タイトル・Web風土記ふじいでら
top menu  タイトル・藤井寺市の交通   site map
 府道12号・堺大和高田線
 大阪府道12号・堺大和高田線 (さかいやまとたかだせん)  奈良県内では「奈良県道12号・堺大和高田線」
 国土交通省が「主要地方道」に指定
 《延長》約31km(YAHOOマップにおける概測値 若干の誤差あり)

 《起点》大阪府堺市堺区 戎島町交差点(国道26号・府道29号との交点)
 《終点》奈良県大和高田市 今里交差点
(国道166号・奈良県道116号との交点)
     
※ 大阪府内の一部区間と奈良県内では国道165号と重複する
 《通過市町》大阪府:堺市・松原市・羽曳野
(はびきの)市・藤井寺市・柏原(かしわら)市  奈良県:香芝(かしば)市・大和高田市
 幅員:(市域内)
10m ~ 2(拡幅部分)
 指定:
1954(昭和29)年1月20日 建設省(現国土交通省)が「主要地方道堺大和高田線」を指定
 認定:   〃    6月
10日 大阪府が「主要府道堺大和高田線」を認定
    
1955(昭和30)年3月 1日 奈良県が「主要県道32号堺大和高田線」を認定 ※この後両府県が番号を変更
 開通:1959(昭和34)年5月18日 藤井寺市域の部分が全通
 ① 府道12号・堺大和高田線の経路と周辺道路の様子 2025年
①府道12号・堺大和高田線の経路と周辺道路の様子
府道12号 国道 府道 高速道路 府県境界 市町境界
         ※ 府道12号・県道12号の国分交差点-今里交差点の区間は国道165号と重複
         ※ 府道・県道は一部のみを表示  ※ 国道165号の国分交差点以北は国道25号と重複
大阪湾と奈良盆地を結ぶ道
 府道12号は路線名の通り大阪府堺市と奈良県大和高田市を結ぶ府県道です。地域的には大阪府の沿岸部と奈良盆地の中南部をほぼ東
西に結ぶ道路としてかなり重要な役割を担っています。上の地図でわかるように、大阪府側から奈良盆地の中・南部に入る一般道の国・府
道は、国道
165号(府道12号)と国道166号です。166号の羽曳野市域部分は昔の街道のままで道幅が狭く、接続する府道も大阪府湾岸部
には直結していません。そのため、府道
12号の方により高い利用度がありました。高速道路ができる前はなおのことでした。
 大阪府と奈良県は隣接していますが、府県境に生駒山地が衝立のようにそびえ立ち東西向きに行き来できる場所は限られていました。そ
んな中で、トンネルや高い峠で山地越えをすることなく大阪と奈良を行き来出来るこの府道
12号は国道25号と並んで利用度が高く交通
量の多い道路です
生駒山地とその南の金剛山地との切れ目で大和川に沿うと奈良盆地北部の奈良市方面に向かう国道25号と共に大阪平
野から抜けます
やがて南東に向かうと奈良県に入って行きます。奈良県内では「県道12号・堺大和高田線」という路線名に変わります。
現在、大阪府道と隣接府県の府県道とは、路線番号が共通化されています。
 藤井寺市から石川を越えて柏原市に入ると、国分交差点で大阪市から来る国道
25号と合流しますが、すぐに分岐してこの国分交差点から
終点の大和高田市までは国道
165号と完全に重複します。そのため、奈良県内では奈良県道12号を示す標識は設置されていません。道路地
図でも
165号で表示されるのが普通です。したがって、実質的に府道12号としての役割をしているのは堺市から柏原市までの区間という
ことになります。国道
165号も香芝市からは大和高田バイパスができていて、大和高田市内には新旧の国道165号が通っています。165
のバイパス線がすべて完成すると、旧
165号とはまったく別の場所に新165号が通ることになります。
 府道12号の全延長は
30km余りですが、堺-国分間の実質的な府道の区間は約16kmです。藤井寺市周辺を通過する府道としては、
全延長の長い府道路線と言えるでしょう。
(府道20号枚方富田林泉佐野線の方が延長は長いが、大部分が国道旧170号と重複している。)

 「さかいやまとたかだせん」では語呂が悪いためか、地元ではもっぱら「やまたか」「やま高」などの略称が用いられています。起点の
「堺」は完全に無視されていますが、利用者にとっては起点の場所よりも、どこへ行く道なのかの方がより大切な情報なのでしょう。それ
に、「堺」が付く府道は何本もありますから。なお、ネットの投稿記事などでは「山高」という略称の表記を見かけますが、これは誤った
表記です。「大和(やまと)」は、もともと和語の「やまと」に「大和」の漢字を当てた熟字訓
(特別訓読み)なので、「やま」の読みを一つ
の漢字に分離することはできません。「飛鳥(あすか)」などと同じです。したがって、「やまたか」「ヤマタカ」「やま高」など、カナを
用いて表記するしかありません。元の名称に「山」は無いので、やはり誤りと言うしかありません。
旧街道のバイパスとして誕生-ルーツは古代の官道
 近代以降に新設された幹線道路の多くがそうであったように、府道12号も旧街道のバイパス線として建設されました。元になった街道は
「長尾街道」と言います
。「長尾街道」の名称は新しく、明治25年以降から使われている(国土交通省大阪国道事務所)そうです。この街道
のベースとなっているのは古代の官道「大津道」と言われています。この大津道は堺から東へ直進し、現在の藤井寺市域を通過して大和川
を越えたと考えられていますが、藤井寺市内でのはっきりしたルートはよくわかっていません。

