スタバで、待ってる。.... 佐久間學

(08/2/2-08/2/20)

Blog Version


2月20日

BEETHOVEN
Symphonies Nos 1& 6
Osmo Vänskä/
Minnesota Orchestra
BIS/BIS-SACD-1716(hybrid SACD)


ヴァンスカとミネソタ交響楽団によるベートーヴェンの交響曲の録音も4枚目、あとは2番と7番を残すのみとなりました。完成した暁には、DSD録音によるSACDとしては世界初の全集となることでしょう。
以前、CDレイヤーしか聴けなかったときには、このコンビの録音からは木管の音色の柔らかさが印象的に感じられていました。アメリカのオーケストラでありながら、そこにはほのかにヨーロッパ風の香りが漂っていたのです。最近新しいプレーヤーを導入したことによってハイブリッド盤のSACDレイヤーが聴けるようになってみると、それに加えて弦楽器にも極めて渋い味わいが宿っているのに気づかされます。それは、特に「1番」の第2楽章のように、ごく弱い音で演奏されるときに強く感じることができることでしょう。例によって対向配置となっているために、まず右側のスピーカーから聞こえてくる第2ヴァイオリンのピアニシモの響きの、なんとしっとりとしていることでしょう。もちろん、いつものヴァンスカのやり方ですから、ことさらピリオド奏法を意識することのない、それでいてビブラートは控えめというあっさりとした扱いも、心地よいものです。
とは言っても、この曲では、かなり意識して音を短めにして溌剌とした感じを演出しようという意図はうかがうことができます。この第2楽章もほんの少し早めのテンポをとっているのは、いくぶんスリリングなアプローチを目指した結果なのかもしれません。第3楽章でのクリティカル・エディションならではのダイナミックスの指示の部分でも、もはや今までと違うことをやって人を驚かせるという次元を超えた、オーソドックスな表現としてのまろやかさを感じることができることでしょう(11小節目。こちらに楽譜があります)。
「6番」になると、その弦楽器のつややかさはさらに際だってきます。そして、管楽器はもっぱらそれを色づけすることに専念しているかのように見えます。フルート奏者などは、もしかしたら木製の楽器を使っているのではないかと思えるほどの地味な音色で、その仕事に従事しているよう、たびたび登場するソロの部分でも、決して一人だけ目立とうとはしていない謙虚さが、光ります。
第2楽章では、これもクリティカル・エディションならではの、弱音器を付けた弦楽器の柔らかい響きがとても魅力的です。ベーレンライターなどの楽譜を見ながら聴いていないことには、ここで弱音器を付けていることはなかなか気づかないものですが、この録音からはそれがはっきり聴き取れます。もしかしたら、これを聴いてびっくりする人がいるかもしれないほどの、それは精緻な録音です。
そんな穏やかなたたずまいが、第3楽章のトリオになった途端、いきなり豹変するのはある意味サプライズでした。それまでの流れからは予測不能な、それはうれしい誤算、その躍動的な音楽には、思わず心が弾みます。そのまま一気に第4楽章の「嵐」へ突入、そこには、まるでハリウッドのサントラのようなドラマティックで大げさな世界が広がっていたのです。これこそが、このオーケストラの持っていた潜在能力だったのでしょうか。ちょっととり澄ましたヨーロピアン・サウンドを洗い流して(それは「洗剤能力」)一気に思いの丈を現した、という趣です。あるいは、これこそがヴァンスカの真骨頂なのでしょうか。彼には、古典的な秩序よりは、もっとポエジーやパッションのあふれる音楽の方が性に合っているのかもしれません。このベートーヴェン全集を聴いてきた中で感じていた歯がゆさは、案外こんなところに原因があったのではないでしょうか。
最後の楽章ではまた元の慎ましい世界が戻ってくるものの、その盛り上げ方がいかにも性急に感じられてしまうのは、そんなジレンマのあらわれなのかもしれません。

2月18日

MOZART
Requiem
Marie Arnet(Sop), Anna Stéphany(MS)
Andrew Kennedy(Ten), Darren Jeffery(Bas)
Colin Davis/
London Symphony Chorus & Orchestra
LSO LIVE/LSO0627(hybrid SACD)


