ストーブない日。.... 佐久間學

(05/11/19-05/12/12)

Blog Version


12月12日

MOZART
Messe en Ut Mineur
S.Piau(Sop), A.-L.Sollied(Sop)
P.Agnew(Ten), F.Caton(Bas)
Emannuel Krivine/
Acceutus
La Chambre Philharmonique
NAÏVE/V 5043


今年のゴールデン・ウィークのあたりに、東京でユニークな音楽祭が開催されていましたね。「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」とか言う、同時に複数の会場でコンサートが開かれている中を、聴衆は自分の好きなところを選んで足を運べる、というものでした。この音楽祭、元々はフランスのナントで10年近く続いたものが、日本に移ってきたものなのですが、その、本場ナントの昨年の音楽祭でデビューしたのが、この「ラ・シャンブル・フィルハーモニク」という、オリジナル楽器のオーケストラです。そして、このオーケストラのデビュー・アルバムが、なんと、この「ハ短調ミサ」なのです。もちろん、レーベルはこの音楽祭と深い関係があるNAÏVE、したがって、合唱もこのレーベルの看板、アクサントゥスということになります。
このオーケストラ、創立にあたってのイニシアティブを取っていたのが、エマニュエル・クリヴィヌだというのは、ちょっと意外な気がします。元々ヴァイオリニストとしてそのキャリアをスタートさせたこの指揮者、その活動のエリアは完全にモダン・オーケストラの中だと思っていたので(確か、NHK交響楽団にも客演していましたね)、いまさらオリジナル楽器のオーケストラと深い関係を持つことなど、ちょっと考えにくかったのです。しかし、そもそもヴァイオリニストから指揮者に転向したこと自体が相当に異色なことなのですから、モダンからオリジナルに転向するのだって、本人にとってはそれほど奇異なことでもなかったのかもしれません。どんなフィールドを選ぶにせよ、最終的にはその人の音楽性が物を言うのですからね。
このアルバムを聴くと、そのようなある種の挑戦は、非常に良い形で実を結んだことが実感できます。ここには、「オリジナル」の専門家と呼ばれるような指揮者が見落としていたのか、もしかしたら故意に排除していたようなある種の「美しさ」が、確かに存在しています。それは、人間が当たり前の生活の中で無条件に「美しい」と感じられる、いわば自然に逆らわない情感のようなものなのかもしれません。
ただ、声楽陣に関しては、そこまでの注意が行き届かなかったのか、オーケストラほどの完成度が見られないのが、惜しまれるところです。合唱は、いつもながらのあと一歩の踏み込みが足らないじれったさが、ここでも現れてしまっています。特に、ソプラノパートが、ポリフォニーでの「入り」にことごとく失敗しているのが、非常にみっともないところ。さらに、「Qui tollis」で8声部となって、各パートの人数が少なくなると、とたんに粗さが目立ってくるのも残念です。
ソリストも、ピオーにしてもソリードにしても、変なクセがあってちょっと理想的とは言い難い人選ではありますが、部分的に、例えば「Et incarnatus est」で、3本の木管楽器とのアンサンブルを繰り広げているピオーなどは、なかなかのバランス感覚を披露してくれています。ハンタイのトラヴェルソを初めとする木管のソリストも聴きものです。
さすが、モーツァルト・イヤー、とうとう同じ曲を3種類も集中的に扱うことになってしまいました。ただ、これらは全て異なるコンセプトによって作られた版によるものだというのが、面白いところです。今回は「エーダー版」、あくまでも自筆稿を最大限に重視した生真面目な、それだからこそ「原典版」としては相応しいものなのでしょうが、その上にさらにイマジネーションを加えたマクリーシュの「モーンダー版」やリリンクの「レヴィン版」を聴いてしまうと、物足りなさは残ります。

12月10日

La flûte à la parisienne
前田りり子(Fl.tr.)
市瀬礼子(Va. d. G.)
Robert Kohnen(Cem)
ALQUIMISTA/ALQ-0012