 長尾街道は現在もよく残っており、特に大阪府内では北三国ヶ丘交差点(堺市)―石川(藤井寺市)で府道12号とほぼ並行して存在してい
ます。と言うより、長尾街道に並行してバイパスの府道が造られているのです。長尾街道の堺市域・松原市域の部分は古代官道の名残を留
めており、東西にほぼ一直線で通っています。昔の道標も各地で見ることができます。            「長尾街道」
② 藤井寺市域の府道12号のルート
② 藤井寺市域の府道12号のルート     〔GoogleEarth 2023(令和5)年5月10日〕より  文字入れ等一部加工
  国・府道と交叉する大きな交差点が3ヵ所ある。藤井寺市内では折れ曲がりの大きい長尾街道と交叉する部分がある。
 写真②は、藤井寺市域の府道12号と周辺の様子を見る衛星写真です。市域の中央部には2本の国道と1本の府道が南北に通っています。
その3本の幹線道路を串刺しするよ
うに、府道12は市の中央部を東西に貫いて通っています。つまり、3本の国・府道を東西につなぐ役
割も持っているのです。さらには
高速道路の出入口であるインターチェンジとこの地域随一の幹線道路・国道170号との連絡道路という
重要な役割も担っています。藤井寺インターチェンジは、西名阪自動車道の起点から最初にある「番号1」のインターチェンジです。
 少し南側には
近畿日本鉄道の南大阪線が通っていますが、土師ノ里(はじのさと)駅付近―高見ノ里駅(松原市)付近の区間は府道12号と並行し
ています。かつては府道12号で路線バスも運行されており、近鉄大阪線・河内国分駅
(柏原市)―南海高野線堺東駅の区間を行き来する路
線でした。しかし、もともと鉄道路線と並行していることや自家用車利用の拡大などでバス利用者が減少し、平成時代の初期に廃止となり
ました。
 バイパス線として造られた府道12号の元である長尾街道を見
ると、藤井寺市内では府道12号と交叉しています。これは、藤井寺市内で長
尾街道が南に大きく折れ曲がっているためですが、なぜこの地域で南下するようになったのかはよくわかっていません。もともとは東へ直
線的に進んでいたと考えられています。時代を経る中で何らかの変化が起きてきたものでしょう。
 長尾街道に沿って造られた府道
12号ですが、終点は長尾街道の東端である葛城市よりも先の大和高田市です。重複する国道165号は、さ
らに続いて国道
166号や国道169号と重複・交差してから東へ進み、昔の初瀬(はせ)街道のルートで桜井市・名張市を経て三重県津市に至り
ます。桜井で分岐する国道
166号は、榛原(はいばら)街道→伊勢街道→和歌山街道のルートを経て三重県松阪市へと至ります。また国道169
号は橿原市内で分岐した後、中街道・東熊野街道のルートで飛鳥・吉野を抜けて大台ヶ原の麓を通り、和歌山県新宮市に至ります。
 このように、長尾街道は伊勢や紀伊の国につながる主要街道に接続しており
そのバイパス道路である府道12号もまた、同じルートにつ
なぐ役割を持つ道路のなです。
三つの交差点-最初は小山交差点
 藤井寺市内の府道12号には、国道
府道と交叉する交差点が3ヵ所あります。交差点
ができた時期はばらばらで、最も古い交差点と新しい交差点とでは
、約30年ほどの開き
があります。最初にできたのは「小山
(こやま)交差点」で、戦前の昭和13~15(1940)年頃で
はないかと私は推測しています。はっきり示す資料には出会えていませんが、他の材料
からそのように推測しま
した。府道12号の小山交差点を中心とする東西約800mの区間
はその頃にできたと思われ
(後述)、同じ頃か少し早く開通した府道・大阪古市(ふるいち)
(現府道2号旧中央環状線・現府道186号大阪羽曳野線)と交叉する小山交差点が誕生して
います。交差点と言っても、当時の周辺は一面の水田地帯でした
(写真⑯)
 現在の小山交差点も府道どうしが交叉する交差点ですが、3種類の府道の接続・交差
点となっています
東西に通るのは府道12号ですが、南北は交差点を境に二つの府道に
分かれます。交差点から南側は府道
186号大阪羽曳野線、北側は府道旧2号旧中央環状
線です。府道186号はこの交差点から東へ折れ、沢田交差点まで
12号と重複します。
  ③ 府道12号の小山交差点(西より)
③ 府道12号の小山交差点(西より)
  小山交差点から東の沢田交差点までは、府道186号
 大阪羽曳野線と重複する。    2023(令和5)年2月
   Googleストリートビュー「小山交差点」
 府道186号と旧2号は、もともとは府道・古市大阪線という1本の路線として開通しその後に陸軍大正飛行場(現八尾空港)の拡張整備
に伴うルート変更が行われました
戦後になって大阪外環状線(現国道170号)が開通し大和川の左岸(南岸)堤防の府道が延伸整備されるな
どの変化があり、府道の認定ルートが変更されました。186号のルートは府道12号や国道170(大阪外環状線)と部分重複する複雑なもの
に変わり、通行する人々にはわかりづらいものになっています。               「府道186号・大阪羽曳野線」
土師の里交差点
 2番目にできたのは「土師の里交差点」です。か
つてこの交差点に接して存在した地名「土師の里」
は、住居表示制度実施に伴う再編で無くなりました
が、交差点名ではそのまま維持されています。交差
点のすぐ横が駅であり、この名のままの方がわかり
やすいということでしょうか。もっとも、駅名の方
は「土師
里駅」の表示になっています。近鉄の元
大阪鉄道系の路線の駅名では、このような駅名の場
合、「○○
○駅」の表示形式で統一されており
南大阪線では「高見ノ里
」「恵我ノ荘」「上ノ太子」
長野線には「汐ノ宮」があります。
④ 土師の里交差点と土師ノ里駅(北西より)
 ④ 土師の里交差点と土師ノ里駅(北西より)   2013(平成25)年5月   合成パノラマ
  写真の手前から直進する道路が府道12号。右手向こうから来る道路は国道旧170号。周辺では
 交差点の標高が最も高い。四方から交差点に進入する国・府道はみな上り坂となっている。
  交差点内は、市内で初めて導入されたスクランブル方式になっている。朝夕の歩行者は多い。