200710月の録音、オーケストラは14型という、モーツァルトにしてはかなりの大編成で、そこに90人ほどの合唱が加わります。今回このレーベルのSACDを初めて体験することになりましたが、期待に違わずそんな大人数とは思えないような、しっかりピントの合った音が聞こえてきます。管楽器もそれぞれきっちりと存在を主張してくれていますし、特にトロンボーンの響きなどは、細かいテクスチャーまではっきり聴き取れる素晴らしい録音です。ただ、一応「ライブ録音」とはなっていますが、もちろんゲネプロや本番など数種類のテイクを編集するのは最近のお約束です。ここでも、さすがはDSD、曲の途中で明らかにマイクからの位置が変わっていると気づかされるようなつなぎ目がはっきり分かってしまいます。
そんな優秀な録音ですから、合唱などはかなりアラが目立ってしまうのは仕方がありません。ライブということもあるのでしょうが、なかなかパートとしてまとまることが出来ず、特に女声はあまり感心できる仕上がりではありません。しかし、男声はなかなか溌剌としたものを聞かせてくれています。言葉ひとつひとつにしっかり意味を持たせて、アグレッシブに表現しているのには、思わず引き込まれてしまうものがあります。
そんな積極的な表現が、「Dies irae」になったとたん、さらに激しいものに変わりました。テンポがかなり速め、デイヴィスってこんなに元気な音楽を作れる人でしたっけ。ここは合唱だけではなく、オーケストラもどんどん前へ進んでいく生きの良い感じ、なんといってもティンパニとトランペットの合いの手が見事に決まって、とても気持ちのよいグルーヴを出しています。しかし、なんだかそのリズムがあまりにもかっこよすぎるような気がしないでもありません。そこで、スコアを見て確認したところ、ここのトランペットのリズムが普通のジュスマイヤー版とはちょっと違っています。「タン・タン・タン・タン・タン・タン」という八分音符が6個続くリズムを「ウン・タカ・タン・タン・タン・タン」と、最初の音を休み、2つ目の音を半分にして十六分音符2つにする形に変えているのです。これで緊張感が高まり、単調なリズムがいっぺんに生き生きとしたものに変わってしまいますよね。この楽譜の変更があったお陰で、この楽章は曲全体の中のクライマックスになっていました。
使われている版に関しては、なんの表記もありませんから、これを聴いてもしや、と思って全体をチェックしてみたところ、大方は紛れもないジュスマイヤー版だったのですが、「Rex tremendae」では、最初に弦楽器が2拍刻んだあとに入る管楽器の合いの手がなくなっていましたよ。これは、バイヤー版以降の改訂で全てとられているやり方ですね。うーん、デイヴィスというのは、こんなこともやっている人だったのでいびすか。
しかし、1967年に録音したBBC交響楽団との演奏(PHILIPS)ではこんなことはやっておらず、ごく普通のジュスマイヤー版でしたから、最近の心境の変化、長年この曲を演奏してきて、ここだけはぜひ直したい、というやむにやまれぬ欲求がわき上がってきたのでしょうか。それがいつ頃からのことなのかを知るためには、1991年にバイエルン放送交響楽団と録音したRCA盤を聴く必要があるでしょう。このCDをお持ちの方は、ぜひ検証結果をお教え下さい。
オーケストラはかなりの集中力を持って密度の高いアンサンブルを聴かせてくれていますし、合唱も技術的なレベルの低さを補ってあまりあるほどの独特の味を出している中で、ソリストたちはかなりの不満が残るものでした。特にソプラノのアーネットの不安定さは、隠しようもありません。男声2人はいかにも薄味、これだけの編成の中では、違和感が残ります。

2月16日

Hungarian Electroacoustic Research
HUGAROTON/HCD 32449

ハンガリーの現代作曲家、イシュトヴァーン・シゲティについては、こちらでフルートのための作品をご紹介したことがありました。その時に、彼は元もとはライヴエレクトロニクスのようなものを作っていた人だ、と言っていましたね。その「本業」の方が収録されているのが、このアルバムです。ここにはシゲティをはじめ、同じ世代のハンガリーの作曲家たちの作品が集められています。それぞれに個性が発揮されていて、単に「電子音楽」という範疇でくくってしまえないような広がりを持っているのが、なかなか面白いところです。
ここでは6人の作曲家による8曲の作品を聴くことが出来ます。そのうちの5人は1950年代以降の生まれですが、一人だけヤーノシュ・デシェーニーという人だけがちょっと世代の異なる1927年生まれです。彼の作品は「Stones」というものなのですが、「電子音楽」というよりは、そのもっと前の形の「ミュージック・コンクレート」の手法をとっています。実際の音を録音して、それをさまざまに加工するというものなのですが、ここでは聴いた感じではその「加工」はあまり施されてはいないように思えます。どちらかというと、音源のコラージュといったおもむきでしょうか。ただ、その音源が火山の爆発を思わせるような壮大なものだったりしますから、まるでドキュメンタリー・フィルムのサントラを聴いているような気になってきます。後半では、タイトルにある「石」が登場、それらを打ち鳴らすリズムでミニマルっぽく迫ります。
ギュラ・ピンテールという人の「トッカータ」は、もともとはオルガンのための曲だったそうです。それを、おそらくサンプリングしたオルガンの音で再現するという趣向でしょうか。最初のうちは普通のオルガンのように聞こえているものが、次第にエレクトロニクスならではの独特の表現に変わっていくのが面白いところでしょう。
ベーラ・ファラゴーさんの「Dirty Works」は、SPレコードのようなスクラッチ・ノイズを素材にした作品、そのレコードに録音されているのは笛の音だそうですが、変調された音の中からその素朴な音色が聞こえてくるというのが、なんともレトロです。そのレトロさは、「ビーッ」という単純な三角波(最初は、装置がおかしくなったのかと思いました)の中にあって、確かに際だつものです。
ここではミクローシュ・スガールという人と、シゲティの2人だけが、それぞれ2曲を提供しています。この2人はまっとうな(というのも変ですが)電子音楽というもので勝負です。スガールはおとなしめ、シゲティは過激な音源という、対照的な「作風」を聴くことが出来ます。スガールの「Birds of the Crater」という曲などは、実際に火山の噴火口(クレーター)の中で演奏されたというものですが、まるで「姫神」か「喜多郎」かといったメディテーションの世界です。マネをしたわけではないでしょうが(それは「イミテーション」)。ちなみに、ジャケットの印刷では、この曲とさっきの「Dirty Works」の時間表示が入れ替わっています。対するシゲティの「Hypostasis」は、人間の声も素材にしていて、まるでリゲティの「アバンチュール」を思わせるものです。
そのリゲティの作品に、「ポエム・サンフォニク」という、100台のメトロノームを一斉に鳴らすというとんでもない曲がありますが、イシュトヴァーン・ラーングの「Capriccio metronomico」というタイトルを聞いてその曲のことが頭をよぎったとしたら、その人はかなりのマニアに違いありません。まさにこれは、そのハンガリーの先達へのオマージュとしての作品であるはずです。メトロノームのビートをサンプリングして、さまざまに組み合わせるという曲なのですが、その最後にはリゲティが作り上げた100台のメトロノームのクラスターが、高らかに鳴り響いているのですから。

