ブルーデイ・ディスク。.... 佐久間學

(09/9/28-10/16)

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10月16日

SCHUBERT
Die Schöne Müllerin
Jonas Kaufmann(Ten)
Helmut Deutsch(Pf)
DECCA/478 1528


DECCAからは3枚目となる、カウフマンのアルバムです。以前の2枚はオペラアリア集でしたが、今回はシューベルトのリートです。そういえば、実質的なデビュー・アルバムとしてHARMONIA MUNDIからリリースされたものもR.シュトラウスのリートでしたね。その時の共演者、ヘルムート・ドイッチュが、ここでもピアノ伴奏を担当しています。
この録音は、クレジットでは「コンサートのライブ」となっています。確かにバックには観客のざわめきのようなものが聞こえますし、おそらくその時に撮影されたのでしょう、ブックレットにはマイクがたくさんセットされた会場で拍手にこたえている写真もありました。ただ、その会場はかなり狭い空間のようですから、「コンサート」というよりは「公開レコーディング」のような場だったのではないでしょうか。最後の曲のあとでも拍手は入っていませんし。入れておけば良かったのに(それは「後悔レコーディング」)。
「美しき水車屋の娘」は大好きなリート集で、昔から良く聞いていました。「冬の旅」ほど暗くはなく(あくまで曲調がですが)、それほど深刻になることはありませんし、主に歌っているのがテノールですから、なにか「軽い」感じもしていました。伴奏がピアノではなく、フォルテピアノとか、ギターでも違和感はありません。そして、例えば「冬の旅」のツェンダー版のように無茶苦茶な扱いを受けるようなこともないのではないか、などと、全く根拠のないことを考えたくもなるような、ただ暗いだけの世界はこの中にはありません。
ここでのカウフマンは、まさに、そんな元気の良い若者のような、明るさ丸出しで曲を始めます。それはあくまで、この連作リートのストーリーを意識したものなのでしょう。前半はノーテンキに好きな女性に出会えた喜びに浸っているものの、それが他のオトコに走ってしまったために失意に陥り、最後は小川に身を投げる、というプロットです。ただ、それにしてもここでの彼はいつもの緻密な歌い方とはちょっと違って、すこし羽目を外しているようにも思えてしまいます。正直、歌い方は乱暴ですし音程もかなりいい加減。「娘は僕のものだ!」と大声でがなり立てる様子は、まるでやんちゃ坊主がダダをこねているように聞こえてしまいます。
それだからこそ、伴奏のドイッチュのピアノのうまさが光ります。ちょっと暴走しそうになるテノールを、巧みに操っている様子が良く分かりますし、曲集全体の構成をしっかり見据えた上での音楽作りで、しっかり歌手をサポートしているのではないでしょうか。もっとも、それでもカバーできずに、ついはみ出てしまう、というような場面も見られますが、まあそれは「ライブ」ならではのテンションがもたらしたものなのでしょう。
しかし、曲が進み、失恋モードになるにつれて、だんだんカウフマンの表現も落ち着いてきて、やっと安心して聴いていられるようになります。音程もだいぶマシになってきますし、声にも輝きが出てくるようになってきます。さらに「しぼめる花」あたりからは、「張った」声ではない、「抜いた」ソット・ヴォーチェがとても心地よく聴けるようになってきます。これは前半にも用いていたものですが、そこではいかにもとってつけたような印象は拭えませんでした。しかし、それが次第に必然的な表現としてこなれてきたのですね。
ですから、それを最大限に駆使した終わりの2曲「水車屋と小川」と「小川の子守唄」には、ちょっとゾクゾクするほどの凄さがありました。短調で歌われる「水車屋=若者」と、長調で歌われる「小川」との対話の妙、そして、なんとも慈愛に満ちた「子守唄」、確かに、今までちょっと乱暴気味に歌っていたのは、最後のこれらの曲を引き立てるための伏線だったですね。とても細やかな神経を使った繊細で感動的な世界が、そこにはありました。

CD Artwork © Decca Music Group Limited

10月14日

Romantic Flute Concertos
Gaby Pas-Van Riet(Fl)
Fabrice Bollon/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/98.596