              Googleストリートビュー「土師の里交差点」
 土師の里交差点は、この部分の府道・堺大和高田線が開通した1958(昭和33)年10月に誕生しています。それまでこの場所を南北に通って
いたのは1938(昭和13)年に開通した府道・柏原富田林
(とんだばやし)(産業道路 現国道旧170号)でした。同じ年に府道・古市大阪線も開通して
おり、藤井寺市域を南北に貫通する幹線道路が同時に2本誕生したことになります。その2本の府道を東西に貫い
たのが、戦後の昭和30
代に開通した府道
堺大和高田線だったのです。その後1963(昭和38)年4月には府道枚方富田林泉佐野線(旧柏原富田林線 他)が2級国道
(当時)
として制定施行されます。藤井寺市域を通る初めての国道でした。 「土師ノ里駅」 「土師の里交差点・土師ノ里跨線橋」
 土師の里交差点は国道が通る交差点となり、道路の格の上でも通行量
の上でも、藤井寺市域で最も主要な交差点となりました。国道昇格前年
の昭和37年2月には、当時の美陵町
(みささぎちょう)内では初めての信号機が土
師の里交差点に設置されています。1年後には小山交差点にも信号機が
設置されました。          「国道(旧)170号」
 なお、写真④⑤で見られるように、土師の里交差点はスクランブル方
式になっています。駅に接しているために朝夕の歩行者の横断が大変多
いのです。これも市内で初めての導入で、1972(昭和47)年12月からスク
ランブル交差点となりました。住宅地の急速な拡大と人口急増が激しか
った時期です。その後、藤井寺駅西交差点でも導入されています。
 写真⑤は、空から見る土師の里交差点周辺の最近の様子です。古墳の
部分を除けば、ほとんどが建物で埋まってます。この区域では、農地は
すっかり無くなってしまいました。よくある私鉄沿線の駅周辺の様子で
す。昔を知る人にとっては驚きの変貌でしょう。
⑤ 土師の里交差点と土師ノ里駅の周辺の様子(南西より)
⑤ 土師の里交差点と土師ノ里駅の周辺の様子(南西より)
   駅前の交差点が最も高くなっている様子がわかる。
 〔GoogleEarth3D画 2023(令和5)年5月10日)
〕より  文字入れ等一部加工
 その変貌する前の様子が写真⑥です。これは土師の里交差点誕
生の9ヵ月ほど前の堺大和高田線建設中の場面です。写真は市野
山古墳を空撮したものですが、手前に写り込んでいたので土師ノ
里駅周辺の様子がよくわかります。写真⑤では見られなくなった
農地も広がっています。駅が開業してから三十数年経っています
が、駅の周辺には商店らしいものは無いようです。
 新しい府道が交叉する府道
枚方富田林泉佐野線(現国道旧170
号)
は、土師ノ里駅の真上を通過するために盛り土をして跨線橋
が造られていました。堺大和高田線もその高さに合わせるために
盛り土が行われています。写真は、今まさにその工事が行われて
いる最中の様子です。撮影されたこの年の
10月に
は、この部分の
新府道がが開通しています。「土師の里交差点」の誕生です。
 この当時の土師ノ里駅は、現在のような橋上形式の駅舎にはな
っておらず、府道・枚方富田林泉佐野線の下にホームや小さな駅
舎がありました。現在のように国道の跨線橋に面して駅舎ができ
たのは昭和
40年代の初め頃(1965~)ではないかと思われます。
⑥ 府道建設中の土師ノ里駅周辺の様子(南西より)
 ⑥ 府道建設中の土師ノ里駅周辺の様子(南西より)
  『日本の古墳』(末永雅雄著 朝日新聞社 1961年)「図版第61 允恭天皇陵」より
    1958(昭和33)年1月18日撮影
   切り出しのうえ文字入れ等一部加工
     この部分の堺大和高田線は、この年の10月に開通している。
沢田交差点と藤井寺インターチェンジ市内最大規模の交差点
 3番目にできたのは「沢田交差点」です。すでに開通していた府道・堺大和高田線を
南北に横切る形で、1969(昭和44)年12月に「大阪外環状線
(現国道170号)」が開通し、
沢田交差点が誕生しました。1970(昭和45)年に大阪で我が国初の日本万国博覧会が開催
されましたが、それに合わせて大阪府内では各地で道路網の整備事業が急ピッチで進め
られました。大阪外環状線や西名阪道路
(現西名阪自動車道)の建設もそれらの事業とし
て急速に実現していきました。いまだ農地の広がる田園地帯で、突然幅広い幹線道路が
市域の真ん中を縦断するように登場し、一方では、これまた市域の中央に斜めに高速道
路の橋脚が並ぶという光景が生まれました。その後の藤井寺市域の大きな変化を予感さ
せるのに十分な新設道路の誕生だったのです。万国博覧会は日本の高度経済成長のピー
ク到来を象徴する一大イベントでした。藤井寺市においても、その後の10年余りの間
に見られた人口急増、市街化、都市化の勢いには目を見張るものがありました。
⑦ 沢田交差点と沢田歩道橋(南東より)
 ⑦ 沢田交差点と沢田歩道橋(南東より)
  路面の歩道はなく、歩道橋への昇降はすべてスロープ。
 〔GoogleEarth・3D画 2023(令和5)年5月10日〕より
               記号入れ等一部加工
 沢田交差点には府内延長が最長の国道である170号が通り、近くには西名阪自動車道・藤井寺インターチェンジもあります。そのため、
自動車の通行量では市内最大の交差点で
す。交差点に進入する車道の車線数も多く、交差点南側の国道では最多の7車線が設けられています。
 交叉する府道
12号でも、交差点からインターチェンジ出入口までの区間は6車線になっており、府道12号の市内部分では最多の車線数
です。写真⑧がその区間で、この区間の道路幅員は交差点や藤井寺インターチェンジの設置に合わせて大きく拡張されています。写真⑨の
遠方の道が拡張されていない元の府道の規模です。その違いはあまりにも歴然としています。   「沢田交差点・沢田歩道橋」
⑧ 府道12号(沢田歩道橋より西を見る) ⑨ 府道12号(沢田歩道橋より東を見る)
⑧ 府道12号(沢田歩道橋より西を見る)
    ここから藤井寺インターチェンジ前の区間は
   大幅に拡幅されている。  2024(令和6)年6月
⑨ 府道12号(沢田歩道橋より東を見る)
     写真中段部の大水川・沢田橋から手前側へ
    拡幅が行われている。  2024(令和6)年6月
Googleストリートビュー「沢田交差点」 
 写真⑧⑨は、どちらも沢田交差点の歩道橋から撮影したものです。交差点の西側(⑧)と東側(⑨)とでは同じ府道か?と疑問に思えるほ
ど様子が違っています。上記の通り、写真⑧の区間は元の道幅の3倍ぐらいに拡幅されています。車線をよく見ると、西行き車線は2車線
なのに、東行き車線は4車線になっています。路面標示を見ると右折レーンが2本あります。これは
この先200mほどの所にインターチ
ェンジの出入口があることで生まれた交通対策です。インターチェンジから出て来て
東の沢田交差点で国道
170号を南行きに曲がる車両が多いのでしょう。高速道路網か
ら南河内地域に入るルートとしては、「藤井寺インターチェンジ→国道
170号」とい
う道取りの利用が多いようです。また
、インターチェンジの出口では、府道12号に出
るための信号待ちで長い車列のできることがよくあります。それが青信号で一斉に府
道に出て来ますが、東の沢田交差点に向かう車両が断然多いのです。つまり、次は国
道を利用する道取りです。        「藤井寺インターチェンジ」
 これらの様子からわかるのは
、この区間の府道12号はインターチェンジと沢田交差
点との連絡道路の役目を担っている、ということです。大阪外環状線とインターチェ
ジの新設が決まった時から府道・堺大和高田線は連絡道路として位置付けられ、その
ための拡幅整備が同時に行われたのです。この区間の道路規模や現在の通行状況を見
ると、国道レベルの存在とも言えるでしょう。 「国道170号(大阪外環状線)」
 なおインターチェンジから西側の府道12でも、藤井寺市役所前までの約600
ほどが倍近い幅員に拡幅されています。        「西名阪自動車道」
  ⑩ 府道12号と藤井寺I.C(南より)
  ⑩ 府道12号と藤井寺IC(南より)
 〔GoogleEarth・3D画 2023(令和5)年5月10日〕より
  三叉交差点の形だが、規模の大きい交差点となって
 いる。府道の上を西名阪自動車道が通っている。
               文字入れ等一部加工