2月14日

SWEENEY TODD
The Demon Barber of Fleet Street
Sound Track(Highligts)
NONESUCH/7559-79961-3


Original Cast
MASTERWORKS BROADWAY/82876-68639-2


現在上映中のジョニー・デップ主演の映画「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」はもうご覧になりましたか?「とってもスイート」とはいきませんが、面白いように飛び散る血しぶきと、そんな材料で作ったとてもおいしいパイというグロテスクな設定も、そのバックで流れる美しい音楽とはなんの違和感もなく受け止められるのではないでしょうか。デップや相手役のヘレナ・ボナム・カーターが歌を歌っていたのにも驚かされたはずですが、これはもともとはブロードウェイ・ミュージカルだったものの映画化なのです。そのミュージカルというのは、1979年の3月に初演された後、1980年の6月まで、557回のロングラン公演を続けたという大ヒット作品です。もちろん、現在でも世界中で上演されており、昨年はデップ役を市村正親、ボナム・カーター役を大竹しのぶというなんだかなあというキャストで、日本でも上演されたそうです。
初演直後に録音されたそのブロードウェイでのオリジナル・キャスト盤が、映画の上映に合わせてリマスターされ、ボーナス・トラックのおまけも付いてリイシューされました。映画で聴いた音楽があまりに素晴らしかったので、サウンドトラック盤と、そして、そのオリジナル・キャスト盤を、即座に入手してしまいました。それほどまでして手元に置いておきたくなるような、これは、別にミュージカルに特別の思い入れがない人でも間違いなく心を打たれるに違いない美しい曲のいっぱい詰まった作品です。
幕開け、そして何度となく登場することになる「The Ballad of Sweeney Todd」は、屈託のない3連符のリズムとは裏腹に、不気味な和声で包まれています。その拍子も、微妙に変拍子が組み込まれているもの、さらにお馴染みグレゴリオ聖歌の「怒りの日Dies irae」のモチーフが印象的に響き渡ります。判事の家に幽閉されているスウィーニーの娘の美しさをたたえる「Johanna」は、一度聴いただけで虜になってしまう素敵な歌です。切ない思いを寄せるアンソニーが歌う曲と同じものを、スウィーニーが次々に客をカミソリで血まみれにする場面で使うという発想が、たまりません。終わりの方でのトビーのナンバー「Not While I'm Around」は、年上の女性であるマダム・ラベットを「僕がそばにいて守ってあげる」という、一途な気持ちが見事に表れた、名曲です。
作詞と作曲を担当しているのは、スティーヴン・ソンドハイム、ブロードウェイのミュージカル界ではまさに「巨匠」の名をほしいままにしている人です。この方は作詞と作曲の両面に秀でているという希有な才能の持ち主で、かつてはあの「ウェスト・サイド・ストーリー」で作詞を担当していました。その時の作曲者はもちろんレナード・バーンスタインなのですが、もしかしたらソンドハイムは作詞だけではなく、作曲に関してもかなりの部分で関与していたのではないか、という思いが、「スウィーニー・トッド」の音楽面での完成度の高さを見るにつけわき上がってきてしまいます。そのつもりになって聴いてみると、この2つの作品の中にいくらでも同じ人が作ったかもしれないと思えるような「クセ」を見つけ出すことだって、出来るかもしれません。例えば、ヘミオレを多用したリズム処理とか、全体を支配する極めて個性的な和声感、そして、複雑なポリフォニーなどです。なによりも、一度聴いただけですんなり入っていけるキャッチーなメロディを作る才能は、バーンスタインの他の作品では殆ど感じることが出来ないだけに、「もしかしたら・・・」と思ってしまいます。
オリジナル・キャスト盤のボーナス・トラックには、1992年に行われたジェリー・ハドレーのような「オペラ歌手」が出演したこの作品のコンサートのライブ録音の一部が収録されています。そういう場にも耐えうるだけのクオリティを持ち得ているというのも、バーンスタインとの「共作」の成果との共通点です。