「パリのフルート音楽−華麗なるロココの饗宴−」というタイトル、ジャケットではパールのネックレスにシースルーの薄衣をまとったアーティストが、いかにも「有閑マダム」といった憂いを帯びたまなざしを投げかけていれば、そこにはある種倦怠感をともなった妖艶な世界が広がっていると思ってしまうことでしょう。しかし、そのジャケット写真の中で、飴色の素朴な輝きを持つトラヴェルソが、いかにも所在なげにその場違いな姿を主張していることに気づいた人は、このアルバムがただの華麗さを見せびらかしているものではないことにも、また気づくはずです。ブックレットの中には録音現場の写真が掲載されていますが、そこで見られるアーティストは、先ほどの「マダム」のイメージなど微塵も感じさせない、半袖のカットソーにパンツという軽快ないでたち、おそらく、こちらの姿の方が、このアルバムの活き活きとした音楽を伝えるには相応しいものに違いありません。
前田りり子さんという名前は、「バッハ・コレギウム・ジャパン」によるバッハのカンタータ全集の録音の中で、たびたび目にしていたものでした。もはや、オリジナル楽器の演奏者というものが、日本に於いてもさほど珍しくなくなってきた音楽状況の中で、さりげなく、メンバーの一人として名を連ねていた、という印象。というよりは、殆ど日本人によるこの団体が世界的にも評価されている、その一翼を至極当然のように担っているという印象でした。
このアルバムで、彼女のソロを聴くに及んで、今さらながら昨今のオリジナル楽器が到達したレベルの高さには、驚いてしまいます。クイケン、ハーツェルツェットという、現在望みうる最高のトラヴェルソ奏者の薫陶を受けた彼女は、それらの師をも凌駕するほどのテクニックと音楽性を、存分に披露してくれていたのです。
ここで取り上げられているのは、18世紀半ばのパリのサロンを彩ったさまざまな作曲家、ルクレール、ブラヴェ、ボワモルティエ、ブラウン、ラモーといった人たちの曲。彼女は、それぞれの個性を充分に吹き分けているだけではなく、そこに、もっと踏み込んでさながら現代でも十分通用するほどのメッセージを込めているようにすら、思えてきます。なかでも、ミシェル・ブラヴェの1740年のソナタで見られる生気あふれる表現からは、もはや「サロン」などという範疇を超えた深みのある主張を感じないわけにはいきません。終楽章の華麗な変奏も、見事なテクニックに裏打ちされて聴くものを惹き付けています。ここで特筆すべきは、共演者によるサポートの大きさでしょう。超ベテランのコーネンは言わずもがな、ガンバの市瀬礼子さんの深いニュアンスは、どれほど曲に陰影を与えることに貢献していることでしょう。実際、ガンバのほんのちょっとした表情で曲全体がガラッと趣を変えてしまう瞬間が、何度あったことか。
そんな3人のスリリングとも言えるアンサンブルが最大限に発揮されているのが、ジャン・フィリップ・ラモーのコンセールです。それぞれの楽器が繰り出す、殆どインプロヴィゼーションとも思えるような自由なフレーズたち、彼女たちが作り出す音楽は、とっくに「ロココ」などを飛び越えた宇宙を作り上げています。もちろんハワイにとどまっていることもありません(それは「ロコモコ」)。

12月8日

MOZART
Mass in C Minor(ver. Levin)
Damrau(Sop), Banse(Sop)
Odinius(Ten), Marquardt(Bas)
Helmuth Rilling/
Gächinger Kantorei Stuttgart
Bach-Collegium Stuttgart
HÄNSSLER/CD 98.227


モーツァルトの「ハ短調大ミサ」はついこの間取り上げたばかり、その際にこの曲が未完であることにも言及していましたね。「クレド」が最初の2曲しかなく(それも、オーケストレーションは未完、ちゃんと作っておいてくれど)、「アニュス・デイ」は全く作られていないというのが、この曲のありのままの姿なのです。かつては作曲されていない部分を補填して演奏する(「シュミット版」がこの形)という事が広く行われていたようですが、最近では作曲者が作ったものだけを演奏するという道が、主流になっています。「ランドン版」や、新全集である「エーダー版」が、その道を先導したものでした。
しかし、あと数週間後に迫った2006年に「モーツァルト・イヤー」を迎えることになれば、やはりこの曲を、ミサ曲が本来あるべき姿で演奏されるようにしてあげたい、という動きも盛り上がってこようというものです。その中心となったのが、宗教曲業界の重鎮ヘルムート・リリンク、彼は同じ志を持つ「シュトゥットガルト・バッハ・アカデミー」と「カーネギー基金」の協力の下、このような「修復」には定評のあるロバート・レヴィンにその仕事を依頼したのでした。ご存じの通り、レヴィンは同じ作曲家の「レクイエム」の再構築にあたっても、リリンクとの共同作業で素晴らしい仕事を残していますね。
レヴィンによって出来上がったフルスペックのミサ曲、「クレド」の残りの部分は、この曲が作られた当時の現存する多くのスケッチから修復されました。そして、「アニュス・デイ」には、このミサ曲が作られた2年後に、この曲の「キリエ」と「グローリア」をそのまま使い回しした「悔悟するダヴィデ」という作品の中で、新たに作られたアリアを逆に使いまわすという、なかなか粋なことを行いました。この、本来はソプラノソロのためのアリア、短調で始まったものが後半長調に変わるのですが、そこから「ドナ・ノービス・パーチェム」のテキストが合唱で歌われるようになっています。その結果、このミサ曲は演奏時間7633秒と、まさに「大ミサ」と呼ぶに相応しい堂々たるものに仕上がりました。
この「レヴィン版」、初演は2005年の1月にニューヨークのカーネギー・ホールで行われ、3月にシュトゥットガルトで行われた再演の模様が、ライブ録音されたものが、このCDという事になります。
その「再構築」の成果ですが、「クレド」の後半は、やはり馴染みがないせいか、ある種の違和感が伴うのは致し方のないことでしょう。この版が根付くかどうかというのは、ひとえに演奏される頻度、いわば「ヘビーローテーション」の有無にかかっているのではないでしょうか。ただ、テノールのソロによって歌われる「Et in Spiritum Sanctum」という装飾的なアリアは、オディニウスのあまりにも稚拙な演奏で曲自体の評価が下がってしまうのが懸念されてしまいます。
しかし、バンゼによって歌われる「アニュス・デイ」には、この大きなミサ曲の中での一つのハイライトと位置づけられるだけの確かな存在感を誰しも認めることが出来るはずです。このナンバーがあることによって、「レヴィン版」は将来もその存在価値をアピールできるだけのものを持ち得たのではないでしょうか。
ライブという事もあって、演奏面では不満足な点も多くなっています。しかし、一つの記念碑的な演奏として、持っているのも悪くはないかな、とは思えるものです。