     Googleストリートビュー「藤井寺I.C」
大幅に拡幅された連絡道部分
 大阪外環状線や西名阪道路の建設に合わせて府道・堺大和高田線の幅員がどのように変化してきたか、下の3種類の写真で紹介します。
写真⑪ 1961(昭和36)年5月 当時は市制になる前の
美陵町
(みささぎちょう)時代です。写真は堺大和高田線の藤
井寺市域部分が全面開通して
から2年後の様子です。
堺大和高田線の原形と言ってよい時期です。大阪外
環状線や西名阪道路はまだ影も形も見当たりません
が、位置と大まかな形状を透明色で示しています。
 この3年ほど後には外環状線の道路敷造成工事が
始まります。予定地には一面に水田が広がっていま
す。この一帯は町内の中央部に当たり、最も多くの
農地が広がる一帯でした。そこに大きな変化が起き
ようとしていたのです。
 当時は長尾街道が水田地帯の中にはっきりと見え
ていました。前年には長尾街道に沿って町立中学校
(現藤井寺中学校)の新校舎が完成し、移転しました。
写真⑫ 1974(昭和49)年8月
 1966(昭和41)年11月1
日に市制施行され、藤井寺市が誕生していま
す。
真は大阪外環状線・西名阪道路が開通してから5年
後の様子です。 西名阪道路は、1969(昭和44)年3月
21日、日本道路公団
(当時)の一般有料道路西名阪
道路
(一般国道25号)」として、松原I.C(現松原JCT)
-天理I.C間が開通しています。当初は松原I.C
-柏原I.C間は
車線柏原I.C-天理I.C間は
暫定2車線という構成でした。日本万国博覧会に向
けて進められた大急ぎ開通だったのです。写真の前
年1973(昭和48)年4月1日には「西名阪自動車道」と
して高速自動車国道に昇格編入されています。同年
12月には松原I.C-柏原I.C間が6車線化、柏原
I.C-天理I.C間が4車線化されました。1969年
には大阪外環状線も開通し、市内で最大となる「沢
田交差点」が誕生しています。
 写真⑪と比べると、堺大和高田線のこの区間の幅
員が大幅に拡幅されていることがわかります。まっ
たく別の道路のような規模に変わっています。
⑪ 大阪外環状線・西名阪道路ができる前の堺大和高田線
⑪ 大阪外環状線・西名阪道路ができる前の堺大和高田線   文字入れ等一部加工
    堺大和高田線の藤井寺市域部分の全面開通から2年後の様子。堺大和高田線の原形時代。
    大阪外環状線や西名阪道路はまだ影も形も無い。
 〔1961(昭和36)年5月30日 国土地理院〕より
⑫ 大阪外環状線・西名阪道路が開通して5年後の様子
⑫ 大阪外環状線・西名阪道路が開通して5年後の様子    文字入れ等一部加工
    大阪外環状線と西名阪道路が開通し、堺大和高田線は大幅に拡幅されている。大阪外環状線が 開通
   したことで市内最大の「沢田交差点」ができた。この前年には西名阪道路が「西名阪自動車道」として高速
   自動車国道に昇格編入されている。
         〔1974(昭和49)年8月28日 藤井寺市〕より 
⑬ 現在に近い状況になった様子
⑬ 現在に近い状況になった様子   堺大和高田線には、さらに拡幅されている部分がある。
    大阪外環状線は1982(昭和57)年に一般国道170号に制定されている。国道や府道の周りは、すっかり
   住宅や施設で埋まっている。
         〔2007(平成19)年8月11日 国土地理院〕より
                                 文字入れ等一部加工
 堺大和高田線の周辺にも様々な変化が見られます。中学校の隣には藤井寺工業高校(現藤井寺工科高校 開校時は河南工業高校)11年前
に開校しています。
また、小山交差点の西方には市役所庁舎(旧市庁舎)ができています。9年前に町の新庁舎として新築移転したものです
長尾街道は藤井寺インターチェンジと大阪外環状線によって断ち切られてしまい、旧街道の道筋を続けて歩くことはできなくなりました。
写真⑬ 2007(平成19)年8月 堺大和高田線ではさらに拡幅されて車線の多くなった部分が見られます。周辺は住宅や店舗、施設などで埋
まってしまった様子がわかります。インターチェンジの東側には、新たに開校した市立第三中学校や市立図書館、市立スポーツセンターが
見られます。この区域の土地は、森永乳業が進出を計画して先行取得していたものですが、長年進出の動きも無く草地状態だったので市議
会でも問題になりました。写真⑫にその頃の様子が見えています。結局、市が公共施設用地として買い戻し、これらの施設が開設されたも
のです。一方、市庁舎の建て替えが行われ、1995(平成7)年3月に現在の高層建築の新市庁舎が完成しています。  「藤井寺市役所」
 余談になりますが、写真右端に新しい大水川
(おおずいがわ)が見えています。この川は元は大乗川
(だいじょうがわ)と言い、写真⑪にもありますが、
細い水路であるためにちょっと見にくい写りです。大乗川はこの地域の水田には大変重要な存在の用水路でしたが、地域の都市化で水田が
激減して、むしろ雨水排水路としての役割が大きくなり、治水事業として大掛かりな改修工事が必要となりました。写真⑪の2年前、1959
(昭和34)年にこの川の管理が大阪府に移り、その時点で「大水川」の名称が与えられました。大阪府の治水事業の一環として大水川改修整
備事業が行われることに
なったのです。写真⑫には、府道12号の北側で新川の建設が進んでいる様子が写っています。改修事業では、府道
12号から北側の大和川南側の落堀川(おちぼりがわ)までの区間は下水道の雨水幹線として新川が造られ、府道に至るまでの南側の流路は拡幅と
掘り下げが行われました。市内の大水川のひと通りの改修事業が完了したのは、1992(平成4)年8月のことでした。府道の北側部分の旧大水
川の流路も残されており、こちらは残っている水田に用水を供給しています。途中では新旧の大水川が交叉する箇所があり、新大水川の下
を旧大水川が暗渠でくぐるという珍しい構造もできました。            「大水川」     「落堀川」

 それにしても、3枚の部分写真を見るだけでも、40数年間で起きた藤井寺市域の変貌ぶりには驚かされます。まさに、それぞれの地域や
町の小さな歴史が積み重なって生まれた集積図と言えるでしょう。