1959年生まれ、1983年からシュトゥットガルト放送交響楽団の首席フルート奏者を務めているギャビイ・パ=ヴァン・リエト(ベルギー人なので日本語表記は困難、さまざまな表記が乱立している中で信頼の置けそうなムラマツのサイトでのものを採用しました)のソロアルバムです。彼女はその名門オーケストラのポストに20年以上も在籍、多くのコンサートでソロパートを担当(ノリントンとのブラームスの交響曲全集のDVDでは、2番以外でトップを吹いています)しているだけでなく、音楽大学の教授なども務めています。
ソリストとしても、恩師グラーフとの共演アルバム(CLAVES)など、アンサンブルを中心に多くのCDをリリースしていますが、今回は彼女と同郷、ベルギーの作曲家たちの協奏曲を3曲、彼女の職場の同僚のバックで演奏しています。その作曲家とは19世紀後半に活躍したペーテル・ブノワとヘンドリク・ウェルプット、そしてその2人の先生であるフランソワ・ジョセフ・フェティスという、現在では完璧に忘れ去られている作曲家、ウェルプットあたりは楽譜も出版されていないので、自筆稿を用いているほどです。
その時代、「ロマン派」と呼ばれている時代の作曲家たちは、なぜかフルートという楽器に対して冷淡でした。ピアノやヴァイオリンではあれ程多くの名協奏曲を書いたベートーヴェンやブラームスなどは、この楽器のための協奏曲など全く作ってはいません。この時代で唯一聴くことの出来る「まともな」フルート協奏曲といえば、カール・ライネッケという、おそらくモーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」の定番のカデンツァを作ったことすらもほとんど知られていない(そんなことはないねっけ)ほどマイナーな作曲家の作品しかありません。この頃楽器自体が過渡期にあったことがその一つの要因です。
しかし、そんなフルートのための作品がすっぽり抜け落ちているように見える「ロマン派」の時代でも、決して曲が作られなかったわけではありません。それらは、単に、そのような曲を作った作曲家たちが歴史的なふるいにかけられた結果、現在では先ほどのライネッケ以上に(以下に)マイナーになってしまっただけのことなのです。ですから、今回のリエトの仕事のように、実際に音として味わう機会さえあれば、それらの曲の魅力は同時代の他の楽器のための協奏曲に決してひけをとらないものであることが分かることになります。
ここで演奏されている3曲の中で、そんな魅力が最も良く感じられるのは、ブノワの「フルートとオーケストラのための交響詩」でしょう。3つの楽章には「鬼火」、「メランコリー」、「鬼火の踊り」というタイトルが付けられていて、いかにもロマン派の産物である劇的な情景描写が感じられる作品です。その中でフルートはまさに一筋の煌めきとして、音楽全体に生き生きとしたアクセントを与えています。真ん中の楽章の叙情的なメロディも、フルートの持つ叙情性をとことん信じた作り方です。
同世代のウェルプットの「フルートとオーケストラのための交響的協奏曲」も、やはり深い叙情と、そしてフルートの超絶技巧を遺憾なく味わえるものです。
さらに、その2人より40歳以上年上のフェティスが85歳の時に作ったという「フルートとオーケストラのための協奏曲」は、そんな高齢の人が作ったとは思えないほどの複雑な技法が散りばめられた曲です。ただ、その分他の2人よりはやや音楽としての重みが少なくなっているような気はします。
リエトは、これらの難曲を、その持ち前のテクニックでいとも鮮やかに吹きこなしていて、まさに胸のすく思いです。ただ、ゆっくりとしたパッセージでは、ちょっと「ちりめん」っぽいビブラートが耳障りに感じられる人がいるかもしれません。
いずれにしても、単にフルーティストにとどまらない、音楽愛好家にとっては魅力的この上ない曲たちを紹介してくれたのは、とても嬉しいことです。

CD Artwork © SWR Media Services GmbH

10月12日

To Saint Cecilia
Lucy Crowe(Sop), Nathalie Stutzmann(Alt)
Richard Croft(Ten), Luca Tittoto(Bas)
Marc Minkowski/
Choeur des Musiciens du Louvre
Les Musiciens du Louvre
NAÏVE/V 5183