12月5日

BARTOK
Music for Strings, Percussion and Celesta etc.
Christian Ostertag(Vn)
Michael Gielen/
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg
HÄNSSLER/CD 93.127


「バーデン・バーデン&フライブルクSWR交響楽団」というよりは、未だに「南西ドイツ放送交響楽団」という言い方の方がぴんと来る、このオーケストラは、もちろん、南西ドイツ放送付属の3つのオーケストラのうちの一つです。ハンス・ロスバウト、エルネスト・ブールといった、「現代音楽」ファンにはお馴染みの指揮者が首席指揮者を務め、「ドナウエッシンゲン音楽祭」という、まさに現代音楽のメッカで華々しい活躍をしてきたこのオーケストラには、何と言っても現代音楽で培ってきた精緻な演奏が期待されています。かつての首席指揮者、現在でも常任客演指揮者として密接な関係にあるミヒャエル・ギーレンは、そんなオーケストラの力をここで存分に発揮してくれました。
ギーレンとこのオーケストラとの演奏で忘れられないのは、ブルックナーの交響曲第4番の第1稿の録音(INTERCORD/1994年)です。現在では殆ど演奏されることのない、この若書きの、言ってみれば「怖いもの知らず」といった趣さえ漂う版は、オーケストラにとっては、とてつもない難所がいくつもあって実際に演奏しようとすると多くの困難が伴うものです。特に、最終楽章の最後の部分などは4拍子と5拍子が入り乱れての「ポリリズム」の饗宴、とても楽譜通りに演奏することなど不可能に思えるほどのものです。実際、数種類出ているこの版の録音で、ここをきちんと演奏しているものは殆どありません。その中にあって、このギーレンたちは、信じがたいほどのリズム感とアンサンブル能力でもって、この部分から、正確に演奏した時にのみ味わえる「モアレ効果」を出現させてくれたのです。焼そばの中には出現して欲しくありませんが(それは「モヤシ」)。そう、ギーレンの演奏が私達をとらえる最大の要因は、まさにその完璧なリズム感なのです。
このアルバムでギーレンが取り上げたのはバルトーク、リズムが大きな要素となっている彼の作品では、そのギーレンの特質は間違いなく大きな魅力となってきます。それが最大限に発揮されているのが「弦チェレ」の、特にリズミカルな2、4楽章ではないでしょうか。2楽章は、意表を衝いてかなりあっさりしたテンポで淡々と始まります。過剰なアクセントや極端な切迫感などはその中には全くないにもかかわらず、深いところから確かに迫ってくるグルーヴ、これは、まさにきちんとしたリズムが背景にあるからこそできる芸当に他なりません。楽譜に忠実に演奏しているだけなのに、そこからはさまざまな衝撃が実体のある訴えかけとなって伝わって来るという、ある意味「おしゃれ」な演奏、こんな素敵なものは、力ずくで無意味なアクセントをでっち上げている○ーノンクールあたりでは味わえるわけがありません。
4楽章も、最初の部分がシンコペーションの効いた軽やかなダンスがずっと続いていることなど、この演奏を聴くまで感じたことはありません。今まで、情緒的な側面に気を取られて、いかに基本的なリズムをおろそかにしていた演奏が多かったかということが、図らずも露呈されてしまったわけです。ギーレンのすごいところは、そのようなある意味冷徹な処理を取っているにもかかわらず、歌うべきところではしっかり歌っているということです。この4楽章でも、その対比がどれだけ音楽を深みのあるものにしていることか。
「ヴァイオリン協奏曲第1番」では、うってかわって叙情的な面が強調されています。これも、作曲家のメッセージを真摯に受け取った結果でしょう。そして、まるで同じ作曲家のオペラ「青髭公の城」のようなテイスト満載の「管弦楽のための4つの小品」で見られる、ナイフのように鋭い表現こそは、まさにギーレンの真骨頂と言えるのではないでしょうか。「プレリュード」の冒頭で聞こえてくるフルートソロのひんやりするほどの不気味さはどうでしょう。