2月12日

CRAS
Oeuvres pour choeur, voix et orgue
Sophie Marin-Degor(Sop)
Pierre Farago, Vincent Rigot(Org)
Pierre Calmelet/
Le Madrigal de Paris
TIMPANI/1C1120


先日のロパルツの時に取り上げたTIMPANIというレーベルは、本当にまめにレアな作曲家の新しい録音を世に出してくれています。ロパルツと同じブルターニュの作曲家ジャン・クラのアルバムも、この合唱曲などを集めたものが4枚目になるそうです。もちろんすべての曲が世界初録音、資料としても貴重なものには違いありません。ところで、最初にこのレーベルに出会うことになったクセナキスのオーケストラ作品全集は、第4集が出て以来リリースが途絶えていますがいったいどうなっているのでしょうか。
1879年にブルターニュ半島の西端の町ブレストで生まれ、52才という若さでこの世を去ったクラは、生涯軍人と作曲家という二足の草鞋を履き続けた人でした。言ってみれば「ロシア5人組」のような、アマチュアの作曲家です。しかし、アカデミズムに縛られなかった分、自由な発想で様式にとらわれない曲を産み出したと言うことは出来るのではないでしょうか。
合唱、ソプラノソロ、そしてオルガンのための曲を収録したこのアルバム、最初にオルガンと混声合唱で演奏されている「聖者を讃える賛歌Hymne en l'honneur d'une sainte」では、そんなちょっと様式を特定できないような不思議な構成を持った音楽に、ある種の新鮮味を感じることが出来るはずです。いつまで経っても収まるはずのところに収まらないという意外性が、一つの魅力として確実に伝わってきます。これを歌っている合唱は、男声がちょっと頼りない感じを受けますが、女声はまずまず、何よりも変に力まない素直な歌い方には好感が持てます。
次がソプラノソロによる「天使の糧Panis angelicus」、フランクによる同名の曲が有名ですね。ただ、オルガン伴奏に乗ってソリストのマリン・デゴールが歌い出したときには、そのフランクの曲が持っている世界とはあまりにかけ離れたけばけばしさに一瞬たじろいでしまいました。その違和感は、おそらく作品のせいではなく、ひとえに、この無神経なソリストのみに負っているものなのでしょう。その独りよがりでドラマティックな表現は、間違いなくこの作曲家の宗教曲にはそぐわないものだったのです。この人が歌う曲はあと2曲「Ave verum」と「Ave Maria」が用意されていますが、それらはこのアルバムの価値を貶める以外の何者でもありませんでした。
気を取り直して、無伴奏の混声合唱のためのミサ曲を聴くことにしましょうか。「Credo」が含まれていないコンパクトなミサ曲、ここでは伝統を重んじているかのように、対位法などが頻繁に用いられています。これはこれで、なかなかきっちりとした曲ですね。と思っていると、「Gloria」の後半でまたあのソプラノが登場して来るではありませんか。もう勘弁して欲しいものです。このだらしないソプラノは、そのあとも「Sanctus」と「Benedictus」に加わります。「Benedictus」などは、合唱が作る緩やかなリズムに乗ってとても美しいメロディが流れるという素敵な曲なのですが、このソプラノにかかってはそれもぶちこわしです。
後半には5曲から出来ている「山でDans la montagne」という男声合唱組曲が歌われます。もちろん、この合唱団の男声には多くを期待することは出来ませんからもっぱら曲そのものを味わうことにしましょうか。印象派風の響きも聞こえてきて、なかなか味のある曲です。最後の「夕べ」、「夜」という2曲は、ちゃんとした合唱団が歌えば間違いなくしっとり男声の深い響きを味わえるはずのものですし。
最後には、オルガンのソロで、クラが自分の結婚式で使ったという「結婚行進曲」を聴くことが出来ます。華やかさよりは勇壮な雰囲気の勝った曲ですが、それよりも4分もかかるというこの堂々たる曲が流れている間に、新郎新婦はどんなことをやっていたのか、などということに興味が湧いたりはしませんか?時間をもてあまして、心労で倒れたとか。