先日の「ロ短調」と同様、100ページを超える豪華ブックレットと一体化したジャケットにCDが2枚入っているというパッケージです。非常に凝ったデザインのその「表紙」には、タイトルやアーティストが本当に小さな字でレイアウトされています。ですから、フランスのメーカーでは店頭で分かりやすいように、タイトルだけ大きく印刷したステッカーを梱包シールの上に貼り付けるという配慮をしています。「ロ短調」の時にはその状態でスキャンできたのですが、今回は、そのステッカーの上に日本の代理店が、日本語タイトルやアーティストの来日公演の案内などを印刷した無粋な宛名シールを貼り付けてしまいました。剥がそうとしてもべったりくっついてかえって惨め、ステッカーを含めて全部剥がすしかありませんでした。本当に無神経なことをやってくれるキング・インターナショナルです。何をやっても構わないという、尊大な態度は許せません(それは「テング・インターナショナル」)。
「ロ短調」ではそのブックレットには英独仏三ヶ国語のライナーがびっしり書き込まれていただけですが、音楽家の守護聖人として知られる聖セシリアをたたえる曲を3曲集めたこのアルバムでは、それにちなんで、彼女がらみの絵画がたくさん掲載されています。このジャケットも、そんな絵画の一部、ここではオルガンを手に持っていますし、他には実際にその楽器を演奏しているものもあります。さらにはヴァイオリンやヴィオール、そしてリュートやハープも。17世紀頃に描かれたその精密で写実的な絵画からは、その当時に使われていた楽器の形をうかがい知ることが出来、ヴァイオリンの弓が現在使われているものとは全く異なるまさに「弓」の形をしていたことなどが良く分かります。
それらの絵画の中で描かれているセシリアの表情は、なぜかうつろな目をしてあらぬ方向を向いている、というものでした。それは、そこで鳴っている現実の音ではなく、彼女の頭の中でしか響いていない天空の調べを聴き取ろうとしているかのように見えます。
曲はパーセルの「万歳、輝かしいセシリア」、ヘンデルの「聖セシリアの祝日のための頌歌」、そしてハイドンの「聖チェチリア・ミサ」です。3曲合わせて2時間半、結構なボリュームで、続けて聴くにはちょっと辛そう。
確かに、最初のパーセルなどはつい眠気が襲ってくるような退屈な面がなくはありませんでした。主にソロを歌っているソプラノのクロウがそれほど魅力的ではないのと、合唱がちょっと雑なのが、そんな印象を与えていたのでしょうか。
しかし、ヘンデルあたりになると、レ・ミュジシエン・ドゥ・ルーヴルの卓越したアンサンブルに耳が向くようになって来ます。音楽もとても起伏に富んだもので、楽器の音を模倣したテノールとコーラスのアリア「The trumpet’s loud clangor」などはまさに目が覚める思いです。なかなか聴くことの出来ないバロック・チェロによるノン・ビブラートのオブリガートなどというものからも、新しい魅力が発見できます。
最後のハイドンは、通常演奏される1773年版のフルミサ・バージョンではなく、最近のランドンなどの研究で明らかになった1766年の初稿の形で演奏されています。それは、「Kyrie」と「Gloria」だけから成る「ミサ・ブレヴィス」という「イタリアン・スタイル」のバージョンです。ただ、それだけでは物足りないのか、ロング・バージョンから「Credo」の中の「Et incarnatus est」と「Et resurrexit」という、いずれもドラマティックな楽章が加えられています。
ここでは、アルトのシュトゥッツマンが加わります。これで声楽陣は万全、オーケストラの凄さもますます冴えてきます。「Gloria」の最初の曲での一糸乱れぬストリングスがかもし出す疾走感は、まさにハイドンの、そしてミンコフスキたちの真骨頂でしょう。

CD Artwork c Naïve

10月10日

MAHLER
Symphonie Nr.5
Zubin Mehta/
Bayerisches Staatsorchester
FARAO/S 108052(hybrid SACD)


あのカラヤンほどの幅広いレパートリーを誇る指揮者でも、マーラーは殆ど演奏しなかったことでも分かるように、指揮者の中には必ずしもマーラーとは相性が良くない、という人はいるものです。今回のメータあたりも、この5番などはこれが3度目の録音となるのですから、しっかりレパートリーにはなっているのでしょうが、なぜか「マーラー指揮者」というイメージはあまり感じられないのではないでしょうか。
数多くのメジャー・オーケストラやオペラハウスを渡り歩いてきたメータですから、今までの録音はそれぞれ当時の手兵を用いての演奏です。最初の録音は1976年のロサンジェルス・フィル(DECCA)、2回目が1989年のニューヨーク・フィル(TELDEC)、そして、今回のバイエルン州立歌劇場管弦楽団です。メータがこのオペラハウスの音楽監督のポストをケント・ナガノに譲ったのが2006年ですから、これが録音された2008年にはもはやこのオーケストラとも離れていたのですが、このようなコンサートの機会はまだまだ続いているのでしょう。そう、このSACDは、その年の1215日のコンサートの模様を主たる音源にしている「ライブ録音」です。
この演奏、まず、とても穏やかな印象が与えられるものでした。それは、かなりゆったりとしたテンポ設定が一つの要因なのでしょう。トータルの演奏時間は7121秒(これは、ジャケットに表記されている時間から、最後に入っている拍手の時間を差し引いたものです)と、他の人の演奏時間に比べて確かにかなり長めになっています。ただ、ネット通販のサイトに彼の今までの録音での演奏時間があったのでそれを見てみると、最初のロス・フィルとの録音では65分とごく普通のテンポであったものが、次のニューヨーク・フィルでは69分と、年を追うごとにゆっくりになっていったことが分かります。中でも、第2楽章が1976年と2008年とでは2分以上も長くなっているのが目をひきます。
第1楽章は、まずそんな印象を最初に形作るもの、テンポとともに、トゥッティになっても決して荒々しくならずに、いとも上品な面持ちを保っていることに気づかされます。歌い方も極めて平静、その中では、情感をハイにするような作為的なルバートなどは殆ど見あたりません。第2楽章に移るときも、良くあるアタッカではなく充分な休みを置いてからの再スタート、決してあおり立てることのない落ち着いたテンポの中で、ショッキングな場面などまずありません。
第3楽章は、ホルンのどっしり腰の座った音色が印象的です。木管楽器がちょっと羽目を外しがちな部分でも、決して不必要にふざけることはかたく戒められているのでしょうか、それはあくまで「美しさ」の範疇の中での軽い諧謔でしかありません。
そして、第4楽章の「アダージェット」です。ここでもメータは、決して感情をあらわにしない平静さを旨としているようです。他の人がやれば冗談にしか聞こえないような表現ですが、メータの手にかかるとあくまで美しい弦楽器によって奏でられるゴージャスな音楽に変わります。
フィナーレもかなり遅いテンポですから、切迫感などはまずありません。フルート・ソロの難所からも、マーラーが企んだであろうサディスティックな面は感じられず、流れるようなアルペジオに酔いしれます。
そんな具合に、メータはこの曲の中にある「尖った」部分や「荒々しい」部分を見事に磨き上げて、とても美しく魅惑的なものに仕上げてくれました。それはそれで、マーラーの演奏の一つの形であるには違いありません。しかし、マーラーの曲から何かしら「狂気」のようなものを感じていたいと思っているコアなファンにとっては、それほど必要とは感じられない演奏なのかもしれません。
カラヤンがそうであったように、メータもまた「マーラー指揮者」と呼ばれることはめえたに(滅多に)ないでしょう。