12月2日

MOZART/Flute Concertos
HÄNDEL/Flute Sonatas
Severino Gazzelloni(Fl)
Bruno Canino(Cem)
山岡重信/
カメラータ・アカデミカ東京
BMG
ジャパン/BVCC-37456/57

先日、テレビでバッハの「ロ短調ミサ」の演奏会の模様を見ました。それは、バッハが晩年を過ごしたライプチッヒの、その彼の職場であるトマス教会でのもの。そこで演奏していたのは、ライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のメンバー、もちろん、全員モダン楽器を使っています。このミサ曲の中には、フルートによるオブリガートが入るナンバーがいくつかあります。その中の一つ、「グローリア」の4曲目、「Domine Deus」で、その女性奏者のソロが始まった時、私はしばし、そこで何が起こっているのか把握できなくなってしまいました。確かにそれはフルートという楽器によって演奏されているのですが、出てきた音はおよそフルートとは異なったものだったのです。最近はもっぱらオリジナル楽器で演奏されたものを聴く事が多くなってしまいましたからなおさらなのでしょうが、フルートが本来持っていたはずのまろやかな音色はそこからは全く聴き取ることは出来ませんでした。
もしかしたら、そこで聞こえてきた音は、モダンオーケストラの中でのフルートとしては、理想的なものだったのかもしれません。木管楽器の中で唯一リードを持たないフルートという楽器は、どうしても他の楽器よりはバランス的に弱いものと受け取られがち、現実に、そのような処理を施す作曲家もいます。しかし、実際のモダンフルートは、そんな柔なものではないことは、この楽器の卓越した奏者であれば知っています。それは、リード楽器とも充分に拮抗しうる強さを持った楽器なのですから。現代のオーケストラでは、そのような意識を持って精進した結果、この女性奏者のようなとてつもなく張りのある音を獲得したフルーティストが、求められるようになっているのです。
しかし、バッハに関しては、もっと柔らかい音で、それこそトラベルソのような感触の演奏を、同じモダン楽器を使って行える人もいます。それだけ、この楽器の表現の幅が大きいという事なのでしょう。
セヴェリーノ・ガッツェローニという往年のフルーティストが、1973年と1975年に来日した際に日本人のスタッフの手によって録音された2枚のLPが、この度CDとなって復刻されました。この30年前の録音を改めて聴いた時に、先ほどのフルートという楽器の持つ表現力の大きさというものを、はからずも再確認させられることになろうとは。
ガッツェローニという人は、同じ時代の新しい作品にかけては定評のあったフルーティストです。「現代音楽」シーンで、彼によって命を吹き込まれた作品は数知れません。そのような、特殊な奏法や敢えてカンタービレを廃した表現がつい表に出てしまうという彼の印象からは、ここで演奏しているモーツァルトやヘンデルはやや期待はずれ、というか、あまりにも真摯な「フルーティスト」が前面に現れているので驚いてしまうほどです。それは、フルートという楽器をとことん鳴らし切ったもの、そこからは、さっきのバッハとは違った意味でこの楽器の可能性を最大限に追求したプレイヤーの姿を見ることが出来るのです。その魅力を最もよく味わえるのが低音域。よくある、倍音を沢山加えて無理矢理響きを作るものではなく、殆ど基音しか含まれていないような恐ろしく純粋な音にもかかわらず、豊かな響きが発散されているという低音です。彼が、これほどの素晴らしい音の持ち主だったとは、「現代音楽」だけを聴いていたのでは到底分からないことでした。
ただ、細かい音符の処理には難があったり、華麗さにはほど遠いテクニックであるのが、残念なところ。もちろん、その「響きすぎる」音は、例えばヘンデルあたりでは、昨今の趣味とは全くかけ離れているため、広く受け入れられることはないでしょう。このような、ある種「モンスター」がいたことの記録としてのみ、手元に置いておく価値を見いだせるはずです。あるいはペットとしてとか(それは「ハムスター」)。

11月30日

MOZART
Great Mass in C Minor
Camilla Tilling(Sop)
Sarah Connolly(Sop)
Paul MacCreesh/
Gabrieli Consort & Players
ARCHIV/00289 277 5744
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCA-1059(国内盤 1月25日発売予定)