堺大和高田線建設のあゆみ
 府道・堺大和高田線の藤井寺市域部分が全通したのは1959(昭和34)年5月のことでした。この直後に高度経済成長の時代に入っていくと
いう時期でした。実は、この全面供用に至るまでにはかなりの時間を要していました。写真⑭は上の写真⑪と同じもので、藤井寺市域の堺
大和高田線全体が見える範囲です。当時は美陵町でしたが、町内の堺大和高田線が全通してから2年後の様子を示しています。この写真内
のポイントを示しながら、堺大和高田線の開通経過を紹介してみたいと思います。
⑭ 市内部分が全通して2年後の府道12号堺大和高田線の様子
⑭ 市内部分が全通して2年後の府道12号堺大和高田線の様子  〔1961(昭和36)年5月30日 国土地理院〕より
   当時は美陵町であった。新しく広い住宅地ができている。町立学校は小学校3校、中学校1校であった。
   文字・記号入れ等一部加工
 府道・堺大和高田線が認定されるまで、この地域で東西に通る府道は「国分(こくぶ)堺線」でした。起点が現柏原市の河内国分駅前で終点が
現在の起点・堺市内です。戦前に制定されていた府道・国分堺線ですが、この道路は旧街道の「長尾街道」のことです。同様に旧街道がそ
のまま府道になっていた例は各地にありました。長尾街道は写真では緑の透明線で示したルートです。現在も石川西側の近鉄・道明寺線ま
ではそのまま残っており、たどって歩くことができます。ただし
既述の通りインターチェンジと国道170号で断ち切られた部分だけは街
道そのものが消えており、残念ながら続けて歩くことはできません。この長尾街道のバイパス線として計画・建設されたのが「府道・堺大
和高田線」で、より大量の物資をより短時間で運ぶことができる新道路が求められていました。当然と言えば当然で、長尾街道を歩いてみ
ればわかりますが、大型トラックの通行はとても無理としか思えない部分がたくさんあります。
 堺大和高田線が府道として認定されたのは、昭和29(1954)年6月10日認定『道路法第七条の規定に基く府道路線の認定
の中です。同年の
11月1日に大阪府告示で示されました。一般に「府道路線第1次認定」と言われるものです。この時は、「整理番号
10番・堺大和高田線」
でした。起点は現在と同じ「堺市堺区」ですが、終点は「柏原市奈良県界」となっています。つまり、路線名には奈良県の大和高田市が入
っていても、府道として認定するのは大阪府内の部分だけということです。これは後に現在のように終点が変更されています。この後、路
線計画に沿って道路建設が進められていきますが、全線を一斉に工事していっぺんに開通したのではありません。供用可能になった部分か
ら順に開通していますが
、その様子が『藤井寺市史第2巻 通史編3近現代(藤井寺市 1998年)の「第9章 高度経済成長と地域の発展
に記述されています。その内容に沿って下の表⑮のようにまとめてみました。写真⑭と対照しながら見てください。
府道・堺大和高田線の供用開始時期と区間
供 用 開 始 日  供 用 区 間 延 長 幅 員
1958(昭和33)年10月 3日  地点(沢田) ~ 地点(沢田) 1,264m 8.5
 地点(沢田) ~ 地点(国府) 486m 8.0m ~ 9.0
 地点(沢田) ~ 柏原市片山町(片山交差点付近) 676m 8.5
1959(昭和34)年 5月18日  地点(岡)  ~ 堺市北長尾町4丁(長尾町交差点) 8,813m 8.5m ~ 11.5
 供用開始時期が2回に分かれていることがわかります。①②③は同じ日の供用開始ですが、藤井寺市史では三つの区間に分けて記述され
ている
ので、それに合わせた表にしました。①②③の区間が1958(昭和33)年10月3日の開始で半年余り後の1959(昭和34)年5月18日に④
の区間が開始となっています。写真と対照しながら見ていただいた多くの人は、ここで、「あれっ?」と疑問を持たれたことでしょう。
 そうです
地点 ~ 地点の区間が表にはありません。この区間はいつ供用開始となったのでしょうか。実は、市史のこの区間につい
ての扱いは、「新規に供用された府道」とは見なしてはいないようです。つまり、既成の道路と見なして記述の中では取り上げていないよ
うなのです。なぜそうなったのか、その理由は下の写真⑯の中にあります。
全通まで約20年の堺大和高田線-一部は戦前にできていた?
⑯ 戦後2年目の長尾街道周辺の様子
⑯ 戦後2年目の長尾街道周辺の様子 〔1947(昭和22)年9月23日米軍撮影 国土地理院〕より  文字・記号入れ等一部加工
    の区間にバイパス道路ができており、長尾街道に接続している。ピンク色の区間が昭和30年代に開通した。
   府道八尾富田林線→現・国道旧170号  府道八尾古市線→現・府道大阪羽曳野線  国分町→現・柏原市  高鷲村→現・羽曳野市
  允
恭(いんぎょう)天皇陵(市野山古墳)  仲津姫命(なかつひめのみこと)陵(仲津山古墳)    土師(はじ)神社→現・道明寺天満宮
 写真⑯は、敗戦から2年余り後に当時の占領駐留米軍が垂直撮影したものです。前年と翌年にも撮影していますが、道路状況は変わって
いません。それらの空中写真は、戦時中や戦前に最も近い様子を見せているものとして、現在では貴重な資料写真となっています。これを
見ると、地点~地点の区間に新しいバイパス道路のできていることがわかります。この道路が開通した時期については、確たる資料が
ないので推測するしかありませんが、私は昭和
13(1938)年~15年頃ではないかと推測しています。
 交叉する府道・古市大阪線
(現大阪羽曳野線)は昭和13年に開通しています。同じ年に府道柏原富田林線も開通しています。この時期に
大阪府による計画的な道路整備事業が進められていたものと思われます。今日で言う「都市計画道路」事業です。実際
1936(昭和11)年9月
に大阪府によって「指定府道堺高田線」が認定されています。その数年後に建設が始まったと考えても不思議ではありません。もしかする
と、区間の道路は古市大阪線とほぼ同時にできた可能性もあります。私は古市大阪線よりは少し後ではないかと思っています。しか
し、遅くとも昭和
16年までにはできていたものと推測されます。
 昭和
12(1937)年7月に日中戦争が始まり、それが長期化の様相を見せる中で翌昭和13年4月には「国家総動員法」が公布されました。
国家総力戦遂行のためには政府が国家の全ての人的・物的資源を統制できるというものです。そこから戦時体制下の経済統制が拡大してい
きました。そのような状況を考え
ると、少なくとも太平洋戦争が始まった昭和16(1941)年以降には新設道路が計画通りに建設されたとは考
えにくいのです。すべての製造・輸送・建設などの産業が軍事優先で進められ、教育・文化・芸術の分野でさえ戦争遂行に集約それていっ
た時代です。軍事に直接関わらない不要不急とされた道路計画は、当然のように凍結・廃止されたのではないでしょうか。
 一方、戦後になって建設された可能性はどうでしょうか。敗戦から
10ヵ月近くの時期に米軍が空撮した写真にも区間の道路は写
っています。敗戦直後の混乱を考えると、とても半年程度でこの道路ができたとは思えません。まず無理なことでしょう。そう考えると、
やはり、戦前の昭和
1315年頃と推測するのが妥当に思えるのです。そこで、上の表⑮に番外の一段を加えたいと思います。
1938(昭和13)~1940年頃  地点(岡) ~ 地点(沢田) 約810m 8.5
                                             ※ 延長はYAHOOマップ内の距離計測による概算値
なぜこの区間が先に造られた?
 ところで、このバイパス道路は、なぜ地点~地点の区間だけが先行して造られたのでしょうか。私は
のポイントにこそ意味
があったと考えています。つまり
どちらのポイントも長尾街道と交叉している、ということです。区間だけの限られた区間の開通
であっても、それぞれのポイントで長尾街道とつながっており、ただちに府道・国分堺線のバイパスの役目を担うことができるからです。
他の場所の長尾街道と並行している部分では、短区間だけ開通しても余り役には立たないでことしょう。
 もともと、このバイパス線のルートは北へ少しカーブするようになっています。それによって長尾街道と交叉し
のポイントができ
ています。土師ノ里駅付近から真っ直ぐ高鷲村方面へコースを取らずに北へ寄せたのは、集落の少ない所を通す、町の中心部である町役場
近くを通す、などが考慮されたものと思います。町役場はそれ以前からこの位置にありました。そのような条件に合わせた結果、このよう
な北へカーブするコース取りになったと思われます。これが1936(昭和11)年に認定された「指定府道堺高田線」のコースだったので
しょう。
 ただ、以上のようなことは概して技術的な問題であって、この区間を先行して建設するかどうかは行政上の政治的判断で決定されること
です。最終的にこの区間が選ばれた理由はよくわかりません。上記のような技術的な問題を重視したのか、或いは何らかの政治的判断が働
いたのか、地元藤井寺町や道明寺村の強い要請があったのか、想像できることはいろいろありますが、結局のところは不明です。
 以上のような推測も含めてまとめてみると
堺大和高田線の市域内部分が全通するまでには、ざっと20年ほどが掛かっていたことになり
ます。もちろん、戦争をまたいで建設されたためと思われますが、逆に言えば、戦争がなければもっと早くに完成していたのでは、と思っ
てしまいます。このように、郊外田園の町や村の変遷にも影響を与える戦争であったことを、このバイパス道路が教えてくれています。
 

旧街道から大阪府道へ-建設途上の写真
 他のページで使用している写真があるので紹介しておきます。
 写真⑰は
、『藤井寺市史第2巻 通史編3近現代』(藤井寺市 1998年)
に掲載されている「府道
国分堺線(長尾街道)」の様子です。市史では
昭和26(1951)年と表示されています。まだ「府道・堺大和高田線」が認
定がされる前の時期です。上記の通り、バイパス道の一部だけが戦前に
できており、長尾街道と接続していました。
 写真⑰は写真⑯の
地点から撮られたもので、左下にバイパス道の接
続部分が見えています。ここから東の方は旧街道のままで、電柱が無け
れば江戸時代と変わらないような感じさえします。
 写真の位置と方向を特定するのに役立ったものが写っています。左側
見える伴林氏神社
(ともばやしのうじのじんじゃ)の大鳥居です。この鳥居は石の大鳥
居で、戦時中の1941(昭和16)年10月29日の建立です。神社の拡張改築造
営事業の中で建てられました。1989(平成元)年7月に現在地に移設され
たので、現在はこの位置からは見えません。もっとも、移設されていな
⑰ 府道・国分堺線(長尾街道)(西より)
  ⑰ 府道・国分堺線(長尾街道)(西より)     1951(昭和26)年
   『藤井寺市史
第2巻 通史編3近現代』(藤井寺市 1998年)より
                       文字入れ等一部加工
     「伴林氏神社」
くても、現在は多くの建物で遮られて見えないことでしょう。地点と伴林氏神社の平面で見る位置関係は、写真⑯でわかります。
 なお、写真⑫⑬でわかるように、長尾街道が藤井寺インターチェンジによって断ち切られており、交叉する
地点そのものが消滅してい
ます。同じ場所から長尾街道を見通すことはできなくなりました。
 写真⑱は、上にある写真⑥と同じ時の撮影
で、これも市野山古墳
(允恭天皇陵)を撮った
ものです。都合よく、堺大和高田線や長尾街
道、現国道旧
170号が写っています。
 堺大和高田線は開通の9ヵ月近く前の時期
ですが、道路の形状はほぼ出来上がっている
様子です。石川橋の取付部分はかなりの盛り
土を施しているのがわかります。法面が草地
になっているので、この部分は早い時期に工
事が行われたものでしょう。石川橋の路面は
元の堤防道路の高さよりも
2.5mほど高
られています。橋のすぐ西側には近鉄・道明
寺線が堤防に沿って通っており、府道を新設
するに当たって跨線橋が造られました。跨線
橋は電車の架線の上を通すためにかなりの高
さになります。その高さに合わせて橋や道路
⑱ 完成間近のバイパス府道ど長尾街道(北西より)
 ⑱ 完成間近のバイパス府道ど長尾街道(北西より)        1958(昭和33)年1月18日
    府道・堺大和高田線は1958年10月に開通しているので、写真の時期は建設中である。
      『日本の古墳』(末永雅雄著 朝日新聞社 1961年)「図版第62・允恭天皇陵」より
     (D・F・Wの記号は「長尾街道」のページで使用するもの)   部分切り出しの上、文字入れ等一部加工。
は造られることになります。その結果、石川橋へ進入する堺大和高田線は、けっこうな坂道を上っていくことになります。写真ではその構
図がよくわかります。石川橋の架橋工事や多くの盛り土工事があり、時間の掛かるこの部分の工事は早くから開始されたと思われます。
 一方、府道・国分堺線だった長尾街道ですが、市野山古墳の堤の上を通って石川に達する様子がよくわかります。今の感覚からすると、
これが府道であったとはとても思えない道路です。まさに昔の街道という感じです。    「長尾街道」   「石川橋」

