それ以後の演奏ではさすがにそんな過激なことは行わなかったそうですが、マーラーの死後も、この書き込み入りの楽譜を用いた演奏は行われたそうです。
実は、この「マーラー版」を録音したCDは、1992年にすでにリリースされていました。

Peter Tiboris/Brno Philharmonic Orchestra(BRIDGE/BCD 9033)

さらに、最近になってその書き込み入りのスコアを一次資料とした「クリティカル・エディション」が、国際マーラー協会のお墨付きで出版されたそうなのです。もちろん、これは現在の主流となっているベートーヴェンの楽譜の「クリティカル・エディション」とは全く異なるコンセプトによるものであることは明白です。これは、あくまでマーラーが行ったことを忠実に再現した「原典版」だということだけは、はっきりさせておく必要があります。これは、その楽譜による「世界初録音」となります。
この「マーラー版」が、オリジナルとはどの程度違っているのかは、実際にそのスコアが手元にあるわけではないので、あくまで耳で聴いて判断する他はありません。さらに、BRIDGE盤と今回のブックレットにも、いくらかは役立つ情報は掲載されていますし。
まず、楽器の編成はあくまでマーラーの基準に従った大きなものになります。木管は倍管、さらにオリジナルにはないEsクラリネットなども加わります。ピッコロなども、もしかしたら2本使っているのかもしれません。ホルンも8パートに増えています。それに伴い、ダイナミックレンジが拡大されます。なんでもピアノ4つからフォルテ4つまでの表示があるのだそうです。
実際に、そんなことは楽譜には関係なく、すでに現場では同じようなことが演奏に反映されている場合がありました。フルートなどは明らかにベートーヴェン時代の楽器では不可能な音を使いたいのに、やむなくオクターブ下げてしまっているような箇所がいくらでも見られるのです。「ソラ↓シド」みたいに、スケールが途中で折れ曲がっているのですね(もっとも、これは現代の楽器でもかなり難しいので、マーラーはどうやらピッコロに吹かせているようですが)。
しかし、マーラーの面目躍如たるところは、そんなチマチマしたことではなく、オリジナルにはなかったパートを新たに加えた、というあたりでしょう。耳で聴いても分かるのがスケルツォの途中、木管だけで演奏されるテーマにトランペットが加わっていて、びっくりさせられます。
しかし、大きな編成で分厚いオーケストレーションの方がより表現力が高まると信じられていたある一つの時代の価値観が反映されたこの「マーラー版」からは、逆にそんな肥大化したオーケストラの負の部分がしっかり感じられてしまうのですから、皮肉なものです。エンディングで、2本に増強(たぶん)されたためになんとも鈍い響きになってしまったピッコロなどが、その好例なのではないでしょう。こうれいは逆効果。それと、この大時代的なスコアで、まるでオリジナル楽器のような軽いフットワークを追求している弟ヤルヴィの姿勢も、理解不能。

SACD Artwork © Preiser Records

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17