モーツァルトの「ハ短調大ミサ」は、彼の宗教曲の中では「レクイエム」に次いで人気のある曲ではないでしょうか。「大ミサ」と言うだけあって、オーケストラの編成も大きく、なにより合唱の規模が最大8声部と、大人数が必要になって、なかなか盛り上がる曲です。こういう人気曲が揃いも揃って未完である、というのが面白いところ、もちろん、こちらの場合はまだ作曲者はピンピンしていましたから、最後まで仕上げなかったのはその必要がなくなったからであって、健康上の理由ではありませんでしたがね。
そんなわけで、「未完」の曲を演奏する際には、色々の方法が出てくるわけで、それぞれの主張に沿った「版」が存在するのも、「レクイエム」と同じことです。「ランドン版」、「バイヤー版」、「モーンダー版」、そして最近出来た「レヴィン版」と、どこかで聞いたことのあるような名前が、「ハ短調ミサ」業界を賑わすことになるのです。いうまでもありませんが、ここには「ジュスマイヤー版」は存在しません。
マクリーシュがここで採用したのは、「モーンダー版」。今まで、この版での演奏はホグウッドとパロットのものしかありませんでしたが、こういうクセの強いマイナーなものは、マクリーシュのセンスには合っていたのでしょう。「レクイエム」のモーンダー版同様、あくまでモーツァルト自身が作ったもの以外は認めない、という頑なな態度は、ここでも貫かれています。ただ、自筆稿以外にも演奏された時の楽譜なども参考にして、「修復」を行った、というのがユニークな点です。一つの標準である新全集として出版されたエーダー版との一番の違いは、「クレド」に金管とティンパニが追加されたこと。華やかな曲調が一層強調されることになりました。
バッハあたりでは合唱は「1パート1人」などという挑戦的なことを実践していたマクリーシュですが、モーツァルトでは、幸い、そんなことはやらないでくれました。全部で30人程度の人数は、オーケストラとのバランスから言っても過不足のないところでしょう。複雑なフーガのメリスマなど、技術的には安心して聴いていられるものがあります。しかし、残念ながら、女声パートのまとまりなどは、今のイギリスの常設の合唱団の水準には到底及ばないものであることは認めないわけにはいかないでしょう。ただ、オーケストラも含め、こんなちょっと「雑」な感じは、もしかしたらマクリーシュの趣味なのかもしれませんから、一概に決めつけることは出来ないでしょうが。
その「趣味」を認めれば、ティリングとコノリーという2人のソプラノソロの起用も、ある程度理解できるかもしれません。高音はとても立派なのに低音は全く使い物にならないというのと、リズム感の欠如という大きな欠点をもつティリングと、コロラトゥーラがとてもお粗末なコノリーは、普通の趣味でしたらこういう様式を持つモーツァルトの演奏には使わないと思うのですが。ティリングの歌う「クレド」の2曲目、「エト・インカルナトゥス・エスト」などは、素朴なオリジナルの木管楽器とは全く溶け合わない立派な声だけが、異常に目立って聞こえてしまうアンバランスなものでした。
ただ、カップリングとして収録されているハイドンとベートーヴェンのソロカンタータでは、この2人はまるで水を得た魚のように生き生きとした、ドラマティックな歌を披露してくれています。「『シェーナ』と『アリア』」という、殆どオペラの1場面を切り取ったような劇的な作品、マクリーシュはこういう音楽と共通するセンスをモーツァルトのこのミサの中に痒い目で(それは「麦粒腫」・・・仙台では「バカ」と言います)見出したということを、強調したかったのでしょうか。