交差点の場所は?-道標はどこにあったのか
 写真⑲は、1979(昭和54)年藤井寺ライオンズクラブ発行の『カメラ風土記
ふじいでら
(非売品)に掲載されているもので、藤井寺市岡の交差点に設置さ
れた木製の道標です。『カメラ風土記ふじいでら』の掲載箇所には「藤井寺
市岡一丁目付近」の標題があり、「昭和初期」と表示されています。下には
「昭和53年」の表示で小山交差点の写真も載っています。つまり、小山交差
点の新旧の写真を並べて
その違いを見てもらおうという主旨なのでしょう。
 しかし、これには問題があります。写真に付けられた「昭和初期」という
撮影時期はあり得ません。「昭和初期」とはせいぜい昭和
5,6年ぐらいまで
を言うのでしょう。道標の右側案内板にある「古市大阪線
は昭和13(1938)
年の開通です。昭和初期にはこの道路はまだありません。
 さらに、この道標が立っていた場所にも疑問があります
。『カメラ風土記
では「岡一丁目付近」のタイトルがあり、小山交差点の写真も並べてあるこ
とから、見た人の多くはこの写真の場所も小山交差点だと思います。小山交
差点は現在の岡1丁目の北東角に接しているので、疑問も持たずに「小山交
⑲ “岡交差点”付近の様子(南東より)
 ⑲ “岡交差点”付近の様子(南東より) 昭和10年代か
     『カメラ風土記ふじいでら』(藤井寺ライオンズクラブ 1979)より
         左側の遠方には藤井寺小学校の校舎が見えている。
差点は昔はこんな様子だったのか。」などと思います。私もずっと以前にはそう思っていました。しかし、Webサイトに掲載する準備
をする中で写真内容について検討した結果、この写真の撮影場所は小山交差点とは違うのではないか、という結論に至りました。この
写真は写真⑯の地点で撮影されたものと私は推定しました。この地点は、古市大阪線と国分堺線
(長尾街道)が交わるという、藤井寺
町内で初めて府道どうしが交叉する交差点となった所です。私が考察した内容や手掛かりについて以下に説明します。
 地点での撮影と判断した最も有力な手掛かりは、写真⑲の中にあります。道標の柱
の右側に一軒のお屋敷が見えています。垂直写真で見ると、このお屋敷は水田地帯の中に
島のようにポツンと一軒だけあって、遠目にもよく見える存在です。片や、左側を見ると
藤井寺小学校
(当時・藤井寺尋常小学校)の校舎が見えています。道標からはこちらの方が
遠いのですが、大型の建物なのでよく見えています。お屋敷とは少し距離のあることがわ
かります。ところが、これが小山交差点からの撮影だとすると、見え方が違っていたはず
なのです。写真⑳で示しています。
 
地点からの撮影だと、お屋敷と校舎は離れて見えることがわかります(ピンク線)。一
方、小山交差点からだと、お屋敷と校舎はほとんどひっついているように見えたはずです

(黄色線)
。道標の後方部分はどちらも水田地帯なので、農地の様子からは判断が付きかね
ますが、建物の見え方では判別することができます。つまり、小山交差点からは写真⑲の
ようには見えないはず、という判断をしました。
 道標に書かれている名称について考察してみます。当然ながら、道標は古市大阪線が
⑳ 撮影位置の違いと見え方の関係
⑳ 撮影位置の違いと見え方の関係
     〔1947(昭和21)年6月6日米軍撮影
      国土地理院〕より
開通してから建てられたはずです。その時にバイパス道路の区間もできていれば、道標にある「国分堺線」はこのバイパス道路
のことになります。バイパス道路ができる前だとすれば、長尾街道の国分堺線を示していることになります。私は後者の方だと判断し
ましたが、手掛かりは道標の中の名称にあります。道標の柱には「藤井寺町 岡」と地名が書かれています。書かれている行き先の位
置関係からす
ると、道標は交差点の北西側に建てられているはずです。つまりその場所の地名が「岡」のはずです。小山交差点やその
すぐ北西側は「小山」なのでこの場所に建てられたのではないことになります。地点の場合はどうでしょうか。地点の場所も元々
は「小山」ですが、古市大阪線ができて一部分が分断され
、「岡」に編入されています。それが地点のすぐ北西側です「藤井寺町 
岡」はその場所を示していると考えられます。もしその時点でまだ「岡」に編入されていないとすれば、小山交差点も地点もどちら
も「小山」地区内のままなので、道標の「藤井寺町 岡」は合わないことになります。
 道標が建てられた時期について考察してみます。バイパス道路の開通時期との前後関係が問題となります。私は、古市大阪線が開
通してからバイパス道路ができるまでの間ではないかと推定しています。そもそもですが、バイパス道路が完成し小山交差点ができて
そこに建てられた道標なら「藤井寺町 小山」となっているはずです。私は、この道標は古市大阪線が開通した時点で地点に建てら
れ、それからそんなに間を置かずに撮影されたものと推定しました。写真の道標は案内板も柱も破損や汚れが無く、文字もくっきりと
見えています。まだ新しいことがわかります。交差点ができた記念に、あるいは記録に残すために撮影したと考えられます。
 以上の考察を総合した結果、道標が建てられた場所は地点の交差点北西側、という結論を出しました。それにしても、カメラ風土
記の編集者はなぜ標題を「岡一丁目付近」としたのでしょうか。小山交差点の写真と並べたからには「小山交差点(付近)」としてもよ
かったはずです。そこには、私は編集者の“迷い”を感じ取りました。「藤井寺市 岡」とあるので、この写真の場所を「小山」とす
るには確信を欠いたのでしょう。敢えて「岡一丁目付近」という広い範囲を示す曖昧な表記にしたのではないのだろうか、と想像して
みました。あるいは、
地点の写真だと思うものの小山交差点の可能性もありという迷いだったのかも知れません。いずれにしても、
撮影時期を「昭和初期」とした決定的な誤りを見ると、古市大阪線やバイパス道路、写真の内容などについての調査・検討は不十分だ
ったと推察されます。しかしながら、すっかり状況の変わってしまった現地の様子を見れば、八十数年前の同じ場所の光景を見せてく
れるこの写真⑲が持つ貴重な資料としての価値は少しもゆるぎません。よくぞ撮っていてくださいました。感謝!
                    