2月10日

Karajan
The Legendary Decca Recordings
Herbert von Karajan/
Wiener Philharmoniker
DECCA/478 0155


生涯に500枚近くのアルバムを録音したという、おそらくクラシックの指揮者としては最高の記録を持っているであろう往年の指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンは、今年が生誕100年ということになります。それを記念してCD業界はここぞとばかりにカラヤンの偉業を讃えようとしています。もちろん「偉業」というのは、亡くなってから20年近く経っても未だに衰えない彼のアルバムのセールスということなのですが。確かに、彼のお陰で、レーベルが儲からやんことはありませんでした。
その恩恵を最も受けたであろうDG、というかユニバーサルあたりは、なんとDG時代のすべてのアルバムを240枚のCDのセットにして、それを30万円で売るというのですから、なんともすごいものです。たった1枚で20万円というガラスCDよりはマシでしょうが。
カラヤンといえば殆どDGの専属アーティストのように思われているかもしれませんが、ベルリン・フィルとのコンビで夥しい録音を行う前の数年間、イギリスのDECCAのためにウィーン・フィルと録音を行っていた時代がありました(もちろん、その前にはウォルター・レッグが作ったフィルハーモニア管弦楽団との仕事をEMIでしていたのですが)。正確には1959年から1965年まで、その間に「指輪」でおなじみのプロデューサー、ジョン・カルショーのもとでオペラを含めて多くのアルバムを作ることになるのです。その中で純粋にオーケストラだけのものが全部で15枚ありますが、それをすべて収録した9枚組のボックスが、DECCAからりリースされました。それがネットで割り引かれると7000円ほどで買えるので早速お買いあげです。30万円は無理ですが、このぐらいだったら。
正確を期すと、このボックスにはその15枚のアルバムがそのまま入っているわけではありません。ヨハン・シュトラウスの「こうもり」序曲だけは、1959年のシュトラウス・アルバムからではなく、翌1960年に録音された「こうもり」全曲盤からとられています。さらに、同じものから「バレエ音楽」がおまけで収録されています。
そんなことは添付のブックレットに書いてあるわけではありません。これはなんともお粗末なもので、正確な録音データは掲載されてはおらず、年ごとにまとめて、録音順に曲名が書いてあるというだけのものなのですから、そのあたりは別の資料をあたる必要があります。そこで、さらにマニアックな話になりますが、その資料によると、カラヤンとウィーン・フィルが最初にDECCAに録音したものはベートーヴェンの交響曲第7番ということになっています(当初はRCAの「ソリア・シリーズ」としてリリースされました)。しかし、ジョン・カルショーの自伝Putting the Record Straightによると、まず最初にR・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」を録音してから「RCAのために」録音を行ったと書かれているのです。カルショーはよく勘違いを起こしていて、それは訳者の山崎浩太郎氏によって逐一訂正されているのですが、この部分にはそのような手は及んではいません。何よりも、カラヤンとの最初の録音のことを、カルショーが忘れるはずがありませんよね。ブックレットもこの資料と同じ順番になっていますので、DECCAが初出のアルバムに記載したデータが間違っていたことになるのでしょうか。ちなみに、この「ツァラトゥストラ」は、「2001年宇宙の旅」のサントラに用いられていたのは、今では常識です。
カルショーのチームのエンジニア、ゴードン・パリーの作り出すサウンドは「指環」で折り紙付きの華麗さで迫ってきます。ウィーン・フィルの弦楽器が醸し出すえもいわれぬ艶やかさは、後のベルリン・フィルとのDG(あるいはEMI)による録音とは次元の異なる美しさを聞かせてくれています。カラヤン自身も、この頃の音楽の方が力がこもっていると感じられるのは気のせいでしょうか。このシリーズの最後の録音である「白鳥の湖」と「眠りの森の美女」などは、勢いあまってとてもこのコンビとは思えないようなアンサンブルの乱れが見られます。変にのっぺりとした演奏よりも、こちらの方がスリリングな魅力にあふれているのはなぜなのでしょう。

2月8日

DOPPLER
Concerto for Two Flutes and Orchestra
Patrick Gallois, 瀬尾和紀(Fl)
Patrick Gallois/
Sinfonia Finlandia Jyväskylä
NAXOS/8.570378