SACD Artwork © Farao Classics

10月8日

VIVALDI
Gloria
Sara Mingardo(Alt)
Rinaldo Alessandrini/
Concerto Italiano
NAÏVE/OP 30485


このレーベルのヴィヴァルディ全集は、今まで殆ど知られていなかったオペラや宗教曲の録音を体系的にリリースしてきたことで、各方面で注目を集めていますが、そもそもこのシリーズが始まった頃は、レーベルは「NAÏVE」ではなく「OPUS111」というものでした。OPUS111は、フランスのかつての名門レーベル「ERATO」で、例えばマリー・クレール・アランのバッハオルガン曲全集などを手がけていたプロデューサー/エンジニア、ヨランタ・スクラが1990年に創設したレーベルです。あのメンデルスゾーン版「マタイ受難曲」を世界で初めて録音するなど、ユニークなアイテムを世に送り、新しいアーティストを発掘してきたものの、スクラ自身は1997年に「エグゼクティブ・プロデューサー」となって事実上引退、その後2000年には、レーベルの全カタログと、所属アーティストの権利をNAÏVEに売却してしまいます。ここで演奏しているアレッサンドリーニとコンチェルト・イタリアーノも、スクラによって見いだされたアーティストでした。
NAÏVEは、OPUS111を吸収した後もそのレーベル名をきちんとジャケットに表記していましたが、最近ではそれもなくなり、品番の頭文字「OP」だけがその出自を物語るものになってしまっています。何か寂しい気がしませんか。
アレッサンドリーニとコンチェルト・イタリアーノによるヴィヴァルディの「グローリア」、これは2009年の3月に録音されたものですが、実は彼らは199710月にもOPUS111にこの曲を録音していました(OP 30195→NAÏVE/OP 30448として再発)。

その時は「マニフィカート」などとのカップリングでしたが、今回は同じ「グローリア」のテキストによる別の曲RV588が一緒、さらに、有名なRV589の方も、「深紅色に彩られ、棘で護られて Ostro picta, armata spina」というソロ・モテットがイントロ代わりに挿入されています。
常に新しい波が寄せては返すオリジナル楽器の世界での11年半というスパンは、演奏家がスタイルを変えるには充分の長さなのでしょう。この新旧の録音を並べて聴いてみると、とても同じ指揮者によって演奏されたものとは思えないほどの変わりように、戸惑いすら覚えます。逆に言えば、レーベルにとってはそのあたりが新しい録音のレゾン・デートルとして、恰好の言い訳となるのです。
旧録音は、冒頭の「Gloria in exelsis Deo」で、すでに聴くものを驚かせるだけのものを持っていました。信じられないほどの速いテンポとアグレッシブなたたみかけ、それはまさに「新しい」スタイルの登場を明確に知らしめるものだったのです。そのような攻撃的な面とともに、さらに衝撃的だったのが「Domine Deus, Agnus Dei」でのアルトソロ、サラ・ミンガルドでした。殆ど息の音だけで始まるそのアリア、それはしだいにクレッシェンドをしてまるで地を這うような音に変わります。その深い響きはそれまで聴いたことのなかったほどのインパクトを与えてくれるものでした。眠気も覚めました(それは「ミントガム」)。
今回の新録音、おそらく目玉はもう一つの「Gloria RV588」だったのでしょう。旧録音で聴き慣れた「Gloria RV589」は、アレッサンドリーニにしては平凡な演奏にしか聞こえないものでした。ここでは、全体を貫いていた攻撃的なテイストは見事に影を潜め、まるで毒気を抜かれたようなおとなしい(あくまで比較の問題ですが)表現に変わっていたのです。
そして、アルトソロを歌っていたのが、旧録音と同じミンガルドでした。彼女の歌は、そのプラン自体は以前と何ら変わらない、衝撃的なものでした。しかし、それをコントロールする能力が完全に衰えてしまっているのにいやでも気づかされてしまうのは、ちょっと辛いことです。ただ、これも比較の問題、旧録音を聴きさえしなければ充分に凄さを感じられるのですがね。現に、RV588の最初のアリアとレシタティーヴォでは、まだまだ彼女の声と表現を堪能できましたから。

