聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。

2000.03.16-31

>04.01-15
<03.01-15
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★は借りた新着、☆は新規購入。

今回集中的に論評したディスクなど:
ヤマハ子供音楽教室 体験レッスン
Quincy Jones: "Back On The Block"
りんけんバンド『りんけんバンド』


3/16 トゥーツ・シールマンス Toots Thielemans "The Brasil Project Vol. 2" (Private, 1993)
トニーニョ・オルタ Toninho Horta e Orquestra Fantasma: "Terra dos Passaros" (Dubas Musica/Warner, 1995)
1976年と1979年に録音されたものの、どうやらリリースはこの1995年のCDが初めての模様。ライナーを読む限りテクニカル・データばかりでこの辺の説明がないので、よくわからないのだが。で、ヘタと言い切っていいものか、ともかく歌はひょろひょろで録音品質も今一つなんだけど、妙な開放感に溢れている。ふわっと空に舞う感じ。

3/18 ヤマハの子供音楽教室が無料体験クラスをやるというので、親子3人連れ立って出かける。意外だったのは、リズム遊びや体を動かすプログラムのウェイトが高かったこと。我々が子供時代見聞きしていた子供音楽教室の噂って、もっと音階とか歌だったと思うんだけど、エレクトーンをゲンコツで叩いてクラクション、なんて隔世の感。ヤマハの教育法もそれなりに更新されているのだなあ、と。

ただ困ってしまうのは、それなのに相変わらず使う教材がヤマハオリジナル曲ばっかり、という点。言っちゃ悪いが質の落ちる二等品としか思えないのだ。俗流ニューエイジなんかと同じで、基本的に全音階的な音組織と和声をベースにしているのに、中途半端にポップスな構成方法とリズム構造、そして中途半端にクラシック的な対位法。もっとも、これだけでそれをダメだとは言い切れないのだが。そうしたハイブリッドな位置に音楽の快楽を確立することが不可能な訳ではない。未知のジャンル、未知の方法論の多くは、そういう位置に浮かんでいるはずだ。

だが、やっぱりヤマハ的音楽はどうにも受け付けられない。教育的観点(親バカ。)に立つとなおさら。思い切り端折って言えば、その無自覚さが耐えられないということだろうか。方法論的に無自覚なまま、何となくラクな場所に流れて落ち着いた音楽。それって聴き手をナメてかかってることにならないか。ヤマハって、生徒たちが自作を弾きまくる「ジュニア・オリジナル・コンサート」も同じ傾向だし、どうして全てこの調子なんだろうか。昔から今まで綿々と。

それはともかく、いやあ月謝高いよねえとか我々が話す横で息子が「たのしかった、また来たい」とどこまで本気かわからない発言するのを聞き流しながら、昼食を摂り、SCまで自転車走らせて買物。懸案の茶碗など上手く見つかったが、へたにデパート行くより趣味がいいのはどうしたことか。

ドリ・カイミ Dori Caymmi (Elektra/Musician, 1988)
エリス・レジーナ『或る女』 Elis Regina: "Essa Mulher" (WEA, 1979)
ボカ・リヴリ Boca Livre (MP,B, 1979/Warner, 1998)
カエターノ・ヴェローゾ Caetano Veloso: "Livro" (PolyGram Brasil, 1997)
グラミーのワールド部門アルバム賞だそうで。というのをふと思い出して。

Boca Livre: "Dancando Pelas Sombras" (MP,B, 1992/Xenophile, 1995)
ロー・ボルジス Lo Borges: Meus Momentos 2CDs (EMI, 1999)

3/20 Boca Livre (1979)
Toninho Horta: "Diamond Land" (Verve Forecast, 1988)
ミルトン・ナシメント『出会いと別れ』 Milton Nascimento: "Encontros E Despedidas" (Mercury, 1985)

初めて近所の青年館のスタジオを使ってみる。クラビノーバとシンセばかり2時間弱練習する。といっても、息子のお守りしながらなので、リクエストに応えてばっかでろくに練習になっていないのだが。しかしイヴァン・リンスの曲のコード採りをやっていると、シンプルに見えても意外な進行だったりして唸らされる。

イヴァン・リンス Ivan Lins: "Love Dance" (Reprise, 1989) "Awa Yio" (Reprise, 1991) Acervo Especial (RCA Victor/BMG Ariola)
"Love Dance"は10曲中8曲を英語で歌った世界市場向け盤。これでイヴァンを知ったのが遠回りの始まりではあった。ラリー・ウィリアムズの厚塗りシンセとジョン・ロビンソンらのノイズゲート&コンプレッサー系ドラムスはイヴァンの繊細なテクスチャをAORとしてローラー曳きするには十分であった。もっとも、その中でも"Who's In Love Here (A Noite)" や "Velas (Velas Icadas)"の際立つメロディ/コード処理があったからこそ、そこで切れずに済んだのだが。

3/21 クィンシー・ジョーンズ Quincy Jones: "Back On The Block" (Qwest/Warner, 1989)☆
実は買おうとまでは思っていなかった。というのは、Ivan Linsの名曲 "Setembro" (9月) がサラ・ヴォーンとTake 6のボーカルで収録されているから興味を持っただけなので、図書館で借りる気でいたのだ。ところがCDNOWを見てたら、その頃丁度"Past Grammy Winner Albums"がセールになっていて、そこにこれも含まれていたのだ。US$ 8.38 (+送料)。じゃ買ってハズレなら売ろうか、と。(しかしグラミーだなんて知らなかった...)