Googleストリートビュー「現在の地点交差点」

 府道12号・堺大和高田線をめぐるおもな歩みを簡単な表にまとめてみました。
年・月・日 で き ご と
1936(昭和11)年  4月 1日 内務省(当時)が「指定府県道堺高田線」を路線指定。
 9月29日 大阪府が「大阪府道8号 堺市ヨリ奈良県北葛城郡高田町ニ達スル道路」
として「指定府道堺高田線」を認定。
1938(昭和13)年   「府道古市大阪線」が南河内郡古市町-大阪市平野間に開通。
府道国分堺線
(長尾街道)との交点に交差点が誕生(藤井寺町 岡)
昭和13~15年頃 府道国分堺線のバイパス道路として指定府道堺高田線の一部が開通。小山交差点が誕生。
1954(昭和29)年  1月20日 建設省(現国土交通省)が「主要地方道堺大和高田線」を指定。
 6月10日 大阪府が「主要府道堺大和高田線」を認定
1955(昭和30)年  3月 1日 奈良県が「主要県道32号堺大和高田線」(1966年に22へ改番)を認定。
1959(昭和34)年  5月18日 堺大和高田線の藤井寺道明寺町(4月20日に合併して成立)内の部分が全線開通。
土師の里交差点が誕生。
1969(昭和44)年  3月21日 一般有料道路・西名阪道路(現西名阪自動車道)の第1期が開通。
藤井寺インターチェンジが開業。 藤井寺
I.C前交差点が誕生。
12月15日 大阪外環状線(現国道170号)の藤井寺市沢田交差点以北が開通。沢田交差点が誕生。
1984(昭和59)年  3月 堺大和高田線が「大阪府道25号」に番号制定。
1993(平成 5)年  5月11日 建設省が「府県道堺大和高田線」を「堺大和高田線」として主要地方道に再指定。
1994(平成 6)年  4月 1日 「大阪府道25号・奈良県道22号堺大和高田線」から「大阪府道・奈良県道12号堺大和高田線」
に改番。
(隣接する府県にまたがる府県道の番号制定が共通化された。)