CD Artwork © Naïve

10月6日

BRUCKNER
Symphonies Nos. 3 & 4
Mariss Jansons/
Royal Consertgebouw Orchestra
RCO LIVE/RCO 09002(hybrid SACD)


ブルックナーの3番と4番のカップリングですので、もちろん2枚組のSACDですが、1枚ものと変わらない価格設定なのは良心的。聴きたかったのは4番だけだったので、得をした感じです。いつもながらの素っ気ないデザインのジャケットも、余計なことにはお金をかけないぞ、という姿勢のあらわれなのでしょうか。ただ、2枚のCDそれぞれのレーベルには「DISC 1」、「DISC 2」という文字だけで、品番も、そして曲名も記載されていないというのは、あまりにも不親切です。近頃は増えすぎたコレクションを少しでもたくさん収納するためにハードケースから不織布の袋などに移している人もいるでしょうから、最低限曲目ぐらいは書いてなくっちゃ。
いつの間にかシャイーからヤンソンスに代わっていたな、と思っていたコンセルトヘボウのシェフですが、それももう5年も経ってしまったのですね。このレーベルからもコンスタントに録音がリリースされて、もうすっかりこのオーケストラと馴染んでいます。今回取り上げたのはブルックナー。彼の場合、どの稿のどの版を使うのか、というのが最初の興味の対象になるわけですが、ここでは3番が1889年の第3稿、4番が1878/80年の第2稿という、少し前まではごく一般的に演奏されていた稿でした。それぞれの曲で、最近では初稿を取り上げる指揮者が多くなっている中で、これは逆にユニークなアプローチに見えてくるから不思議です。実際、4番に関しては最近は立て続けに初稿によるCDばかりがリリースされていましたから、「第2稿による新譜」がなんだか新鮮に感じられてしまいます。
他のオーケストラの自主レーベルと同様、このレーベルも録音に関しては細心の配慮がなされ、殆どのアイテムはSACDで提供されています。4番の演奏が始まると、たちどころにその豊かなホール・トーンの魅力の虜になってしまいそう。いかにもシューボックスらしい、低音の残響成分が多めに感じられる響きは、オーケストラを暖かく包み込んでとてもまろやかなサウンドを聴かせてくれています。それと同時に、このオーケストラのアンサンブルの緊密さはまさに驚異的であることが分かります。それは、まるで一人の人間が演奏している一つの楽器であるかのように聞こえてきます。しばらく聴きすすんでいくと、なんだかオーケストラとは思えないような、まるでオルガンの倍音管のような音が聞こえてくるのに気づきました。それは、正確なアインザッツと、正確なピッチで演奏されていたため、楽譜にはない「倍音」がはっきり聞こえてきたせいなのでしょう。そう、これはまさしく「オルガン」という一つの楽器の響きに他なりません。そこには、コンセルトヘボウ全体が巨大なオルガンと化した音響空間がありました。第1楽章でたびたび現れるコラール風のパッセージなどは、まさにオルガンそのもの、ブルックナーが交響曲に於いてもオルガンの響きを念頭に置いて曲を作っていたことが、見事に実際の「音」として体験できた瞬間でした。最後に出てくるホルンの長い音符などは、見事に純正調の澄んだ響きを聴かせてくれています。これなどは、オルガン以上に純粋な響きのはずです。
気をつけて聴いていると、木管楽器のソリストたちも、決してソリスティックに歌おうとはせず、オルガンのストップに徹していることが分かります。レガートのフレーズでも、タイミングはしっかり他のパートと合わせる、といった気配りですね。第2楽章の途中で出てくるフルートの高音のピアニシモのソロなどは、本当にかわいらしいポジティーフ・オルガンの倍音管のように聞こえます(吹いていたのがバイノンだったりして)。
これだったら、ちょっと苦手な3番も、気持ちよく聴けそうです。

SACD Artwork © Koninklijk Concertgebouworkest

10月4日

MOZART
Music for Horn
Claron McFadden(Sop)
Teunis van der Zwart, Erwin Wieringa(Hr)
Frans Brüggen/
Orchestra of the Eighteenth Century
GLOSSA/GCD 921110