11月26日

SCHUBERT
Octet
Mullova Ensemble
ONYX/ONYX 4006


シューベルトの作品で私が最初に接したものが八重奏曲(オクテット)だったというのは(あ、リートなどは彼の作品だとは知らずに聴いていましたが)、交響曲などについては奥手っということになるのでしょうか。それは幼少の頃の、「ウィーン八重奏団」という団体の来日につながる思い出です。ウィーン・フィルのコンサートマスター、ウィリー・ボスコフスキーと、その弟(兄?)の首席クラリネット奏者アルフレート・ボスコフスキーによって創設されたこのアンサンブル、その時にはウィリーは別の人に代わっていましたが、アルフレートはまだメンバーだったはずです。その初来日公演の模様はNHKのテレビやラジオで何度も紹介されていました。当時のNHKには後藤美代子という、いかにも「クラシック」そのもののような格調高いしゃべり方をするアナウンサーがいて、このような放送のMCは一手に引き受けていたのですが、そこで彼女がメンバーの名前を読み上げる調子まで、未だに耳に残っているのですから、幼い頃の刷り込みとは恐ろしいものです。「フィリップ・マタイス」とか、「ギュンター・ブライテンバッハ」などという、まるでおまじないのような名前を今でも思い出すことが出来るのですからね。
そのウィーン八重奏団が演奏していたのが、この八重奏曲だったのです。特に耳に残ったのが、第3楽章のスケルツォ。その軽快なリズムと明るい曲調は、それ以来私の「マイ・フェイヴァリット・シューベルト」になりました。第4楽章の優美な甘さもいいですね。何回も聴いているうちに、第6楽章のテーマがとても無駄の多いもののように思えてきたりもしたものです。シューベルトにはそのような冗長な面もあることを知ったのはずっと後になってから、当時はこのアンバランスなテーマが不思議でなりませんでした。
それから何年たったことでしょう。久しぶりにこの曲の新録音を見つけたので、何はともあれ聴いてみる気になりました。ヴィクトリア・ムローヴァが大分前に演奏スタイルを変えていたことも知っていましたから、それを実際に確かめるという興味もありましたし。
まず印象的だったのは、パスカル・モラゲスのとても柔らかい音色のクラリネットでした。その場の楽器の音を全て包み込んでしまうような、ふんわりとした響き、他の管楽器、ファゴットとホルンも、それにピッタリ合わせた音色で、見事に溶け合っています。そして、ムローヴァを中心とする5人の弦楽器は、幾分渋めの音色で、それに応えていて、アンサンブル全体がまるで一つの楽器になったかのような趣をたたえています。ところが、そんな穏やかな外見とは裏腹に、その中で行われている楽器同士の駆け引きは、とことん緊張感をはらんでいるというのが、面白いところです。モラゲスがあるフレーズを歌いすぎていると見て取るや、そのフレーズを受け取ったムローヴァは、まるで甘さをたしなめるかのように、冷徹な歌い方で返す、といった具合です。ですから、第4楽章の変奏曲では、とてもスリリングなドラマが展開されることになります。テーマは素っ気なく始まりますが、それを受けて各変奏でソロを取る楽器がここぞとばかりに自己を主張する様は、まさにアンサンブルの醍醐味といえるでしょう。フィナーレも絶品です。序奏が終わって、さっきの「変な」テーマが本当にさりげなく、遅めのテンポで始まります。しかし、その遅さは、コーダの伏線だったのです。この、荒れ狂うようなコーダの迫力のあること。
「八重奏曲」のこんなスリルに満ちた一面なんて、ウィーン八重奏団のいかにもサロン風の優雅な演奏からはとても気づくことなど出来なかったはずです。さっきのスケルツォにしても、ただの脳天気な曲想だと思っていた中に、これほどの陰影が込められていたというのも、新鮮な発見でした。なによりも、「ウィーン」で聴き慣れた思い出の中にはなんの意味もない「つなぎ」としてしか受け止めることが出来なかったような多くのパッセージが、ここでみずみずしくその必然性を主張してくれていたのは驚きです。ムローヴァたちの演奏によって、この曲の魅力が、ワンランク高いところで味わえるようになったことに、感謝です。

11月23日

FAURÉ
Requiem
Sylvie Wermeille(Sop)
Marcos Fink(Bar)
Michel Corboz/
Ensemble Vocal et Instrumental de Lausanne
AVEX/AVCL-25046(hybrid SACD)


先日、「CDの価値は収録時間の長さでは決まらない」と書いたばかりですが、やはり程度問題というのはあるものです。今回はSACDということもあるのでしょうが、37分しか入っていなくて3000円、微妙ですね。
コルボにとって、おそらく3度目になるこの曲の録音、1972年(ERATO)と1992年(ARIA)の時には普通の「第3稿」が用いられいましたが、ここではなんと「ネクトゥー・ドラージュ版」という、「第2稿」にあたる版で演奏されています。長年この曲を演奏し続けてきた彼が晩年に到達したのがこの版だったというのは、感慨深いものがあります。なんでも、最近山形県のさるアマチュア合唱団が、この「ネクトゥー・ドラージュ版」でコンサートを開いたとか、合唱の現場では確実にその知名度は広がってきています。木管楽器もトゥッティのヴァイオリンもないという極めてユニークな編成によって味わう独特のフォーレ・サウンドが、どんな演奏会でも聴ける日が来るのもそう遠いことではないはずです。ただ、同じ「第2稿」と言っても、ジョン・ラッターが編曲したいわゆる「ラッター版」は、私はある種妥協の産物ではないかと思っているのですが。
この録音は、今年の2月に日本で行われたコンサートのライブ録音です。東京オペラシティのコンサートホールという、合唱などは非常に美しく響くホールなのですが、この録音は必ずしもその合唱がバランスよく収録されたものではありませんでした。どちらかというと、オーケストラの方に重点を置いたような不思議なバランス、ヴィオラの深い響きが織りなす渋いオーケストレーションは存分に堪能できるのですが、肝心のコーラスがそのオーケストラに埋もれてしまって、あまり聞こえてこないのです。最近、マルチチャンネルのハイブリッド盤で、CDレイヤーを聴いた時によく感じられるこのアンバランス感、もしかしたら、エンジニアの耳がサラウンドに偏ってしまって、もはや2チャンネルには対応できなくなってしまっているせいなのでしょうか。
コルボという人に関しては、私は決して熱心なリスナーではありません。マンガは好きですが(それは「コルボ13」)。というのも、例えばERATOから出ていた一連のモンテヴェルディの作品などでは、そのあまりに主観の勝った表現に辟易した記憶があるからです。「精神性」や「神への信仰」を語る前に、もっとやるべきことがあるのではないか、という思いが、どうしても彼の演奏にはついて回ったものでした。しかし、彼の場合、ライブでの聴衆を巻き込んだ燃焼力には、何かとてつもない魅力があるのかもしれません。別の曲でのライブ盤を聴いたことがありますが、殆ど崩壊寸前のその混沌の中からは、確かに彼にしかなし得ない「何か」が聞こえて来たような気がしたものです。
今回の東京でのライブ、その「燃焼力」は「Libera me」で確かなものとなって現れていたことを、このCDによって知ることが出来ます。通常の演奏、そして、彼自身の演奏と比較してもおそらく倍近くの演奏時間ではないかと思われるほどのとてつもなく遅いテンポからは、かつてこの曲からは聴いたことのなかったおどろおどろしい情感が伝わってきたのです。まるで今にも倒れそうなほどの頼りない足取りが聞こえてくるような低弦のピチカートに乗って歌われるバリトン・ソロは、何か大きな不安を内に秘めているかのように、聴衆の耳には届いたことでしょう。このテンポが本番だけのものだったのは、そのバリトン、フィンクが、思ったように息が持たなくて、プロにはあるまじき場所でブレスを余儀なくされたことでも分かります。
Pie Jesu」でのソロは、コーラスのメンバーでもあるヴェルメイユ。その不安定な音程と、苦しげなビブラートは、いかに無垢な声であってもカバーすることは出来ません。したがって、合唱のレベルも、極上とは言い難い歯がゆさを伴うものでした。