他府県にまたがる大阪府道
 大阪府内には府道12号のように隣接する府県にまたがっている府道路線がいくつも存在します府道12号を紹介したついでに少し
ばかり取り上げてみたいと思います。下の一覧表にあるのがそれらの府道ですが、府の北部では京都府
兵庫県、中・南部では奈良県・
和歌山県にまたがる路線です。それらの内、最多は京都府内に延びる路線で
14本あります。多くの路線では起点が大阪府内にあります
が、兵庫県の場合は
10本の内7本の起点になっているのが目立ちます。
 大阪府道と隣接府県の府県道とは、原則的に下の表 A)にあるように路線番号が共通化されています。ずっと以前には、それぞれの府
県が独自に路線番号を付けていましたが、都道府県道にも路線番号標識を設置するのに合わせて番号の共通化が進められました
。ひと
きの道路なのに府県境で突然番号が変わるのでは、通行者が迷ったり勘違いしたりする混乱が避けられないからです。
 国道や府道の番号では
一般に番号の若い路線ほど重要度が高い道路であることを示しています。旧東海道の国道1号旧山陽道の国
道2号などがその代表例です。大阪府道の場合も
1~99号の一桁二桁番号の路線は「主要地方道」に制定されており他の一般府道
よりも重要度の高いことを示しています
。これらの主要地方道では比較的延長の長い道路が多く見られます。19路線の内、16本が20km
以上の延長です。40kmを超える長い路線も2本あります。
99号伊丹豊中線の場合は例外的なケースで長く続く道路がいくつかの路線
に分割して認定されているのです。
 主要地方道の多くは、昔から地域と地域を結ぶ大切な街道だったものが多
く、最も重要な街道で国道になった路線に次ぐ存在だったも
のです。現在ではそれらの道路のバイパス線も多く造られており、新設道路が現道として認定されている部分も多く見られます。
A) 他府県に延長する大阪府道一覧  〔 2025年 〕
大阪府道の名称  延長 起点または終点  隣接府県道の名称 
番 号 路 線 名  ( km ) 大 阪 府 内 隣 接 府 県 内 番 号 路 線 名
6号 枚方亀岡線  25.1 起)枚方市伊加賀西町 終)京都府亀岡市安町 6号 府道枚方亀岡線 
7号 枚方大和郡山線  26 ※ 起)枚方市村野西町 終)奈良県大和郡山市冠山町 7号 県道枚方大和郡山線
8号 大阪生駒線  19 ※ 起)大阪市城東区蒲生4丁目 終)奈良県生駒市辻町 8号 県道大阪生駒線
12号 堺大和高田線  31 ※ 起)堺市堺区戎島町 終)奈良県大和高田市今里町 12号 県道堺大和高田線
13号 京都守口線  32 ※ 終)守口市大日東町 起)京都市南区四ツ塚町 13号 府道京都守口線
14号 大阪高槻京都線  44 ※ 起)大阪市北区南森町 終)京都市南区四ツ塚 14号 府道大阪高槻京都線
41号 大阪伊丹線  20.9 起)大阪市西成区潮路 終)兵庫県伊丹市伊丹 41号 県道大阪伊丹線
43号 豊中亀岡線  25.2 起)豊中市本町1丁目 終)京都府亀岡市東別院町栢原 43号 府道豊中亀岡線
46号 茨木亀岡線  25 ※ 起)茨木市三咲町 終)京都府亀岡市下矢田交点 46号 府道茨木亀岡線
54号 園部能勢線  33.0 終)豊能郡能勢町栗栖 起)京都府南丹市園部町横田 54号 府道園部能勢線
61号 堺かつらぎ線  42.0 起)堺市西区津久野町1丁 終)和歌山県伊都郡かつらぎ町 61号 県道堺かつらぎ線
62号 泉佐野打田線  23.0 起)泉佐野市湊 終)和歌山県紀の川市打田 62号 県道泉佐野打田線
63号 泉佐野岩出線  24 ※ 起)泉佐野市下瓦屋 終)和歌山県岩出市宮 63号 県道泉佐野岩出線
64号 和歌山貝塚線  28.5 終)貝塚市澤 起)和歌山市布施屋 64号 県道和歌山貝塚線
65号 岬加太港線  36 ※ 起)泉南郡岬町深日 終)和歌山市加太 65号 県道岬加太港線
67号 西京高槻線  20 ※ 終)高槻市西真上1丁目 起)京都市西京区山田中吉見町 67号 府道西京高槻線
71号 枚方山城線  10.6 起)枚方市大字尊延寺 終)京都府木津川市山城町平尾 71号 府道枚方山城線
79号 伏見柳谷高槻線  25 ※ 終)高槻市八丁畷 起)京都市伏見区鍋島町 79号 府道伏見柳谷高槻線
99号 伊丹豊中線   4.9 終)豊中市北桜塚3丁目 起)兵庫県伊丹市 99号 県道伊丹豊中線
112号 絹延橋停車場線 0.22※ 終)池田市木部町 起)兵庫県川西市絹延町 185号 県道絹延橋停車場線
113号 伊丹池田線  2.9※ 終)池田市城南3丁目 起)兵庫県伊丹市 113号 県道伊丹池田線
601号 杉生能勢線   5.8 終)豊能郡能勢町天王 起)兵庫県川辺郡猪名川町杉生 601号 県道杉生能勢線
602号 島能勢線   7.4 終)豊能郡能勢町栗栖 起)兵庫県川辺郡猪名川町 602号 県道島能勢線
603号 能勢猪名川線   9.5 起)豊能郡能勢町栗栖 終)兵庫県猪名川町 603号 県道能勢猪名川線
604号 野間出野一庫線   8.3 起)豊能郡能勢町野間出野 終)兵庫県川西市一庫 604号 県道野間出野一庫線
605号 国崎野間口線  11.3 終)豊能郡能勢町野間口 起)兵庫県川西市国崎 605号 県道国崎野間口線
606号 西宮豊中線  15 ※ 終)豊中市稲津町2丁目 起)兵庫県西宮市津門大塚町 606号 県道西宮豊中線
701号 中垣内南田原線  8.2※ 起)大東市中垣内2丁目 終)奈良県生駒市南田原町 701号 県道中垣内南田原線
702号 大阪枚岡奈良線  24.5 起)大阪市中央区難波 終)奈良市三碓 702号 県道大阪枚岡奈良線
703号 香芝太子線   3.5 終)南河内郡太子町春日 起)奈良県香芝市穴虫 703号 県道香芝太子線
704号 竹内河南線   7 ※ 終)南河内郡河南町寺田 起)奈良県葛城市竹内 704号 県道竹内河南線
705号 富田林五條線 未成 起)富田林市若松町 終)奈良県五條市三在町 705号 県道富田林五條線
731号 天王亀岡線  16.5 起)豊能郡能勢町天王 終)京都府亀岡市本梅町湯ノ花 731号 府道天王亀岡線
732号 亀岡能勢線  12.1 終)豊能郡能勢町宿野 起)京都府亀岡市西別院町笑路 732号 府道亀岡能勢線
734号 柳谷島本線  5.9※ 終)三島郡島本町東大寺1丁目 起) 〃 長岡京市浄土谷 734号 府道柳谷島本線
735号 長尾八幡線  8.2※ 起)枚方市長尾元町1丁目 終)京都府八幡市八幡科手 735号 府道長尾八幡線
736号 交野久御山線  18 ※ 起)交野市私部西2丁目 終)京都府久世郡久御山町 736号 府道交野久御山線
751号 木ノ本岬線   8.6 終)泉南郡岬町多奈川谷川 起)和歌山市木ノ本 751号 県道木ノ本岬線
752号 和歌山阪南線  24.0 終)阪南市自然田 起)和歌山市西汀丁 752号 和歌山阪南線
注1)※の延長は地図サイト「YAHOOマップ」の距離測定機能による概測値であり、若干の誤差を含む。
注2)704号の府県境付近では自動車の通行はできない。 注3)705号は未成線で、金剛山地の部分で開通していない区間がある。
注4)733号柚原向日線は起点・終点が共に京都府内であるため除外している(路線の一部が高槻市内を通過する)
注5)尼崎池田線(兵庫県道13号)は大阪府道の番号指定が無いため除外している(大阪府内は全線が国道176号と重複している)
ちょっと特殊な路線
 上の一覧表の中には少しばかり変わった条件を持つ路線の例が見られます。簡単に紹介しておきます。
112号絹延橋(きぬのべばし)停車場線  一覧の中では唯一、隣接県と異なる番号が指定されている路線です。兵庫県道も同じ路線名です
 が、番号は
185号に指定されています。例外と言えるでしょう。しかも、延長はわずか220mほどの短線です。「○○停車場線」とい
 う路線名は大阪府内にもたくさんありますが、その多くは短い延長です。それは、
主要停車場(駅)と高速道路や国道、幹線の都道府
 県道とを連絡する道路」として認定された停車場線の性格によります。能勢電鉄妙見線絹延橋駅
(兵庫県川西市)と国道173(大阪府
 池田市)
を結ぶ絹延橋停車場線ですが、その間に府県境があるのです。兵庫県道185号はわずか75mほどです。それでも一応は他府
 県にまたがる大阪府道になるわけです。     「『○○停車場線』とは?」
704号竹内河南線(たけのうちかなんせん) 704号竹内河南線は、大阪・奈良近辺の“道マニア”
 にはよく知られている道路のようです。「腐道
704号」などという不名誉な別名で呼ばれ
 ることもあるとか。実際に現地に行って道路の様子を見れば、それもうなずけることでし
 ょう。右の写真 B)は
704号の大阪府奈良県の境界である平石(ひらいし)峠付近の様子です。
  たいていの人は、「これが府道?!」と驚くことでしょう。どう見ても、荒れた登山道
 のようにしか見えません。もちろん、自動車の通行はできません。峠をはさむ約2kmが
 自動車通行禁止になっており、写真の場所まで行こうとすれば、大阪府側だと約
1.2km
 ばかり歩かなくてはいけません。さもなくば、使えるのはオートバイかマウンテンバイク
 ぐらいでしょう。この道路がどうして府道認定を受けているのか、不思議に思えます。
  その昔、人々が徒歩や馬、かごで往来していた時代には、この道路は双方の地域を結ぶ
 最短距離の道だったことでしょう。平石地区を含む河内国側の白木
(しらき)(現河南町)など
  B) 704号竹内河南線の平石峠付近
  B) 704号竹内河南線の平石峠付近
  (南西・大阪府側より)
  Googleマップ・ストリートビュー2024年8月より
 と大和国側の當麻(たいま)(現葛城市)方面を行き来する貴重な道だったと想像できます。写真 B)のような道路も当時にあっては別に珍
 しいことではなく、各地の峠で見られたものだったと思われます。
  平石峠の北方約
1.8kmの位置には竹内(たけのうち)峠があり、最古の官道と言われる竹内街道が通っています。古来、難波の津や河内
 地域から大和
(奈良)盆地へ通じる重要な街道でしたが、白木村などから利用するためにはかなり遠回りする必要があります。自然と利
 用しやすい近道が開かれていったものと思われます。現在の704号のルートは、村から村へ行く方向としてはほぼ直線コースに近いも
 のになっています。近代以降にも地域にとっては重要な道路として扱われたようで、戦後の府道認定でも昭和34年12月1日告示の
府道
 の路線認定」一覧に「竹内河南線」が入っています。ゆくゆくは自動車通行に備えて拡幅・舗装整備するつもりはあったのでしょう。
 しかしながら、他の路線の整備が優先されている間に自動車社会になってしまい、竹内街道の国道
166号を利用することが容易となり
 ました。そうなると、その後の道路整備計画は費用対効果の問題が大きくなってきます。府道認定は従来通りになっていますが、現実
 問題としては、手つかずの現状維持、というのが実情ではないでしょうか。
705号富田林(とんだばやし)五條線  705号富田林五條線も南河内地域から奈良県内へまたがる府道ですが、704号にも負けないぐらい
 曰く付きの府道です。起点の富田林市内を出発して進んでも、終点の五條市内にはたどり着けません。府県境を越えるまでに途中で道
 が無くなってしまうのです。そうです、府県境を中心とする中間部分の道路が存在しないのです。いわゆる“未成線”であり、そのた
 め全体の延長を一覧表の中に示すことができませんでした。
  現在
(2025年)存在する705号の路線は、大阪府側が起点富田林市若松町本町北交差点(国道旧170号)-千早赤阪村大字千早元金剛
 山ロープウェイ前停留所の約
16.8km、奈良県側が五條市久留野町・北山大橋東詰交差点(県道261号)-終点五條市三在町三在町北
 交差点
(国道24号)の約2.7kmです。合わせると約19.5kmです。未成区間の元金剛山ロープウェイ前停留所-北山大橋東詰交差点
 は直線距離で3km余りなので、全線が完成すれば全延長は23,4kmになりそうです。しかしながら、現在のところ、未成区間の
 建設が行われるような気配は見られません。五條市内の
705号は整備されていて、片側2車線の幹線道路仕様で完成しています。
  
705号の未成区間は、大部分が金剛山地の高い部分で、標高900m近い久留野峠をはさんでいます。国土地理院の地形図を見ると、
 登山道のような細い道はあるようですが、ここに新しく府道を通すとなると、トンネルで貫通させるか峠まで上っていく曲線路を造る
 かになるのでしょう。はたして実現の可能性はあるのか、今のところは何とも言えないようです。もともと、千早赤阪村側から山地の
 向こうの五條市方面に行くのには、
705号の途中から南側につながる国道310号が利用されており、自動車で往来する分にはそんなに
 不便ではないように思えま
す。人口減少の続く地域で、多額の予算をつぎ込んで道路新設を行うかどうかは、難しい政治課題でしょう。

menu site map