モーツァルトがホルンのために作った曲を集めたアルバムです。ホルン五重奏曲、ホルン協奏曲第3番、そして「音楽の冗談」というホルンが大活躍するナンバー、さらには、ホルンのオブリガートがフィーチャーされている「ポントの王ミトリダーテ」の中のアリアと盛りだくさん、さらにそれらの曲の間にはホルン2本のためのデュエットが挟まれています。もう最初から最後までホルンづくし、この楽器が好きな人にはたまらないことでしょう。もちろん、演奏家が「18世紀オーケストラ」のホルン奏者ファン・デア・ズヴァールトですから、使われている楽器はナチュラル・ホルン、これも、マニアにはたまりません。聴き始めたら、途中ではやめることができなちゅらることでしょう。
これらの曲は、モーツァルトの友人というか、かなり年上の遊び仲間(楽譜のタイトルに、彼のことをからかったフレーズが書かれているそうです)だったホルン奏者、イグナーツ・ヨーゼフ・ロイトゲープのために作られています。ただ、ここでもう一人のナチュラル・ホルン奏者ヴィーリンガとの演奏でそのうちの8曲を聴くことが出来る「12のデュエット」は、楽器の指定がないために、果たしてホルンのための作品なのかどうかは正確には特定できません(バセットホルンのための曲とも言われています)。しかし、ズヴァールト自身のライナーノーツによると、これは間違いなくホルンの曲だ、と言いきるだけの根拠があるのだそうです。
確かに、ここで聴かれる二人の演奏は、まさにホルンならではの解放感あふれるものでした。これをバセットホルンで吹いたのでは、なんだか音楽が発散しないで中の方に向いてしまうのでは、というようなフレーズがたくさん見られましたね。さらに、高音のメロディ部分(こちらをおそらくズヴァールトが吹いているのでしょう)と、低音の伴奏部分がきっちりと分かれているというのも、ホルン奏者の特性というか、分担(なんでも、ホルン吹きには「上吹き」専門の人と、「下吹き」専門の人がいるそうです)がきっちり反映されているからなのでしょう。ナチュラル・ホルンならではの、倍音以外の音のえもいわれぬ音色の変化も、良くある突拍子のないものではなく、巧みに隠されているのもさすがです。二人の息はぴったり、ホルンを吹くことの喜びみたいなものが伝わってきます。
なんと言っても、これはホルンを聴くべきためのアルバム、ですから、オペラ・アリアといえども主役はホルンであることがはっきり主張された録音は、ある意味見事です。ソプラノのマクファデンの音場ははるか彼方、オーケストラの後方のような遠くの場所の設定なのに、ホルンは真ん前に陣取っているのですからね。ソプラノのオブリガートが付いたホルン協奏曲、といった趣でしょうか。
このアルバムで一番楽しみだったのは「音楽の冗談」でした。以前マンゼの指揮する演奏で、まさにナチュラル・ホルンならではの表現を体験していますから、自ずと比較されても仕方のないことでしょう。しかし、この演奏、なんともお上品というか、あまりにもまっとうなものに終始しているのには、かなりがっかりしてしまいました。確かにアンサンブルに乱れはありませんし、「美しい」音楽を作り上げようとする気持ちは痛いほど伝わってくるのですが、この曲の場合それだけでは「だから?」となってしまいます。今まで他の演奏でも数多く聴いてきた曲ですが、これほど「冗談」が感じられない(いや、確かに何かやろうとはしているのですが、それは見事にハズしています)演奏も珍しいのでは。
そういえば、五重奏曲にしても協奏曲にしても、美しいのだけれど、なんだか味が薄い、という印象を持ってしまったことを、思い出しました。

CD Artwork © MusiContact GmbH

10月1日

BRICCIALDI
Quattro Concerti per Flauto e Orchestra
Ginevra Perucci(Fl)
I Virtuosi Italiani
BONGIOVANNI/GB 5159-2


ジューリオ・ブリッチャルディというイタリア人のラストネームは、フルートを吹く人でしたら誰でも知っているほど有名なものです。とは言っても、それはあいにくこのCDで聴くことが出来る協奏曲などの作曲家としてではなく、現在世界中で使われているフルートには必ず装備されている「ブリッチャルディ・キー」というメカニズムの名前によってのみ、知られているものです。現在のフルートが19世紀半ばにテオバルト・ベームによって改良されたものであることはよく知られていますが、それを手にした作曲家であり、卓越したフルーティストでもあったブリッチャルディは、B♭の音を簡単な運指で出すことが出来るような機構を考案します。それが「ブリッチャルディ・キー」と呼ばれる、左手親指で押さえるキーです。B♭の本来の運指は、左手と同時に右手の人差し指を使わなければなりません。しかし、親指をほんの少し動かすだけで作用するこのキーのお陰で、左手だけでB♭が出せるようになり、素早い音階なども非常に楽に演奏できるようになったのです。