11月21日

BEETHOVEN
Symphonies 1&2
Giovanni Antonini/
Kammerorchester Basel
OEHMS/OC 605(hybrid SACD)


ベートーヴェンの交響曲といえば、かつては極めて崇高な音楽として捉えられていたものでした。この9つの曲を演奏する前には、数週間滝に打たれて精神を清め、身も心も浄化されたところで、初めて音を出すことが許される、というのが冗談に聞こえないほどの厳しさが要求されていたのです。9番目の曲などは、冬場に演奏されることが多いわけですから、体が震えるほどの思いでしょうね(「寒気の歌」)。
最近になって、このベートーヴェンの交響曲を取り巻く状況は劇的な変化を遂げました。その引き金は、オリジナル楽器(最近、さる「古楽」の専門家が書いた本を読んでいたら、「本当は『オリジナル楽器』と呼びたいのだが、紙面の都合で『古楽』と書かせてもらう」という一節がありました。いい加減、『古楽』とか『古楽器』といった言い方、やめませんか)による演奏の隆盛と、「原典版」の刊行です。この2つの出来事が表裏一体となって、今まで一つの「型」として崇められていたベートーヴェン像は跡形もなく崩れ去り、作曲家が作品に込めた通りのメッセージを、演奏家が自身の感受性を通して聴衆に届けるという、真の音楽のあり方が許されるようになったのです。
そんな状況の最も新しい成果が、この、「イル・ジャルディーノ・アルモニコ」という、極めて挑戦的な音楽を仕掛けることで知られているグループのリーダー、アントニーニが指揮した1、2番で聴くことが出来ます。演奏しているバーゼル室内管弦楽団は、バロックなどではオリジナル楽器を使うことがあるそうですが、ここでは基本的にモダン楽器(ピッチもモダン・ピッチです)が使われています。もちろん、可能な限りの「ピリオド・アプローチ」は施されています。モダン楽器ならではの木管の滑らかな響きは、ガット弦による弦楽器と見事に溶け合い、とても爽やかな印象を与えてくれます。そこに、ちょっと粗野な金管とティンパニが加わることによって、音色に格段の変化がもたらされるという、異質なものの併存である「オリジナル」的な処理が、見事に効果を発揮しています。
一方、「原典版」を用いた成果が殆どショッキングなほど現れているのが、1番の第3楽章、スケルツォの11小節目です。
 従来版

 原典版

従来版(上)と、原典版(下)を比べてみて下さい。従来版では2拍目からfの指示ですが、原典版では1拍目からすでにfになっています。この違いは、このCDのようにきちんと楽譜通りに演奏されたものを聴いてみると、はっきり分かるはずです。リズム感が全く異なって、まるで別の音楽になっていることに気づくことでしょう。今まで聴いてきたものはいったい何だったのか、もしかしたら、「まさにこれこそが、ベートーヴェンが伝えたかったものなんだ!」と叫んでしまう人もいるかもしれないほどの衝撃です。というのも、今までに出ていた「原典版」による演奏で、ここまで徹底して楽譜の指示に従っていたものは殆どなかったからなのです。あのノリントンなどは、「ベーレンライター版」(譜例はヘンレ版ですが、中身は同じです)と謳っているにもかかわらず、この部分は従来版の指示で演奏しているのですから。
そんな、斬新な気迫は認めつつも、この「1番」に関しては、急にpにしたものを、徐々にふくらませてfまで持っていくというように、まるで、あのアーノンクールのように表情の付け方に一本調子なところがあって、音楽的な習熟度がいまひとつな感は否めませんでした。ところが、それから半年後に録音された「2番」では、その変な「クセ」は見事になくなり、とても心地よい自然なフレージングが出来るようになっているのですから、ちょっと驚いてしまいます。ですから、この「2番」は、とても完成度の高い、素晴らしい演奏に仕上がっています。第2楽章の柔らかい弦楽器の響きも、先ほどのノリントンの金科玉条である「ノンビブラート」からは決して生まれ得ない、豊かなものでした。ピリオド・アプローチの第1世代であるアーノンクール、第2世代であるノリントンを超えたところで、第3世代のアントニーニが花を開きかけている、と言ったら、褒めすぎでしょうか。