瀬尾和紀さんといえば、このサイトではおなじみの、世界中で活躍なされている若手フルーティストです。いや、「若手」などと言われているうちに、もはや今年で34才(寅年です)を迎えることになり、立派なオトナのオトコになってしまいました。活動の方も幅が広げられているようで、東京でもっと若い音楽家たちを集めたオーケストラを結成、その音楽監督として、指揮にまで手を伸ばすという躍進ぶりです。先月行われたその旗揚げコンサートには、自らフルートを吹きつつオーケストラを指揮する瀬尾さんの姿がありました。
そういえば、瀬尾さんの師匠であるパトリック・ガロワも、ただのフルーティストには飽き足らないアーティスト、フィンランドにある「シンフォニア・ユヴァスキュラ」というオーケストラの音楽監督として、ハイドンの交響曲のCDなども出しているのは、ご存じの通りでしょう。もちろん、瀬尾さんのこの前のWARNERのアルバムでは、イベールやロドリーゴなどのフルート協奏曲で瀬尾さんのバックを努めていましたね。
今回は、瀬尾さんがホフマンのアルバムでデビューを果たしたNAXOSへの久しぶりの登場です。フルート界ではおなじみの作曲家、というか、自らもフルーティストであったドップラーの2本のフルートのための作品を、師匠ガロワとともに演奏しています。タイトルの協奏曲は、もちろん最初からオーケストラが付いている作品ですが、その他の普通はピアノ伴奏で演奏される曲も、すべてフィンランドの作曲家によってオーケストラ用に編曲されている、というのがユニークなところでしょう。そして、そのオーケストラを指揮し、なおかつ1番フルートを担当するという、おいしいところを独り占めにしているのがガロワです。いえいえ、それは冗談。ドップラーの場合、1番も2番も難しさはいっしょ、というより、最初に2番がソロでテーマを吹いて、そのあとを1番が追いかける、といった場面も多く用意されているので、どちらかといえば2番の方が「通好み」のポジションかもしれませんよ。もちろん、これはフランツ・ドップラーが、4才年下の弟カールといっしょに演奏するために作ったものですから(中には、2人による共作もあります)、お互いの見せ場をどっぷらーと用意してあるわけです。
そんな名人が作った曲たちを、とびきりのヴィルトゥオーソであるガロワと瀬尾さんが共演するのですから、楽しくないわけがありません。その技術たるや、単に華麗に吹くというだけではなく、その中にきっちりと意味を持たせようとしているクレバーなものですから、まさに胸のすくような、それでいてなにか納得させられる面さえも持っているのです。
「リゴレット・ファンタジー」では、もとのアリアの持つ情景まで目に浮かんできますし、「アメリカのモチーフによるデュエッティーノ」では、「何でこんなメロディーが」と思わず叫んでしまいそうなユーモアのセンスも見え隠れ、「協奏曲」のアンダンテ楽章では、たっぷりとした叙情性が全開です。
このCDでは、二人のソリストの位置がはっきり分かるような録音になっていますから、いっしょにハモっていない、それぞれがソロをとるときには、どちらが吹いているのかがよく分かります。それを聴いていると、1番のガロワはまるで「まだまだ、弟子には負けていないぞ」といった感じで、いかにも年輪を感じさせるようなちょっと臭い表現をとったりします。すると、2番の瀬尾さんが「師匠、いくらなんでも、それはないでしょう」といった具合に、軽くいなすような場面が見えてきてなにか楽しくなってしまいます。
そんなガロワが一人で吹いた「ハンガリー田園幻想曲」は、ちょっとすごいですよ。まさに濃厚で奔放な世界、「若い」瀬尾さんにはまだまだ無縁の境地です。