のっけからラップ(大御所Melle Melも参加)入ってて、かつてRod Tempertonをライターに重用していたQuincyをイメージしているとビックリする。だが...何というかこの、どこかPC (Political Correctness/「政治的正しさ」)的な予定調和感が漂うのはどうしてなんだろう。ラップ、ゴスペル、ズールー語コーラス、ジャズの大御所たち。タイトル曲などは決して悪い出来ではないんだが。

PC、と言えばだが、QuincyってU.S.A. For Africaに絡んでなかったかな? あれって、曲は色んな歌手がそれぞれ勝手に節回しを変えて歌ってたのが面白かったんだけど、プロジェクト自体は何というか、そんなに「どこからみても善」なことされるとげんなりしてしまう、という気分があった。

"Back On The Block" はそれを思い起こさせる。ここで称揚されているのは、米国黒人音楽の連綿たる流れ(ジャズからラップまで。もっともこれも練成 elaborate された歴史であって、正史というよりは一つの主張だろうが)、ルーツ賛美(ズールー語コーラスの多用)、未来=子供へ託すもの(Tevin Campbellという声変わり前の男の子をボーカルにフィーチャー)、そして米国黒人の一体感 unity 。それは確かに「善」だけど、でも人間の歌なのか? と思ってしまう。歌は個々人の口から発せられるものだ。そういう「歌」をある集団的主張の旗印として使うことがあるし(革命歌とか)、その効果は証明されてもいる訳だけど、そういう音楽ってそこで終わってしまう気がするのだ。何かを「呼び覚ます」ということなく。

3/22 ブラッドサースティ・ブッチャーズ "Kocorono" (King, 1996)★
図書館ですぐ目の前に並んでいるとは意外だった。マスダさんお薦めの「エモ」= エモーショナルなハードコア? の3人編成バンド。ヘタヘタな歌が、エコーを切り詰めた輪郭明瞭な音作りとあいまって生身っぽい感触を刻んでいく。歌詞がいい。物騒なバンド名と不釣り合いに思えるくらい、等身大であることに誠実に立脚している。青いけど甘ったれない。そう言えば身なりも全然バンド名からは想像つかないフツーのTシャツにパンツっていでたちだったな、彼ら。

だがやっぱりディストーションを効かせまくった音に連続して身をまかせているのは個人的にはキツイな。いや歳とかでなく昔からだけど。

3/24 Quincy Jones: "Back On The Block"
気になって聴き続ける。結局。

Boca Livre (1979)
聴けば聴くほど切なく胸に染みる。あかるいかなしみ、のように。

3/25 生まれたてほやほやの甥っ子の顔を見に帰郷する。だが年度末で忙しいので2泊。短い日程を存分に楽しもうってのに行く途中から喉が変調を来す。どこで拾ったっけか今頃風邪なんて。

3/27 明日から仕事ゆえ、妻子を置いて一足先に帰京する。花粉症に風邪が上乗せされて鼻づまり辛い。からいじゃなくてつらいだってば。

りんけんバンド『りんけんバンド』(Sony, 1993)★
ベスト盤。えーっと詳しいコメントはまた後ほど。

Quincy Jones: "Back On The Block"
Ivan Lins: "20 Anos"
(Som Livre, 1990)
ブラッドサースティ・ブッチャーズ "Kocorono"

ふう。ラッシュにこそ遭わなかったが風邪ひきにはきつい旅程であった。帰宅後一息つき、タンメンこしらえ、ししゃもを焼いて食す。自分ひとりとなると却ってマメになるのが妙ではある。生協の注文票とにらめっこしながら、Milton Nascimento/Lo Borges: "Clube da Esquina"を。

3/28 Fleetwood Mac: "The Dance" (Reprise, 1997)

米を炊きつつ冷凍のレトルトカルビ丼を温め、かき菜の煮びたしを作り、冷凍ミックスベジタブルをレンジで温めバターと醤油を絡める。遅く帰ったにしては手を掛けた晩飯か。

3/29 エルメート・パスコアル『スレイヴス・マス』 Hermeto Pascoal: "Slaves Mass" (Warner, 1977)
おや、これはAirto MoreiraとFlora Purimのプロデュースだったか。ライナーによればHermetoは70年代初頭にこの夫妻の紹介で活動の場を米国に移し、マイルス・デイヴィスのグループへの参加などを経て初めて発表したリーダー作がこれなのだそうだ。