これに対抗して、本家のベームも同じような機能を持つ別なメカニズムを提唱したのですが、結局それは使われることはなく、この「ブリッチャルディ・キー」が、モダンフルートの標準装備として一般化し、今に至っています。
そんなブリッチャルディの作曲家としての側面は、今までほとんど知られることはありませんでした。わずかに、ゴールウェイあたりが、フルート・ソロの定番、「ローマの謝肉祭」を、よく知られているジュナンのものよりさらに技巧的な変奏曲に仕上げたピースを録音していたことによって、その華麗な世界を垣間見ることが出来ていただけです。
今回の4曲のフルート協奏曲は、作曲家が20年の間に書きためた、まさに当時のベル・カント・オペラ(彼はオペラも作っています)の匂いを色濃くたたえ、フルートの技法を最大限に発揮したゴージャスな作品たちです。楽譜が今まで出版されたことはなく、今回は自筆稿による世界初録音となります。4つの曲それぞれにしっかりとした個性が感じられ、あるものは華やかな、そしてあるものは陰鬱な趣をたたえています。思わず耳をそばだててしまうほどの期待を抱かせる力を持つ導入部で始まる第1楽章は、全く同じテイストを持ったままより叙情的な第2楽章へといつの間にか移行、一息おいて、なんともキャッチーな、ある時にはポロネーズのようなダンサブルなテーマを持つフィナーレへと続く、という、型通りの構成も魅力的です。全くフルートに縁のない人でも、おそらく一度聴いただけでその旋律の虜になってしまうほどの、それらは親しみやすい音楽です。
ここでソロを吹いているジネブラ・ペルッチは、録音当時はまだ19歳だったというほとんど少女(でもノーブラではありません)、しかし、その力強く伸びやかな音と、揺るぎのないテクニックは、もはや成熟の域に達しています。特に高音の明るい音色は、教えを受けたゴールウェイを彷彿とさせるものでした。超絶技巧の粋を尽くしたソロパートを、なんの齟齬もなくクリアしているのは、まさに爽快、ただ、あまりにきっちりと全ての音を吹ききっているのが、やや物足りなくも感じられるのも事実です。彼女の能力とセンスをもってすれば、ほんのちょっとしたきっかけで、さらにブリリアントな世界を表現出来るようになるのは、いとも簡単なことでしょう。
バックのオーケストラも、指揮者がいないにもかかわらず心憎いほどのサポートを見せています。さりげない合いの手の、なんと心地よいことでしょう。
このレーベル、いい加減な演奏と幼稚な録音であまり良い印象はなかったのですが、今回は録音は最高とは言えないまでも、内容はとても素晴らしいものでした。と言って油断をすると、ジャケットの肖像画が裏焼きだったりしますが。

CD Artwork © Bongiovanni

9月30日

Dances et Divertissements
Stephen Hough(Pf)
Berlin Philharmonic Wind Quintet
BIS/SACD-1532(hybrid SACD)


ベルリン・フィルのメンバーが結成した木管五重奏のアンサンブル、「ベルリン・フィル木管五重奏団(まんまですね)」は、首席奏者ではなく、2番やピッコロ、Esクラリネットなどをもっぱら担当している奏者が集まったグループです。1988年に結成されてから今まで一人としてメンバーが変わらずにやってきたという、オーケストラが母体にしてはかなり珍しい団体です。なんでも、彼らはベルリン・フィルのメンバーとしては初めての、永続的な木管五重奏団なのだそうです。そういえば、かつてゴールウェイなど首席級が集まった短命の「木五」も有りましたね。
ただ、なんと言ってもベルリン・フィルですから、メンバーはここでは2番でもよそへ行けば充分に首席として通用するような人ばかりです。現に、フルートのハーゼルやオーボエのヴィットマンは、一時期バイロイトのピットでは首席奏者を務めていました。
結成当時と今のメンバーの写真、変わっていないはずなのに、ずいぶん変わっていますね。なんせ20年ですからね。ハーゼルなどは、いったい何があったのでしょう。


彼らはBISからコンスタントに「木五」、あるいはそれに他の楽器が加わったレパートリーをリリースしてきました。言ってみれば地味な、それこそ管楽器に関わっている人しか聴かないような曲目を、淡々と録音し続けて来たメンバーと、それを支えたレーベルの姿勢は貴重です。かつて、ベルリン・フィルとウィーン・フィルのメンバーで結成された「木五」が、人気取りのためについ編曲ものなどの安易な道へ流れていったのとは対照的な地道な歩みです。
今回は、ゲストにピアノのスティーヴン・ハフを迎えて、プーランクの六重奏曲などフランスの作品を演奏しています。アルバムタイトルは、このプーランクの曲の第2楽章と、アンリ・トマジの作品のタイトルから取られたものです。いかにも瀟洒なたたずまいのフランスの室内楽、それを、このドイツの団体はどのようにこなしているのでしょう。
まずは、現代のフルーティストのスクールの先駆けともいうべきポール・タファネルの木管五重奏曲です。きっちりとしたアンサンブルを要求される、フランスものにしては堅めの構成の曲、これは、もう20年も一緒にやっているメンバーにとってはまさに格好のレパートリーなのでしょう。トゥッティとソロの使い分けを見事に演じ、余裕すら感じられるものでした。最後の最後に登場するちょっとユーモラスな「仕掛け」も、しっかりサプライズらしい演出です。
プーランクの六重奏曲では、ピアノのハフのダイナミックな突っ込みに、他のメンバーがしっかり同調して、かなりのハイテンションな仕上がりです(「ハフ、ハフ」って)。ただ、迫力はあるものの、その分軽やかさがほんの少し稀薄になっているような印象は避けられません。かっちりしたアンサンブルを超えたところでの愉悦感(まさに「Divertissements」)が欲しいところでしょう。
ジョリヴェの「木管五重奏のためのセレナード」は、フランスものとはいってもこの作曲家ならではの不思議な旋法を中心とした音楽ですから、彼らの緻密なアプローチは良い方に作用しています。オーボエのヴィットマンのソロは、そんな非ヨーロッパ的な世界を見事にあらわしています。それを受けるフルートのハーゼルも、なかなかのものを聴かせてくれます。
最後は、トマジの「5つの世俗的な舞曲と神聖な舞曲」。それぞれの「Dance」を的確なリズム感で処理しているアンサンブルの能力には、まさに舌を巻く思いです。たった5つの楽器なのに、そこから生まれるダイナミック・レンジの広さは驚異的。
正直、今までのアルバムでは地味な印象があったものが、ここに来て一皮むけた華やかさのようなものも感じることが出来ました。やはり、気心が知れた仲間との切磋琢磨は、成熟のための最良の方法なのでしょう。