2月6日

Greatest Hits
The King's Singers
EMI/514587 2


イギリスのヴォーカル・グループ「キングズ・シンガーズ」が結成されたのは1968年、今年2008年はちょうど40周年にあたります。そこで、それを記念して、EMIからこんなコンピレーション・アルバムがリリースされました。2枚組の構成、1枚目にはポップス、2枚目にはクラシックということで、全部で48曲ものナンバーが収められています。
彼らは、例えば1948年に結成され、適宜メンバーを入れ替えるという手法で現在まで60年間も生きながらえているという希有なグループ「フォー・フレッシュメン」と同じパターンで40年のキャリアを築いてきました。カウンター・テナー2人、テナー1人、バリトン2人、ベース1人という当初の6人編成は全く変わってはいませんが、最も長い期間在籍していたオリジナル・メンバーのアラステア・ヒューム(カウンター・テナー)が1993年に脱退したために、今ではオリジナル・メンバーは一人も残ってはいないようになっています。テナーあたりは、確か現在では4代目のはず。さらに、所属レーベルも当初のEMIにいたのは1980年代の終わりまで、90年代に入るとさまざまなレーベルを転々とするようになり、最近になってやっとSIGNUMに落ち着きました。
もちろんこれはEMI時代の録音を集めたものですから、80年代の彼らの演奏しか聴くことは出来ません。その中でも、メンバーの違いによって同じグループであってもちょっと異なる面が見られるのが面白いところでしょう。大半はカウンター・テナーが、さっきのヒュームの他にナイジェル・ペリーとジェレミー・ジャックマンという、かなり上品なテイストを持っている人たちでしたから、サウンド的にはちょっとおとなしめだったものが、最後の頃になって現在のメンバーであるデイヴィッド・ハーレイが加わってくると、俄然力強い響きに変わってきます。この人はあまりファルセットに頼らない、最近のカウンター・テナーに見られるような傾向の声の人ですから、そこでソプラノパートが充実したのでしょう。
ただ、その逆で、最初の頃のテナー、ビル・アイヴスは力強さと甘さとを兼ね備えた素晴らしいシンガーだったものが、このアルバムの大半で聴かれるロバート(ボブ)・チルコットは、ちょっとビターで(それは「チョコレート)全くどうしようもないイモ、その弊害は、1997年に現在のメンバーのポール・フェニックスに替わるまで続くことになるのです。
EMIからデビューした当初は、ルネサンス期のマドリガルなどでこの時代の音楽の楽しさを存分に味わわせてくれていたものです。ですから、その頃の編曲では、ビートルズ・ナンバーをマドリガル風にパロディにするといった粋なことも行われていました。しかし、次第にこのアルバムで見られるように、ごく普通のコーラス・アレンジになってしまったのは、何か寂しいものが感じられてしまいます。ただ、現代作曲家への委嘱作品なども数多く録音していた彼らですから、例えばこの中の「サウンド・オブ・サイレンス」のようなとことんアヴァン・ギャルドの様相を持つ編曲を得たことは、何よりも大きな成果でしょう。サン・サーンスの「動物の謝肉祭」をネタにして、単なるアレンジに終わらないひとつの「作品」を作り上げるようなことも、彼らならではのセンスのなせる業です。しかし、その行き着いた先がヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」のようなものだとしたら、それはあまり幸せなことではなかったような気がしてなりません。
そんな判断の根拠ともなるべき編曲者の名前が全くクレジットされていないのは、コンピレーションの宿命なのでしょうか。メンバーの表記にも少なからぬ誤りが見られるのも、もはやレーベルを離れたアーティストとしての扱いなのでしょう。使われている写真だけは現在のメンバーのものだというのが、ちょっと異様です。

2月4日

ROPARTZ
Petite Symphonie etc.
Pascal Verrot/
Orchestre de Bretagne
TIMPANI/1C1126


ロパルツという作曲家の名前を知ったのはだいぶ昔、知り合いの指揮者末廣誠さんがこの人の「レクイエム」を演奏しているという情報からでした。なんでも末廣さんはロパルツにはかなりの愛着があるらしく、「レクイエム」に関してはおそらく日本で最も多く演奏をしたことがあるはずだと豪語していましたね。
ロパルツはフランスのブルターニュ出身の作曲家、作品にはその地方の反映が多く見られますが、そのブルターニュの都市レンヌと姉妹都市となっているさる地方都市で、姉妹都市提携の何十周年かの記念のコンサートがその末廣さんの指揮で開かれることになりました。そこで演奏された曲目の一つが、ロパルツの「コロノスのオイディプス」組曲という、CDも1種類しか出ていないようなマイナーな曲でした。実は、このコンサートでは末廣さん自身が司会のアナウンサーの方とトークをするという構成だったのですが、その中で末廣さんはロパルツの曲のことを「とにかく地味〜な曲です」と言いきっていました。もちろん、その後で「でも、それがすごく良いんですよね」と付け加えることも忘れてはいません。それが「生」ロパルツとの初対面でした。そこで体験したものには、やはりピクマル(あ、さっきの「レクイエム」の唯一の録音での指揮者です)のCDでは到底味わうことの出来なかった深いものがありました。幸せなことに、そのコンサートではアンコールでもやはりロパルツの「夕べの鐘」という、フルートが大活躍する素敵な曲も演奏されました。実は尻軽女の曲だったりして(それは「夕べの彼」)。
「コロノスのオイディプス」の唯一のCDを出しているフランスのTIMPANIというレーベルは、ロパルツに関しては最も多くのアイテムのリリースを誇っています。それらは殆どが世界初録音となるものばかりですが、1995年に出ていたこのアイテムも、すべて世界初録音、今回品番が新しくなってリイシューされました。この中で作曲者の故郷ブルターニュのオーケストラを指揮しているのが、さっきのコンサートでのオーケストラの現在の音楽監督であるヴェロであるだけでなく、そのコンサートで聴いたアンコール曲までが収録されているのですから、そこにはなにか深い縁のようなものを感じないではいられません。
そのアンコール曲を含めて3曲から成る「鐘の音」という作品だけが、このアルバムの中では初期のものに属します(と言ってもジャケットの「1813年」というのは100年早すぎ)。描写に具体性がありなかなかキャッチーなおもむきですね。フルートソロも、味わいのある豊かな低音を聞かせてくれています。その他の曲はすべて作曲家の晩年に作られたもの、「小交響曲」、「パストラーレ」、「田園のセレナーデ」、「ディヴェルティメント」というラインナップで、ロパルツが到達した透明感あふれる世界を聴かせてくれます。
3楽章から出来ている、ほんの20分ほどの「小交響曲」は、第1楽章や第2楽章で末廣さんの言う「地味さ」が全開となっています。声高にメッセージを伝えるということの一切ない、そこには混沌にも近い和声と旋律が広がります。そこからは、しかし、形には表しがたい不思議な力が心の深いところにやんわりとしみてくるのを感じることは出来ないでしょうか。ところが、第3楽章になった途端に襲ってくる躍動感に満ちたとても地味とは言えない楽想、このあたりの2面性も、ロパルツの魅力なのかもしれません。「パストラーレ」もやはり3楽章形式の実質的には「小交響曲」というべき作品ですが、ここでもフィナーレの意外性がたまりません。そして、溌剌とした「セレナーデ」と、瞑想的な「ディヴェルティメント」という、タイトルを間違えたのではないかと思わせるようなジョークっぽい趣味も、もしかしたらロパルツの魅力の一面なのかもしれませんね。