りんけんバンド『りんけんバンド』(Sony, 1993)
全曲1993年新録音のベスト。照屋林賢自身のコメントをふんだんに採り入れたライナーもあって概観するにはもってこいの1枚(但し、音自体は1993年時点のものだから、古い曲についてはその点考慮が必要)。

りんけんバンドは、本土で知られ始めた頃に知り合いがライブを聴いて来て、「何か、あまりに民謡そのまんまだった」といって失望していたのを思い出す。そういう理由で失望、てのも今思えば凄いが(プレ・バブル期の東京人の心性ですなあ)、後からCDの音を知って自分も別の意味でがっかりしたのだった。ここに収められた曲のいくつかはそれを少しだけ思い出させた。

以前、何がそんなに違和感あったのかというと、それはキーボードのコードプレイだ。ジャン、ジャンとドミソだのソシレだのを何のてらいもなく繰り出す。では、何故それが興醒めだったのか。例えば林賢の「ありがとう」と、喜納昌吉&チャンプルーズ(1977)収録の「ハイサイおじさん」(後の新録音とはかなり違う)を較べてみるといい。「ハイサイおじさん」は、敢えてコードを振るならスリーコード(ドミソ、ファラド、ソシレ)で全てカバーできてしまうほど「コード的には単純な」曲に思える。ところが、その曲をそんな風に小さくまとまったものにせずむしろ豊かにしているのは、実は「コードプレイの不在」なのだ。コードに還元されない、複数の旋律線---歌と三線、時にベースも---が音の動き、音色の含みを際立たせ、それが音楽の「語り」を作っていくというあり方は、沖縄民謡のフォーマットとも呼応しているだろうし、それはまたヤマトのいわゆる「純邦楽」の、基本的には全ての楽器と声が同じ旋律線をなぞりながらも、少しずつズレてみたり違った修飾をしたりしながら変化していく、という構造にも通底する。ライブ音源にスタジオで音をかぶせた矢野誠は、多分そのことを意識して仕事をしたのだろうと思う。

それに対して林賢のあられもないドミソ・ソシレの応酬は一体何なんだろう。それに、そう思いつつ自分自身、以前ほどそれに違和感を覚えていないのはまた、どうしてだろう。多分、その回答は林賢自身の考え---ポップスの人はちょっと考えすぎていて意見が合わないんだそうだ、とライナーは紹介している---の中にある。林賢は、音楽のある部分(全部でなく、あくまでも部分だが)を「軽み」として捉えているのだろう。丁度、彼の父である照屋林助の、漫談を交えた弾き語り芸のように。実際、歌詞の一部は林助の作だし、林賢の書く詞にも共通して軽みのあるユーモアが感じられる。語り聴かせ芸としての歌に、凝りまくったコードや対位法がついて回っては軽くならないではないか。そう考えて、歌詞に身を預けて聴いていると、チャラチャラしたコードプレイがうってつけの舞台装置に思えて来るのだ。
(ただ、こうして聴く歌はかなり「語り」に依存した歌であり、ウチナーグチもろくに解らないので歌詞カードを手放せず、当然ご当地のノリも共有していない私が、果たしてどこまで楽しめてるのかという問題は、どうしても残るのだが。)

ともかく、りんけんバンドのコードプレイについて感じたこれらのことは、ネーネーズ/知名定男の曲に感じたような、単純化された西洋音楽語法の齟齬感とはちょっと異質なものだ。ただ、林賢も「この曲は高度。何故かというとラの音も使っているから。」などと、沖縄の音組織に対して西洋音楽的な分析眼を差し向けていることが見て取れるので、これはこれで今後も気に留めておきたいポイントではある。

3/30 Boca Livre (1979)
Fleetwood Mac: "The Dance"

3/31 ジャネット・ジャクソン Janet Jackson: "Rhythm Nation 1814" (A&M, 1989)
Quincy Jones: "Back On The Block" と同じ年に出てたのと言えば...と引っ張り出す。今じゃTLCとか宇多田を手掛けてることのほうが有名かもしれないJimmy Jam & Terry Lewisのプロデュース。この頃のJam & Lewisは、重めのドラムマシンの音でミディアム・テンポを刻みながらサンプリング音源のリフを絡めていくようなパターンが多く、今どきあまり流行らないだろうとはいえ今聴いても面白い。それにこのアルバムに限っては、ディストーションのかかったギターの無機的な(一瞬打ち込みかと思う)使い方が印象的で、デジタル・ロック的なアイディアをあくまで装飾的な位置づけとはいえ実用化していたと言えそうだ。

しかしQuincyと較べると両極端って感じだなあ。こっちのほうが当時はセンセーションになってたと思うけど、Quincyの大同団結路線に対して武闘派路線とも取れるJanetがグラミーでは勝てなかったってのも当然か。音的にも、80年代の象徴たるYamaha DXのペラペラシンセを厚塗りしているQuincyに対して、Janetはサンプリング音源を駆使しつつも音数は抑えてタイトに作ってあり、これも両極端。



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