11月19日

REICH
You Are(Variations)
Maya Beiser(Vc)
Grant Gershon/
Los Angeles Master Chorale
NONESUCH/7559-79891-2


スティーヴ・ライヒの最新作が届きました。2003年の「チェロ・カウンターポイント」と、2004年の「You Are(Variations)」です。2曲合わせても、収録時間が39分足らずというのは、最近のようにフォーマットの限界ギリギリまで詰め込もうというCDが多い中にあっては、ひときわ異彩を放っています。正直、70分、80分という長さは、聴き通すにはちょっと辛いと感じてしまうこともあるものですから、決して「長ければ良い」というものではないというのは、紛れもない真実です。音楽、特にクラシックの場合は、その価値は経済性と結びついた何かの単位に換算することなど、決して出来ないのですから。
ライヒの作品といえば、ひたすら決まったパターンを演奏し続けるという、どこか人間の情感に背いた要素が秘められているような印象を与えられるものであることは否定できません。逆に、そのような「クール」なものであったからこそ、それが魅力となって「ライヒを聴かない日はない」というほどのコアな支持者も得たのでしょう。今回のタイトル曲「You Are」では、基本的にはそのような行き方に変わりはないように見えます。決まったパルスに乗って、それぞれのパートだけを淡々と演奏している姿からは、感情の高まりといったエモーショナルなものは決して出てくるはずはないと、今までの彼の作品を数多く聴いてきた体験を持つものとしては当然思ってしまっていたはずです。しかし、意外なことに、ここからはかなり「濃い」情感をともなったメロディが聞こえてきたのです。もちろん、普通に「メロディ」といわれている流麗なものとはほど遠い形をしてはいますが、それは確かに音の高低の変化の中に確かな意味を見出すことの出来る知覚現象(なんという回りくどい表現)だったのです。全体で4つの部分に分かれていますが、それぞれが、殆どあの「交響曲」における「楽章」と変わらないほどの性格が与えられていた、というのも、今までのライヒの作品からはなかなか見つけにくかったものでした。スケルツォ的なシンコペーションが心地よい「第2楽章」、まるでラテン音楽のようなノリの「フィナーレ」、そして特筆すべきは「第3楽章」の殆どリリカルといって差し支えない美しさです。
そのような印象を与えられた要因に、「合唱」の参加が挙げられます。かなり初期の段階から、ライヒは人の声をアンサンブルの中に取り入れてきていました。ただ、それは殆ど楽器と同等の扱いであったため、「声」ではあっても決して「歌」として認識できるものではありませんでした。しかし、この作品の中で、ライヒはいつになく大規模な声楽を取り入れています。譜面づらは「voices」といういつもながらの表記ですが、ソプラノ3、アルト1、テナー2というパートは、それぞれ複数の歌手によって(ライナーには、ソプラノ、アルト、テナーとも6人のメンバーが記されています)しっかりとテキストにのっとったホモフォニックなフレーズが歌われれば、それは紛れもない「合唱」として認識されることになるのです。ただ、ここで演奏している人たちの、およそ「合唱」とはかけ離れた稚拙な歌い方からは、「合唱曲」としての完成度を期待するのは不可能です。この曲から、さらに極上のリリシズムを引き出すことを自ら放棄してしまったのは、作曲者が望んだことだったのでしょうか。
その点、1人の演奏者が、あらかじめ録音してある複数のパートと同時に演奏するという、いわば「ひとりア・カペラ」という発想の「カウンターポイント」シリーズの最新作「チェロ・カウンターポイント」では、なんの気負いもないチェリストの手から、ごく自然に「歌」が生まれるのを味わうことが出来ます。ここで聴かれるものは、ライヒの方法論が到達した「対位法」の一つの完成された姿。全部で8つの声部が絡み合い、そこから紡ぎ出される音楽は、確かに情感に訴えかけるものでした。3部構成となっている中間部で、「こんなに美しいライヒがあっていいものか」という感慨にふけることしばし。まさかこんな時代が来ようとは。

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17