2月2日

LACHNER
Geistliche Chorwerke
Gerd Guglhör/
Orpheus Chor München
OEHMS/OC 809


フランツ・ラハナーという作曲家は、生年が1803年といいますから、シューベルト(1797年生まれ)とメンデルスゾーン(1809年生まれ)のちょうど中間に生まれたことになります。指揮者としても活躍した人で、1842年には、1829年にメンデルスゾーンによってベルリンで蘇演されたバッハの「マタイ受難曲」を、ミュンヘンで初めて演奏しています(その前の年には、ライプチヒで、メンデルスゾーンによる再演が行われました)。さらに、1865年のワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の初演の際には、ハンス・フォン・ビューローのアシスタントとしてリハーサルの下振りも行っています。
彼の作品は400曲近く、それは多岐のジャンルにわたっていて、8曲の交響曲、8曲の管弦楽組曲といったオーケストラ作品や、室内楽作品、オルガン曲などの器楽曲に加えて、声楽曲の分野でも4曲のオペラを始めとして、ミサ曲やオラトリオ、カンタータ、そして多くの合唱曲や歌曲を作っているといわれています。そんなラハナーの作品の中から、宗教的な合唱作品を集めたものが、このアルバムです。演奏されているのはヘ長調のミサ曲と「スターバト・マーテル」、そして詩篇15番、いずれも二重合唱を必要とする大規模な編成の曲です。
ミサ曲では、ポリフォニーを多用した、まるでルネサンス音楽のような「Kyrie」の美しさに心を惹かれるざんす。もちろんルネサンスにはあるまじき唐突な変化音などは、この時代の作品の証しでしょうか。中間部では、うってかわったホモフォニーの世界、敬虔なその和声は、もう少し後の時代のブルックナーにも通じるものかもしれません。「Gloria」も、メリスマが頻出するバロックっぽいものです。「Credo」が3拍子で始まったのには意表をつかれましたが、このあたりになると、シューマン、メンデルスゾーンの世界でしょうか。最も長い楽章で、その中でさまざまな楽想が登場して、飽きることはありません。「Sanctus」には、型どおりの荘厳さの中にまるで民謡のような素朴さが込められています。「Benedictus」は、ソリストのアンサンブルで始まりますが、その流れるようなメロディはとても魅力的です。同じメロディが合唱によって歌われた後、最後にまたアンサンブルが戻ってくるのも効果的。アルト・ソロが歌い上げる「Agnus Dei」のテーマは短調の切ないものです。最後の「Dona nobis pacem」では長調に変わり、何度も擬終始を繰り返した後しっとりと曲を締めくくります。
息詰まるようなアルト・ソロで、悲しげに始まった「スターバト・マーテル」では、ホモフォニックな合唱がその悲しみを盛り上げます。半音進行を含む、ロマンティックな和声は、宗教曲という枠を超えた、普遍的な訴えかけに聞こえます。最後の部分では、二重合唱を効果的に使ったエコーが聴かれます。
そんな具合に、このラハナーの作品は合唱音楽の歴史を俯瞰したような独特の世界を持ったとても魅力的なものに思えます。おそらく、アマチュアの合唱団のレパートリーとしても格好のものかもしれません。しかし、このアルバムの演奏からは、残念ながらこれらの曲の本当の素晴らしさは伝わっては来ませんでした。ここで歌っているのは、ラハナーが生涯の最後を過ごした地、ミュンヘンの合唱団、しかも、その前身はラハナー自身が指導をしていたこともあるという、由緒正しいものなのだそうです。しかし、現在のメンバー、そして指揮者には、そんな伝統を正しく受け継ぐ能力はなかったように見えます。なにしろ、肝心のソプラノパートが全く生気の乏しい曖昧な歌い方に終始しているのですから。音程は定まらなく、ユニゾンになったときの濁った響きは、気持ち悪くなるほどのものでした。ソリストたちは、もしかしたらこの合唱団のメンバーなのでしょうか。「スターバト・マーテル」の最初に出てくるアルト・ソロなど、悲惨この上ないものです。

おとといのおやぢに会える、か。


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