SACD Artwork © BIS Records AB

9月28日

BERG
Flute Mystery
Emily Beynon(Fl)
Catherine Beynon(Hp)
Vlademir Ashkenazy/
Philharmonia Orchestra
2L/2L58SABD(BD, Hybrid SACD)


録音の良さでは定評のあるノルウェーのレーベル2Lから、ついにこんなパッケージが登場しました。常々「DXD」という、SACDの規格である「DSD」よりもさらに解像度の高い録音方式を用いていることを標榜しているこのレーベルの主宰者モーテン・リンドベリは、DSDでさえ「透明でない」と公式サイトで言い切っています。そこで彼が選んだメディアは、音声トラックの規格が24bit/96kHzという、ハイレゾリューション・リニアPCMであるブルーレイ・ディスク(BD)でした。寝台車ですね(それは「ブルートレイン」)。
この前著作をご紹介したCAMERATAレーベルの井坂さんも、どこかで「SACDには馴染めない」とか、「ネット配信では96kHzのリニアPCMを採用」といったような発言をなさっていましたし、Kさんという有名なレコーディング・エンジニアの方も「DSD96kHzPCMと同等」とおっしゃっていましたから、こういうプロの人たちの中ではDSDよりもハイレゾリューション・リニアPCMの方が「いい音」と認められているのでしょう。なんたって、ビートルズのデジタル・マスターがPro-Toolsによる192kHzPCMなのですからね。
ここでBDSACDを同梱しているのは、双方の音の違いを実際にリスナーに確かめてみて欲しいという思惑なのでしょうか。あいにくBDを聴ける環境にはありませんから、SACDでその高音質を味わい、BDだったらもっとすごい音なのだなあ、と、指をくわえることになるのでしょう。
アルバム自体は、フレード・ヨニー・ベルグ(というのは、メーカーのインフォにある表記。Bergは「ベリ」、あるいは「ベルイ」とはならないのでしょうか)という、1973年生まれのノルウェーの若手作曲家の作品集です。全部で5曲のオーケストラのための曲が収録されていて、そのうちの2曲でフルートがソロをとっています。その2曲がアシュケナージの指揮、残りの3曲は作曲家自身が指揮をしています。もちろん、マルチトラックのサラウンド仕様、ブックレットでは、それぞれの曲での楽器の並び方が示されています。
「フルート・ミステリー」というのは、2006年にゴールウェイによって初演された、本来はアルト・フルートのソロと弦楽合奏のための作品です。今回はソロのパートを普通のフルートとハープのために直したバージョン、ハープを演奏しているのはバイノンの妹キャサリンです。オケの弦楽器は、それぞれの奏者の姿までもが浮かんでくるような生々しい肌触り、それに絡むフルートとハープは、なんとも叙情的な、まさに個々の素のソノリテが試される過酷なフレーズを丹念に演奏しています。
バイノン自身のために作られた4つの楽章が連続して演奏される「フルート協奏曲第1番」では、冒頭にオルガンのペダル音が重低音で迫るという、恰好のオーディオ・ピース、後半でマニュアルのストップが聞こえてくると、それが生音ではなくサンプリングであることがはっきり分かるほどの解像度です。最後の楽章では、弦楽器のトレモロの中から立ち上ってくるグラスハーモニカの存在感などは、CDレイヤーでは決して味わうことの出来ないものです。その一つ前の、彼女のヴィルトゥオージティを存分に堪能できるスケルツォっぽい楽章が、全体に生ぬるい、というか、正直かったるい音楽の中にあって、確かなアクセントになっています。
バイノンがフルートを吹いていることから、ちょっと高価ですが買ってみたものですが、実際に聴いてみると確かにそこにはあえてBDで出したくなるような、SACDで聴いても充分ゾクゾク出来るほどの精緻なテクスチュアが体験できるものすごい世界がありました。しかし、まさにSACD、あるいはそれ以上のメディアでなければ体験できないほどの「音」に満ちた素晴らしいアルバムであるにもかかわらず、そこから聞こえてくる「音楽」は、なんと退屈で魅力に乏しいことでしょう。

SACD Artwork © Lindberg Lyd AS

おとといのおやぢに会える、か。


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